1月 31

【横浜の橋】橋の名は?

当たり前だが橋にも“名前”がある。命名に規則は無く、地名や人名、企業名など様々だ。
橋の名には必ずその<川>の名が付く?lightP7170453lightP7170392 と素朴なギモンから市内の橋梁マップを眺め始めた。ザクっと眺めていくと
本流に限らず支流にも<支流名>が付いた橋が多くあることがわかってきた。
ところが
大岡川に「大岡橋」「大岡川橋」が見当たらない。探し方が悪い?
大岡川は上流で「笹下川(大岡川本流)」と「日野川」とに分かれる。それぞれに「笹下橋」「日野橋」があるのに?
少し長くなるが ここで大岡川本流だけの橋梁を一覧化してみた。
(国際橋◯)(港三号橋梁◯)
北仲橋◯
弁天橋◯
住吉橋(人道橋)◯
大江橋◯
<根岸線橋(鉄道橋)>
桜川B橋◯
桜川A橋◯
都橋◯
宮川橋◯
lightP7102830 長者橋◯
旭橋◯
旭橋人道橋◯
黄金橋◯
末吉橋◯
末吉歩道橋◯
太田橋◯
light20130929P9290190 栄橋◯
白金橋人道橋◯
道慶橋◯
一本橋◯
lightP7102867 山王橋◯
山王橋人道橋◯
(中村川に分流)
蒔田公園橋◯
清水橋◯
lightP3160036清水橋 井土ヶ谷橋◯
蒔田橋◯
鶴巻橋◯◯
大井橋◯
lightP3160015大井橋 弘岡橋◯
lightP7102992弘岡橋 さくら橋(人道橋)◯
観音橋◯
花見橋◯
与七橋◯
中里橋◯
向田橋◯
越戸橋◯
最戸下橋◯
<京急橋梁>
最戸橋◯
大久保橋◯
lightP7103058大久保橋 久保橋◯
青木橋◯
(日野川と合流)
松本橋◯
笹下橋◯
岡本橋◯
曙橋◯
大橋◯
武者ケ谷橋◯
関之橋◯
関の橋人道橋◯
上笹下橋◯
川島橋◯
打越側道(内外)◯
日下橋◯
埋田橋◯
曲田下橋
曲田橋
新川橋
元笹下橋
滝見橋
田中橋
錦衣橋
左右手橋
(暗渠)
峯下橋
朝顔橋
夕顔橋
天谷橋
松之内橋
大正橋
新大橋
塩木戸橋
<根岸線橋(鉄道橋)>
栗木橋◯
上中里橋◯
向坂橋◯
磯子台橋
陣屋上橋
上杉橋
神戸橋◯
関ノ向橋
遠向橋
中野橋
下ケ谷橋
氷取沢橋
村中橋
上之橋
◯印 渡ったことがある
にわか調べだが、大岡川に“大岡橋”がないことは間違いなさそうだ。
(中村川)
大岡川は「蒔田公園橋」下流で中村川に分かれ元町方向に流れている。
中村川は下流で「堀割川」分流し途中から「堀川」となる。
葭谷橋◯
吉野橋◯
共進橋◯
日枝橋◯
暁橋◯
池下橋◯
久良岐橋◯
light20130929P9290085久良岐橋 千歳橋◯
道場橋◯
浦舟水道橋(人道橋)◯
三吉橋◯
万世橋◯
東橋◯
東橋公園橋(人道橋)◯
車橋◯
翁橋◯
亀之橋◯
西之橋◯
市場通橋(人道橋)◯
前田橋◯
代官橋◯
谷戸橋◯
<ポーリン橋(歩道橋)>◯
山下橋◯
◆整理
ここで整理する。
横浜の水系
一級河川鶴見川には 鶴見名が多い。
「鶴見大橋」「鶴見橋(国道)」・「臨港 鶴見川橋」・「鶴見川橋」
準用河川入江川には「入江橋(国道)」
準用河川滝ノ川には「滝の橋(国道)」
二級河川帷子川には「帷子橋」
二級河川境川には藤沢市鵠沼に「境橋」
派境川(柏尾川・和泉川・相沢川・いたち川 他 川の名の橋有り)
二級河川侍従川には「侍従橋」
二級河川宮川には「宮川橋」
あらためて 大岡川に「大岡橋」が見当たらない。
ここでもう一点。
中村川になく堀割川に「中村橋」があるのもたまたまだろうが 不思議だ。

(大岡川)
大岡川はその昔南区蒔田あたりが河口で、深い入江が広がっていた。この入江を江戸商人 吉田勘兵衛が干拓に成功し吉田新田が誕生。
埋め立てた吉田新田を回りこむように大岡川本流と中村川が登場することになる。
「南区の歴史」(昭和51年刊)では
冒頭「大岡川のめぐみ」から始まる。
「大岡川は横浜市域最高地点の円海山(153m)※1の大地の水を北側から氷取沢に集め、笹下川として運び、南西側や日野台の水をあつめ日野谷を形成し日野川として流れこの二つの支流を中心に上大岡町関の下で合流し弘明寺まで流れていたとかんがえられる。」
※1 現在横浜市の最高地点は<大平山の尾根筋>にある。

(地名の由来)
大岡川の「大岡」という地名関係を調べてみると「久良岐郡大賀郷」のオオガが訛ってオオオカとなったという説が主流のようだ。
地名<上大岡>あたり、下流に向かって右手(右岸)が<岡>となっている最終POINT。弘明寺あたりから開けてくる地形となってるので大賀と大岡が重なったのかもしれない。

※それでもあった幻の
幻の「大岡川橋」が1980年代まであった。
現在のみなとみらい地区整備計画が決定し、その事業開始イベントとし「YES89」を計画。準備段階で大岡川最下流に架かっていた鉄道橋が廃止された。この鉄道橋が「大岡川橋」だった。
北仲の生糸検査所バックヤードから海上保安本部脇を抜けて大岡川を越え桜木町の貨物線に繋がる支線である。現在の「北仲橋」と重なる位置だ。
この今は無き「大岡川橋」は躯体を<汽車道>に一部短くしてリセットして「港3号橋梁」となった。lighthama017 個人的には
鉄道橋から一般橋梁と用途は変わったが 名称は「大岡川橋」を継承してほしかった。
改めて 大岡川一般橋梁に「大岡」の名がなぜ使われなかったのか?疑問を残したままこのテーマを終わることにする。

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1月 24

【横浜の橋】№5 移民橋

「移民橋」という名の橋はない。
移民の街だった「横浜」だからこそ“移民”の橋があった。
四方を海に囲まれた日本に暮らす我々にとって、国境は海にある。
「海外」という熟語がふさわしい。
国交を限定してきた江戸時代から明治に入り近代化が進む中、この国から移民を選ぶ人々の移動が始まった。lightWV050320 lightWV050348 横浜には明治以降多くの移民宿が誕生した。宿は移民船が多く出港した大さん橋や新港埠頭付近、初代横浜駅(桜木町駅)近くと駅と港を繋ぐ本町・相生町・住吉町五六丁目・馬車道北側あたりに点在した。light移民関係資料<JICA 移民資料館>

桜木町駅を降り立ち移民の関係者はそれぞれの「移民宿」に向かう。
恐らくほとんどの<移住者>が「弁天橋」を渡り宿または港に向かった。戦前の弁天橋は“移民橋”でもあった。lightP1220064弁天橋 今日の“移民橋”の話は戦後に始まる。

移民の手続きはかなり煩雑で一週間程度の時間が必要だったため移民を希望するものは家族との別れも含め移民宿での逗留が必要だった。
「移民宿」の正式名称は「外航旅館」外国に出国するための出国手続き中に留まる宿のことだが、利用客の中に移民が多かったことからこの名が付いた。
戦争直前、横浜市内(関内外近辺)には十七軒の「移民宿」があった。
戦争により休止状態となり、一部は焼失し無事だった宿も多くが進駐軍に接収され、すべての移民宿が消えた。
「戦後の移民宿は1952年(昭和27年)に再開された。」と「ランドマークが語る神奈川の100年」(有隣堂刊 読売新聞社横浜支局編)ある。
さらに調べてみると、
1950年(昭和25年)に「移民宿」が横浜駅前に新設されている。
戦後、横浜駅の表玄関は「東口」だった。駅前には広いロータリーがあり、駅前には昭和5年に竣工した新興倶楽部ビル(神奈川県匡済会ビル昭和52.7解体)が建ち、交通の要衝だった。
light2015-07-19 00.46.54「横浜駅」は帷子川の運河群に囲まれた島にある駅である。いまでこそ埋立と多くの橋によってほとんど意識しないが、横浜駅一帯は多くの橋によって結ばれている。現在も北には月見橋・金港橋、南には万里橋・築地橋がある。
戦後最初に誕生した「移民宿」は、駅から数分歩き帷子川に沿った万里橋と築地橋の間にあった。light横浜駅東口築地橋

この「移民宿」の名は「横浜ホテル」light横浜ホテル 神奈川都市交通(株)を中心に戦前の旧・外航旅館組合の有志が市と国に働きかけホテル計画を立てた。敗戦のため移民出国は無かったが、戦前に出国した<移民>の母国帰省需要が高まっていたのである。
このホテル計画は異例の速さで実現する。ホテル用地は横浜市が駅近く(横浜市西区高島通り1丁目5番地)を優先的に使用許可し、建設省も速攻で建築許可を出す。さらには日本交通公社もこのプロジェクトに参画、
1950年(昭和25年)7月に資本金1,000万円の株式会社「横浜ホテル」が誕生。
当時のハワイ(米国本土)からの移民帰省ニーズをいち早く取り込んだ。
大さん橋に付いた日系人達はおそらく国鉄か市電で横浜駅まで移動し「横浜ホテル」に逗留したと思われる。
「横浜ホテル」はハワイ日系人の故郷に錦を飾るホテルとして愛用され、利用者は外国人が50%、日系人40%、日本人が10%くらいだったそうだ。(東急ホテル史より)
開業当時は木造モルタル二階建て27室の小さなホテルだったがその後増築等で拡張し客室46(洋室28、和室12)、グリル・バー・宴会場なども新築された。
実は この「横浜ホテル」は計画当時から大東急傘下にあった横浜都市交通(株)の下でその後の東急Gに吸収される運命にあった。
1954年(昭和29年)東急電鉄(株)が「横浜ホテル」の株式を70%し傘下に収めた。この東急「横浜ホテル」がのちの「横浜東急ホテル」となり拠点を東口から西口に移転することになる。

戦後の「移民宿」の歴史は短い。「横浜移住斡旋所」を関内に設置し移民手続きや出港までの宿泊を国(外務省)が行うようになった(昭和31年)ことや、戦後の成長が始まり、移民の経済的要因がかなり無くなったことで1957年(昭和32年)頃をピークに減少に転じた。
1973年(昭和48年)に最後の移民船「にっぽん丸(あるぜんちな丸)」が出港し、その幕を閉じたのである。

東口「横浜ホテル」

1954年(昭和29年)6月30日東口「横浜ホテル」


ここにも別の角度から「横浜ホテル」に触れています。

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1月 23

【横浜の橋】№4 帷子川河口に架かる橋

目下、横浜の橋の原点ともなる「吉田橋」に関して資料発掘中。
面白い素材を発見したが<謎>が究明できないので別な話題として帷子川河口の簡単な取りまとめをしてみたい。
橋の多くは<川>に架かる。現代は陸橋も多いが、基本 橋といえば川になる。
横浜には大きく四大水系がある。
鶴見川(一級水系)
帷子川(二級水系)
大岡川(二級水系)
境 川(二級水系)
その他に入江川・侍従川といった小さな単独河川がある。
横浜は開港時、大岡川河口域に誕生した。埋立て前イメージ<帷子川・大岡川埋立前イメージ>

light2016-01-22 12.28.20釣鐘状の<吉田新田>の河口域に出っ張った<横浜村>の半島(砂州?)を埋め立てながら街を作り上げてきた。
開港場となる時、横浜は東海道からも一定の距離があり帷子川の河口がじゃまをして開港場にアクセスするには遠回りしなければならない。
そこで「横浜道」というショートカット道を突貫工事でなんとか完成させる。この時にこの「横浜道」のベースとなったのが、江戸時代に埋め立ての始まった新田の<エッジ>だった。
light横浜道図2 ここを仮に<帷子川第一堤防>と呼んでおこう。ここには「新田間川」「平沼橋」「石崎橋」の三つの橋が架かり出口となった。

その後、明治に入りさらに河口域に<帷子川第二堤防>が作られる。
日本最初の鉄道路線の用地として明治の政商「高島嘉右衛門」によって埋め立てられた<鉄道道>だ。「高島嘉右衛門」の事業だったので<帷子川第二堤防>は「高島」の地名が現在も多く残っている。lightM8石崎川 堤防といっても川を堰き止めることはできないので、ここにも幾つか<橋>を設けて川筋を作ることになった。
<帷子川第二堤防(鉄道道)>には「月見橋」「万里橋」「富士見橋」この三つの橋が架かり川の出口となる。明治5年のことだ。

開港から明治初期にかけて、
横浜港は貧弱な「象の鼻」しか無かった。必要に迫られた政府はしっかりとした港湾施設「大桟橋」の設計を英国人技術者パーマーに依頼する。
彼は横浜港北側に防波と帷子川導水(土砂の流れ込むを防ぐ)を兼ねて<帷子川第二堤防(鉄道道)>の真ん中にあたる「万里橋」の出口から湾内に「導水堤」を設置する設計を行う。
light横浜道導水堤lightimg071 1894年(明治27年)に横浜鉄桟橋(現在の大さん橋)が完成し、
1905年(明治38年)には新港埠頭第1期工事が完成、徐々に港のスタイルが固まってくる。一方で、<帷子川第二堤防(鉄道道)>を軸に埋立が進み、内側の<内海>そして外側も埋立が行われ 第二の橋が架かるようになる。
light帷子川埋め立て図 月見橋の先に「金港橋」
万里橋の先に「築地橋」
富士見橋は鉄道用地として埋め立てられ川筋が築地橋に集約され帷子川は二つの橋が出口となった。

大岡川がなで肩の釣鐘状の川筋であるのに対し
帷子川は肩ひじ張った矢羽のような川筋になっている。
この帷子川と大岡川の二つの川があったからこそ 現在の横浜が形成された。
マザーダブルリバーである。
横浜駅周辺、陸の賑わいに消えかかっている<帷子川>だが、
その歴史は橋とともに味わいがある。

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1月 19

【横浜の橋】№3-2 震災と横浜の橋

1月17日は阪神淡路大震災から21年目だった。
私たちは9月1日3月11日と共に忘れてはならない震災の日である。
“災害は忘れた頃にやってくる”のではなく
“災害は忘れなくてもやってくる”ことを自覚しておく必要がある。
地震災害はこの3回だけではない。明治以降地震災害は何回も何回も起こっている。
震災震源地被災図「関東大震災」における関内外の橋を吉田橋を中心に少し考えてみたい。
関東大震災で横浜市中心部は未曾有の被害を受けた。川(運が)の街である関内外のほとんどの橋が震災によって倒壊、半倒壊のために人々は避難路を失ってしまった。ここに台風の影響による強い南風が木造の家屋から出火した火災を煽り立てる結果となってしまった。
歴史地震第22号01-19 03.27.15湾岸の油槽からは油が漏れ出て、運河の一部が炎の道となる。
関東大震災の被害は東京が都市規模から最も大きかったが、震源地に近い「横浜市(神奈川県)」の被害もかなりのものだった。関東住宅被害比較住宅被災分布図倒壊上京08-31 23.00.32

震災誌によると
「更に橋梁を見れば、全市総数八十六橋の中、僅かに大江橋・吉田橋・辨天橋の三橋のみを残して他は殆ど墜落或は焼失しその骸型も止むるに過ぎなかった。」震災誌10章1節冒頭 市内にまず86しか橋がなかったこと。その中で資料にもあるように三つの橋以外は全て渡ることができなかった。スクリーンショット 2016-01-19 06.00.05
運河の町の避難する経路の多くを失ったということだ。
「大江橋」
この橋は、震災直前に竣工し最新の橋梁技術が導入されてこともあり、倒壊を免れた。

「辨天橋」
皮肉ではないがさすが大蔵省(現財務省)管轄の橋梁、丈夫にできていた。現在も橋脚部分は残っている。

「吉田橋」
下記の表を見て分かるように、吉田橋付近での避難中の被災死者数は関東大震災最大級であったことがわかる。歴史地震第22号19 03.28.36当時の第繁華街<伊勢佐木>や関内の人口集中地区での被災となったことや、吉田橋の袂には「伊勢佐木警察署」があったことも避難者の心理に逃げる方向をここに向けさせたかもしれない。
橋脚は無事だったが、街灯、欄干等はその後補修され一部デザイン変更があった。

スクリーンショット 2016-01-19 05.29.56<震災前>スクリーンショット 2016-01-19 05.41.39<震災後>

吉田橋際にあった伊勢佐木警察も倒壊し出火、全焼する。
少々余談になるが、被災した「伊勢佐木警察」について紹介しておこう。
現在大通公園脇(中区山吹町2番地の3)に位置しているが、市内警察署の中で最も移転した警察署ではないか(しっかり確認していない)
1877年(明治10年)1月25日
市政が始まり横浜市内に6つの警察署が設置された。
長者町・松影町・戸部・山下町・高嶋町そして伊勢佐木警察の母体となった堺町である。堺町警察署は当時、現在の「横浜地方裁判所」がある位置にあり関内の中心にあった。
1878年(明治11年)2月
横浜区内の6警察署(堺町、高島町、山手、松影町、長者町、戸部町)が統合し、横浜堺警察署に改称する。
1882年(明治15年)7月1日
横浜警察署に改称された。
1884年(明治17年)7月
堺町から伊勢佐木町25番地(吉田橋南詰)に移転。当時「鉄の橋(かねのはし)」として有名な吉田橋のたもとにあったことから、俗に「鉄の橋の大屯所(おおたむろ)」と呼ばれた。
1893年(明治26年)12月
地名にちなんで伊勢佐木町警察署に改称。
1923年(大正12年)9月1日
関東大震災で倒壊。二日後久保山→9月7日太田尋常小学校→10月5日初音町→大正13年9月に本願寺境内と4回にわたり仮庁舎が移転。
1925年(大正14年)10月
名称を伊勢佐木警察署に改称。
1926年(大正15年)11月
長者町5丁目に用地を買収
1927年(昭和2年)12月
本庁舎完成。
1945年(昭和20年)6月18日
戦災のため加賀町警察署へ一時統合。
1946年(昭和21年)9月
伊勢佐木警察署として再開。
1974年(昭和49年)
現在地に現庁舎が落成、移転。

最後に
横浜で最大の死者が出たのは中華街だった。狭隘道路に木造住宅と昼食時も重なり避難すらできなかった中華街の被害が推測でも2,000人を超えたという悲劇も忘れてはいけない。

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1月 17

【横浜の橋】№3 横浜を語るなら吉田橋を知れ

light三代目吉田橋20150713204857
三代目吉田橋

横浜の橋といえば「吉田橋」を採り上げない訳にはいかない。横浜開港場が誕生した時に架けられて以来、この町の成長を見守ってきた横浜の代名詞といっても過言ではない。今回から数回に分けて「吉田橋」を紹介する。
まずは簡単に「吉田橋」アウトラインを確認しておく。
現在の「吉田橋(よしだはし)」は中区伊勢佐木町と中区港町の境を走る首都高速道の上に“ある”。
light2014-12-05 15.34.25lightAZ101674 「吉田橋」いわゆる橋梁なのか地下施設の構造物の一部なのか?いささか疑問に思っている。橋梁の専門家ではないので 詳細はわからないが事実吉田橋はマリナード地下街の天井部にあたる。
首都高速道建設時の
1977年(昭和52年)10月29日にマリナード地下街が開業する際に上部を「吉田橋」としてかつてのトラス構造をモチーフにした欄干のある屋根に<建替え>られたからだ。ここにはベランダ?もあれば窓もある。light2014-12-05 15.38.46 この詮議は別の機会にし、簡単な歴史を整理することにする。
<吉田橋の歴史>
安政六年(1859年)開港時に<開港場>と<東海道>を繋ぐ横浜道が突貫工事ですすめられた。この時、横浜道の一端となる開港場と吉田町を繋ぐ仮橋が架かった。これが後の吉田橋である。同時に野毛の街と新田を繋ぐ都橋(野毛橋)も架かり、横浜道が完成した。

lightimg057 翌年の1860年(庚申万延元年)、開港場の<出島化>を図り中村川を延伸。
堀川を完成させ、そこに「谷戸橋」と「前田橋」を新設し<山手>と開港場の往来を確保する。
lightimg059(当然関門も設置)
※当時、開港場はまだ整地もままならない農地だった。
開港はしたものの、かろうじて外国人と江戸を中心とした商人たちが(仮)仕事場を作り始めたばかり。この時に、開港場に暮らす農民たちの土地を<地上げ>し、山手のもとに強制移住させたのが横浜元町である。
横浜沿革誌によると万延元年二月に「堀割の東山下へ農家九十余軒を移転せしめ、名を横浜元町と称す」とある。
◆初代
文久二年(1862年)に正式な橋として初代の「吉田橋」が設置される。
その後、横浜開港場を認めていなかった英国他の欧米各国も実質的に便利で安全な開港場を認めるようになり急速に変貌を遂げる。
※この年文久二年八月に「生麦事件」
明治維新を挟み、横浜開港場の物流は急激に増加し、
“おそらく”吉田橋はキャパを超えていたのだろうと想像できる。日本の近代化を支えた“お雇い外国人”による早期のインフラ整備事業の中に「吉田橋」の改築がある。
◆二代目
1869年(明治2年)「吉田橋」は灯台技師リチャード・ブラントンにより錬鉄製の無橋脚トラス橋に掛け替えられた。これが日本で2番目の鉄橋、二代目「吉田橋」である。light吉田橋鉄橋light二代目吉田橋富竹亭2015042812 一番目の鉄橋は、長崎のプレートガーター構造の「くろがね橋」。
「吉田橋」は当時世界トップクラスの橋梁技術を誇った英国の主流橋梁様式だったワーレントラス(正確には下路ダブルワーレントラス)桁構造で作られた。
サイズは
長さは「80フィート(約24.4m)
支間78フィート(約23.8m)
桁高5フィート2 1/3インチ(約1.6m) 「五十畑レポートより」
当時の吉田橋(かねはしと呼ばれた)
現役の鉄製下路式ダブルワーレントラス桁橋は
県内では「箱根登山鉄道早川橋梁」で見ることができる。

Cassiopeia sweet

◆三代目
1911年(明治44年)三代目「吉田橋」が完成。この橋が最も有名、絵葉書や写真に残っている。
light三代目震災後吉田橋20150710122321 light三代目吉田橋20150713204857 日本最初のカーン式鉄筋コンクリート橋に架け替えられた。
このとき歩道と車道、電車道が分離設計された。
設計は工手学校(現在の工学院大学)長に就任していた石橋絢彦(いしばし あやひこ)
※石橋絢彦
彼はイギリスに留学し灯台建築の技術を学び灯台局に勤務。その後、1889年(明治22年)に神奈川県庁内に横浜築港掛が設置され総監督がヘンリー・パーマーとなった際に臨時横浜築港北水堤現場監督として任に就いた。
三代目「吉田橋」については下記ブログも参考にしてほしい。
【しりとり横浜巡り】6月10日(火)吉田橋

【しりとり横浜巡り】6月10日(火)吉田橋


三代目、文献には関東大震災で倒壊を免れ、多くの人命を救ったといった記述が見られるが、これは事実誤認だろう。かろうじて倒壊を免れたが、関内外から避難者が殺到し多くの死者がでた現場となったという皮肉な結果となってしまった。スクリーンショット 2016-01-17 15.09.49 ◆四代目
1958年(昭和33年)開港100年祭に際し、老朽化していた「吉田橋」の架け替え工事が行われた。この時、仮設の人道橋が設置された。場所は吉田町商店街に入る分岐点あたりだった。
light第四代吉田橋20150508141734

◆五代目?
1978年(昭和53年)3月竣工。
1977年(昭和52年)に派大岡川を埋め立て首都高速が代わりに走ることとなった。
この首都高速道建設に際しマリナード地下街が10月29日に開業。上部が道路になり「吉田橋」としてかつてのトラス構造をモチーフにした橋に建替えられた。
冒頭の繰り返しになるが
現在の「吉田橋」が橋なのか地下施設の構造物の一部なのか?私は橋梁の専門家ではないので 詳細はわからない。
名は残っているが、ここはもう橋ではない、かもしれない。

さて 五代に渡る吉田橋の歴史を簡単に追ってきた。
なんとか全五代の吉田橋画像も手元の資料で紹介したが、三代目は震災と戦災で一部変更されているようだ。このあたりをもう少し詳細に詰めたかった。
次回は吉田橋150年の歴史の中から、エピソードをいくつか掘り出してみたい。

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1月 13

【横浜の橋】№0謎解き編 新旧玉手箱

ここに一枚の絵葉書があります。light大日本人造肥料株式会社001

タイトルは「大日本人造肥料株式会社横濱工場」です。
画像奥には社名の入った大煙突と工場の全景が写っています。
今日のテーマは、この「大日本人造肥料株式会社横濱工場」に架かる橋の謎解きをしてみます。
構造は少しアーチ状(太鼓橋ぽい)になった木製桁橋にも見えます。ここで製造した「肥料」はこの橋を渡って陸路運び出されたのか?
それとも海路を使って船便で搬出されたのかは分かりません。
まずこの橋の名は何か?
そのためには「大日本人造肥料株式会社横濱工場」の場所を特定する必要があります。
「大日本人造肥料株式会社横濱工場」は
現在の日産化学工業株式会社(にっさんかがくこうぎょう)です。
Wikipediaには
「1887年(明治20年)4月、日本初の化学肥料製造会社として誕生した。」とあります。
よ!横浜はじめてストーリーを飾ることができます。
戦後の財閥解体で現在日産自動車との資本関係はありませんが、戦前は旧日産コンツェルンの一員だったことで、肥料産業の位置づけが少しわかります。
<沿革>
●渋沢栄一(第一銀行創業者)、益田孝(当時の三井財閥有力関係者)など当時の財界首脳が発起人となって「東京人造肥料会社」を設立します。
1893年(明治26年)12月
 「東京人造肥料株式会社」設立。
1910年(明治43年)7月
「大日本人造肥料株式会社」に商号変更。
と「大日本人造肥料株式会社」関連の社史を調べてみましたが、
横濱工場が何時、何処に開設されたのかは分かりませんでした。
1918年(大正7年)
「大日本人造肥料株式会社横浜工場にて耐酸鉄器の製造を開始す(日本曹達工業年表p102)」
これが手元の資料で確認できた横濱工場の初出
場所は意外なところから確認できました。
◆横浜市震災誌 第3冊 第3編 各方面の被害と復興
第6章 商工業 第2節 工業
第2項 被害工場会社と復旧
22 大日本人造肥料株式会社横浜工場
新浦島町1-1
「大震災の際、火災に罹り、工場の大半は消失した。震災前に於いては相当の製造能力を有し、業態良好であったが、震災後は少量の完全肥料を製造し居るのみにて、震災前に比しては雲泥の差がある。(P409)」
震災誌「大日本人造肥料株式会社」は神奈川区新浦島町1-1にあったことが分かりました。
震災でかなりダメージを受け、
1931年(昭和6年) 2月に
「大日本人造肥料株式会社肥料試験場(横浜市子安)を白岡に移転」
※日産化学工業 社史
白岡は現在、埼玉県白岡市白岡で「生物科学研究所」となっています。

[埋立の町、新浦島町]
地図で確認してみると神奈川区<新浦島>には現在二つの橋が架かっています。
「新浦島橋」「荒木橋」
<新浦島>埋め立ての歴史は明治36年に神奈川地先海岸埋立計画が出願され2年後の明治38年に許可が下り、明治40年に「横濱倉庫株式会社」がこの事業に着手します。
1908年(明治41年)10月に「新浦島橋」「浦島橋」(同時期に「村雨橋」「千若橋」「千鳥橋」「常盤橋」)が竣工し11月に運河も完成します。
1910年(明治43年)
新浦島一丁目が設置。
その後
バナナ埠頭のある出田町(昭和2年)ができます。
No.447 いずたとばななの物語

No.447 いずたとばななの物語


埋め立て地「新浦島町」に架かる橋は当初一つだけで、
「荒木橋」が架けられたのは1955年(昭和30年)のことです。light昭和31年1956年

(消えた浦島)
「新浦島町」の沖に「千若町三丁目」ができそこに浦島橋が架かります。
大きな製鉄工場が進出しその後 拡張して出田町ができました。
「新浦島町」と「千若町三丁目」の間にあった<運河>が
戦後昭和39年〜40年頃に埋め立てられてしまいます。(当時の地図による推計なので確証なし)
このことによって「浦島橋」が無くなり
「新浦島橋」だけが現在まで残ることになります。
新浦島橋は今年平成28年度事業で架替工事中。完成。
light新浦島橋77 light新浦島橋工事http://www.city.yokohama.lg.jp/doro/kyouryou/kakekae/shinurashimabashi/
とここまで進んできました。
まとめますと
1907年(明治40年)に埋立が始まり
1908年(明治41年)に繋ぐ「新浦島橋」が完成
1910年(明治43年)に町名が「新浦島一丁目」、「大日本人造肥料株式会社」に商号変更。
1918年(大正7年)に横浜工場で耐酸鉄器の製造を開始
1923年(大正12年)震災で「火災に罹り、工場の大半は消失」

(新事実)
これまで積み上げてきた資料が一気に覆る?
ここに新たな事実が、「カナコロ」アーカイブにありました。
【新浦島橋】
「管理する橋梁課によると、正確な築造年はわかっていないが、明治末期から大正初期にかけて、炭素製品メーカーの日本カーボンが工場への専用橋として設置した。1955年に煉瓦の橋脚部分を残して上部の舗装部分を架替え1987年は同社の移転を機に市に移管」
http://www.kanaloco.jp/article/61678
「日本カーボン」は
1915年(大正4年)12月
横浜市神奈川区浦島ヶ丘に設立とあり、昨年100周年を迎える企業です。
1938年(昭和13年)に
横浜海岸工場建設、電刷子等高級炭素製品用素材の大量生産開始。

また、この「新浦島・千若」には1926年(大正15年)操業の「日本製粉」横浜工場があり現在も稼働しています。
昭和5年発行の地図にもしっかり「大日本人造肥料株式会社横濱工場」の位置がしめされていました。昭和5年新浦島あたり さてlight大日本人造肥料株式会社001
この「大日本人造肥料株式会社横濱工場」前に架かる橋の名は?
私としては「新浦島橋」であって欲しいですが、もしかすると
「浦島橋」???????謎、残されたままです。
JR東神奈川駅改札前に歴史紹介パネルがあり「大日本人造肥料株式会社横濱工場」がありました。橋もありますが<名前>は依然不明です。

「大日本人造肥料株式会社横濱工場」
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1月 12

【横浜の橋】№2 横浜最古の橋

横浜市内でこのような“橋との出会い”があるとは想像もしなかった。

まるで映画の一シーンのように“この橋”は目前に現れた。出会いの時期、ルートにも恵まれたのかもしれない。現存する最古のアーチ型石造橋だそうだ。lightP6030227「昇龍橋」
橋そのものの“古さ”から計ると横浜市内で最も歴史ある橋は中村川に架かる「浦舟水道橋」(近々紹介予定)だが、その場所に架かっている歴史から比較するとこの「昇龍橋」が最も古いということになる。
竣工した時代は資料上はっきりしていない。橋には「大正四年」とあるが、移動の可能性もあり明治三十年であるとか大正三年としている文献もある。
どちらにしろ この佇まいは周囲の環境を含めて“時間”を十分に感じさせる。
「昇龍橋」は境川水系の柏尾川支流「いたち川」(㹨川)の上流域に架かっている。
地番は横浜市栄区長倉町1388~1404
(出会い)
「昇龍橋」との出会いは偶然だった。
2012年の6月、横浜市内18区をバスで一筆書きのように通過(巡る旅)トライアル中にたまたま車中から見かけた<看板>に惹かれ降り立ったことに始まる。lightP6030165早朝6時にスタートしたバス巡りも北から左回りで戸塚区を抜け栄区に入り金沢八景行きのバスに揺られていた時だった。初夏の昼時「いたち川小川アメニティ」の看板に思わず停車ボタンを押していた。降り立ったバス停が「長倉町」だった。lightP6030167 lightP6030171降りてから分かったことだが「長倉町」は
「いたち川小川アメニティ」のちょうど真ん中にあたる。「権現山展望台」まで270m、「横浜自然観察の森入口」まで285mと指示された看板があった。この時に初めて記憶の中から「昇龍橋」という魅惑のキーワードが蘇ってきた。
いつか行きたいと思っていたがほとんど忘れかけていた橋だった。迷うことなく「昇龍橋」のある下流への道を選び、半分荒れた散策道(当時)を川筋に沿って歩くことにした。lightP6030177 lightP6030182lightP6030196場所によってはブッシュに阻まれ、掻き分けながら進むがせせらぎの<水>は美しかった。用意があればそのまま水の中を歩いてみたい思いがつのる。
しばらくして、「昇龍橋」は幻想的に登場した。苔むした石橋と周囲の木立の木漏れ日が実に美しい。
https://www.youtube.com/watch?v=vxG8PuvAEd4
(神戸)
「昇龍橋」の近くにはこのあたりの歴史を物語る地名が現在も使われている。「神戸」「八軒谷戸」「野七里」は集落のはずれを意味している。「神戸」の地名は面白い。(こうべ、こうど、ごうど、かんべ、かんど、じんこ、じんご、かのと)など読みが多彩で「神の戸」租税が免除される神社領の位置を表し、谷戸のつまりにあることが多い。「八軒谷戸」に至っては文字通り“八軒”程度しか民家がなかったことを表している。「昇龍橋」は資料を読むと元々「白山神社」の参道としていたち川に架けられたもので、白山の龍神信仰からこの橋は「昇龍橋」と呼ばれたのかもしれない。
横浜市内で最も高い「大丸山」一帯から流れ出るいたち川にはこの「昇龍橋」の他にも多くの橋が架かっている。
正確では無いが<河川橋梁図>等で数えるといたち川には80もの橋が架かっていた。義経橋、弁慶橋、源示橋、みなもと一の橋、みなもと二の橋といった鎌倉幕府に因んだもの。青葉橋、葉月橋、桧橋、山入橋、山里橋、森美橋(もりよしはし)といった名も、いたち川の特色を良く表している。lightP6030241 lightP6030232 lightP6030231 lightP6030230

今年、初夏にでも「昇龍橋」近くにある<超人気>の「上郷森の家」にでも泊まりながらこの一帯を散策されてはいかがだろうか。横浜の自然力を感じ取ることができるおすすめコースの一つだ。
http://www2.kamigou-morinoie.org

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1月 11

【横浜の橋】№1 絵になった跨線橋

道路をまたぐ橋を「跨道橋(こどうきょう)」、線路を跨ぐ橋を「跨線橋(こせんきょう)」、駅舎やホーム同士を連絡するために架けられるものを「跨線人道橋(こせんじんどうきょう)」と呼ぶ。nn作品展チラシこの中で「跨線橋」が描かれている有名な絵が松本竣介の描いた「Y市の橋」である。この作品を世田谷美術館で観て以来この作品群が気になっている。
「Y市の橋」の主題となった橋は、横浜市西区と神奈川区の境を流れる「新田間川」支流に架かっている<月見橋>である。「跨線橋」はその背景として描かれているに“すぎない”。
“すぎない”のだが、私はこの絵を見るたびにここに描かれている<跨線橋>が気になって仕方ない。「Y市の橋」の橋は「月見橋」とされているが跨線橋と月見橋が一体に見えるからだ。しかもかなりデフォルメされて描かれている。
事実、多くの専門家が指摘しているように松本はこの横浜市の「月見橋」そしてその奥に架かる跨線橋が大変気に入ったようだ。
1948(昭和23)年36歳にして亡くなった松本竣介の作品群の中でも、1940年代に同じタイトルで連作された“特異”な存在であるといわれている。light1942PY市の橋 light1944PY市の橋 light1944年Y市の橋
「月見橋」は横浜駅東口北側にある線路に沿った地味な橋だ。

light月見橋 近くにある予備校の生徒や近隣のビルを利用する人が渡ることが主流で、ぶらっと渡る人も少ない。ここを通るほとんどの人がこの橋の持っている物語について知らないだろう。
描かれた「月見橋」の歴史は古く、高島嘉右衛門が明治4年鉄道用に埋め立てた際に帷子川河口域の水路橋として「萬里橋」と共に整備されたものである。
light明治初期鉄道路完成頃当初木製の橋だった「月見橋」は震災で倒壊し、昭和3年に震災復興事業で鋼鈑桁橋に架け替えられた。1940年代初期に描かれたY市の橋は竣工直後のものである。
スクリーンショット 2016-01-11 02.50.04戦災で橋梁上部は壊滅的な被害を受けたがすぐに復旧し平成8年に架け替えられるまで現役だった。現在は長さ21.8m 幅7.3mのコンクリート製桁橋となり親柱だけが残されている。
松本竣介は1912(明治45)年4月、東京に生まれすぐに岩手県に移り住む。17歳で東京に戻り画家としての道を歩むようになる。以後、松本にとって作品の舞台の多くが<東京>の風景だった。
その中にあって、横浜駅近くの普通の風景に松本はなぜ釘付けとなってしまったのか。「Y市の橋」というタイトルで油絵4枚、スケッチも多数残されている。light194512sY市の橋 light194510Y市の橋 light1945sY市の橋幼少期に耳の病で聴力をかなり失ったため、徴兵されることなかった松本は、戦争の時代を都内で過ごした。時折足を伸ばし、横浜へと向かう。その時、特に横浜駅東口近くにあった「金港橋」(大正15年竣工)からこの「月見橋」がどう映って見えたのだろうか。なぜ海側ではなく山側の風景を選んだのだろう。
作品には「月見橋」の向こうに「跨道橋」と国鉄の工場がデフォルメされて描かれているが、列車の姿はない。連作の中でも、モチーフの構図が変化しているが「跨線橋」はしっかりと描かれている。削ぎ落とした風景の要素から跨線橋が外されることは無かった。この疑問が、この作品を魅惑的なものにしている。lightP1110019 ここに描かれた<跨線橋>は
つい最近、2009年あたりまで渡ることができた。渡った記憶もある。戦前の地図にもしっかり描かれているから70年以上の歴史があった橋なのだろう。

light月見橋界隈着色2明治中期私は「月見橋」明治期の地図を見る度に<月見橋>の存在感を感じている。
大岡川の吉田橋は<横浜の歴史>を切り開いた橋といえる。一方
月見橋ともう一つの萬里橋は<横浜の運命>を決めた橋だと感じている。暴れ川だった<帷子川河口域>が鉄道路で内海となった際、この位置に<水門>を作ったことで、現在の『横浜駅』の位置が決まりこのあたりの界隈性が決まった。

light1942PY市の橋再度、松本竣介の「Y市の橋」の中からこの一枚を見て欲しい。
主題は「月見橋」だろうか、それとも「跨線橋」だろうか。

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1月 6

【横浜の橋】№0 「2016年 横浜の『橋』」

新年明けましておめでとうございます。
今年2016年は年間を通して幾つかのテーマに絞っていきます。
その一つが『橋』です。橋は川や谷、鉄道や海といった人が通れない場所を<繋ぐ>役割を持っています。橋をめぐる物語は深い味わいがあります。橋そのものの構造やデザインの面白さ、地域の繋がりなど地味で小さな橋にも光を当てていきます。
さて?どんなドラマに出会うか。始めることにしましょう。
橋をテーマにする以上、横浜市内に一体どのくらいの数あるのでしょうか?
凡そ数だけでも知っておく必要があるだろう   ということで調べてみましたが、簡単に横浜市内の橋梁数を集計した統計データが見つかりませんでした。
理由はいくつかあります。一つは“管轄”が違うので“合算”しなければならないからです。横浜市が管轄している道路橋の数は約1,725です。※H27年4月現在
ここには<県・国>の道路橋は含まれていません。
次に
どこまでを<橋>とするかによっても数が変わってきます。
一般的に<橋>と呼ばれている道路橋の外に鉄道橋、人道橋(歩道橋を含む)、水道橋などを加えるとその数3,000を超えるでしょう。
鉄道橋の市町村データは公開されていません。また歩道橋の数字もかなりになるだろうと推測できます。[橋の基本知識]橋の種類
橋の分けかたは <役割><構造><素材>など色々あります。
<役割>
大きくは道路橋・鉄道橋・人道橋、水道橋(一部ガス橋)などがあります。<構造>
桁橋(ガーター)・アーチ橋・トラス橋・ラーメン橋・斜張橋・吊り橋
橋梁の種類
<素材>
コンクリート橋・鋼 橋・木 橋・石 橋・鋼橋とコンクリートの混合橋
そして <デザイン>で分けることもできます。
橋は土木分野の“花形”です。基本構造の基準を満たしていれば デザイン性の自由度が高いのが特徴です。
それぞれの特徴については 追々橋の話の中から紹介していきましょう。
[横浜の橋]といえばまず何から始めるか?
かなり迷いました。代表的な橋といえば
華やかで最も全国区の「ベイブリッジ」とかlightベイブリッジ01 歴史的には開港場の花「吉田橋」が挙げられます。
light_2015050814吉田橋 この二つの橋は 追々取り上げていきます。まずはどちらかといえば地味な【横浜の橋】の物語を探していくことにします。
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