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No.305 10月31日(水)二人の英国青年 (加筆修正)

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早いもので2012年も残すところ二ヶ月となりました。
何時の時代も港に大型客船が入港すると、桟橋近辺は一気に華やぎます。
1881年(明治14年)10月31日の今日、横浜港に停泊していた
英国軍艦「BACCHANTE」に乗船する英国(王子)を明治天皇が訪問しました。


(日本の岐路)
英国軍艦「BACCHANTE」が日本を訪れた
1881年(明治14年)は維新以降、
三条実美による太政官制によって暫定の政府運営が行われていました。
近代日本の“姿”が激しく議論されていた時期にあたります。
明治6年には
西郷・板垣・江藤・後藤・副島の5人が一斉に辞職する「明治六年の政変」が起ります。
明治10年には
わが国史上最後にして最大の内乱「西南の役」が起こり、
明治11年には「大久保利通暗殺」という動乱を経て、
14年初めには大隈失脚の「明治14年の政変」が起ります。
国の方向を決めるに際し、最も国政がざわついている時期でした。
「明治14年の政変」で
英国流を推す大隈重信が失脚したばかりのこの時期に
英国王子が遠洋航海の途中に日本(横浜)を訪れます。
英国駐日公使は幕末から着任していたサー・ハリー・パークス(Sir Harry Smith Parkes)です。当然、この時期の日本政府の微妙な立場をパークスは十分に理解していましたから、英国皇室要人の訪日に対しどうずべきか迷ったに違いありません。

(二人の青年)
手元の資料には
「午前十一時、横浜行幸、英国皇孫御乗込の同国軍艦へ御乗艦、御対顔被為済、午後二時還幸被為遊たり、当日碇泊の各国軍艦並神奈川砲台より祝砲を発し、海陸とも大に賑ひたり」
“午前11時、明治天皇が横浜に行幸になり、イギリス皇孫アルベルト・ヴィクトルおよびジョージを御訪問になつた”
とあります。
これを頼りに、この日の出来事を追ってみました。
横浜に入港した英国軍艦は、当時としては旧式に入る帆柱が3本あるタイプの軍艦コルベット「バッカント」HM IRON CORVETTE BACCHANTEでした。

奥の三本マストがバッカント号

当時の英国は
歴代イギリス国王の中でも最長の在位だったビクトリア女王の時代です。
首相はビクトリアの宿敵、最も嫌いだった自由党のグラッドストン
英国も内政の混乱を経てようやく英国二大政党が確立期に入り始めた頃です。
1879年(明治12年)に王位継承権のあるビクトリア女王の孫二人が、
帝王学の一環として
三年に渡った長い船旅にでます。
西インド諸島や南アフリカ、南アメリカ(フォークランド)、地中海、エジプト、アジアなどを訪れる大帝国領の実地見聞の旅です。
その途中、インド洋経由でオーストラリアに入り三ヶ月余り過ごした後、日本に到着します。

(イギリス皇孫アルベルト・ヴィクトル)

アルバート・ヴィクター・クリスティアン・エドワード(Albert Victor Christian Edward, 1864年1月8日〜1892年1月14日)、当時18歳。
イギリス王太子アルバート・エドワード(後のエドワード7世)と
妃アレクサンドラの長男です。
王位継承権者でしたが若くして肺炎で亡くなります。

(もう一人の孫ジョージ)

ジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバート・ウィンザー(George Frederick Ernest Albert Windsor, 1865年6月3日〜1936年1月20日)後のジョージ5世(George V)です。
アルバートとは一つ年下の弟で17歳。
ジョージはアルバートと共に19世紀後半の大英帝国を生き、
20世紀前半激動の英国を統治した国王となります。
※ヴィクトリア女王 → エドワード7世国王 → ジョージ5世国王 → ジョージ6世国王 → エリザベス2世女王8(現在)
後のジョージ5世、フレデリックは来日中、
外交当局を通じて彫千代(宮崎匡)に、
龍の刺青を自身の腕にさせたことで有名です。
11月には京都で狂言「墨塗」「腰祈」を鑑賞するなど日本文化にも触れます。
その後、11月下旬には上海へ向かい、香港、シンガポールを経由しスエズ経由で地中海に向かいます。

(帝王学)
二人の長い世界旅行は、英国王室の“帝王学”の旅でした。二人が日本に約一ヶ月滞在しますが、時の明治天皇(29歳)は自ら横浜港を訪れ、二人を訪問します。
この時の資料が手元に無いので、判断はつきませんが
王室の二人を招待するのではなく、
自ら出向いた背景には様々な理由があったのだろうと推察できます。
10歳年下の若き英国王室の青年は、明治天皇にどう映ったのでしょう。
その後の日英関係にプラスであった事は間違いないでしょう。

(他に10月31日の関連ネタ)
1935年(昭和10年)10月31日
横浜ドック会社が三菱重工業会社に合併された
No.283 10月9日 (火)三角菱のちから

1987年(昭和62年)10月31日
金沢区の称名寺庭園の再現工事終了
No.282 10月8日 (月)幕府東玄関を支えた寺

No.304 10月30日(火)統計は時代の鏡

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統計と聞いただけで“拒絶”派も多いと思いますが、
統計は時代を表す指標、鏡です。
明治時代、国際社会の一員となるには
基礎自治体の統計の整備も重要項目でした。
1903年(明治36年)10月30日の今日、
『横浜市第一回統計書』が横浜市より発刊(発表)されました。

民間シンクタンクでも多くの調査データが発表されていますが、
行政の統計は様々な用途に使われる重要な基礎資料となります。
日常必要としない限り余り関心の無い分野ですが、
どのようなデータが集約されているのか?
知っておくことが「市民」としての“力”となります。

一昔前の横浜市発行の統計書

国の統計は「総務省統計局」が管理しています。
http://www.stat.go.jp

今日は、横浜市の“統計”について紹介しましょう。
横浜市の統計を管轄している部署は横浜市 政策局 総務部 統計情報課です。インターネットが整備されるまで、統計は印刷物を通してしか入手することができませんでした。しかも市町村によって入手できる指標にバラツキがあったり、予算が無いため閲覧しかできない時代もありました。
近年、基礎自治体の統計はネット上でかなり入手する事ができます。エクセルでの提供で加工もできますが、フォーマットは(継続性?)どうも扱いにくいので表にしたり読み解くには一苦労するので敬遠されるのでしょう。
それでもかなり良くなった方です。
横浜市の統計は、
http://www.city.yokohama.lg.jp/ex/stat/
で入手できます。
総務部 統計情報課の仕事は、地味な部門ですが、国の統計の基本となる自治体の基本調査(国勢調査を含む)から市独自の調査まで幅広い領域の「統計」を扱っています。
人口、経済、社会、文化など各分野にわたる基本的な統計資料を総合的に収録したものが「横浜市統計書」で、年一回発行されます。
初版が1903年(明治36年)10月30日に刊行されました。
現在(2012年)は第90回版が刊行されています。
1903年+90回=1993で計算が合いませんが、発行数が少ないのは、震災や戦争によって発刊されない年があったからです。
戦前は発行サイクルが現在程厳密ではなかったようで、発行年が時にまちまちになっていました。

戦後は1953年(昭和28年)に第34回統計書が初めて発刊され、35号は三年後の1956年(昭和31年)となりますが、以降現在まで毎年発刊されています。
(明治と平成比較)
最新の「横浜市統計書(第90回)」と第1回の目次を比較してみました。
総目次(第90回)
 第1章 土地及び気象 
 第2章 人口
 第3章 事業所
 第4章 農林業及び漁業
 第5章 工業
 第6章 商業及びサービス業
 第7章 金融及び保険
 第8章 貿易及び港湾
 第9章 道路、運輸及び通信
 第10章 建物及び住宅
 第11章 電気、ガス及び上下水道
 第12章 物価及び家計
 第13章 労働
 第14章 社会福祉
 第15章 衛生及び環境 
 第16章 教育及び文化
 第17章 司法及び治安
 第18章 市民経済計算
 第19章 財政
 第20章 選挙、議会及び市職員
【明治36年第一回統計書の総目次】
 第1章 土地(気象)
 第2章 人口
 第3章 教育
第4章 社寺(神社・寺院・その他】※
 神社が優先されています。神仏分離令がここに現れています。
 第5章 警察
 第6章 兵事
 第7章 商業
 第8章 外国貿易
 第9章 工業 
 第10章 銀行及金融
 第11章 交通及運輸
 第12章 郵便電信及電話
 第13章 土木及築造
 第14章 衛生
第15章 救育
※救育とは恵まれない児童を引き取り,育てること。
 救育を行った人には表彰規定もあったようです。
 第16章 財政
 第17章 議員及び市吏員
 第18章 文書
※ほぼ構成は変わっていないようです。

当時の統計データにはこんなものも。失踪多かったんですね。

(おすすめ)
ケータイ版統計メールマガジン「はまめるポケット」配信サービス
http://www.city.yokohama.lg.jp/ex/stat/ml/mag-p.html
横浜を語る時!便利ですよ!
数字で横浜を知る事も重要です!!!
ネットからは
分野別、キーワード別、区別に入手できます。
さらに分野は限定されますが町丁別の詳細データもあります。

(余談)昔はこのデータを印刷物で購入し、
白地図にマーカーでマッピングを一週間やっていた時代もありました。
今は全てネットで入手し
PCで処理できますから便利ですね。

No.303 10月29日(月)オカピ外交 (追記)

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横浜市は
1957年(昭和32年)10月29日の今日、
アメリカ合衆国カリフォルニア州の南の端にあるサンディエゴ市と姉妹都市になりました。横浜市最初の姉妹都市締結です。

横浜市中区にある震災復興公園「山下公園」には数多くのモニュメントがあります。
“記念碑探し”もまたこの公園の愉しみです。

山下公園中央広場噴水に
横浜サンディエゴ姉妹都市の“記念碑”があります。
1957年(昭和32年)の友好都市締結を記念して
横浜市からは「友好の鐘」と「茶室」が贈られました。
一方、サンディエゴからは「ミッションベル」と「水の守護神」の像が寄贈され、
「山下公園」に設置されています。

ここには
「美しのサンディエゴ」
横浜サンディエゴ友好委員会の歌碑もあります。


作詞:佐伯孝夫
作曲:吉田 正
 歌:渡辺はま子
渡邊はま子 懷かしの名唱 vol.7
http://www.youtube.com/watch?v=6tM_Q2PRYP4
http://www.youtube.com/watch?v=Inga1sWLMGk
「14 美わしのサンディエゴ」

■横浜市の姉妹都市一覧
 ①サンディエゴ(アメリカ合衆国)
  1957年(昭和32年)10月29日提携
 ②リヨン(フランス共和国)
  1959年(昭和34年)提携
 ③ムンバイ(インド)
  1965年(昭和40年)6月26日提携
 ④オデッサ(ウクライナ)
  1965年(昭和40年)7月1日提携
 ※このウクライナ事情、大変そうですね。
 ⑤バンクーバー(カナダ)
  1965年(昭和40年)7月1日提携
 ⑥マニラ(フィリピン共和国)
  1965年(昭和40年)7月1日提携
 ⑦コンスタンツァ(ルーマニア)
  1977年(昭和52年)10月12日提携

サンディエゴ、移民から始まる歴史)
アメリカ合衆国西海岸の最南端にある、
先端産業と観光の都市サンディエゴは
1900年代初頭から多くの日本人が移住した街です。

→米国への移民を多く見送った横浜港
 移民の歴史も“横浜港”の刻んだ歴史の1ページです。
 No.366 12月31日(月)パトリとネイション

戦争中日系人にとって苦難の時期もありましたが
戦後、“皮肉にも”アイゼンハワー大統領が提唱した
People to People Program を背景に日米の各都市間で交流活動が積極的に行われました。

「姉妹都市の研究・アメリカ編」
http://www.tt.em-net.ne.jp/~taihaku/geography/database/sistercities.html

横浜との姉妹都市交流のキッカケは
横浜市からサンディエゴ在住の日系市民へ「雪見灯篭」を寄贈したことに始まります。
その後
1955年(昭和30年)に横浜で開催された
第三回「日米太平洋市長及び商工会議所会頭会議」(ホテルニューグランド)に出席したチャールス・デイル市長 (当時) の申し入れにより
1958年(昭和33年)に両市が調印し、
現在まで半世紀、
両市の交流は「横浜サンディエゴ友好委員会」「サンディエゴ横浜姉妹都市協会」を通じて続いています。

2012年には『姉妹都市提携55周年記念祝賀会』がサンディエゴで開催され、
横浜市長・林文子氏をはじめ、市会議長を含む8名の市会議員、そして友好委員会、会長、会員、市職員総勢43名が訪米しました。
http://www.sandiego.org/plan-your-trip/international/japan.aspx
http://www.visitcalifornia.jp/region/sd/
http://www.discoveramerica.jp/usa/states/california.aspx
http://www.youtube.com/watch?v=BJY4uMZB1hc

(オカピ外交)
横浜市の動物園の超人気「オカピ」もサンディエゴつながりです。

サンディエゴ野生動物公園から「レイラ」「ホダーリー」がズーラシアにやってきました。この二頭から誕生したのが「ピッピ」と「ルル」です。
その後、サンディエゴ野生動物公園生まれ、メスの「カセンイ」が
2001年(平成13年)9月19日恩賜上野動物園に来園します。
「カセンイ」はブリーディングローンで
2008年(平成20年)5月12日に
 “よこはま動物園ズーラシア”(1999年開園)に引越しますが、
2012年(平成24年)7月2日に
 また恩賜上野動物園に里帰りし上野で公開されています。

人気のオカピはキリン科に属する準絶滅危惧種で学名:Okapiajohnstoni、英名:Okapi。世界の動物園で40頭しかいない珍獣で日本国内の飼育状況はオスが3頭、メスが4頭しかいません。(2012年10月1日現在)
この貴重な7頭はよこはま動物園ズーラシア、横浜市立金沢動物園、上野動物園の三園でしか見ることが出来ません。

http://www2.hama-zoo.org
横浜市立金沢動物園:「キィアンガ」
よこはま動物園ズーラシア:「レイラ」「ホダーリー」「ルル」「トト」
上野動物園:「ピッピ(2012年11月ズーラシアに里帰り)」「カセンイ」「キンビア(死亡)」

“よこはま動物園ズーラシア”は、オカピを繁殖させた日本で唯一の動物園です。
またオカピを、日本国内で初めて一般公開したのも“よこはま動物園ズーラシア”です。

■サンディエゴ野生動物公園
http://www.sdzsafaripark.org
http://www.sdzsafaripark.org/parkwildlife/okapi.html
2004年末にはサンディエゴ市からアカカワイノシシ2頭が贈られ公開されています。
http://www2.hama-zoo.org/animal/zoorasia-RedRiverHog

【パンダ、オカピ!】
動物も国際交流?
外交大使としてご苦労様です。
※ちなみに(謎多き?)
 姉妹都市提携50周年式典が開催されたのが2008年です。

(渡辺はま子)
※この「美しのサンディエゴ」を歌った
渡辺はま子さんは、本名 加藤 浜子、
1910年(明治43年)10月27日に横浜で生まれ
多くのヒット曲を歌った昭和の歌姫です。
一時期、横浜高等女学校(後の横浜学園高等学校)で音楽教師をしていたこともあります。同時期、「中島敦」が国語と英語を教えていました。
No.376 1月10日(木)中島敦のいた街

また、
1947年(昭和22年)に結婚した後、
歌手活動の傍ら横浜で「花屋」を営みながら、
「雨のオランダ坂」「東京の夜」といったヒット曲を飛ばし続けました。

No.302 10月28日(日)全ての道は横浜に

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今日は群馬県民の日です。
横浜と群馬の深い繋がりを紹介しましょう。

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(前段)地域ブランド力最下位
「7月、4回目の「地域ブランド調査」として都道府県の魅力や認知度など72項目をアンケートした。インターネットを通じて3万375人から有効回答があり、群馬については591人の回答を反映。過去調査で群馬の魅力度は40位台で推移しており、初めて最下位に転落した形になった。」
さらには
http://www.tsurumoto.com/tourism/2011/02/post-36.php
なんて調査も。上州人立ち上がれ!!!
草津や尾瀬、高崎、前橋では認知度があるのに「群馬」が弱いのはどうして?北軽井沢だって群馬県だよ!南関東の人間なら群馬産の野菜無しには「鍋」もできませんぜ!
この評価軸 神奈川県より横浜市という現象にも似てますね。県単位なんてナンセンスだと私は思うんですがね。まだ県民性(幕藩体制)は重いのかな?
群馬の観光
http://gtia.jp
→世界遺産に「富岡製糸場」が!これが群馬県の知名度に繋がれば良いのですが。
(序段)シルクロード
横浜と群馬の繋がりはまさに「シルク」、絹の道でつながっています。陸路でいけば国道407号線と国道16号線を使って一気に横浜まで南下する道がつながっています。

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一方水路は利根川下りで江戸前経由で横浜まで「絹の水路」がありました。
高島嘉右衛門が提言したといわれている日本最初の私鉄「日本鉄道」(現在の東北本線や高崎線、常磐線)も、絹の道があったからです。
その後東武鉄道が久喜と北千住を結ぶ区間で営業を開始しますが、これも絹産業があったためです。
■全ての道は横浜に
明治初期、日本の外貨獲得は殆ど「絹」残りを「お茶」で占めていました。絹とお茶無くして明治維新は成功しなかったのです。
その一大生産地が「群馬県」でした。
横浜から輸出される上州産の絹は厩橋(うまやばし)を語源に持つ前橋に集積され、鉄路、陸路、水路を使って横浜に運ばれました。

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前橋市マーク なんとシンプルな

そのため今も前橋には煉瓦の歴史的建造物が多く残されてます。横浜も前橋も最先端の煉瓦の街でした。

No.2669月22日(土)ハマの赤レンガ

ここで少し紹介した「旧下野煉化製造会社(シモレン)」は住所こそ栃木県ですが、群馬県に隣接しています。(下都賀郡野木町)

(中段)上州生糸商人見参
横浜を切り開いた実業家の中で、甲州と上・武州(同じ活動圏)の商人達は絹の取引を元に財を築きあげますが、街づくりに必要な資金を積極的に提供したことでも評価されています。横浜は商人によって整備されてきた街ともいえるでしょう。
群馬県出身で横浜と関係のある商人といえば
初代茂木惣兵衛(野澤屋)
伏島近蔵(初代前橋市長)
中居屋重兵衛
下村善太郎
左右田金作(銀行家)

埼玉県神川町出身の原善三郎と
富岡製糸場を経営した原三溪(富太郎)
http://www.sankeien.or.jp

(はまぎんに生きる上州)
シルク取引には金融機関が必要でした。当時の生糸商人は、銀行も設立します。第二国立銀行(原善三郎、茂木惣兵衛、吉田幸兵衛ら)そして第七十四国立銀行(伏島近蔵)
いずれも生糸貿易のために設立され、その後合従連衡の末、このシルクバンクは横浜銀行になっていきます。

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支店マップ左上に「群馬県」が

横浜銀行支店群の中で「群馬県」があるのは長いシルクの歴史があるからです。
http://www.boy.co.jp/cgi-bin/area.cgi?ac=15000
桐生支店群馬県桐生市本町6丁目371番地の2(0277)22-7131
高崎支店群馬県高崎市連雀町8番地の1(027)322-4411
前橋支店群馬県前橋市本町2丁目11番2号(027)221-9221
南群馬の拠点を現在でもおさえています。全て川の港近くに形成された中心部に位置しています。

No.301 10月27日(土)三つの日清

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横浜生まれの創業者、横浜の基幹工場、横浜のミュージアム。
ここに三つの「日清」という企業を横浜というキーワードで結ぶことができます。
日清製粉、日清製油(現NISSHIN oillio)、日清食品
皆現在の日本食品業界を牽引するビッグカンパニーですが三社は全く別の会社です。1900年(明治33年)10月27日(土)の今日は三つの日清の一つ「日清製粉株式会社」が創業した日です。

大正初年の群馬県館林


「日清製粉株式会社」
三つの日清の中で最初に群馬県館林町で創業します。創業時の社名は「館林製粉株式会社」で創業者は横浜生まれの正田貞一郎です。
正田貞一郎は、群馬出身の横濱商人 正田作次郎の長男として1870年3月29日(明治3年2月28日)に生まれます。
父、正田作次郎は当時の岸田吟香らと共にヘボンの下で英語を学び“目薬”の販売にも関わりますが、若くして亡くなり正田貞一郎は郷里群馬に戻り育ちます。

1月21日 日中ビジネスに成功した先駆者

1900年(明治33年)に「館林製粉株式会社」を設立し、その後、1908年(明治41年) 横浜に工場建設中の「日清製粉株式会社」を合併し、社名を「日清製粉株式会社」と改め本社を「東京市日本橋区小網町2丁目11番地」に移転します。「日清製粉株式会社」の名は横浜が起源です。(知らなかったでしょう!)
http://www.nisshin.com

(日清精油)現NISSHIN oillio


1907年(明治40年)に明治経済界の重鎮、大倉喜八郎と横浜高島町に本店を置く穀物輸入商社「松下久治郎商店」の松下久治郎らにより「日清豆粕製造株式会社」が設立されます。

 

その後、
1918年(大正7年)に「日清製油株式会社」と商号を変更し多角化を推進します。戦前戦後を通してリーディングカンパニーとして食油業界を牽引します。
2002年(平成14年)日清オイリオ(NISSHIN oillio)に変更し現在に至ります。磯子にある横浜工場は「日清オイリオ」のメイン工場として重要な生産拠点となっています。また、地域企業として高い評価の地域貢献活動も継続的に行っています。
http://www.nisshin-oillio.com

(日清食品)

1948年(昭和23年)9月4日大阪に創業したインスタントラーメンを中心とした世界最大級の食品加工会社です。カップヌードルといえば知らない人はいません。
1965年(昭和40年)に横浜工場を稼働し、関東の拠点となります。(現在閉鎖)
その後、国内は元より、世界カップヌードルに成長していきます。一方で横浜ではラーメン博物館への支援など地域支援も積極的に行ってきました。


そして、2011年(平成23年)3月11日にファン待望の関東圏に「カップヌードルミュージアム」がオープンし連日老若男女問わず多くのファンが訪れています。
http://www.nissinfoods.co.jp
http://www.cupnoodles-museum.jp

(余談)
10月27日といえば、1984年(昭和59年)10月27日に横浜市大倉山記念館が開館します。


大倉山記念館は大倉精神文化研究所の本館として竣工されたものです。
創設者は製紙業として成功した大倉邦彦。同じ大倉姓の日清製粉創設「大倉喜八郎」とは全く関係ありませんが、共に日本実業界の重鎮として多方面に活躍します。
大倉山記念館は現在改装が行われています。


http://o-kurayama.com

No.300 10月26日(金) 優勝、日本一

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300話到着しました。
今日は1998年(平成10年)の話題です。
横浜奇跡の98年秋のクライマックスは、
なんといってもベイスターズ日本シリーズに勝った「日本一」でしょう!!!

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横浜ベイスターズ3勝2敗で迎えた第6戦、試合時間2時間59分。2対1の息をのむ緊張を乗り越え日本一が決定しました。
この日から、横浜は数ヶ月優勝に酔いしれていました。
私のマイナー「優勝コレクション」から

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優勝セールチラシを どーーーんと。
優勝経済効果ありますからね。
ベイスターズ通りもできちゃいました。

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ベイスターズ通りにある優勝メンバーの手形記念プレート
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修学旅行生に人気!

横浜ベイスターズ 歓喜の10月26日1998
http://www.youtube.com/watch?v=H7kTWiD-4ls

横浜ベイスターズ 優勝記念パレード
http://www.youtube.com/watch?v=UP0GOIpoupU&feature=relmfu

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以上です。

No.1 1月1日(日) 奇跡の1998年(前編)

No.299 10月25日(木)10月25日10月25日

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冒頭にまず「港の見える丘公園」開園についてコメントしておきます。
私は「No.129 5月8日 ヒット曲の公園」で
「港の見える丘公園」開園について紹介しました。
「港の見える丘公園は1962年(昭和37年)の今日5月8日開園しました。」
 と幾つかのデータを元に紹介しましたが?
友人から新聞に
今年10月25日が「港の見える丘公園」開園50周年だとして
特集を組んでいると新聞データが届きました。

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該当ブログは
■No.129 5月8日 ヒット曲の公園
です。

参考にした資料も幾つか紹介しておきます。
■当時の市政ニュース(5月10日付け)
http://www.city.yokohama.lg.jp/seisaku/kichitaisaku/shiryo/taiikukan.wvx
その他の資料(5月8日に注目!)

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横浜市総務局HP 市史索引から
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商工会議所百年史

以上です。
では、何故10月25日になったのでしょうか?伝聞は確認していますが、裏がとれていないのでここでは 5月根拠のみ提示しておきます。この場所がかつて英国と仏国の重要な場所であったことはいうまでもありません。

今日は10月25日
ミニネタ、オムニバスです。
【シーン1】横浜生まれは今も健在
1938年(昭和13年)10月25日に創流以来横浜に拠点を構えている日本舞踊の七扇流3代目七扇花助(長尾しん)が69歳で亡くなります。
七扇流は江戸時代後期、日舞界屈指の「西川流」西川扇藏四世の門弟 西川国助が横浜で母であり狂言師だった“市山さと”と共に創流します。
母さとが流祖七扇小橘(ななおうぎ こきつ)と名乗り、国助が初代家元七扇小橘を名乗ります。
二代目七扇小橘は藤間流に学び、一代の名声を築きます。
三代目は門弟の七扇花助(ななおうぎ はなすけ)が継ぎ、当代は花助の甥にあたる七々扇花端王(ななおうぎ かずお)が四代目として一門を支え横浜を拠点に東京は勿論全国の舞台に立っています。
1965年(昭和40年)に七扇を「七々扇(ななおうぎ)流」と改め現在にいたりますが、この七扇の名は、狂言師だった“市山さと”の贔屓筋だった勝海舟が「7つの海につながる」横浜を紹介し、流派の名もその7を頂戴し命名したものだと伝わっています。
http://www.nanaougi.com/profile.html
七々扇花瑞王
〒232-0027 横浜市南区新川町4丁目25
tel&fax:045-251-5955
(もう少し調べたいところなので本日はこれまで)

【シーン2】経済復興のシンボル
1930年(昭和5年)10月25日(土)
横浜商工会議所は市と家内工業振興会共同で「横浜製品普及展覧会」を開催しました(11月3日まで)。
場所は横浜商工奨励館(現在の横浜情報文化センター)

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横浜商工奨励館は、震災によって被災した横浜経済界にとって復興の精神的なメモリアルだったといいます。
1929年(昭和4年)の4月に新築落成しました。
横浜商業会議所(現・横浜商工会議所)の「商品陳列所」として元アメリカ領事館の敷地に建てられました。設計は横浜市建築課で震災復興期に市建築課が手がけた作品群のひとつです。
ここには隣接して「旧横浜市外電話局」がありました。この二つの歴史的建造物を取り込む形で2000年に横浜情報文化センターが完成しました。
(横浜情報文化センター)
http://www.idec.or.jp/shisetsu/jouhou/
(アルテリーベ歴史写真館)
http://www.alteliebe.co.jp/ipn/concept/building.html

No.298 10月24日(水)法廷は横浜へ

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1886年(明治19年)10月24日(日)に
紀州沖で起ったノルマントン号座礁沈没事故が、日英間の大事件に発展しました。
四年後同じく
紀州沖で座礁したトルコ軍艦(エルトゥールル号)救出劇は(事件にはならず)
両国友好の美談となります。
この二つの事故の違いには治外法権の大きな壁がありました。

二つの外国船事件の学校教材

横浜の外国人居留地は“治外法権”でした。
しかも、江戸幕府が1859年(安政4年)に結んだ安政五カ国条約(アメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランスとの通商条約)は、関税自主権が無く、領事裁判権を認めたほか、片務的最恵国待遇条款を承認する典型的な「不平等条約」でした。
明治政府になっても列強各国はこの不平等条約を改定することを拒み続けます。

このような状況の中で、このノルマントン号事件が起ります。

(ノルマントン号事件)
1886年(明治19年)10月24日午後8時ころ、
横浜港から日本人乗客25名と雑貨をのせて神戸港に向かったマダムソン・ベル汽船会社所有のノルマントン号(Normanton)240トン(英国船籍)が、
航行途中暴風雨によって紀州沖(和歌山県串本町潮岬沖)で難破、座礁沈没します。
この時、ノルマントン号船長ジョン・ウイリアム・ドレーク以下英独の乗組員達は全員救命ボートで脱出し、漂流していたところを沿岸漁村の人びとに救助されて手厚く保護されます。
事故は美談に終わるはずでしたが、日本人の乗客25名の生存がありませんでした。
座礁事故が事件になったのは、外国人乗組員が日本人の救命活動を一切しなかったのではないかという疑惑が起ったからです。
明治政府、時の第1次伊藤内閣の外務大臣井上馨は事実究明の命令を発します。
沈没船を探しますが明確な証拠は出ませんでした。
しかし乗務員が無事で乗客の日本人が全員死亡というのは明らかにオカシイということで、政府は神戸領事館に海難審判を請求します。
船長ドレークは「船員は日本人に早くボートに乗り移るようすすめたが、日本人は英語がわからず、そのすすめに応じずに船内に籠もって出ようとしなかったのでしかたなく日本人を置いてボートに移った」と主張、これを認めて船長以下全員に無罪判決を下します。
この判決を知って日本世論が沸騰します。
緊急時に言葉がわからないからといって逃げない人間がいる訳が無い!!
新聞や演劇で一般に伝わり世論が盛り上がります。
義援金は集まる、無名作家により「ノルマントン号沈没の歌」という歌が作られ市民に大流行し「不平等条約撤廃」「国権回復」の圧力となっていきます。
(領事裁判権)
外務大臣井上馨は鹿鳴館を作るなど欧化政策を進めていましたが、これをキッカケに井上外交「媚態外交!」「弱腰外交!」「外交の刷新」「条約改正(不平等条約撤廃)」と政治状況も緊迫します。
そこで井上外相は、本国に帰国しようとしていたノルマントン号乗員を政府は出船停止処置とし、兵庫県知事名で横浜領事裁判所に殺人罪で告訴させます。
横浜を出港したノルマントン号乗員は、横浜に戻り「領事裁判」を受けることになります。
領事裁判権とは
「在留外国人が起こした事件を本国の領事が本国法に則り裁判する権利」のことです。
現在に置換えれば沖縄の米兵婦女暴行事件の裁判権がアメリカ政府にあるという状態のことをさします。
冒頭でも触れましたが、
そもそも日本国が
1858年に締結した各国の「修好通商条約」に
領事裁判権の定めを認めてしまったところに起因します。

五カ国条約は微妙に各国異なります。

横浜の領事裁判所判事は、
二代目ニコラス・ハンネン(任期1881年〜1891年)が担当します。
彼はこの後1891年から1897年まで上海総領事を務めます。
裁判官とはいえ、領事館のスタッフですから、
判決が母国有利に働くことが多かったようです。
判決は禁固3ヶ月の有罪、しかし死者への賠償金請求は却下されます。
開港以来、日本国内の英国人に関わる重要訴訟は中国上海の租界にある英国高等領事裁判所で行っていました。
1879年(明治12年)に
横浜領事裁判所(The British Court for Japan)が設立されようやく日本国内で裁判が行われるようになります。
事件当時国(横浜)で裁判が行われただけでも、大きな進歩だったといえます。
領事裁判権は1894年(明治27年)睦奥宗光による治外法権の撤廃実現まで続き、完全な不平等条約撤廃は小村寿太郎による1911年(明治44年)の関税自主権の完全回復達成までかかる半世紀にも及ぶものでした。
因みに横浜領事裁判所のあった場所は?

旭日旗のように見える国旗が英国領事館の場所です

現在の横浜市開港資料館の場所です。

このノルマントン号事件、調べて驚きました。全国の多くの小中学校で歴史教材のテーマとして使われている事件なんですね。

紛争は避けなければなりませんが、
国家主権をいかに外交で守るか!
政治家の重要な仕事ですね!

「番外編」10月17日こら!ちゃんと仕事せい!

No.159 6月7日(木)強い日土友好の原点

No.297 10月23日(火)スポーツしてますか?

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新暦1869年10月23日(旧暦明治2年9月19日)は電信の日ですが、
電柱を立てる工事と電線を張る工事が開始された日を記念して
1950年(昭和25年)に日本電信電話公社が制定しました。
ちなみに、電信が開通したのは1870年(明治3年)の1月26日です。
電信は既に1月26日に紹介していますので、
今日は全く別なテーマ
横浜市スポセン第一号を通して生涯スポーツについて紹介します。

(その前に電信通信について)
1月26日 横浜東京間電信通信開通

「番外編」10月17日こら!ちゃんと仕事せい!

(スポセン)
スポセンとは、スポーツセンターの略で私が勝手に名付けています。
1980年(昭和55年)10月23日(木)横浜市内で初めてスポーツセンターが港南区に開設されました。

スポーツセンターは市営の運動施設で、現在横浜市内各区に1施設全体で18設置されています。(下記に各区リストあり)
スポーツセンター設置は港南区に始まり
2006年(平成18年)に都筑区にオープンするまで26年かかって全区に完成します。

(生涯スポーツの歴史)
戦後日本は経済成長の伸びに対し社会教育環境整備は大幅に遅れました。
高度成長に伴い都市化が進み地域にスポーツや学習を行える環境不足が社会問題となります。
日本初のオリンピック開催も決定しましたが、
市民スポーツの環境整備は遅れていました。

1961年(昭和36年)に超党派で「スポーツ振興法」が制定され、
“画一的”なものと、一部“地域特性”を生かしたスポーツ振興事業が全国で始まります。
地域特性を反映していない“箱もの”と批判される施設も多く誕生します。
2011年(平成23年)に「スポーツ振興法」が大幅改定され「スポーツ基本法」が成立します。
http://www.mext.go.jp/a_menu/sports/kihonhou/index.htm
※「スポーツ立国の実現を目指し、国家戦略として、スポーツに関する施策を総合的かつ計画的に推進する」
「スポーツに関する施策を総合的に策定し、及び実施する」ことを国の責務として位置付ける。

この「スポーツ基本法」が制定されるまで「スポーツ振興法」をベースに市民スポーツの振興が行われてきました。この間、地域の体育行政及び施設は場所貸しから脱皮できず、私たちのスポーツ意識・環境は大きく変化していきます。

(行政主導型スポーツの流れ)
1960年代は都市部を中心に啓発的な性格を持つ「社会体育」が推進され、1970年代は急速な経済成長の中で希薄化する地域住民の交流を重視する「コミュニティスポーツ」へ。
この頃から都市部に民間の「スポーツクラブ(フィットネスクラブ)」が登場します。
1980年代は市民が誰でも参加できる「みんなのスポーツ」へと変化し、1990年代の「生涯スポーツ」として民間のスポーツビジネスが開花します。

横浜市では1984年に財団法人横浜市スポーツ振興事業団(体育協会と統合)が設立され、横浜市体育協会(86年に財団法人化→公益社団へ)、教育委員会体育課(スポーツ課)、市民局スポーツ振興課がスポーツ行政の担い手として行政主導型の地域スポーツを推進してきました。
地域スポーツを通した交流センターとしての港南スポーツセンターの登場は1980年代の「みんなのスポーツ」環境整備の先駆けとして成功した事例ですが、その後市民意識の変化、スポーツ環境の変化の中で次代への新しい役割が求められています。

(運動公園)
No.173 6月21日(木)横浜の代表的な運動公園
(体育館)
No.132 5月11日 熱く燃えて半世紀
(市民スポーツ)
No.147 5月26日 明るく豊かな国民生活の形成に寄与
戦後、地域で簡単なスポーツを行える施設は体育館、公民館(横浜市には公民館と呼称される施設がありません。代わるものが地区センターです)等で屋内スポーツが整備されました。野外に関しては公園整備と連動しテニスコート、野球場、サッカー場等が整備されますが

“場所貸し”レベルの域をでませんでした。欧米では一般的な地域スポーツの核となり、指導者が常駐する施設の必要性から「スポーツセンター」が誕生しますが、その後の道程は紆余曲折あり全区に設置されるまで四半世紀かかり公平な市民サービス実現とはなっていないのが現状です。
※数の是非は別にして大阪市は約60の公共スポーツ施設があります。

(横浜市スポーツセンター一覧)
◎鶴見スポーツセンター
http://www.yspc.or.jp/tsurumi_sc_ysa/
◎神奈川スポーツセンター
http://www.yspc.or.jp/kanagawa_sc_ysa/
◎西スポーツセンター
http://www.yspc.or.jp/nishi_sc_ysa/
※唯一のプールがあります。
◎中スポーツセンター
http://www.yspc.or.jp/naka_sc_ysa/
◎南スポーツセンター
http://www.yspc.or.jp/minami_sc_ysa/
◎港南スポーツセンター
http://www.yspc.or.jp/konan_sc_ysa/
◎保土ケ谷スポーツセンター
http://www.yspc.or.jp/hodogaya_sc_ysa/
※スポーツスタジオ・ホッケーコート
◎旭スポーツセンター
http://www.yspc.or.jp/asahi_sc_ysa/
◎磯子スポーツセンター
http://www.yspc.or.jp/isogo_sc_ysa/
※ウェイトリフティング室
◎金沢スポーツセンター
http://www.yspc.or.jp/kanazawa_sc_ysa/
◎港北スポーツセンター
http://www.yspc.or.jp/kohoku_sc_ysa/
◎緑スポーツセンター
http://www.midori-sc.com/index.html
◎青葉スポーツセンター
http://www.konamisportsandlife.co.jp/trust/aoba/
◎都筑スポーツセンター
http://www.yspc.or.jp/tsuzuki_sc_ysa/
◎戸塚スポーツセンター
http://www.yspc.or.jp/totsuka_sc_ysa/
※弓道場
◎栄スポーツセンター
http://www.yspc.or.jp/sakae_sc_ysa/
◎泉スポーツセンター
http://www.izumi-sc.com/index.html
※弓道場
◎瀬谷スポーツセンター
http://www.yspc.or.jp/seya_sc_ysa/

現在は地域におけるスポーツ活動の基盤となる総合型地域スポーツクラブの育成をめざす「広域スポーツセンター」構想が始まっていますが、???。

【余談】
スポーツセンター第一号がある港南区は、駅前区役所ナンバーワンです。地下鉄改札を出て1分のところにある区役所は「港南区」しかありません。因みに改札から1分以内の市役所も「横浜市」が一番ではないでしょうか?走れば10秒!かかりません。

駅の右側が区庁舎です

(港南区関係ブログ)
No.192 7月10日 (火) もう一つの大岡川

No.187 7月5日(木) 目で見る運河

No.107 4月16日 (月) かみ(お)おか ひとだんらく

No.196 7月14日 (土) きもかわいい

No.296 10月22日(月)電力需要抑制は国家的課題

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 「オリンピックを横浜で!」
2013年(平成25年)に「オリンピックはTOKIO」に決まりました。
これは2008年(平成20年)のお話です。

オリンピック候補地に日本国内で大阪市が先行して立候補を表明していましたが、そこに殴り込みをかけるかたちで横浜市が1996年(平成8年)10月22日(火)の今日、国内二つ目の候補地を発表しました。

(経緯)
まず簡単にオリンピック候補地選定の経緯を紹介します。
1992年(平成4年)大阪市、招致への取り組み開始。
1995年(平成7年)12月大阪市、開催意思表明書の提出
1996年(平成8年)
   6月大阪市、開催希望意思表明の提出
   10月横浜市、開催希望意思表明書の提出
1997年(平成9年)
  4月30日 立候補都市開催概要計画書提出
「検討委員会」計画書の精査、資料検討、ヒアリング、現地調査
8月13日選定委員会(立候補都市大阪市に決定)
2000年(平成22年)IOCへ立候補届提出、審査、調査
  10都市が立候補。1次選考で5都市に。
  ●中国の北京
  ●カナダのトロント
  ●フランスのパリ
  ●トルコのイスタンブール
  ●日本の大阪市
2001年7月13日第112次IOC総会において中国の北京が開催地に決定
大阪市は開催地決定投票でわずか6票しか獲得できず最下位に終わります。

(横浜のプランは?)
横浜市が提出した「立候補企画書」を紹介しましょう。
一部大阪市と比較します。


①大会コンセプト
 「全ての人々に、
  フレンドリーで、
  うるおいのある、
  ヒューマンなオリンピック」
 「全ての人々が共生する都市文化の創造」
※大阪市は
 「地球市民のオリンピック」
 「史上初の海上オリンピック」

②大会期間 開始時期は立候補地が提案し審査の対象となります。
  2008年10月10日(金)開会式
  2008年10月11日(土)〜26日(日)競技期間
 ※大阪市
  7月25日(金)開会式
  7月26日(土)〜8月10日(日)競技期間
 ■横浜市は大阪市に対して「日本の夏は湿度も高く、日没後も気温がそれほど下がらないため、競技者に与える負担が大きい。気温・湿度・晴天率などの気象条件を総合的に判断すると、10月が最もスポーツに適した気候である。また、オリンピック期間中は交通の混乱を避けるため、人の移動を最小限にする必要があるが、夏期は人の移動が多く、お盆の数日を除いて都市部の交通もさほど減少しない。冷房使用などによる真夏の電力需要抑制は国家的課題であり、環境問題からも真夏の開催は避けるべきである。」と違いを主張します。

③競技会場
 首都圏8都県38の競技施設で28競技285種目を実施。


 首都圏ネットワーク開催、都市づくりとの一体化、既存施設の活用、利用者本位の施設整備を基本にします。
※大阪市は「選手本位のオリンピックを目指して、1都市開催を原則に競技設置の配置計画を立てました。選手一人ひとりが万全のコンディションで競技に臨めるよう、75%の競技会場を大阪市内に配置し、距離的にも選手村から20km以内、車で30分ほどの圏内とします。また、練習会場は大阪市内およびその周辺のスポーツ施設を利用し、そのほとんどを選手村から約30分〜40分圏域以内に配慮しますので、選手はゆとりある練習プログラムを組むことができます。」

缶バッチ

■結果は横浜17票対29票で大阪市となりましたが、横浜市の立候補は当時“唐突”な感じは否めませんでした。

ピンバッチ


立候補都市開催概要計画書提出期限まで“半年”というぎりぎりの立候補には無理があったように思えます。当時、広告代理店のつばぜり合い、横浜国際総合競技場の正当化等々「横浜市立候補」には様々な憶測が飛びました。
この頃、個人的に開催決定に近いところで仕事をしていた関係もあり、これまた違った“憶測”が流れていました。
大阪単独候補では“審査項目”の市民の開催意欲で厳しい、競争することで立候補地の意識と注目度が高まるということで、
横浜は「負けて元々」全体にオリンピックへの関心が高まることを狙うためにも立候補した   という話しが出ていました。
一方、かなり生臭い話しでは、
「2002FIFAワールドカップ開催都市に内定していましたが、決勝を横浜にするためのパフォーマンスだった」とか
「大阪電通への嫌がらせ?」実際、横浜市が立候補した時、電通神奈川に「マジ?」と本社から厳しい問合せがあったとか。

20121021付で帳簿は見つかったそうです。

まあ、大きな大会ではいろいろ起りそうです。今回の東京立候補に関する経費問題も困ったものです。
(立候補用の裏金作りだとは思いますが、もう少し上手い方法はないのでしょうかね。正々堂々と調整費とかね。無理ですね)