6月 28

No.455 東海道の横浜を歩く

「横浜道」に引き続き横浜の街道「東海道」を紹介します。
東海道と言えば、江戸時代に整備された徳川幕藩体制を支えた物流を支えた主要街道の一つです。
横浜エリアの東海道を何回かに分けて歩いてみましたので
紹介します。

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【鶴見市場から生麦】

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横浜東海道の旅は「鶴見市場」からスタートします。
京急鶴見市場駅から北方向に商店街を抜けると「熊野神社」にぶつかります。

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鶴見熊野神社

横浜市鶴見区市場東中町9〜21
殺風景な境内のわりに派手なHPがあります。
●「横浜市立市場小学校発祥の址」の碑
●加舎白雄と大島蓼太の句碑(飯田九一 選と揮毫)
この「熊野神社」前の通りが旧東海道です。
No.264 9月20日(木)「鼾かく人を流罪す月今宵」

鶴見川橋を渡りますが、鶴見川に鶴見川橋の名からもこの街道の歴史を感じます。

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右手に「鶴見神社=杉山神社」があり街道の鎮守の役割をもっていることがわかります。
京急「鶴見駅」の線路下を(抜けられませんが)通り、
ベルロードつるみ・鶴見銀座商店街を抜けます。
鶴見線の架橋をくぐり
鉄道レトロの「国道駅」前から
生麦魚河岸通りを通ります。
【番外編】生麦、旧東海道を歩く

No.383 【生麦界隈】横浜史を生麦で体験

【子安から神奈川】

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国道15号線がほぼ東海道をトレースしています。
入江川派川(海岸線に平行している運河)
ここが子安から神奈川が最も昔のままの海岸線をイメージできます。

No.216 8月3日 (金)この道は金港に続く

東神奈川は横浜市内最初の宿場町です。
神奈川県内最大の宿場町でもありました。

神奈川宿に関しては
別にテーマを立て 紹介します。

【神奈川から保土ケ谷】

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横浜中心部に入ってきました。
東海道が 海に別れを告げ、内陸に入っていく分かれ目が
青木橋あたりです。
No.452 横浜道から開港当時を探る

No.453 「横浜道」を歩く (前編)

No.454 「横浜道」を歩く (後編)

鶴屋町から保土ケ谷までは 旧東海道の道筋が残っています。
八王子街道への別れ道「追分」を過ぎると
横浜賑わい商店街ベスト3に入る
洪福寺松原商店街です。
No.414 競争共栄商店街

ここまで渡ってきた川が
鶴見川
入江川
滝野川
そして
帷子川と今井川の合流地点が
相鉄線「天王町」駅前です。
東海道は今井川に沿って保土ケ谷宿に入ります。
JR保土ケ谷駅前を過ぎ、東海道・横須賀線の踏切を越えると
保土ケ谷宿 本陣跡に出ます。
この保土ケ谷宿からは 金澤古道が分岐しています。

【保土ケ谷から品濃町】

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横浜市内の東海道最大の難所です。
何度来てもこの坂の急傾斜前で躊躇します。

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急坂「権太坂」です。

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ここを越えると「境木」です。
武藏の国と相摸の国の国境(くにざかい)です。


No.253 9月9日(日)子規、権太坂リターン

No.339-2 12月4日(火)越すに越されぬ国境(くにざかい)

【番外編】 1月17日(木)横浜は坂ばかり
横浜は坂が多い街ですが、中でも権太坂は厳しい!!!

かつて栄えた!
境木商店街も火が消えつつありますが
ここは元気です。
創作和菓子処 栗山


ご当地もの たくさん買ってきました。


「男爵さま」が最新の作品だそうです。いけまっせ!


新製品を創る努力と工夫が大切ですね。
http://www.wagashi-kuriyama.co.jp

境木の峠を越えると
東戸塚に入ります。
この街は 1980年(昭和55年)10月1日に横須賀線の新駅が開業し
日立製作所関連企業、西武等による開発が行われ新しい街が生まれました。
※日本現役最古の鉄道トンネル「清水谷戸トンネル」は
 東戸塚駅と保土ケ谷駅間にあり東海道下りルート最初のトンネルです。

旧東海道には品濃一里塚跡を示す碑があります。

【品濃町から戸塚】

東戸塚から柏尾川支流に沿って旧東海道はつながっていきます。
戸塚ネタはこのブログでもかなり取上げています。
No.142 5月21日 戸塚は鎌倉?(加筆修正)

No.306 11月1日(木)戸塚駅東口小史

No.351 12月16日(日)戸塚踏切をなんとかしろ

No.48 2月17日 さよならYDL

この先、藤沢宿までの旧東海道は踏破していません。
湘南に抜ける時は、戸塚駅前から柏尾川にそって川ルート下りばかりで
実は もう一つの 山越えが 待っています。
「原宿」あたりのルートです。
この区間は 今年中に踏破する予定です。
※藤沢宿から平塚宿までは徒歩踏破しています。

6月 26

【番外編】京都の戦乱!

第二次世界大戦で空襲を受けることが無かった「京都」
平安の時代から 大災害を受けること無く現在にその佇まいを残している!?
と思ったら 大間違いでした。

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都市にとって火災は致命傷です。
幕末明治、横浜でも何回か大火事で街の機能が麻痺します。
一番大規模の火災は「横浜大空襲」ですが、関東大震災の出火類焼も大きな被害をもたらしました。歴史的には横浜が開港によって大都市への急発展を遂げる中、居留地の近くで起りました。
No.294 10月20日(土)防災道路を造れ!

No.219 8月6日 (月) チェックメイトキング

役所も焼失!

No3 1月3日(火) 大火事

同様に京都も例外無く平安から江戸末期まで大火の歴史がありました。
今日は 京都の大火事を調べてみました。
平安時代以降の大火事と言えば 
1177年(安元3年)「太郎焼亡」「次郎焼亡」と連続して起ります。
鴨長明の『方丈記』によると
火事は「樋口富小路辺り」(現在の京都市下京区万寿寺町富小路辺り)の小屋から出火し、当時の市街地約三分の一が炎上しました。
この様子は、九条兼実の『玉葉(ぎょくよう)』、藤原定家の『明月記』など他にも多数の古記録や文学作品に書かれました。
1467年(応仁元年)応仁の乱による戦乱火災
1788年3月7日天明8年1月30日)天明の大火
 団栗焼け(どんぐりやけ)、都焼け(みやこやけ)
または干支から申年の大火(さるどしの たいか)と呼ばれました。
当時の京都市街の8割以上が灰燼に帰します。
1864年(元治元年)には
 京都史上最大級の戦乱大火災がありました。
 禁門の変(蛤御門の変)による大火事です。

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いわゆる「どんどん焼け」(鉄砲焼け)と呼ばれました。
戦闘の場になった御所と長州藩邸辺りから出た火が京都一円を焼き尽くしました。
この様子を表すものとして「洛中大火夢物語」、「秋の日照」、「甲子兵燹(かっしへいせん)図」があります。
手元に「甲子兵燹図(かっしへいせんず)」がありますので

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じっくり見てみるとその描写には興味深いものがあります。
甲子兵燹図(かっしへいせんず)は
1893年(明治26年)に発行されました。

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復旧の図

この絵の舞台、蛤御門の変の現場となった御所と長州藩邸辺りから出火します。
7月19日朝7時頃に河原町二条の長州藩邸から
※落ち延びる長州勢が長州藩屋敷に火を放ち逃走。
10時頃には堺町御門に隣接した鷹司邸の2ヵ所から出火します。
※敗残兵が逃げ込んだ鷹司邸や民家に会津藩・薩摩藩兵・新選組が砲撃し出火
このことが会津以下幕府側の評判を落としたとも言われています。
21日朝まで燃え続けました。
焼失した町数は811町、被災世帯2万7513戸、公家屋敷18、武家屋敷51、社寺253に及んだといわれています。負傷者744名、死者340名が出ました。

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赤色が類焼地域、被害が全域に及んでいることがわかります

当時の市街地の3分の2に当たる地域が焼失し、東本願寺など大きな寺社にも被害が及びました。
京都御苑(京都御所)自体は焼失を免れますが
この「禁門の変」の大火で京都は機能を失い、天皇の東京行幸のきっかけにもなります。
この大火災が発生する戦乱が起る直前の
1864年(元治元年)7月11日午後5時ごろ
横浜開港に深く関わった変わり者 信濃国松代藩士 佐久間象山が三条木屋町で暗殺されます。

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紅葉の野毛山
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佐久間象山の碑

佐久間象山、優秀な半面傲慢でもあり 敵も多かったようです。彼の弟子“勝海舟”もあまり象山のことを(回顧談で)良く評価していませんが、海舟もかなりの変人ですので どっちもどっちといったところでしょうか。
佐久間象山の碑が 野毛山公園に建っています。

6月 25

No.454 「横浜道」を歩く (後編) 加筆修正

No.453に引き続いて現在の「横浜道」(後編)の紹介です。
後半は横浜道の難所となった「掃部山・野毛山」越えから
野毛の町にぐぐっと曲がり
そして大岡川を都橋で渡ると吉田町、吉田橋となります。
現在 最も開港場の歴史を庶民の視点から散策できるエリアです。

掃部山(かもんやま)の桜

この道行きは
人気の観光、賑わいゾーンで
案内情報も沢山紹介されています。
見どころは「掃部山」界隈です。

横浜能楽堂

ここでは少し違った視点で紹介しましょう。
(石積み博物館)
このエリアは「石積み」の野外博物館です。

野毛山の傾斜地に

フランス積み
ブラフ積み
古来の亀甲石積
布積み
乱積み
谷積み
等々 時代や環境に応じた石積みが発見できます。
(蕎麦街道)
横浜道にはそば屋が多い!!!!
平沼から日本蕎麦屋が10軒以上あります。
浅間下「横浜そば処 古登婦喜」
平沼「角平」

平沼「田中屋」

戸部「砂場」
戸部「松山そば店」

戸部「田中屋」

戸部「あんどうそば店」

※ちょっとルート外ですが花咲町 「太宗庵」

野毛町「中屋」
野毛町「東京庵」
吉田町「角清」
※八軒訪問。横浜道「蕎麦街道」って発想あると思います。

野毛山周辺はグルメスポット集中地区、しかも
小さい名店が点在しています。
例えば洋食!
紅葉坂周辺には「洋食屋きらく」(昔金港亭がありました)
青少年センターの「メルヘン」はあなどれません。
センターグリル、キムラの老舗も
レストランも新旧入り乱れて 話題の店が
ぎゅーーーーっと詰まっています。

No.371 1月5日(土)ノゲ的

No.424 琉球バル

No.323 11月18日(日)歓楽街の住まい方

No.61 3月1日 成田山横浜別院延命院復興

※野毛界隈は ここでは略します。
(吉田町)
さて 最後のルート「吉田町」に入ります。
No.321 11月16日(金)吉田くんちの勘兵衛さん

鴎が舞う「都橋」を越えると
右側(南側)と左側(北側)が対照的な商店街が登場します。
吉田町の特徴は 左右非対称の商店街です。
通りとしての元気が出てきたのがここ十年のことです。
野毛とイセザキに挟まれて 静かに時が流れていましたが
再開発の計画が起る度に 街の活性化がロックされてきました。

この界隈も 情報が最近多く発信されています。
参考にされて 変わりつつある「吉田橋界隈」を
散策してみては如何でしょう。
新しいカテゴリーの飲食店が多く出店しています。
老舗中の老舗
肉の中川、鶏肉の梅や  は健在!

残念ながら閉店しましたね。

画廊も バーも
「Bar Noble」
横浜市中区吉田町2-7 VALS吉田町1F
http://noble-aqua.com

No.134 5月13日 必ず素晴らしい日の出が訪れる

最近は
うなぎの「八十八」が出店しました。

このエリアから 目が離せません。

※余談テーマ
 野毛の街をあるいていて
 「理美容店」の多いことに気がつきます。
 特に理容店で、値段もバラバラというところが
 ちょっと“おそろしい”
 今度数えてみますが ざくっと知っているだけで
 野毛界隈に 理容室が10軒は数えることができます。
No.457 ザンギリ野毛

6月 24

No.453 「横浜道」を歩く (前編)

昨日No.452で、横浜道が造られた頃の話しを紹介しました。
今日は、現在の「横浜道」をぶらり歩いてみましょう。

横浜道

横浜道は、旧東海道の浅間下(当時は芝生村)から、
関内の吉田橋まで一直線につながっている
開港後最初にできた重要道です。

横浜道散策は東海道筋からスタートします。

(浅間下)
横浜道のスタート地点には、富士山信仰の「浅間神社」が鎮座しています。
周辺にはビルが乱立していますが、かつて海と冨士が良く見えた高台にあります。
このあたりの浅間下は、昔「芝生(しぼう)」村と呼ばれていましたが、
しぼう=死亡の音でもあるのでこの地名は無くなり「浅間下」と呼ばれるようになりました。

交差点の脇に「横浜道」起点の案内看板が設置されています。
ここから県道13号線(新横浜通)を関内方向に。
最初の川と橋があります。

新田間川(あらたまがわ)と新田間橋です。
この周辺には、うなぎの「野田岩」があります。
また、新田間川沿い少し上流に家具のダニエルの工房「家具の病院」があります。
事前に申し込めば見学もできます。私の大切な秋田木工の籐椅子の座面修復をお願いしたことがあります。

(見事な完成度です。今これに座って原稿を書いています)
新田間川を越えると横浜駅西口のビル街に入ります。交通渋滞の激しい岡野の交差点近くには予備校と東急ハンズ(7月で移転のため閉館)があり若い人たちがぐっと増えます。
ここには「吉村家」「横浜家」「山頭火」と人気ラーメン店が立ち並ぶところでもあります。

旧道「横浜道」は、次の帷子川(かたびらがわ)を渡る地点で少し脇道にそれます。
高架橋となっている「平沼橋」脇に小さな「旧平沼橋」があり、
少し前まで、開かずの踏切が設置されていました。
現在は通行不能となっています。

“平沼の踏切”を過ぎると、平沼商店街が戸部の手前石崎川に架かる
「敷島橋」まで続いていましたが 残念ながら
現在は見る影もありません。

それでも 良い店は頑張って残っています。
歴史ある蕎麦の田中屋、角平。お茶の平沼園、和菓子屋の寿々喜
新しいレストランも誕生しています。

三つ目の石崎川と敷島橋を越えると「戸部」に入ってきます。
お肉の「井上富蔵商店」は元々卸で小売りも行っています。


戸部7丁目交差点、市営地下鉄「高島町駅」あたりから京急「戸部駅」までは、かつて栄えた三菱造船関連の工場や機材、下請け企業が密集していたエリアです。
現在も少しその面影が残っています。
お店もかつて造船所関連お土産として人気だった「東京ひよ子 横浜店」が現在もしっかり営業しています。


銘菓ひよ子は、九州福岡のお菓子ですが、東京オリンピック以降関東に進出し 見事東京ブランドとなった珍しいお菓子です。
炭坑や製鉄所など重労働に「甘味」が人気となって福岡の名産となります。
※余談 岩亀横町に和菓子屋「住よし本店」がありました。ここには名物“塩分の効いた”きんつばがあって、造船所に働く人たちの超人気菓子だったそうです。
どこかで復活して欲しいな!甘みを抑えた良い味でした。

戸部7丁目交差点にある 今話題のお店と言えば
「横濱うたげやど根性ホルモン」です。
http://dokohoru.info
地恵地楽のお店と言われるだけあって 地産地消の人気スポットです。


このあたりから
江戸時代に切り通しとなった野毛山のてっぺんまで
少しずつ上り坂になっていきます。
戸部四丁目交差点からみなとみらい方向にのびる
「岩亀横丁」幕末から明治にかけて横浜最大級の遊郭
「岩亀楼」の遊女達の寮があったことからこう呼ばれるようになったそうです。

遊郭が無くなった後は 三菱造船関連の工場街として栄えます。
現在は その名残が少し在る という程度です。
この「岩亀横丁」には「岩亀稲荷」があり
「幕末安政のころ、現在の中区横浜公園のあたりにあった「岩亀楼」という遊廓(ゆうかく)の遊女が、静養のため利用した寮がここにあったことから岩亀横丁と呼ばれるようになったという。この横丁のなかほどに、静養に訪れた遊女がお参りしたといわれる稲荷がある。岩亀稲荷と呼ばれ、例祭が行われるなど、今も大切に守られている。」(横浜市西区HP)


ここには こんな言い伝えが残っています。
幕末の尊皇攘夷の考えから外国人客を拒み、
17歳伝説の岩亀楼のナンバーワン遊女「喜遊」が
最後は喉に刀剣を突きたてて自害したという。
この言い伝えには若干????
そもそも居留地の遊郭に上る時点で、
外国人相手が想定されることは解りきっていたことですから
恐らく 攘夷ではなく 理不尽な要求を拒み自害が妥当な線ではないか?
と推論しています。
後半はまた明日にしておきます。

6月 23

No.452 横浜道から開港当時を探る

幕末に突然誕生した「横浜開港場」
この開港場は、幹線街道(東海道)との接続がありませんでした。
今回は、民間に下った突貫工事令で完成した
開港のための道「横浜道」を紹介しましょう。

横浜道に埋め込まれている道標

開港前日に開通した「横浜道」を紹介する前に
なぜ 「横浜道」が必要となったのかあたりからヒモ解いていきましょう。
市史編集事業の重責を務められた高村直助先生は
横浜開港場を「帝都の関門」と呼びました。
開港のプロローグはロシアから始まり
ペリーの来航で 日本は開国を迫られます。

静岡県下田港開港から始まり
神奈川湊開港が「日米通商修好条約」で期限を設定して
開港場と決められますが、当時の徳川幕府は
できるだけ 江戸から「開港場」を外したいと目論見ます。

不便だが良港としてペリーの評価も高かった「横浜」を
開港場と決め
1859年7月1日(安政6年6月2日)未完成の状態で開港します。
開港場の整備は残り百日を切った約三ヶ月の短期間に行われます。
※アメリカは当初7月4日(独立記念日)を開港日にしたかった
日本政府と列強五カ国の間に結ばれた「安政の五カ国条約」の
重要な目的は「通商」=交易です。

通商に必須なのが「ロジスティクス(物流)」の確保です。

外国人を囲い込むために長崎の出島をイメージして管理しようとした幕府でしたが、
軍事・外交上も江戸への幹線道の整備が必要となります。
江戸時代の横浜村エリアの街道への動線は「井土ケ谷」経由保土ケ谷宿でした。

安政6年の開港場

「開港場」と「東海道」を直結する道
「よこはまみち」の造成に踏み切ります。

開通当初は 重要な街道として多くの利用者で賑わいました。
東海道神奈川宿、その先の“江戸”への近道でした。
「絹の道」としても重要道でした。

ところが 埋立で状況が激変します。
明治に入り海岸が次々と埋め立てられます。
明治横浜の最初の大変化は
海岸線に鉄道が通り一般道も平行して整備されたことです。

(よこはまみち)
現在の浅間下交差点から、関内駅前吉田橋までが
「よこはまみち」です。
一時期 横浜開港史から忘れ去られていた道です。
「横浜道」の大半が横浜市西区を通っていることもあり
西区が「横浜道」の道標を埋込み整備しましたが?
今ひとつ 地味な存在になっています。

横浜道の名残は殆ど残っていません。
野毛の切り通し周辺の「石積み」
戸部近くの「岩亀稲荷」
浅間神社付近の細道 位でしょうか。
新田間川
帷子川
石崎川
大岡川
四つの川(橋)を渡り
野毛の切り通しを抜けると目の前に
「開港場」が目の前に拡がります。
東海道筋から開港場を目指した人々は野毛から眺める
洋館が並び 沖には船が多く停泊している
新しい街に ワクワクしたことでしょう。

この『道』無くして 開港場は成立しませんでした。
改めて「横浜道」に光を!!!!

野毛村切通シヨリ横濱入口吉田野毛本町〜


明日は 現在の「横浜道」を歩きながら
開港の名残と 現在の散策スポットを紹介します。

6月 20

No.451 芸術は短く貧乏は長し

文学賞といえば
「芥川賞」「直木賞」が有名です。
芥川賞は“芥川龍之介”に因んだ賞です。
では?直木賞は?

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作家であり脚本、映画監督までこなした「直木三十五」に因んだ賞です。
この直木三十五なる人物は
横浜と深く関係があります。
今日は文学賞の名となった
「直木三十五」と横浜について紹介しましょう。

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「直木三十五」
(なおき さんじゅうご)
直木三十五賞(通称「直木賞」)はエンターテインメント系の作品に与えられます。
http://www.bunshun.co.jp/award/naoki/
直木三十五は
1891年(明治24年)2月12日、現在の大阪市中央区安堂寺町2丁目に生まれました。
本名は植村宗一で、苗字の植村の「植」の字を分解して「直木」とし、名の部分は年齢を元に直木三十一(31歳のとき)からスタート、
三十五で改名することを止めました。
彼は1934年(昭和9年)2月24日、
四十三歳で亡くなっていますから“初志貫徹”していれば
「直木四十三」となったでしょう。

放蕩作家 直木三十五)
大正の末から昭和の初めにかけ文壇、映画界で活躍しますが
相当の放蕩作家でした。
(戦前は放蕩作家多いですね。ある意味良い時代だったのかもしれません)
43歳で亡くなった翌年の1935年(昭和10年)
友人だった文藝春秋社長・菊池寛により直木賞が設置され現在まで多くの作家の目標となっています。
彼の代表作となったのは「南国太平記」という作品で、
幕末薩摩藩のお家騒動を取材した新聞小説で不動の位置を築きます。
時代小説では多くの秀作を残しています。

一方で、事業癖というか稀代の浪費家でもありました。
京都で映画制作に手を出し失敗。出版社も幾つか創設し失敗します。

1933年(昭和8年)春、これまでずっと借家住まいだった直木三十五は、横浜金澤の富岡を訪れ、この地が気に入ります。
一説によると、この地金澤を舞台にした江戸時代の武士、豊島刑部明重を執筆するためだったとも言われていますが、国税庁に半旗を翻し納税を拒否していた“直木”が一生で唯一、自身で設計し家を建てることを決意します。

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関東学院大学による復元調査

場所は慶珊寺の裏山の一角。
境内に家を建てたいと住職佐伯隆瑞に申し入れ、結局寺の北側後方の高台、当時畑だった千三百三十五坪を借り受けることになります。

新居は昭和8年の暮れに完成し、東京から引越します。
ところが彼は、余りの静けさに堪えられないとか、
自分の設計した家の使い勝手が悪いとか 言われるように
ほどなく
文芸春秋の一室に、逃げるように帰り 自宅を放棄します。
体調もかなり悪化していたのでしょう。
家屋の完成間もない翌年1934年(昭和9年)2月24日、帝国大学付属病院にて、持病の脊髄カリエスが悪化して亡くなります。
墓は 自宅近くの 富岡山長昌寺にあります。

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この使い勝手の悪い 直木邸は彼の死後、家族と知人が暮らしていましたが
 売りに出すことになります。
戦時中に購入したのが「橋本 東」という方で、
冗談で「疎開用に」と言ったことから 偶然購入するはめになります。
“買うには買ったが…”
あまりにも不便で使い勝手が悪いので一部を改装します。
しかし、殆ど住むこともなく 最後は老朽化のために取り壊されてしまい、現在は空き地となっています。
この元「直木三十五邸」入口に
横浜ペンクラブの方々と大佛次郎氏が中心となって

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 彼の記念碑が建っています。
「芸術は短く貧乏は長し」

6月 19

お詫び

一昨日、カレンダーでは6月16日に
購入した 500G のハードディスクで
一杯になりつつある 前のHDD を抜本的に整理し
一部 ポータブルで持ち歩こうと画策したのですが、
ファイルを 移行して(ここでBKしておくべきだった)
最後に きれいになった 1Tの HDDにコピーしようと思っていたら
新品のHDDが 認識しなくなった!
どうやら 物理的故障ではなく 論理的故障というものらしい?
ここには このブログネタに関する ほとんどのデータが集約されている
というのに。
悔しいです。なんなんだこのポータブル HDDは。
修復に出すことにしました。
ということで
「横浜のかわとみちの物語」はちょっと順延します。
代りに 違うネタを 昨日今日で仕入れましたので
明日から 始めます。
バックアップは 必須です。油断大敵です。

6月 16

No.450 【横浜かわとみちの物語】プロローグ

人は道でつながり
道は人をいざなう
彼方と此処をつなぐ「みち」には
道、路、径、途 と幾つか表現がありそれぞれに味わいがあります。

横浜の「みち」を歩いてみました。
「みち」の無い街はありません。
暮らしにつながる無数の「みち」の中でも
名称がついている道も多くあります。
ざくっと 横浜の“歴史みち”を図式化してみました。

江戸時代に整備された東海道を軸に
多くの道が枝葉のように分かれています。
上記図の他にも「馬車道」「水道道」「鎌倉街道」「根岸疎開道路」「ガス山通」「海軍道路」「〜せせらぎ緑道」「三十六米道路」「浜銀通」「音楽通」…
数多くの愛称のある道が点在しています。


(歴史道を簡単に紹介しましょう)
■現在国道246号線となっている
矢倉沢往還(やぐらざわおうかん)は、
古代の「足柄道」を江戸時代に東海道の脇街道(バイパス?)として整備した街道です。
別称 大山街道です。(複数ありますので注意)
江戸時代に始まった“観光”=講ルートでもありました。
残念ながら古道の面影は殆どありません。

■中原街道(なかはらかいどう)は
江戸虎ノ門(現在の東京都港区虎ノ門)から平塚中原(現在の神奈川県平塚市御殿)をつなぐ脇街道です。
中原の名は、終着点の神奈川県平塚市御殿の地名に残る徳川将軍家別荘「中原御殿」からきています。

■東海道(とうかいどう)
江戸時代の主要陸上交通路として整備された五街道の一つです。
日光街道・奥州街道 ・中山道・甲州街道 
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)は
浮世絵や和歌・俳句の題材に用いられ“観光街道”でもありました。
産業街道としては“中山道”が主要道として活用されました。

■八王子道(はちおうじどう)
神奈川宿から延びる「絹の道」の一つです。
現在の国道16号線が最も重なる道筋です。

■神奈川道(かながわみち)
長津田から恩田川沿いを通り、
東海道神奈川宿に向かう道を「神奈川道」と呼びました。
古くは“鎌倉街道”の一つとして、開港後は“絹の道”として栄えました。
※神奈川道も一つではなく幾つか「神奈川道」があったようです。
 泉区にも大和市の上和田から“鎌倉上の道”に合流する年貢を運んだ道を
 「神奈川道」と呼びました。

■金沢道(かなざわみち)
程ヶ谷宿(現 保土ケ谷)から金沢の六浦陣屋まで上大岡、能見堂跡、金沢文庫と続く道です。
平安時代から使われた「道」で、鎌倉時代に整備されました。

■相州道(そうしゅうみち)
程ヶ谷宿(現 保土ケ谷)から、桜ヶ丘の尾根筋を通り
二俣川を経て厚木の方へ通じる道です。
※相州道は神奈川宿から

■稲毛道(いなげみち)
神奈川宿から鶴見川の大綱橋で渡るまで、東急東横線と並走し溝の口で矢倉沢往還につながります。
歴史街道歩きルートとしては、横浜市内で最も“魅惑的”な道の一つです。

■横浜道(よこはまみち)
幕末横浜開港にともない、
東海道と横浜港を結ぶために現在の横浜市西区浅間下から中区吉田町間に造られた街道です。開港前はかなり不便なエリアだった「横浜村」と「東海道芝生村」を三ヶ月の突貫工事で開通させたかなり強引な“道”です。
開港前日にやっと開通したという逸話が残っています。
現在は全く当時を偲ぶ面影はありませんが、明治期に築かれた石積みの壁が残っています。
かなりドラマチックな「道」であったと想像できます。
次回以降、横浜の「みち」
そして横浜の「かわ」について
小さな物語を紹介していきます。

6月 9

【バス旅】横浜18区路線バスの旅(日曜版)

横浜18区路線バスの旅第二弾!【北回り編】<追記版>
「路線バスを使い横浜18区を走り抜ける」日曜版(休日ダイヤ)
さらに短縮コースも探しました。

18区路線バス踏破日曜版
緑ラインが今回の修正ルート

(前回)No.449 横浜18区路線バスの旅
前回は平日実験的にチャレンジしました。

今回は、さらに距離と時間を短縮しました。
また「休日ダイヤ」でチャレンジしてみました。

このチャレンジは
一般的な バス遊びとしてはハードすぎますが、
バスを気軽に使って市内ツアーをする際の課題が明確になったツアーでした。
(課題点)
バスは現状“地元の人が良く判っていること”を前提にしています。
同名のバス停が離れて設置されていることもあり
<バス停探し>に苦労しました。
全く初めて【それぞれの】地域路線バスを利用する人にとって
バスは まだまだハードルが高いかも知れません。

■料金設定
[区間均一]と[距離別]
市内の多くが210円均一(前乗り前払い中降り)
■乗車方法
[前乗り前払い]と[中乗り前払い]
●バス停が判りにくい場所が かなりありました。
特に<交差点>でのバス停は 位置が探しにくい。
→これに関しては バス亭設置の限界もありますが
乗りにくい、戸惑いました。
同じ名前のバス停が路線毎に別な場所に設置されているケースがまだ残っています。

●それぞれの駅前のバスロータリーにあるバス乗り場案内板のデザイン(フォーム)
キャッチサインに工夫が欲しい
→案内板に【バスインフォ】の統一サインかなにかできませんかね!

●時々 車内(バス停案内)放送にポカがあった!!
実際運行と案内放送がズレたケースが数回、
窓外を確認していないと降り損ねる可能性がありました。

事前にスマホ等で時刻表をダウンロードしておくと便利ですが、
市営バスは 停留所にバス時刻表をダウンロードできるQRコードが付いています。これで、休憩のタイミング等を図れたので行動がぐっと気楽になりました。

BB-E3-83-8F-E3-82-99-E3-82-B9QR-E3-82-B3-E3-83-BC-E3-83-88-E3-82-99089

横浜18区路線バスの旅(日曜版)記録

以下のデータは2015年(平成27年)9月30日時点です。

【北回り】
■①横浜駅西口6:56発38系統 鶴見駅西口行き
通過区[西区][神奈川区][鶴見区]
内路(うつろ)7:22着
■②内路(うつろ)7:36発41系統 川向町折返場行き
通過区[港北区][都筑区]
東方町8:02着
■③東方町8:18発41系統 中山駅北口行き
通過区[緑区]
中山駅北口8:41着(トイレ)
■④中山駅北口8:53発90系統 青葉台駅行き
通過区[青葉区]
青葉台営業所前9:02着
■⑤青葉台営業所前9:10発65系統 若葉台中央行き
通過区[旭区]
若葉台近隣公園前9:25着
■⑥若葉台近隣公園前9:32発相鉄バス三ツ境駅
通過区[瀬谷区]
三ツ境駅北口9:50着
■⑦三ツ境駅10:00発戸17系統 戸塚駅東口行き
通過区[泉区][戸塚区]
戸塚駅東口10:45頃着
■⑧戸塚駅東口11:07発江ノ電バス 見晴橋行き
通過区[栄区]
見晴橋11:25着
(徒歩400m)
■⑨小菅ケ谷橋11:31発神奈中138系統港南台駅前行き
通過区[港南区]
横浜女子短期大学前11:45着
(昼食)

■⑩横浜女子短期大学前12:19発45系統洋光台駅前行き
通過区 [磯子区]
南公園前 12:28着
■⑪南公園前 12:44発107系統さわの里小学校行き
通過区[磯子区]
随縁寺前12:52着
(徒歩200m)
■⑫京急富岡住宅西口13:20発京急富岡駅行き
通過区[金沢区]
京急富岡駅13:33着
(徒歩)駅またぎ
■⑬富岡13:44発京急4系統磯子行き
通過区[金沢区][磯子区]
磯子車庫前13:58着
■⑭磯子車庫前14:05発市営113系統桜木町駅前行き
通過区[磯子区]
滝頭14:18着
■⑮滝頭14:38発市営68系統横浜駅西口行き
通過区[中区][南区]
浅間下15:08着
■⑯浅間下15:14発市営87系統横浜駅西口行き
通過区[保土ケ谷区]
横浜駅西口15:41着
全行程 1,950円(市営一日乗車券使用)
    16路線 9時間 昼食時間約35分
ポイント:保土ケ谷区をどのタイミングで通過するか?
三沢上町交差点は[保土ケ谷区]
今回、日曜ダイヤの関係で最終ルートに組み込みました。

その後大きくダイヤ改正が行われていますので、再挑戦してみます。
さらには【南回り】ルートにも。南回りはザクッと時刻表を見た感じ、かなり苦戦しそうです。ではまた。

6月 4

No.449 横浜18区路線バスの旅

【チャレンジ18区】
路線バスを使い 横浜18区を走り抜ける

横浜全区バス路線踏破マップ
横浜全区バス路線踏破マップ
踏破マップ

【ルール】
①移動には必ず路線バスを使うこと。
②一筆書きであること。(同じ路線は使用しない)
③300m程度の徒歩移動は可(駅の反対側への移動等)
④最短を目指すこと。

(スタート)
桜木町駅[中区]8系統 6:33発
横浜駅改札口前[西区]

BBP6030004

横浜駅西口 59系統 6:50発
[神奈川区][鶴見区※注①][港北区]
※注①
 一瞬鶴見区を通過するルートを選びました。
 この一瞬通過ルートはこのゲームのポイントに
 なりますが、下調べ不足でした。

この59系統は、綱島街道尾根ルート系です。
浦島から菊名まで分水嶺を走ります。

BB-E7-B6-B1-E5-B3-B6-E8-A1-97-E9-81-93

港北区総合庁舎前 7:25着 7:26発

BBP6030012

[都筑区]
途中 工業地帯「新羽」エリアを通るルートなので
8時出社系の企業が多く、めちゃ混みでした。
外国人も多かったです。

BBP6030027

東方町 7:52着
実はこの後に7:31発
中山駅北口行がありましたが
時刻表確認時間が無かったので乗り継ぎに
[緑区]
中山駅北口  7:57着 トイレ

BBP6030042
中山駅

中山駅北口 90系統 8:08発
☆注意 横浜市営バス「一日乗車券」は横浜市営のみ使えます。
 90系統の場合、東急と共同運行ですので東急バスでは使えません。
[青葉]
青葉台営業所前 8:17着 若葉台方面はとにかくバス運行本数多数

BBP6030047
BBP6030048
BBP6030051

[旭区]
若葉台中央 8:40頃着 23系統 65系統 55系統
  ※作戦タイム

BB-E3-82-BF-E3-83-BC-E3-83-9F-E3-83-8A-E3-83-AB-E5-91-A8-E8-BE-BA-E3-83-9E-E3-83-83-E3-83-95-E3-82-9A

若葉台中央 神奈中116系統 8:57発
三ツ境駅北口 9:25着

BBP6030077
BBP6030090
BBP6030096


[瀬谷区]
 トイレ探しに時間を食う!
 しかたないので軽食を食う!!
三ツ境駅 戸17系統 10:15発
[戸塚区][泉区]
戸塚駅東口 10:55頃着 11:08発

BBP6030136
BBP6030137

江ノ電バス 大船行 11:25頃
 乗車方法が異なります
[栄区]
笠間十字路 11:30頃 神奈中バス15系統

BBP6030143

本郷車庫前 11:45頃着
 昼食と周辺散策

BBP6030153
BBP6030162

本郷車庫前 12:36発 12:40頃着
長倉町にて
 以前から気になっていた
 かながわの橋百選の一つ
 横浜最古の橋「昇龍橋」へ!
 散策プロムナードに整備されていた!?ようですが
 かなり 荒れています。

BBP6030187
BBP6030189
展望台は崩壊
BBP6030195
BBP6030196
BBP6030207

 「昇龍橋」美しい!期待を裏切ってません。
 良い形の石橋ですね。

BBP6030224
BBP6030230
BBP6030231
BBP6030232
BBP6030237


 「昇龍橋」はバス停一つ手前の「八軒谷戸」にあります。
 ただ「八軒谷戸」からですと いたち川に降りるのが難しいので
 「長倉町」からワイルドに川辺を歩いていくのが
 発見の感動が一入!!!!
 長倉町の近くに昔良く行った「上郷森の家」があるので
 立ち寄りたかった!!が
 本日は スルーしました。
[金沢区]
金沢八景駅前に 13:30頃着

BBP6030247

 金沢八景でピンポイントで行っておきたいところ?

 瀬戸橋と、「明治憲法起草の地」あたり再確認に決定

BBP6030276
BBP6030278

No.124 5月3日 料亭にて超機密書類盗まれる
姫小島水門

BBP6030264

金沢八景をぶらり散策して
「州崎」から京急バス4系統に乗ります。
ここからは
 18区を踏破するための小技を使います。
(無理矢理バス路線)
[磯子区]
磯子車庫前下車
 ここから「港南区」を通過するには
 「打越」か「上大岡」へ向かうしかありません。
どちらも本数がほとんどありません。
 今後の課題です。
 1時間に1本の上大岡着
[港南区]
(小休止)
上大岡駅から弘明寺まで神奈中 港61系統

BBP6030338
弘明寺でデュークによりあんぱんを七種類購入

[南区]
 港61系統は横浜駅東口行なのでこれで一気に帰りたい!
どうしても「保土ケ谷区」を経由するには、保土ケ谷駅東口経由がベストなので
弘明寺から横浜市営9系統で
[保土ケ谷区]
 「保土ケ谷駅東口」

BBP6030342
BBP6030344
ふらんすやまの保土ケ谷支店もあります

ここで106系統に乗換えて
 「桜木町駅」にて終了です。

BBDSC_0057

最後はかなり乱暴ルートになってしまいました。
逆コースだとどうなるか?いずれチャレンジします。
土日ですとダイヤが変わりますからまた違った組み立てになるでしょう。

(振返りと課題)
要領を心得ると 結構楽しいバス巡りです。
市営の「一日乗車券」600円はフルに使いました。
これでかなりコストダウンに繋がりました。
神奈中は無理としても相鉄バスの「一日乗車券」は作って欲しい!!!
「東急バス1日乗車券」は500円で販売しています。
今回は使っていませんが、使い方によっては
 かなりメリットがあります。

☆今回の18区踏破のポイントは
 金沢区と保土ケ谷区をどう走るか?でした。
 もう少し工夫路線があると思います。

BBP6030106
BBP6030112


(精算)
横浜市営「一日乗車券」600円
神奈中バス 他1400円
合計 2,000円
15回。11路線 約11時間の旅でした。

続編もあります。
【バス旅】横浜18区路線バスの旅(日曜版)

【バス旅】横浜18区路線バスの旅(日曜版)