5月 31

No.152 5月31日(木) もう一つの近代水道発祥の地

今日も昨日に引き続き「横浜市の水道」ネタを紹介します。
1987年(昭和62年)5月31日の今日、横浜水道100年に際し横浜市保土ケ谷区川島町(西谷浄水場敷地内)に「横浜水道記念館」をオープンし開館式典が行われました。

全国自治体数々あれど、自分の街の水道に関してこれほど自慢できるところはないのでは!
良く知らない!という方は
一度は行こう!横浜水道記念館!
http://www.city.yokohama.lg.jp/suidou/kyoku/torikumi/suidou-pr/kinenkan/
横浜市民の皆さん。
横浜水道記念館に行きましょう。野毛山だけでは駄目ですよ!
横浜水道の誇り高き歴史はもちろんですが、敷地内から見る風景も最高です。

さらに記念館の最上階の展望室からの眺望は真冬でも真夏でも大丈夫ですよ。
※駐車場がありません!!(相鉄バスを利用するか、上星川駅から歩きましょう)
私は自転車で行きましたが、最後の旧坂には閉口しました。

そもそもここになぜ水道記念館なんか建っているのか?
この西谷浄水場は、昨日紹介しました横浜市と山梨県南巨摩郡道志村を繋ぐ重要な中継点にあたります。
No.151 5月30日 100年前の先見性

■水道道の不思議
水道は“水道管”を使って導水されます。
明治から大正と言っても50万人近い人口の水量を運ぶインフラが必要になります。

当時最新鋭の水道技術が導入され、山梨県から横浜市の港近くまで水道管が敷設されました。この水道管の本管が埋設されている上にある道を「水道道(すいどうみち)」といいます。民家、私有地に通す事が(保安管理上)できません。そこで横浜市内には「水道道(すいどうみち)」と呼ばれる道明治期から走っています。
下記の図は西谷浄水場から野毛山貯水場跡(現在の野毛山公園)をつなぐ水道道マップです。近代水道発祥の地(野毛山貯水場跡)と良く言われますが、西谷の浄水場こそが近代水道発祥の地の心臓部にあたります。

(西谷浄水場近辺の水道道)

①旧西谷浄水場
②浄水場から野毛方向に一直線に続く水道道
③旧計量所跡(指定文化財)
④水道道

(相鉄線西横浜駅近辺の水道道)

①西横浜駅から西谷浄水場方向
②西横浜駅前から野毛山方向

■当然北(道志村)にも続いています。
この水の道を散策(アップダウンありますがサイクリングの方がベストかな?)するのも面白いでしょう。

さあ「水道記念館」を簡単に紹介しましょう。

■横浜水道記念館
近代水道の創設時代からの歴史、水道の分かりやすい基本知識を解説しています。

■水道技術資料館
水道に関する技術的な資料と技術の移り変わりを解説したコーナーが設置されています。

■記念館敷地内には、水道の歴史を語る使用された水道管、ポンプ、逆流防止装置等が野外展示されています。

■「横浜のおいしい水」検定に挑戦してみましょう。
(郵送で検定参加できます)
http://www.city.yokohama.lg.jp/suidou/oishi/kentei/#kenteigaiyou
当たり前と思っている水道というインフラテロ対策まで必要な時代になっていますが、蛇口をひねって得られる安心に喜びを感じたいと思います。

5月 30

No.151 5月30日 100年前の先見性

21世紀は「水資源戦争の世紀」と言われています。
世界の資源会社は今、石油でも、ウランでもなく「水資源」を求めています。
先日新聞記事に「水源林の公有化進む」とありました。(20120527)
地方自治体が水源を守るために水源林の確保を行っているという内容です。
ここに横浜市の歴史的記述は見られません。
水源林の公的確保の歴史は横浜から始まります。
1916年(大正5年)の今日、道志村水源林を横浜市が買い上げる契約が結ばれました。bloscann032
1897年(明治30年)水源を道志村に求めていた横浜市は、水量・水質に影響のある水源地に関心が高まりました。

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そこで現状把握したところ
水源林の荒廃、銅採鉱の鉱業による水源汚染、発電事業による水源事業等の課題が出てきました。
さらに横浜市の人口増に伴う第二回拡張工事が行われ、取水量が大幅に増加しました。安定した水源の確保が必要となり、大正4年に道志村水源林買収管理計画を提出します。
そして、1916年(大正5年)5月30日付けで契約が結ばれます。
買収額:131,414円96銭
支払いは4年分割払い。
総取得面積2,780.93ha
その後大正10年に71.78ha 大正11年に9.88haを追加買収します。
最終的には、横浜市が所有する水源かん養林の面積は2,873ha、これは道志村の総面積7,957ヘクタールの約36%にあたります。
横浜市内で面積を比較すると都筑区(27.93km?)とほぼ同じです。

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明治以来、横浜市と道志村(山梨県南巨摩郡)とは深い信頼感で結ばれてきました。

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■水源林ボランティアによる活動
特定非営利活動法人道志水源林ボランティアの会
http://doshi-suigenrin.jp/

■間伐材活用
道志村の森林から出る間伐材活用の歴史は古く、現在も様々な形で実施されています。

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■道志村と横浜市
http://www.vill.doshi.lg.jp/ka/info.php?if_id=3&ka_id=1

http://www.city.yokohama.lg.jp/seisaku/daitoshi/bunken/doshi/

■どうしの水「はまっ子どうし」
横浜市水道局が販売している道志の水をボトリングした水を販売しています。

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■横浜市水道記念館
http://www.city.yokohama.lg.jp/suidou/kids/kinenkan/kinenkan01.html

http://www.city.yokohama.lg.jp/suidou/kyoku/torikumi/suidou-pr/kinenkan/

(関連ブログ)
No.105 4月14日 白の悲劇

No.121 4月30日  日本にCivil engineeringを伝えた英国人

5月 29

【番外編】横浜で結婚!

■観光ウェディング
これまでの結婚式は地元か、勤務先に近いか、都心部と決まっていた。ところが、海外ウェディングに象徴されるように
観光コンテンツとブライダル市場が密接になり始めた。

街をあげてのブライダル市場競争を大成功させたのが宮崎県だ。
宮崎をハネムーンの中心地にした人物、岩切章太郎
1960年代から70年代にかけて宮崎に爆発的な新婚旅行ブームを起こした人物だ。昭和47年(1972)の新婚カップルは100万組に達し、そのうちの約4分の1が新婚旅行に宮崎を選んだと言われている。その人数は実に57万人、当時の宮崎県全体の人口の半分以上に相当する。
彼を育てたのが関東大震災から(スピーディに)横浜を建て直した大横浜建設男「第10代横浜市長 有吉忠一」だ。
No.128 5月7日 今じゃあり得ぬ組長業!?

名!第13代宮城県知事となった有吉に対し、岩切章太郎、25歳「民間知事」になろうと決心させた。3年間東京の住友総本店で働き、故郷宮崎で宮崎市街自動車株式会社を創設し観光県宮崎のエンジンとなった。

(横浜ウェディング)
(財)横浜観光コンベンション・ビューローは
横浜での結婚式を積極的に応援している。
http://www.welcome.city.yokohama.jp/ja/ycvb/wedding/support.html
■関内・伊勢佐木町エリア
AndaTivaBATUR(アンダティババトゥール)
http://www.andativa-batur.com/yokohama/index.html
■山下公園・中華街エリア
ホテルコンチネンタル横浜PRODUCEDBYINSTYLE
http://www.hcy.co.jp/
セントジェームスクラブ迎賓館
http://www.sjcg.jp/
TheClubofEXCELLENTCOAST
http://www.clubexc.jp/wedding/index.html
ロイヤルホールヨコハマ
http://www.royalhall.co.jp/
横浜マリンタワー
http://marinetower.jp/wedding/index.html
■元町・山手エリア
山手迎賓館
http://www.tgn.co.jp/hall/yg/
横浜カントリー・アンド・アスレティック・クラブ(YC&AC)
http://www.dream-agent.info/
■馬車道エリア
ミルベーゼ横濱
http://www.millebaisers.com/
■みなとみらい21エリア
ベイサイド迎賓館
http://bg.tgn.co.jp/
■横浜駅エリア
田中家
http://www.tanakaya1863.co.jp/
コットンハーバークラブ
http://chy.tgn.co.jp/
■新横浜エリア
アクアテラス迎賓館
http://aqy.tgn.co.jp/

上記に以外で横浜で人気のある式場といえば
★ロイヤルウィング(船上ウェディング)
http://www.royalwing.co.jp/
★アニヴェルセル ヴィラ ヨコハマ
http://yokohama.anniversaire.co.jp/
★三渓園
http://www.sankeien.or.jp/
(これって横浜市関係の施設なのにね。)
★横浜伊勢山ヒルズ
http://iseyamahills.jp

■市場規模
矢野経によれば、
2011年のブライダル関連市場規模は、前年比98.7%の2兆7,154億円と推測されている。
挙式披露宴披露パーティ市場が縮小し、ブライダル市場は淘汰の時代に入ったといえるだろう。
2010年の婚姻届出組数は70万組で以降も同レベルで推移。

■スタイルの変化
ハウスウェディング
レストランウェディング
ホテルウェディング
現在、ハウスウエディング形態のビジネスは多数の新規参入により施設供給量が急速に拡大している。需要ギャップが生じ、競争激化と利幅の縮小がみられ始めてきている。市場競争に打ち勝っていくためには、明確に差別化された、簡単に真似されない「舞台」を提供していくことが、より重要になってきているといわれている。

婚礼挙式に大きな変化を与えたのが関東大震災(1923年)だと言われている。それまで「自宅(家)」でおこなう婚礼形式がホテル等「家」以外での挙式に変わるのを助長し、専用の結婚式場ビジネスが拡大する。
その後、戦争を挟んで 特に大きなスタイル変化は起らないが
高度成長期以降 ブライダル市場は大きく変化を見せ始める。
70年代(平安閣型の時代)
いわゆる「大塚 かどまん」の時代。団塊世代の結婚適齢期と重なるブライダル市場の始まりである。
80年代に入るとホテルウェディングの時代が始まる。
90年代は一転して「ジミ婚」が注目されるが 式場型、ホテル型の並走時代がしばらく続く。
そして2000年代は欧米風の邸宅を披露宴会場にする「ハウスウェディング型」が華開くことになる。
★横浜ウェディング市場が注目され始めたのはこのこの頃である。2002年ワールドカップのためにホテル、コンベンション機能が一気に充実させた横浜市。
市外からのブライダル需要を受け入れる素地ができあがった。
ハウスウェディング
レストランウェディング
ホテルウェディング
この2011年311で ブライダル市場はどう変化するのだろうか?
明確にいえることは、経営資本の寡占化傾向が強まることは間違いない。
年間約70万組のブライダル市場で生き残るのは誰か?
ブライダルスタイルに今後変化はあるのか?
横浜市場にも時代のうねりが押し寄せている事は間違いない。

5月 29

No.150 5月29日 記憶すべき記録、記録すべき記憶

1945年(昭和20年)5月29日の今日は五月晴れの穏やかな朝でした。
午前9時過ぎに突然姿を現した米軍機から降り注いだ焼夷弾はほんの一部を除いて横浜中心部を焼き尽しました。
歴史に言う「横浜大空襲」です。

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以上横浜市HPより転載

Superfortress「超空の要塞」と呼ばれた米軍主力戦闘機B-29爆撃機が517機、護衛機P-51戦闘機101機による徹底した無差別焼夷弾攻撃が行われました。
この空爆により約8千〜1万名の死者が出ます。
先の3月10日には東京で未曾有の規模で「東京大空襲」が実施され、3月13日深夜に始まった「大阪大空襲」が行われていました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/東京大空襲
http://ja.wikipedia.org/wiki/大阪大空襲
これらの空爆は“効率よく破壊、殺戮するための手法”が採られたことが記録により明らかになっています。
空爆責任者カーチス・E・ルメイ少将をして、
「もし、我々が負けていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸い、私は勝者の方に属していた」と語らしめた意図的空襲でした。
横浜大空襲の場合、目視が可能な朝から行われ、焼夷弾攻撃で商工業地及び住宅地がどのように燃えていくか“データ収集のための実験的攻撃”といわれています。

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(目標設定)
横浜空襲は爆撃の目標を5カ所に設定しました。
東神奈川駅、平沼橋、横浜市役所、日枝神社、大鳥国民学校です。
日本の住宅がどのように延焼したのか、米軍は関東大震災の記録を詳細に研究した上での「実証実験」でした。
目標設定があったものの、高高度からの絨毯爆撃の誤差が大東急湘南線(京浜急行)「黄金町駅」周辺に集中被害をもたらしました。
軍事施設の駐中していた神奈川区反町、保土ケ谷区星川町と住宅密集の南区真金町地区一帯の被害も大きく、壊滅的被害を受けました。

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神奈川新聞特集より抜粋

海軍が一部施設として使用していた攻撃目標の一つ横浜市立大鳥小学校(本牧町大鳥1571-17)は焼け残り、戦後すぐに米駐留軍野戦病院として使用されました。
皮肉にも、敗戦後自宅で自殺を図った東条英機元首相の緊急治療にあたり一命をとりとめのがこの病院です。
東京裁判で死刑が確定した東条を含む七人の遺体は、処刑後横浜市保土ケ谷区にある久保山霊場で火葬され遺骨は米軍により東京湾に捨てられたことを付記しておきます。

この横浜大空襲の記憶するモニュメントがひっそり大通公園に建てられています。
平和祈念碑 由来之記
場所:横浜市中区弥生町4付近
建立日:1992年(平成4年)5月29日
「この人類至高の祈りが 志ある人々により継承発展され 犠牲者
も平和の使徒の先駆者として 至福の時を 共に迎える日の近きこ
とを信ずる。」横浜戦災遺族会

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東京大空襲の記録は
東京大空襲・戦災資料センターとして情報公開されています。
http://www.tokyo-sensai.net/

(最後に)
1945年(昭和20年)4月27日から横浜大空襲の前日まで三回にわたって開催された新型爆弾の投下目標選定会議では、
第二回まで京都・広島・横浜・小倉
が設定され投下精度を上げるため“目標4都市への通常空襲禁止命令”が出されていました。
横浜大空襲から2ヶ月後の7月16日にアラモゴード実験場において行われた人類最初の核実験(トリニティ実験)が成功し、「核の時代」が始まりを告げます。

(余談)
5月29日は1937年(昭和12年)に 横浜市磯子区滝頭に生まれた美空ひばりの8歳の誕生日でもありました。

5月 28

No.149 5月28日  「鈍翁」の偉業を偲ぶ

「第一回益田鈍翁記念茶会」が
1994年(平成6年)の今日5月28日、
横浜市鶴見区の総持寺で開催されました。
この茶会は、実業家であり茶人でもあった益田孝(鈍翁)が昭和10年に総監修した茶室・倚松庵(いしょうあん)の修復、復元を呼びかける有志主催で行われたものです。

神奈川新聞記事

益田孝は明治から昭和にかけて日本経済界に大きな影響を与え、総合商社三井物産の大番頭として活躍しました。
彼は幕末期に横浜のヘボン塾(現在の明治学院大学)で学び、東京麻布善福寺のアメリカ公使館に勤務しハリスから英語を学ぶという国際派でした。

個人蔵、Wikiより転載

中外物価新報(後の日本経済新聞)を創刊し、三井物産初代社長として日本の貿易総額の2割を占める大商社に育て上げました。

(ヘボン関係)
No.146 5月25日 学園祭に行こう!

No16 1月16日(月) 指路教会建つ

No.21 1月21日 日中ビジネスに成功した先駆者

No.184 7月2日(月)  ハマに浜ができた日
一方で益田孝は茶人としても活躍し自らを「鈍翁」と呼び、小田原に別邸掃雲台を造営し数多くの茶席を設けました。
「鈍翁」の号は、彼のお気に入りだった茶器「鈍太郎」に由来します。


「掃雲台」益田鈍翁の記憶

http://www.city.odawara.kanagawa.jp/public-i/facilities/kyodo/topics/Do_You_Know_Donoh.html

また、当時多くの日本美術が海外流出するのを食い止めるために畏友、原三渓とともに奔走した人物であったことは意外と(横浜では?)知られていません。

1935年(昭和10年)多くの財界人有志が集まり、茶室建立のために寄進し総持寺の一角に茶室・倚松庵(いしょうあん)を作りました。
この茶室の総監修を益田鈍翁が行い、京都栂尾高山寺「遺香庵(いこうあん)」の茶室を設計したことで知られている茶人高橋義雄(箒庵)によって設計されました。
高橋箒庵は、福澤諭吉のもと慶応義塾に学び、時事新報記者になりその後、三井呉服店(三越)で様々な経営改革を行った異色の茶人です。

遺香庵
修復後の倚松庵

倚松庵は、戦後1950年代まで使われその後閉鎖されていましたが、1990年代に入り美術、茶道関係者から修復の要望が高まり保全活動の一貫として「第一回益田鈍翁記念茶会」が1994年(平成6年)の今日5月28日行われたものです。
その後、倚松庵は1996年(平成8年)11月5日に横浜市文化財に指定されましたが、損傷が著しかったため横浜市の援助と指導を受け解体修理され一般公開されました。現在は茶会等に使用することが出来ます。
http://www.sojiji.jp/honzan/map/8_isyouan.html
(余談)

兵庫県神戸市東灘区にも「倚松庵」という名の歴史的建造物が残されています。文豪谷崎潤一郎の旧居で、庵号は夫人の名前「松子」に因んで命名されましたが、横浜本牧から神戸に移り住んだ谷崎が益田達と同時期1936年(昭和11年)11月から1943年(昭和18年)11月まで居住していたというのも奇遇です。

5月 27

【番外編】無害無用の自慢話

(だから何!)
特に役に立たない自慢話シリーズベスト5
1.横浜市内の鉄道路線に乗車し、全駅に降りた。(ルール:改札を出ること)
2.横浜市内18区全ての区役所に行ったことがある。
(全区の区長室に入ったことがある)
3.わが家の新聞折り込みに入った「マンション販売」のチラシを10年分持っている(600枚位)最近は時々チェック。とっても減りました。
4.無料で配布しているマップを集めていた(主に1990年代)。
現在も1,000枚くらい保管してある。無料であることが重要!
5.横浜市東西南北端に行きました。
※ただし一般人が通行できる範囲内で。railmapyokohama5
【横浜全線各駅停車の旅】
今日は、ベスト5から各駅停車の旅を
この全駅乗降にトライアルしたのが1988年頃でした。当時で数駅残す程度まで走破(乗破)?しましたが、仕事の関係や、関心が薄れたこともあり2000年に入って一時期忘れていました。再開のきっかけが市営地下鉄グリーンラインの開通です。新線開通で一気に再燃し、追加駅も乗降し2007年に達成しました。
★悔やむのが一部しか写真を撮っていないこことですかね。 

(その中で役に立たないネタ)
■市境だから何!
川崎を南北に走る「南武線」、唯一横浜市に所在地があるのが「矢向駅」です。南武線矢向駅は横浜市鶴見区矢向矢向6丁目にあります。

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(昔は駅舎に住所表記のプレートが着いていたのですが今はありません。)
駅前に大きな「くすのき」が残っています。そういえば、大口駅前にもシュロか何かの木がありました。ローカル駅の象徴ですね。

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陣取り合戦風にいえば、川崎市は矢向町欲しかっただろうな。
日吉でも負けてるし。

3月31日 自治体国取り合戦勃発

きわどいのが同じ南武線の「尻手駅」で、駅構内の一部が横浜市鶴見区です。でも駅長室で決めるのかな。昔ながらの駅名看板には川崎市と明記されています。この看板も希少価値ですね。

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「尻手駅」同様、かすっているのが「大船駅」で、ホーム途中に市境があります。大船駅北口改札は横浜市栄区になります。

(区境だから何!)
区の境にまつわるエピソードは、これまたいろいろあるので別表題を立ててご紹介します。
駅前区境に関して一つだけ紹介します。
京浜急行「日ノ出町駅」は?
中区と南区にまたがっています。しかもホームは道路の上に橋上駅として設置されています。

(穴場編)
簡単に降りることのできない駅は鶴見線「海芝浦」です。駅が東芝の工場内にあるので、社員証が無いと改札を出ることができません。「海芝浦」は終着駅で、東芝に用のない乗客は折り返すことになります。
待ち時間に海辺の公園でくつろぐことができます。(冬の夕暮れは絶景ですよ)

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神奈川県境を一周のすばらしい記録があります。(もちろん私ではありません)
エラい!!
http://www.geocities.jp/kk810558/raund0.html

■橋上駅
川の上にある駅がJR根岸線「石川町」中村川の上に駅舎があります。
川の上の駅舎、維持管理が結構大変らしいです。
道路の上の駅舎は多くあります。特筆しておきたいのが「国道駅」ですね。国道の上に(正確には横)あるのでそのまま命名された 駅マニア垂涎の一駅です。

■駅の多い区
市内で駅の多い区ベスト3
金沢区(18)
港北区(16)
神奈川区(14)
私鉄路線区間の長い区は駅が多いですね。
※改札でカウントしました。同じ横浜駅でも乗換時改札が必要な場合カウントしました。

(余談)
■感覚的には
駅間が超!短いのは?????
たぶん 横浜駅と平沼橋駅の間ではないでしょうか。
正式には0.9kmとなっていますが、感覚的には500m程度です。
特に横浜駅から乗ると走るより坂をちょっと下ったって感じです。
5月 27

No.148 5月27日 決裂前夜のこけら落とし

1945年(昭和20年)終戦とともに始まったGHQによる接収は、横浜経済の心臓部の殆どに及びました。
一方で、1946年(昭和21年)から戦後の新しい市民施設整備も急ピッチで進みます。
1949年(昭和24年)の今日、
5月27日保土ケ谷区に「神奈川県立保土ヶ谷公園硬式野球場」が完成し“こけら落とし”に「巨人対東急フライヤーズ」戦のプロ野球公式戦が行われました。

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神奈川新聞スタジアム 正面ゲート

■保土ケ谷球場でプロ野球
「神奈川県立保土ヶ谷公園硬式野球場」は現在、「保土ケ谷・神奈川新聞スタジアム」とネーミングライツされています。
保土ケ谷球場といえば、現在神奈川県高校野球の聖地ですが過去にプロ野球も何試合か行われました。
1950年(昭和25年)と1951年(昭和26年)に計6試合の公式戦が開催された記録が残されています。
1951年(昭和26年)に行われた「国鉄スワローズ対大阪タイガース戦」を最後に開催されていません。(Wiki)
アクセスが不便であることと、定員が14,817人とプロ野球興行規模としては手狭だったこともあったのでしょう。(現在では3万人収容が基本)
それにしても、
「巨人対東急フライヤーズ」戦とは 中々ビッグなカードが行われました。
この試合が行われた1949年(昭和24年)は、プロ野球にとっても歴史に残る年です。
この年の暮れ、プロ野球再編問題が起ります。
1939年(昭和24年)に結成された日本野球連盟がセパ両リーグに分裂します。

プロ野球再編問題 (1949年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/プロ野球再編問題_(1949年)

この資料を読むと、歴史は繰り返す!とはよくぞ言ったものです。
2005年度からようやく「 日本生命セ・パ交流戦」が行われるようになりますが、このセパの仲の悪さは半世紀も続いた“遺恨関係”にあったようです。

(プロ野球も場外乱闘?)
読売新聞社と私鉄系(特に東急)との喧嘩?
当時からのセパ陣営をみるといろいろ変わりましたね。
正確ではありませんがざくっと変遷史を紹介します。
セントラル野球連盟
 ○読売ジャイアンツ
 ○広島カープ
 ○大阪タイガース(阪神タイガース)
 ○セリーグに分裂後初優勝した松竹ロビンズ
 (大洋松竹ロビンス→大洋ホエールズ
 ○名古屋ドラゴンズ(中日ドラゴンズ)
 ○国鉄スワローズ(ヤクルトスワローズ)
 ○まるは球団
(大洋ホエールズ→横浜大洋ホエールズ→横浜ベイスターズ→横浜DeNAベイスターズ)
太平洋野球連盟
 ●西日本パイレーツ
 (西鉄クリッパーズ→西鉄ライオンズ→埼玉西武ライオンズ)
 ●近鉄パールズ
 (近鉄バファローズ→消滅→オリックス・バファローズ)
 ●阪急ブレーブス(オリックスブレーブス→消滅→オリックス・バファローズ)
 ●大映スターズ(大映ユニオンズ→消滅→ロッテマリーンズ)
 ●毎日オリオンズ(千葉ロッテマリーンズ)
 ●南海ホークス(福岡ソフトバンクホークス)
 ●東急フライヤーズ(北海道日本ハムファイターズ)
※人気のセントラル、実力のパシフィックなんていわれた時代もありました。
 ■2004年(平成16年)東北楽天ゴールデンイーグルス新規登場

(余談)
1948年(昭和23年)8月17日にプロ野球初のナイトゲームが、横浜公園平和野球場(当時接収中でルー・ゲーリッグスタジアム)で開催されました。
カードは「読売ジャイアンツ対中日ドラゴンズ」で結果は3対2で中日ドラゴンズの勝利に終わりました。

(県立保土ケ谷公園)
「神奈川県立保土ヶ谷公園硬式野球場」のある「県立保土ケ谷公園」についてご紹介しましょう。

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■「県立保土ケ谷公園」概要
所在地:横浜市保土ケ谷区花見台・明神台・仏向町地内にまたがっています。
面積:34.7ha (東京ドーム約7個分と表記されています)
※いつも思うのですが“東京ドーム”何個?といってもぴんとこないんですがね。
駐車場:最大808台(普通791台・大型10台・身障者用7台)
まず硬式野球場が完成しその後サッカー場、ラグビー場、体育館、テニスコート、運動広場、プールが整備され神奈川県で初めての総合運動公園として1957年(昭和32年)に完成しました。
サッカー場は2002年のワールドカップサッカーの際、サブグランドとして整備され国際基準の芝となり、ドイツチームが練習に利用し注目を集めました。

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神奈フィルの拠点となっている「かながわアートホール」も音楽や演劇活動の拠点となっています。

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かながわアートホール 公演が無ければ見学できます

散策、ジョギングコースとしても良質な環境を提供しています。
四季の花が咲き乱れ、特に桜と梅は 観桜観梅で人が溢れるくらいです。

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ジョギングコースとして人気があります

「神奈川フィルハーモニー管弦楽団」
http://www.kanaphil.com/
「かながわアートホール」
http://www.kanagawa-arthall.com/

(関連ブログ)
No.95 4月4日 横浜DeNAベイスターズの本拠地「ハマスタ」開幕

No.139 5月18日 マッカーサーに嫌われた男

(横浜接収初期の簡単史)

昭和20年8月15日 終戦
 8月30日 マッカーサー厚木飛行場到着、横浜進駐
 9月2日 降伏文書調印(本牧沖)、米第8軍が横浜上陸
 10月24日 国際連合成立
昭和22年10月16日 上瀬谷基地 接収解除(昭和26年再接収)
昭和25年6月25日 朝鮮戦争勃発
 10月21日 横浜国際港都建設法公布・施行
昭和26年8月2日 横浜市復興建設会議結成
 9月8日 対日平和条約・旧日米安全保障条約調印
昭和27年2月15日 大桟橋接収解除
 2月28日 行政協定調印
 3月1日 横浜港内水面接収解除
 4月8日 横浜公園(一部)接収解除
 4月28日 平和条約・旧安保条約・行政協定発効
 7月26日 日米施設区域協定調印
昭和28年7月27日 朝鮮戦争休戦協定調印
 12月5日 在日兵站司令部(JLC)(横浜税関)返還
昭和29年7月1日 防衛庁設置、自衛隊発足
昭和31年12月18日 国際連合加盟
昭和32年6月21日 岸・アイゼンハワー共同声明
 8月1日 米国防総省が在日米軍地上戦闘部隊撤退を発表

5月 26

No.147 5月26日 明るく豊かな国民生活の形成に寄与

1987年(昭和62年)の今日、5月26日付けの神奈川新聞記事に
「遊び感覚の運動いかが 市が推進」
ということで6種類の「ヨコハマさわやかスポーツ」を市として普及させたいという内容でした。
シャフルボード、ペタンク、インディアカ、チュックボール、ディスクゴルフ、バウンドテニス
何種類上記の種目知っていますか?
実際経験したことありますか?

これら6種類の新しい「ヨコハマさわやかスポーツ」は現在発展し15種類に増えています。
グラウンドゴルフ、ソフトバレーボール、輪投げ、ナインゴール・ドッヂビー、シャフルボード※、キンボール、フリンゴ、ボッチャ、キックターゲット、ペタンク※、インディアカ※、チュックボール※、ディスクゴルフ※、バウンドテニス※、ファジーテニス
※印は初期6種目
http://www2.yspc.or.jp/ysa/sawayaka/
http://www.hamaspo.com/sport/vol_s027/navi.html
この新しいスポーツは、全国的に「レクリエーションスポーツ」または「ニュースポーツ」の振興として奨められたもので、
横浜市以外では
パラシュット、タスポニー、カローリング、クロリティといった種目を推進している自治体もあります。
一部競技に関するリンクを紹介しておきます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/インディアカ
http://ja.wikipedia.org/wiki/チュックボール
http://ja.wikipedia.org/wiki/ディスクゴルフ
http://ja.wikipedia.org/wiki/キンボール
http://ja.wikipedia.org/wiki/フリンゴ

●バウンドテニス
http://boundtennis.or.jp
●グラウンドゴルフ
http://www.groundgolf.or.jp
※ごめんなさい 全部紹介していません。

(横浜方式?)
横浜市のユニークなところは、
当時の文部省が推進していた市民スポーツの振興施策の一つ「レクリエーションスポーツの振興」を横浜方式で少しアレンジしたことです。
「ヨコハマさわやかスポーツ」とネーミングし独自色を“ちょっと”出しました。
種目にも“横浜らしさ”が出ています。
背景には
1988年(昭和63年)「全国スポーツ・レクリエーション祭」が開催される前にすべての区に指導員を育成・配置し、振興のしくみを整えるにあたり全国の自治体が組織作りをすすめたのですが、横浜も独自に作り振興に努めたのが「ヨコハマさわやかスポーツ」です。
上記の新聞記事にはゲートボールだけが老人のスポーツではないとして新しいスポーツを採用したとあります。ちょうどこの頃は日本全国「ゲートボール場」ばかりが目立った時代でした。
実は、この人気沸騰したゲートボール、競技性が高く結構闘争心の出るスポーツで一部からもう少し幅広く参加できる高齢者・ファミリー向けスポーツの振興をという背景があったようです。
上記の15種類の新しい「レクリエーションスポーツ」
この中で横浜らしいものはシャフルボードとペタンクでしょう。

(シャフルボード入門)
http://ja.wikipedia.org/wiki/シャフルボード
シャフルボードはイギリス生まれアメリカ育ちで船上のゲームとして世界に広まりました。細長いコートの上でディスク(円盤)を押し出し得点盤上に到達させてその得点を競います。
http://ysa3.web.fc2.com/
横浜に入港する客船の殆どにはシャフルボードコートが用意されています。

19世紀後半の“客船の時代”に
狭い船内で楽しむことができるゲームスポーツとして広まりました。
都筑区の葛ヶ谷公園には専用野外コートがあります。

(ペタンク入門)
http://ja.wikipedia.org/wiki/ペタンク
ペタンクは、フランスの国民的ゲームスポーツです。今から一世紀ほど前に、フランス南東部で生まれました。
街中の公園で季節を問わず競技の光景に出会うことができます。
横浜市内でもところどころで、見かけます。
金属製の800gくらいのボールを使って双方が目標に向かって投げ合いその接近度を測って勝敗を決めます。
※日本では鉄球の代わりに錘(おもり)入りゴム製のボールを使った室内向けペタンクも行われています。

(「ニュースポーツ」の背景)
背景について簡単に紹介しておきましょう。
日本で市民スポーツの重要性が叫ばれたキッカケが
1964年(昭和37年)の東京オリンピックでした。
オリンピックを前にスポーツ振興法を成立させ、地域でスポーツを通して健康維持、コミュニケーション等を醸成させる体制づくりを進めます。

スポーツ振興法(目的)
「スポーツの振興に関する施策の基本を明らかにし、もつて国民の心 身の健全な発達と明るく豊かな国民生活の形成に寄与することを目的とする。」

筑波大学名誉教授の佐伯年詩雄氏によると、
日本のスポーツ政策は、
社会状況の変化につれて、
●「社会体育」の時代
啓発的な性格を持つ1960 年代の「社会体育」
●「コミュニティスポーツ」の時代
急速な経済成長の中で地域住民の交流を重視する1970 年代の「コミュニティスポーツ」
●「みんなのスポーツ」の時代
スポーツの平等化と民主化を進める1980 年代の「みんなのスポーツ」
●「生涯スポーツ」の時代
生涯学習振興の一環である1990 年代の「生涯スポーツ」へと変化してきました。

横浜で「さわやかスポーツ」が始まった1887年(昭和62年)は「みんなのスポーツ」から「生涯スポーツ」への移行期で、スポーツメニューを増やすことで一人でも多くの市民にスポーツの機会を設けようという試みでした。

(ゲートボール席巻の時代)
前段で少し触れましたが
戦争直後に誕生した「ゲートボール」を忘れてはいけません。
高齢者スポーツと言えば「ゲートボール」です。
実はこのゲートボール、当初“子供達”のために発案された日本(北海道)生まれの「ニュースポーツ」の代表格です。
60年代から急速に競技人口が伸びたゲートボールは、最高時で600万人とまでいわれました。手軽に軽度な運動ができるゲートボールでしたが、一方で、ルールのバラツキや、競争心を煽る部分もあり一部に違和感を感じる層もでてきたため、選択肢を多くすることで広くスポーツ参加環境を整備しようと考えた(らしい)のです。
※(因みに)横浜生まれの「ニュースポーツ」はスポーツチャンバラです。

現在横浜市の公共スポーツ施設は「スポーツセンター」(各区に一つ)「地区センター(スポーツ未対応のところもあります)」弓道場、フィールドアスレティック、野球場、テニスコート、プール(屋内外)など多彩な施設を運営しています。
ぜひ活用してみてはいかがでしょうか。

5月 25

No.146 5月25日 学園祭に行こう!(修正)

明治学院大学の歴史は横浜から始まります。
明治学院大学は創設の地、横浜にキャンパスをオープンし
1985年(昭和60年)の今日、開校式典が行われました。

明治学院設立の起源は多くの人材を輩出した《ヘボン塾》です。
ジェームス・カーティス・ヘボンが1863年(文久3年)妻のクララと一緒に開設し
後に
男子部は明治学院、
女子部はフェリス女学院となりました。
(ヘボン)
日本に大きな足跡を残したアメリカ人宣教医師J.C.ヘボンは
開港の年1859年10月17日(安政6年9月22日)に横浜に到着し神奈川宿の成仏寺に3年暮らします。

1861年(文久元年)宗興寺に施療所を設け診療活動を始めます。
その後
“ヘボン式ローマ字”を考案し和英辞書『和英語林集成』を編纂して聖書の日本語訳を完成させるだけでなく英語普及の原動力となったことは有名です。
1880年に築地へと移転し1883年には1881年(明治14年)M.N.ワイコフが開校した先志学校を併合して「一致英和学校」と改称します。
1886年に一致英和学校、英和予備校、東京一致神学校の3校が合併して「明治学院」とすることを決定し
1887年に設立が認可され東京を拠点に多くの人材を輩出します。


1985年(昭和60年)創設の地「横浜」にキャンパスを開校し、来年2013年に創立150周年を迎えるにあたって記念事業「21世紀 ヘボン・プロジェクト」を始動しました。

「21世紀 ヘボン・プロジェクト」
http://mg150.jp/about/

(ヘボン関係「今日の暦」)
1月16日 指路教会建つ

1月21日 日中ビジネスに成功した先駆者

2月7日 鎌倉丸をめぐる4つの物語

3月25日 日本の運命を変えた男横浜に入港

明治学院大学横浜キャンパスは、
2005年から毎年「(地域密着型学園祭)戸塚まつり」を開催しています。
学生はもちろんですが、
地域住民と共に作り上げるイベントは新しい学園祭の方向を示しています。
年度テーマは
2005年度「挑戦」
2006年度「芽吹く」
2007年度「奏で、描け」
2008年度「心燈(しんとう)」
2009年度「Let’s〜!」
2010年度「たからばこ」
2011年度「Ready go!」
2012年度『カケル』
2013年度は
http://www.meijigakuin.ac.jp/matsuri/2013/index.html

2015年度は 5月23日(土)・24日(日) に行われました。
今年のテーマは「パズル」

明治学院大学 横浜校舎
〒244-8539
神奈川県横浜市戸塚区上倉田1518

(余談)
舞岡のふるさと村に隣接しています。

5月 24

No.145 5月24日 BOY七十四(修正版)

1920年(大正9年)3月15日、その後の日本経済そして横浜経済の潮目となった日本初の戦後恐慌が襲います。
第一次世界大戦の好景気から生じた投機熱が冷めず、過剰生産による大暴落が起りました。
特に戦時中好景気の代表だった綿糸、生糸相場は半分以下に下落し関連金融機関は休業破綻に陥りました。地方の小銀行21社が大きな影響を受け、破綻・合併の道を辿ります。

大手生糸商三代目茂木惣兵衛の経営する茂木商店が倒産し
有力銀行の中では、横浜の第七十四銀行が5月24日の今日連鎖倒産しました。

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茂木惣兵衛の邸宅のあった野毛山公園

この戦後恐慌を経営者達はどう乗り切ったか?
堅実経営で安定した原点回帰の経営者達が最終的に生き残っていくことになります。
中でも三井財閥、三菱財閥、住友財閥、安田財閥など財閥系企業や紡績会社大手はこの危機を乗り越えることで寡占化が加速し強固な財閥体制が構築されていきます。
横浜経済界も、地場の資本が大手に切り崩されていきます。
しかも
この後に訪れる関東大震災のダメージが「横浜没落」を加速させます。
東京政府にとって、お荷物になりかけていた横浜不要論が頭をもたげるようになります。それは金融機関に対しても同じことでした。

(銀行淘汰の時代)
少し時間を遡ります。
明治の近代制度導入の中で、銀行制度は日本経済の根幹を支える重要な改革でした。
1872年(明治5年)の国立銀行条例に基づいて全国に国立銀行が設立されます。
その数135に及びます。時の代表的経済人渋沢栄一は、銀行名を第一から第百三十五まで割り振ったといいます。
横浜には第二銀行と第七十四銀行が設立されました。
因みに
「第一銀行」は帝国銀行→第一銀行→第一勧業銀行→みずほ銀行
「第三銀行」は保善銀行→安田、富士銀行を経てみずほ銀行
「三十四銀行」は1933年に鴻池銀行、山口銀行と合併し三つの和で三和銀行になりその後東京三菱UFJ銀行となります。
といった具合に 生き残りのための合従連衡を繰り返します。
中には六十三銀行と十九銀行が合併し八十二銀行(63+19=82)と命名した銀行もあります。(たまたま初期の八十二銀行が無くなっていたためにできた名前です)

(横浜と群馬を結ぶシルクロード)
国立銀行条例のもと、
1878年(明治11年)7月に設立された第七十四国立銀行(後の七十四銀行)は、生糸を通して横浜と群馬経済を繋ぐ重要な金融機関として育っていきました。
明治初期の七十四銀行は、為替機関である第二銀行と異なる事業を展開しますが、
高島遊廓の移転に関する土地投資に失敗し、
また松方デフレによる金融引締めで危機的状況に陥ります。
1882年(明治15年)に既に自ら茂木銀行を興していた(初代)茂木惣兵衛が頭取になり七十四銀行の改革を断行します。
茂木は、優秀な金融マン旧大村藩士の森謙吾を支配人兼取締役に抜擢します。
森謙吾は茂木合名会社を総合商社化します。さらに七十四銀行と茂木銀行を合併し横浜を代表する銀行家として飛躍の道筋を描きますが、悲劇の恐慌が訪れます。

(横浜の悲劇)
1920年(大正9年)5月24日、横浜の七十四銀行と関連の深い横浜貯蓄銀行が突如3週間の休業を発表します。
理由は戦争恐慌による冒頭の茂木商店倒産による貸付金の焦げ付きでした。
その後も再開のめどが立たず休業状態が続きます。
第七十四銀行と横浜貯蓄銀行が破綻という未曾有の難局に直面した横浜経済界は、原富太郎らが中心となって七十四銀行の整理に乗り出します。
破綻銀行の受皿として預金者保護にあたるため
1920年(大正9年)12月16日に「横浜興信銀行」を設立します。
この「横浜興信銀行」設立までの物語は想像を絶する道程でした。55,000口の預金者、400人の債権者全員から承諾書を取り付け、市・県を説得し国との熾烈な交渉を重ね公的資金調達に成功します。(現在のように簡単ではなかったと思います)
この「横浜興信銀行」設立に奔走した原富太郎、渡辺福三郎、若尾幾造、井坂孝の4人の物語はもっと横浜人が知っておく必要があるでしょう。

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(最も歴史の長い銀行)
1927年(昭和2年)には左右田銀行を吸収し、全国で唯一生き残った「横浜為替会社」(第二銀行)と1928年(昭和3年)に合併します。
さらに神奈川県内の6行を吸収し、神奈川県に本店を置く唯一の普通銀行として戦時経済を過ごします。
戦後になり
1957年(昭和32年)「横浜興信銀行」は「横浜銀行」に名称変更し現在に至ります。

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世界最大の地銀、横浜銀行は「わが国最初の近代的金融機関である為替会社を祖先にもつ唯一の銀行」であり「日本で最も歴史の長い銀行」といわれています。
※「為替会社」とは「BANK(銀行)」の訳語として命名されました。全国に8社(東京、横浜、京都、大阪、神戸、大津、新潟、敦賀)設立され近代銀行のはじまりと言われましたが、横浜為替会社のみ生き残りました。

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旧浜銀を保全するために移動しているところです。

横浜銀行 Bank of Yokohama=BOY
http://www.boy.co.jp/