8月 28

1914年(大正3年)7月12日 京急富岡駅

1914年(大正3年)の今日
横浜貿易新報社選(神奈川県内の)「新避暑地十二勝」が発表されました。
横浜貿易新報社は神奈川新聞社の前身で、1890年に創刊された老舗新聞社です。横浜貿易新報社は、新聞紙上で読者の投票によって選ぶ県下の「発見開拓すべき」「新避暑地」12ヵ所の選定を企画します。
総得票数27,261票を集め1位に輝いたのは鎌倉市今泉にある今泉不動(称名寺)です。大正初期、神奈川県内の「発見開拓すべき」観光スポットに見事輝きます。避暑という条件もついていますので、<涼しさ>も優先されたのでしょう。
http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kids/jh/kjh_sa13.html
現在の横浜市域でも三ヶ所選ばれています。
2位:愛川村半原
現在も「発見開拓すべき」「新避暑地」に入るかも知れません。
3位:北足柄村平山
現在の南足柄市北部にあたります。
4位:大澤村神澤江岸
現在の相模原市緑区
5位:三崎町
現在の三浦市南西部
6位:金澤富岡海岸
7位:本牧三ノ谷
8位:龍口寺円遊地
現在の藤沢市片瀬あたり
9位:長井海岸
現在の横須賀市長井周辺
10位:茅ヶ崎海岸
茅ヶ崎市の海岸線のどのあたりかは?
11位:相模河畔田名
かつて大山道の宿場として栄え、明治期から昭和初期には「水郷田名」と呼ばれて歓楽街として賑わったそうです。
12位:磯子海岸

◆横浜市内の十二勝その1
(6位:金澤富岡海岸)

富岡付近
富岡付近

現在の横浜市金沢区富岡にあたります。
この「新避暑地十二勝」に選ばれた1914年(大正3年)当時はまだ、久良岐郡金沢村でした。
light富岡海荘図巻富岡海荘図巻(元はカラー)
富岡に別荘を持った三条実美が、明治22(1889)年に日本画家の荒木寛畝に描かせたものです。
横浜市に1936年(昭和11年)10月に編入され<磯子区>の一部となります。

<紹介文>
●復活せる富岡
避暑地の元祖/横電の延長近し
公園地の計画/魚欄に飛び上がる
横浜電車の八幡橋終点から乗合馬車に乗って30分も揺られて行くと金沢村富岡に達する。※1
富岡は東南に東京湾を抱き西北に丘陵を負ひ房総半島と相対してゐる。
海岸でありながら水のいいといふことは確かに此土地の誇のーであらう。
飲料水の如きは各戸に掘抜井を設け地下600尺以上の深所から噴出させるので非常に純潔な冷い水を得ることが出来る。※2
富岡は明治の初年頃には盛んに外国人が暑を避けに赴いた所で、我国海水浴の元祖は実に此の地を措いて他には無いのである。※3
然るに其後東海道に鉄道が敷設さるるやうになってからは避暑の客を大磯、鎌倉等に取られるので此地は漸漸忘れられて行ってしまったのである。
然るに土地の青年会員及び其他の有志は近く横浜電車線路の富岡へ延長さるるのを幸ひとし今次の当選を機として富岡海水浴の復活を思立ち一致協力して大に奔走し同所鎮守八幡宮の後丘なる八幡山の社地一町歩の荊棘(けいきょく)を拓いて公園となすべく目下盛に作業中である。
旅館には金波楼といふのがある。

11220935_1016008985109872_7851265712634385856_n海寶楼の広告

<若干解説>
紹介文には興味深い記述がいくつかあります。
※1「横浜電車の八幡橋終点」
「横浜電車(現在の横浜市電)」が八幡橋まで開通し順次海岸線を杉田方向に延伸する予定の時期にあたります。
ところが、「横浜電車」は延伸することが出来ず、途中杉田まで延伸されたのが昭和2年、「横浜市電」となった後しばらくかかりました。
その先の延伸予定もありましたが、市電の代わりに湘南電気鉄道(現在の京浜急行)が昭和5年に開通し、夏季のみ海水浴客専用仮駅が開設、翌年の昭和6年7月10日に正式な駅に昇格します。当時の駅名は「湘南富岡駅」で、戦後「京浜富岡駅」→「京急富岡駅」となり現在に至ります。
昭和5年に開設された「湘南富岡駅」は当初<木造の無人駅>だったそうです。まだ、鉄道のない頃、東京 牛込 若松町にいた、日本画家<川合玉堂>が別荘を構えその屋敷が残っていましたが、2013年(平成25年)漏電火災により焼失しました。
現在敷地内は一部一般公開されています。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kanazawa/kusei/kikaku/gyokudo/
富岡近辺は川合玉堂が別邸としていた他、伊藤博文、三条実美、直木三十五など多くの人に愛されました。
No.229 8月16日 (木)一六 小波 新杵
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=378
No.451 芸術は短く貧乏は長し
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=108
No.230 8月17日 (金)孫文上陸(加筆修正)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=377

※2「海岸でありながら水のいいといふこと」
リゾート地として<おいしい水>が出ることは重要です。
※3
「富岡は明治の初年頃には盛んに外国人が暑を避けに赴いた所で、我国海水浴の元祖は実に此の地を措いて他には無いのである。」
この地にはヘボンが訪れ、海水浴場として推薦しています。このことから<我国海水浴の元祖>と呼ばれていました。富岡神社脇に記念碑が建っています。
現在はわが国初!海水浴場として全国何ヶ所かが<元祖>を表明しています。残念ながら富岡はそれ以降ということで<元祖>競争からは外れています。

(過去の7月12日ブログ)
No.194 7月12日(木)ソシアルビジネスの鏡
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=413
一行の出会いでした。膨大な年表に朝田又七という名を見かけました。

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8月 24

戦前 メディアとしての【絵葉書】

1910年(明治43年)6月13日
「内国郵便葉書の外国あて発送」が認められました。明治の近代化の荒波の中、郵便制度はこの国にも影響を与えました。欧米でスタンダードだった「絵葉書」日本では
明治後期、大正に入って空前の絵葉書ブームが訪れます。その後10年以上絵葉書の発行は脅威の数字を示します。
ブームというより絵葉書が日常の伝達ツールとなっていきます。中でも横浜は国際港のため国内外の絵葉書が多く流通しました。
このブログにも良く登場する戦前の絵葉書について簡単年表にしました。
1873年(明治6年)12月1日
最初の官製葉書(ポスタル・カード)が初めて発行されます。

1879年(明治12年)6月30日
国際郵便葉書の始まり
万国郵便連合葉書<唐草>2銭・3銭葉書を発行

1880年(明治13年)4月
葉書の表裏に関する規則がきまります。
例えば、葉書の表裏を墨で塗りつぶし、その上に<朱><白墨>等で文字を記載したものは、葉書として扱わない、表面は住所姓名しか記載できない、ただし至急とか年月日の記入は構わないとか。
※住所を書く方が<表面>です。

1885年(明治18年)3月26日
万国郵便連合条約調印

1898年(明治31年)12月10日
毎年1月1日から7日までの間、外国来を除き、葉書の到着印を省略
※この年賀状に消印を押さない ルールはここからです。

1899年(明治32年)2月13日
私製葉書の国外通信使用が認められる。

1900年(明治33年)9月17日
私製葉書の制式を告示、絵葉書自由化

1902年(明治35年)6月18日
最初の官製絵葉書発売
※万国郵便連合加盟25年紀念郵便絵葉書<6種1組で5銭>

1904年(明治37年)2月1日
日露戦争時の戦地と内地との通信用に軍事郵便葉書を発行
これによって絵葉書使用が全国に普及し始める。light_20151103211520_002

1906年(明治39年)
絵葉書ブームは最高潮に達し、様々な戦時絵葉書が発行され空前のブームを引き起こします。

1906年(明治39年)8月9日
<風景印>の原点となった
絵葉書に相当額の切手を貼付り記念のため日附印の押印の申出があれば事務支障ない限り応じなさい と通達が有ります。外国人旅行客からの要求?

1907年(明治40年)3月28日
郵便絵葉書の表面下部3分の1以内に通信文の記載を認める。
<時代判定の基準となっています>
light_20150627233935 1910年(明治43年)6月13日
内国郵便葉書の外国あて発送を認める

1918年(大正7年)3月1日
郵便絵葉書表面記載部分を3分の1から2分の1に拡大
<時代判定の基準となっています>light_20151103211703

ブログに登場した絵葉書コレクション
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?cat=41

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8月 24

C58汽車道を走る

1980年(昭和55年)6月13日〜15日の三日間
「横浜港開港120周年・横浜商工会議所創立100周年記念」イベントにC58が走りました。その頃はまだ横濱に暮らしていなかったので写真も当時の雰囲気もわかりませんがネット上でも熱烈な写真記事が掲載されています。
山口線から横浜にC58を運び 汽車道を東横浜駅から山下埠頭駅まで走行!!
C58は過去に横浜機関区に所属していたことがあり久しぶりの里帰りとなりました。
このルートが現在「山下臨港線プロムナード」となって、歩行専用ルートとなっています。
使用車両はC58-1+スハ43系4両で、一日3往復
東横浜    山下埠頭    東横浜
09:57 → 10:09   10:30 → 10:42
12:30 → 12:42   13:00 → 13:12
14:30 → 14:42   15:02 → 15:14
<写真>
■横浜にC58が走った日。
http://rail.hobidas.com/blog/natori09/sp/archives/2008/05/c58.html
■横浜港開港120周年1980年6月13日
http://www.yokohama-album.jp/picture/detail/174/
http://www.yokohama-album.jp/picture/detail/175/

「山下臨港線プロムナード」

No.62 3月2日 みらいと歴史をつなぐ道
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=557

「開港の道」山下臨港線プロムナードの終着地点となっているのが
「港の見える丘公園」です。
No.129 5月8日 ヒット曲の公園
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=486

 

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8月 24

横浜市町内会連合会

1975年(昭和50年)6月12日の今日
横浜市内の町内会会長で組織していた「横浜市町内会長連絡会」が「横浜市町内会連合会」という名に改称されました。
皆さんは地域の自治会町内会に加盟していますか?
「自治会町内会は、一定の地域において、住民相互の親睦を図り、そこで起こる様々な課題を解決することを目的に自主的に組織された住民団体です。
横浜市内には、平成26年4月現在で2,881団体の自治会町内会が組織され、約123万世帯の市民が加入しています。」
と「横浜市町内会連合会」のサイトに書かれていました。

「自治会町内会は防災や福祉、美化活動など安全安心で住みやすい地域づくりを目指す活動や、お祭りや運動会などのレクリエーション活動を行っています。
普段、あまりお気づきにならないかもしれませんが、自治会町内会の活動は、みなさんのくらしに欠かせない役割を担っています。
地域の絆をはぐくみ、地域で支え合う社会を作っていくためにも自治会町内会への加入をお願いしています。」
http://www.yokohama-shirenkai.org
さらに少し遠慮気味に勧誘もしています。
横浜も加入率の低下に悩んでいるようです。
横浜市内 自治会町内会には
123万世帯が加入(H26年)しているそうです。横浜の総世帯数が約163万(H26年)ですから7割強の加入率という計算になります。
内閣府のH19年「町内会・自治会等の地域のつながりに関する調査」では
「町内会・自治会があると回答した人は、9割を超えている。また、町内
会・自治会の区域としては小学校区より狭いという回答が7割を超え、平 均すると約 600 世帯、9割弱の加入率である。なお、回答者世帯の9割超 が実際に町内会・自治会に加入している。」
都市部の横浜はかなり低い加入率です。
横浜市自治会町内会加入率推移
(自治会・町内会?)
ここまで「自治会町内会」とまとまった<単語>で表記しましたが、地域によって自治会・町内会はそれぞれ別名称で使用されています。
横浜市の公式見解(ちょっと大げさですが)では
「自治会・町内会は、地域に住むみなさんが自らの手で相互に仲良く助け合いながら、自分たちの地域生活をよりよくしていくために、様々な活動を行う任意団体です」
「「自治会」「町内会」の名称については、呼び名は違いますが、団体の活動内容に違いがあるわけではありません。それぞれの自治会・町内会が発足時に、決定しております。」
と名称は違うが内容は同じとしています。
地方自治法でも、「地縁」団体とされていて、町内会=自治会となっています。
徹底して調べていませんが 町会・町内会その下部組織として<隣組>の呼び名が戦前に使われ、戦後自治会が使われ始めたようです。
町単位が町会、集合住宅や新しくまとまって開発された住宅地には「自治会」が多く感じますが、混在していて明確な特性とはなっていません。
→市内自治会町内会の形成 おもしろそうです。
例えば自治会は「西柴団地自治会」「権太坂境木自治会 」「青葉区連合自治会」「緑区中山町自治会」「下田町自治会」「鴨居地区連合自治会」「本郷台自治会」「関ヶ谷自治会」
一方町内会は
「港北区連合町内会」「桜木町町内会」「南吉田町内会」「山元町3・4・5丁目町内会」「青葉区たちばな台町内会」「長沼町内会」「岡野二丁目町内会」

(歴史)
「横浜市町内会連合会」がまとめたものをベースに横浜に特化し町内会の歴史を調べてみました。
町内会の起源
横浜市における町内会の起源は、市制が施行された翌年の明治23 年(1890 年)
に作られた「衛生組合」で
この衛生組合を組織した目的は、
第一に横浜が開港以前は一寒村にすぎず、他の地域にあるような旧来の隣保組織を持っていなかった
第二に横浜が開港地として貿易や居留外国人との関係で、伝染病の危険にさらされる機会が多かったため
と横浜の町内会の起源をまとめています。

横浜の場合、
「横浜が開港以前は一寒村にすぎず」という点が大きいです。この決まり文句の「一寒村」という代名詞には異論がありますがここでは置いておきます。
※寒村ではなく小さい村で暮らしは豊かだった
横浜開港場は江戸時代までの農村や城郭・寺社・宿場などといった<地縁社会>の無い政治特区でしたので「旧来の隣保組織を持っていなかった」ことが特徴といえるでしょう。これも市域拡張で旧来の<地縁社会>が横浜市内にも組み込まれ、新旧の<融合>が横浜の文化的なエッジであるだろうと考えています。
横浜開港場周辺の地域にとって集落の<結束>は上記の第二の理由
<伝染病の危険>が大きかったといえるでしょう。

No.89 3月29日 ペスト第一号もYOKOHAMA
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=528
No.217 8月4日 (土)わがひのもとの虎列刺との戦い
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=390
悪い意味でいち早く伝染病の被害を受けた横浜は1890年(明治23年)に作られた「衛生組合」がいわゆる地域互助組織=隣保組織の代替となったようです。
その後関東大震災を経験しながら、「衛生組合」が「自警団」等を経て「町内会」「青年会」等の地域組織として地縁組織となっていきます。昭和期横浜市には、自治活動を行うための町内会、衛生組合の町内会事務代行、町総代会という3つの組織がありましたが1940年(昭和15年)9月11日付け内務省訓令第十七号「部落会町内会等整備 要綱」により「隣組」「町内会」として明確に一本化されます。
「隣組」は十戸内外で組織されるように指導され、当時大ヒットした<国民歌謡>によりさらに強化されることになります。
https://www.youtube.com/watch?v=rBh4wUrjltM
https://www.youtube.com/watch?v=kQf-aO95ezU
1941年(昭和16年)時点で
横浜市の町内会数は798、隣組は約2万に達し、銃後の守りとなりました。
戦時中の横浜の「隣組」の様子を丹念に調べた本が出ています。
「戦時下の日本人と隣組回報」渡邊洋吉 幻冬舎新書2013年刊

この本は珍しい昭和16年〜17年の横浜市戸塚区矢部町第6隣組で回覧された「隣組回報」を読み解きながら当時の時代背景、状況を克明に記しています。

戦中に隣組、町内会は有効な情報伝達組織、地域管理システムとして機能しましたが、粗末な地域権力構造となり暴力組織にもなり終戦とともに解散・解体されます。
戦後、未組織の中で生活互助的な「防火防犯協会」「赤十字奉仕団」が誕生し「町内会」の役割を担うようになります。
1951年(昭和26年)GHQの自治政策緩和により権限が政府自治体に移管、「町内会」組織の再編が始まります。長い接収時代が徐々に解除となり、横浜市に多くの人口が流入する30年代ごろから積極的に新しい「町内会」組織育成と平行して従来とは違った形の自治会町内会(団地管理組合の性格をもった自治会町内会など)が続々と結成されます。
これらの地域互助組織の発展形が市連合町内会長連絡会となり
1975年(昭和50年)6月12日の今日
横浜市町内会連合会に改称されたという訳です。

(横浜国立大学でも)
町内会への加入について
町内会に入って、地域デビューしよう!ー地域に新たな活力を!ー
学生の皆さんは、国大生になって実家を離れ、国大周辺やヨコハマ地域等に暮らす「地域社会の一員」です。その地域を運営していくには、町内会という組織が必要で、日夜活動しておりますが、その町内会では若い力である国大生の加入を強く求めています。
「遠くの親戚よりも近くの他人」という諺がありますが、どうか地域の方々と顔馴染みになり、何かあったらお互いに助け合っていくような間柄になっていただきたいと思います。
皆さんが地域住民の方々に見守られていれば、ご両親も安心です。

なんて案内もあるのには驚きました。

長くなりましたが、最近人気薄の自治会町内会ですが
違和感があることも事実です。個人単位ではなく<世帯単位>であることや説明(理解)のプログラムなしに半強制的な<雰囲気のある>ところも
地域の老人親睦、広報の配布組織といった批判もあります。
地域社会の「骨粗鬆症」化と表現する専門家もいます。
なんといっても<防災上>
私達を守る私達が守る共助組織です。
さらに高齢化の中での様々な課題を解いていく大事な下支え組織でもあります。
しかし
世代間・ライフスタイル別の運営に対する認識ギャップが多く生じているようです。その他の共助組織との連携やシームレス化も遅れています。
横浜も空き家率、高齢化率が 急上昇しています。
このギャップを乗り越えるには さらなる工夫が必要でしょうね。

No.164 6月12日(火) JR JR
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=446
1872年6月12日(水)(旧暦明治5年5月7日)かねてよりの突貫工事で進めていた品川・横浜間の鉄道が仮開業しました。

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8月 17

1月31日 朝吹英二

横浜に関係のある一人の人物を紹介します。
1918年(大正7年)の今日、実業家の朝吹英二が71歳の生涯を終えました。
「朝吹 英二(あさぶき えいじ、嘉永2年2月18日(1849年3月12日)〜大正7年(1918年)1月31日)は、日本の実業家。幼名は萬吉、鐵之助。」(wikipedia)
このwikipediaでは彼の紹介に「横浜」の項目はありません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/朝吹英二
彼は幕末に生まれ、明治・大正期に実業家として活躍します。
若い頃のエピソードとしては、尊皇攘夷思想だった朝吹は同郷の開明派「福沢諭吉」を暗殺しようと企てますが失敗しこれをキッカケに慶應義塾に学び、福沢の元で働くようになったそうです。実業家として頭角を現し三菱商会から三井に転じ、「三井の四天王」の一人と呼ばれるほど<三井>の重鎮として活躍します。
1880年(明治13年)7月20日から業務を開始した「貿易商会」横浜支店の責任者として朝吹英二は横浜を舞台に活動します。
この「貿易商会」は、社長が丸善の創業者である早矢仕有的で朝吹は役員として横浜支店を任されます。「貿易商会」は本店を東京に置き、横浜の本町四丁目に支店を開設します。取り扱った業務内容は生糸の輸出・茶・煙草・雑貨・米などの輸出と鉱物・皮革類・魚類等の輸入等でした。
「貿易商会」にとって「横浜支店」は特別な存在でした。
資本金二十万円の内、十五万円が「横浜支店」の事業資金として振り分けられ、主に<生糸の輸出>を専門とし支配人として朝吹英二が着任しました。
いわば特別プロジェクトの性格を帯びた「横浜支店」でした。
この「横浜支店」設立の背景は、単にビジネスチャンスというだけではなく、当時の横浜を舞台に行われていた貿易の<問題>がありました。

日本は開港後欧米列強と結んだ不平等交易条約(修好通商条約)の影響で、貿易を管理・統制することがほとんど不可能な状態にありました。
明治初期の貿易は殆ど外国(欧米)の商社が独占していました。
1867年(明治10年)の輸出額の94%、輸入額の95%を外国商社が独占。
しかも、居留地の外国商館は<悪辣な手段>を使い、差別的で一方的な交易で暴利を上げていました。特に横浜を舞台にした生糸交易は取扱額も大きく日本経済の要でもあったため<フェアトレード>は日本経済界・政府の重要な課題でした。
「貿易商会」横浜支店設立には、貿易のバランスを回復する(自主貿易の確立する)ことも大きな目的でした。「貿易商会」の設立趣意書の一部を商会します。
「我国人ハ在港ノ外人二依頼シテ貿易ノ事ヲ行ヒ既二幾分ノ国損ヲ致シ、又其物品ノ代価ヲ受授スルニ当テ為替ノ事ヲモ彼ノ「パンク」二任スルガ故二、輸出入ノ景況二従テ為替ノ相庭(相場)ヲ昂低スルモ、全ク彼レノ意中二存シテ、内国ノ商人ハ恰モ其制御ヲ仰キ、昂低共二常二彼レニ便利ニシテ、我二不便利ナラザルハナシ、金権ノ主客、処ヲ異二スルモノト云う可シ」

結果は残念ながら 1876年(明治19年)倒産、失敗に終わります。
朝吹英二は生糸直輸出事業の大損失を一身に背負って日本一の借金王と呼ばれたりしました。「貿易商会」に限らず、多くの日本企業が不平等交易に立ち向かい、粘りつよく条約改正に至るまで要求と実践を繰り返していきます。
明治以降、日本の急速な経済発展と表現されますが外国商社との条件闘争と試行錯誤を繰り返していきます。

横浜で大失敗した朝吹英二は、その責任をとって放浪生活に入ります。
そんな朝吹英二がある時、かつての知り合いだった第3代日本銀行総裁 川田小一郎を訪ねます。川田は朝吹に自分の給料袋をそのまま渡し、再起を支援。
これがキッカケとなって朝吹は経済界に復帰、当時危機に瀕していた鐘淵紡績の立て直しに貢献します。
その後、三井財閥の基盤確立に尽力するとともに日本経済界の重鎮として多くの足跡を残します。
「生涯
豊前国(現在の大分県)中津藩宮園村(現在の大分県中津市耶馬溪町大字宮園)の大庄屋の跡取として生まれた。
日田の咸宜園や中津の渡邊塾・白石塾に学ぶ。尊皇攘夷思想に染まり、維新後の明治3年(1870年)、開明派の福澤諭吉暗殺を企てるが、転向し福澤とその甥 中上川彦次郎の庇護を受け、彦次郎の妹と結婚する。慶應義塾に学び、明治11年(1878年)、三菱商会に入社。明治13年(1880年)、貿易商会に入って取締役となる。
また、大隈重信に近い政商となり、三井財閥に転じて、明治25年(1892年)に鐘ヶ淵紡績専務、明治27年(1894年)に三井工業部専務理事に就任。明治34年(1901年)、中上川が死去すると、益田孝により中上川の工業化路線は一旦は止まったが、それでも明治35年(1902年)に三井管理部専務理事に就任し、王子製紙会社では役員を務めて会長となり、また、芝浦製作所、堺セルロイドなど王子と共に業績不振とされたこれら企業の建て直しを担当することとなった。このように三井系諸会社の重職を歴任し、「三井の四天王」の一人と言われた。
中上川の後任の最有力候補であり、かつ慶應閥の筆頭とも目されていた朝吹だったが、上述のように、後見の中上川の死去にともない、益田が三井財閥の実権の座を握ることとなり、明治40年(1907年)には、益田が引退に際して團琢磨を推挙したため、退任を余儀なくされることとなった。
江戸時代において悪人とされていた石田三成の顕彰事業にも熱心で、歴史学者渡辺世祐に委嘱して『稿本石田三成』を書かせ、その墳墓発掘にも力を尽くした。」

(関連ブログ)
No.31 1月31日 さよなら路線廃止に沢山のファン

No.31 1月31日 さよなら路線廃止に沢山のファン

 

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