6月 28

渡辺福三郎とその妻 たま。

(素案レベルです。今後加筆修正される予定です)

1901年(明治34年)と1904年(明治37年)1月25日に
市議会議長に渡辺福三郎が選出されたと「横浜市会の百年」の年表に記載されていました。

(渡辺福三郎の議長任期は1893年(明治26年)〜1905年(明治38年)で、市会の議長選挙は概ね明治期は1月に行われていました)
この市会議長を10年以上歴任した渡辺福三郎という人物について
今日は紹介しましょう。
《渡辺福三郎》
1855年(安政2年)1月〜1934年(昭和9年)
明治から昭和前期に横浜を舞台に活躍した実業家です。明治の時代、茂木・原・若尾と並ぶ横浜の豪商と言われた実業家です。
福三郎、江戸は日本橋の老舗海産物業「明石屋」の家に生まれました。
彼の父にあたる「明石屋」7代目福秀の時に横浜が開港を迎えます。
開港場の交易を推進するため幕府の勧めもあり元浜町に「明石屋分店」を構え巨額の投資を行います。
江戸で商っていた軍用石炭を横浜でも扱い、その他に海産物・蚕糸を取り扱いました。福三郎の代になり横浜支店は本格的に外国船の石炭や、輸出用の海産物を扱い「石福商会」の看板で事業を拡大していきます。
彼が関わった横浜の事業は多岐にわたりました。幾つか紹介しましょう。
神奈川・八王子間の「横浜鉄道(現在の横浜線)」の発起人・経営者の一人として尽力します。また「横浜電気鉄道」の設立にも関わり<取締役>に就任し経営に参画します。
1912年(明治45年)には渡辺銀行を設立、馬車道入口の本店は地域のランドマークとして威風を放ちます。
渡辺銀行は経済恐慌の影響を受け残念ながら昭和13年に第一銀行に買収され消滅しますが、戦前の横浜経済の重要な役割を担ってきました。

さらに
<渡辺福三郎>の妻 「たま」という女性を紹介しようと思いましたが、
実業の福三郎とはまったくジャンルの違う分野で大活躍した横浜の女傑!です。
彼女に関しては 別仕立てでぜひ紹介したいと思っています。

No.25 1月25日 馬車道の華

No.25 1月25日 馬車道の華


「横浜宝塚劇場」が改装オープンし「市民ホール」となった日です。

No.391 謎解き馬車道

No.391 謎解き馬車道

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6月 16

【謎解き横浜】弁慶の釣り鐘は何処に?

「一寒村に過ぎなかった横浜が〜」
枕ことばとして使われる横浜開港のフレーズです。
小さな村でしたがそれを<寒村>という枕詞で形容するのは止めよう派です。
<小さな村>たしかにその通りですが、横浜村が小寒村であれば、日本の大半の村は<寒村>となってしまうでしょう。
日本全体が近世から脱却したいがための強調だったのではないでしょうか。
私はもうこの苔むした表現は卒業したほうが良いなと考えています。
開港前の横浜村は風光明媚な<観光地>でもあり、そこそこ豊かな暮らしをしていました。

<開港特区横浜時計台>
開港によって横浜は開港特区となり、その中心地となった開港場は国内外のビジネスが集積する都市となっていきます。明治になり、開港場でビジネスを展開する貿易商人たちが日々起こる案件を評議する目的で「町会所」が設立されます。
横浜商工会議所の原点です。
light_時計台神奈川県全図1874年(明治7年)に竣工した町会所は、石造亜鉛葺二階建て、一部四階建て延765㎡の壮大な洋館として明治38年に撤去されるまで開港場の「時計台」としてもランドマークの役割を果たします。
鐘塔はドーム風に設計され、時計はスイスの商社<ファーブルブラント商館>が輸入したものを取り付けます。light_町会所時計台

町会所は1890年(明治23年)に「横浜貿易商組合会館」と改称し
その後「横浜会館」と呼ばれるようになります。
明治30年代半ばにはこの「横浜会館」も老朽化し明治38年に改修工事のため解体工事が始まります。
この時「時計台」も撤去されます。
翌年明治39年に隣接する鍛冶場のもらい火で焼失し、改修を断念します。
1909年(明治42年)横浜開港50周年を機に、「横浜会館」再建計画が持ち上がり資金集めが始まり大正3年9月に起工、同6年6月に竣工したのが現在の愛称ジャック「横浜市開港記念会館」です。当時は「開港記念横浜会館」と呼ばれました。開港記念会館夜景

今回のテーマは、この「町会所」にあった<鐘>です。
平野光雄の「時計亦楽」(昭和51年10月25日、青蛙房刊)横浜町会所時計塔の項に下記のような記述がありました。
「付記。『開港記念横浜会館図譜』(大正六年十一月刊)を見ると、旧町会所時計塔に設置された時報用釣鐘(梵鐘風の和鐘)の写真が掲載されており、当然、大正六年までは釣鐘が存在していたことを物語っている。(以下略)p98」梵鐘

開港記念横浜会館図譜<え?梵鐘風の和鐘?!>
この町会所は1874年(明治7年)に竣工、石造亜鉛葺二階建て、一部4階建て延床765㎡の壮大な洋館でした。ここには町役所や歩合金徴収所、貿易商組合事務所などが入っていました。4階には文明開化を象徴する巨大な時計塔が設置され、鐘塔はドーム風に設計され、前述の通り時計台の機械はファーブルブラント商館が輸入しジェームス・ファーブルブラント自ら塔屋に登って取り付けを指揮したそうです。
※JamesFavre-Brandt
http://www7b.biglobe.ne.jp/~scemo3440/favre-brandt.html
http://www7b.biglobe.ne.jp/~scemo3440/favre-brandt2.html

時計は時刻を刻みますが、見える範囲でしか活用できません。
そこで、<和製の梵鐘風の釣鐘>を撞き<時報>とした訳です。
鳴らされた時刻はわかりませんが、例えば正午に「ゴーン」と鐘が鳴ったお寺の無い開港場はどんな感じだったのでしょう。居留地の外国人には<クールジャパン>だったのかもしれません。
「時計亦楽」の著者も疑問を呈していますが、
この「釣鐘」は何故和風だったのか?
その後、この釣鐘はどのような運命をたどったのか?

開港50年記念祭 弁慶の釣鐘と提灯1909年(明治42年)開港五十周年の年、市内では様々なお祭り、式典が開催されます。開港五十周年を祝う<弁慶の絵柄の鐘楼が写った絵葉書>
この絵葉書には「この鐘の由来」がおぼろげに見えます。
「旧横浜会館時計台時報に用いたる者なり」
新しく制定された市章<ハマ>マークの提灯と、横浜会館で時報として使われていた釣鐘が弁慶に担がれている光景です。その後の調べで、弁慶の鎧は陶磁器で作られているそうです。
現代のように、プラスチック素材ではなく当時の最適技術としての陶磁器技術が用いられていたことに感銘と納得感がありました。

さて、ここに登場する「弁慶の鐘」とはどんな意味合いだったのでしょうか?
「弁慶の釣鐘伝説」という話は全国にあるようで、そもそもは
三井寺(園城寺)金堂に伝わる
弁慶が“比叡山に持ち帰った”という伝(つたえ)のある鐘のことで
「ある日、弁慶一行が三井寺にやってきて、ひと暴れした後、このお堂の釣鐘を引っ張り出して比叡山に持って帰りました。この鐘は、俵籐太が琵琶湖の竜神の頼みで、百足を退治して、そのお礼に竜宮から貰い、三井寺に寄付したと言伝えがあります。さすがの弁慶も簡単には持ち上がらず、引き摺っているのが、よくわかります。
それで、この鐘を「弁慶の引き摺り鐘」と言うようになりました。」 とあります。
この他
●鳥取県の大山寺の釣鐘
弁慶の釣鐘(寿永の鐘)
弁慶の怪力 鳥取県の大山寺の釣鐘を、一日で島根県平田市鰐淵寺まで担ぎ持ち帰った。18歳の修行僧時代のことで、なんと 101Kmの距離を担いで運んだそうです

●石川県金沢市石浦神社拝殿
「石川県金沢市石浦神社拝殿弁慶に伝わるエピソードに、「弁慶の釣鐘引き」の話がある。?〜1189。源義経(1159〜1189)の家来といわれているが、大体が室町時代成立の『義経記』によるもので、その生涯は明らかではない。
主君に最期まで尽くし、かつ怪力無双の豪傑ということから人気が高く、能「安宅」や歌舞伎「勧進帳」では主役である。」
と解説されています。

●出雲市の鰐淵寺
にも伝承があります。

大切な梵鐘を移動させた<因縁>を伝えるための物語のようです。こんなに大切な梵鐘を弁慶によって移動させたのは<これこれしかじか>という訳です。
「横浜会館」の時計塔(横浜町会所時計塔)の鐘は
どこから来て どこに行ったのか?
横浜沿革誌残念ながら いまだもって謎のママです。何かの資料が発見されわかる日がくるかもしれません。開港場の時報が<ゴーン>だったことは、当時の開港場の音の風景としてはかなり面白いエピソードではないでしょうか。

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6月 13

【保土ケ谷区】歌人 荒波孫四郎

1903年(明治36年)2月23日
「保土ケ谷の歌人荒波孫四郎(66)が没した(横浜歴史年表)」という記事に出会いました。荒波孫四郎という人物、初めて聞く名前でした。いかなる人物なのだろう?
歌人とあるので、文学で作品を残した方か?と思い調べてみました。
保土ケ谷区史を調べたところ、何ヶ所かに登場します。
1883年(明治16年)保土ケ谷の東海道線敷設に伴う新道開墾事業資金に高額寄付を行っているリストが登場しました。また、初期の学校制度では、地域が学校を支えることになっていて、程ケ谷(小学校)の世話人として荒波孫四郎の名がありました。
※程ケ谷(現在の保土ケ谷小学校)学舎
明治6年5月5日創立、6月5日開校
明治6年の学制に従って保土ケ谷他3ケ町の有志により設置。軽部庫次郎宅敷地に新築、第一大学区第七六番小学程ケ谷学舎として創立。(学校沿革誌より)

地域の名士であることは分かりました。
歴史年表では「保土ケ谷の歌人荒波孫四郎」とありますが文化人のところで<歌人>として登場してきません。歌人ではなかった?
ということで、もう一つの郷土史、「保土ケ谷区郷土史」を探ってみると 簡単な生い立ちと地域への貢献について記述されていました。

「保土ケ谷の歌人荒波孫四郎」が地域貢献?
そもそも荒波孫四郎は何故資産家なのか?
資料を読む限りでは 荒波家は先祖が伊勢国津市原町(現在の三重県津市)の出身で、江戸神田三河町に暮らした後、保土ケ谷(岩間)に移り住みます。軽部清太夫に就いて学び、また独学で知識を身につけ戸長になります。
「才気よりも徳望の人にして(中略)町政を掌るや能く衆議を容れて雅量を示し、寛厚以って事を処したり」
ここに登場する荒波孫四郎は天保に生まれ、1903年(明治36年)の今日66歳で亡くなりますが、家業は不動産業(土地活用)と資料では読めます。
「山林を買取り之に植林して十周年の経、横濱の発展と共に地価大に騰貴し来る。」横濱の発展に伴い材木需要が高まり<林業>で財を成したのではないか?と推測できますが、資料不足です。

ただ 半端な資産家ではなく<超>大金持ちであったことは、社会貢献、社会事業への関わり方で理解することができます。
前段で紹介しました「程ケ谷学校」への資金援助
道路改修への資金提供、程ケ谷駅新設に奔走し、自分の土地も提供します。
この他
久保山の共同墓地を作るにあたって、広大な敷地を譲渡しますが、代金は<墓>の売上にから分割返済するシクミにすることで町の財政負担軽減をはかります。
保土ケ谷を貫通する<水道道>の鉄管整備工事にも自分の土地以外の地主との交渉役も引き受けています。多方面にわたる地域貢献に心がけた篤志家、実業家だったようです。
明治時代の保土ケ谷発展に大変寄与した人物だったことが分かります。
1903年(明治36年)の今日亡くなり保土ケ谷旧東海道脇の天徳院に眠っています。
歴史年表に歌人とあったのは、風流人として晩年を送った孫四郎を偲んだ表記だったかもしれません。
※曹洞宗寺院の天徳院
神戸山天徳院と号する。正元年(1573)に創建、文久年間(1861-1864)に満願寺を合寺しています。横浜市保土ヶ谷区神戸町102

神奈川県公文書館に貴重な地域資料が遺族の意向で寄付があり、「荒波孫四郎家旧蔵絵図資料」が所蔵されています。
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f1040/p10485.html

■明治三陸地震
1896年(明治29年)6月15日午後7時32分30秒、岩手県上閉伊郡釜石町(現・釜石市)の東方沖200km(北緯39.5度、東経144度)を震源として起こった、マグニチュード8.2-8.5レベルの巨大地震が起こりました。
地震に伴う当時の観測史上最高(本州)海抜38.2mを記録する津波が発生。
新聞報道で被災内容が全国的に報道されるようになり、<義援金>が集まるようになった災害としても災害史に残しました。
この地震被害に対し全国で義援金が集まりますが「神奈川縣橘樹郡保土ヶ谷町有志」も義援金を募り多くの人びとが寄付します。そのリストが「東奥海嘯罹災救助義捐金」として「横浜毎日新聞」に掲載、デジタルアーカイブされています。
金十圓 岡野欣之助
金七圓 荒波孫四郎※
金五圓 岩田岩次郎
このリストの二番目に荒波孫四郎の名があります。当時の寄付金は、その地域の名士度に従って金額が決まってきますので荒波孫四郎が保土ケ谷町内会の有力者であったことが推察されます。
http://tsunami-dl.jp/…/Yokoha…/YokohamaMainichiM29_July24_05
参考
<保土ケ谷区郷土史下>に登場する郷土の人物
第十一章 郷土の人物
一 苅部清兵衞翁
二 岡野勘四郎翁
三 岡野欣之助翁
四 荒波孫四郎翁
五 金子泰吉翁
六 清墨庵先生
七 木村坦乎先生
八 宮本清寛先生
九 鈴木玄清先生
十 孝女さく子
十一 孝子金作
十二 孝子湯澤シヅエ
十三 節婦金子ナカ

(2月23日関連過去ブログ)
No.54 2月23日 麒麟麦酒株式会社創立
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=567
(番外編)
番外編 重箱の隅の快楽(追記・修正)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=545

主な寄贈資料一覧 – 神奈川県ホームページ
神奈川県立公文書館が収蔵する資料の一部を写真とともに紹介しています。
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6月 6

【市電ニュースの風景】№22

目下1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を読み解いています。22号

1931年(昭和6年)5月・6月
五月
29日 ’Sturdy’号にて Edward Miles Lone sailor crosses Pacific
Edward Miles 氏香港から到着、出発は7月14日で、9月9日にハワイ到着。

三十、三十一日 保土ケ谷家政女学校記念展覧会(電車及バス保土ケ谷終点下車)
三十一日 高工對高商 定期野球戦(電車花園橋下車)
=午前九時半開場 午後二時半試合開始ー横濱公園球場にて=
=六月二日第二回戦挙行ー時間及場所は総て前同様=
31日 花月園少女歌劇団 解散。
31日 神奈川区の浅間神社の復興成りその遷宮祭が行われた
六月一日 浅間神社大祭ー新社殿竣成(電車浅間下 下車)
一、二、三日 厳島神社(弁天社)大祭(電車及バス羽衣町一丁目下車)
一日より五日まで 第十二回開港記念祝賀バザー(横浜公園及日本大通にて)
二日 第二回商工祭(十時公園音楽堂にて)広告仮装大行列挙行
一日より十日まで 最近欧州各国ポスター展示会(電車及バス本町一丁目下車)
=日本大通商工奨励館にて開催ー観覧随意=
四日 むし歯予防デー 映画と満談の会(伊勢佐木町又楽館にてー入場無料)
懸賞標語
満員の電車の次に空が来る (当選者 鈴木 哲次郎 君)
※アラビア数字は別の年表から同時期の出来事を追記したものです。

【キーワード】
■Edward Milesの単独横断
史上4番目に<単独航海世界一周>の成功者で米国NY出身です。
米国のアーカイブには登場しますが日本では検索しましたが皆無でした。
※ちなみに1962年(昭和37年)堀江謙一が日本初の太平洋単独横断に成功し世界一周は1974年に成功、世界ランキング36番目です。37番目も38番目も日本人でした。
36番目
Kenichi Horie – Japan
“Mermaid III” – 1973/1974 – First Japanes
37番目
Hiroshi Aoki – Japan
“Ahodori II” – 1971/1974
Smallest yacht co circumnavigate – 20’8″
38番目
Ryusuke Ushijima – Japan
“Cingitsune” – 1973/1974
■保土ケ谷家政女学校
1912年(大正元年)10月  程谷町立女子実業補習学校
1927年(昭和2年)4月  横浜市立程谷家政女学校※
1928年(昭和3年)4月  横浜市立保土ケ谷家政女学校
1935年(昭和10年)4月  公立青年学校神奈川県横浜市保土ケ谷家政女学校
1936年(昭和11年)4月  横浜市立高等家政女学校
1942年(昭和17年)3月 廃止
※保土ケ谷に30年間存在した女学校で横浜市立高等女学校(現在の桜ヶ丘高校)の家政学校として併設される形で開校。

■三十一日 高工對高商 定期野球戦(電車花園橋下車)
1929年(昭和4年)以来休止していた定期戦が復活した試合です。

■花月園少女歌劇団
京浜急行に「花月園駅」があります。少し前には競輪場があったので花月園というとギャンブル!というイメージを持つ方も多いでしょう。ここはかつて東洋一の遊園地でした。
No.52 2月21日 東洋一の遊園地(加筆修正)

No.52 2月21日 東洋一の遊園地(加筆修正)


この「花月園」の花形だったのが「花月園少女歌劇団」
当時、関西の「宝塚」に匹敵する人気だったそうです。
時代の流れに運営が追いつかず解散の憂き目に合います。

■又楽館(ゆうらくかん )
又楽館は横浜の人気劇場 映画館の一つでした。
場所は長者町6丁目57番地で明治45年※に開業。洋風4階建て2、430人収容の常設活動写真館で横浜有数の規模を誇りました。建物の設計は矢部又吉です。
(大正元年〜 後にオデオン座と合併)「市民とオルガン P29」
※明治45年は7月30日から大正元年となるため 正確な月日が不明な場合明治/大正併記としておきます。

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6月 5

有限責任横浜船渠会社 設立

1891年(明治24年)6月5日
「有限責任横浜船渠会社が設立認可」と資料から発見!light_横浜船渠06日本鋳造(株)『日本鋳造50年史』や
『石川島重工業株式会社108年史』他に表記されていました。

横浜船渠(よこはませんきょ)と読みます。船渠は英語では<ドック>です。
今日はこの横浜船渠をネタにします。横浜船渠は現在のみなとみらいにあった造船所で、のちの三菱造船所となりました。
横浜船渠とは?
まず「Wikipedia」で確認。
http://ja.wikipedia.org/wiki/横浜船渠
ところが
Wikipediaでは摩訶不思議な表記になっています。本文には
『概要
イギリス人技師・パーマーは、港湾の発達には船渠(ドック)・倉庫などの付帯設備の充実も不可欠であることを説き、それを受けて渋沢栄一と地元の財界人らにより横浜船渠が1889年(明治22年)に設立された[注1]。』※この[注1]がまた不思議。
1889年(明治22年)に設立とありますが
沿革では
『1891年(明治24年) – 有限責任横浜船渠会社設立。』
と表記されています。???????
時々Wikipediaにはあるんですね。
<歴史の先生のアドバイス>
「歴史を学ぶなら まず自分の年表を作れ」と教えを得ていますので複数の資料から
今日はこの横浜船渠(よこはませんきょ)の簡単史を作ってみました。
すると
■■有限責任横浜船渠会社が設立認可された日、
 1891年(明治24年)6月4日と6月5日の2つの日が浮上しました。
→ここでは 資料の提示に留めます。
(略年表)
1888年(明治21年)5月5日
「横浜船渠会社創立願書」を作成します。
1888年(明治21年)8月28日
「横浜船渠会社創立願書」の設立許可指令
1889年(明治22年)6月4日
弁天通3丁目に横浜船渠株式会社の設立地が定められ、長住町地先海面の埋立をはじめた(横浜歴史年表)
1890年(明治23年)1月31日
横浜船渠創立委員、船渠築造・工場敷地埋立(長住町地先埋立、現入船町)を県知事に出願(横浜の埋立)
1890年(明治23年)3月19日
横浜船渠会社創立に関する県知事諮問に対し、計画一部修正の上許可を決議(横浜市会の百年)スクリーンショット 2015-06-05 0.15.48 1891年(明治24年)6月4日
 (有)横浜船渠による長住町地先海面埋立の出願許可(現入船町)(横浜の埋立)
1891年(明治24年)6月4日
 弁天通三丁目原善三郎外三十二名創立発起人となり、船舶及船舶に属する諸器械の製造修繕の業を営むの目的を以て、横浜船渠会社を創立し、該事業施設の為め、長住町地先海面一万五千余坪を埋立、海面一万五千余坪使用するの願を許可せられたり(横浜沿革誌)
 原善三郎ほか33名が(有)横浜船渠を入船町1番地に設立。(横浜の埋立)
1891年(明治24年)6月5日
 (有)横浜船渠会社が設立認可(日本鋳造(株)『日本鋳造50年史』『石川島重工業株式会社108年史』他)スクリーンショット 2015-06-05 2.43.011893年(明治26年)12月
横浜船渠株式会社に改組。(横浜の埋立)
※1894年(明治27年)3月6日
横浜船渠会社の設立が許可された(横浜歴史年表)※資料的に不確実
1896年(明治29年)9月1日
横浜船渠が日本郵船横浜鉄工所を吸収合併、船舶修繕・鉄工業の営業開始(横浜の埋立)
1897年(明治30年)4月18日
2号船渠 ドック(石造)完成(パーマーの設計)。
5月1日営業開始(横浜の埋立)
→1993年(平成5年)にドックヤードガーデンとしてオープン。
日本に現存する最古の旧商船用石造ドックとして重要文化財に指定light_120401_00211897年(明治30年)2月24日
浦賀船渠株式会社起工式
1898年(明治31年)年末
横濱船渠の長住町地先海面埋立工事がほぼ竣工(横浜の埋立)
1899年(明治32年)5月1日
1号船渠(石造)完成。(横浜商工会議所百年史 他)
→横浜船渠第一号船渠:設計は海軍技師・恒川柳作
大正期に延長され、総長204m、上幅34m、渠底幅23m、渠内深さ11mとなる。
※Wikipedia では1898年竣工とあります。
→重要文化財に指定され現在は「日本丸メモリアルパーク」light_120716n02191901年(明治34年)12月20日
横浜船渠株式会社埋立地の名称を<入船町>とする件可決(横浜市会の百年)
1908年(明治41年)11月5日
横浜船渠(株)新設の潮入船渠通水式が行われる。(横浜商工会議所百年史)
1910年(明治43年)12月3日
第3号乾船渠完成。日本で初となる全体がコンクリート造のドックである。
開渠式と中央倉庫(株)合併披露式も行われた。(横浜の埋立)
→閉鎖後埋立て
1917年(大正6年)5月29日
横浜船渠(株)が仮船台1基を竣工。造船業開始。(横浜の埋立)
1917年(大正6年)7月12日
横浜船渠会社入船町地先埋立出願に関する知事諮問に対し、条件付承認答申案可決(横浜市会の百年)
1917年(大正6年)8月28日
横浜船渠会社が資本金を10,000,000円に増資、造船台5箇の築造・工場設備の大拡張をはじめた。(横浜歴史年表)
1926年(大正15年)5月14日
日本郵船(株)の新造船三隻のうち一隻の建造を横浜船渠(株)に分托方同社長に意見書を提出する。(横浜商工会議所百年史 他)
1927年(昭和2年)7月15日
当地の繁栄上、横浜船渠(株)において優秀船建造方、日本郵船(株)に陳情する。
1930年(昭和5年)4月25日
氷川丸竣工。シアトル便就航。龍田丸はサンフランシスコ便就航。
1932年(昭和7年)7月19日
横浜船渠社長 横浜商工会議所副会頭である河上邦彦(64)が死亡退任。
1933年(昭和8年)9月30日
横浜船渠工信会と浦賀船渠工愛会が神奈川造船労働連盟を結成(横浜市史)
1935年(昭和10年)11月1日
三菱重工業に吸収合併。三菱重工業株式会社横浜船渠となる。(横浜商工会議所百年史 他)
1943年(昭和18年)7月1日
三菱重工業株式会社横浜造船所と改称。
横浜船渠の名称が消える。
※この間、大規模な労働運動も起こっていましたが 割愛しました。
light_MM1980cNo.283 10月9日 (火)三角菱のちから
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=317

No.116 4月25日 紺地煙突に二引のファンネルマーク
氷川丸が横浜船渠株式会社で竣工したのが1930年(昭和5年)4月25日です。
北太平洋航路の貴婦人と呼ばれた「氷川丸」にとって、4月25日は記念すべき日です。

No.116 4月25日 紺地煙突に二引のファンネルマーク

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6月 4

1915年(大正4年)6月4日

時折断片的な史実がつながり始めることがあります。
点が線に線がある形になっていく時に背中がゾクゾクッとします。
これまで900話位の史実をさがす横浜ブログを書いていますが、ゾクゾクッとすることは中々ありません。
今日のネタは調べている過程で少しゾクッとしました。
三人の詩人が横浜で出会った様子を<小説>のように書いてみました。
1915年(大正4年)6月4日(金)
当時藤棚の山頂にあった<神奈川一中>に通っていた熊田 精華(17歳)は、学校で知り合いになった一歳年上の北村 初雄(18歳)の自宅を初めて訪ねました。
中区住吉町に暮らしていた熊田 精華の自宅から 南太田にあった北村 初雄の家まで約2.3キロ、開通したばかりの路面電車に乗ったかどうかわかりませんが徒歩でも40分位の距離は熊田にとって通学路より平坦で楽だったに違いありません。
※神奈川一中は現在の希望が丘高校light_PC130603 北村の住む南太田は、”久良岐郡太田村”として古くからの村でした。
開港後急速に宅地化し、1913年(大正2年)10月1日から11月19日まで「神奈川県横浜市勧業共進会」が近くで開催され、その後共進町となっていきます。
light_横浜勧業共進会3熊田が訪れた北村 初雄の父 北村七郎は日本大通りに竣工したばかりの三井物産横浜支店長でしたので、丘の上の洋館に暮らしていたかもしれません。
一方の熊田 精華の自宅は海岸にほど近い入船通りで父熊田源太は耳鼻科の開業医でした。三井物産ビル

大正期の日本大通り
日本大通りを海岸側から見る

light_20150501三井倉庫6 この二人を結びつけたのが<詩>でした。すでに露風詩会に参加していた 北村 初雄に熊田が強く影響されたのかもしれません。
北村 初雄は中学時代から詩人三木露風に師事し「未来」に属し露風門下生で三木と同じ歳で兄のような存在の<柳沢健>と横浜で出会います。
北村は1917年(大正6年)7月に中学卒業記念詩集として『吾歳と春』を刊行、<推薦文(序文)>を三木露風が贈り<詩人>としてデビューします。彼は“父の意向で”神奈川一中卒業後 東京高商(現在の一橋大)に進み卒業時(大正9年)にも卒業記念詩集「正午の果実」を刊行します。若さを前面に出した詩風は当時の萩原朔太郎と対比され詩壇に登場します。light_スクリーンショット 2015-06-04 6.03.13 light_スクリーンショット 2015-06-04 6.02.57 残念なことに北村は25歳の若さで結核に罹り夭逝します。
彼が残した詩集は4冊しかありません。
中学卒業記念のデビュー作『吾歳と春』、大学の卒業記念詩集『正午の果実』、死後に発刊された遺稿詩集『樹』
そして1918年(大正7年)11月に柳澤健と 熊田精華と三人で出した共同詩集『海港』の4冊でした。

詩集『海港』に寄せた
北村 初雄21歳の作 「印度洋」から
心地よい朝の日光を浴びて、
Laughter(ラフター)と云う遊戯を行なってゆく、
輪を圍んだ子供達が笑って居る、
空に投げられた手布(はんけち)が地に落ちる迄。

僕は將棋の駒の王様といふ風に、
細長い顔を四角張らせて、身動きもせず、
この庭の薔薇の葉の間から見透かされる、
青い海をば みつめて居る、
其處には確(きっ)と嬉しさうに泳いで居るに違いない、
竹麥魚(はうぼう)や■(かさご)や帯魚(たちのうを)や鯛の群れ。
※■は旧字で表示
栂(とが)の角(かど)ばった葉が日光(ひ)に映えて、
僕を全(すっか)り愉快に.ならせる、彼(あ)の子供達の笑ひ聲。
僕は黙って其れを聞き分けてゆく、
風を孕んだ帆の滑車(せみ)の軋りや櫓の音から。

「初雄さん、遊ばない?」此時、
芝生づたひに走り寄って来る、
真白な真白な可愛い子。
僕はその手を取ながら、静かに尋ねる、
「君のお父様は船乗だってね?」

「ああ僕のお父様は大きな汽船の船長だったの、
だけれどお父様が汽船に乗って、
印度洋を渡って居られるときにね、
お酒を澤山頂いて直ぐにお風呂に入って、
脳充血と云ふ病気に罹って死んで仕舞ったの。」
子供の眼に這入る青筒(ブリュファンネル)の大きな汽船たち、
其は青い空の上に、大きな雲と成って懸って居る。

ああ、巨(おおき)い海洋(うみ)! 巨い海洋!
そうだ、僕が一橋を卒業して、
里昂(リヨン)の会社(みせ)にでも勤務(つとめ)る様に成ったなら、
僕は印度洋を渡って行かう、
そうして、汽船が船長の水葬された所を通過(とほ)るとき、
僕は帽子を脱って挨拶しよう!
「僕は貴君(あなた)の可愛いお子様のお友達で、
姓なら北村、名ならば初雄と申します。」

薔薇の花の揺(ゆす)れが止まった。海は凪いで居る。
子供の眼からは曇りが去った。
僕は自分が話し始めるお伽噺の世界に引込まれて、
青い潮流や人魚のむれや薄紫の貝殻の中で、
印度洋と子供の顔とをじつと見較べる。

●実に素直な 青春詩という感じです。
ここで北村の兄弟子で共同詩集を出した柳澤健について触れておきます。
柳澤健は福島県会津若松市に旧会津藩士の長男として生まれ、一高、東京帝国大学仏法科を経て逓信省の官僚になります。詩人三木露風門下には大学時代に参加し、横浜郵便局長心得在職中に北村と出会うことになります。
1918年(大正7年)11月に
互いに親交を深めた三人 北村 初雄、柳澤 健、そして熊田 精華は最初にして最後の詩集を刊行します。
柳澤健はこの詩集を出した翌年の
1919年(大正8年)4月に逓信省を辞職し大阪朝日新聞社に入社、その後外務省に勤務。フランス、イタリア、メキシコ、ポルトガルなどに駐在し退官後は日本ペンクラブの創設や評論家として活躍すると同時に詩人としても多くの作品を発表しました。
1953年(昭和28年)5月29日没。

エピローグ
熊田 精華は第一中学校を卒業後上智大学哲学科へと進み詩人として活動し、昭和19年には長野県飯山高女で教職につきます。
この間に、一つ年上の山名 文夫と親交を深め、終生の親友となります。

熊田 精華 <七月>
アンナベルリイの午后(ひる)の寝顔に
風が落す淡紅色(ときいろ)の花・
身軽に逃げる小魚(こうを)の後をおひまわして居る私の手・
可愛い猫・一羽の鸚鵡(あうむ)・
それに沢山の糖菓(キャンディ)と
チョコレェトとをのせて居る、
合歓(ねむ)の葉かげの白いボオト。

緑色の「コロンビア」と
形姿(かたち)のいい「エンプレスオブエイシア」・
桟橋のカッフェの卓子(テイブル)では、
帽子をまげたアメリカ人と陶器(せともの)の様な支那人との
切れめの多いのろい会話・
間のびな音をひびかせるNYKの汽艇(ランチ)の笛。

川口の石崖(いしがけ)・警視所の屋根・
広い芝生をのぞいている、
海軍病院の病室(へや)の窓に一つ置かれたアマリリスの花・
旗竿(ポール)をとりまく木椅子の群・
ユニオンジャックをゆるがす風・
RとFを組みあはせた仏蘭西(フランス)領事館の門の金具が、
まぶしい程にうつる水。

ボオトの中にはいま醒(お)きたアンナベルリイの
可愛い瞳(め)・ふりかかる髪をはらひながら
陽にむけておくる優しい微笑(えみ)・
私の両手に音たてる櫂(かい)・
海鳥(みづどり)たちのゆるいはばたき、
その時に山をこぼれて来るクライストチャーチの鐘の響。

水先案内(パイロット)の船の小さな旗と、
グランドホテルの日徐(ひよけ)の影をよりあはせては
踊らす波・海堡の口にならんで居る赤い燈台と白い燈台・
帆(カンバス)の上にもたれる雲・示午球の柱・
碧い海・鸚鵡(おうむ)の声が長く引く、
GO AHEADにおどろく猫。

(七月が二人の前に笑ひ、喜びあふれた、
おお、その時。
世界を両手にささへながら、
私たちは二人は幸福でした。
私たちは二人は幸福でした。
眼には涙があったけれど。
・・・・・・     )
(詩集『海港』から)

熊田 精華には10歳以上離れた年の弟<五郎>がいてとても可愛がります。
親友の山名 文夫に弟を紹介し、弟<五郎>はデザインの道に入り、後に
世界の熊田千佳慕としてアートの世界に大きな足跡を残します。25E7-2586-258A-25E7-2594-25B0-25E5-258D-2583-25E4-25BD-25B3-25E6-2585-2595-25E5-25B1-2595

No.44 2月13日 熊田と土門

No.44 2月13日 熊田と土門


1981年(昭和56年)のこの日、熊田 千佳慕が70歳でイタリア・ボローニャ国際絵本原画展に出品

(以上、ここには若干私の想像も含まれています。
セミフィクションとしてご理解ください)

(その他の6月4日)
1983年(昭和58年)6月4日
県内で最初の緩衝緑地,金沢緑地がオープン[横浜の埋立] 
1983年(昭和58年)6月4日
金沢産業振興センター完成(36)[横浜市会の百年] 
1983年(昭和58年)6月4日
都市計画道路「新横浜・元石川線」開通(36)[横浜市会の百年] 

1870年(明治3年)6月4日
山手公園が居留地の外国人によって整備されます。
No.120 4月29日 庭球が似合う街
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=496light_P3271119No.156 6月4日(月) 三ツ池公園「コリア庭園」開園

No.156 6月4日(月) 三ツ池公園「コリア庭園」開園


1990年(平成2年)6月4日に開園した桜の名所として名高い横浜市鶴見区の三ツ池公園の中に「コリア庭園」を紹介します。

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