2月 23

【開港の風景】野っ原編3

横浜村を更地にして、日本人街を造成、外国人を受け入れるまでの姿、
区史、市史、明治期の開港モノなどを目下整理中で苦闘しています。
なので、ちょっと時間をワープします。
日本人として開港直後の様子を表した文献で代表的なものは「福翁自伝」だと思います。
この作品は福沢諭吉が1898年(明治31年)7月1日から1899年(明治32年)2月16日までの七ヶ月間で計67回にわたって「時事新報」に掲載したもので大変人気記事でした。
1899年(明治32年)6月15日には単行本が刊行され、今日口実筆記自伝文学の最高峰と言われています。この軽妙洒脱な文体で開港当時の様子が語られています。
少々長い引用ととなりますが勘弁ください。


英学発心
ソコデ以(もっ)て蘭学社会の相場は大抵分て先(ま)ず安心ではあったが、扨(さて)又此処に大(だい)不安心な事が生じて来た。私が江戸に来たその翌年、即(すなわち)安政六年、五国条約と云うものが発布になったので、横浜は正(まさ)しく開けた計(ばか)りの処、ソコデ私は横浜に見物に行った。
その時の横浜と云うものは外国人がチラホラ来て居るだけで、堀立小屋見たような家が諸方にチョイ/\出来て、外国人が其処に住んで店を出して居る。
其処へ行て見た所が一寸とも言葉が通じない。此方の云うことも分わからなければ、彼方の云うことも勿論分らない。店の看板も読めなければ、ビンの貼紙も分らぬ。何を見ても私の知って居る文字と云うものはない。英語だか仏語だか一向計らない。
居留地をブラ/\歩く中うちに独逸(ドイツ)人でキニツフルと云う商人の店に打当(ぶちあた)った。その商人は独逸人でこそあれ蘭語蘭文が分る。此方(こっち)の言葉はロクに分らないけれども、蘭文を書けばどうか意味が通ずると云うので、ソコで色々な話をしたり、一寸(ちょい)と買物をしたりして江戸に帰かえって来た。
御苦労な話で、ソレも屋敷に門限があるので、前の晩の十二時から行てその晩の十二時に帰たから、丁度一昼夜歩いて居た訳わけだ。
小石川に通う
横浜から帰って、私は足の疲れではない、実に落胆して仕舞った。是は/\どうも仕方がない、今まで数年の間あいだ、死物狂になって和蘭(オランダ)の書を読むことを勉強した、その勉強したものが、今は何にもならない、商売人の看板を見ても読むことが出来ない、左(さりと)は誠に詰らぬ事をしたわいと、実に落胆して仕舞た。けれども決して落胆して居られる場合でない。彼処(あすこ)に行なわれて居る言葉、書いてある文字は、英語か仏語に相違ない。所で今世界に英語の普通に行れて居ると云いうことは予かねて知って居る。何でもあれは英語に違いない、今我国は条約を結んで開けかゝって居る、左(さすれ)ばこの後は英語が必要になるに違いない、洋学者として英語を知らなければ迚とても何にも通ずることが出来ない、この後は英語を読むより外に仕方しかたがないと、横浜から帰た翌日だ、一度は落胆したが同時に又新に志を発して、夫から以来は一切万事英語と覚悟を極きめて、扨(さて)その英語を学ぶと云うことに就ついて如何どうして宜(いい)か取付端(とりつきは)がない。

引用ここまで
この文章には幾つか当時の横浜風景に関して興味深い点が書かれています。
例えば
「その時の横浜と云うものは外国人がチラホラ来て居るだけで、堀立小屋見たような家が諸方にチョイ/\出来て、外国人が其処に住んで店を出して居る。」
まず、時期的にはかなり開港初期だと想像できます。
気になるのは
開港場には野原(のっぱら)が広がりそこに外国人が出店している様を日本人の福沢が「堀立小屋」だと描写している点です。レンガ作り、コロニアル洋式の建物に慣れている諸外国人が<うさぎ小屋>とでも表現するなら判ります。
横浜開港地には恐らく日本人の大工が<とりあえず>人が暮らせる程度の住宅を建てたのでしょう。都市の風景としては非常に貧弱さが感じられたのかもしれません。
とりあえず仮住まいのような家屋で
そこに不満はあったけれども商売優先で外国人側も我慢して出店したということでしょうか。

福翁自伝 福沢諭吉著作集 第12巻 慶應義塾大学出版会2003

次に気になったのが
「居留地をブラ/\歩く中うちに独逸(ドイツ)人でキニツフルと云う商人の店に打当(ぶちあた)った。その商人は独逸人でこそあれ蘭語蘭文が分る。」
福沢が大変な思いをして学んだ外国語は阿蘭陀語でした。ところがそこにはイギリス人やアメリカ人の店が多く、ようやく言葉(オランダ語)の通じる外国人に出会った。
ところが彼はドイツ人だったという点です。
この二点を軸に次回居留地最初の商館を開設したあるドイツ人について少し展開してみたいと思います。
一つ前【開港の風景】野っ原編2へ
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=13389

【開港の風景】野っ原編1へ
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=13387

2月 23

【開港の風景】野っ原編2

前回ようやく開港の舞台となった横浜村の一角の話に入るところまで来ました。
開港直前の横浜村から開港場が作られていく<様>をいろいろな資料から描いていこうと考え、進めてきました。
ところがどっこい、さらっとサマライズできなくなってしまいました。
ここに2点の画像を紹介し、少しお時間をいただきます。

一点目は
樋畑翁輔「ペリー献上電信機実験当時の写生画」


 ペリーが再来航し、横浜村で外交交渉を行った最終段階で、
ペリーが用意してきた当時の最先端技術を日本側に紹介します。

樋畑翁輔「ペリー献上電信機実験当時の写生画」

皇帝(将軍)宛:
4分の1縮小蒸気車模型とレール、電信機と長さ3マイルの電線及びガタパーチャ電線、銅製フランシス救命艇、銅製ボート、農業器具、オーデュボン鳥類図鑑、ニューヨーク州博物誌、議会年報、ニューヨーク州法典、ニューヨーク州議会誌、灯台報告書、バンクロフト米国史、農業指導書、米国沿海測量図、モリス工学書、銀装飾衣料箱、8ヤード大幅高級深紅色羅紗、8ヤード大幅深紅色ベルベット、米国標準ヤード尺、同ガロン枡、同ブッシェル枡、同天秤と分銅、マデイラ・ワイン、ウィスキー、シャンペン・シェリー酒・マラシーノ酒、茶、州地図とリソグラフ、スタンド付き望遠鏡、鉄板製ストーブ、香水類、ホール・ライフル銃、メイナード・マスケット銃、騎兵刀、砲手刀、カービン銃、陸軍ピストル、ニューヨーク州立図書館・郵便局カタログ、錠付き郵便袋。

御台様宛:
花模様刺繍ドレス、金色化粧箱、香水類。
 ※sewing machine(ミシン)

林大学頭宛:
オーデュボン獣類図鑑、4ヤード大幅高級深紅色羅紗、時計、ストーブ、ライフル銃、陶製茶器セット、6連発ピストルと火薬、香水類、ウィスキー、刀剣、茶、シャンペン。

伊勢守宛:
銅製救命ボート、ケンドール著述のメキシコ戦争とリップリー著述のメキシコ戦争史、シャンペン、茶、ウィスキー、時計、ストーブ、ライフル銃、刀剣、6連発ピストルと火薬、香水類、4ヤード大幅高級深紅色羅紗。

これだけではありませんがとりあえず主なものを紹介しておきます。
このときに目の前で実験を行って日本側を驚かせたのが汽車と電信機でした。
掲載の画像は「ペリー献上電信機実験当時の写生画」はその時の様子を絵にしたものです。
横浜村の一帯を使って通信実験は海岸沿いに仮設された応接場と、そこから約1㎞内陸に位置した”中山吉左衛門”という名主の居宅のあいだで行われたと記録されています。
スケッチ図では
耕作地のあいだを縫うように電信柱が設置され海岸へと達しています。通信実験の両拠点を結ぶ電信線もしっかり描かれています。
電信ですので、電源はどうだったのか?
当時の電池をしっかり持ってきたようです。電解液を入れた瓶に銅板と亜鉛版を挿入し、異なる腐食の性質を使って+-両極に帯電させて電流を流すという電気分解の基本的な仕組みのものと判明しています。
絵には
左側隅中山家の屋敷のところに小倉藩、右側中央あぜ道に松代藩の記述があります。
沖にはペリー艦隊9隻の姿も確認できます。
写生図の上にコメント※が記されていますが、内容から作者の樋畑翁輔ではないことが分かります。恐らく彼の息子の樋畑雪湖ではないかと推測されていますが、確定しておりません。
※「嘉永七年二月(西暦一八五四年)横浜邑米国使節応接場ヨリ洲干弁天境内吉右衛門[ママ:筆者註]居宅間ニ電線ヲ架シ幕府ニ贈リタル二座ノ電信機ヲ据付実験シタル当時ノ写生図ナリ因ニ云フ応接所ハ今ノ税関附近ニシテ洲干弁天ノ位置ハ航路標識管理所ノ辺ナリト云フ」

開港直前の横浜村の様子

もう一点の絵図は、これとは異なる時期、もう少し前の橫濱村の様子を描いた幾つかの絵図をもとに作成したものです。ここから
横濱村の名主で素封家と称された中山家が確認できます。
「横濱成功名誉鑑」によれば開港当時弁天横に本宅があった中山沖右衛門は代々その名を継いでいて九代目は明治に入り実業界で活躍「元町貯蓄銀行」の頭取を努めます。

横濱成功名鑑 より

居留地整備に伴い本牧に移り、何代目か不明ですが、鉄道・切符研究ならびにコレクターとして有名だったそうです。市電研究の第一人者だった歯科医師の長谷川弘和さんはこの中山沖右衛門さんの影響を強く受けたと語っていらっしゃいます。

今回は少し横道に逸れました。追って 開港場ができていく様をレポートしたいと思います。(つづく)

2月 23

【開港の風景】野っ原編1

このシリーズを書いてみようと思った出発点は開港のために造成した野っ原あたりのことを知りたいと思ったことに始まります。

幕府がペリーとの交渉で「神奈川開港」を約束してから実際には横浜を提案しアメリカを筆頭に各国の外交官と居留地をどこにするか揉めたことはご存知のことと思います。

安政五カ国条約神奈川
建前は「神奈川湊」でしたが、
実際は日米交渉を行った「横浜村」に決定しました。
外交は内政でもあります。諸外国同士の関係と国内の関係が絡み合いながら、外交交渉は決着を求めます。
米国として来航したペリーと初めての国との外交交渉、周辺国と比較しても上々の出来だったのではないでしょうか。開港条件の結果評価に関しては別のテーブルにしましょう。
さて
交渉の結果、横浜村には決まったけれど、長らく外国人との交渉経験が長崎出島程度だった幕府の役人にとって新しく外国人居留地をどう作っていったのか?
この<横浜村に開港場ができていくプロセスを知りたい>と思い文献を探りましたが簡単にまとまったものは探し出すことができませんでした。 今も断片を探っている途中です。
手元にある資料で判った範囲を追いかけてみたいと思います。
第一回冒頭でも書きましたが、横浜村の人々は突然の命令にかなりびっくりしたと思います。ただ、1854年(嘉永7年)にペリーが再来した際、横浜村のど真ん中「駒形」が交渉場になりました。現在の開港広場、開港記念会館あたりです。
ペリー艦隊の休憩所や宿泊所も村内に準備しました。
この時、横浜村の人々は、間近で<異国人>との出会いを経験しています。
「この村を外国人と日本人の新しい開港場とする!」という後の命令にもワンクッションあったので、寝耳に水では無かったでしょう。でも大事ではありました。

■ハイネの横浜
ペリーが再来港し開港交渉が行われました。この様子は幾つか絵図や記録が残っているのである程度想像することができます。
艦隊に随行したドイツ人ハイネが描いた横浜村駒形でも<日米交渉の絵図>はあまりにも有名です。この一枚の絵図からも様々な当時の様子を読み解くことができます。

その前に1点
ペリー再来港が早くなった理由をwikipediaでは

「1854年2月13日(嘉永7年1月16日)、ペリーは琉球を経由して再び浦賀に来航した。幕府との取り決めで、1年間の猶予を与えるはずであったところを、あえて半年で決断を迫ったもので幕府は大いに焦った。ペリーは香港で将軍家慶の死を知り、国政の混乱の隙を突こうと考えたのである。ここにペリーの外交手腕を見て取ることもできる。」

この解説には歴史的根拠がありません。ペリー悪玉論の恣意的な記事だと私は考えます。
現在定説となっているのが<ロシア艦隊の来航>があったため、交渉を急いだ説です。
私もこの説を支持します。
多くの研究者が長いロシアとアメリカの関係からペリー一行が急いだ点を指摘しています。
この時のロシア対日担当はプチャーチンでした。
実はロシアは対日外交に関しては江戸中期ごろから着実に交渉を重ねていました。
ラクスマン、レザノフが日本とおこなってきた中身の濃い交渉の歴史があり、レザノフに至ってはアメリカとの深い因縁もあり、ペリーは相当焦りを感じていたと推測できます。
ペリーとほぼ同時に来航したプチャーチンは日本を知るシーボルトの進言にしたがって、江戸は目指さず、日本のルールに従い長崎に向かいます。
帝国としての外交プロトコルを大切にしたのです。
ペリーに遅れること1ヵ月半後の1853年8月22日(嘉永6年7月18日)に長崎に入港し、江戸から幕府の全権が到着するのを待つ間にロシアの国運を変えたクリミア戦争が勃発し、一時期日本を離れ中国に向かうという空白はありましたが、事態が落ち着いた時点で再び長崎に戻り交渉を始めます。
この時の幕府全権は幕末幕府外交の先頭に立った「川路聖謨(かわじ としあきら)」「筒井政憲(つつい まさのり)」で最強コンビと言っても良い組み合わせでした。
プチャーチンとは計6回に渡り開港に関する交渉を行いますが、合意に達しませんでした。
(しっかりコミュニケーションはとった)上での交渉決裂でしたが、
ペリーは中国に滞在中でロシア日本訪問の情報を手に入れます。ある資料では、ロシアからの協力依頼があったという記述もありました。
当時、ロシア帝国にとって日本は未知・未開の小国で、アメリカは新参者・若輩国の意識で、ペリー艦隊の行動力と交渉力を甘く見ていたところがあったようです。
ペリーは帝国ロシアの先を急いだようです。
長くなってしまいました。
この先は次回に分割します。いよいよ 開港場整備に迫ります。

2月 23

【開港の風景】前史編4

本編となる開港ドタバタ風景までもう少々お付き合いください。
 <である>調より<ですます>が良い!というメッセージいただきました。
読み返してみるとちょっと硬く感じるので 文体変えます!
■野毛の自立
現在大岡川河口近くにある野毛村は、元々戸部村の一部の小さな集落でした。江戸も後期に入る文政年間(1818年〜1829年)の頃には野毛浦一帯は人口も増え事実上戸部村から独立(自立)していたようです。
戸部村は広く、中央部を東西に戸塚あたりまで丘陵が連なっていました。
北側には戸部本村(現在の西区役所から藤棚あたり)
山を越えた南側が野毛浦地区で、村の性格が異なっていたようです。
戸部村北部袖ヶ浦側では水田が少なくほぼ塩田活用が行われていました。
山を越えた南の野毛側では新田完成で大きく変わりますが、元々から<舟役>という漁や水運など船を使った生業(なりわい)の届けが出されていて幕府への税金も野毛が独自に収めていた(自立していた)ようです。
その背景には前回も書きましたが保土ケ谷宿の繁盛と1667年寛文七年に完成した「吉田新田」による経済的変化でした。

■新田誕生
あらためて吉田新田の役割に少し触れます。
西に深く広く入り込んでいた野毛の「入海」は
北側岸には野毛・太田の集落、
南側岸には横浜・石川、中村の集落が点在していました。
この入海が「新田」に置き換ることで、経済構造が大きく変化します。
入海時代が小規模な製塩と沿岸漁業中心でした。新田完成で稲作、畑作によって収穫が非常に伸びたことは入海漁業を失った野毛にとっても大変化でした。
米(収穫)だけではなく、人もモノも動くようになったのです。漁業も入海から近海漁業となり漁獲内容も大きく変化しました。
さらに新田は副次的効果を生み出します。
新田のあぜ道を通して対岸だった村々の往来・交流が始まります。
新田開発者である吉田家は敢えてこの新田堤の”往来を増やす”ことを意図したと推測できます。少し長くなりますがその理由を解説します。
広さ約35万坪(1,155,000m2)にも及ぶ吉田新田は、約十一年の時間を使って上流から干拓事業を進めました。大岡川河口を分流して、入海の岸に沿って水路(運河)を確保し南側を中村川、北側を大岡川本流としながら囲むように新田造成を行いました。
河口域の水田開発に欠かせないのが真水の確保です。
稲作では決して混じってはならないのが塩水です。河口域の干拓の難しさはここにあります。塩水を防御しながら、河川の氾濫にも土手が崩れないようにしっかりとした護岸維持が必要でした。
河口域の干拓は真水を新田下部に流し込むことで、塩抜きをしていきます。
お三の宮のある新田てっぺんから川の水を(大堰)から引き込み溜池にプールします。
そして当時中川と呼ばれた新田の中央部を流れる灌漑用水路から左右、南北の畦で仕切った田圃に水を供給していきます。引き潮時には大岡川・中村川に設置した堰から水を引き込むこともありました。水田に浸透した用水は最終的に<悪水溜め>と呼ばれた一ツ目沼に流れ込むようになっていました。
水量のコントロールは新田内にくまなく配置されていた水門によって行われました。
 大岡川下流域は干満の差が大きく現在も弘明寺近くまで汽水域になっています。
この干満を利用して水量の調整を行いました。干潮時に外海へ沼の水を排水し水位を下げます。水位の下がった<悪水池>には上流から水田を潤した水が流れ込む用になっていました。
江戸期の水田経営はすでに加肥農業でした。糞尿や雑魚を発酵されたものも使われ水質管理も水田管理の柱でした。
一方、災害・大雨による水田決壊は水田経営で一番恐れられた事態で、土手の保全が最大課題の一つでした。吉田新田も完成後、増水により何回か大決壊を経験していました。

■人普請
災害で囲いが決壊すると最悪一ツ目沼と田畑間を仕切る土手(内突堤)に圧力がかかり新田崩壊となってしまいます。内突堤は新田を守る重要な役割を果たしていました。
これが現在の「長者町通り」です。江戸期には「八丁畷」と呼ばれていました。

古来から人が歩いて土地を踏み固めることを活用した造成法がありました。人普請です。
一ツ目沼のと間を仕切る土手を踏み固めるためにも「八丁畷」の往来を増やせば一石二鳥!
ということで、横浜村の鎮守様洲干弁天社詣を観光資源として活用しよう!
これは私の仮説ですが、姥岩、弁天様を物見遊山コースに仕立てたのではないでしょうか。
幕末期、この洲干弁天社周りの管理は入念なものでした。単に横浜村の鎮守だけではなく、多くの参拝客を受け入れた結果ではないでしょうか。
これは外国人スケッチからも想像がつきます。
開港直後にスイスの使節団代表として日本を訪れたエメ・アンベール達が残した記録に洲干弁天の姿がスケッチとして記録されています。
外国人も驚く品質で洲干弁天が維持されてきた背景には、広域の人々の力でこの社が維持されてきたことを物語っているように思います。

2月 23

【開港の風景】前史編3

小説を書く人はすごいと改めて思う。資料から人の心情や行動を描きだす。
読みながら情景が浮かぶように工夫しようと思っている矢先から説明的になっている。一枚の地図にしてしまえば簡単だ!と思い始めてしまう。そういえば、三十年以上も前のことだ。地図を文章にするというトレーニングをしたことがある。
市街地図を頼りに、知らない町を図上で紹介していくという作業だった。何故始めたか、動機は覚えていないが、最初の地図は世田谷区だった記憶がある。
この作業は、すぐに挫折したが以来地図の見方が少し変わった。
■戸部村字野毛
江戸東海道四番目保土ヶ谷宿は帷子川と今井川の合流点にある。江戸期、この一帯は水運も盛んで、河口域に広がる入海一帯を”袖ヶ浦”と呼んでいた。
帷子川左岸から袖ヶ浦岸に東海道が延び神奈川に繋がる。

今井川が合流する右岸は入海に出ると戸部村の丘陵を懐き、越えるとそこは戸部村字野毛と呼ばれ小さな村落だった。江戸期までは、歴史に登場することも無く、大岡川の深い入海と江戸湾が交わる漁場で小規模な漁の村だった。
野毛の転機は、神奈川宿・保土ヶ谷宿の整備だった。
両宿の発展に伴い経済圏が拡大することで、周辺の村々には変化が生じた。さらに寛文七年、大岡川河口域に大型新田(吉田新田)が完成したことで、周辺の村には米経済が生まれた。
この頃からだろうか、野毛浦の風景を愛でる人達が現れた。

江戸名所図会を加工

切り立った野毛浦地先の海には穴の空いた岩(海食甌穴)があり、奇観、異観として訪れた人を楽しませた。別称「かめ穴、大釜、ポットホール」とも呼ばれる”穴岩”は世界各国で観光、信仰の場として点在している。
野毛浦tの穴岩は姥岩(うばいわ、うばがいわ)と呼ばれていたが何かの理由で穴が欠けてしまった。欠けた時期は不明だが、姥岩の名はそのまま明治まで残った。
うばがいわ、その由来は漢字の”穴”をゥとハと呼びウハ岩、ウバ岩と訛り「姥岩」の字をあてるようになったという説が有力だ。昔の人は言葉遊びが巧みだ。
明治初期、野毛浦地先に鉄道用地建設という降って湧いたよう計画がもたらされ、姥岩は消えた。
■袖ヶ浦北
開港直前に、東海道から最短で開港場に繋がる道が作られた。「横浜道」と呼ばれ、現在の浅間神社あたり、当時は芝生村と呼ばれた。神奈川宿から少し洲崎神社あたりを登りちょうど下ると芝生村となる。
ここから、中々干拓の進まなかった帷子川河口を横断する道を開こうとした。幕末、帷子川河口域はかつての水域は無く、沼地に近い状態になっていた。
ある資料には、1707年(宝永4年)に起こった富士山大噴火の火山灰が南関東に降り、村々は降灰に苦しんだ。幕府は(おそらく代官だろう)灰は田畑以外の土地に埋め、川には捨てないようにとお触れを出したが、誰も守らず皆川に灰を捨てた結果、河口に沈殿し沼地となってしまったというのだ。
これに関してはことの真偽は定かではないが、この宝永の富士山噴火の直前(49日前)、南関東に大地震が起こっている。村の人々にとって役人の指示など聞いている余裕は無かったに違いない。
この灰によって、岸辺では諍いが起こっていた。船着き場が機能しなくなったからだ。かつては、隣の吉田新田のように新田開発も始まったが、帷子川河口の干拓は中々進まなかった。岸から一気に水深が深くなったことと、東海道に沿った岸辺には既に経済圏が成立していたからだ。それが、富士山噴火でみるみるうちにその機能が失われていったのだから心中穏やかでは無かっただろう。
■袖ヶ浦開発
帷子川・今井川の河口域、芝生村と戸部村の間の入り江、袖ヶ浦は富士山噴火後年々土砂によって浅くなっていった。漁場や船着き場の機能を失い、浅瀬が登場した。干潟、寄洲が目立つようになり、岸辺から新田開発願いが出されるようになった。新田開発と言っても、塩抜きが難しく多くが新規土地造成に近いものだったに違いない。
帷子川河口直近、現在の南浅間町が宝暦年間にまず開発された。ここは川筋に近く塩抜きも容易かったのだろう。広さ一町五反五畝三歩(約15,402m2)が完成「大新田(宝暦新田)」と呼ばれたが、吉田新田の約35万坪(1,155,000m2)に比べたら、玄関先にも及ばない。
この大新田の名に因んだ小さな「大新田公園」が現在でも残っている。
続いて、安永新田、弘化新田、藤江新田と小規模開発が行われていった。
一方の袖ヶ浦南岸は戸部新田・尾張屋新田が開発されたが浅瀬が割れ石崎川が登場する。
最後のパーツとなる岡野新田・平沼新田はもう少し幕末まで時が流れてからの頃だ。
■袖ヶ浦南
このように、天変地異の影響で、帷子川河口は一八世紀に入って大きく表情を変える。
保土ヶ谷宿の賑わいは、戸部村を変えた。ヒンターランド、後背地となった戸部村はさらに丘を超えた野毛にまで経済波及効果が出始めた。
これは私の想像領域から出ていないが、袖ヶ浦南岸の戸部村は<水>に困っていたのではないかという仮説である。
一方野毛村は湧水に恵まれ、生活程度の真水は十分に確保できていたと思われる。戦後まで尾張屋橋交差点付近に「塩田」の地名が残っていたころからも、想像できる。
水を売り買いするほどでは無いにせよ、魚を加工するといった食品生産にも水は不可欠だったことから、野毛への需要が高まった背景には<水>もあったのではないだろうか。
保土ケ谷宿から南東へ、保土ケ谷道が現在も残っている。「保土ケ谷道」は途中伊勢山で開港時に完成した横浜道と合流、そのまま野毛に下り、大岡川を渡って吉田町へと続く幹線道路となった。

繰り返しになるが、野毛村は吉田新田の完成で、”終着点”から”通過点=中継点”に変化する。新田堤の上に整備された八丁畷が、かつて対岸だった石川の村々との交通を盛んにした。
代官も異なり、濱からの景色として確認しあっていた両村が深い絆に結ばれたのである。

2月 23

【開港の風景】前史編2

■海の風景
東海道を江戸から下る道中、旅人は鶴見橋を渡り生麦を過ぎるあたりで海に出会います。品川沖とはこれまた趣が異なる子安濱の海岸沿いを進むと、その先に小高い「神奈川宿」の坂道が見えてきます。
目前には名所「権現山」が立ちはだかり、廻り込む中腹の道からは
対岸に入り組んだ海岸線の風景が目前に飛び込んできます。
神奈川宿のある滝ノ川河口は古くからの湊で、海岸と川岸に集落が密集し往来で賑わいをみせます。
このあたりは特に多くの版画や錦絵に描かれ、広重や国周、渓斎英泉の美人画の他絵師たちの描いた神奈川風景は見事です。
このあたりからは眼前に野毛浦、さらに奥には本牧鼻が現れ、晴れた日は遠く金沢、横須賀、三浦の海岸線を眺めることができました。
「お江戸日本橋七つ立ち(午前4時頃) 初のぼり 行列そろえて アレワイサノサ」ほど早くは無いでしょうが、近場に向かうゆっくり旅であれば
日本橋・品川を発って、鶴見・生麦そして神奈川あたりでちょうど昼頃の街道風景を味わえる時間帯でしょう。
東海道長旅を目指す場合はもう少し足早になったでしょうが、野毛あたりまでの日帰りは十分に可能だったでしょう。
例えば『東海道中膝栗毛』では、弥次郎兵衛・喜多八は最初の宿は「戸塚」でした。かなりの早発ちです。季節にもよりますがおそらく川崎あたりで日ノ出を迎えていたのではないでしょうか。
■街道
1590年(天正18年8月)
徳川家康は江戸に入り、矢継ぎ早に大きな施策を幾つか断行します。
その一つが「五街道の整備」です。特に江戸から藤沢に至る戸塚宿・程ケ谷宿・神奈川宿・品川宿の整備はほぼ新規事業に近かったのは意外です。
「宿場整備」は大変な労力を必要としました。宿場は町がまず支えなければならなかったからです。
東海道の往来が賑わうに伴い、距離があった「神奈川」「品川」間に[宿場]が求められるようになります。
川崎宿が1623年(元和9年)砂子(いさご)に設けられることになりますが、川崎宿周辺の経済圏は宿場経営には向かなかったため当初は大変だったようです。
同時期、家康のインフラ政策の一つとして「二ヶ領用水」の整備によって川崎の多くの地は新田開発が進めやすくなり飛躍的に安定はしましたが、街道経済としては厳しかったようです。
現在に繋がる川崎繁栄は問屋・名主・本陣の当主を一身に兼ねた田中休愚の努力に尽きるのですが、江戸中期からは大師詣や大山講といった物見遊山的、旅の多様化という江戸期のライフスタイル変化もその後の川崎宿を支えた一つといえるでしょう。
この川崎宿が品川・神奈川間に開設されたことで東海道は日本橋からほぼ均等距離に拠点ができたことになります。これによって<参勤交代>や<お伊勢参り>などの旅人達も目的や都合に応じて旅程を計画できるようになったことは大きいでしょう。

ここに小田原宿までの宿間距離を示しておきます。

江戸日本橋〜2里(7.9km)〜品川〜2.5里(9.8km)〜川崎〜2.5里(9.8km)〜神奈川〜1里9町(4.9km)〜保土ヶ谷〜2里9町(8.8km)〜戸塚〜2里(7.9km)〜藤沢〜3.5里(13.7km)〜平塚〜27町(2.9km)〜大磯〜4里(15.7km)〜小田原

前述の通り川崎宿ができるまでは、品川・神奈川間は五里(約20km)ありました。昔の人が健脚だったとはいえ当時の人達にとっても中々の距離です。今どきのようにロードサイドに「休憩場」があった訳では無く時代劇のシーンのように道脇の<茶店>は一部に限られていたようです。
東海道下り最初の「品川宿」は本陣一、脇本陣二、旅籠は百近くあったということですからかなり大きな宿場だったと想像できます。江戸市中というより実質「品川発ち」のほうが多かったのではないでしょうか。
遊郭もあり小高い丘からは江戸湾有数の品川湊(漁場)が一望、江戸前の魚介類がここに上がる賑わい処だったようです。
この品川を発つと六郷で多摩川を渡り神奈川まではほぼ平坦で急ぐことができました。
一方、上りの人々は「神奈川宿」を出て、鶴見川を渡りいよいよ江戸入り前の仕立てを「川崎宿」「品川宿」で整えたのでしょう。
■袖ヶ浦
さて、そろそろ横濱に近づいてきました。
神奈川宿より下りは藤沢宿まで連続した起伏が続く旅程になります。
江戸の旅人にとって山坂と川渡りは最大のハードルでした。
“壁のように立ちはだかる名所旧蹟「権現山」”を過ぎると隣の程ケ谷宿までは<袖ヶ浦>を左に見ながらの1里9町(4.9km)とかなり短い旅程となります。
東海道箱根までの宿場を眺めてみると、この「神奈川・保土ケ谷間」が最も短く急ぐ人々の足もついゆっくりと岸の景色を楽しんだのではないでしょうか。
神奈川あたりから帷子川の河口域までを袖ヶ浦と呼ばれていました。対岸の千葉には現在もこの地名が残っています。千葉袖ヶ浦には弟橘媛(おとたちばなひめ)が、海中に身を投じ海神の怒りを静めたあと衣の袖が海岸に流れ着たことに由来すると伝わっています。
神奈川はどうだろうと調べてみると 袖ヶ浦
「袖の浦たまらぬ玉のくだけつつ寄せても遠く帰る浪かな」定家
「袖のうら波吹きかへす秋風に雲のうへまですずしからなむ」中務(古今集歌人伊勢の娘、中務)
 出羽の国の歌枕として良く使われています。神奈川沖とは直接関係は無さそうです。
 「出羽・羽黒信仰」も多く伝わっている東海道沿いなので、ここから来たのであれば物語はさらに膨らむのですが、確信はありません。
■程ケ谷
神奈川宿は古くより栄えた基盤として「神奈川湊」があり物流の拠点であったのに対して、程ケ谷(保土ケ谷)宿は、北に向かう追分があり南へは金沢道がある交通の要衝にありました。
東海道四番目の程ケ谷(保土ケ谷)宿は1601年(慶長6年)東海道に宿駅の制度が定められた際に、幕府公認の宿場として誕生します。1648年(慶安元年)の頃までは、現在よりも狭く保土ケ谷交差点を大きく西に曲がるあたりが中心でした。
その後現在の相鉄線天王町方向に中心地が移動しますが、全体に長く広がる宿場町として拡張し幕末まで賑わいます。
この保土ケ谷、
鎌倉時代から南へ井土ヶ谷を抜けて杉田に通じる鎌倉道が開かれていました。江戸期には春は杉田の観梅に向かう道として往来があり、季節を通しても金沢に向かう旅人の道筋でもありました。
保土ケ谷宿は幕末に別なルートとして脚光を浴びます。絹の道(八王子街道)です。
そして、南東の戸部村の丘を越える野毛浦に通じる道(程ケ谷道)も開かれます。
保土ケ谷宿で求められた物品、例えば海産物等は漁場を持つ野毛村から運ばれるようになり、保土ケ谷宿の賑わいが、野毛村その先の吉田新田周辺の集落に変化をもたらしていくことになります。
前置きが長くなりましたが 次回は開港前史の舞台野毛村に向かうことにします。

2月 23

【開港の風景】前史編1

突然の出来事だったに違いありません。
先祖代々横浜村に暮らしていた人々は、「突然移住せよ!」と代官からの申し渡しがあり、おそらく村衆が集まり石川村の外れに居を移すことを承諾したのでしょう。
そこでどのような話し合いがもたれたのかは、想像しかできません。
その昔、
南北を海に挟まれるように嘴のように細長く突き出た横浜村は、深い入海を守るように横に延び、防波堤の役割を果たしていました。
そこには<岬>というには小さいものでしたが洲の先端に小さな弁天社があり、村の鎮守様がありました。
■干拓
江戸時代となり、平和が訪れると人々は武士(もののふ)から帰農するものや、商いのために城下町など都市に集まるようになります。人が増え食糧不足となり、新田作りが奨励され「新田ブーム」が起こります。
ここに江戸の材木商、吉田勘兵衛良信が干拓新規事業を計画します。失敗もありましたが、11年の時間をかけ大岡川河口の深い入海を干拓することに成功します。新田の広さは35万坪にも及びます。
干拓事業が始まる前まで横浜村には小高い丘がありました。村人はそれを「しゅうかんじま」と呼び弁天及び周辺の名も「洲干」としました。
1656年(明暦2年)に干拓が始まると、この丘の土は新田造作の一部に使われました。
この結果、横浜村は耕作地が広がることになります。
以来、横浜村の鎮守でもあった「洲干弁天社」は詣でる人々が増え武蔵国風土記にも図解されるほどになりました。
実際、洲干弁天社の建つあたりは、入りくんだ深い入り江と松林が重なり対岸の野毛村との波間には飛び出るような”穴岩(あないわ)”と共に風光明媚な物見空間として賑わいをみせます。
■八丁畷(はっちょうなわて)
徳川の世になり東海道の宿場町が整備されます。中でも金川宿と程ケ谷宿は江戸との程よい距離でもあったため、また程ケ谷は権太坂から戸塚宿の間に連なる急坂群もあることから上りにも下りにも休憩処としても賑わうようになります。
そして11年の時間を費やし1667年(寛文7年)に完成した吉田新田によって、宿場周辺の村々は大きく変化の時代を迎えます。
それまで海を介した<対岸同士>だった村が、新田により登場した道を抜けることで交流が生まれました。
特に、
干拓地を支える内突堤の道は”八丁畷”と呼ばれ石川村・野毛村往来の中心道となり往来は人普請の役割を果たし、堤を踏み固め今日まで吉田新田の堤(長者町通)を護っています。
■小寒村史観
90年代まで、多くの横浜史を紹介する枕詞は「わずか100戸に満たない(小さな)寒村」が定番でした。確かに近代が押し寄せる開港後の賑わいと比較すればの話ですが、
横浜村は本当に「小寒村」だったのだのでしょうか?
故斎藤司先生は「ここが寒村だったら、日本の村の多くが寒村になってしまう」と語っていたことが印象に残っています。村のサイズは周辺の環境条件にもよりますが、共同体のスケールは自然に定まっていったようです。確かに江戸の村落を比較する指標、「石高」から見れば村民あたりの石高は若干低い記録として残っていますが、それを貧しさに繋げるのは早計です。街道に近い村落経済はもう少し多面的な運営がおこなわれていました。
横浜市域にあたる久良岐郡・橘樹郡の村落はそもそも「江戸幕府直轄領地」ですので、江戸五街道最大の東海道宿場経済圏として安定した経済を維持していたといえるでしょう。
宿場は都市化した集落です。
この都市化した<街道の宿場経済圏>に含まれた村落は、文書では見えにくい生活像があると斎藤先生は指摘されました。「古文書では見えにくい」生活がそこにあり、時の天変地異による災害はあったにせよ、ある程度豊かな生活をしていたと考えるのが自然でしょう。
野毛集落には漁業があり、戸部の山林入会からは炭や燃料が供給され、太田、蒔田では少量ながらも製塩が行われていました。房総の富津漁港とは湾内の漁を巡って競い合う文書も多く、漁業が盛んだったことを推測できます。
さらに吉田新田効果によって、米雑穀の収穫量が飛躍的に上がります。
新田運営の影響で漁業場も、漁獲の種類が変わっていきます。内海漁から外海の野毛浦などの沿岸漁場に移り磯場の牡蠣や海鼠などが良く採れたようです。江戸期後半には沖での漁業も行われるようになっていきます。漁獲がさばける市場が拡大した結果といえるでしょう。
これも新田効果とでもいうべきでしょうか、この地域は”往来”による経済が確実に周辺の村々を豊かにしていったと想像することできます。
橫濱寒村史観は訂正される必要があるでしょう。

2月 23

【横浜人物録】秋元不死男2

「海水浴とマジシャン」と題して俳人秋元不死男作品から横浜のある風景を読み解いていきます。
前回では、不動坂付近で行われていた四の日縁日の風景が描かれている句を紹介しました。
大正初期の亀の橋付近の風景です。
今回は、1938年(昭和13年)秋元が長く暮らした根岸海岸近くの本牧海岸の様子を詠んだ句から一枚の絵葉書を連想しました。

「幕のひま奇術をとめが海にゐる」

この句は解説が無いと理解に苦しむ情景かもしれません。
<幕のあいだに奇術乙女が海にいました>といった意味で、
自解には
「海の家は景気を盛りあげるために芸人を呼んで海水浴客のご機嫌をうかがう。このときも奇術の一行がきて、あれこれと奇術をやってみせた。一行のなかに、お手玉をやる娘がいた。娘は幕の合間をみて海に入った。水着になった娘は、白粉をなまなましく胸まで塗っていた。」
これを読んで、なるほどと思いました。

戦前昭和期に流行ったレジャーが海水浴でした。湯治的な役割から海遊戯的なものに変化していきます。横浜の海岸線にも鶴見・本牧・磯子・金沢といった海水浴場は鉄道会社の重要な乗客増員装置でもありました。
戦前の観光絵葉書の分野で「海水浴」は非常に多く発行されています。

題名は「大磯海岸」発行時期は不明ですが、大正期と思われます。
海水浴の情景に、不思議な四名の家族らしい人物が写っています。海水浴客の一グループとも捉えることができますが、違和感があり気になっていました。
読み解きグループの集まりで、旅芸人ではないかという指摘がありましたが、確証がなくそのままにしておきました。
この俳句解説に”海の家は景気を盛りあげるために芸人を呼んで”とあったのは、当時の海水浴場の日常であったのではないか、と思い探してみると幾つか海水浴場に<演芸場>が併設されていたという資料もあったところから
 この大磯海岸の風景は、海水浴場の旅芸人達かもしれないという推理が高まってきまっした。

「鎌倉名勝 由比ヶ浜海水浴場」Bathing place of Yuigahama,Kamakura.
この風景は、昭和初期の由比ヶ浜海水浴場と推測できます。森永・明治の製菓会社の広告看板、中央奥には「南方飛行」の大きな看板が確認できます。この「南方飛行」が1937年(昭和12年)公開のフランス映画だとすると、この風景の撮影時期も絞り込むことができそうです。
こういった人気海水浴場はアミューズメントパークの位置づけで、様々な出店、演芸小屋もあったようです。

最後に秋元作品に戻ります。まだまだ紹介したい横浜の情景を詠んだ句が多くありますが、ネットでもかなり紹介されていますので参照してください。

秋元不死男句碑(大桟橋客船ターミナル)

◯北欧の船腹垂るる冬鴎
これは元々大桟橋客船ターミナルの待合室に1971年(昭和46年)4月設置されたものですが、現在は建替え時に移動しターミナル入り口の右側壁面の手前に設置されています。
ちょうど、この年11月には秋元不死男が横浜文化賞を受賞します。
Whirl winter-seagulls yonder
While rests a huge Nordic liner
With her impending wall of hull,at anchor.

英訳は清水信衛氏

受賞の3年前の1968年(昭和43年)には句集『万座』にて第2回蛇笏賞を受賞し海を離れて港北区下田町に転居します。終焉の地となったのは自宅からほど近い丘の上の川崎井田病院でした。
(おわり)
【横浜人物録】秋元不死男1

2月 23

【横浜人物録】秋元不死男1

秋元不死男、彼の名を知る人は限られていると思います。戦前から戦後にかけて活躍していた俳人です。人生の大半を横浜で過ごし、横浜の情景を詠んだ句も多く残されています。
彼に関しては、以前簡単なブログを書いています。
No.35 2月4日 秋元不死男逮捕、山手警察に勾留
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/02/24.html

現在1,000話を越えたこのブログの初期に書いたものです。毎日一話を一年間続けてみようと決め、35日目に選んだのが「秋元不死男逮捕、山手警察に勾留」の記事でした。
この頃、彼は東 京三(ひがし きょうぞう)と名乗っていました。不死男という勇ましい名に変えたのは戦後のことでした。秋元にとって戦場には行きませんでしたが、生死の境を乗り越えた安堵感が不死男の名に繋がったのかもしれません。

「自選自解秋元不死男句集」より

秋元不死男は、1901年(明治34年)11月3日に横浜市中区元町生まれました。父茂三郎は漆器輸出商を営み、長男は不死男が生まれた日に病没したと記録されています。このことも戦後の不死男の名に繋がっていると思います。
他に姉が一人、弟・妹が二人ずついました。ところが、不死男13歳のときに父が病気で亡くなります。おそらく生活はそれ以前から厳しくなっていたと想像できます。子どもたちは姉が奉公、末弟・末妹はそれぞれ他家に貰われ、秋元家は母と三人の子供が残りました。
以後母 寿は<和裁の賃仕事>や<夜店の行商>をして家計を支えたことが彼の作品に残されています。

秋元不死男句集カバー
『自選自解秋元不死男句集』には彼が生きた幼き時代と社会人時代の横浜風景が細かく詠まれていて思わず引き込まれてしまいました。横浜風景論としても素晴らしい資料です。

「横浜の石川町にあった地蔵の縁日は四の日。運河を背に夜店を張ると、舫っている艀からポン、ポンと鈍い音を立てて夜の時計が刻を告げて鳴り出す。」と自解した句が
「夜店寒く艀の時計河に鳴る」です。
この頃、秋元一家は元町を離れ吉浜町に移り、亀の橋を渡って中村川岸で屋台を出したのでしょう。近くには派大岡川、中村川の運河が流れ、多くの艀が川面を占領していた時代です。大正初期、石川町付近は横浜有数の繁華街でした。
石川町で発行されていた明治大学中川ゼミ編集の「石川町の史実」には
「当時の石川町3丁目(現在の2丁目)の河岸から地蔵坂の途中の蓮光寺あたりまでで賑やかな縁日の催しが行われた。大勢の人が集まり坂下の鶴屋呉服店周辺※①ではゴッタ返しであった。また夏の縁日には、金魚屋、風鈴屋、綿菓子屋、新粉細工屋、玩具店、べっこう菓子屋あるいはカルメ焼屋などが軒を連ねた。今ではほとんどみられなくなったアセチレンガス灯の火が、華やかに闇に浮いて見えた。」と町のかつての様子を伝えています。
この情景を不死男も詠っています。

2012年発行の石川町広報紙


※①鶴屋呉服店は当時横浜有数の呉服店で、その後伊勢佐木に移り東京松屋と合併し松屋呉服店、現在の銀座MATSUYAとなります。
『自選自解秋元不死男句集』の冒頭の句が
「寒や母地のアセチレン風に欷き」(さむやははちのあせちれんかぜになき)
「短日に早くもアセチレン灯をともすと、ひゅう、ひゅうと青い焔が鳴り出す。すすり泣くようなその音をきいていると寒さが骨を噛じりにくる。」と自解しています。

彼は震災の時に半年神戸に暮らし、横浜唐沢に戻りその後、結婚で一時期東京に居を移しますが、息子近史が喘息になり環境の良い根岸海岸に移りこの地に二十年近く暮らします。
この転地療養が良かったようで、長男近史は治癒し健康になったそうです。
秋元近史は明治大学を卒業後しばらくして草創期の日本テレビに入社し『シャボン玉ホリデー』などの演出を手がけたテレビマンとして活躍します。
ところが、父不死男の名とは逆に、1977年(昭和52年)父が病死後の1982年(昭和57年)に自殺を選んでしまいます。享年49歳でした。
(つづく)
参考資料:
『俳人・秋元不死男』庄中健吉 永田書房 昭和57年
『自選自解秋元不死男句集』秋元不死男 白凰社 昭和47年