12月 26

汽車道は三線あった

汽車道は近年人気のプロムナードで、土日休日は行列のように通行人が繋がる。桜木町駅前から新港埠頭を繋ぐ約500mの遊歩道で、感覚的には「赤レンガ倉庫」がゴールのように感じられるが、手間で終点となる。
大正期に完成した新港埠頭倉庫群(赤レンガ倉庫他)と当時の横浜駅を繋ぐために整備された鉄道路線で
当初の計画書には「横浜鉄道海陸連絡線」(以下連絡線)とある。この「連絡線」、現在の横浜線と深い関係にあり多くのエピソードを持っているが、詳しくは別の機会にしたい。
ネット検索でもかなり面白い説明に出会える。例えば京急(京浜電気鉄道)の高架化顛末
この連絡線「汽車道はもともと「ウィンナープロムナード」と呼ばれていた(wikipedia)」
 とあるが俗称で正式名称では無かったと思う(資料無し)。税関線と呼ばれていたこともある。 
連絡線は複線仕様で新港埠頭に入って複数に分岐していた。その中で、主に日本郵船が使用していた4号近くに現在もプラットホーム跡が残っている。
と思っていたが、資料を漁っていたら、少し状況が異なっていたようなので、この点だけここに紹介しておく。連絡線は汽車道と呼ばれるように戦前は貨物を中心に、客船の乗客も<汽車>で運搬していた。
さて、この汽車道に線路は何本あったのだろう?単線だったのか複線だったのか?現在は単線がモニュメントとして残されているが、資料から私は複線だったとしていたが、実は一部<三線>だったようだ。

上記写真地図は主に戦後接収時代の頃で、新港埠頭に近いところの島状になった所まで単線らしきものが伸びているのが解る。ここには上屋らしきものがあったことが伺える。近辺に多くの<艀>が係留されている。なんらかの作業場であったのだろう。
別の証拠は無いか?探してみた。昭和9年の新港埠頭図が見つかった。

昭和九年新港埠頭入口

昭和九年の横浜税関資料では 確かに三線となっている。
では 途中まで伸びている単線の役割は何だったのだろう。荷物の積み降ろしのための護岸(桟橋)用だったのだろうか?


汽車道略年表
1915年(大正4年)東横浜駅開設。
1920年(大正9年)7月23日 日本郵船 香取丸 出航時にボートトレインとして旅客をはじめる。 東京からの初の乗り入れとなる。主に北太平洋航路の客船が現在の海保、赤レンガ倉庫に面する<3号・4号ふ頭>を利用。(〜昭和17年3月まで)
1945年(昭和20年)港湾部新港埠頭接収
 戦後日本郵船は氷川丸以後客船部門から撤退し客船飛鳥で復活。
1950年(昭和25年)〜1953年(昭和28年)
 朝鮮戦争用に旅客輸送として使用
1952年(昭和27年)に返還。
1957年(昭和32年)8月 戦後唯一残った貨客船「氷川丸」
 出港時にボートトレイン再開。
1961年(昭和36年)氷川丸の最終航海時まで旅客運送が行われていた。
この時期、港湾経済は「船混み」状態をどう解決するかが最大の懸案事項。
政府方針「国民所得倍増計画」の下に横浜港第一次港湾整備五か年計画(〜昭和40年)によりふ頭整備計画が実施される。
※氷川丸は現在の係留地、大さん橋から出航ではなく、新港埠頭
1962年(昭和37年)3月 正式廃止
1964年(昭和39年)5月 根岸線磯子まで延伸。6月高島線全通。
1965年(昭和40年)山下ふ頭輸送力増強を目指し新港埠頭から山下公園を抜け山下ふ頭に繋がる「臨港鉄道」が景観論争を経て建設。
※港湾物流の変化(コンテナ時代へ)港湾経済の転換点その1
1973年(昭和48年)オイルショック 港湾経済の転換点その2
1986年(昭和61年)10月汽車道供用廃止
1997年(平成9年)に整備され「汽車道」となる。
JR桜木町駅前から新港埠頭を結ぶ約500mの区間を指す。

1月 5

第987話【運河物語】桜川

横浜の運河を追いかけています。
【真景絵図】シリーズの合間に運河を入れます。

今回は桜川運河です。
桜川は現在の横浜中心市街地を支えた運河群の一つで大岡川と帷子川を繋ぐ約2kmの運河でした。
1870年(明治3年)に誕生し翌1871年(明治4年)には「桜木川」と呼ばれましたがその後「桜川」となりました。この「桜川」、
河川史関係の資料では1954年(昭和29年)に消滅したことになっています。
開港資料館の<消滅した8つの運河>では桜川も消えた運河の一つとして紹介されています。
ただ”正確”には現在もしっかりと”桜川”は存在しています。(後述)
桜木川から桜川に名称変更された年代が特定できなかったのでここではすべて「桜川」と表現しておきます。
消えた部分の桜川は現在「新横浜通り」になり、地下には市営地下鉄が走っています。海側にはかつて造船所だった場所が「みなとみらいエリア」に変貌し、ここが運河であったことを全く感じることはありません。バス停や信号機、路地に一部名残を残すのみです。
旧桜川、紅葉橋付近
明治3年ごろ内田清七埋め立て用地
[桜川誕生]
桜川は、鉄道を敷設するために埋立工事を行った土地の”用水路”として誕生しました。
明治維新早々、横浜と新橋(汐留)の間に鉄道計画が持ち上がります。
品川から神奈川まではなんとか敷設できそうでしたが、問題は海や沼に敷設するという課題でした。
明治21年頃、鉄道用地
品川・新橋間には沼地が広がり
神奈川から開港場までは「帷子川」河口の入海・「野毛浦」の山が障害でした。
鉄道黎明期の歴史書では最大の難関だった帷子川河口域を埋め立てた高島嘉右衛門の功績が必ず採り上げられています。もう一人、現在の桜木町駅周辺の敷地を造成したのは内田清七という人物です。その名に因んで鉄道敷地の大半が「内田町」となっていました。しかし、彼の名は時間が流れるに従い消えつつあります。
残念なことです。
内田清七は、切り立った野毛浦沖を埋立てて広い鉄道用地を完成させます。この埋め立てた敷地と野毛の山からの排水路として運河を整備したのが「桜川」です。
横浜沿革誌明治3年5月

※『横濱沿革誌』
「明治三年(庚午)五月。吉田橋脇ヨリ入船町野毛浦迄埋立竣功、之ヲ新街道ト云。受負人真砂町(京屋)内田清七、入船町ヨリ野毛浦埋立地地固メノ為メ、葭簀張納涼茶屋、其他軽業・辻講釈、昔噺等ノ興行ヲ神奈川県裁判所二出願、許可ヲ得テ興行ス、而シテ其土地ノ潤沢景況ヲ輝サンガ為、烟火百数本、仕掛数個ヲ打揚ゲヲ出願シ、野毛浦海岸ニ於テ施行ヲ許サル、故二六月二十一日の夜、船数隻ヲ浮べ、鍵屋製ノ煙火百数本、仕掛数個ヲ打上ゲ、横浜川開キの創始ヲ催しシタリ、爾来、納涼遊歩者日々群ヲ成シ、麦湯店ノ流行殆ンド埋立地ノ過半ヲ占ムルニ至レリ」
この時に、”大江橋の橋台・柱石建設工事開始(内田清七請負)”も行い、大江橋竣工(明治5年)にも深く関わっています。
「京屋内田清七が請け負って埋め立てた所で、明治5年に内田町字1丁目から12丁目までを新設した。明治20年に内田町字3丁目から5丁目までの片側を長住町とし、内田町は字1丁目から8丁目までとなる。町名は埋立者の姓「内田」を採った。町は飛地状となっている。(中区)」
<余談>
この横浜沿革誌に書かれている内容は当時の土木事業を知る重要な鍵が隠されています。
“地固メノ為メ”にイベント(興行)を行い”土地ノ潤沢景況ヲ輝サンガ為”人よって土地を踏み固めるという手法を用いています。
地固メ手法は江戸期からさかんに行われ、戦前横浜川崎の海岸線埋立事業でも人を集めて踏み固めた記録が多く残っています。
[双十字路]
桜川には大きな特徴があります。
大岡川と帷子川を結ぶ運河で接続部が当初両方共”運河十字路”=双十字でした!
・大岡川十字水路
桜川・大岡川十字路
現在は桜川と派大岡川が埋め立てられています。
・石崎川十字水路
石崎川・桜川十字水路
現在は桜川と石崎川下流が埋め立てられ、変則的に曲がり帷子川に繋がっています。
石崎川は大岡川支流の中村川のように、河口の無い川です。
(消えた石崎川河口)
冒頭に桜川は消滅していない!と紹介しました通り、桜川は現在も残されています。
平成8年桜川・石崎川
[因縁 横浜駅]
桜川大岡川口には初代横浜駅(現桜木町駅)があり、
初代横浜駅
桜川石崎川口には二代目横浜駅(現在遺構のみ)があります。
二代目横浜駅
[桜川の橋]
大岡川から桜川に架かっていた橋は
◇錦橋
◇緑橋
◇瓦斯橋
◇紅葉橋
◇雪見橋
◇花咲橋
このあたりから時代を経て変化します。
明治10年代は「大平橋」が架かっていて、石崎川に合流します。
その後、平沼新田造成が進み、
横浜駅が高島町に移設されることで[石崎川]の架橋状況が変わりました。
また地図で推理する限りですが、
桜川が「二代目横浜駅」を避けるために流れを変え、より石崎川上流側に合流地点が移ります。
大平橋→戸部橋・櫻橋→石崎川に合流
石崎川に架かる橋
◇西平沼橋
◇梅香崎橋
◇石崎橋
<桜川合流>
◇高島橋
(富士見橋)埋立廃止
→<石崎川十字水路>が無くなります。
桜川の下流部が石崎川下流域になり
◇材木橋
(不明)浅山橋か?
<帷子川合流>
◇万里橋
◇築地橋
大正2年桜川
新横浜通り(桜川)
まだまだ桜川近辺の歴史も含めると色々な歴史ドラマが隠されています。
今回はこのくらいにしておきましょう。
桜川関連マイブログ
第873話 【絵葉書の風景】駅前劇場
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9465
※ちょっとお宝話 第977話【横浜の道】国道16号線
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=12004
新横浜通り
第960話【横浜真景一覧図絵徹底研究】第五話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11695
桜川B橋
第891話【横浜の橋】A B 橋
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9936
5月 12

第953話 地政学的に横浜駅を観る

第一章
「横浜駅の歴史」が面白い!

横浜駅の歴史は横浜市の近現代史を語るキーワードになる。
横浜駅の彷徨から開港の近代史が、
三代目横浜の東西戦争からは戦後史が見えてくる。

近代以降、
<駅>の視点で横浜を観ると探ってみよう。
開港に伴い発展した開港場に鉄道敷設が決まった。
場所は大岡川を越えることなく内田清七が埋め立てた現在の桜木町駅の位置。
当時横浜の中心部であった関内エリアに鉄道が敷設されることはなくその後京浜東北根岸線が関内外の境界、派大岡川の上を通過し、市営地下鉄は一部をかする程度である。
そもそも初代「横浜駅」は
開港交渉で東海道筋神奈川宿から外し帷子川を越え大岡川河口に開港場を作ったことで、後の幹線鉄道からも外れることになってしまった。
その後開設された横浜港に繋がる<横浜港線>のように特別支線的な扱いで初代「横浜駅」を残さず<廃止>し二代目にする必要が何故あったのだろうか?
なぜ「神奈川駅」がメインに出てこなかったのだろうか。戦前の行政権力は圧倒的に県政にあった。県知事は廃藩置県で失った藩主の力ほどではないが、その決定権は市政と比較にならなかったのだ。
東海道線「神奈川駅」がありそこから「横浜駅」行きが出る。ときには東京〜横浜間直通便が出ても不自然ではない。
なのに 横浜駅は二代目となり、さらに三代目へとうつろう。
1872年6月12日(明治5年5月7日)
横浜駅〜品川駅間 開通。
1872年10月14日(明治5年9月12日)
初代横浜駅〜新橋駅間 開通。
1887年(明治20年)7月11日
初代横浜駅経由(スイッチバック)して 国府津駅まで開通。
1889年(明治22年)7月1日
東海道本線 神戸駅まで全通。
1898年(明治31年)8月1日
東海道本線、初代横浜駅を経由せず<上り線>程ヶ谷駅(保土ケ谷)短絡直通線開通、<下り線>神奈川駅に停車。
1901年(明治34年)10月10日
神奈川駅〜程ケ谷駅間に「平沼駅」開業。
1914年(大正3年)12月20日
鉄道省 高島町駅開設(京浜間電車運転開始)
1915年(大正4年)8月15日
二代目横浜駅が高島町に開業。平沼駅は廃止、初代は桜木町に名称変更。

単純に年表で追ってみると 少し納得がいくが、投資は何故行われなかったのか?

東海道本線を本格的に運用するために初代横浜駅をスルーし程ケ谷駅、平沼駅に停車する措置が必要になった。このときは初代「横浜駅」は諦めていない。
電化にともない、高島町駅ができその後二代目になるときに、
帷子川河口は沼地のままだったので「神奈川駅」をむりやり高島町側に持ってくるのは難しいだろう。ただ、埋立元年の大正期にこの帷子川河口域は何故開発されなかったのだろう???
このエリアは見れば一目瞭然、埋立事業により好立地となることに多くの人が気がついていたはずだ。
ここ高島エリアにはいち早くスタンダード石油会社が進出していた。
三代目横浜駅が本格的に”看板駅”となるのは 戦後接収解除を待たなければならなかった。

関連リンク
第867話 【明治の風景】横浜駅前公衆便所

第867話 【明治の風景】横浜駅前公衆便所(加筆)


◆横浜駅周辺の思い出

◆横浜駅周辺の思い出


第904話 横浜ダブルリバー概論(2)

第904話 横浜ダブルリバー概論(2)

※さらっといきました。

第二章
三代目「横浜駅」は横浜の表玄関なのか?
(つづく)

12月 20

第943話【今無い風景を読む】汽車道と北仲通の壁模様

1997年(平成9年)に開通した汽車道(開港の道)を渡る折、

開通直後の汽車道

桜木町駅から日本丸の脇に立つと、いつも気なる風景がありました。
帝蚕倉庫の壁に設置されていた「Panasonic」の光学ディスクをモチーフにした広告です。
それ以上にこの壁に這うツタの葉が描く<模様>に釘付けとなったことを記憶しています。
この風景、一服の絵画に見えませんか?
森の中に一軒の家が建ち、冬には枯れ、秋には色づき四季の変化もありました。
私が汽車道を良く渡るようになったのは2000年頃からです。それから17年、汽車道の木々も成長し、何と言っても周辺の景色が大きく変わっていきました。
汽車道、運河パーク内を通るこの道はその名の通り、明治以来汽車が通る鉄道線でした。1989年(平成元年)に横浜博覧会で使用されたのを最後に廃線となり、閉鎖されていましたが、再整備が決まり山手まで繋がる<開港の道>の入口です。この道は
桜木町から明治期に整備された「新港埠頭」現在の象の鼻パーク、大さん橋、山下公園、そして山手ふらんす山を経由する遊歩道です。
撮影の頃、新港埠頭近辺には大きな商業施設、横浜ワールドポーターズがありませんので、1990年代の風景です。 1980年代、1990年代、2000年代、2010年代
このエリアは 10年単位で大きく変貌してきました。
横浜市内で今、
最も変化し続けている空間といえるでしょう。

12月 3

第936話【市境を歩く】川崎市境0

街には国境ほどではありませんが行政の境界があります。
地域民にとって境界は別段関係ありませんが時にこの境界が市民生活に影響してきます。
街は何故ここに境界を設定したのか、
謎解きをしながら市境を歩くと、横浜が見えてきます!
市境の基本はおおよそ地勢の影響を受けています。
・川筋
(主に境川あたり)
・尾根筋
(北部と南部)
※隣接自治体は
川崎市・東京都町田市・大和市・藤沢市・鎌倉市・逗子市・横須賀市

■今回は川崎・横浜市境
スタートは尻手駅です。

尻手駅

尻手

ここから川崎市境を湾岸まで南下します。
横浜と隣接する自治体は川崎市です。
ちょっと余談から、
市境際のJR南武線「尻手」駅は川崎市で、
お隣の「矢向」駅は横浜市に位置しています。
横浜市域に南武線の駅があることちょっと意外ですね。
■拡張競争
横浜市と川崎市の<領土獲得>はドラマのような歴史があります。
元々、明治期までは広く橘樹郡でした。その後川崎市と横浜市が拡大するにつれて周辺村域を合併し市域拡大を繰り返し最終的には二分します。
今回歩くのは
橘樹郡田島村→1927年(昭和2年)4月1日に川崎市
橘樹郡町田村(潮田町)→1927年(昭和2年)4月1日に横浜市
この境です。
前述の通り、JR南武線「尻手駅」は横浜市に食い込むように<川崎市>です。
資料を精査していないので憶測の域をでませんが、
南武線尻手駅の開業は
1927年(昭和2年)3月9日で、
同年の
1927年(昭和2年)4月1日に市境が確定します。

昭和18年尻手駅界隈

駅をめぐってもやり取りがあったとしても不思議ではないでしょう。
鉄道は地域にとっても重要なインフラですので、駅際の<境>を正確に線引していくなかで、我が市に駅を!という作用もあったと思います。
尻手駅の<尻手>の名も
橘樹郡鶴見町大字市場字尻手の”尻手”から採っていますので、横浜市に編入された市場村・矢向村の字名でした。<尻手>命名にも当時はいろいろあったのかもしれません。
<市境>も<いさかい>のネタであることは間違いありません。
川崎市とは大騒動になった日吉村顛末もありました。
No.91 3月31日 自治体国取り合戦勃発

No.91 3月31日 自治体国取り合戦勃発


尻手あたりから、海岸にかけてかつて<用水路>だったので、正確には川筋境に市境が生まれたといえるでしょう。古い地図では尻手駅脇に川筋があり最終的には京浜運河に流れ込んでいた(いる?)ようです。(上図)
尻手近辺にはいたるところに水路や池、沼地を確認することができます。
今回の市境旅もある意味
<暗渠旅>といえるでしょう。
尻手駅界隈は東西で表情が変わります。東側は川崎市幸区、駅前の西口通り東方向に900mで、川崎駅に出ます。川崎駅西口は東芝などの企業が集中するエリアでしたが、西口ラゾーナなどが登場し一気に商業集積地に変貌しました。
一方、西エリアは南武線に並行してJR貨物線(現在横須賀線)と鶴見川があり、住宅地と中小事業所が密集する地域です。
南武線(本線・支線)に沿って流れていた用水路に沿って市域となっています。
南武線本線と支線、東海道本線の挟まれた三角地帯には
川崎市堤根処理センター(川崎市堤根処理センター発電所)があり、ゴミ焼却エネルギーの再利用が図られています。予熱は隣接する「ヨネッティー堤根」に供給されています。市境はJR東海道(並木踏切)を越えます。用水路は全て暗渠化していて、一部名残が残っているだけです。さらに南下し京浜急行を越えるあたりで少し市境が複雑に変化します。京急の踏切近辺には横浜市と川崎市、両市境を示す道標が設置されています。

横浜市側

川崎市側

一本で両市を示している珍しいの道標の一つです。
市境は第一京浜、国道15号線に向かいます。
第937話【市境を歩く】川崎市境0その2
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11168
につづく

11月 19

第929話【保土ケ谷区】程ケ谷駅

今日は、程ケ谷駅を巡るエピソードを。
1887年(明治20年)7月11日
この日、東海道線の横浜(初代)〜国府津間が開通しました。
これにより程ヶ谷駅( 1931年(昭和6年)に保土ケ谷の名に変更)・戸塚駅・藤沢駅・平塚駅・大磯駅・国府津駅が開業しました。
ほどがや現在は保土ケ谷と表記します。
少し前は保土谷でもあまりうるさく言われませんでした。保土が正式表記です。
90年代、少なくとも私の記憶では神奈川県、国交省(当時の建設省)などは<保土ヶ谷公園><保土ヶ谷インター>といった表記がなされていることが多く、横浜市の「保土ケ谷」と二種類が併存していました。近年、「保土ケ谷」に“じわじわ”揃いつつあります。

なんたって 保土ケ谷区がこの表記のためにサイト持っています。
「「保土ケ谷区」の「ケ」は大きな「ケ」です!」
http://www.city.yokohama.lg.jp/hodogaya/gaiyou/ke.html
「区の設置並びに区の事務所の位置、名称及び所管区域を定める条例
(条例第1号、昭和34年3月14日制定)」
http://www.city.yokohama.jp/me/reiki/honbun/ag20200021.html
ここには、なぜ大きいケなのか? 理由は示していません。「そう決めたのでそうだ!」という感じで少し違和感を感じます。
広重の東海道五十三次でも「保土ヶ谷」ですし

保土ケ谷宿

元々保土ケ谷は「程ヶ谷」から転換された地名です。

冬の程ケ谷宿

程ケ谷宿

中世文書でも「程ヶ谷」のケは小さいケです。
さて、保土ケ谷駅に戻ります。

1887年(明治20年)7月11日程ヶ谷駅が開業します。
この時期に<程ケ谷>がらみの新規鉄道敷設出願も行われます。
多くが現在国道16号線(絹の道)が走っている(保土ケ谷〜八王子)路線を鉄道が走ることを目論見として出されています。
◆武相鉄道
明治27年5月30日 出願
横浜〜程ケ谷〜原町田〜八王子
出願者:雨宮啓次郎 ほか
◆南武鉄道
明治27年5月30日 出願
程ケ谷〜原町田〜八王子
出願者:伊藤茂右衛門 ほか
◆相武鉄道
明治28年12月 出願
吉野駅(津久井)〜程ケ谷、厚木〜藤沢
◆武蔵鉄道
明治28年4月20日 出願
出願者:柴原和也 ほか
程ケ谷〜五日市
◆京浜鉄道
明治28年12月 出願
出願者:雨宮啓次郎 ほか
※「保土ケ谷区史」より
これらの出願は全て却下され、実現することはありませんでした。
もしひとつでも実現していたら、横浜の交通環境は大きく変わったに違いありません。

保土ケ谷関連
【保土ケ谷区】歌人 荒波孫四郎
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7162
No.249 9月5日(水)保土ケ谷駅周辺散策
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=355
No.82 3月22日 神戸産東京麦酒
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=535

Category: 鉄道一般, 【横浜の鉄道】 | 第929話【保土ケ谷区】程ケ谷駅 はコメントを受け付けていません
6月 25

第894話 【横浜・大正という時代】その1 新港埠頭

今年2017年は横浜市開港記念会館が開館100周年を迎えます。

開港記念会館

1917年(大正6年)7月1日のことです。今年は様々な記念行事が予定されているようです。
この横浜市開港記念会館、竣工当時は「開港記念横浜会館」呼ばれました。
さらに時代を遡れば、当初は「町会所」その後「横浜貿易商組合会館」「横浜会館」となり明治の横浜の商工業界(現在の商工会議所)の<シンボル>でもありました。
残念なことに横濱会館は明治39年に焼失し再建が望まれ完成したのがこの「開港記念横浜会館」です。

第821話 1989年(平成元年)6月16日ドーム復元工事

【謎解き横浜】弁慶の釣り鐘は何処に?

戦前、神奈川県、横浜市など<官>に対して民のモノ言う組織としてアクティブな活動をしてきたのが横浜商工会議所です。開港記念会館は横浜商工会議所の歴史とともに歩んできました。
今回から何回かに分けてこの開港記念会館が完成した大正時代の横浜について自分なりに整理をしていきます。

(大正という時代)
1912年から1926年を元号から「大正時代」と呼びます。近現代の中で最も短い期間ですが、実に変化に富んだ時代でもありました。歴史業界(?)でも大正再評価ブームのようです。
この大正時代 横浜はどんな街だったのだろうか?これが私の歴史的関心事の一つです。
歴史を考える基本作業として 幾つか切り口を設定してみました。
・小横浜
横浜は幕末から開港の拠点となります。
その後、明治維新を迎え、国際港として発展していきますが、<横浜>の町としての行政単位は狭いエリアでした。
国際都市が発展していく過程で、周辺地域が港を支える市街地として<宅地化>していきます。そこで横浜は明治期の終わりまでに二回の市域拡張を行います。
大正期の14年間に市域拡張はありませんでした。
■市域拡張一覧
・横浜市制時(明治22年4月1日)   5.40(平方キロメートル)
・第1次市域拡張(明治34年4月1日)  24.8
・第2次市域拡張(明治44年4月1日)  36.71
・第3次市域拡張(昭和2年4月1日※) 133.88
(※昭和2年10月1日区制施行)
・第4次市域拡張(昭和11年10月1日) 168.02
・第5次市域拡張(昭和12年4月1日)  173.18
・第6次市域拡張(昭和14年4月1日) 400.97
■第二次市域拡張
「久良岐郡屏風浦村」より<大字磯子><滝頭><岡(旧禅馬村の地域)>。
「大岡川村」より<大字堀之内><井土ヶ谷><蒔田><下大岡><弘明寺>。
「橘樹郡保土ケ谷町」より<大字岩間字池上><東台><外荒具><道上><塩田><反町><宮下><殿田><関面><久保山下(現在の西区東久保町・久保町・元久保町、保土ケ谷区西久保町)>を編入します。
市制施行時には横浜港周辺の5.4 km² に過ぎませんでした。
開校以来40年近い時が流れ、明治34年に一回目の市域拡張を行いますが面積は24.8km²。
二回目でも総面積36.71km²でした。
面積は現在の横浜市域の十分の一以下です。
横浜市は 明治・大正、昭和に入るまで小さな街だったのです。
大正時代という視点で考えると、横浜市は明治期に二回拡張を行い、昭和まで拡張されませんでした。この第二次市域拡張エリアが、初期横浜時代の市域でした。大正から昭和にかけて充実する「市電網」は
ほぼ第二次市域拡張エリアと重なっています。

第883話【時折今日の横浜】4月1日年度初め

【番外編】市域拡大は元気なうちに!?

■比較資料として「神戸市」の市域拡張も紹介しておきます
・明治22年4月1日  21.28(平方キロメートル)
※明治22年は全国で市制制度が施行され約40の市が誕生しました。
・明治29年4月1日  37.02
・大正9年4月1日  63.58
・昭和4年4月1日  83.06
・昭和16年7月1日  115.05
・昭和22年3月1日  390.50
・昭和25年4月1日  404.66
・昭和33年2月1日  529.58

(貿易特区)
最近「特区」が話題になっています。明治期に特区といった用語はありませんでしたが、横浜市は開港以来、国際貿易特区として重要な役割を担ってきました。帝都東京に近く小さくも交易港として日本一の取引を誇ります。
ところが横浜港は 港湾機能が国際的には<不評>でした。
港が北向きということもあり強い北風の影響がありました。
明治期に完成した<鉄桟橋>も20世紀に入り急速に発展した巨艦商船時代に対応できず、相変わらず沖に停泊、艀(はしけ)港内を走り回る状況で、新しい大型港湾施設が切望されていました。
実は明治維新以降の日本は国内最大の内戦<西南戦争><日清戦争><日露戦争>など、戦費負担のために国内インフラ整備が追いつかない経済状態にありました。
ようやく新しい港湾施設<新港埠頭>計画が明治後期(1899年)に持ち上がり大正初め(1917年)に完成します。
鉄桟橋(現大さん橋)の改良と、新しい港湾施設(新港埠頭)の完成によって横浜市は新しいステージを迎えます。

■新港埠頭の時代
大正期の横浜、特徴の一つが新しい国際港としての港湾施設の完成<新港埠頭の稼働>です。
この新港埠頭の稼働に伴い、鉄道も埠頭内まで開通。
日本全体も鉄道時代の幕開きとなり、物流革新が横浜港を後押しします。
新港埠頭と幹線を繋いだ鉄道の名残が現在の人気ルート「汽車道」です。

No.103 4月12日 「新港埠頭保税倉庫」から「赤レンガ」へ

【横浜の橋】No.12 万国橋(新港埠頭)
<2へ続く>

4月 2

第883話【時折今日の横浜】4月1日年度初め

4月になりました。“新”の多く付く時期です。
新学期、新入社員、新年度、新しい職場等。
4月1日は新制度や、新設の多い日なのでブログネタには困りません。
ここで
横浜の4月1日にふさわしいエイプリルフールネタ無いか?
と探しましたが時間切れ。
ということで 今日は「横浜誇張史」モトイ「横浜拡張史」にします。
横浜を知るベイシックテーマでもありますので
基本を押さえる感じで紹介します。
横浜市は市が誕生してから6回市域を拡張します。
その内、5回が年度初めの4月1日に行われました。
【市域拡張日】
(横浜市誕生)1889年(明治22年)4月1日
(第1次) 1901年(明治34年)4月1日
※10年後
(第2次) 1911年(明治44年)4月1日
※16年後
(第3次) 1927年(昭和 2年)4月1日
※9年後
(第4次) 1936年(昭和11年)10月1日◎
※一年後
(第5次) 1937年(昭和12年)4月1日
※2年後
(第6次) 1939年(昭和14年)4月1日
こう並べてみると第4次が気になりますよね!
さらに拡張の間隔で比較すると
第3次拡張まで38年
その後の6次拡張まで10年となります。
10月1日の市域拡大
唯一10月1日に拡張した◎の(第4次市域拡張)は
<旧相模国>鎌倉郡永野村が中区になり
<旧武蔵国>久良岐郡金沢町、六浦荘村が磯子区に編入したイレギュラーな拡張でにあたります。

武蔵国だった横浜市が<律令時代>を超えて、相模国の領域を初めて編入します。

過去ブログで簡単な市域拡張を紹介しました。
【番外編】市域拡大は元気なうちに!?

<人口膨張>
6回の市域拡張に面積と人口を重ねてみます。
(横浜市誕生)1889年(明治22年)4月1日
面積 5.40km2  人口121,985 人
(第1次) 1901年(明治34年)4月1日
面積24.80km2  人口 299,202 人
(第2次) 1911年(明治44年)4月1日
面積36.71km2  人口 444,039 人
(第3次) 1927年(昭和 2年)4月1日
面積133.88km2  人口 529,300 人
※10月に区制となり最初の5区誕生
第二次・第三次の頃と最盛期の市電域が重なります。

(第4次) 1936年(昭和11年)10月1日
面積168.02km2  人口 738,400 人
(第5次) 1937年(昭和12年)4月1日
面積173.18km2  人口 759,700 人
(第6次) 1939年(昭和14年)4月1日
面積409.97km2  人口 866,200 人
※7区になります。
1942年(昭和17年)人口1,015,900人(百万人突破)
1945年(昭和20年)人口 624,994 人
1952年(昭和27年)人口1,013,075 人(百万人回復)
1968年(昭和43年)年度中に200万人突破
約16年で100万人増加
1985年(昭和60年)年度中に300万人突破
約17年で100万人増加、戦後40年で約240万人増加
ここに鉄道網を重ねてみると
横浜は、「横浜駅」を軸に放射状に成長し戦後は環状線を目指してきたことがよく分かります。

少子高齢化のこれから、この巨大都市はどうなっていくのでしょう。
(4月1日の過去ブログ)
No.92 4月1日 横浜市交通局ブルーライン大人200円

Category: 鉄道一般, 【資料編】, 横浜市電 | 第883話【時折今日の横浜】4月1日年度初め はコメントを受け付けていません
3月 28

第880話【絵葉書の風景】横濱乗物図鑑(加筆修正)

「車馬交通の最も頻繁なる桜木町通り」

私のお気に入りの絵葉書の一枚です。
改めて見直すとこの<風景>少々 不自然さ感じませんか?
意図して、当時の乗物すべてをここに集めて撮影したとしか思えない構図となっています。
カメラマンは市内の乗物を一同に並べ 一斉に走らせ シャッターを切った!
という感じがします。
市電は止まっているかもしれませんが、自転車を含め動きもあります。

(画像右から)□歩行者
電信柱の横、歩道に女性が歩いているのは判りますか?
□馬車
袋をいっぱい積んだ馬車と車夫
後続の馬車
□人力車
□多数の自転車
□高架に電車
□自動車
□市電(307番)上り線
横切る自転車荷車、大八車を引く人
空(から)のものから満載まで多様な荷車が道路を走っている姿が捉えられています。

■撮影時期の推定
大正13年〜昭和初期あたりと推定できます。
時刻は 左の時計から午後3時50分あたりでしょうか。

■画像左のマールの建築は「神奈川県農工銀行」
明治31年〜昭和19年まで営業

昭和4年

「農工銀行(のうこうぎんこう)とは、日本全国各地に戦前に存在した、特殊銀行の一つ。」で戦後勧業銀行に吸収されました。
こうやって改めて見直すと
まさに 「横濱乗物図鑑」のような風景です。
ここで空に航空機が舞えば パーフェクト、とまでは望まないことにしましょう。

Category: 鉄道一般, 横浜の駅, 【資料編】, 横浜の道, 横浜絵葉書 | 第880話【絵葉書の風景】横濱乗物図鑑(加筆修正) はコメントを受け付けていません
2月 25

第873話 【絵葉書の風景】駅前劇場

「横濱劇傷(場)
Yokoh Ma Tkoatrs Nera Yokohama Street.」
日本語も英語も怪しい! 誤植だらけ
キャプションの誤植は多けれど!!!たぶん
Yokohama theater near Yokohama Station.
ではないかなと推理しました。
英文は「横浜駅近くの横浜劇場」としたかったのではないか?
ということで 謎解きしてみます。

時代を遡り戦前、
関東大震災まで、横浜は日本有数の<劇場>が建ち並ぶ
賑わいの街でした。
劇場街の中心は<伊勢佐木町>でしたが
1915年(大正4年)8月15日に二代目横浜駅が高島町に開業します。この場所は 京浜電車、貨物用高架線、東海道線。そして市電が交錯する狭い空間でしたが、完成後駅前が少しづつ賑わっていきます。
その一つが<大劇場>の開業でした。
1920年(大正9年)9月11日
花咲町に歌舞伎などを行う総合劇場「横濱劇場」がオープンします。
二代目横浜駅から南へ約300mの<桜川>に面した場所だろうと思われます。東京と横浜の実業家達が出資し、劇場経営を松竹合名会社に任せます。
ところが
1923年(大正12年)9月1日に起こった関東大震災で焼失し
わずか3年弱でその姿を消すこととなります。
さらに時期を絞ってみます。
劇場前には「市川左團次」の役者のぼりが立っているのが判ります。
横浜劇場の演目記録から左団次を探すと
1921年(大正10年)6月初旬
大歌舞伎
市川左團次の「歌舞伎 義経千本桜」の興行がありますので、おそらく絵葉書の撮影時期はこの頃と推理できます。

「横濱劇場」は、当初の目論見と大きく異なり
交通事情も悪く(改善されず)経営不振に陥ります。
震災で焼失後、復活されることなく歴史から消えてゆきました。

横浜駅は、最初現在の桜木町に誕生し、二代目がこの絵葉書の劇場近くの高島になり
その後、現在の位置に移りました。
初代と三代目は華やかな歴史を刻んでいますが
8年の歴史を持った二代目「横浜駅」そして「横濱劇場」は殆ど語られることはありません。

Category: 鉄道一般, 横浜の駅, 【資料編】, 【横浜の水辺】, 横浜絵葉書 | 第873話 【絵葉書の風景】駅前劇場 はコメントを受け付けていません