2月 20

【横浜の小さな橋】№8 日影橋

今日は「日影橋」を紹介する。恐らく地元の人しか記憶に無い実に地味な橋だが、私のお気に入りPOINTの一つとして紹介しておきたい。
この【横浜の橋】シリーズを始めようと思ったキッカケの一つがこの「日影橋」だった。もう3年前のことだ。2013年の夏、田奈駅から市境ぶらり歩きをするために恩田川を遡上中に出会ったのが「日影橋」だった。恩田川流域 地味ながら横浜の風景、川と橋の関係を考える上で大切な<橋>との出会いだった。
「日影橋」は一級河川「鶴見川」一次支川「恩田川」に架かっている。
二次支川「奈良川」との合流点に設置されているごく普通の桁橋だ。lightP7042598<写真左奥の青い橋が「日影橋」全体の映像は後段で>
竣工:昭和43年3月
橋長:26m
幅員:4m
恩田川は現在の「青葉区」と「緑区」の境となっている。合流する奈良川は恩田(青葉区)一帯を潤す支川で、長津田(緑区)の河岸段丘による台地にぶつかるかたちで恩田川に合流している。
グーグルアースでこの橋周辺をご覧頂きたい。恩田川日影橋 2016-02-18 07.44.01

青葉区の奈良川流域に広がる農地が美しい。実は横浜は近郊農業の町でもある。横浜産の小松菜やキャベツは<かくべつ>だ。住農工商のバランスを考える際、農地の風景は都市にも重要な風景である。すぐ近くには住宅地が迫っている。

日影橋
「日影橋」の名は、古い地名から採っている。旧恩田村字日影山の「日影」を橋名にしているそうだ。因みに、日影は<日陰>ではない。陽の光が影を生む場所を指している。
「日影橋」横には河辺降りることができる階段があり、橋の下のちょっとした<親水空間>が暑い夏の日差しを凌ぐには最適な場所となっている。lightP7042594日影橋 私はここで真夏のランチタイムを楽しんだ。川の水も澄んでいてウォーキングの疲れを癒やすにはもってこいの空間だったのでこの橋が気に入ったのかもしれない。light120704n0087奈良川lightP7042608 (市境めぐり)
日影橋から二つ橋を過ぎると恩田川は東京都町田市成瀬に入る。ここから県境をしばらく歩くことができる。左右に<杉山神社>があり、しばらくすると見事な<尾根境>に入る。市内有数の地境が実感できる散策ルートといえるだろう。ぜひ「恩田川」とセットでお薦めする。lightP7042722 lightP7042707 lightP7042701 lightP7042696 lightP7042688

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2月 18

「時」の風景(更新)

今日は「時」の話題から始めます。

古典落語に「時蕎麦」という滑稽話があります。屋台の蕎麦屋でお勘定をす際、「七(なな)、八(はち) 今何どきだい? 」「ここのつで」「十(とう)、十一(じゅういち)」というだましを使うネタです。
時代は江戸、
屋台の蕎麦屋はなぜ時間を正確に言えたのでしょうか?
江戸時代の時報は<鐘>の音でした。江戸では公認の時報を打つ場所が九カ所あったそうです。初めに捨て鐘三回の後に、時刻に応じてその数だけ鳴らしました。
ではその打つ時刻はどうしたのか?
当初は線香の燃え方で、その後「水時計」が設置されていて、時計に従って鳴らしたということですから、秒単位の正確さは無いものの社会生活には全く問題がありませんでした。
江戸時代の暦、太陰暦も季節感にそったカレンダーで農家には便利な<暦>でした。
時報の知らせ
鳴らす間隔は、当初「明け六つ」(午前6時)、「暮れ六つ」(午後6時)をドーンと太鼓で知らせるだけでしたが、2代将軍 徳川秀忠の時代から鐘に代わります。昼夜十二の刻を打つようになります。
「時そば」の九つ時、午(うま)の刻(午後零時)か子(ね)の刻(午前零時)のことです。落語には近くで様子を見ていた<与太郎>が登場していますので、午(うま)の刻(午後零時)の九つ時が自然かもしれません。
※「時そば」はyoutubeに多く収録されていますのでどうぞお楽しみください。
この時に使われていた時刻は江戸以前の「和暦」に基いて不定時法を用いていましたが、明治六年以降太陽暦を使うことになります。
定時法(24時間を均等に分ける)時刻となり西洋式の時計が大量に輸入されます。ところが、
時計があっても、すぐに時計は役に立ちません。
基準時と「時報」が必要だったからです。
日本の基準時間をどうするのか?
教科書では「東経135度 明石標準時」と習います。
この明石標準時は、東経135度の時刻を日本の標準時とすることを定める勅令「本初子午線経度計算方法 及標準時ノ件」が1886年(明治19年)公布され決定します。
英国のグリニッジを基準とした日本の上を通る9時間の時差となる135度とすることになります。
この英国グリニッジ標準時も、国際会議でかなりもめます。
フランスも自国の国立天文台を基準にすることを主張したからです。
1884年(明治17年)国際子午線会議の投票で僅差の結果、英国に決定します。
もし、フランスに決まっていたら 明石では無くなった可能性が高かったでしょう。
1884年(明治17年)以降、一気に国際標準時の整備が世界レベルで推進されます。
二年後の
1886年(明治19年)に明石が標準時地点と正式に決まり、
国際標準時を必要とする国際港に<時報>が求められるようになります。
1903年(明治36年)の3月2日
「横浜」と「神戸」の国際港にタイムボール(報時球)が設置され運用開始しました。
<かなり前置きが長くなりました>
横浜港のタイムボール(報時球)は皮肉にも<フランス波止場>近くにありました。
light横浜絵葉書時報003 現在で推測すると、氷川丸とホテルニューグランドの間、山下公園の中央広場あたりです。
ちなみに横浜のタイムボールは<黒色>で、神戸は<赤色>だったそうです。この絵葉書が赤なのは<手彩色>で目立つことを意識したのかもしれません。

1913年(大正3年) 航海指針 山田正良 編 (海員協会版)
横浜報時球信号手続
1.報時球は日曜日及大祭日を除き毎日本邦中央標準時の正午時(東経135度に於ける平時正午時即ち英国経威平時の15時)に墜下せしむ
2.報時球の位置は北緯35度26分40秒988 東経139度39分零秒330トス
3.報時球の色ハ黒色に塗り櫓は白色とす
4.球は常に下部横木上に据置き正午時約5分前(午前11時55分)より之を上部横木下まで引揚げ東京天文台より電気作用を以て之を降下し始むる瞬時を以て正午時とす
5.報時信号に過誤ありたるとき又は故障の為め該信号を為し能はざるときは球櫓の下桁端に萬国船舶信号W旗を掲ぐ
「横浜報時球信号手続」でも表記されているように作動は
「東京天文台より電気作用を以て之を降下し始むる」
電信により遠隔操作されていたことになります。
<球>が知らせる時刻に合わせて 少し前に上に上がり、ジャストタイムに球が落下するしくみだったようです。港に停泊中の船舶は<望遠鏡>で報時球の落下を待ちます。落ちた瞬間「タイム!」と叫び 船舶内の時計の時刻の誤差確認をしたそうです。
■横浜報時球信号の位置
「神奈川県港務部報時信号所及暴風雨標」神奈川県港務要覧(明治43年)より

【さらに時報の余談】
現在調査中の話も ちょっと紹介してしまいましょう。
本町1丁目にあった町会所(現:開港記念会館)は1874年(明治7年)に竣工し石造亜鉛葺二階建て、一部四階建て延765㎡の壮大な洋館として開港場(関内)のランドマーク的役割を果たしました。特に時計台と時報を告げる音が<寺の鐘>だったそうです。
洋式の建物・時計台に西洋の鐘ではなく寺の鐘!
何故 和式だったのか?知りたいところです。
この鐘 どんなものだったか? 一枚の絵葉書で発見しました。
わかったことはここまで、さらに詳しくは 別の機会に紹介します。

【謎解き横浜】弁慶の釣り鐘は何処に?

20211205更新 誤字修正 画像とリンクを追加

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2月 13

【番外編】川崎駅前は狩猟場だった?

ジャパンパンチ川崎駅この画像は《ジャパン・パンチ》1875年(明治7年)10月号に掲載されていたものだ。[川崎駅]がバックに描かれている。
《ジャパン・パンチ》は
1862年(文久2年)特派員画家だったチャールズ・ワーグマンが横浜で創刊し1887年(明治9年)まで刊行した日本初の風刺雑誌といわれている。ジャパンパンチ表紙1875cotこの記事の舞台は絵の通り川崎駅近辺であることがわかる。風刺画誌なので実際の事件記事なのか、何かの風刺の題材として<川崎駅>が使われたのか資料を類っていないので分からない。
制服警官(仏軍人?)を<狩猟>しているようにも見える。<制服組>への批判・皮肉とも見える。スクリーンショット 2016-02-13 11.01.19キャプション
スクリーンショット 2016-02-13 11.26.32Shooting in Japan
Wonderful sagacity of the dog.
defeat of the Tulrie !
と読めるが
筆記体なので正確にはよく解らない。
「日本での狩猟は 優秀な(猟)犬が素晴らしい。<トーリー>の負け!」かな
???
とりあえず判る範囲で絵柄を眺めてみよう。
川崎駅あたりが狩猟場のような場所であったのか?
好奇心に惹かれ調べてみることにした。
(国鉄川崎駅)
川崎駅は神奈川駅と共に日本で3番目の鉄道駅として1872年7月10日(明治5年6月5日)に開業。
開業した場所は当時の東海道筋<川崎宿>の西はずれだった。川崎市史によると、宿場近くに駅ができたため、宿場は大きなダメージを受けたらしい。川崎駅M14年さらに歴史を遡ると、江戸時代も品川宿と神奈川宿に挟まれた「川崎宿」の経営も大変だったらしい。
現在の川崎駅東口界隈に広がる繁華街は東海道線と街道<砂子(いさご)一帯>を繋ぐような形で発展してきた。川崎駅前明治40年代<明治40年頃の川崎>
一方、駅の反対側(西口)は戦前から大手企業の事業所で埋め尽くされていた。この絵に描かれた<狩猟場>は川崎駅西口だと言えそうだ。横浜行きの汽車の姿も描かれている。
現在のラゾーナのある一帯はかつて狩猟場だったと推察できる。light_8193851ここが本当に狩猟場として使われていたとしたら、流れ弾の危険など<下世話>な心配をしてしまう。

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2月 7

【横浜の橋】№7 大江卓橋2

前回 スタートで「大江橋」の名前の由来からややっこしくなったと書いた。
後段はこの謎となった「大江橋」の由来について探ってみたい。
「大江橋」ほぼ100%、各資料には
「県令 大江卓の名に因んで付けられた」とある。
恐らくオーソライズされたデータの出処が一緒なのだろう。
手元の『神奈川県資料』の範囲では
大江卓は 陸奥宗光にヘッドハンティングされ神奈川県のナンバー3として雇われ、最終的にナンバー2(権令=副知事)として活躍したが、県令にはなっていない。
権令も県令も<県政>のトップであったことは間違いない。表現はどちらでも良い、ゴミのような指摘だ。実は
「大江橋」の人名説そのものに異議を唱えた人物がいた。少なくとも二人。
一人が私も時折通っている「亀田病院」の院長だった故亀田威夫先生。彼のコレクションは有名、忠臣蔵・赤穂義士研究の膨大な資料が現在『亀田文庫』として中央図書館に収蔵されている。
亀田先生は「大江橋」の大江は人名では無いと考えていた。
理由は大正15年発行の大江の伝記「大江天也伝」を調べたが橋の話は一切触れられていない、という事実から疑問を持ったらしい。
この「大江天也伝」は総ページ数862ページで彼が頭角を現した横浜時代も克明に書かれているがこの大江橋命名に関しては全く触れられていないということは「大江橋」の名は彼に因んで命名されていないのではないか。これが彼の主張。
横浜市内の重要な橋に時の<県令>の名を命名するにはそれなりの手続きとセレモニーが必要になるだろう。亀田先生は橋の特集をした「市民グラフヨコハマ」編集部に修正を求めるハガキを書いたがそれが出されることは無かった。
たまたまこの亀田先生の指摘を書いた未投函ハガキが亀田先生ご自身所有の「大江天也伝」に挟まれていたのを発見した人物がいた。
土淵正一郎氏だ。ご本人のプロフィールは不明だが歌麿研究の土淵さんではないかと推察している。土淵氏は改めて調べ直した。
土淵氏の再調査の結果はこうだ。
確かに「大江天也伝」には記載がない。
次に『横浜市史稿』の地理編第六章橋梁に行き着く。
『横浜市史稿』は横浜市が自治制施行30周年を記念し1920年(大正9年)に着手した史料で7つのジャンルに分けている。
この中で

「[明治五年五月神奈川県布達]当港町六丁目より鉄道棚矢来之架渡候大江橋、明日より馬車を除く外、通行許し候には、人力車は吉田橋同様之橋税納候様可致事。」

という記事を発見。
「横浜沿革誌」明治三年五月のところには
「同月、大江橋橋台及柱石建設工事に着手す、工事請負人内田清七 明治五年竣工し大江橋の名称を付す」とある。スクリーンショット 2016-02-07 00.42.48明治五年、1872年は横浜に大事件が起こっていた。
「マリア・ルス事件」だ。この事件真っ最中に活躍した大江卓の名を橋の名にするのは“尚早”ではないか? これが土淵氏の結論となる。
「マリア・ルス事件」
日本がまだ幕末に結ばれた不平等条約の重荷にあえぐ中、横浜港で起こったマリア・ルス事件に対し“日本国の矜持”を示した有名な事件担当が大江卓だった。
少し長くなるが この事件を簡単に整理してみた。
事件勃発直前の出来事
1870年(明治3年5月)
内田清七が大江橋建設に着手(明治5年に竣工)
※明治5年横浜・新橋間 鉄道開通
1871年12月25日(明治4年8月12日)
陸奥宗光 神奈川県知事に就任
同年10月12日(8月28日)
大江卓 民部省で「布告第六十一号」公布に成功
同年12月10日(10月28日)
陸奥宗光、大江卓(民部省地理寮出仕権大佑準席)を神奈川県に引き抜く
同年12月24日(11月13日)
大江卓 神奈川県参事に
※県令・権令不在で事実上の神奈川県トップ
[以下 年号は全て1872年(明治5年)( )は旧暦]
7月9日(6月5日)
中国の澳門からペルーに向かっていたペルー船籍のマリア・ルス号(Maria Luz)が嵐で船体が損傷したため横浜港へ修理の為に入港した。
この船には清国人苦力が231名乗船していた。
7月13日(6月9日)
船内で虐待を受けていた清国人の一人「木慶」が船外に脱出し泳いで港内に停泊中の英国軍艦アイアンデューク号に救いを求めたことから事件が表面化する。
7月14日(8月17日)
大江卓 権令(副知事)に任命
英国在日公使はマリア・ルスを「奴隷運搬船」と認定し領事から神奈川県に通告、清国人救助を要請する。
これを受けた神奈川県は木慶を引き取り、同船長ヘレイラを召還し、木慶を責めないことを条件にその身柄を引き渡したが、船長は約束に反して船内で同人を処罰した。そのため、イギリスはマリア・ルス号を「奴隷運搬船」と判断し、日本政府に対し清国人救助を要請した。

この時の外務卿(外務大臣)が副島種臣
神奈川県令(県知事)が陸奥宗光だったが殆ど県に不在
神奈川県大参事(ナンバー2)の内海忠勝(後の神奈川県知事)は渡航中で不在
神奈川県参事(ナンバー3)に大江卓
事件発生後、神奈川権令(県副知事)に抜擢
(進展)
英国在日公使の要請を受けて外務卿副島種臣は日本に管轄権がある事件だとして、まず外国官御用掛であった花房義質に事実調査をさせた。結果、神奈川県権令大江卓を裁判長として県庁に法廷を開かせると同時に、マリア・ルス号に横浜港からの出航停止を命じ清国人全員を下船させた。
この時、日本とペルーの間で二国間条約が締結されていなかったため日本の法律をペルー船籍に適応するのは外交問題になる危険性を持っていた。
大江卓裁判長の判断は「苦力の虐待は不法行為であるから開放すべき」と判決を下し、一方で船長ヘレイラには情状酌量し無罪とした。
これに対して船長は、移民契約不履行の訴訟を起こしマリア・ルス号事件第二の裁判が行われる。日本政府は領事に臨席を求めることなく裁判を開き8月に契約無効の判決を下し、ヘレイラはマリア・ルス号を放棄して本国に帰還せざるを得なくなった。
※この裁判の中で船長側の英国人弁護人から「日本が奴隷契約が無効であるというなら、日本においてもっとも酷い奴隷契約が有効に認められて、悲惨な生活をなしつつあるではないか。それは遊女の約定である」と主張、日本政府は同年10月に芸娼妓解放令を出すことになった。
結審後
日本政府は日清修好条規第九条に基づき苦力230名を清国側に引き渡し、事件は一応終結した。これには第三ラウンドがあり日本初の第三国ロシア帝国による国際仲裁裁判が開催された。

少々長くなったが外交問題にまで発展したこの事件の真っ最中に果たして<土淵氏説>の通り
表玄関であった横浜駅前の居留地に向かう橋に「大江(卓)橋」と命名するだろうか?
しかも大江は活躍したが建前上は「陸奥宗光」が県令であったのに。
ところがその後(特に大正期)の横浜市が発行する史料は
「大江卓に因んで大江橋と命名」説を採り続けた。現在もこれらを引用している。

参考資料
「マリア・ルス事件」大江卓と奴隷解放 武田八州満 著 有鄰新書昭和56年刊
lightマリア・ルス有隣堂
これにかなり詳しく述べられている。これを読むと
かなりデリケートな事件であったことがわかる。不平等条約撤廃を悲願としていた当時の明治政府は、時に異様とも見える決断を下している。<鹿鳴館>がその象徴的なできごとだ。明治5年頃はまだまだ<未熟な未開国>とされていた日本にとって外交にはことさらナーバス出会ったことは間違いない。
繰り返しになるが 陸奥や大江着任前
鉄道敷設のために明治3年 内田清七が敷地の埋立と同時に橋架設工事も着工していた。果たして<名無し>だったのだろうか?
既に大阪では北区の堂島川(旧淀川)に江戸時代から架かっている現在国の重要文化財となっている「大江橋」がある。市役所・日銀のある中之島を結ぶ橋のことだ。大阪大江橋たまたま一般的な大きな入江に近い「大江橋」とするつもりが
明治後半治外法権撤廃後重ねるように当時のナショナリズムとマッチし「大江(卓)」橋と呼ばれたのではないか?
真相は現在も分かっていないようだ。
【横浜の橋】№6 大江卓橋1

【横浜の橋】№6 大江卓橋1

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2月 6

【横浜の橋】№6 大江卓橋1

今回「大江橋」をテーマにしようと思った。ところがスタートから躓いてしまったのでこのあたりを少し整理しながら「大江橋」を紹介していこうと思う。
長くなるので二回に分けたい。
前段は史実の整理なので後段の方が面白いかも。
■大江橋 誕生
まずは紹介されている「大江橋」のプロフィールから
「大江橋(おおえばし)は、神奈川県横浜市中区の大岡川に架かる、国道16号(尾上町通り)の道路橋である。中区桜木町一丁目と尾上町六丁目とを結ぶ。初代の橋は1870年に開通し、現在の橋は1973年に完成した4代目である。(wikipedia)」
◯初代
1870年(明治3年)新橋〜横浜間の鉄道建設が開始。
内田清七が吉田橋北詰から野毛浦・石崎までの埋立に着手。
※ここから先神奈川までが高島嘉右衛門によって造成。 関内と同様に現在の桜木町エリアは桜川・石崎川と大岡川に挟まれた島状だった。
横浜駅を作るにあたって関内と結ぶ橋が必要であるため
4月に内田清七が着工、5月「大江橋」完成。スクリーンショット 2016-02-06 16.58.54 初代は木造橋であった。
※この年代がPOINTあとで悩みの種となる。
1871年(明治4年)「弁天橋」完成。
1872年(明治5年)本町通・大江橋間にガス灯が点灯
◯二代目
1902年(明治35年)プラットトラス橋スタイルに架け替えられる。light大江橋11904年(明治37年)7月15日に横浜電気鉄道が初めて「神奈川〜大江橋」間に電車開通。
※なぜ?「神奈川〜横浜駅」ではなかったのか?疑問。
1905年(明治38年)7月24日に電気鉄道「大江橋」から大岡川を越え関内エリアに延伸。この時、大江橋の上に軌道を通すことができず、橋に並行して路面電車専用橋が架けられた。light20150710122357_0011915年(大正4年)8月15日
現在の地下鉄高島町駅付近に横浜駅が移転し二代目となる。
初代横浜駅は現在まで「桜木町」駅に改称。
この時鉄道の中心軸は現在の横浜駅方向に移動。
◯三代目
1921年(大正10年)に三代目架け替え工事着工。
1922年(大正12年)7月1日に完成。
横浜電気鉄道の事業を市が受け継ぎ市電となった路面電車の軌道も大江橋の中央部に移されることになる。
「大江橋」は初代から関内のウェルカムゲートの役割を果たしてきた。
※実質、港に近くビジネス街だった弁天通につながっていた「弁天橋」の方が交通量は多かったと思う。
「大江橋」は、(初代)横浜駅に降り立った多くの人を「関内」に招き入れてきたのだが、横浜駅が移動することで、少しずつ軸がずれていかざるを得なかった。
ここで敢えて横浜の中心地に相応しい<親柱>が求められたのか分からないが三代目「大江橋」には橋梁の親柱としては珍しい鷹のブロンズ彫刻「瑞鷹(ずいよう)」が飾られた。img117大江橋
全国の数ある橋の中でもこの大江橋のブロンズ像の威容はすごかったようだ。そろそろ東京との都市間競争(東京港開港問題)が表面化(激化)する中、横浜の力を示したかったのかもしれない。
スクリーンショット 2016-02-06 17.03.07「瑞鷹(ずいよう)」の作者は新海竹太郎(しんかい たけたろう)
慶応4年2月10日(1868年3月3日)〜昭和2年(1927年)3月12日
現在の山形県山形市生まれの彫刻家。
「初め後藤貞行に師事、次いで浅井忠にデッサン、小倉惣次郎に塑造を学び1896年に軍の依頼により北白川宮能久親王騎馬銅像を製作。彫刻家としての第一歩を示す。」「朝倉文夫・中原悌二郎・堀進二など多くの後進を育てた。」
朝倉文夫・中原悌二郎 両人も横浜と深く繋がっていく。
No.355 12月20日(木)瞑想・ザンギリ・赤い靴
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=232 竣工直後 関東大震災が起こる。
「大江橋」は被災しながらも崩壊は免れたが、「桜木町」駅舎を含め周囲は壊滅状態となった。この大江橋から先の関内地区も殆どが灰燼に帰した。lightよこはま絵葉書011 震災復興事業として修復工事が行われ、復活しその後横浜大空襲にも大きな被害を受けず昭和40年代まで現役で活躍する。
戦後の横浜大改造計画の中で「派大岡川」を使い首都高速道路地下化工事の折、架替計画が持ち上がった。
1973年(昭和48年)に完成した現在の「大江橋」はプレートガーダー橋で、両端の歩道の幅が大きく異なっている(理由はわからない)のが面白い。まだ、昔の橋脚跡が一部残っている。スクリーンショット 2016-02-06 16.10.31lightP3040133lightP3040139 (つづく)【横浜の橋】№7 大江卓橋2
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=8234