1月 31

No.394 フラワー全開!

東横フラワー緑道をご存知ですか?
横浜市神奈川区広台太田町から反町3丁目付近と
神奈川区台町を結ぶ約1.4kmの歩行者専用道です。
今日はこの「緑道(公園)」を紹介しましょう。


(東横線の地下化)
1932年(昭和7年)以来、桜木町と渋谷を結んできた東急東横線は「みなとみらい21線」開業に伴い一部区間が廃止され「東白楽駅〜横浜駅間」が地下化されました。
その内の地下化によって生まれた跡地と鉄道構造物(トンネルと高架橋等)の再活用事業として完成したのが「東横フラワー緑道」です。


(貴重な都心部の空間)
東急東横線は惜しまれながらも2004年(平成16年)1月31日に「桜木町駅」が廃止されました。同時並行して、地下化工事が行われ翌日の2月1日に「みなとみらい21線」と接続し「元町・中華街」まで延伸することになりました。残念な思いもありますが、これによって、貴重な都心部の公共空間を得ることができました。

No.31 1月31日 さよなら路線廃止に沢山のファン

(新しい道)
2011年(平成23年)4月16日に開通した「東横フラワー緑道」は、様々な恩恵を地域の人々にもたらしました。
東横線の難所?だった「高島山トンネル」が遊歩道になったことで横浜駅がぐっと近くなり、逆に横浜駅から高島山近辺へのアクセスが格段に良くなりました。
開通前は、反町駅周辺から横浜駅に徒歩で移動する場合、神奈川区内有数の“高島山丘陵”を越えるか、大きく迂回する必要がありました。
「東横フラワー緑道」と名付けられ約1.4 キロメートルの鉄道用地再整備でこの地区の回遊度が一気に高まりました。


このエリアは、開港の歴史資産が凝縮されていますから
新たな「観光資源」として横浜駅北方向が楽しくなります。

(新太田町駅)
ちょっと余談になりますが
「東横フラワー緑道」の真ん中あたり、現在の東白楽駅と反町駅の間に駅がありました。「新太田町駅」です。


1926年(大正15年)路線の開業と同時に開設され1946年(昭和21年)5月31日に廃止されますが、戦後一時期臨時駅として復活しました。


神奈川公園で開催された「日本貿易博覧会」のために臨時駅「博覧会場前駅」(1949年(昭和24年)3月15日 〜6月15日)として利用されました。

No.75 3月15日 JAPAN FOREIGN TRADE FAIR 

No.101 4月10日 薄れ行く災害の記憶

「東横フラワー緑道」整備に伴い遺構が無くなってしまったことは残念ですが、記念碑が残されています。今後、東急東横線の歴史と、神奈川区・横浜復興の歴史とともに語り継ぐ空間といえるでしょう。


(歩く楽しさ)
街は歩く楽しさが大切です。
ビジネスや買物で賑わう「横浜駅」ですが、
少し裾野が広がることで横浜駅の懐が深くなり神奈川県のヘソ、横浜市の交通網の要の“文化度”があがるのではないでしょうか。
ぜひ、暖かくなったら白楽駅か横浜駅あたりから、この「東横フラワー緑道」を通り、開港の新しい歴史道をぶらりされることをお勧めします。
※観光キーワード
 高島嘉右衛門と高島山
 本覚寺とアメリカ領事館
 戦災復興と反町公園

反町公園

散策案内は別途番外編で紹介します。

1月 30

No.393 横浜外環状線に遊ぶ

2001年(平成13年)1月30日、「市営地下鉄4号線」の起工式が行われました。
今日は、東横線日吉とJR横浜線の中山を繋ぐ横浜外環状線「市営地下鉄4号線」沿線を旅します。

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(外環状)
「市営地下鉄4号線」グリーンラインは、1960年代より横浜市六大事業の一環として港北ニュータウンとともに構想されてきた高速鉄道事業の一つです。
横浜の鉄道網は 一目瞭然、横浜駅から放射状に伸びています。
東京都心のように「環状鉄道」は 大都市の夢?

No.90 3月30日 環状鉄道の夢
40年越しの計画がようやく動きだし

当初2007年中に全線開業の予定でしたが、日吉〜日吉本町間の一部地権者の同意が得られず、最終的には土地収用法に基づく裁決で2008年3月30日に正式開業することになります。
鉄道マニア視点では、
鉄輪式リニアモーター駆動方式で最高速度80km/hは地下鉄として最高レベルを誇っています。

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グリーラインの営業成績はWikiから引用すると
「開業後1か月間の利用客数は53,129人と低迷しており、事前の需要予測の104,000人(当初の予測は13万7,000人)を大幅に下回る結果となったが、一日平均利用者数は2009年4月が約88,800人、2010年4月が約10万人と推移し、2011年5月現在の利用客数は約341.2万人と一日平均利用者数が11万人を突破し事前需要予測の104,000人を超えた。その後は港北ニュータウンへの人口集積と商業施設や企業立地による就業人口に伴い利用者増が見込まれ、事業計画時に想定した一日平均利用者数137,000人に近接しつつある。」
とあるように、利用者は順調に伸びているようです。

(沿線めぐり)
日吉駅・日吉本町駅・高田駅・東山田駅・北山田駅
センター北駅・センター南駅(ブルーライン共有)
都筑ふれあいの丘駅・川和町駅・中山駅
以上10の駅があります。
スタートは日吉駅から。

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日吉駅はグリーンラインの接続で大きく変わりました。
東急の駅舎もリニューアルし、学園都市に乗換乗降客がプラスし
これまでとは違った賑わいのある駅周辺に変貌しています。
かつて、この日吉地区はお隣の川崎と合併騒動がありました。
中々熾烈だったようです。

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No.91 3月31日 自治体国取り合戦勃発
日吉の町は、駅を挟んで慶応義塾の敷地と駅前商店街がはっきり分かれています。

現在も学生の街です。

■センター北駅・南駅

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センター北駅・南駅で「ブルーライン」に地上で接続しますが、
その間に「日吉本町」「高田」「東山田」「北山田」があります。
グリーラインの最大のメリットは、ここにあったと言っても過言ではないでしょう。
港北区北部のバスに頼っていたこの地域の活性化に影響しています。
高田駅は(たかたえき)と濁りません。
同じく
「東山田」「北山田」も
ひがしやまた、きたやまた と濁りません。
関東では珍しい読みです。

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(準難読)
都筑区には 古来からの地名が多く“難読”に近いものも多くあります。
勝田町(かちだちょう)
池辺町(いこのべちょう)
川向町(かわむこうちょう)
茅ケ崎中央(ちがさきちゅうおう)
※難読ではありませんが、同じ神奈川県茅ケ崎市と混同しそうな地名です。

(富士山信仰)
横道に逸れますが
冨士信仰は江戸(東京)に名所が多くありますが、横浜も
「富士山信仰」の場所が多く残っています。
浅間神社が代表です。
他に富士見の地名、富士山を模して造営された人工の山や塚も残っています。
市営グリーライン・ブルーラインで「富士塚めぐり」ができます。
市営グリーライン沿線では「山田富士公園」「川和富士塚公園」でしょう。

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http://www.city.yokohama.lg.jp/tsuzuki/tool/benri/benricho-tsuzukiku.html

■沿線めぐりに戻ります。
「センター北」「センター南」駅は港北ニュータウンの中核になる駅です。

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大型ショッピングセンターを中心に多くの商業ビルが集積しています。
共に起伏ある谷戸に作った駅なので、この二つの駅は
谷渡り的な位置にあります。

都筑民家園がおすすめです。
http://tminkaen.org
博物館系では
横浜市歴史博物館
http://www.rekihaku.city.yokohama.jp

センター南からはJR横浜線「中山駅」間に二つの駅があります。
都筑ふれあいの丘駅・川和町駅
共に小さな駅です。これから徐々に開発が進んでいくエリアでしょう。

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※(余談)
「都筑ふれあいの丘」は結構長い駅名のほうですが、
長い駅名といえば千葉県です、
東京ディズニーシー・ステーション
東京ディズニーランド・ステーション
ベイサイド・ステーション
リゾートゲートウェイ・ステーション

(延伸計画)
市営グリーラインには延伸計画があります。

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横浜外環状の計画はまだ諦めていないようです。
北は「新百合ケ丘」へ
西の日吉から先は「鶴見」まで。
東の中山から先は「二俣川」を通りみなとみらい線へ。
40年越しに実現したグリーライン、
完成にはあとどのくらいの時間がかかるのでしょうか?

1月 29

【番外編】 1月29日謎解き都橋

始めっから宣言しておきます。
大したことではありません。
今日は一枚の昔の地図を眺めていたら
不思議なことに気がつきました。
ちょっと謎解きしてみました。

nnA9231130下記のマップ、都橋近辺をご覧下さい。
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何か変じゃありませんか?
通りと橋の位置がずれています。
一つ上流の宮川橋の向きも変ですね。
単に作成上のミスなんでしょうか?
このマップは昭和四年八月の作成です。
それではこの時期に近い他の地図と比較してみよう
ということで昭和六年の地図が横浜市HPにありましたので
比較してみます。

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この地図では、
もう一つ都橋脇に小さな橋がありますね。
この小さな橋が関係しているのでは?
light_%e9%83%bd%e6%a9%8bpa311637真中の白い建物が交番、その左横に小さな橋の跡が現在も残っています。水道管の橋かなにかでしょうか、地図に掲載されている位置と一致します。

この地図では、湘南電気鉄道(京急の横浜・横須賀区間)桜木町駅直結予定の敷地がはっきり残っていますね。
逆に前掲のマップは湘南電気鉄道用地が途中までしかありません。
この二種類のマップの発表時期の差は2年ですが
測量時期はもう少し時間の開きがあったのかもしれません。

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震災復興関係の資料を見ると、都橋は震災で倒壊し木製の仮橋が架けられたとあります。その後、本架橋工事が始まります。
ここの交番も古いんですね、戦前からここにあります。震災の時に避難し助かった場所でもあるようですね。

ちょっと調べてみるだけで
小さな橋にも様々なドラマがあるようですね。
(2016年10月更新)

1月 29

No.392 サトウさん入門

アーネスト・メイソン・サトウなる人物をご存知ですか?
幕末から明治にかけて日本と深く関わった英国人です。
日系人?ジョン万次郎のような元日本人?
なんて思っている方いらっしゃいませんか?
今日は サトウさん入門です。

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Sir Ernest Mason Satow
アーネスト・メイソン・サトウ
意外と誤解されているサトウさんは、
1843年6月30日(天保14年)に生まれ1929年(昭和4年)8月26日に亡くなりました。
勘違いされる理由の一つが、日本名を佐藤 愛之助(または薩道愛之助)などと名乗っていたことが挙げられます。
ドイツ系イギリス人としてロンドンに生まれました。
サトウさんは1862年9月8日(文久2年8月15日)に横浜に英国駐日公使館の通訳生として(通訳ではなく通訳になるため)着任します。

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東禅寺事件

(通訳のサトウさん)
サトウさんは着任早々、大事件に遭遇します。
9月14日(8月21日)生麦事件の勃発です。
サトウさんはこの生麦事件と、数ヶ月前の6月26日(文久2年5月29日)に起った第二次東禅寺事件の賠償問題交渉団に通訳として加わります。
生麦事件は、薩摩藩の行列の前を横切ったイギリス人を殺傷した事件です。
第二次東禅寺事件(江戸高輪東禅寺)は、1861年に起った第一次東禅寺事件(水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名がイギリス公使ラザフォード・オールコックらを襲撃した事件)についで起った事件です。
第一次事件でオールコックは公使館を横浜に移しますが、オールコック(一時帰国)の代理公使ジョン・ニール(強硬派)が安全確保ができないまま東禅寺に公使館を戻し、二次事件が起ってしまいます。襲撃では無く、東禅寺を幕府命により警備していた松本藩士伊藤軍兵衛がイギリス兵2人を斬殺するという幕府にとって全面的に不利な事件です。
幕府は警備責任者を処罰し、イギリスとの間で賠償金の支払い交渉が行われている矢先に「生麦事件」が起ってしまうのです。
事件が立て続けに3件起り日英関係が最悪となります。
サトウさんは幕府との交渉に通訳として参加はしますが、研修中でほとんど通訳はできませんでした。ただ、日本との交渉会議に出席したことはその後のサトウさんに大変役立ちます。
その後、サトウさんは日本語能力を高め、初仕事は公式文書の翻訳でした。
幕府側から届いた手紙を翻訳します。
生麦事件等を早急に終結させるために1863年6月24日(文久3年5月9日)幕府に諮らず独断(英断?)で賠償金10万ポンドをイギリスに支払った肥前国唐津藩出身の老中「小笠原長行」からの手紙でした。内容は、将軍徳川家茂が孝明天皇に“5月10日を持って攘夷を行うと”約束したことをイギリス側に知らせる内容でした。
その後、
薩英戦争への従軍で薩摩藩船青鷹丸の拿捕現場、鹿児島の市街地大火災を目撃しかなりショックを受けます。どうも代理公使ニールとうまが合わなかったようです。サトウさんはイギリスに帰国するか日本にとどまるか悩みますが、オールコックが本国から帰任し引き続き日本に留まるよう説得され日本に残ることを決断します。
このオールコック公使の留意がサトウさんの重大な岐路となったのです。

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オールコック公使によって、かなり自由な時間を与えられます。
ここからサトウさんの日本学習が始まります。親友イギリス人医師ウィリアム・ウィリスとの交遊を深め、伊藤博文(伊藤俊輔)・井上馨(志道聞多)とも交流を深めます。この頃かなり日本語が堪能になり「薩道愛之助」「薩道懇之助」という日本名も使い始めるようになります。
(政治学者サトウさん)
横浜で発行されていた週刊英字新聞「ジャパン・タイムズ」に、1866年(慶應2年)3月から5月にかけて匿名で「英国策論」という論文を掲載します。
この「英国策論」は徳島藩士沼田寅三郎によって翻訳出版され、日本国内に影響を与えます。「明治維新の原型になるような一文」となったともいわれています。
骨子は
(1)将軍は主権者ではなく諸侯連合の首席にすぎず、現行の条約はその将軍とだけ結ばれたものである。したがって現行条約のほとんどの条項は主権者ではない将軍には実行できないものである。
(2)独立大名たちは外国との貿易に大きな関心をもっている。
(3)現行条約を廃し、新たに天皇及び連合諸大名と条約を結び、日本の政権を将軍から諸侯連合に移すべきである。
西郷隆盛、宇和島藩主だった伊達宗城らはこの「英国策論」に影響を受けます。

(外交官見習いサトウさん)
サトウさんはオールコック公使の後任パークス公使に随行し北海道・北陸等を視察し開港するための港選択の旅に出ます。
この頃から、通訳士の役割を越えた外交官のサトウさんの活躍が始まります。
明治に入り、休暇をとり母国に帰ります。
1870年11月(明治3年)賜暇を終えて日本に戻ったサトウさんは、
維新後の混乱する明治政府要人と英国の関係を確立する為に(代理公使)アダムズの通訳官として明治天皇、木戸孝允、岩倉具視らと会見、他新政府の要人(大隈重信、山尾庸三 他)と個人的に精に会い議論も重ねます。
同時に、関東一円を旅行し日本理解に努めます。この頃に出会った日本人女性「武田兼」さんと結婚しさらに日本への理解を深めます。
その後、シャム、ウルグアイ、モロッコの領事代理、領事を歴任し日本に戻ります。

(駐日特命全権公使)
1895年(明治28年)7月28日から1900年(明治33年)まで
サトウさんは駐日特命全権公使として東京に居を構えます。
この間、日清戦争、治外法権の撤廃(日英通商航海条約)などに立ち会い、
1904年(明治37年)2月8日に始まった
事実上の英露代理戦争だった「日露戦争」前の重要な外交判断を行っています。
同時期に日本にいたグラバーがビジネスで政治に関わり、サトウさんは外交官として日本外交に関わっていきました。

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(日本研究の先駆者)
サトウさんは「英国における日本学の基礎を築いた」とも評価されています。
『英和口語辞典』『中部・北部日本旅行案内』『神道論』なども表し
英国の日本政策の一級資料にもなります。
彼は、全権公使時代の約5年、公私共に何回も横浜に出かけます。
彼の日記に、横浜の文字がでない月はありません。
例えば
1897年(明治30年)1月4日
横浜に行ってリード家で夕食をしてディンスデイル夫人の芝居「シンデレラ」を見に行く。大変面白かった。

芝居好きなサトウさんは、多くの友人と「横浜」での食事を楽しんでいます。
彼の好んだメニュー 再現できませんかね!?

(最後に)
ちょっと長くなってしまいましたが 駆け足でサトウさんのこと紹介してきました。
Ernest Mason Satowは Sirとなり枢密顧問官となります。
ローレンス・オリファントの著作「エルギン卿遣日使節録」を読んで日本に憧れ、

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1861年イギリス外務省(領事部門)に通訳生として入省した一般公募の職員だったのです。駐日公使オールコックとの出会いで清国北京で漢字学習に従事するところから彼の人生が開けます。
まだまだ階級社会だった英国で、サトウさんはまさにシンデレラボーイでもあります。
私も一部の資料しか読んでいませんが、横浜とサトウさんの関係は深いので、もっと多くの方にサトウさんを知って欲しいと思います。

No.234 8月21日(火)パーセプションギャップの悲劇

1月 28

No.391 謎解き馬車道

昨年の1月25日のブログで「No.25 1月25日 馬車道の華」と題して、
横浜 馬車道を紹介しました。
今日は、馬車道本通から脇に入った小さな通りを紹介しましょう。

(横浜ツウの通)
馬車道の面白さは、本通りは勿論ですが、クロスする通りと裏通りに魅惑的なお店が多くあるのが“良いですね”
馬車道あたりを自在に飲み歩く方は、本当の横浜ツウかもしれません。
紹介したくない良い店も多くあります。
バー、ジャズ、焼鳥、ミシュラン、串焼き、小料理、うなぎ
キリがありません。
お勧めできる!超有名どころを紹介します
食事なら
「勝烈庵」棟方志功でも有名!
http://www.katsuretsuan.co.jp

スイーツとティータイムには
「馬車道十番館」


http://www.yokohama-jyubankan.co.jp/basyamichi/
意外?「半どん」
http://www.yokohama-jyubankan.co.jp/handon/index.html

ビールと食事なら
「驛の食卓」(横浜ビール)
http://www.umaya.com
※他は狭いエリアです。じっくり探してください。
 いい店50軒は下りません。

馬車道関連ブログ
No.25 1月25日 馬車道の華

No.307 11月2日(金)日本波止場に万国橋

No.321 11月16日(金)吉田くんちの勘兵衛さん


(プロローグ)
では馬車道を紹介?
http://ja.wikipedia.org/wiki/馬車道_(横浜市)
読んでください。なんと乱暴な。
でも簡潔にまとまってますので、馬車道歩きにはこの位の知識は頭に入れておくと
酒も食事も、街歩きも楽しくなります。
wikiに無い馬車道情報を少し追加しておきます。

(馬車道の登場)
馬車道が登場したのは、横浜の大火がキッカケでした。
1866年11月26日(慶応2年10月)に末広町の辺りで火災が発生し、折の大風に煽られ大火となります。これが俗に言う「豚屋火事」と表記されてきましたが、近年→特定の職業や人名ではなく時代や場所で「慶応の大火」と表記します。
この火災で日本人街の大半、外国人居留地の一部を焼失します。当時、横浜公園あたりは大遊郭ゾーンで、その数は15軒、当時331人の遊女が勤務していたと伝わっています。この遊郭ゾーンは、この火事で完全焼失します。
この火災を重く見た外国人が、木造建築の危険性を指摘し、防火ゾーンや道路等々のルールを日本に求め、慶応2年の12月29日に「横浜居留地改造及び競馬場墓地等約書」そういう約書が外国との間に締結されます。
この約書が日本の近代都市経営の始まりと言われています。大火後の街づくりが始まり、現在の関内地区の原型が出来上がります。海岸通から吉田町まで幅員60フィートに拡張された道路を計画し、1867年(慶応3年3月)に馬車道が完成します。
この道路を外国人たちの珍しい馬車が行き交い、1869年(明治2年)には吉田橋わき、現在の真砂町4丁目に、成駒屋(なりこまや)と称して、乗り合い馬車の発着所が開業するなど交通の要衝にもなります。
横浜、東京、日本橋間を4時間で結んだそうです。
最盛期には御者が25人、馬が60頭で営業しますが、明治5年の鉄道開通で廃業することになります。
これが乗り合い馬車の始め、馬車道が一番“馬車道らしい”時代だったかも。

当時は、外国人客が波止場(新港埠頭)、センターピアーから萬国橋を通ってまっすぐに来られるので、当時は海岸からの縦軸(馬車道)と、横軸(ウェルカム弁天通)が横浜一の高級商店街でした。
鬼瓦を葺いた2階建て黒塗りの土蔵造りが見事に家並みをそろえて、街並みの中央を貫く砂利道の馬車道の両側には柳の木が植えられ、夜にはガス灯に明かりがつき、また馬車の鉄の車輪からも火花が出て、夕闇迫るころはなかなか風流な街の情景がさらに人を引き寄せました。
明治元年、下岡蓮杖が太田町に写真館を開き、町田房造が5丁目に氷水店を開業し「アイスクリン」が登場した通りでもあります。
ちょっと長くなってしまいました。
(裏辻の物語)
さて、裏通り物語ですが いろいろあります。
恐らく、馬車道と裏通り関係で数冊の本が作れるのではないでしょうか?
今日は「馬車道六道」を紹介しましょう。

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地図上は7叉路になってますが。日本では七より六の方が深い!

馬車道の一本裏通りに、「六道の辻」という一角があります。
その名の通り、当時六差路(正確には七)がありこの名が付いたと思われます。
「六道の辻」で有名なのは京都の古刹、「六道珍皇寺」の門前です。
毎年8月におこなわれる京都の六道詣りは有名です。
六道というのは仏教用語で、冥界と現界との分かれ道を現し、
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上への分かれ道が「六道の辻」にあたります。

ある意味で彼岸とでもいいましょうか、世界の分かれ目の意味合いもあったのではないでしょうか。

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六道の辻は現世とあの世の境目、人はそこを通ってまた生まれ変わる。
堅実?に生きる日常から離れ、
酒と宵闇が非日常の空間を作り出す
別な角度からは、居留地(外国)と日本人街の境目、関内と関外の境目あたり
という意味でもこの馬車道裏が「六道の辻」というのは偶然でしょうか。 

もう一つ、因縁があります。天然理心流の剣豪、近藤勇が率いる「新選組」が会津京都守護職の信任も厚く「誠」の旗風堂々と一剣をもって王城の治安を守り、特に池田屋事変で勇名をとどろかせた話は良く知られています。
そのメンバーの一人に川村三郎という人物が居ました。nn-E5-B7-9D-E6-9D-91-E4-B8-89-E9-83-8E

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新撰組では「近藤 芳助」と名乗っていました。
22歳で新選組に入隊し階級は伍長でした。彼と馬車道には細い糸の関係があります。

http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/essay/pdf/asadayasuo.pdf
これによると
元新撰組伍長は、戦い破れ官軍に捕まり静岡藩預かりとなった後、京都へ送られて取り調べの後1870年(明治3年)に釈放されます。
文明開化の横浜市南大田町に暮らし代言士(後の弁護士)を開業します。
明治二十四年十二月刊行の交詢社「第二版日本紳士録」には、土地家屋賃貸業、(株)横浜四品取引所、(株)横浜株式米穀取引所の各理事、横浜商業銀行および横浜時事新報の各役員を務め、また横浜三争件の一つ共有物問題の追及で名をあげたと記されています。
1887年(明治20年)当時少数派の自由党に籍を置き、民権家として活躍する一方神奈川県議会の横浜区補欠選挙に初当選し、県会議員四期、横浜市会議員五期を歴任した人物でもあります。
彼は高島嘉右衛門とも親交が厚く、
高島は「ガス事業(灯)」、
川村は「水道先生」のあだ名を持ち水道事業で活躍したそうです。
勝烈庵さんの前には水道局の獅子栓が設置されています。
現在「六道の辻の記念碑」が建っていますが、すこし“移動”した位置になっています。

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碑のある角にある勝烈庵の前には「ハマの街灯点火の地」の碑があり、この川村氏の子孫が関内六道の辻近くに「川村歯科医院」を開いていました。
(写真検索中 後日アップ予定)
現在は移転されたのでしょうか、見当たりません。

(夜な夜な馬車道)
昼間のしがらみを忘れ!
天道を目指し 地獄に落ちる 馬車道六道の辻あたり
最近“渡って”いませんので 黄泉渡りを再会しますか。

(新撰組と六道)
この辺りの六叉路を自然に「六道の辻」と読んだことで「ろくどうのつじ」となったのが命名の理由とのことですが、
不思議なことに新撰組と六道は関係深いのです。
栃木県宇都宮市に戊辰戦争の戦死者を弔う神社があり
この辺りを「六道の辻」と呼びます。
※行ってきました
六道之辻(戊辰之役戦死墓)

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宇都宮城

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※宇都宮は慶応4年4月(1868年5月)には戊辰戦争の戦地となり、宇都宮城の建造物は藩校修道館などを残して宇都宮の町並み共々焼失した(宇都宮戦争)。
この時、宇都宮城下戸数約3,000戸のうち8割以上の約2,000数百戸が焼失し、また寺町群も48寺院が全半焼したと伝えられる。

1月 27

No.390 危なくない?デカ。

幕末の10年、そして明治以降の10年は日本の激変の20年でした。
特に開港場だった横浜はそのど真ん中です。
今日は、横浜から始まった明治の近代警察について簡単に紹介しましょう。

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加賀町警察

神奈川県警が発足して139年、来年2014年には140周年を迎えます。
起算の根拠は、1874年(明治7年)6月1日、横浜の堺町二丁目に当時29,000円余りの予算を使って邏卒本営(警察本部)が建てられたことに始まります。
この日を「近代警察 神奈川県警」の始まりとしています。
邏卒本営の建った横浜区堺町二丁目は現在の日本大通り横浜地裁と横浜公園の間あたり“日銀横浜支店”あたりではないでしょうか。

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この邏卒本営(らそつほんえい)が
1877年(明治10年)1月25日に堺町警察署となり、
ここから加賀町、伊勢佐木などの警察署が分署していきます。

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同じ年の翌2月に、長者町、松影町、戸部、高島町、山手に警察署が置かれ
堺町と合わせ最初の六分署がスタートします。
明治期に何回か統合・分離を繰り返しますが
戦後、概ね各区に一つずつ設置されました。

現在、横浜市内には21の警察署があります。
中区には歴史的背景から4つも警察署があります。
筆頭警察署として関内エリアを管轄とする
「加賀町警察署」は堺町警察署に統合される前は「居留地警察」でした。
映画「霧笛が俺を呼んでいる」や多くの映画に登場しています。

「山手警察署」は“ドラマあぶないデカの舞台”ともなった警察署で、居留地警察の分署だった時代もあります。
戦後 米軍基地を中心に管轄していたので「エリヤX」という謎の南区のエリアも管轄しています。
※余談
謎の「エリヤX」
横浜市南区 「山谷」および「平楽」のうち(在日米軍の住宅専用地区「根岸住宅地区」通称エリヤX)は南区の「南警察署」ではなく(エリアONEお得意の?)山手警察が管轄しています。→現在返還が決定しています。

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関外エリアを管轄とする
「伊勢佐木警察署」は、堺町警察署の源流を組む署で、1882年(明治17年)に吉田橋南詰、現在の伊勢佐木タクシー乗り場あたりに設置されました。この時、長者町署が廃止され、伊勢佐木警察の管轄となりました。その後、山吹町に移転し現在にいたります。

そして港町らしい警察署が
「横浜水上署」です。
主に港湾内の警察業務を行いますが、
管轄は陸上エリアもあります。
中区内の大桟橋ふ頭、新港町、新港ふ頭、山下ふ頭、神奈川区内の瑞穂ふ頭、鈴繁ふ頭、山ノ内ふ頭等の一部
河川の大岡川、中村川、帷子川、入江川、鶴見川の一部も入っています。

「横浜水上署」も
「居留地警察」に似て、1868年(明治元年)に外国船を中心に警備する水上見張所がルーツとなる歴史在る警察署です。海の管轄区域は鶴見区から金沢区までの横浜港湾全域をカバーしています。

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(邏卒)
最後にら邏卒(らそつ)について少々触れておきます。
ら卒とは、Patrolmanを訳した
「巡邏番卒」の略で、Wikiには
「1871年(明治4)10月東京府で3000名の邏卒を設けたのが最初。」とありますが、
「神奈川県警史(上)」には1871年(明治4年)8月に、睦奥宗光がこれまで使っていた県兵を止め、独自に3階級の取締役(呼称はポリス)を5区域に配置したとあります。これが名称こそ邏卒に変わりますが、近代警察のはじまりといえるのではないでしょうか。
全国的に、明治維新になりそれまでの全国諸藩が独自に警察権を行使していた制度を中央集権に改めようとしますが、かなり混乱が起きたようです。
横浜は、その点過去のしがらみもなく、かつまた多くの外国人(要人)を居留地にかかえていましたのでいち早く先駆的警察制度が整備されます。

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初代県令だった陸奥宗光が、
優秀な部下二人「大江卓」「石田栄吉」に命じ、先進国の警察制度を研究し新しい制度設計を行い、警察組織の制度改革(制度導入)を政府に上申し認められます。
そして東京(日本政府)が近代警察制度を全国に整えることとなるのです。
※この時、陸奥を始め神奈川県は居留地外国人(主に英国領事)と、居留地内の警察権を巡って熾烈な議論となっていたこともいち早く外国制度を研究するキッカケとなったことはいうまでもありません。

別の項で紹介しますが
明治維新期、睦奥宗光、大江卓という卓越した行政手腕を持ったリーダーが横浜にいたことは、日本にとっても横浜にとっても最大級の幸運でした。

No.257 9月13日(水)司法とアジアの独立

No.350 12月15日(土)横須賀上陸、横浜で開化。

1月 26

No.389 横浜の性愛空間

今日は、横浜のラブホについて紹介します。
日本最初のワンルーム・ワンガレージ型ラブホは横浜から始まりました。
“横浜初”のまえに、ラブホの現状について調べてみました。

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ここは鶴見市場のラブホで、横浜初ではありません。

ラブホテルと一般的に表現しますが、
変幻自在、時代や地域によってその名は変わります。
風営法では規定が一応ありますが、私たちはラブホを構造や経営形態では分類していません。
この分野に真正面から民俗学的に研究している第一人者がいます。
“金 益見(きむ いっきょん)”さん
http://ja.wikipedia.org/wiki/金益見

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彼女はラブホのような空間を「性愛空間」としました。
的確な表現ではありますが、直接的でもありますのでここではラブホとします。
ラブホ的空間は
江戸時代から「出会い茶屋」と呼ばれた商いがありました。
明治に入り「温泉マーク」「逆さクラゲ」
そしてストレートに「連れ込み」の表現で使用される時期が長く続きます。
戦後モータリゼーションの進展から、道路沿線に
モーテル、モテルと呼ばれる空間が登場するようになります。
一方で、駅裏や繁華街の一角に従来の旅館がスタイルを変え
アベックホテル、そしてラブホテルと表現されるようになります。
しばらくラブホ、ラブホテルの時代が続き
 1984年の「風俗営業等取締法」全面改正あたりから
この業界の再編成が始まります。
カップルズホテル、レジャーホテル、ファッションホテル、
ブティックホテル、アミューズメントホテルと新しい呼称に変化していきます。

「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する条例」(いわゆる「風営法」)で、ラブホテルが全面的に規制の対象とされるようになり、年々県単位で条例が成立し新規開業が厳しくなってきています。
(最近ではこの風営法のもとのダンス禁止が議論を呼んでいます)
http://houmu.h-chosonkai.gr.jp/siryoukan/fukusisi%20jissenjyourei%208.htm

(横浜市内では)
横浜市内のラブホ数は?
正確にはわかりませんが、HPから横浜市内のラブホとされている
ホテルをピックアップたところ150ありました。
 ざくっとマップ化してみました。

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■立地
マップから分布特性から分類すると下記の3つに分けることができます。
●高速道路インターチェンジ立地
 東名高速道路「横浜インター」周辺に集中

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※1990年代に一度ラブホのオーナー取材をした経験があります。この時に何故インターチェンジ近くに<ラブホ>が集中しているのですか?と訪ねたところ
「隣町ニーズですね」と迷い無く返答されたことに驚いた記憶があります。インターチェンジ立地は高速道路ですから利用層は遠方からと想像しがちでしたが 圧倒的にご近所ニーズなんだそうです。どうやってご近所と確認したのか?正確に教えてはもらえませんでしたが、どうやら車のナンバーを記録してマーケティングリサーチをしたらしい…。
この他 色々伺いましたが、この話は別チャンネルにしましょう。
も一つ、インターチェンジエリアは出店規制が緩い、風営法上の制限をクリアできるからだという理由もあるようです。

●街道沿線立地
 鎌倉街道沿いに多く立地

●駅裏・繁華街立地
 新横浜駅周辺、横浜駅周辺に集中

■よこはまラブホはじめて物語
1968年(昭和43年)横浜に日本初のモテル型ラブホが登場しました。
横浜新道「国際ゴルフ橋IC」入口にオープンした「モテル京浜」です。
現在は環状二号線が交差する「今井IC」(2001年(平成13年)9月28日開通)になり「ホテルニュー京浜」となっています。

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「国際ゴルフ橋IC」は名門“ゴルフ場”の入口インターチェンジとして横浜新道の開設と同時にオープンしました。
ここに開業した「モテル京浜」は、日本発のカップル型のモテルとして、一世を風靡します。
■オーナーはこの業界の伝説的人物
 中嶋孝司氏
(1924年(大正13年)5月27日加賀市生まれ2003年(平成15年)12月22日に死去)
で、中学校教師、ダンス教師を経てモーテルを経営し風俗研究家、健康評論家そして推理小説家としても「日本推理作家協会」メンバーとして作品を残す多才な事業家でした。
元々、中嶋孝司さんはアメリカ型モーテルであるワンルーム・ワンガレージ型の第一号を導入します。
1963年(昭和38年)地元、石川県にオープンした「モテル北陸」は、一人(シングルルーム)から家族まで多様な宿泊ニーズに応える客室を用意し、長距離のトラック運転手や、当時盛んになりはじめた“自動車旅行”のニーズを見込んでの事業展開だったそうです。
事業は大成功し、行列ができるほどの盛況となりますが、利用者のほとんどがカップルだったことに着目し日本発のカップル型のモテルの開設に踏み切ります。

1968年(昭和43年)7月5日 横浜新道が第三京浜と繋がります。
環状八号線野毛から横浜を結ぶ第三京浜道路との連絡路が開通し、湘南と東京が結ばれることで、ドライブ層が一気に増加します。

No.351 12月16日(日)戸塚踏切をなんとかしろ

中嶋孝司さんの読み通り、切り通しの新道にひときわ目立つ「モテル京浜」はモテルブームの火付け役となり、全国にワンルーム・ワンガレージ型が拡がります。

■警察と住民と
その後、ワンルーム・ワンガレージ型は売春・犯罪の温床にもなりまた住宅環境も悪化することからモテル側と規制の追いかけっこが始まります。
郊外型は、一般街道から姿を消しつつ高速道路のインターチェンジ付近に集まるようになります。
一方で、駅裏・繁華街系も陰のイメージから豪華さや快適さを競うようになります。
「カップルズホテル、レジャーホテル、ファッションホテル、
ブティックホテル、アミューズメントホテル」等など
一時期は、資金回収率の良さからファンドの投資対象にもなりますが、新規開店が厳しくなった現在、既存のラブホの吸収・系列化が進んでいるようです。

1月 25

No.388 あらためて横浜市歌

このブログでも何回か「横浜市歌」を取上げています。
今日、あらためて横浜市歌をラジカルに紹介します。

現在の横浜市歌は原曲ではありません。
まずこの情報が広く明示されたのは何時からでしょうか?
少なくとも私の記憶では 比較的最近のことではないでしょうか。
(教育委員会には問い合わせていません)

 

横浜市歌は、開港50周年に制定されました。
作詞は森 林太郎(鴎外)
作曲は南 能衛ですが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/南能衛

一部変更を 小船幸次郎以下「市歌普及委員会」が行いました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/小船幸次郎
この編曲については小船幸次郎について書かれた文献「市民とオルガン」で一部触れています。他の情報もありますが、ここでは下記のみ掲載します。

(市民のオルガン 神奈川新聞社 刊)

良い悪いの問題ではなく、もう少しきちんと説明をする必要があると私は思います。
たしかに、教育委員会のHPにはPDFで一枚の説明書がリンクされていますが、少なくともオリジナルの提示とどこを変えたか横浜市は明示することが教育的な見地だと私は思いますが。(オリジナルが聞きたい!)
http://www.city.yokohama.lg.jp/kyoiku/gakusyu/sika/pdf/sikatebiki.pdf

とはいえ、全国3,447市町村ありますが、小学校からオトナまで歌っている市歌は 横浜だけですね。おそらく。
他府県の人は「うちの市では無い。市歌すら知らない」が大半です。

横浜市歌の真実

横浜市歌の真実

横浜ラプソディ 横浜市歌を巡る前編

横浜ラプソディ 横浜市歌を巡る前編

横浜ラプソディ 横浜市歌を巡る 後編

横浜ラプソディ 横浜市歌を巡る 後編

No.183 7月1日(日) 7月のハマ?

No.332 11月27日(火)おやかた、濱で一振り。
No.334 11月29日(木)歌の横浜

http://www.youtube.com/watch?v=pGDGrZBr7tI
http://www.youtube.com/watch?v=wm81P7iRicc
http://www.youtube.com/watch?v=lUEjYuEBOig
http://www.youtube.com/watch?v=7Pg7-xw0vrE
http://www.youtube.com/watch?v=b5OdOaN8ejI

■あらめや音頭
http://www.youtube.com/user/masaruarameya
■横浜市歌ブルースバージョン  中村裕介
http://www.youtube.com/watch?v=R_Fu7Wf06wo

1月 24

No.387 謎解き野口英世(追記)

野口英世と桜木町の関係を芋づる式に繋ぎます。
今日はちょっと“お遊び”します。

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どこまで画像アップが合法なんですかね?

(千円)
1876年(明治9年)11月9日に福島県(現・猪苗代町)に生まれた細菌学者「野口英世」をご存知ですか?2004年より発行されている日本銀行券のE号千円札の肖像にもなっていますから お札を見ればなるほどと思い出す方も多いかもしれません。

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野口英世の略歴は以下の通りです。
「ペンシルベニア大学医学部を経て、ロックフェラー医学研究所研究員。細菌学者として数々の論文を発表し、ノーベル生理学・医学賞にも候補となること三度。黄熱病の研究中、自身も罹患し、1928年5月21日、アフリカのガーナのアクラにて死す。栄典は、正五位・勲二等・旭日重光章。学位は医学博士(京都大学)、理学博士(東京大学)。称号はブラウン大学名誉理学博士、イェール大学名誉理学博士、パリ大学名誉医学博士、サン・マルコス大学名誉教授・名誉医学博士、エクアドル共和国陸軍名誉軍医監・名誉大佐。キリスト者。 妻はメリー・ロレッタ・ダージス。 学歴は、猪苗代高等小学校卒業、済生学舎(現在の日本医科大学)修了。」

(横浜勤務)
福島県人には申し訳ありませんが、野口英世は後世伝記となった美談とはかなり異なるキャラの持ち主で、特に放蕩癖は様々なトラブル、スキャンダルを起こしています。しかし、一方で豪放磊落、憎めないキャラでもあったようで、周囲に救われて様々な偉業を成し遂げています。
野口が横浜に来るキッカケも、放蕩が理由でした。

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野口は、血清療法の開発などで最先端を行く北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)に務めていましたが、
1899年(明治32年)5月に事件が起ります。
伝染病研究所の蔵書が野口経由で貸し出された後に売却されてしまうという事件が発覚します。
この事件を問われ研究所内勤務から外されてしまいますが、北里柴三郎の計らいで横浜港検疫所検疫官補となるのです。
※短い期間ですがこの横浜港検疫所(長浜検疫所)が現在記念館として保全公開されています。

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(強運の持ち主)
たまたま、9月に横浜港に入港した“あめりか丸”の清国人乗員にペスト患者がいることを発見・診断します。
この報を聞いた北里は、伝染病研究所に内務省より要請のあった 清国でのペスト対策国際防疫班メンバーに野口を選びます。
野口に失地回復のチャンスを与えたのでしょう。
ところが、放蕩の癖がむくむくと起ります。
支度金96円を出かける前に使い果たしてしまいます。
結局友人の血脇守之助に工面してもらい渡航することになります。この血脇守之助は桁違いの“お人好し”で、彼の月給の一部を学費にしたのを手始めに、自分の手術費・留学中に破棄した婚約持参金300円の返済まで面倒をみています。
アメリカに留学する際に横浜高島の「神風樓」で準備金を使い果たすといった放蕩のエピソードに枚挙にいとまがありません。

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神風樓

それでも、研究分野では世界的評価を得ます。当時のアメリカ医学界では野口を指して「実験マシーン」とも呼ばれノーベル賞候補に三回もなります。

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(米国時代の野口)
1900年(明治33年)放蕩を乗り越え、私費留学生として渡米します。アメリカ人女性と現地で結婚し、1904年からニューヨークにあるロックフェラー研究所に一等助手として勤務、黄熱病などの研究に励むことになります。nnP6292236
1915年(大正4年)勲四等旭日小綬章受賞のため一時帰国しますがすぐに、南アメリカやアフリカなど世界各地を飛び回って研究を続けることになります。
1928年(昭和3年)ガーナで自分自身が黄熱病にかかり死亡します。野口の遺体はロックフェラー財団の費用で厳重にパックされ、アメリカに送られニューヨーク郊外のウッドローン墓地(Woodlawn Cemetery)に埋葬されます。
このニューヨーク時代に出会い生涯の親友となったのが、同郷出身だった星一(ほし はじめ)です。

(星新一・森鴎外)
星一(ほし はじめ)は野口より三歳年下の1873年(明治6年)に福島に生まれます。
若くしてアメリカに渡り、苦学しながらコロンビア大学を卒業します。
帰国後、
1910年(明治43年)に星製薬株式会社を創業し、モルヒネやコカインといったアルカロイドの国産化を行い大成功を収めます。
後藤新平支援者として政敵であった加藤高明に経営妨害を受け個人破産します。それでも再起を目指しアメリカに渡り、そこで客死します。
このアメリカ時代に、野口英世と出会い、親友となります。
野口の一時帰国の費用はすべて星が持っています。
彼の長男が作家の星新一です。
彼の妻の母親(義母)が小金井喜美子で森鴎外の妹です。

少し長くなりましたが、
星一(ほし はじめ)の創業した星製薬株式会社はその後、復活し現在まで継続しています。
ただ、戦後1951年(昭和26年)星一の死去に伴い経営不振に陥ります。
経営を引き継いだ星親一(星新一の本名)が社長に就任しますが改善せず、経営権を大谷米太郎に譲ります。
この大谷一族が経営する「株式会社テーオーシー」が運営するTOCみなとみらいの核となる商業施設が2010年(平成22年)3月19日開業のコレットマーレです。
※追記
2017年(平成29年)株式会社テーオーシーから複合ビル「ヒューリックみなとみらい」となり現在に至っています。繋がりが切れてしまいました。

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ようやく野口英世から桜木町まで繋がりました。
No.89 3月29日 ペスト第一号もYOKOHAMA

1月 23

No.386 清水の次郎長、横浜に通う

今日は、咸臨丸事件でも紹介した「清水の次郎長」の横浜通いの前段部分を紹介しようと思っていました。
調べているうちに思わぬ方向にいってしまいましたので、
こちらから紹介していきましょう。

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まずは共通認識から。
駿府路の大親分「清水の次郎長」のことは、時代劇でしか知らない方が多いでしょう。1820年2月14日(文政3年1月1日)静岡県清水(現在は静岡市清水区)の船持ち船頭の家に生まれ1893年(明治26年)6月12日に73歳で亡くなった実在の人物です。
本名 山本長五郎、幕末から明治にかけての侠客として知られていますが映画に登場する次郎長親分と実像はかなり異なっています。
幕末は侠客(いわゆる やくざ)ではありましたが、明治維新が大きく彼を変えました。幕末の街道警備の任に就いたのがきっかけで、地元の発展に奮闘努力した人物です。

関連ブログ
No.174 6月22日(金) しみずみなとの名物は?

No.262 9月18日 (火)咸臨丸の真実!

No.359 12月24日(月)咸臨丸始末記2

No.112 4月21日 濱にお茶は欠かせない

No.314 11月9日 (金)薩長なんぞクソクラエ

(横浜との関係)
彼と横浜は意外なつながりを見せます。
清水の次郎長と横浜の関係で代表的な話しは
明治時代に入り横浜と清水をつなぐ定期航路線を営業する企業「静隆社」を立ち上げ、貿易港としての清水港の開発に尽力したことです。
明治中頃まで横浜港を基軸に対米輸出の代表格だった「日本茶」の大半は静岡茶でした。この静岡茶を清水港から横浜へ運び、加工し主にアメリカに向け輸出されました。
横浜開港とお茶の関係は深いのです。

後にこのお茶は、直接清水港からアメリカに輸出されることになり、横浜とお茶の関係は「生糸」の演じた役割ほど重要さを持たなくなりますが、明治初期の横浜と静岡は深いものがありました。(駿河銀行が古くから神奈川県庁の中に支店を出しています。)

実は、静岡は茶の名産地でしたが、大量に米国に輸出するには「茶畑」の拡大が必要でした。
一方、静岡県東部は徳川幕藩体制のお膝元でもありましたので、明治維新以降最後の将軍徳川慶喜が静岡に“蟄居”したあと、職を失った幕臣達が静岡に移住します。
清水の町を例に挙げれば、900戸程度の漁村だったところに2万人の幕府関係者が職のあてもなく移ってくる訳ですから、横浜とは違ったあたらしい“まちづくり”が求められました。
渋沢栄一を始め、多くの優秀な幕臣の尽力で静岡の旧幕臣たちは生活基盤を築きます。その下支えとなった地元民の筆頭格に清水次郎長がいたのです。

(高島嘉右衛門)
清水の次郎長と交流の深かった横浜経済人の一人が
(政商)高島嘉右衛門でした。
高島嘉右衛門の活躍についても今年のブログでじっくり掘り下げますが、つい最近まで地元でも部分的にしか知られていなかった人物です。
ここでは簡単に足跡のみ紹介します。
次郎長が横浜に通った相手は高島嘉右衛門だけではないと思いますが、かなり互いの信頼感を築いたようです。次郎長の横浜での逗留先は
「神風樓」でした。

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1876年(明治9年)の記録に蒸汽船靜岡丸が清水港と横浜港間に就航し靜岡茶を横浜に運ぶルートが開かれたとあります。
次郎長は頻繁に横浜に行き、神風樓に宿泊、横浜商人と清水港廻船問屋経営者を結びつける役割を担っています。
このときの横浜側のフィクサーが高島嘉右衛門だったようです。
次郎長57歳の頃です。
実は明治9年頃は横浜の高島嘉右衛門不遇の時期で、大綱山荘(現・横浜市神奈川区高島台)に一時隠棲していた時期にあたります。
ある意味ワンマンベンチャー経営の高島が関わった多くの事業が、横浜経済の安定により頓挫します。
清水の次郎長との出会いは、高島にも新しい視点を与えたのではないでしょうか。
語学中心の藍謝堂(通称「高島学校」)の失敗談を次郎長に
酒でも酌み交わしながら語ったのかも知れません。
この頃に清水の次郎長は「これからの若い者は英語を知らなきゃだめだ」 と、幕臣新井幹の開いた私塾「明徳館」の一室を使い近隣の青年を集め英語塾を開設します。ここから巣立った三保村の青年「川口源吉」は横浜からひそかに外国船に乗り込み、ハワイへ渡ります。
船中で次郎長の英語塾で習い覚えた英語を活かして無事ハワイに上陸し、移住者として成功したそうです。
彼は明治20年代に郷里三保村へ帰り、体験談を近所の者に語ります。これがキッカケになったかどうかわかりませんが静岡三保村からのハワイ移住者数は数千人にのぼり横浜から出発した移住者で静岡出身地としては突出しています。現在でも、源吉の生家はハワイさんと呼ばれているそうです。
また次郎長は、1878年(明治11年)に清水波止場の建造を推進します。次郎長の青写真には横浜のまちづくりの影響か高島嘉右衛門のアドバイスが生きていたのかもしれません。

(冨士の裾野開墾)

高島嘉右衛門は、清水次郎長の勧めに応じて彼が失業者対策に起こした富士の裾野開墾事業で開発された土地を購入しています。
次郎長は、冨士の裾野の開墾事業に多大な功績のあった人物です。
現在「富士急静岡バス 大渕線」に「次郎長」「次郎長東」というバス停が残っています。

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次郎長会館という名もあり、高島嘉右衛門同様に、開墾者の名が残されています。次郎長が開墾した裾野の北部にある神道天照教の本部には現在も高島嘉右衛門お手植えの桜木が樹齢100年を超えてのこっています。(桜の名所ということですので一度確認に行ってみたいと考えています)

この後 止めども無く話しは続きますので今回はここまでにしたいと思いますが、調べているうちに
ここに「植木重敏」なる人物が登場します。
清水の次郎長を見取った医師です。清水の医師会会長も務めた「植木重敏」は、高知出身で東京帝大医学部を卒業し
次郎長との劇的な出会いで 郷里高知に帰らず清水で開業します。
「次郎長が横浜から清水へ帰る時、船の中で一人の医者の卵と同席した。次郎長のすすめでその医者の卵は清水で下船し、医師を開業したという。」
植木重敏医師は、横浜港から次郎長と船旅を共にしますが、
彼は明治31年頃「横浜黴毒病院院長」を務めていた記録が残っています。
※(追記)第六代院長として1896年(明治29年)9月から1901年(明治34年)まで着任。
 ←ご家族の方から情報提供いただきました。

早矢仕有的も務めた「横浜黴毒病院院長」は当時最先端の感染病専門病院で、ここの医院長を務めた人物が清水の医療と関係があったことも
今回の新しい発見として 今日は ここまで。