4月 30

【市電ニュースの風景】1931年  №17

light_17号目下1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を読み解いています。1号を前回読み解きましたが、今回からタイミングを同じ暦に合わせて紹介します。
1931年(昭和6年)4月25日(土)〜5日1日(金)
(干潮 25日(土)は午后3時5分、26日(日)は同4時半、29日(祝日)は午前9時15分)
25日(土) 岡村天満宮文墨祭(電車天神道假停留所下車)
=市内児童の優秀書方奉納展覧)
同日 帝大對横濱高工野球戦(午后3時横濱公園、球場にて)
26日(日) ロスアンゼルス對母校連盟野球戦(正午 仝 所にて)
27日(月) 立教對松山高商野球戦(午后3時 仝 所にて)
29日(火) 産業振興大講演会(電車バス本町1丁目下車)
=午后2時より開港記念会館にて=
30日(水) 『郵船』龍田丸入港(午前中ホノルルより4号岸壁へ)
5月1日(木) 県立工業学校開校20年記念祭(電車バス二ツ谷・反町下車)
=3日まで校内一般縦覧並製品陳列即売=

懸賞標語
「行先は明瞭に・乗換は簡単に(当選者 山崎直吉)」
※(曜日)は追記しました。一部原文より新字・アラビア数字を使っています。
※仝は同の古字
[キーワード]
■干潮時間が「市電ニュース」に何故掲示されているのかといえば
この時期の市民レジャーの一つが潮干狩りでした。最も砂浜の面積が広がる干潮時を知らせることで 市民の外出を促しました。
現在横浜市内で潮干狩りができるのは金沢区の「海の公園・野島」の浜周辺です。blo海の公園看板98

■ロスアンゼルス對母校連盟野球戦
ここに登場するロスアンゼルスとはどんなチーム?
簡単な調べでは中々情報が出てきませんが、日米野球にとって1931年(昭和6年)は重要な年のようです。
別の年表からこの「ロスアンゼルス」チームが米国ロスアンゼルスの邦人チームと判明、それを手がかりにもう少し調べてみると、
「ロサンゼルス・ニッポンズ」という名のチームと思われます。
「若林忠志らのいた法政大学など日本の大学野球部やアマチュアクラブチームと対戦し圧勝」といった記事も見つかりました。
なぜ1931年が日米野球にとって重要かというと
1931年(昭和6年)米国メジャーリーガーのゲーリッグら選抜軍が<客船龍田丸>にて来日し初の日米決戦が実現します。全日本チームが結成されますが17戦完敗します。
さらに1935年(昭和9年)にはベーブ・ルースらが来日、日本では沢村栄治、伊達正男らが善戦しますが16戦全敗します。ベーブ・ルースはホテル・ニューグランドに宿泊しました。
この年に大日本東京野球倶楽部(現在の読売ジャイアンツ)が創設されます。
また、台湾初の台湾人と日本人と先住民による三民族混成の野球チームが台湾代表として甲子園大会(当時は「全国中等学校優勝野球大会」)に出場し、準優勝という快挙を成し遂げた実話を映画化したのが「KANO 1931海の向こうの甲子園」です。
http://kano1931.com

■天神道假停留所は「第一号その2」で紹介しました。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7279

■(神奈川)県立工業学校
1911年(明治44年)に開校した、神奈川県で最も歴史のある工業高校です。
現在は「神奈川工業高等学校」となり「かなこう」または「じんこう」と呼ばれています。
http://www.kanagawa-th.pen-kanagawa.ed.jp

■『郵船』龍田丸
龍田丸は、この3年のニュースの中でも頻繁に登場します。
ここで龍田丸の概略だけ紹介しておきます。

龍田丸

龍田丸は、日本郵船がかつて保有していた遠洋客船です。
1930年(昭和5年)三菱造船長崎造船所で建造されました。「龍田丸」は北米航路を隔週で運行し主な寄港地は香港・上海・神戸・横浜・ホノルル・ロサンゼルスおよびサンフランシスコでした。
起工:1927年(昭和2年)12月3日
進水:1929年(昭和4年)月12日
竣工:1930年(昭和5年)3月15日
就役:  同  年 4月25日
喪失:1943年(昭和18年)2月8日
総トン数:16,955トン
船客定員:総数839名
乗組員:330名
姉妹船:浅間丸と秩父丸(後に鎌倉丸に改名)
初航海は1930年(昭和5年)4月25日に横浜からサンフランシスコへ。No.39 2月8日 龍田丸をめぐる2つの物語

No.39 2月8日 龍田丸をめぐる2つの物語

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4月 24

【ミニミニ今日の横浜】2月26日

今日は 「青い目の人形」のことを紹介します。3月3日に紹介したほうがタイミングとして合うのかなと迷いましたが、

1927年(昭和2年)の今日、
「米国から贈られた人形の歓迎会が南吉田尋常高等小学校(現在の南吉田小学校)で開催」された記事を優先し紹介します。
この米国から贈られた人形とは 渋沢栄一が米国との交流を仲介し3月3日のひな祭りに間に合う様、日本に運ばれてきた「青い目の人形」のことです。
米国から贈られた人形の総数は12,739体+48体 計12,787体でした。
(関連ブログ)
No.374 1月8日(火)○●■△と横浜
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=209
アメリカからの「青い目の人形」プレゼントの正式式典は本牧小学校で
1927年(昭和2年)3月18日に来日したミス・アメリカと48体の各州代表人形を祝う歓迎式典として開かれました。この48体の各州代表人形は、式典の後26日に赤坂御所に運ばれ東京博物館(現国立科学博物館)上野別館で、同数の日本人形と共に公開されることになります。(現在は殆ど行方不明だそうです)
※本牧小学校
明治6年4月25日創立、昭和22年4月30日廃校。米軍に接収され、その後Nile Clarke Kinnick Middle Schoolとして一時期米軍関係者子弟のための学校として開校していました。
http://www.yohidevils.com/index.php…
http://www.yohidevils.com/index.php…
アメリカ本国に、当時の写真がアーカイブされています。
一方の1927年(昭和2年)の今日、
本牧小学校に先立ち、何故?南吉田尋常高等小学校(現在の南吉田小学校)が歓迎会を開催したのでしょうか?
南吉田尋常高等小学校は、明治38年4月に横浜市立第三高等小学校として創設されます。学校沿革史では、女子部として発足したと記されています。
この時明治38年4月に横浜市内(旧市域)に6つの高等小学校が設立されました。
以下少し苦労しましたが 六校をリスト化しておきます。
横浜市第一高等小学校が本町小学校
横浜市第二高等小学校が東(あずま)小学校
横浜市第三高等小学校が南吉田小学校
横浜市第四高等小学校が元街小学校
横浜市第五高等小学校が西戸部小学校(昭和22年廃校)
横浜市第六高等小学校が二谷小学校
話を元に戻します。
南吉田小学校(横浜市第三高等小学校)で本牧小学校に先立ち、何故?「青い目の人形」到着を祝ったのか?
推測の域を出ませんが、南吉田小学校の校章にヒントがあるかもしれません。
南吉田小学校の校章は<菊葉>に<南吉>
「輪郭は,皇室の紋章菊花にちなみ菊葉で表し、中央に校名を配置しています」
と学校のサイトにも記されています。
創設以来最初の<女子高等小学校>の伝統があったからではないでしょうか?
少し短絡的かもしれません。
ご存知の方がいらしたら 教えていただければ一つ謎が解けます。

「横浜人形の家」
http://yokohama-doll-museum.com

(2月26日関連ブログ)
No.57 2月26日 ある街のある店の歴史
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=564

 
河北 直治さんの写真
河北 直治さんの写真
河北 直治さんの写真
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4月 23

【市電ニュースの風景】第一号その2

前回に続き【市電ニュースの風景】第一号から今日はその2
この「市電ニュース」は毎週木曜日
市電車両内に掲示されました。
雑誌で言えば創刊号!ですが そんな派手な告知もなく
さり気なく掲示されたのではないでしょうか。
■第一号
1930年(昭和5年)12月25日発行
<1930年(昭和5年)12月〜1931年(昭和6年)正月>
二十五日(木)
「納の岡村天神詣(天神道假停留所下車)」
「市電ニュース」は156号までアーカイブされています。その中で、季節のイベント記事が多く告知されています。中でも神社仏閣関係の例祭や<市(いち)・縁日>などが多く紹介されました。
※岡村天神詣
岡村天満宮は「岡村の天神さま」として地域に親しまれています。創建は不詳ですが縁起によると鎌倉時代の建久年間(1190〜1198)に源頼朝の家臣が京都の北野天満宮の分霊をいただいて、この地に社を創建したことに始まるとされています。
ここも横浜に多い<杉山>天満宮から「岡村天満宮」と名称が変わり現在に至っているそうです。
light_横浜資料144※天神道假停留所下車
当時この岡村天神のお祭りがほぼ毎月25日に開かれ、多くの人達がここを訪れるために市電の臨時停留所が開設されたのが「天神道假停留所」です。
位置は「根岸橋」と「天神橋」の間でです。図にも示した通りこの臨時停留所から比較的(当時としては)広い道が滝頭小学校方向に繋がり参道(天神道)となったようです。
スクリーンショット 2015-04-23 4.51.02 この岡村天神の25日のお祭りを含め、岡村関係は頻繁に登場しますので都度紹介していくことにします。

二十八日(日)
「神戸市(電車バス保土ケ谷終点下車)」★
神戸市は「ごうどいち」と読みます。で現在復活して 保土ケ谷駅近くの会場で毎月第1日曜日に<宿場朝市 ごうどいち>として開催されています。
http://www.city.yokohama.lg.jp/hodogaya/kyutokaido/goudoiti.html

同 日 電車久保町延長線開通(予定)

三十日(火)
「郵船」大洋丸出港(午後三時桑港へ)
light_大さん橋風景083 light_大洋丸 =二十九日午前中 四号岸壁着=
light_新港埠頭上空(日本郵船の客船が停泊しているところが四号岸壁)
「大洋丸」はサンフランシスコ航路に就航した当時国内最大級の客船でした。ここに「郵船」とありますが、大洋丸は最初東洋汽船船籍の客船でした。
この「大洋丸」は波瀾万丈の船歴を持ちます。
1911年(明治44年)11月18日ドイツで建造され「カップ・フィニステレ(Cap Finisterre)en」の名で南米航路客船(ハンブルク〜ブエノスアイレス)間に就航しました。
※「カップ・フィニステレ(Cap Finisterre)」
http://de.wikipedia.org/wiki/Cap_Finisterre_(Schiff,_1911)#/media/File:Blucher_HAL.jpg
※フィニステレ岬(スペインの名所)
http://fr.wikipedia.org/wiki/Cap_Finisterre
1914年(大正3年)7月に始まった第一次世界大戦に8月1日ドイツ帝国がロシアに対して宣戦布告することで局地戦から世界を巻き込む大戦となります。
この時、カップ・フィニステレ号を所有するハンブルク・サウスアメリカ・ライン社(HSDG)は経営と船体保全のためハンブルグ港に<係船>を決定します。
この人類史上最初の世界レベルの大戦は1918年(大正7年)11月11日に休戦協定が成立し集結します。
1919年(大正8年)に入り、第一次世界大戦終結を受けてパリ講和会議が開催され、敗戦国ドイツに厳しいヴェルサイユ条約(対ドイツ講和条約)が調印されます。
※アメリカ議会は国際連盟を提唱したウィルソンのヴェルサイユ条約批准を否決。
この間、ハンブルグ港に<係船>されていたカップ・フィニステレ号は
戦後アメリカ海軍籍として軍用輸送船となり間もなく英国に引き渡されます。
この第一次世界大戦に日本は英米側の一員として参戦、結果戦勝国となります。ヴェルサイユ条約によって日本も賠償を得ることとなり権益や領土の他、
船舶や潜水艦など<物納>を受けることになります。(殆ど金がなかった)
light_20150423115800(戦勝賠償で横浜港に運ばれ係留されたドイツ潜水艦)

その中の賠償船割当客船舶が「カップ・フィニステレ(Cap Finisterre)」号でした。東洋汽船が国から引き受け(借受け)「大洋丸」と命名、太平洋航路に就航します。
1926年(大正15年)に東洋汽船の旅客船部門が日本郵船に吸収され、日本郵船船籍となります。
この「市電ニュース」に掲示された1930年(昭和5年)は日本郵船となっています。
大洋丸に関しても まだまだ紹介したいことがあります。その後の顛末を含め追々紹介します。

三十一日(水)
福引付全市聯合大売出最終日
=一月七日より景品引換(於市役所勧業課)=
※市役所勧業課
「市役所勧業課」は横浜市が区制後1935年に「産業課」→「産業部」→「経済部」→「経済局」その後は色々変わったので追いかけていません。

一月
二、三、四日(金土日)
羽田穴守稲荷神社臨時出張
=於伊勢佐木町四丁目(電車曙町下車)

「人は人道 車は車道 注意一瞬怪我一生」
この頃も交通事故が社会問題だったようです。
余談ですが この当時のタクシーのほとんどが「クライスラー車」だったそうです。昭和10年代は50銭、ちなみに市電は大人7銭、子供3銭だったそうです。
※( )曜日は今回追加したものです。また便宜上旧字と新字が混じっています。

次回は第二号へ

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4月 22

【市電ニュースの風景】第一号その1

1930年(昭和5年)12月25日
「市電ニュース」第一号が発行されました。
横浜市が震災復興に一つのメドがついた昭和5〜6年、
横浜市電が路線網を広げた時期です。
震災後の横浜で 元気を取り戻す原動力として横浜市の復興計画の柱に<市電網の充実>がありました。
市電網が拡充され利用者も増加する中
「市電ニュース」は毎週木曜車両内に掲示されました。
この「市電ニュース」アーカイブから昭和初期の風景を読み解いていきます。

市電ニュース1■第一号
1930年(昭和5年)12月25日発行
<1930年(昭和5年)12月〜1931年(昭和6年)正月>
二十五日(木) 納の岡村天神詣(天神道假停留所下車)
二十八日(日) 神戸市(電車バス保土ケ谷終点下車)★
同 日 電車久保町延長線開通(予定)
三十日(火) 「郵船」大洋丸出港(午後三時桑港へ)
=二十九日午前中 四号岸壁着=
三十一日(水) 福引付全市聯合大売出最終日
=一月七日より景品引換(於市役所勧業課)=
一月
二、三、四日(金土日) 羽田穴守稲荷神社臨時出張
=於伊勢佐木町四丁目(電車曙町下車)
「人は人道 車は車道 注意一瞬怪我一生」
※( )曜日は今回追加したものです。また便宜上旧字と新字が混じっています。
★二十八日(日) 神戸市は
「ごうどいち」で現在復活して 保土ケ谷駅近くの会場で定期的に開催されています。

■■■解説■■■
1930年(昭和5年)の暮れから「市電ニュース」はスタートしています。
この「市電ニュース」が始まった1930年(昭和5年)暮れを振り返ってみます。
(※翌年1931年(昭和6年)正月は特記事項がありませんでした)
当時の市長は有吉忠一です。
12月27日
★市電・市バスの連絡乗車券を発売する(電車からバスは8銭、バスから電車又はバスは5銭の連絡券をそれぞれの車内で販売)
★横浜・シアトル両市交歓のバラ(2,000本の内1,000本)三島丸で到着。
12月28日
保土ヶ谷線(道上〜保土ヶ谷駅間)開通
これによって市電の震災復興事業が完了します。
12月30日
横浜・シアトル両市交歓のバラ(2,000本の内残り1,000本)日枝丸で到着。
12月31日
閉鎖中の横浜電気館が復活しました。

(シアトルのバラ)
1930年9月、シアトル航路の初航海に向かう「日枝丸」には、高さ約4 メートル、重量約8.5トンもある巨大石灯籠(いしどうろう)が積まれていました。これは、関東大震災(1923年)で大きな被害を受けた横浜市が、米国の見舞金をはじめとするたくさんの支援へ感謝の意を込め、日米親善のシンボルとしてシアトルに贈ったもので、シアトル在住日本人会の提案が発端となったといわれています。この石灯籠は大変喜ばれ、日本人会がその数年前に寄贈した桜500本(※1)が植えられたシアトルのスワード公園入り口の最も目立つ所に設置されました。
そのお礼にと、シアトルから横浜市に送られたのが、50種2,000株(※2)にも及ぶバラでした。「三島丸」と「日枝丸」で運ばれたバラは、山下公園、野毛山公園、保土ヶ谷児童遊園地などに植えられました。太平洋戦争によって、一時は横浜から姿を消しましたが、戦後再び親善のシンボルとして復活します。80年以上を経た現在も、横浜市こども植物園にはシアトルから贈られたバラの子孫が、そしてシアトルのスワード公園には石灯籠が残っています。
※時期と数量に関しては諸説あるようですが、日本郵船旅の雑誌『THE TRAVEL BULLETIN』の情報を優先しました。

(1930年略年表)
1月11日 濱口内閣の主導で日本が金本位制に復帰(金解禁)
1月20日 梅蘭芳来日
1月21日 ロンドン海軍軍縮会議開催、衆議院解散
1月25日 省線桜木町・高島町間が高架線になった
2月5日 京浜電鉄が横浜駅に乗り入れ
2月20日 第17回衆議院議員総選挙
3月2日インドで、マハトマ・ガンディーが、市民的不服従による抗議運動開始
3月15日 横須賀線が電車に切換え
4月1日 湘南電気鉄道の黄金町 浦賀間と金沢八景 湘南逗子間が標準軌 (1435mm) にて開業。
4月10日 銀座三越開店
4月22日 ロンドン海軍軍縮会議終結。米英日の3国で軍備制限条約締結
4月24日 鉄道省が国際観光局を開設
6月10日 加藤寛治軍令部長が天皇に辞表を提出
7月10日 明治神宮プール公開
7月13日 第1回FIFAワールドカップ開催
8月21日 逓信省が東京・大阪間で写真電送開始
9月5日 浅間山爆発 (東京まで降灰)
9月14日 独総選挙でナチ党が躍進
10月1日 東京・神戸間に特急燕運転開始(8時間55分)
11月1日 名古屋市で市営電気バス登場
11月14日 濱口首相遭難事件: 濱口首相が東京駅で佐郷屋留雄に狙撃され重傷
11月16日 富士瓦斯紡績川崎工場争議で煙突男が出現
11月20日 最初の国立癩療養所長島愛生園開設
11月24日 警視庁がエロ演芸取締規則を各署に通達
11月26日 伊豆地方大地震(死者行方不明者331名、全壊4317戸)

次回は 「市電ニュース」に登場した横浜の風景を追います。

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4月 20

【横浜の国道】133開港の道物語  

目下横浜市内の国道を巡っています。横浜市内の国道は
1号、15号、16号、133号、246号、357号、466号があります。
かなり昔ですが自動車では市内全て走破しました。通過しただけですが。
さらに自転車では246号・357号の一部を除いて全て踏破しました。357号は厳密に言うと自転車では走行できない専用道が含まれているからです。466号は第三京浜なので自動車のみです。
246は自転車走行には適さない!道ですね。
今日はこの中から「国道133号」を紹介します。

スクリーンショット 2015-04-07 13.31.57

(国道133号)
全国数ある『国道』の中で、横浜市内に起点と終点のある超短い国道が133号線です。
総延長は1.4 kmで、歩いても2〜30分
「国道133号」一般国道の路線を指定する政令に基づく起点が横浜港なんです。
横浜港といっても横浜市内における横浜港といったら?
「大さん橋」です。
「国道133号」はこの大さん橋に入る交差点「開港広場前」が起点になります。

133起点

そして終点ですが、住所では横浜市中区桜木町一丁目(桜木町一丁目交差点)にあたります。
「開港広場前」から「桜木町一丁目交差点(JR根岸線鉄橋下)」までが国道133号線。
全国ランキングでもベスト5に入る短い国道の一つです。
国道174号(0.187km)
国道130号(0.482km)
国道198号(0.6km)
国道177号(0.7 km)
国道133号(1.4 km)
これらの短い国道に共通するのが、港から基幹(主要)国道まで繋がっているということです。港国道(みなとこくどう)と呼ばれています。
「国道133号」の歴史は古く、
1876年(明治9年)6月8日に出された太政官達第60号「道路ノ等級ヲ廢シ國道縣道里道ヲ定ム」という<お達し>から始まります。
■國道
一等 東京ヨリ各開港場ニ達スルモノ
二等 東京ヨリ伊勢ノ宗廟及各府各鎭臺ニ達スルモノ
三等 東京ヨリ各縣廳ニ達スルモノ及各府各鎭臺ヲ拘聯スルモノ
□縣道
一等 各縣ヲ接續シ及各鎭臺ヨリ各分營ニ達スルモノ
二等 各府縣本廳ヨリ其支廳ニ達スルモノ
三等 著名ノ區ヨリ都府ニ達シ或ハ其區ニ往還スヘキ便宜ノ海港等ニ達スルモノ
◯里道
一等 彼此ノ數區ヲ貫通シ或ハ甲區ヨリ乙區ニ達スルモノ
二等 用水堤防牧畜坑山製造所等ノタメ該區人民ノ協議ニ依テ、別段ニ設クルモノ
三等 神社佛閣及田畑耕耘ノ爲ニ設クルモノ

「國道」は一等から三等に分けられ、
一等は幅七間 二等は幅六間 三等は幅五間と決められました。
※一間は約1.818m
現在の「国道133号」は、かつて「一等 東京ヨリ各開港場ニ達スルモノ」にあたりました。
といっても当時は<道路>より<鉄道>の時代でした。本格的に道路整備が始まったのが1885年(明治18年)のことです。
1885年(明治18年)1月6日 太政官布達第壹號
「今般國道ノ等級ヲ廢シ其幅員ハ道敷四間以上並木敷濕抜敷ヲ合セテ三間以上總テ七間ヨリ狹少ナラサムモノトス   但國道路線ハ内務卿ヨリ告示スヘシ」
1885年(明治18年)2月24日  内務省告示第六號
1月6日の太政官布達第壹號を受けて「國道表」が作られ、明確な路線が確定します。
その中で第一号が
「壹號 東京ヨリ横濱ニ達スル路線」
日本橋・品川・川崎・神奈川・横濱  となり国道整備が始まりました。
現在の道路整備の骨格となったのが大正8年に公布された
「法律第五十八號」最初の(道路法)です。
例えば
第二條
左ニ掲クルモノハ道路ノ附屬物トシ道路ニ關スル本法ノ規定ニ從フ但シ命令ヲ以テ特別ノ定ヲ爲スコトヲ得
一 道路ヲ接續スル橋梁及渡船場
二 道路ニ附屬スル溝、竝木、支壁、柵、道路元標、里程標及道路標識
三 道路ノ接スル道路修理用材料ノ常置場
四 前各號ノ外命令ヲ以テ道路ノ附屬物ト定メタルモノ
道路に関係する「橋梁及渡船場」「溝、竝木、支壁、柵、道路元標、里程標及道路標識」「道路修理用材料ノ常置場」等も道路法の下で管理されると明記されます。
区分も
國道、 府縣道 、郡道、市道 、町村道の5つに分けられます。明治の「里道」がより細かく市道 、町村道に分けられることになりました。
国道1号線は
一號 東京市ヨリ神宮ニ達スル路線
經過地
横濱市 神奈川縣足柄下郡箱根町 靜岡縣田方郡三島町 靜岡市 濱松市 豐橋市 岡崎市(八丁橋經由) 名古屋市 四日市市 三重縣三重郡日永村 津市(宇治山田市宮川町通經由)
となり現在の東海道(国道1号)に近くなります。
その後
「三十六號 東京市ヨリ横濱港ニ達スル路線」(現在の国道15号と国道133号)
国道の名称は戦前戦後で何回か変更になりますが、
1965年(昭和40年)4月1日
道路法改正により一般国道133号として現在に至ります。
現在の「国道133号」を紹介しましょう。
(ルート133)
開港広場: 起点となった開港広場はペリーが上陸し、日米交渉が行われた場所です。税関桟橋(大さん橋)の入口でもあります。
「国道133号」はある意味開国の道ですね!

ペリー上陸の図3

歴史的な建造物を抜けていきます。
起点の標識は開港資料館の前に建っています。

133日本大通り

(日本大通・本町通)
次の「開港資料館前」交差点の信号を左に曲がり「日本大通り」に入ります。

133神奈川県庁133昭和20年代

右手に神奈川県庁本館が建っています。ここから横浜三塔が見えます。<横浜三塔の見える国道>ですね。右手に日本最初の外国郵便を取り扱った「港郵便局」

この「港郵便局前」交差点を右に曲がり本町通りに入ります。次の信号で「開港記念会館」となり、さらに本町通りを進むと左右に銀行が立ち並び、横浜の中心街であった(?)ことを感じます。

※「日本大通」「日本大通り」二種類の表記が使われていますね。

light_PA267435

133銀行会館

(馬車道)

「国道133号」は<本町通>と重なり馬車道駅のある交差点で左に曲がりますが、この道はかつてはみなとみらいに向かう道がありませんでしたので道なりに桜木町方向に曲がっていました。

133馬車道から

この馬車道交差点界隈も横浜開港史の原点となる施設が集中していた<北仲エリア>に沿って日本最初の鉄道駅「初代横浜駅」に向かいます。

light_初代横浜駅前822

(弁天橋)
弁天橋は1871年(明治4年)に吉田橋など開港に伴う関内外を結ぶ橋として架けられました。最初は木造の<桁橋>でした。

1873年(明治5年)橋台と橋脚がレンガ巻の鉄筋コンクリート製、上部に木造のアーチ構造の橋に掛け替えられます。四隅の橋柱にはガス灯が設けられていました。
1908年(明治42年)9月にプレートガーダー橋に架け替えられ
1923年(大正12年)の関東大震災で被災しましたが落橋は免れ、
1928年(昭和3年)10月に復旧工事が完了しました。
1976年(昭和51年)鋼材の腐食により鋼床板鋼鈑桁3連ガーダー橋に架け替えられ現在に至ります。

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(初代横浜駅)

明治5年5月7日〜大正4年8月15日まで初代横浜駅として開設、営業していました。

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(国道16号)

「国道133号」の終点は、桜木町駅前の国道16号線との合流点です。現在の位置で根岸線高架線の真下にあたります。

133終点

横浜史を巡る<国道133号>のウォーキングは如何ですか?

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4月 14

【今日の横浜】1月23日横浜輸出洋傘工業組合設立

1931年(昭和6年)の今日
横浜歴史年表に「横浜輸出洋傘工業組合が設立」されたとありました。
明治以降、和洋が区別された生活が多くあります。
和洋食、和服(和裁)、洋服(洋裁)、洋学に対しては国学としました。
洋食・洋裁は現在も残っていますが洋傘とはほとんど言いません。
完全に和傘が淘汰された結果です。
戦前の風景をみると 和傘あり、洋傘あり。
女性の服はなかなか洋風になりませんでしたが、洋傘はいち早く女性の間に普及していきました。
普及とは不思議な現象ですね。

洋傘のことを一昔前まで、こうもり傘と言いました。
語源は多説あり、開いた形がコウモリの飛ぶ姿に似ているので,明治初年にこの名がついたという説、「傘をかぶる」が「こうむる」からコウモリ説。
最も有力なのがペリーが来航した際、持ち込んだ洋傘を「その姿、蝙蝠(こうもり)のように見ゆ」と比喩したことから始まったという説です。
明治末に出版された「明治事物起原」では
万延元年にアメリカに渡った咸臨丸の提督木村摂津守(きむらせっつのかみ)が米国で一本の黒い傘を購入し帰国した際、外で使っては攘夷浪人に狙われるから屋敷の中でばかり使ったのが洋傘の使い始めと記録されています。

優れた和傘文化のあった日本ですが、最初は輸入商品でした。まもなく洋傘を作り始め、安さと職人の技術力で、瞬く間に洋傘は<輸出商品>の花形となります。特に東京横浜で多く作られましたが、関東大震災で洋傘製造は関西に移行します。
昭和に入り、産業も次第に復興し横浜の傘職人さん達が、材料の調達や外国のニーズに対応するため輸出組合を設立することになったようです。
(1月23日関連ブログ)
No.23 1月23日 大正の正義

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4月 14

【今日の横浜2015】1月22日

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1987年(昭和62年)の今日
財団法人「横浜博覧会協会」が発足し第1回理事会が開催されました。
開催後については下記のブログで紹介しています。
No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=533

No.431 「みなとみらい」地鎮祭開催
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=141

ここでは少し「横浜博覧会YES89」前史を紹介しておきましょう。
開催の契機
横浜で博覧会開催の構想が生まれる契機となったのが1981年(昭和56年)に当時の細郷道一市長が掲げた「よこはま21世紀プラン」でした。
「市制 100周年を記念する国際的な行事等について検討する」と具体的に目標が掲げられたことがスタートラインとなります。
1983年(昭和58年)11月8日「みなとみらい21」起工式
調査・検討が重ねられた結果
1984年(昭和59年)市長は
「昭和64年の市政100周年記念事業は、国際文化都市横浜のイメージアップ、文化的な都市環境づくりとなるものを行う。構想づくりに際しては民間組織や有識者を含めた検討組織を設けて、大いに民間の知恵を活用していく」と市会で大枠を示します。今でこそ<民間の知恵を活用>するのは常識“常態化”していますが、これまでとは一歩踏み込んだフレームといえるでしょう。
1985年(昭和60年)
「横浜市制100周年記念事業基本構想検討委員会」 設置
「横浜・丘と海の祭り」100人委員会 設置(会長 牧野昇<三菱総合研究所会長>)
11月20日実行計画案提出
「みなとみらい21地区で世界的スケールのビッグイベントを〜市民参加型の新しい博覧会を開催」と提案します。
1986年(昭和61年)
提案を具体化するために市長を会長とする
「横浜・丘と海の祭り協会」が設立され開催準備が具体化されるようになりました。
そして
1987年(昭和62年)
「横浜・丘と海の祭り協会」を財団法人化し財団法人「横浜博覧会協会」が発足します。
会長には経団連生え抜きの花村仁八郎副会長が、副会長には高木文雄株式会社横浜みなとみらい21社長が選出されました。
略称をYES’89とすることや、会期、テーマ「宇宙と子供たち」などを決定し、首都圏に残された<空間=みなとみらい21>を使った壮大な博覧会計画が始まります。

※この時、実質横浜博覧会を仕切った高木文雄は、傍系から大蔵省事務次官(1974年6月26日〜1975年7月8日)となった異色官僚で、その後1976年(昭和51年)3月に第8代総裁に就任し国鉄再建に辣腕を振るいます。
彼もエピソードの多い 90年代の横浜を語る上で欠かせない人物です。

(1月22日関連ブログ)
No.22 1月22日 大谷嘉兵衛を追って(加筆)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=601

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4月 14

【今日の横浜2015】1月21日

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1922年(大正11年)1月21日
小倉石油店が横浜に原油貯油所を開設。現在もJX日鉱日石エネルギー横浜製造所として稼働しています。
現住所は横浜市神奈川区子安通三丁目です。
この「小倉石油店」は埼玉県深谷出身の小倉常吉が12歳の頃、日本橋の油問屋の枡屋・長谷部商店に奉公後、
1889年(明治22年)に独立して石油業を開き日本屈指の製油事業にまで育て上げました。
戦前戦後、日本の石油会社も<金融機関>同様に離合を重ね大手数社に絞られてきました。現在業界第1位の占有率を持つ「JX日鉱日石エネルギー」の前身だった<日本石油=日石>が戦前有数の石油精製事業者となる過程で、最大のエポックが
1921年(大正10年)10月1日新潟の「宝田石油」との合併でした。
宝田石油は新潟に操業した当時日本最大級の石油企業です。
この国内最大の合併が行われた翌年、小倉石油店が横浜に原油貯油所を開設します。生き残りをかけた事業拡張でしたが、
1941年(昭和16年)6月1日、日本石油と合併し「小倉石油横浜製油所」は「日本石油横浜製油所」となります。

(沿革)
1922年(大正11年)1月21日ー小倉石油店が横浜に原油貯油所を開設。
1925年(大正14年)4月10日ー小倉石油店が小倉石油株式会社に改組。
1929年(昭和4年)12月ー小倉石油横浜製油所として操業開始。
1941年(昭和16年)6月1日ー小倉石油と日本石油が合併、日本石油横浜製油所が発足。
1946年(昭和21年)11月30日ーGHQの指令により、石油精製を停止。
1951年(昭和26年)10月1日ー日本石油精製設立に伴い、同社横浜製油所となる。
1997年(平成9年)7月ー日本石油精製が日石三菱石油精製に社名変更。
2002年(平成14年)4月1日ー日石三菱精製が新日本石油精製に社名変更、同社の横浜製油所となる。
2008年(平成20年)4月1日ー横浜製造所に改称。
2010年(平成22年)7月1日ーJX日鉱日石エネルギー発足により、同社の横浜製造所となる。(wikipedia参考)

関連ブログ
No.21 1月21日 日中ビジネスに成功した先駆者<岸田吟香>

No.21 1月21日 日中ビジネスに成功した先駆者(加筆文体変更)

1933年(昭和8年)の今日
鶴見ユタカ橋が開通しました。
この「鶴見ユタカ橋」は生麦のエピソードで紹介しています。
No.383 【生麦界隈】横浜史を生麦で体験

No.383 【生麦界隈】横浜史を生麦で体験

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4月 14

【今日の横浜2015】1月19日

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1874年(明治7年)の今日 星亨が第4代目の横浜税関長に就任した日です。
星は「高島学校」で英学を学び英語教師となるが陸奥宗光の推挙で明治政府に入り税関長となります。
あだ名は『押し通る(おしとおる)』と呼ばれた豪腕無双”で「明治の傑物」と評されました。その星を「押し」たる所以のエピソードが「女王事件」です。
税関長に就任早々英国のクイーン“Her Majesty”を「女王」と訳し、当時のイギリス公使パークスが激怒し「女皇」と訳せ!と抗議しましたが、星は自説を一歩も譲りませんでした。パークスは訴訟を起こし日本政府側は2円の罰金を科し横浜税関長の職務を解任することで問題解決を図ります。これが「女王事件」です。
この事件がきっかけかどうかは明確ではありませんが、星は税関長を辞任した後、大蔵省に戻りますが、まもなく英国に留学することを決意します。敵陣に乗り込むって感んじですね。
英国では難関のバリスター資格(Barrister=at=Law)「法廷弁護士資格」を取得し帰国します。帰国後、司法省附属代言人(弁護士)となります。
その後明治23年衆議院議員に当選し明治25年には衆議院議長。
29年に米国駐在特命全権公使、同33年に逓信大臣を歴任します、
明治34年の6月21日、東京市議会議長在任中に、東京市役所内で伊庭想太郎(いば・そうたろう、心形刀流剣術第十代宗家)に暗殺されてしまいます。

1月19日をテーマにした時、私の過去ブログがすぐに蘇ってきます。
恐らく700話書いてきたブログ中 アクセス数の多かったのが五島慶太をテーマにした
No.19 1月19日(木) 五島慶太の夢

No.19 1月19日(木) 五島慶太の夢


1日1話を始めた最初の頃のもので、
No.207 7月25日 (水)五島慶太の「空」(くう)

No.207 7月25日 (水)五島慶太の「空」(くう)

実は五島慶太が昭和28年1月19日付で
「城西南地区開発趣意書」という神奈川西部及び中部を含む開発計画ビジョンを提示します。
http://ja.wikisource.org/wiki/城西南地区開発趣意書
このエリアに関心のある方は ぜひこの「城西南地区開発趣意書」よ読まれることをお勧めします。

その他の1月19日
1920年(大正9年)の今日
横浜高等工業学校が市内 大岡町字中町・久能下(現在の横浜市南区大岡)に設置されました。この横浜高等工業学校は、1949年(昭和24年)5月31日に新制大学制度施行にともない「横浜国立大学工学部」となります。
この場所は現在 市営地下鉄「弘明寺駅」出口、鎌倉街道沿いにある「横浜国立大学教育人間科学部附属横浜中学校」が設置されています。
記念碑が校門脇に建っています。

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4月 9

【横浜絵葉書】弁天橋の日米国旗

light_20150408120248_001ここにある一枚の絵葉書には、弁天橋に大きなモニュメント(ゲート)が建てられ、日米の国旗が飾られています。上にはWELCOM 下には
「BANKERS & MERCHANTS YOKOHAMA」という看板が掛かっています。
スクリーンショット 2015-04-09 6.30.48横浜の商工会こぞって歓迎 という感じでしょうか。
位置的には、初代横浜駅側から 関内方向を向いていると思われます。スクリーンショット 2015-04-09 6.38.47 時期は 1908年(明治41年)10月
米国大西洋艦隊が世界一周の途中で横浜に来航する際、横浜の歓迎模様を記念絵葉書にしたものです。
米国大西洋艦隊は16隻の軍艦で構成され、白く塗られていたことから「白船」Great White Fleetと呼ばれました。
light_Great White Fleet米国大西洋艦隊の日本来航「白船艦隊」については別項で紹介します。
ここではその当時の横浜を中心に紹介しましょう。
開港50周年を翌年(1909年)に控えた横浜市では、全体的にお祭りムードでしかも当時の“険悪になった日米関係”を吹き飛ばすウェルカム感覚だったのかもしれません。市長は開口50周年を担当した三橋信方、ハマ市章や市歌を制定しました。

1908年(明治41年)崎陽軒が(初代)横浜駅構内の営業許可を得た年でもあります。また「横浜鉄道(後の横浜線)」もようやく(9月23日)開業し、横浜市内のインフラも少しずつ整備されてきた時期にあたります。
(弁天橋)
かながわの橋100選に選ばれている弁天橋、初代横浜駅から関内に渡る“玄関の橋”として多くの人が利用してきました。現在の橋は1976年(昭和51年)3月に竣工しました。
light_P2030273スクリーンショット 2015-04-09 6.32.17弁天橋が最初に大岡川に架かったのは1871年(明治4年)のことです。弁天橋は早期に整備された横浜港に向かう<港國道>の一つ「國道第一号」が通る横浜最初の国道に架かる橋です。現在は国道133号線となっています。
初代は木造の桁橋でした。
1873年(明治6年)にレンガを巻いた鉄筋コンクリート製の橋台と橋脚の上に木造のアーチ橋が掛け替えられます。この時に歩道も設けられ四隅の橋柱にはガス灯がありました。
そして、「白船来航」に合わせた?のか開港50周年記念事業だったのか調べていませんが1908年(明治41年)9月にしっかりとした“プレートガーダー橋”に架け替えられました。
この絵葉書は その竣工記念の意味合いもあるのかもしれません。
その後の弁天橋は1923年(大正12年)の関東大震災で被災しますが倒壊することはなく多くの人命を救うことになります。
1928年(昭和3年)10月に復旧工事が完了します。

(ウェルカム弁天通)
明治初期にこの弁天橋が架かることで、市民の多く利用した「吉田橋」に対し、横浜駅を中心にした表玄関として本町通り・弁天通りが栄えます。light_よこはま絵葉書001関内の横軸として<本町通り>が交通のメインストリートとなり、<弁天通り>は関内のショッピングストリートとなっていきます。light_20150301182246明治・大正・昭和前半、この通りは<ウェルカム弁天通り>と呼ばれ、横浜関内の銀座通り的な商店街として賑わいます。ここでも庶民の伊勢佐木、来訪者の弁天通りといった役割分担が出来上がっていました。

いまでこそ 関内の横軸は あまり違いが無くなってしまいましたが、昭和期まで関内の横軸線の各通りには個性がありました。
再度 縦軸と横軸を活かしたまちづくりを編んでみる時期でしょう。
スクリーンショット 2015-04-09 6.36.21
当時発行された「米国大西洋艦隊(白船艦隊)」歓迎の絵葉書light_2014122419-1908年米艦隊歓迎0light_20141224194306light_20150408120240light_20150428121720

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