3月 31

No.435 【横浜の河川】大岡川物語(1)

大岡川、横浜開港史を語るには欠かせない川です。
多くのエピソードが満載です。
熱狂的なファンの多い「大岡川」を今日は断片的ですが
紹介しましょう。

bb-E5-A4-A7-E5-B2-A1-E5-B7-9D50493

横浜市内を流れる河川水系は大きく4つに分けることが出来ます。
1.鶴見川水系(一級河川)
 市内唯一の一級河川です。→鶴見川については
 4月に紹介します。
 No.370 1月4日(金)鶴見川 輪下り絶景
 
2.帷子川水系(二級河川)源流は旭区若葉台近辺から
 No.433 帷子川物語(1)
 
 No.434 帷子川物語(2)
 
3.大岡川水系(二級河川)源流は磯子区氷取沢町円海山近辺
 今日の主人公です。
4.境川水系 (二級河川)源流は町田市相原町近辺
 横浜市境を流れ、支流の柏尾川は戸塚の歴史と共に歩んできました。
 →境川も4月中に紹介します。左馬神社もありますから…。
(大岡川は不思議な川です)
下図をご覧下さい。

bb-E5-A4-A7-E5-B2-A1-E5-B7-9D-E6-A8-A1-E5-BC-8F-E5-9B-B3

大岡川水路模式図を作ってみました。
シンメトリー(左右対称)でしかも
分水路が同じような位置にあるって
見事ですね。
ということで
この川沿いに自転車で走破してみました。

blog-E5-A4-A7-E5-B2-A1-E5-B7-9D-E5-91-A8-E9-81-8Achari

途中、笹下川から分水路沿いに山越えがキツかったですが
概ね川筋は勾配もゆったりとしていて最高です。
川沿いの道も(とぎれとぎれですが)整備されています。

走行時期にもよりますが
上大岡あたりから水量が一気に減少します。
分水路の効果が出ているのでしょう。
大岡川に架かる橋、ざくっと数えてみました。

bb-E5-A4-A7-E5-B2-A1-E5-B7-9D-E6-A9-8B-E6-A2-81

アバウト100、小さな支流を入れると140位あります。
このツーリングで橋物語も面白いなと思いました。
歴史的に価値のある橋も架かっています。
※浦舟水道橋

bb-E5-A4-A7-E5-B2-A1-E5-B7-9D484

1893年に西之橋として仮設された日本最古のピン結合プラットトラス橋です。
横浜市認定歴史的建造物にも選定された価値ある近代産業資産です。

(分水路)
大岡川には分水路が上流と下流に合わせて二つあります。
下流の堀割川は歴史ある分水路です。

bbhoriwarigawa


流域全長は2.7kmあり、
明治初期に吉田新田を開拓した吉田勘兵衛の子孫が家運をかけて挑み完成させたものです。
「1870年、横浜港と根岸湾とを結ぶ水運と、吉田新田埋立用土砂確保のため、当時の神奈川県知事の井関盛艮が工事請負人を募った。吉田新田を開拓した吉田勘兵衛の子孫がこれに応じ、今の中村橋付近の丘陵を切り下げ、中村川から根岸湾まで運河を開削。その土砂で、当時の「一つ目沼」、のちに根岸線と横浜駅根岸道路の間の吉浜町・松影町・寿町・翁町・扇町・不老町・万代町・蓬莱町となる湿地帯の埋立を行った。滝頭波止場(現在は動物検疫所となっている)が大波で破損するなどしたものの、1874年に完成した。2010年度には土木学会選奨土木遺産に認定された」(Wikipedia)

堀割川の役割は、説明にもありますが、
・水運用の水路確保→本牧鼻迂回
・吉田新田埋立用土砂確保→埋地七ケ町へ
という二つの目的がありました。
磯子、岡村エリアの人々にとって
開港場と磯子の地域を船で結ぶことが悲願でした。
陸路では山越え
海路では 波の荒い本牧沖を回らなくてはならず
内水路が必要でした。
(車の無い時代、水運が最も大量の荷物を早く運ぶことができました)
本来なら、公共事業として 国なり県が行う事業ですが、
この「堀割川」プロジェクトは
「神奈川県知事・井関盛良が堀割の埋立工事を自費負担で行う者が
あれば許可するから申し出るようにと布達します。
長者町に暮らす九代目・吉田勘兵衛が志願し予算は23万5000円、米国人から借金して計画します。(『磯子の史話』より)」
関連資料を見る限り、どうやら「吉田家」は無理してこの事業に参入せざるを得なかったようです。
堀割川造成計画は、山を切り崩し 水路も同時に作りつつ埋立を行ってしまおう
という壮大な計画でした。

(最後は借金の高利子と災害による工事遅延のためと借用金の高騰した利払いで吉田家は破綻寸前となり国の支援でなんとか完成にこぎつけます)
 

一方上流の<大岡川分水路>は
1981年(昭和56年)に大岡川の洪水を防ぐために作られた人工河川です。
延長は3.64kmあり磯子湾に繋がっています。

bbP7103141

日野川と笹下川、二つの川から水位が上昇すると自然に分流される構造になっています。

bbP7103108
bbP7103118

改めて見学!というほどでもありませんが
河川工事の凄さを実感できる構造を観ることができます。

bb-E5-A4-A7-E5-B2-A1-E5-B7-9D51065
bbP7102925
bbP7103055
bb-E7-B4-85-E8-91-89-E3-81-AE-E5-A4-A7-E5-B2-A1-E5-B7-9D

第896話【横浜の河川】大岡川物語(2)

第896話【横浜の河川】大岡川物語(2)

3月 30

No.434 【横浜の河川】帷子川物語(2)

No.433に引き続き帷子川を紹介します。
別な機会に紹介する予定でしたが、過去にも紹介すると予告して忘れてしまった例もあり、連続で忘れないうちに紹介しておきます。

bb-E5-A4-A9-E7-8E-8B-E7-94-BA0096

帷子川(かたびらがわ)
現在 横浜市旭区から保土ケ谷区、西区(一部神奈川区)を流れています。
前回紹介した通り、横浜市内のほぼ中央部を西から東に流れています。
江戸時代は 産業の物流動線として活躍しました。

No.433 帷子川物語(1)

明治以降は 帷子川に沿って工業が集中し
物流動線として相鉄線が開業します。
川と鉄道の街として発展してきました。

bbP3280085
相鉄線と帷子川と鴎

相鉄本線の横浜市域エリアは帷子線と表現しても過言ではないでしょう。

■沿線工業史
(駅名は現在のものです)
 判る範囲内で現状も記載しました。
星川駅近辺には
 古河電池横浜工場→住宅地
 日本製糖→住宅地

bb-E6-98-9F-E5-B7-9D-E5-AF-84-E5-A4-A9-E7-8E-8B-E7-94-BA2013-03-30-6.21.16

天王町駅近辺には
 富士(瓦斯)紡績
  1903年(明治36年)操業、1920年(大正19年頃)に最盛期を迎えます。
  従業員6,000名を超える世界最大級の生産量だったそうです。
  1945年の空襲で操業停止し戦後、米軍に接収されます。

bb-E5-86-A8-E5-A3-AB-E7-B4-A1-E7-B8-BE-E6-A8-AA-E6-B5-9C-E5-B7-A5-E5-A0-B42013-03-30-6.29.57


  (→戦後一時 北辰化学工業となりますが、その後大型ショッピングセンターになります)
 大日本ビール→ヨコハマビジネスパーク

bbYBP0038

 宝田石油製油所→?正確な場所を特定していません
 東京電気横浜工場→公団住宅(西久保町公園ハイツ)

bbP1120316

 日本金属横浜工場→テニス倶楽部→マンション
 保土ケ谷化学工業→集合住宅
 日本ガラス(大日本ビールから独立)→住宅?
 保土ヶ谷曹達会社→住宅?

西横浜・平沼駅近辺には
 古河電気工業横浜電線→(一部)TVKハウジング
 →(一部)横浜イングリッシュガーデン
    http://www.y-eg.jp
 東京瓦斯横浜支社(瓦斯工場)

bb-E5-8F-A4-E6-B2-B3-E9-9B-BB-E6-B0-97-E5-B9-B3-E6-B2-BC013-03-30-6.23.00


二俣川駅近辺には
 高梨乳業本社工場
  バラ園で有名です。

No.278 10月4日(木)牛乳は本牧に限る! 

■中流域から上流域の紹介は4月に現地踏破してから紹介します。

(余談)
帷子川は暴れ川でした。
天王町付近は帷子川が蛇行していたんですね!

bb-E5-A4-A9-E7-8E-8B-E7-94-BA2013-03-30-6.30.33
E3-82-B9-E3-82-AF-E3-83-AA-E3-83-BC-E3-83-B3-E3-82-B7-E3-83-A7-E3-83-83-E3-83-88-2013-03-30-7.29.06
上下の地図で比較してください!
bbP1120309
現在「天王町駅」前に昔の橋をモニュメント化しています。
3月 29

No.433 【横浜の河川】帷子川物語(1)

かたびらの衣纏てカッパ住む
帷子川(かたびらがわ)は、様々な歴史物語と共に歩んできました。
カッパ伝説も残っています。水運、工場、街道…
一話では語り尽くせませんが
今日は、帷子川の一断片を紹介しましょう。

bbP7170653
河口付近です

帷子川は、横浜市内を流れる8つの水系の一つです。
この帷子(かたびら)の名は難読地名の一つですが、
歴史を感じさせる名ですね。

E3-82-B9-E3-82-AF-E3-83-AA-E3-83-BC-E3-83-B3-E3-82-B7-E3-83-A7-E3-83-83-E3-83-88-2013-03-29-8.07.41
今回紹介する周辺位置図

帷子の語源は音からきた「からひら」→片平が有力です。
「片方が山で、片方が田畑であったため、昔『かたひら』と呼ばれていた。その地を流れていたので『かたびらかわ』と呼んだのが名の由来だとされている」(Wiki)
江戸時代の頃から「帷子」の漢字が使われてきたそうです。

この帷子とは?
麻や苧麻(からむし)で織った布で仕立てた単衣(ひとえ)のことを江戸時代の頃から「かたびら」と言うようになりました。
古来、装束をつけるときに汗とりとして着たものをさし、材質は生絹(すずし)・練り絹(ねりぎぬ)または麻糸で織った布でした。
色は白が正式なものだったそうですが紅帷子も用いられていました。
古来「辻が花」の柄は帷子(かたびら)に紅を基調にした草花文様を染め出したものです。
※縫い締め絞りによる「辻が花染」とは異なります。
このように
帷子の名は、染め布のことを指しますが
明治以降「帷子川」は横浜を代表する地場産業「捺染」を育てた川でした。
→横浜捺染(別テーマで特集します)

bbP7170015

横浜には8つの水系があります。
No.378 1月12日(土)川辺の横浜

さらに大きく分けると4つのグループに分けることが出来ます。

bb-E6-B0-B4-E7-B3-BB-E3-82-A8-E3-83-AA-E3-82-A2-E5-9B-B3

図のように
帷子川は、ちょうど横浜市域の真ん中を横断するように流れています。
江戸時代中期まで、帷子川は重要な水運の川として活躍し町が開けました。

bb-E5-B8-B7-E5-AD-90-E5-B7-9D-E6-B0-B4-E7-B3-BB
bb-E5-B8-B7-E5-AD-90-E5-B7-9D-E5-8F-A4-E4-BB-A3

特に河口付近(現在の天王町)は、当時深い入江となって、江戸に向けた物流拠点として栄えたそうです。


ところが
江戸時代中期の1707年(宝永4年)に起った
富士山の宝永大噴火で、川と町の様子が一変します。

bb-E5-AF-8C-E5-A3-AB-E5-B1-B1-E9-99-8D-E7-81-B0-E4-BA-88-E6-83-B3-E5-9B-B3fall
現在の予想図です。

新井白石が「折りたく柴の記」
「よべ地震ひ、この日の午時雷の声す、家を出るに及びて、雪のふり下るごとくなるをよく見るに、白灰の下れる也。西南の方を望むに、黒き雲起こりて、雷の光しきりにす。」
と江戸の宝永大噴火の様子を記述しているように、大量の火山灰が神奈川一帯にも降り注ぎました。
この噴火による降灰で、帷子川河口付近に灰が溜まり港の機能を失うことになります。
これをきっかけに、江戸後期に帷子川の入江が整備され芝生(しぼう)村に新しい港ができ、明治まで干拓・埋立が進みます。
開港時、この芝生村が開港場と東海道を結ぶ拠点となります。

bb1856Map-E5-B8-B7-E5-AD-90-E5-B7-9D-E6-B5-81-E5-9F-9F
江戸後半の帷子川流域 かなり河口が変化しています。

かなり“暴れ川”だった帷子川も次第におとなしくなっていきますが、横浜で最後まで
大暴れした川でもあります。
平成に入り 二度の氾濫を起こしました。横浜駅西口(平成16年10月9日)周辺の浸水を記憶されている方も多いと思います。
帷子川のもう一つの特徴が
河口付近の複雑な水路です。

E5-B8-B7-E5-AD-90-E5-B7-9D2013-03-29-7.20.29
E3-82-B9-E3-82-AF-E3-83-AA-E3-83-BC-E3-83-B3-E3-82-B7-E3-83-A7-E3-83-83-E3-83-88-2013-03-29-7.43.46
河口付近拡大図

帷子川本流に支流が
新田間川(あらたまがわ)
石崎川(いしざきがわ)
幸川(さいわいがわ)
と図のように複雑に分かれています。
この水路は江戸時代に原型が出来上がり
明治になり埋立整備が進み現在の流れに固定されました。

それぞれの川には全く異なった風景を見ることができます。
梅も桜も散ってしまいましたが、初夏に散策してはいかがでしょう。

bbP3230701
bbP3280051
bbP3230715
bbP3280061

洪水ハザードマップ
http://www.city.yokohama.jp/me/shobo/kikikanri/hmap/

3月 26

No.432 老松を追い本町に迫る!

昭和の怪僧今東光が1898年(明治31年)生まれた日(3月26日)をネタに昨年のブログテーマ「老松小学校の悪童」にしましたが、
今東光が通った老松小学校について今回改めて調べてみたら
ちょっと面白かったので紹介します。

明治以降、学校制度、学校名がめまぐるしく変わります。横浜の中でも典型的な小学校変遷史を紹介します。まず「老松小学校」の歴史から
1873年(明治6年)4月3日 敬業学
 ※第一大学区第七中学区第九番小学校「敬業学」
 野毛大聖院を仮校舎として誕生します。
1874年(明治7年)10月  敬業自彊学舎
 ※自彊学舎と合併
1875年(明治8年)6月29日 敬業自彊学校
 ※宮川町106号地に新校舎新築し移転
1876年(明治9年)7月神奈川県師範学校野毛坂上級修文館の建物に移転。
 (現在の横浜市中央図書館の位置)
1878年(明治11年)3月  老松学校
1892年(明治25年)4月1日 尋常高等老松小学校
 ※学区は老松町、宮川町、野毛町、福島町、宮崎町、月岡町、花咲町


1898年(明治31年)1月 校舎を新築
1898年(明治31年)4月1日 幼稚園を併設
1923年(大正12年)4月1日 老松尋常小学校
1923年(大正12年)9月1日 関東大震災で校舎倒壊、11月まで野外で授業。
1923年(大正13年)3月10日 十全病院跡地に仮校舎完成。
1927年(昭和2年)4月1日 老松尋常高等小学校
1927年(昭和2年)7月旧老松小学校跡に横浜市立図書館竣工


1941年(昭和16年)4月1日 老松国民学校
1944年(昭和19年)9月20日校舎を「横浜市役所」として使用
 ※老松国民学校は本町小学校に移転し二つの教室を借り開校
  (殆どの児童は疎開)
1947年(昭和22年)4月1日 老松小学校
1947年(昭和22年)5月1日
 ※本町小学校へ統合し現在に至る
そして、市役所に使用した跡地に「老松中学校」ができます。
ここで素朴な疑問が出てきました。
現在中区花咲町の高島嘉右衛門が創設した瓦斯工場跡地にある「本町小学校」はどうして「ほんちょう」なんだろう?
それまで全く気にしていませんでしたが、
本町小学校は 北仲通六丁目七十四番地に

No.428 Y校創設地はどこだ?


横浜商業学校(現Y校)の移転した校舎と「横浜小学校」を改築し
「横浜第一高等小学校」として設立されました。
その後
「横浜市尋常高等本町小学校」→「本町尋常高等小学校」
となり、関東大震災を契機に
1927年(昭和2年)現在の場所に移転しそのまま
「ほんちょう」の名を使用し現在に至っているという次第です。


どちらかといえば地元の老松小学校の名が残らず
本町の名が残ったのは何故でしょう?

No.256 9月12日(火)どこも本庁舎引越は大問題

五代目市庁舎(1944年〜1950年)
 第二次世界大戦下、空襲を避けるため
 野毛山にあった旧老松国民学校(現老松中学校)に疎開し開庁。
 鉄筋コンクリート造3階建て。
 市議会会議場はすぐ近くの横浜市図書館内に設置 
※(推理)
勝手な推理ですが、老松国民学校は1929年(昭和4年)に鉄筋コンクリート造3階建て1,279坪の規模の最新校舎を有していました。
戦火が激しくなる中、「老松」の児童は1944年(昭和19年)8月箱根に集団疎開します。市役所移転が9月20日ですから ほとんど学校の機能を失っていた状態でした。
市庁舎移転には適していたという訳です。
実は 本町小学校も同じ日に箱根へ疎開しその後北足柄村に移動しています。
学校機能が回復したのは 終戦後のことです。
戦後、老松の名は「中学校」に残り

老松中学校
老松中側から野毛坂を臨む

 小学校は「本町」に老松小学校と吉田小学校が吸収合併され現在に至ります。

3月 24

番外編 ちょっと困った横浜町名事情

(昨年 余談で構成していた地名ものを番外編で独立させました)
町名と言えば、横浜市内には不便な町名が幾つかあります。
一つの町が二つの区によって引き裂かれてしまったのです。
住民は町名の継続を願った?かどうかわかりませんが、一瞬間違えそうな町名があります。
特に中区と西区の境界に多くあります。

■町を通りがぶった切る
桜木町一丁目〜三丁目は中区です。
桜木町四丁目〜七丁目は西区です。

花咲町一丁目〜三丁目は中区です。
花咲町四丁目〜七丁目は西区です。

赤門町は中区赤門町 西区赤門町があります

→新しい区制のために泣き別れ
 青葉区・都筑区に引き裂かれた?
荏田町(えだちょう)
 荏田西・荏田北・荏田は青葉区
 荏田南・荏田東は都筑区
 少し前まで都筑区荏田がありましたが「あゆみが丘」に変更されました。
→保土ケ谷区・旭区に泣き別れ!
川島町
※結構広い町域なので、勘違いしたら迷うでしょうね。

■横浜市中区、西区の一部は町名表示が特別!
特別といっても 町名がではなく
他の区と町の並びが異なります。
欧米型というのか、通りに沿って町名が命名されています。
典型的なのが 横浜市中区 関内エリアです。
初めての人は戸惑います。

桜木町は 昔 今の中区から神奈川まで同じ町名だったんです。
blog-25E4-25B8-2589-25E4-25BB-25A3-25E7-259B-25AE-25E6-25A8-25AA-25E6-25B5-259C

 

3月 24

No.431 「みなとみらい」地鎮祭開催

ちょっと刺激的なタイトルにしてみました。
今日3月24日は1989年(平成元年)YES’89 横浜博覧会の開会式が行われた日です。
<開催期間は1989年(平成元年)3月25日〜10月1日>

header
自作です。実際はもう少し右方向にランドマークが見える感じです
nnblog__101
blog-25E6-25A8-25AA-25E6-25B5-259C-25E5-2586-2599-25E7-259C-259F016
山下公園から撮影

このテーマは昨年の今日
No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催

で取上げましたが 再度取上げました。

改めて
「みなとみらい」関係のテーマの多さに自分でも驚きました。
三菱造船所の跡地を再開発した

25E3-2582-25B9-25E3-2582-25AF-25E3-2583-25AA-25E3-2583-25BC-25E3-2583-25B3-25E3-2582-25B7-25E3-2583-25A7-25E3-2583-2583-25E3-2583-2588-2012-10-04-15.10.11

平成最大のプロジェクトではないでしょうか。
スタートと同時にバブルが崩壊し、
お荷物!と批判を浴びながらも 少しずつ進んできました。

E5-9C-B0-E4-B8-8B-E3-83-88-E3-83-B3-E3-83-8D-E3-83-AB

みなとみらいといえば、最新ニュース

横浜・臨港幹線道「開かずのトンネル」も完成から14年目にして開通することになりました。
全長 約1.3キロで、1986年着工1999年に完成しましたが眠っていました。
総工費約300億円、当時は周辺の交通量が当初の予想に満たなかった上、年間約8千万円の維持費がかかるため、開通が見送られてきたという経緯があります?
ここが開通しても この臨港幹線道路全体が開通した訳ではありません。
「横浜市港湾局によると、開通した地下トンネルは片側1車線の市道で、「みなとみらいトンネル」と名付けられた。同市の西区みなとみらい―中区新港間の1・3キロ・メートルを結ぶ。商業施設の密集するみなとみらい21地区(MM21)の中心部の混雑を避けて、その地下を通り抜けられるようになった。同局は1日約5000台の通行量を見込んでいる。」
ということですがちょっと勘ぐりたくなるタイミング?ですね。
(何が? 関内エリアの交通量がぐっと増えますよね。)

nn-E5-9C-B0-E4-B8-8B-E3-83-88-E3-83-B3-E3-83-8D-E3-83-AB116
無理やり探してきた写真です。近々もっとわかりやすいものに差し替えます

※写真 マップは調達が間に合いませんでした。
後日しっかり作ります。

改めて
「みなとみらい」関係のテーマの多さに自分でも驚きました。
今日は「みなとみらい」関係の関連リンクも集めてみました。

No.279 10月5日 (金)赤い靴シティ1丁目 
「みなとみらい」命名のエピソード
No.37 2月6日 都市デザインの実践場

みなとみらい計画について
No.62 3月2日 みらいと歴史をつなぐ道
開港の道について
No.90 3月30日 環状鉄道の夢

このブログトータルで最もアクセスが多いテーマ。
注目度ナンバーワン。理由は何故だか判りません。

No.191 7月9日(火) 宙に舞う話
大観覧車の話

No.58 2月27日 政治家が辞めるとき
基本政策 横浜六大事業

No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催
みなとみらいスタートイベント横浜博覧会開会

No.87 3月27日 (火) 横浜駅のヘソが変わる
横浜駅が変化します!
※この記事も注目度が高いテーマです。

No.200 7月18日(水)無限の境界
「クイーンズスクエア横浜」開業

No.211 7月29日 (日)株式会社横浜国際平和会議場

みなとみらいのコンベンション機能強化

No.220 8月7日 (火)Visit Yokohama MM
みなとみらいホテル建設ラッシュ

No.274 9月30日 (日)巨大資本の東西戦争
横浜駅東西南北競争

3月 21

No.430 鶴見警察署長・大川常吉

今日は連発です。
年表で探しにくい「3月21日」のエピソードです。
この日に因んだ「大川常吉」さんの話しを紹介します。
大川さんは関東大震災の時、流言飛語に凛とした態度で正義を守った人物として、現在まで語り継がれている人です。

横浜市鶴見区潮田にある「東漸寺(とうぜんじ)」本堂横に建つ記念碑には
「故大川常吉氏の碑
 関東大震災当時、流言飛語により激昂した一部暴民が鶴見にすむ朝鮮人を虐殺しようとする危機に際し、当時鶴見警察署長故大川常吉氏は、死を賭してその非を強く戒め、三〇〇余名の生命を救護したことは誠に美徳である故、私たちはここに故人の冥福を祈り、その徳を永久に讃揚する。
       一九五三年三月二一日 
           在日朝鮮統一民主戦線鶴見委員会」

と記されています。


No.245 9月1日(土)災害は忘れなくとも起きる

震災後のパニック状態の中、
約300人の朝鮮人、中国人を暴徒から守った警察官が大川常吉です。
この事を知ったのは 10年前にこの本の著者キョンナムさんのトークショーで紹介された一冊の本「ポッカリ月が出ましたら」からでした。


大川常吉さんは1877年(明治10年)に生まれ、震災時は46歳でした。
大正12年9月1日に起った関東大震災の直後、
「朝鮮人が井戸に毒をいれた。」
「震災の混乱に乗じて日本人を襲ってくる。」
というデマが広がり、全国で朝鮮人に対する迫害、襲撃虐殺事件が起こります。
この朝鮮人に対する流言飛語は、無責任な“新聞記事”も
火に油を注ぐ役割を果たしました。
当時の鶴見警察署は署員30人あまりの今とは比較にならない小さな警察署でした。ここに震災で被災したおよそ300人の朝鮮人・中国人が保護を求めてきました。署長大川常吉さんは、警察署を取り巻いて騒乱状態になっている中で
「持っているビンに毒が入っている。たたき殺せ」という声に
「その井戸水を持ってこい。私が飲んで死ねば朝鮮人を引き渡す。異常が無ければ私に預けよ。」
「私を信頼しないのなら、朝鮮人を殺す前に、この大川を殺せ。自分を殺してから中へ入れ。」
と警察署の入口に仁王立ちで暴徒に冷静さを求めたという事件です。
「どこの国の人間であろうと、人の生命に変わりはない。それを守るのが私の任務だ。」とも語ったそうです。
この碑に記されている
「在日朝鮮統一民主戦線」という厳めしい名は
今緊張感の高まる北朝鮮系「朝鮮総連」の前身ですが、
日本人を賞賛することはかなり珍しいことだと在日の友人も語っていました。
地元では 現在でも語り継がれているそうです。
当時、鶴見町の有力者・町議会議員だった人の日記が残されているそうです。
事件の時、大川署長とまちの人々とのやりとりも克明に記録があるそうです。
日本の小さな街の小さな事件ですが、
 この時代と、人間の尊厳を再確認する 重い事件といえるでしょう。

3月 21

No.429 Y校創設地はどこだ?2

昨日の「Y校創設地はどこだ?」の記事で
叱咤激励のメールをいただきました。

No.428 Y校創設地はどこだ?
「Y校の創設地を調べるなら
Y校の歴史を直接図書館か何かで調べ、もうひとひねりしてほしい。」

ごもっとも
前日の「Y校創設地はどこだ?」の本意は
手元の二次情報で、二つの食い違ったデータの謎解きをする愉しみを追いかけました。
そう データ追跡の基本は「一次情報」にあたれ!
ということなので
一次情報をあたりました。
というか、古書店を巡っていたら
偶然、「Y校八十周年記念誌」に出会いました。

nnWV210032

地味な表紙で ほとんど気がつかない場所での発見です。
※即 入手しました。
そこには、Y校創設期の話しが詳しく記載されていました。

「横浜商法学校」の命名は早矢仕有的で、創設者“美沢進”校長のヘッドハンティング
も彼が小幡篤次郎に伝え、福沢諭吉の快諾を得たそうです。
「横浜商法学校」誕生は横浜町会所の二階で、3月20日開校し
最初の生徒は4名、教員が5名という状況だったそうです。
そこで、25日に急遽夜間部を設け14名の生徒が集まり、現在の定時制部の起源となります。定時制としても日本で初期創設の部類に入るのではないでしょうか。
そして
「11月27日に北仲通六丁目六十八番地」に
新校舎が完成し、移転します。
ここでも 発見です。昨日の「No.428 Y校創設地はどこだ?」
の下になった年表では11月26日となっていました。

nn-25E6-2598-258E-25E6-25B2-25BB15-25E5-25B9-25B43-25E6-259C-258820-25E6-2597-25A5

以上が 「横浜商法学校」設立の顛末です。

nnY-E6-A0-A1-E3-81-AE-E5-A0-B4-E6-89-8028

この「Y校八十周年記念誌」にはその当時の手書き地図が掲載されていましたので転載させていただきます。横浜駅(現桜木町駅)前には噴水がありました。

nnY-E6-A0-A1-E3-81-AE-E5-A0-B4-E6-89-809

ここでもう一つ 個人的大発見。
横浜正金銀行支配人、慶応義塾塾長、交詢社の設立発起人だった小泉信吉(こいずみ のぶきち)の自宅が桜木町一丁目一番地にあったことがこの手書き地図に書かれています。
Y校との関係も深く、強力な支援者でした。

(試練)
1888年(明治21年)3月18日に近所で起った火事で学校が全焼します。
その時、
「学校が焼けたのではないぞ、建物が焼けたのだぞ、解ったか。
 解ったらよい 酒でも飲め」と
美沢校長を強く励ましたのが小泉信吉だったそうです。
隣接地の本町六丁目八十四番地の生糸会社を借りて授業を再開、
一年九ヶ月後、新校舎ができあがり大きな試練を乗り越えます。
さて?
この間借りした生糸会社?
手元資料で調べましたが判りませんでした。
帝蚕倉庫株式會社は創設が大正なので違います。
追跡してみます!

この「Y校八十周年記念誌」にはY校のエピソードが一杯記載されています。
テーマを練りながら 折々に紹介していきます。

No.267 9月23日(日)Yの真価

3月 20

No.428 Y校創設地はどこだ?

タイトルほどの、謎解きではありません。
3月20日のネタ貼に
「横浜商法学校、横浜町会所内に開校」とありました。
あれ?記憶違い?から 謎解きが始まりました。

nnM25-E7-94-BA-E4-BC-9A-E6-89-80400dpi

■横浜商法学校とは、
横浜市立横浜商業高等学校(愛称Y校)の前身です。
Wiki等で変遷を整理すると
★横浜市立横浜商業高等学校は?
1882年(明治15年)3月20日開校の横浜商法学校
→横浜商業学校→本町外十三ヶ町立横浜商業学校
→横浜市立横浜商業学校→横浜市立横浜商業高等学校
と整理できました。
http://www.edu.city.yokohama.jp/sch/hs/y-shogyo/
場所に関しては
1882年(明治15年)
横浜商法学校が設立され,町会所桜上にて授業を開始(3月20日)
1905年(明治38年)
南太田の現在地に校舎が落成し,移転した(9月)
と(Y校のHP)の記事があります。

ところが私愛用の
1892年(明治25年)発行の地図に「横浜商法学校」の記載があったような?
確認してみると

nnY-E6-A0-A1-E5-89-B5-E7-AB-8B-E3-81-AE-E5-9C-B0

北仲に「商業学校」「横濱学校」という記載がありました。
記憶通りではありませんでした。
学校名が違う! 北仲にある学校は?
明治15年の地図には「如春学校」と記載されています。
「本町に小学如春学舎」

nn-E5-8C-97-E4-BB-B2-E5-85-AD-E4-B8-81-E7-9B-AE-E3-81-82-E3-81-9F-E3-82-8A

学制に従い北仲通三丁目に第l大学区、第七中学区、第一番小学壮行学
舎として創立
第二番小学如春学舎(明治6年5月、元弁天の官舎に創設)
第三番小学同文学舎(明治6年6月、住吉町に創設)を併合して
元浜町一丁目に移転、横浜学校と改称

「横浜近代史年表」他の資料から
横浜商法学校は、
1882年(明治15年)3月20日
町会所(現在の開港記念会館)で創立され
11月26日 27日(※修正します)理由は明日を読んでください!
本町六丁目・北仲通六丁目に新築移転

nn-E6-98-8E-E6-B2-BB15-E5-B9-B43-E6-9C-8820-E6-97-A5

とわかりました。

E6-A1-9C-E6-9C-A8-E7-94-BA37
E6-A1-9C-E6-9C-A8-E7-94-BA53

No.267 9月23日(日)Yの真価

No.349 12月14日(金)6人の指導者達

E5-A4-A7-E6-B1-9F-E6-A9-8B-E7-95-8C-E9-9A-88
昭和初期の北仲

【Y校の歴史】
1882年(明治38年)港の有力生糸商人・小野光景らにより横浜商法学校設立。
1888年(明治44年)横浜商業学校と改称。
1905年(明治38年)現在地に校舎が落成し、移転。
1917年(大正6年)横浜市立商業学校と改称。
1924年(大正13年)本科の上に2年制の専修科を置く。神中(神高)戦[2]が開始される。
1928年(昭和3年)専修科を母体に横浜市立横浜商業専門学校(通称Y専)を設置。
1948年(昭和23年)学制改革により横浜市立横浜商業高等学校となる。
1949年(昭和24年)横浜市立港高等学校を統合し、男女共学となる。商業科、普通科、家政科、別科として理容科が設置される。港高校の夜学部を港分校とした。
1950年(昭和25年)港分校は横浜市立港高等学校(定時制)として分離独立した(港高校の復活)。
1982年(昭和57年)創立100周年記念式典挙行。

No.429 Y校創設地はどこだ? 2
3月 19

No.427 横浜で学ぶ(神社編2) 「横浜で鳥居に出会う」

鳥居(とりい)とは、神社の「門」にあたります。
ここから神社の神域に入りますよ!という境目“結界”を示しています。
横浜の神社で鳥居を調べてみました。
まずは名称から

神社には鳥居があります。
いろいろな形がありますが
明神鳥居(みょうじんとりい)
神明鳥居(しんめいとりい)の様式が大半を占めます。

一番多いのが
●明神鳥居(みょうじんとりい)
 日本で最も多い稲荷鳥居(いなりとりい)も明神鳥居の一種です。
 「大明神」とも言われますが
 「ハマの大魔神社」なんてありましたね。

「佐々木大明神」なんて呼んだりして。
 →この様式の変形に稲荷鳥居があります。


  本来は柱と島木(しまぎ)との間に台輪(だいわ)を入れますが、台輪のない
  お稲荷さんもありますね。

神奈川区にある「笠のぎ稲荷」

  赤鳥居で柱の下部を黒塗り板木で巻くのもポイントです。

●神明鳥居(しんめいとりい)
 「伊勢鳥居」とも言います。直線的なフォルムが特徴です。

西区浅間神社境内
鶴見区鶴見市場 熊野神社

 →神明鳥居の中には「外宮鳥居」があります。
伊勢神宮に本宮がありますが、全国的にも少ない「鳥居」の一つでしょう。
伊勢山皇大神宮に建っています。

伊勢山皇大神宮 二の鳥居

【鳥居の雑学】
数え方は、「1基、2基」と数えます。
本殿から一番外側を「一の鳥居」近づくにつれて「二の鳥居、三の鳥居」と呼びます。
地域の鎮守稲荷にはいろいろあります。

青葉区で見つけたお稲荷さん
保土ケ谷区で見つけたお稲荷さん
京急「杉田駅」横にあるお稲荷さん。なぜ?ここに?