6月 25

第894話 【横浜・大正という時代】その1 新港埠頭

今年は横浜市開港記念会館が開館100周年を迎えます。

開港記念会館

1917年(大正6年)7月1日のことです。今年は様々な記念行事が予定されているようです。
この横浜市開港記念会館、竣工当時は「開港記念横浜会館」呼ばれました。
さらに時代を遡れば、当初は「町会所」その後「横浜貿易商組合会館」「横浜会館」となり明治の横浜の商工業界(現在の商工会議所)の<シンボル>でもありました。
残念なことに横濱会館は明治39年に焼失し再建が望まれ完成したのがこの「開港記念横浜会館」です。

第821話 1989年(平成元年)6月16日ドーム復元工事

【謎解き横浜】弁慶の釣り鐘は何処に?

戦前、神奈川県、横浜市など<官>に対して民のモノ言う組織としてアクティブな活動をしてきたのが横浜商工会議所です。開港記念会館は横浜商工会議所の歴史とともに歩んできました。
今回から何回かに分けてこの開港記念会館が完成した大正時代の横浜について自分なりに整理をしていきます。

(大正という時代)
1912年から1926年を元号から「大正時代」と呼びます。近現代の中で最も短い期間ですが、実に変化に富んだ時代でもありました。歴史業界(?)でも大正再評価ブームのようです。
この大正時代 横浜はどんな街だったのだろうか?これが私の歴史的関心事の一つです。
歴史を考える基本作業として 幾つか切り口を設定してみました。
・小横浜
横浜は幕末から開港の拠点となります。
その後、明治維新を迎え、国際港として発展していきますが、<横浜>の町としての行政単位は狭いエリアでした。
国際都市が発展していく過程で、周辺地域が港を支える市街地として<宅地化>していきます。そこで横浜は明治期の終わりまでに二回の市域拡張を行います。
■市域拡張一覧
・横浜市制時(明治22年4月1日)   5.40(平方キロメートル)
・第1次市域拡張(明治34年4月1日)  24.8
・第2次市域拡張(明治44年4月1日)  36.71
・第3次市域拡張(昭和2年4月1日※) 133.88
(※昭和2年10月1日区制施行)
・第4次市域拡張(昭和11年10月1日) 168.02
・第5次市域拡張(昭和12年4月1日)  173.18
・第6次市域拡張(昭和14年4月1日) 400.97
■第二次市域拡張
「久良岐郡屏風浦村」より<大字磯子><滝頭><岡(旧禅馬村の地域)>。
「大岡川村」より<大字堀之内><井土ヶ谷><蒔田><下大岡><弘明寺>。
「橘樹郡保土ケ谷町」より<大字岩間字池上><東台><外荒具><道上><塩田><反町><宮下><殿田><関面><久保山下(現在の西区東久保町・久保町・元久保町、保土ケ谷区西久保町)>を編入します。
市制施行時には横浜港周辺の5.4 km² に過ぎませんでした。
開校以来40年近い時が流れ、明治34年に一回目の市域拡張を行いますが面積は24.8km²。
二回目でも総面積36.71km²でした。
面積は現在の横浜市域の十分の一以下です。
横浜市は 明治・大正、昭和に入るまで小さな街だったのです。
大正時代という視点で考えると、横浜市は明治期に二回拡張を行い、昭和まで拡張されませんでした。この第二次市域拡張エリアが、初期横浜時代の市域でした。大正から昭和にかけて充実する「市電網」は
ほぼ第二次市域拡張エリアと重なっています。

第883話【時折今日の横浜】4月1日年度初め

【番外編】市域拡大は元気なうちに!?

■比較資料として「神戸市」の市域拡張も紹介しておきます
・明治22年4月1日  21.28(平方キロメートル)
※明治22年は全国で市制制度が施行され約40の市が誕生しました。
・明治29年4月1日  37.02
・大正9年4月1日  63.58
・昭和4年4月1日  83.06
・昭和16年7月1日  115.05
・昭和22年3月1日  390.50
・昭和25年4月1日  404.66
・昭和33年2月1日  529.58

(貿易特区)
最近「特区」が話題になっています。明治期に特区といった用語はありませんでしたが、横浜市は開港以来、国際貿易特区として重要な役割を担ってきました。帝都東京に近く小さくも交易港として日本一の取引を誇ります。
ところが横浜港は 港湾機能が国際的には<不評>でした。
港が北向きということもあり強い北風の影響がありました。
明治期に完成した<鉄桟橋>も20世紀に入り急速に発展した巨艦商船時代に対応できず、相変わらず沖に停泊、艀(はしけ)港内を走り回る状況で、新しい大型港湾施設が切望されていました。
実は明治維新以降の日本は国内最大の内戦<西南戦争><日清戦争><日露戦争>など、戦費負担のために国内インフラ整備が追いつかない経済状態にありました。
ようやく新しい港湾施設<新港埠頭>計画が明治後期(1899年)に持ち上がり大正初め(1917年)に完成します。
鉄桟橋(現大さん橋)の改良と、新しい港湾施設(新港埠頭)の完成によって横浜市は新しいステージを迎えます。

■新港埠頭の時代
大正期の横浜、特徴の一つが新しい国際港としての港湾施設の完成<新港埠頭の稼働>です。
この新港埠頭の稼働に伴い、鉄道も埠頭内まで開通。
日本全体も鉄道時代の幕開きとなり、物流革新が横浜港を後押しします。
新港埠頭と幹線を繋いだ鉄道の名残が現在の人気ルート「汽車道」です。

No.103 4月12日 「新港埠頭保税倉庫」から「赤レンガ」へ

【横浜の橋】No.12 万国橋(新港埠頭)
 

4月 2

第883話【時折今日の横浜】4月1日年度初め

4月になりました。“新”の多く付く時期です。
新学期、新入社員、新年度、新しい職場等。
4月1日は新制度や、新設の多い日なのでブログネタには困りません。
ここで
横浜の4月1日にふさわしいエイプリルフールネタ無いか?
と探しましたが時間切れ。
ということで 今日は「横浜誇張史」モトイ「横浜拡張史」にします。
横浜を知るベイシックテーマでもありますので
基本を押さえる感じで紹介します。
横浜市は市が誕生してから6回市域を拡張します。
その内、5回が年度初めの4月1日に行われました。
【市域拡張日】
(横浜市誕生)1889年(明治22年)4月1日
(第1次) 1901年(明治34年)4月1日
※10年後
(第2次) 1911年(明治44年)4月1日
※16年後
(第3次) 1927年(昭和 2年)4月1日
※9年後
(第4次) 1936年(昭和11年)10月1日◎
※一年後
(第5次) 1937年(昭和12年)4月1日
※2年後
(第6次) 1939年(昭和14年)4月1日
こう並べてみると第4次が気になりますよね!
さらに拡張の間隔で比較すると
第3次拡張まで38年
その後の6次拡張まで10年となります。
10月1日の市域拡大
唯一10月1日に拡張した◎の(第4次市域拡張)は
<旧相模国>鎌倉郡永野村が中区になり
<旧武蔵国>久良岐郡金沢町、六浦荘村が磯子区に編入したイレギュラーな拡張でにあたります。

武蔵国だった横浜市が<律令時代>を超えて、相模国の領域を初めて編入します。

過去ブログで簡単な市域拡張を紹介しました。
【番外編】市域拡大は元気なうちに!?

<人口膨張>
6回の市域拡張に面積と人口を重ねてみます。
(横浜市誕生)1889年(明治22年)4月1日
面積 5.40km2  人口121,985 人
(第1次) 1901年(明治34年)4月1日
面積24.80km2  人口 299,202 人
(第2次) 1911年(明治44年)4月1日
面積36.71km2  人口 444,039 人
(第3次) 1927年(昭和 2年)4月1日
面積133.88km2  人口 529,300 人
※10月に区制となり最初の5区誕生
第二次・第三次の頃と最盛期の市電域が重なります。

(第4次) 1936年(昭和11年)10月1日
面積168.02km2  人口 738,400 人
(第5次) 1937年(昭和12年)4月1日
面積173.18km2  人口 759,700 人
(第6次) 1939年(昭和14年)4月1日
面積409.97km2  人口 866,200 人
※7区になります。
1942年(昭和17年)人口1,015,900人(百万人突破)
1945年(昭和20年)人口 624,994 人
1952年(昭和27年)人口1,013,075 人(百万人回復)
1968年(昭和43年)年度中に200万人突破
約16年で100万人増加
1985年(昭和60年)年度中に300万人突破
約17年で100万人増加、戦後40年で約240万人増加
ここに鉄道網を重ねてみると
横浜は、「横浜駅」を軸に放射状に成長し戦後は環状線を目指してきたことがよく分かります。

少子高齢化のこれから、この巨大都市はどうなっていくのでしょう。
(4月1日の過去ブログ)
No.92 4月1日 横浜市交通局ブルーライン大人200円

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3月 28

第880話【絵葉書の風景】横濱乗物図鑑

車馬交通の最も頻繁なる桜木町通り

私のお気に入りの絵葉書の一枚です。
改めて見直すとこの<風景>少々 不自然さを禁じ得ない。
撮影を意図して、当時の乗物すべてをここに集めて撮影したとしか思えない構図となっています。
市内の乗物を一同に並べ 一斉に走らせ カメラマンはシャッターを切った!
という感じがしてならない。

(画像右から)歩道に女性が歩き
袋をいっぱい積んだ馬車と車夫
後続の馬車
人力車多数の自転車
高架に電車
自動車
市電(307番)上り線
横切る自転車荷車、大八車を引く人
空のものから満載まで多様な荷車が道路を走っている姿が捉えられています。
■撮影時期
大正13年〜昭和初期あたり
時刻は 午後3時50分あたり
■画像左のマールの建築は「神奈川県農工銀行」
明治31年〜昭和19年まで営業

昭和4年

「農工銀行(のうこうぎんこう)とは、日本全国各地に戦前に存在した、特殊銀行の一つ。」で戦後勧業銀行に吸収されました。
まるで 横濱乗物図鑑のような風景です。
空に航空機が舞えば パーフェクト、とまでは望むまい。

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2月 25

第873話 【横濱絵葉書】駅前劇場

「横濱劇傷(場)
Yokoh Ma Tkoatrs Nera Yokohama Street.」
日本語も英語も怪しい! 誤植だらけ
たぶん
キャプションの誤植は多けれど!!!
Yokohama theater near Yokohama Station.
ではないかなと推理しました。
英文は「横浜駅近くの横浜劇場」としたかったのではないか?
謎解きしてみます。

戦前、さらに時代を遡り
関東大震災まで、横浜は日本有数の<劇場>が建ち並ぶ
賑わいの街でした。
劇場街の中心は<伊勢佐木町>でしたが
1915年(大正4年)8月15日に二代目横浜駅が高島町に開業します。この場所は 京浜電車、貨物用高架線、東海道線。そして市電が交錯する狭い空間でしたが、完成後駅前が少しづつ賑わっていきます。
その一つが<大劇場>の開業でした。
1920年(大正9年)9月11日
花咲町に歌舞伎などを行う総合劇場がオープンします。
二代目横浜駅から南へ約300mの<桜川>に面した場所だろうと思われます。東京と横浜の実業家達が出資し、劇場経営を松竹合名会社に任せます。
ところが
1923年(大正12年)9月1日に起こった関東大震災で焼失しわずか3年弱でその姿を消すこととなります。
さらに時期を絞ってみます。
劇場前には「市川左團次」の役者のぼりが立っているのが判ります。
横浜劇場の演目記録から左団次を探すと
1921年(大正10年)6月初旬
大歌舞伎
市川左團次の「歌舞伎 義経千本桜」の興行がありますので、おそらく絵葉書の撮影時期はこの頃と推理できます。

「横濱劇場」は、当初の目論見とは大きく異なり
交通事情も悪く(改善されず)経営不振に陥ります。
震災で焼失後、復活されることなく歴史から消えてゆきました。

横浜駅は、現在の桜木町に誕生し、二代目がこの絵葉書の劇場近く高島になりその後、現在の位置に移りました。
初代と三代目は華やかな歴史を刻んでいますが
8年の歴史を持った二代目の「横浜駅」は殆ど語られることはありません。

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12月 8

第867話 【明治の風景】横浜駅前公衆便所

初代横浜駅が開業したのは1872年6月12日(明治5年5月7日)
考えてみれば、開港以来十数年で産業革命の象徴を導入したことになる。
わが国の鉄道発祥の駅舎は新橋駅と共にアメリカ人建築家、R・P・ブリジェンスが設計した。

この横浜駅前、鉄道開業後の写真に写る<謎>の建物は何か?
私は新しい「公衆便所」ではないかと推理した。
撮影時期は、初代横浜駅開業期から
1902年(明治35年)初代大江橋架替までの間であることは間違いない。
さらに絞りこめるか、果たして公衆便所なのか
資料を漁ってみた。
まず簡単に横浜公衆便所史から
開港後、欧米人が出会った日本の風習の中で、
庶民が平気でどこでも<立ちション>するという行為には閉口したという。
そこで外国人たちは<公衆便所>の設置を時の行政府に強く要望した。
早速動いたのが横浜町会所、現在の横浜商工会議所だった。
1871年(明治4年)11月に横浜町会所の費用で町内83カ所に小便所を設置。
掲示板を使って設置場所を掲示し
「右之通りに付旅人は別して心得居可申事也」とした。
この小便所は四斗樽大の桶を地面を掘り下げて埋め込み、板囲いをした程度の簡単なものであったため臭いがきつく外国人にはかなり不評だったようだ。
「主要地区には瓶(かめ)を埋め込み、男女両用に供し、屋形式のやや完全なるものに改造するなど、統廃合の結果、多くは橋詰に設置する事となり、其の数も四十数箇所となった。」
これが写真にある初代横浜駅前広場、大江川橋詰に設置された公衆便所ではないか?
<横浜駅前公衆便所>
確証は無いがその他にこの当たりに必要な<建築物>が考えつかない。邏卒所=交番も考えたが、川沿いに建てる必要があるのか疑問が残る。
拡大してみると人影が見え”立ちション”に見えないこともない。
写真左側には「大江橋」が架かっている。下流右岸から「大江橋」を見ている。
反対側からの風景でも確認してみたい。

大江橋上流の右岸から「大江橋」を写している。
恐らくこの風景の方が新しいものだろう。電信柱が増えているのが判る。
ちょうど樹木が遮っていて、正確に確認することができないが、角度的には橋詰の<建造物>は無いように見える。
短期間で撤去された可能性もある。

明治二十年代の初代横浜駅周辺。横浜電気鉄道はまだ開通していない。
明治25年の絵図には小屋みたいな建物がありますね!?

1872年(明治5年)2月17日の横浜毎日新聞には
「仮名垣魯文、立ち小便で科料(とがりょう)とられる。仮名垣魯文、当港へ来たり、本町辺にて風と立小便為し、邏卒に見咎められ、科料申付けられし由、西洋膝栗毛の趣向を一寸実施に見せたるは面白し。」と時の有名人も”立ちション”で捕まったようだ。
(参考資料:荒井保男『日本近代医学の黎明 横浜医療事始め』2011 中央公論新社)
※番外編
偶然の一致。大江橋近くに今年まで年代物の公衆便所があったが、廃止。

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11月 10

第864話 野毛界隈入門その1

(プロローグ)
「野毛界隈入門」と題したのは私が<野毛界隈>について入門、体験の記録である。light_p6281170 light_p6281209 この野毛の街を語るにはかなり勇気がいる。
この界隈を愛し、この界隈を語ったら止まらない大先輩から若手論客諸氏が手ぐね引いて構えておられるからだ。
私も野毛の近くに暮らし始めて十五年を越え、ぼちぼちこの街のことを調べてみようと思い立ったが大変な作業であることに気がついた。実に奥が深い。
野毛に関しては数多くの研究資料、エッセイが残されている。これらの諸先輩の資料を読み解く作業も楽しい。野毛といえば夜のイメージが強いが近くに暮らすこともあり昼間の野毛散策も多い。坂が多く年寄りには難儀するが、時折街並みの合間から見える野毛の街並みも面白い。夜の野毛はかつてノンベイだった頃の記憶がたくさん残っている。
呑みに行く<野毛界隈>には漠然と宮川町や日ノ出町も含まれていたので、ここでも野毛界隈として広く日ノ出町、宮川町、花咲町をベースに紅葉ヶ丘、宮崎町、老松町も含まれるていることをご了解いただきたい。
界隈は界隈であって、行政区分ではなく、時に範囲が自在に伸縮するところが<界隈性>なのだと思う。

<野毛連山>
野毛界隈は川と海に面し、背後に野毛連山を配する町である。堅く言えば丘の範疇だが、野毛界隈には地名にも野毛山・掃部山・伊勢山(これは皇大神宮の関係だが)・御所山・久保山といった名が残っている。light_%e9%87%8e%e6%af%9b%e5%b1%b12943
この山々の連なりを<野毛連山>と仮に命名すると
大岡川を挟んで左岸の野毛連山が、右岸には山手連山が迫っている入江に<吉田新田>が生まれ、居留地が誕生した位置関係が見えてくる。
野毛村から野毛連山を越えると、また深い入江があった。帷子川の入江である。
横道にそれるが、帷子川の入江の向こうにも丘が広がり、海に迫る幸ヶ谷公園から高島山・高島台(高島嘉右衛門)から台町・浅間台とこちらも帷子川の入江を囲むように丘が迫っている。
東海道は江戸日本橋を出発して平らな街道の旅をし、最初の山坂が神奈川宿を過ぎたあたりから始まる。保土ケ谷を過ぎると国境に<権太坂>が待ち受けていた。
明治期にはちょいワルおやじたちが7人東京から横浜・金沢まで観梅(杉田)を兼ねて自転車ツーリングに出かけたという記録がある。このルートも保土ケ谷から山を越え(たぶん引いて越えた)井土ヶ谷にでて杉田に向かったのだろう。
No.53 2月22日 アーティストツーリング
俳人正岡子規に至っては
親友の秋山真之と無謀な徒歩旅行に出かける。酔った勢いで着の身着のまま何の準備も無く「鎌倉に行こう」と下駄履きで出発、へばりながらも戸塚手前でギブアップ。東神奈川まで這々の体で戻り電車で東京に帰ることになる。
No.253 9月9日(日)子規、権太坂リターン

<野毛を横浜の中心に>
横浜開港場という立地は、江戸から見てダブルリバー、神奈川宿から3つの山を越えて行くことになる。その中でも一際厳しい<野毛連山>を開港時には突貫工事で真っ直ぐな道を開くことになった。横浜道である。
この野毛連山の頂きに横浜の新しい中心都市を置くことを目論んだ人物がいる。
震災後、横浜の復興計画を立案した牧彦七という人物だ。
牧彦七は「雷親父」「ライオン」とあだ名された土木のスペシャリストで、関東大震災後、上司の後藤新平から誘われ都市計画局長として帝都復興事業に尽力した。
中でもダイナミックな5億円規模の横浜・震災復興都市計画案(通称・牧案)は関係者を驚かせた。
現在のように、東海道本線の「横浜駅」界隈と開港の町JR根岸線「関内駅」界隈(開港場であり関内外エリア)の分断を結ぶ必要性を感じ中間に街を開こう!と考えた。
この計画は見事に地元の反対から夢物語に終わったが、実現していたらこの街はどうなっていったか?創造すると実に面白い。

7月 19

第852話 7月19日京浜急行と権現山の戦い

京浜急行神奈川駅は京急線の中で一番“狭い”ホームのある駅です。(感覚です。実際測っていません)
開業は1905年(明治38年)12月24日、歴史ある駅です。
light20150211神奈川駅 lightP2110494 lightP2110514今日は駅そのもののエピソードは別の機会に譲ります。
神奈川駅のある一帯は明治期に鉄道を敷設する際、丘陵の一角を大きく削りました。
神奈川駅を挟んで両側が繋がっていました。light台場神奈川駅東京に向かって右側(東側)の駅際にある小高い丘が「幸ケ谷公園(権現山)」、反対側の西側が高島台にあたります。
今日は横浜の歴史を一気に戦国時代へと時間を戻しましょう。
時は16世紀初め、永正7年(1510年)7月19日の今日は、9日間も壮絶な権現山(ごんげんやま)の戦いが終わった日です。
「権現山の戦い」とは、上杉連合軍がここ権現山を居城とした上田勢と支援した北条氏を破った戦いです。
江戸時代に本格的に整備された東海道ですが、それ以前から東海道は太田道灌の開いた江戸と西国を結ぶ重要な道でした。東京駅から東海道線に乗ると品川近辺の御殿山を過ぎると、平坦な道が続きます。
神奈川県に入り最初の丘陵がここ<神奈川>です。
中世から、権現山は街道の要衝にあたり、戦略的に重要な場所でした。
当時武蔵の国一帯は上杉一族の勢力下にありました。その南端にあたる城が権現山城で扇谷上杉朝良家臣<上田蔵人政盛>が城主として一帯を治めていました。ここに、波乱が起こります。伊豆にあった北条早雲が、鎌倉まで勢力を伸ばし、さらには武蔵の国へと侵攻します。
この時、早雲は権現山城主であった上田 政盛に、上杉傘下から我が北条の仲間になれというメッセージに呼応し兵を挙げます。
この権現山の戦いに関しては上田 政盛が早雲の策略に乗って主君<上杉>を“裏切る”といった表現が多いようです。
「伊勢宗瑞(北条早雲)の調略に応じて相模国境に近い武蔵国権現山城で挙兵した。」
「まず扇谷上杉朝良の家臣・上田政盛を寝返らせ、修築したばかりの相模国<ママ>権現山城に据えた。」(文中相模国→武蔵国)
「早雲は永正4年(1507)、越後の守護代長尾為景(ながおためかげ、1489〜1543・上杉謙信の父)と守護上杉房能の戦いに乗じて、扇谷上杉氏家臣の権現山城主上田政盛(うえだまさもり、生没不詳)を寝返らせます。」
資料を読むと事態はそれほど単純では無く、関東上杉家の<内紛>が<上杉家>に反旗を翻す要因と考えるのが妥当と思われます。元々、権現山城主 上田政盛は扇谷(おおぎがやつ)上杉家の家臣でした。ところが、同じ上杉家の<山内上杉家>によって領地だった神奈川湊を奪われてしまいます。ここに<山内上杉家>に対する反感(恨み)が生まれ、新たなる勢力となってきた北条早雲に与します。
ただ悲劇なのは、この反旗によって仲違いした扇谷上杉家の上杉朝良と山内上杉家の上杉憲房が連合で上田政盛の挙兵した権現山城を圧倒的陣容で包囲し壮絶な戦いが行われ、早雲の援軍が到着する前に陥落します。
※一説では上田政盛は生き残り、後に扇谷上杉家家臣として復活したという説もあります。

この権現山の戦いをキッカケに関東全域をめぐって伊勢氏(後の北条氏)と上杉氏との同盟関係が完全に破綻、戦国時代の覇権争いが激化していくことになります。

(神奈川台場)
この権現山の戦いの舞台となった場所は現在幸ヶ谷公園となっています。ただ戦いのあった当時よりかなり<低く>なっています。
ペリー来航後、急遽神奈川台場を構築するにあたり、埋立て用の土砂がこの権現山の山頂部分を削って使用されたため低くなり<台形>に変わっています。

※余談
この権現山の戦い、2万の上杉勢に対し2000の将兵で迎え撃った上田政盛陣営は圧倒的大軍の前に惨敗しますが、そこに
「19日上杉勢がなだれのごとく城内に乱入した時、城中より「我こそ神奈河の住人間宮の某」と叫びつつ上杉に突入した勇ましい武士がいた。神奈河(今は神奈川と書く)住民間宮とは信冬もしくは子の彦四郎信盛と伝えられている。」
この間宮は討ち死にせず戦のあと笹下に居を構え、北条政権下磯子一帯の領主となります。この間宮家が杉田家となり産業の少ないこの地で梅林などの殖産に務めました。

No.201 7月19日(木)港を感じる絶景ポイント
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=406
横浜港のある東京湾は、船舶の航行が集中するポイントにあたります。
船舶通航信号所として
1986年(昭和61年)7月19日(金)「横浜港シンボルタワー」が完成しました。

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7月 17

第849話 横浜・新橋、横浜が先?

日本鉄道事始め、この辺に詳しい方には当たり前のことですが
日本最初の駅「横浜」「新橋」は全く同じファサード(顔)を持っていました。

初代横浜駅
初代横浜駅
初代新橋駅
初代新橋駅

設計は共にアメリカ人建築家リチャード・ブリジェンス、設計者が同じなんだから同じでもおかしく無いけれども、普通<格>をつけてしまうのが近代日本の定番。ところが「横浜」「新橋」は本当にうりふたつ。
横浜駅には<噴水><ガス灯>が写っています。

鉄道の歴史をざくっと
1872年6月12日(明治5年(旧暦)5月7日)
「横浜」「品川」間の鉄道路線が開通し、横浜駅(初代)が開業。
品川駅は「木造平屋2棟、現在の位置よりやや横浜方、海に面したのどかな駅」だったそうです。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/ca/Shinagawa_Station_in_early_Meiji_era.jpg

1872年10月14日(明治5年9月12日)
四ヶ月後に「横浜駅」と「新橋駅」が開業。初日は式典と明治天皇御座乗特別列車の運行のみで営業は翌日からなので営業は1872年10月15日ってことです。
この間を<仮営業>と呼んでいますが、個人的には前述の1872年6月12日からしっかり<営業>しているのでこの日を鉄道の発祥の日にして欲しいところです。
さらに!さらに ここがポイント!
手元の資料だけですが
リチャード・ブリジェンス設計の「横浜駅舎」「新橋駅舎」
1872年6月12日開業が「横浜駅舎」
1872年10月14日開業が「新橋駅舎」
ってことは リチャード・ブリジェンス設計の横浜駅は新橋(汐留)より古い、最初ってことですね。
まあ どうでもいいことですが この辺はっきりしておきたいところです。

旧新橋駅再現
旧新橋駅再現

light2016-04-15-18-28-07light初代横浜駅前

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7月 11

第845話 1987年(昭和62年)7月10日横浜駅「京急西口通路」完成

私は都度、目標を決めて達成する“横浜コンプリート”を楽しんでいます。
その達成メニューの一つが<市内の鉄道全駅に降り立つ>ことです。横浜図版 横浜市内には135の駅があり、21の路線、8つの会社(市営含む)があります。市内全駅踏破は最初から意図したわけではありません。90年代の後半に仕事で市内18の区役所を訪問する機会があり、鉄道機関を使ったことがキッカケです。
<無人駅>から9路線が乗り入れる<大ターミナル>までそれぞれの駅に不思議な味わいがあります。
135の駅に降り立った後は、それぞれの駅の<歴史>というと大げさですが、生い立ちに関心が出てきました。
駅を語りだすと「横浜駅」だけでも話題が尽きません。
いずれ市内全駅の紹介をしたいので、今日の横浜駅はゴクゴク手短なブログとします。
1987年(昭和62年)7月10日の今日
横浜駅「京急西口通路」(地下)が完成という記事を発見。
「京急西口通路」って 何処かご存知ですか?
京浜急行のホームと<西口・相鉄線方面>を結ぶ連絡地下通路です。
恐らく乗換に利用する人以外この地下通路は知られていない“迷路”ではないでしょうか。
“迷路”とはいささか失礼な表現かもしれません。
かつて横浜駅は、東西を繋ぐ自由通路が限られていて大変不便でした。(現在もわかりにくい)
横浜駅は、jRを囲むように東に京浜急行、西に相模鉄道、地下に東急・みなとみらい線(かつては西側)が乗り入れています。相模鉄道線から京急に、東急線から京浜急行への乗り換えは<至難の技?>でした。(現在もかなり大変です)light1974年1974年(昭和49年)

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     上図は1979年発行の横浜駅近辺マップ
1980年(昭和56年)11月20日に東西自由通路が全面開通し連絡こ線橋が撤去されます。
私はこの京急こ線橋を利用していなかったので殆ど記憶がありません。
東京寄りの今も残されている<跨線橋>は頻繁に利用していました。
「京急西口通路」を示すマップは無いか?

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1996年の駅周辺詳細図に点線で示してありました。この「京急西口通路」は<横浜駅みなみ通路>が完成した現在も一部がそのまま活用されています。


それにしても、横浜駅は工事していない時期があったのでしょうか?と言いたくなるくらい工事中駅です。
今日はさらっと小さなネタで失礼します。

(過去の7月10日ブログ)
No.192 7月10日(火)もう一つの大岡川
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=415
都市には必ず川の歴史があり氾濫と治水の歴史でもあります。
1976年(昭和51年)7月10日(土)の今日は、大岡川治水工事の一貫として着工した「大岡川分水路」(全長3,640m)の部分通水(笹下川から根岸湾まで)を開始した日です。

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6月 15

第820話 1998年(平成10年)6月15日Yカード新設

ちょっとなつかしい姿から

マリンYカード
My collection マリンYカード

1998年(平成10年)6月15日
「地下鉄バス共通カード500円Yカード新設」(横浜市営交通八十年史)
廃止が2010年(平成22年)7月31日ですから12年の活躍、短かったのか長かったのか。
停止後、払い戻し期限は平成27年7月31日まででした!
そういえば交通系の磁気カードはいろいろ出ました。交通系磁気カード パスネット
オレンジカード
バス共通カード
マリンカード
Yカード
ファミリー環境一日乗車券※(現役)
一日乗車券※(現役)

(Yカード)
Yカードは「横浜市営地下鉄」と「横浜市営バス」のみで使用できるプリペイドカードです。
500円券と1,000円券と3,000円券がありました。

(マリンカード)
マリンカードも横浜市交通局が発行した磁気式のプリペイドカードです。
横浜市営地下鉄及び横浜市営バスを始め周辺地域の一部バス事業者で共通に使用できました。
※マリンカード及びYカードは、平成22年7月31日をもってすべてのサービスを終了
※払戻しは、平成27年7月31日で終了。
※バス共通カードの払戻も平成27年7月31日まで。

◎一日乗車券
最近は 一日乗車券を常備。市内全域の総てのバスルート(現在は市営バス)に乗る!ことに挑戦中、というほどがむしゃらではありませんが機会を見て、数回バスに乗る用事の時には この一日乗車券を駆使しています。

(過去の6月15日ブログから)
No.167 6月15日(金) 自然、単純、直裁、正直、経済的
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=443
1960年(昭和35年)6月15日(水)、元町公園の一角に移築された
エリスマン邸の開館式が行われました。

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