12月 24

2013年12月25日 横浜の絵葉書この一枚(第2話)

絵葉書から横浜を読み解く
「写真絵はがき」の分野は、歴史資料としてみる場合に注意点や判断するには難しい制限項目も多く、資料的価値が定まっていないのが現状だそうです。
だからこそ 面白いのかもしれません。

今日の一枚
「横濱新桟橋 View of Fier Yokohama」
このモノクロームの一枚の船が描かれている一枚、
場所は新港埠頭です。

昭和5年頃の新港埠頭
現在の新興埠頭は埋め立てられ広くなっています

明治後期から大正初期にかけて造成された新港埠頭は、
大桟橋だけでは港湾機能が間に合わないため二期にわたって工事が進められました。
現在は「赤レンガパーク」や「ワールドポーターズ」「カップヌードルミュージアム」他多くの施設が建っている人気のスポットになっています。
この絵葉書を読み解いていきます。
時代を探ります。
ここで注意しなければならないのが
「絵葉書」の発行年代と
オリジナル写真が同一年代とは限らないことです。
ここでは「写真の時代」に限定します。

はっきりわかる時代を探る手がかりが船の存在です。
「あんです丸」と船体に表記されています。
この「あんです丸」はファンネルマークや資料から
大阪商船船籍ということがわかります。

大阪商船は、日本の二大海運会社の一つライバル会社でもあった「日本郵船」よりも早く創設され、時には日本郵船を超える事もあった西の雄でした。
1884年(明治17年)に地元の小規模汽船船主70余名の大合同により設立され、やがて世界の主要定期航路に進出するようになります。
大阪商船は後に商船三井に、日本郵船は1885年(明治18年)創設されます。

「あんです丸」について調べてみました。
1918年(大正7年)に竣工し7,772tの貨客船です。
1919年(大正8年)9月24日に欧州航路の「横浜〜欧州線」に就航します。
1934年(昭和9年)に第1次船舶改善助成施設で解体されるため売却されます。現役で活躍したのは約15年と当時の商用船としては短い期間の現役だったといえます。
→船舶改善助成施設は簡単に説明すると
 国力(海運力)増強のためにスクラップアンドビルドを官民あげて行った施策です。
 詳しくは別の機会に。
→「絵葉書写真」の時代は1919年(大正8年)〜1934年(昭和9年)となります。
この「あんです丸」が現役の時代には大きな事件が起こります。1923年(大正12年)に起こった関東大震災です。
→ここで、この「絵葉書写真」
 関東大震災前か関東大震災後かどうかがポイントとなってきます。
 ここからは推測となってきますが、
 映り込んでいる人々の服装や、上屋の作りから
 震災前の光景の線が強いようです。絵葉書になっていることからも
 「あんです丸」就航から間もない時期ではないでしょうか。
 ※ほとんどの女性が和装であること。

「あんです丸」は1919年(大正8年)横濱・欧州線に就航しています。
→「絵葉書写真」の時期は
 1919年(大正8年)〜1923年(大正12年)ごろと推定できます。
新しい発見があれば 追記・修正をしていきます。

さて、この「あんです丸」には意外なエピソードがありました。
1923年(大正12年)に起こった関東大震災で莫大な被害があった首都圏に向けて、全国から救援の手が差し伸べられます。特に船舶は陸路では難しかった被災地へかなり近い地点に物資を運ぶことができたため
全国から救援船舶が動員されました。
その代表的な船舶の一つが「あんです丸」です。
震災の一報を知った旧制大阪府立清水谷高等女学校(大阪府立清水谷高等学校)の女生徒たちは、関東大震災慰問袋(1,498個)を不眠不休で作り震災から二日後の9月3日に築港の「あんです丸」に積み込み支援活動を行います。
また同窓会組織の「清友会」は義援金を集め、一緒に運びます。
かなり即効性のある支援活動で、末長く伝えていくべきエピソードでしょう。
さらに
 この「あんです丸」に乗り込んだ一人の帝大卒の建築家がいました。
西門悠太郎

 

どこかで聞いたことありませんか?
NHK第12週 第68回「ごちそうさん」に登場している
主人公の夫です。
https://www.nhk.or.jp/gochisosan/story/story12.html
私は観ていないので(ブログで話題に)
正確な表現ができませんが、
「悠太郎は、支援物資とともに、地震発生から2日後の9月3日に『あんです丸』という船で東京に向かった。」そうです。
なかなか史実に沿ったシナリオ展開ですね。

12月 18

No.475 点・線遊び「足利尊氏からフェリスまで」

今日は、点と線を結ぶ“遊び”をします。
つなぐのは 足利尊氏と横浜ゴムとフェリスの秀才です。
この三つのキーワードにどのような関係があるか、
おわかりですか?

近年足利尊氏像では無い説が有力
■歴史認識
 日本史で足利尊氏ほど戦前と戦後で評価が変わった人物はいないでしょう。
 時代は14世紀、第96代後醍醐天皇と対立して足利政権を樹立し、
 史上最大の逆賊とも
 史上屈指の有徳の英雄とも評されました。
 現在の研究では尊氏の人間的側面や、人間関係の分析がかなり深く行われ新しい人物像が描き出されているようです。
 (横浜と足利氏)
 栃木県足利市は、尊氏の「足利家」に因んだ名前です。では“横浜”との関係は?
 彼の簡単な伝記を読む限りではトピックスとなるような「横浜」との関係はありませんでした。ところが、
 足利尊氏関連の日本史を調べている時、彼の時代=中世ではなく“近代史”で横浜が浮上してきました。
 足利尊氏が“国賊”とされていた戦前に彼を再評価しようとした人物が横浜にいたのです。歴史で習う「南北朝」の歴史認識は明治時代に入り、「南朝正統・尊氏逆臣」という「皇国史観」に反する考えや研究、発言が抑圧されるようになります。
 1934年(昭和9年)にいわゆる「足利尊氏論」が起こり当時の斎藤実内閣商工大臣だった「中島 久万吉」が辞任します。
 ※中島久万吉が、13年前に(会員向け)同人誌に発表した論文「足利尊氏論」が月刊誌『現代』に採録されたことが、衆議院で取り上げられ紛糾します。
 中島大臣の論文内容は、足利尊氏を賛美する内容でそれが国粋主義者たちを刺激します。
 この中島久万吉、横浜を舞台に実業家として活躍した人物です。
 彼は大手メーカー古河グループの中核となる 「古河電気工業」と「横浜ゴム」を創業し、昭和に入り政界入りします。
 
 ■平沼育ち
 横浜ゴム関係は幾つかこのブログでも紹介しています。
 横浜ゴム株式会社は、横浜で誕生した「横濱電線製造」が成長し古河グループ(古河電工)の一員となります。このお膳立てをした実業家が中島 久万吉です。
 電線とタイヤの原材料のゴムは“絶縁体”として密接な関係があります。古河電工は銅線を、横濱電線製造はその銅線に絶縁加工し「電線」を製造しました。
 この横浜電線製造を起こした横浜の“発明王”が山田与七です。
 山田は高島町に山田電線製造所を作り成功します。
  中小起業から脱却するために横浜商人の木村利右衛門、原富太郎らの出資を得て横浜電線株式会社を作り 一回り大きい製造会社となります。この時に次世代電線製造に必要だったのがゴムでした。
 「銅線」製造部門が古河鉱業(古河電工)になり、
 「ゴム」製造部門が「横浜ゴム」となって
 現在の日本の基幹産業となります。
 
 No.127 5月6日 あるガーナ人を日本に誘った横浜の発明王(加筆修正)

No.179 6月27日(水)電気が夢を運んだ時代?

■浜流しになった父信行
この古河の立役者、中島 久万吉、1873年(明治6年)横浜に生まれます。
父は中島信行、母は陸奥宗光の妹“初穂”で、久万吉を生んだ後体調を崩し1877年(明治10年)に若くして亡くなります。
父の信行は土佐勤王党→長州藩の遊撃隊→坂本龍馬の海援隊→陸援隊に参加した幕末の強者の一人で大暴れし、明治になっても波乱の人生を送ります。
新島襄との出会いでクリスチャンとなり新政府の幹部として活躍しますが、自由民権運動に板垣退助とともに参加し、政府批判を強めます。
優秀だった中島はこの間、任官し外国官権判事や兵庫県判事、神奈川県令を務めますが、
戦前の大悪法の一つ「保安条例」によって
横浜に追放されます。
よこはまついほう?
現在の感覚では信じられませんが、自由民権運動を弾圧するためできた“にわか”法律です。秘密の集会・結社を禁じ内乱の陰謀・教唆、治安の妨害をする恐れがあるとされた自由民権派の多くが
<東京ところ払い!>
皇居から3里(約11.8km)以外に退去させられます。

尾崎行雄、星亨、林有造、中江兆民 そして中島信行と後妻となった中島湘煙夫婦も1887年(明治20年)12月に追放される<ハメ>になります。
島流し ならぬ ハマ流しになる始末が その後の中島の人生を大きく変えます。

■政治家への転身
中島 久万吉の父、信行は横浜に落ち着くとまもなく
1890年(明治23年)7月1日
第1回衆議院議員総選挙に神奈川県第5区から立候補して当選し
その後は 政治家として活躍し
最後は 療養中の神奈川県大磯別邸にて亡くなります。
長男の中島 久万吉は
自由民権の理想を最後まで貫いた父と
義母「中島湘烟」の影響を十二分に受け経済界と政界で活躍します。

■戦士、岸田俊子
岸田俊子(きしだとしこ)
明治の時代を駆け抜けた女権拡張運動家・作家です。
俊才「岸田俊子」後の中島湘烟

(ブログでも紹介しました)
No.153 6月1日(金) 天才と秀才
1889年(明治22年)6月1日
 25歳だった二人の俊才がフェリス女学校の大講堂で演説を行いました。
明治期のフェリス女学院のエネルギーを伝える若松賤子(島田かし子)と同じく中島湘烟(岸田俊子)の短くも激しい人生を追います。
ブログから 引用します。
(天才・神童の出現)
若松賎子の半年前(文久3年)に京都の呉服商の長女として生まれた「岸田俊子」は、小さい頃から神童と呼ばれた俊才でした。
1870年(明治3年)6歳で下京第15校に入学、
1875年(明治8年)中学に進みます。
1879年(明治12年)15歳で昭憲皇太后(当時34歳)に「孟子」などの漢書講義を担当する事となった訳ですからその「俊才」ぶりが伺われます。
いじめられのかどうかはっきりしませんが、名誉職を1年で辞退し“自由民権運動”に目覚めていきます。
1882年(明治15年)4月大阪道頓堀の政談演説会で最初の演説デビューとなった岸田俊子の「婦女の道」は、世間をあっと言わせます。
あでやかな容姿、弁舌口調は視聴者を魅了します。
全国各地で彼女の演説は人気を博しますが、時代は言論封殺、明治の暗黒時代に入ります。滋賀県大津の演説で官史侮辱罪で投獄され、方向転換を迫られ演説から寄稿による言論に変わっていきます。
この時期活動を共にしていた18歳年上の自由党副総裁中島信行と結婚(後妻)します。
若き日の中島信行は、坂本龍馬、睦奥宗光ら土佐藩士と共に討幕運動に参加した海援隊メンバーの一人で、死別した最初の妻は睦奥宗光の妹でした。
睦奥宗光、中島信行は共に神奈川県令を務め、中島は第一回の衆議院選挙で神奈川4区で当選した横浜ゆかりの人物でもありました。
※神奈川第1区は島田三郎
俊才中島湘烟(岸田俊子)はフェリスとの関わりを深くしていきます。
1888年(明治21年)5月にはフェリス和英女学校名誉教授
1893年(明治26年)9月にイタリア公使になった信行ともに結核を発病
1898年(明治31年)11月帰国し神奈川県大磯町に転居、夫婦ともに治療に専念します。
1899年(明治32年)3月26日信行が肺結核のため53歳で亡くなり、
1901年(明治34年)5月25日一年後追うように中島湘烟、肺結核のため28歳で逝去します。

■大磯に死す
ここに登場した中島信行 俊子(湘烟) は神奈川県中郡大磯町の大運寺に墓があります。

この大磯という街は不思議な街です。新島襄が療養中に無くなったように茅ヶ崎市と並んで“サナトリウム”当時不治の病に近かった結核療養施設が多かったことも関係がありますが、明治中期から昭和初期にかけて、要人の避暑・避寒地としても最高のロケーションだったようです。
吉田茂
伊藤博文
山形有朋
その他、西園寺公望、大隈重信、陸奥宗光、岩崎弥之助、安田善次郎など
明治時代の幹部勢揃いといえそうな顔ぶれです。
最初の帝国議会が開かれた時
初代衆議院議長となった中島信行
初代貴族院議長となった伊藤博文
内閣総理大臣は山県有朋でした。
この三人が大磯に別荘を持っていました。

→大磯と横浜の歴史的関係
 調べてみると面白い繋がりがありそうです。

※個人的には山県有朋に関心があり
 彼の資料を調べていますが
 一時期作られた イメージとはかなり異なる人間像が感じられます。
 何かの折に 紹介しましょう。

「山県有朋」関連書籍リスト

山県有朋 明治日本の象徴
岡義武  岩波新書(絶版)

山県有朋
半藤 一利 筑摩書房

山県有朋 愚直な権力者の生涯
伊藤 之雄 文春新書

山県有朋と明治国家
井上 寿一 NHKブックス

12月 16

【絵葉書の風景】2013年12月16日 

私の(数少ない)横浜絵葉書コレクションから
風景を読み解いてみます。
今日の一枚は
THE THEATRE STREET,YOKOHAMA.
(横濱名所)歓楽の巷伊勢佐木町通り

風景の位置は、伊勢佐木町三丁目方向を道路を挟んで二丁目から臨んでいます。

発行年代の推定は
 まず オデオン座の映画看板『妻と女秘書』は
 1936年(昭和11年)日本公開。
 クラーク・ゲーブル主演の米国映画。
隣の「又楽館」上映の「地の果てを行く」は1935年9月公開のフランス映画。
 キネマ旬報ベストテン外国映画5位となった作品。
このことから この絵葉書の風景年代は 1936年(昭和11年)と推定できます。
※オデオン座の風景からはさらに面白い光景を読み取れます。

 二階の窓から 人が出て何か作業を行っています。どうやら吊り広告の「レート化粧料ご愛用者五千名様御招待レートクリーム」と読めそうです。
このレートクリーム

戦前は「東のレート、西のクラブ」と称された有名化粧品メーカーだったようです。

1878年(明治11年)に開業し1954年(昭和29年)に廃業したレート(仏語LAIT)ブランドを販売した平尾賛平商店(ひらおさんぺいしょうてん)

時代は1936年(昭和11年)頃と推定できますが、
1936年(昭和11年)4月にオデオン座が改築し拡張しています。画像からも新しさを感じます。改築後とするともう少し絞り込めそうです。
開戦まで5年という切迫感はこの絵葉書から感じることができません。伊勢佐木通りを走る“自動車”が右側を走っているのも気になります。(一方通行だったのでしょうか?)
ただ 戦後すぐであれば 伊勢佐木は空襲の爪痕もありもう少し荒れた風景もあったのではないでしょうか。また連合国軍占領下ではオクタゴンシアターと呼ばれていましたからこの風景は戦前の幸せなひとときかもしれません。
簡単に店舗推理をします。
 向かって右側から
■尾張屋呉服店(尾のマークが見えます)
■桜花化粧品店
■石渡洋服店
(数軒おいて)
■喜楽座(ちょっと不確定)

 向かって右側から
■オデオン座(映画館で昭和11年竣工)
■又楽館(映画館)

ここまで調べてきて
妙にひっかかることが出てきました。
伊勢佐木のオデオン座は
横浜本牧生まれの平尾榮太郎(平尾商会)によって創業された映画館ですが
その後 六崎市之介へ移り最終的には松竹の傘下にはいります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/横浜オデヲン座
そして
この昭和11年頃ののオデオン座に大きく掲示されている広告
「レート化粧料ご愛用者五千名様御招待レートクリーム」
前に紹介したように「平尾賛平商店」の広告が掲示されています。
同じ「平尾氏」による経営ですが
手元で調べる限り 両社の関係性が見えてきません。
たまたま同性で 意気投合したのか
「五千名様ご招待」はかなりの大盤振る舞いではないでしょうか?
■当時の映画館入場料は50銭
理髪料が40銭
はがき1銭5厘
白米(10 キロ)2円50 銭
5,000人分となると25万円+経費分のインセンティブになります。
現在の物価との比較はかなり難しい作業ですが
1銭が20円程度と換算できそうです。となると
50銭=1,000円程度 でしょう。
一枚の「絵葉書」から 
ちょっと眺めただけでも 様々なことを“読むこと”ができます。
さらに“電柱”“服装”“看板”“建築”等々の歴史と重ね合わせると
いろいろなことが読み取れるでしょう。
単に 懐古趣味ではなく そこに生活している人々・景色から現代を重ねることで、この街の姿が見えてきます。
「歴史は現在と過去の対話である」E・H・カー
“An unending dialogue between the present and the past.”

ピアゴ屋上からオデオン方向

(余談)
平尾榮太郎は、ヨコシネとも不思議な関係がありました。

No.319 11月14日(水)東のヨコシネ(加筆修正)

12月 12

No.474 横浜を愛した船乗りの夢

20世紀を迎えた1901年(明治34年)、
横浜港に一人のアメリカ人が降り立ちます。
彼の名はカール・ルイス(Karl Lewis)
船員として世界各地を航海している途中でした。
ルイスは富士の見える日本の風景と横浜の街に魅了されます。
早速、桟橋近くにある当時最新のライトホテルに逗留することを決めます。
美しき横浜が彼の愛おしき地になるまで
波乱の人生を追ってみました。

1865年(慶応元年)9月、米国ケンタッキー州に生まれたカール・ルイスは13歳で船乗りとなり、世界中を航海する傍ら“写真術”をマスターしていました。
「この国の風景は“絵(写真)”になる!」
陸にあがった船乗りルイスは、
培った写真技術を活かしてこの街に暮らすことを決意します。
横浜の拠点となったライトホテルは、ゲーテ座やヘボンの指路教会会堂、フランス領事館を設計した居留地きっての人気建築家サルダ(Paul-Pierre Sarda)の設計によって1893年(明治26年)に完成した4階建ての瀟洒なホテルでした。
中でもヨコハマグランドホテルの設計は、国内外に知れわたります。
規模的にはヨコハマグランドホテルには及びませんが、サルダ設計ということで、当時も人気のホテルでした。
No.47 2月16日 ヨコハマグランドホテル解散

カール・ルイスは、写真ビジネスの準備を進めますが既に横浜には多くの写真館が開店し新規参入は厳しいと判断します。
そこでルイスが着目したのが「絵葉書」でした。
欧米では日常的に利用されていた「絵葉書」は、船員だったルイスにとっても身近でその有用性を実感している“メディア”でした。
1871年(明治4年)に「郵便制度」が導入され、1873年(明治6年)に「官製はがき」制度が始まります。当初“前島密”がイギリスの郵便制度を参考に導入しますが、国際郵便は居留地の管理下にありました。
1874年(明治7年)に成立した国際郵便に関する条約(万国郵便連合)に近代化を図る日本も1877年(明治10年)加盟します。

(メディアとしての絵葉書)
1900年(明治33年)“私製はがき”の作製と使用が認められることで、民間企業の市場参入が始まります。
郵便制度というプラットホームに乗った「絵葉書」は、速報性、ビジュアル性、廉価であることから日本中に「絵葉書ブーム」が起こります。
サイズとスタイルを守り“切手”を貼れば自由に郵便制度が利用できることでまたたくまに多彩な絵葉書が登場します。
石井研堂の「明治事物起源」によれば、
1900年(明治33年)10月5日発行の『今世少年』第一巻九号に付録として付いていた「二少年シヤボン球を吹く図」の彩色石版摺り絵葉書が“はじまり”と書かれています。

1902年(明治35年)には官製の「絵葉書」も登場します。
「絵葉書」が日常生活の不動なメディアとなったキッカケが日露戦争でした。
日露戦争関係の官製絵葉書は17種類にも及び、私製はがきも戦地と国内を結ぶ人気の商品となりました。
この日露戦争における「絵葉書」が後の世論形成に大きな影響を与えます。
横浜年表ピックアップ【10月4日】

ポーツマス条約と日比谷焼打事件 他

(ルイスの絵葉書ビジネス)
大桟橋近くのライトホテルで起業計画を練ったライトは、
撮影した写真を活用した外国向けの「絵葉書」版元を
本村通り(ほんむらどおり)136番地に開きます。

日本人の妻貞子を迎え自宅を仕事場とは離れた上大岡の丘の上に置き、大好きだった“富士山”を眺める生活を送ります。
まもなく
仕事場をすぐ近くの山下町102番に移転し海外向けを中心に「絵葉書ビジネス」をさらに積極的に展開していきます。

当時の絵葉書は「彩色絵葉書」で
写真師が撮影した風景や人物の写真を、絵葉書用紙にコロタイプで墨刷りします。
このモノクロ印刷されたハガキ一枚一枚に手彩色をほどこし完成し、一回の制作部数は数千枚程度で、手間がかかるものでした。

日露戦争が始まることで
空前の絵葉書ブームが押し寄せます。
戦況や国家行事を伝えるメディアとして
安く早い「絵葉書」が多量に使われることになります。
ルイスの絵葉書は、遠くイギリス(ロンドン)で人気を博します。
背景には1902年(明治35年)に締結された日英同盟に象徴される日英関係の接近がありました。特に敵対していた露西亜のアジア進出を危ぶむ英国にとって辺境の情報を知る上でも“YOKOHAMA発JAPAN絵葉書”は重要なメディアとなっていました。

絵葉書が大ブームになることで競合も増えます。
1905年(明治38年)の記録では
日本の国内絵葉書総流通量が4億枚を超え当時世界一の絵葉書消費量を誇った英国に迫りアメリカを凌ぐ勢いとなります。
市場が活性するとそこに、上田義三商会(上田写真版合資会社)、星野屋、トンボヤ、ファルサーリ商会 他多くの絵葉書版元が登場します。

(事業転換)
絵葉書市場は、大正時代に入り大きく状況が変化します。
最大の環境変化は、印刷の技術革新で大量のカラー印刷が実現し、絵葉書の制作コストが大幅に下がり中小の手工業版元の多くが廃業していきます。
1913年(大正2年)カール・ルイスは、廃業を決意します。
自営業を辞め“勤め人”を選び、横浜初のローラースケート場の支配人となり、その後転職を重ね外国自動車の販売会社で長く勤めることになります。
ルイスは昭和に入り1933年(昭和8年)頃、会社勤めを辞め郵趣の世界に戻りますが、すでに日本は外国人に過酷な時代となっていました。
日米関係悪化の中、愛妻貞子に先立たれますが
米国領事館の帰国勧告も拒否し
“老いたる木は移植することができません。
 私の最後がくる時まで私はここにいることでしょう”
と決め敵国人として検挙されながらも友人縁者の努力で釈放されます。
富士山をこよなく愛した“心の日本人”カール・ルイスは釈放後も監視下におかれ軟禁状態のまま42年間の日本生活を終えます。
彼の墓は、自宅に近い富士山が良く見える上大岡の大岡山真光寺にあります。
1942年(昭和17年)5月17日没。享年76歳の人生でした。
※現在の真光寺は若干移動しています。
 現在横浜市港南区上大岡東3丁目
 (関東大震災前)横浜市港南区上大岡東2丁目9
夜景スポット(真光寺)
http://www.yakei-navi.com/yakei/yokohama/kounan_kamiookashinkoji/

参考文献
「絵はがきの時代」細馬宏通 青土社
「横浜外国人居留地ホテル史」澤 護
「明治事物起原」

12月 6

【雑記録】鉄道技師モレル

(以下の記述はJR桜木町駅が改装される前のものです)
普段は全く気にも留めていなかったところで発見。

桜木町駅改札前のサインボード表示に
「エドモンドモレル記念碑」だって?
頻繁に利用している割に気がつかないものだ。

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あのこと?
「エドモンドモレル記念碑」
これ自体はかなり有名なのでご存知の方も多いだろう。
改札前のサインボードにこの「エドモンドモレル記念碑」
という表記があったことに気がついたことから
改めて「エドモンドモレル記念碑」を探ってみた。

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(少し調べてみた)
この記念碑
それにしても落ち着かないところに設置されている。コインロッカーのスペースに鎮座しているが、一昔前は通路だったのでここに「エドモンドモレル記念碑」は無かった。
一時期駅舎内に掲示され(保管されていた時期もある)この「記念碑」は、日本最初の駅舎(汐留と並んで)だったことの“なごり”なのだろうか。

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大昔のモレルレリーフ

現在の碑にある説明版には
「1865年、英国土木学会員に選ばれる。1870年、鉄道敷設を計画していた日本政府は初代鉄道建築師長として雇用し、10数名の技術者とともに日本に招いた。
1872年を目標に新橋〜横浜間の鉄道事業はモレルの監督のもと着手されたが、日本の鉄道開通を見ずに1871年29歳で他界。イギリス人。
横濱開港150周年を記念して
 東日本旅客鉄道株式会社 横浜支店 2009年6月」
とある。

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No.288 10月14日(日)仮の借りを返す

No.164 6月12日(火) JR JR

元々の碑には十河信二氏によって銘が刻まれている。

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十河信二(そごう しんじ)
第4代日本国有鉄道(国鉄)総裁で
「新幹線の父」の名でご存知の方も多いだろう。関東大震災(1923年)の時、復興のために設立された帝都復興院に出向し“オオナタ”を揮う予定が疑獄の中失脚。満鉄に勤めるが1938年(昭和13年)に辞職し戦後しばらく鉄道から離れるが、1955年(昭和30年)5月14日に71歳の高齢で国鉄総裁に就任する。
当時、大きな鉄道事故が連続し加賀山之雄、長崎惣之助 両総裁が辞任。
立て直しのために4代総裁に就任した。

十河信二は戦前、標準軌にこだわった人物でもある。
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/404.html