7月 29

【横浜市電域考】1路面電車の時代

かつて横浜市電が走っていたエリア「横浜市電域」は、横浜が戦後成長の核(地域拠点)となったエリアです。

【横浜橋物語】とも連動しながら 市電の走ったエリアを追います。

lig_P2130007.jpg

★市電の時代
横浜は幕末期に「開港場」から次第に拡張しながら現在の市域となります。

lig_市域拡大

(横浜市の誕生)
1889年 5.40平方キロメートル
(第1次市域拡張)
1901年 24.80平方キロメートル
(第2次市域拡張)
1911年 36.71平方キロメートル
(第3次市域拡張)
1927年 133.88平方キロメートル
鶴見区、神奈川区、中区、保土ケ谷、磯子の誕生
(第4次市域拡張)
1936年 168.02平方キロメートル
(第5次市域拡張)
1937年 173.18平方キロメートル
(第6次市域拡張)
1939年 400.97平方キロメートル
(埋立て増)
2011年 434.98平方キロメートル
横浜市域が誕生してから現在まで、なんと
80倍に拡大してきました。

lig_市域拡大1
<最初の横浜市域>

★行政域と生活域
この間に、区が誕生し5区から始まって18区にまで増えています。
この市域はあくまで行政的な区分でしかありません。
生活圏は行政エリアとは異なったエリアで構成されています。
里山地域、川の流域といった区分です。

lig_流域商店街 <横浜の人気商店街と河川流域を市電域に重ねました>

道(道路)も街道というエリア文化でとらえることができます。
ここでは
「横浜市電域」という行政区分とは異なるエリアを抽出し、このエリアの形成から市電廃止後の姿までを追って見ることにします。

★市の発展と鉄道網
明治早々から市民の足となった電気鉄道は、路面電車・ちんちん電車・市電・都電・府電、最近ではLRTまで長い歴史があります。
残念ながら 横浜市を含め多くの街からは既に消えてしまいましたが、私たちの生活に最も近い鉄道網です。
※現在 改めて路面電車に注目が集まっています。
次々と次世代型の路面電車が登場しています。
横浜市の発展と関係の深い路面電車は、既に形成されていた産業集積地を走ると同時に、新しい住宅地や繁華街を生むキッカケとなっていきます。
今や廃止されてしまった横浜市電ですが、
市電の走った地域「市電域」の歴史を追ってみるともう一つの横浜側面史が見えてきます。

★最盛期
まず最盛期の市電域を図にしてみました。

lig_市電域図

現在の鶴見区・神奈川区・西区・中区・保土ケ谷区・南区・磯子区
以上7区にまたがり1960年前後(昭和30年代前半)頃のピーク時には総延長が約52kmに及び、一日平均30万人を超える乗客が利用していました。
市電が路線地域の重要な市民の足だったことが分かります。

S35市電路線図

★時代区分
路面電車、横浜電気鉄道の歴史を簡単に紹介しましょう。
【創業期】明治37年〜
民間鉄道としてスタートし、最初の市電路線が創設されます。
その後、経営難で横浜市に譲渡され「横浜市電気局」が誕生します。

【復興期】大正12年〜
市電史最大の変化が関東大震災です。
震災で甚大な被害を受けた市電は路線の見直しを迫られます。
同時に、復興事業で道路、橋等の復旧も始まり、街の表情が変わりはじめます。

大正末期から昭和初期にかけて横浜市電が最も拡張した時代です。
最盛期の路線網はこの時期にほぼできあがりました。

【戦後期】昭和20年〜
終戦後横浜中心市街地は米軍の接収を受けますが、市電は市民の足として運行本数を回復し密度をさらに濃くしていきます。

【廃止期】昭和40年〜昭和47年
しかし、モータリゼーションの波は、路面電車の存在を危うくし、渋滞により正常なダイヤ運行も困難となります。
軌道を使わないトロリーバスも導入されますが、最終的に全面廃止が決定し開業から70年の歴史に幕を閉じます。

横浜市電の路線域は1930年(昭和5年)までに開業した路線がほぼ最盛期の9割を占めます。
その後、一部区間が結ばれることはありましたが、
拡張されることはありませんでした。

次回は創業期の(市電)を紹介しましょう。

7月 29

わだじゅんけん 物語

前回から続きます。
少し横浜から 離れます。
松屋中興の祖、内藤彦一は
東京商工会議所の議員をしていた頃、藤沢の鵠沼に1,000坪ほどの土地を別荘地として購入します。
近隣には後藤たま(帝國興信所創業者夫人)邸や、三輪善兵衛(ミツワ石鹸創業者)邸他 政財界の豪邸が立ち並ぶ別荘地でした。
http://kugenuma.sakura.ne.jp
上記サイトを参考に「内藤彦一 邸」周辺の別荘人脈を乱暴にプロットしてみました。
ここには、益田孝をはじめ多くの三井人脈が別荘を所有していたことが解ります。
lig_鵠沼に別荘作家芥川龍之介も
時期は少しずれますが鵠沼雑記に当時の様子を描いています。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/card2328.html
当時、東京商工会議所は生活改善運動を掲げ「生活の簡素化」「住宅難問題」などを活動目標にしていました。
そこで内藤は「生活の簡素化」「住宅難問題」を実践する試みとして、
米国の組立家屋(ブレハブ住宅)を輸入し鵠沼に建てることを試みます。完成までにはかなりの苦労があったようです。シアトルの住宅会社アメリカン・ポータプル・ハウス社(American Portable Houses Co.)の組立家屋(プレハブ住宅)を発注しますが、船便で部材は痛み横浜港に荷揚げされた部材の通関業務にも苦労したそうです。これが日本初期の組立家屋(ブレハブ住宅)といわれています。
※1910年(明治43年)東京赤坂に建てられた藤倉五一邸がツーバイフォー住宅を導入しています。1920年(大正9年)7月に内藤邸は完工し、当時の建築雑誌や「主婦の友」といった家庭誌にも紹介されます。関東大震災で周囲の家屋が殆ど倒壊する中、内藤邸は基礎部分と20cm程度ずれが生じたものの戦後も長く現役だったそうです。この鵠沼 内藤邸を組立家屋(ブレハブ住宅)で建てる企てに一人の建築家が関わります。

彼の名は“和田 順顕(わだ・じゅんけん)”

松屋の成長期を支えた建築家です。
1912年(明治45年)に東京美術学校を卒業し、松屋・鶴屋に勤めます。
明治35年に帝大工科建築学科を卒業した古宇田 實の下で横浜「鶴屋呉服店」社屋建設に携わり建築の腕を磨きます。
その後、1915年(大正4年)に独立し建築事務所を開設します。
鶴屋・松屋との関係は切れず
1917年(大正6年)鶴屋創業者古屋徳兵衛の別荘を手がけます。
これが縁かどうかわかりませんが
1920年(大正9年)に
松屋支配人 内藤彦一別邸を輸入プレハブ材で建てます。
この時に、このプレハブ住宅を日本向けに設計し直しています。
lig_和田2x4設計<内藤邸建設にあたって和田が設計変更した図>
※H22日本大学理工学部 勝原・大川論文より

横浜に関わった多くの建築家の中で
和田 順顕の存在はあまり知られていないようですが
戦前に建てられた「日本郵船ビル」の存在だけでも十分に横浜に足跡を残した建築家としてその名を残していくに値すると思います。
戦後
孤高の建築家、神奈川県庁を設計した1898年(明治31年)生まれの小尾 嘉郎(おび かろう)が1889年(明治22年)生まれの和田 順顕の事務所に
1961年(昭和36年)1月勤めたという記録があり驚きました。
70代の和田 順顕、60代の小尾 嘉郎のタッグは凄かったでしょうね。
何かの折にもう少し調べてみたいエピソードです。

(和田 順顕年譜 ※は作品で一部掲載)
1889年(明治22年)4月21日 石川県金沢市に生まれる
1907年(明治40年) 石川県立第一中学校卒業
東京美術学校予科入学
1912年(明治45年) 東京美術学校卒業
横浜鶴屋 (設計・古宇田實)の工事に携わる
(古宇田實は明治35年帝大工科建築学科卒)
松屋本店工事に携わる。
1915年(大正4年) 建築事務所設立
※ワイキキ公園大噴水塔
1916年(大正5年)
※皇太子及各皇子御用机及椅子 設計
※田守呉服店
1917年(大正6年)
※古屋徳兵衛別邸
※田辺貸し洋館三棟
※森八本店
1919年(大正8年)
※日露戦役記念塔
※三津輪銀行 土浦支店→現在の常陽銀行土浦東支店
  常陽銀行土浦支店その後の土浦東支店?
1920年(大正9年)日本建築学会正員
※内藤彦一別邸
※紅屋菓子店 風月堂北浜店 他
1921年(大正10年)1〜10月 アメリカ各地を研究視察する
1922年(大正11年) 日本建築士会正員に推薦
平和博覧会嘱託
1923年(大正12年) 丸ビル内に建築事務所を設置
※田中源太郎酒造
※風月堂 横浜  他風月堂関係多数
※米津分店(横浜市馬車道)・米津武三郎(米津松造・三男)?
※米津支店(横浜市元町)・原田千太郎(松造・弟子)の可能性も
金沢市建築顧問
1926年(大正15年)
※安田善兵衛 邸 他
1927年(昭和2年)この頃からビル・大型建築設計時代
※日華生命京城支店・日本ビル・尾張屋銀行・日本電報通信社ビル(現在の電通) 他
1931年(昭和6年)
※日本医科大学第一病院 他
1933年(昭和8年)
※箱根登山鉄道 早雲山駅舎及千人風呂 他
1934年(昭和9年)6月 旧濱口吉右衛門邸(大崎)
昭和18年よりタイ王国大使公邸
1936年(昭和11年)8月
→ ※日本郵船横浜支店
lig_日本郵船ビル1936年(昭和11年)
※湘南中学校体育館 風月堂本店
1937年(昭和12年)
※日本郵船横浜支店構内倉庫
※慶應義塾大学医学部特別薬化学教室→信濃町メディアセンター
1938年(昭和13年)
※大日本航空金沢飛行場事務所
1947年(昭和22年) 金沢市建築顧問再嘱託
1952年(昭和27年)
※横浜セントラルビル
1958年(昭和33年) 加賀市建築顧問嘱託
※神奈川県中央児童相談所
※県立茅ヶ崎高校 体育館
1959年(昭和34年) 建築事務所を株式会社とし、代表取締役となる。
※神奈川県庁屋上会議室
1960年(昭和35年)
※横浜市立稲荷台小学校体育館
1962年(昭和37年) アメリカを視察
建設大臣表彰 黄授褒賞
1964年(昭和39年) 勲五等瑞宝章
1977年(昭和52年)12月13日 大磯町の自宅で逝去

今回は、単純に年譜を探し出し 補足しただけです。
神奈川県内に作品も多く(あまり現存していませんが)、
彼の足跡を追ってみても面白いなと思います。
文中でも紹介しましたが
60代にして殆ど個人で仕事をしてきた孤高の建築家、小尾 嘉郎(おび かろう)が
和田の元で晩年仕事をした話も 関心があります。
実は
1919年(大正8年)で紹介した
三津輪銀行 土浦支店→現在の常陽銀行土浦東支店ですが
1990年に福島県勿来から東京まで5泊で歩いたルート上で
たまたま写真に撮った 土浦の風景が残っていました。
lig_ppp041.jpgこれが 「じゅんけん」作の常陽銀行だとしたら 感激なのですが まだ未確認です。
だから【芋づる式余談から駒!】はたまりません。

7月 29

横濱デパート物語(MATSUYA編)

前回「横濱デパート物語」からMATSUYAをピックアップ。

以前、「MATSUYAのDNA」というタイトルで
横浜ルーツのMATSUYA GINZAを取り上げました。銀座MATSUYAは横浜が創業の地です。
No.30 1月30日 MATSUYA GINZAのDNA
ここでは別な角度から創業時の「鶴屋呉服店→(MATSUYA)」を紹介しましょう。簡単な沿革から
1869年11月3日(明治2年9月30日)
初代の古屋徳兵衛が横浜石川町亀の橋に鶴屋呉服店を創業します。
※WikiのMATSUYAの項目では創業日を
「1869年12月5日(明治2年11月3日)」としています。
松屋HPでは1869(明治2)年11月3日と表記されています。
http://www.matsuya.com/co/gaiyo/
他の文献でも1869年11月3日となっていましたので
創業は1869年11月3日とします。
★鶴屋呉服店創業の意義
1869年(明治2年)
横浜に創業という歴史には意義があります。
我が国の百貨店史上多くの老舗は、
江戸時代に創業し店舗を新時代に適応させてデパートに変身します。
「鶴屋呉服店」は、
明治初期、新天地横浜に創業し、横浜と東京で共に成功を収め
最終的に東京でトップ百貨店の名声を得、
現在も維持しています。
MATSUYA GINZAには明治横浜時代の
“先取と独走”の気風があるのではないでしょうか。
→ちょっと横浜に無理振りですが…
※参考資料「百貨店の文化史」(日本の消費革命)
山本・西沢:世界思想社刊1999

1889年(明治22年)
神田鍛冶町の今川橋松屋呉服店を買収し継承します。
買収といっても当時度重なる神田の大火で
大きな被害を受けた「松屋呉服店」再建のために
「鶴屋呉服店」が取引先に依頼され
言い値の13,000円で、従業員18名も居抜きで経営権を得ます。
鶴屋オーナーは、鶴屋の名は使わず
しばらくの間「今川橋松屋呉服店」として営業します。
※神田の火事
江戸時代以来 火事と喧嘩は“江戸の花”などと言われる程頻発します。明治になっても、しばし大火が続きます。
●1881年(明治14年)1月26日午前1時40分頃に出火
「忽ちの内に大和町元岩井町の方に向ツて押し広がり豊島町、江川町、橋本町、馬喰町の方へ燃え移ツて」(読売新聞1881年1月27日付朝刊)
焼失戸数は1万5,000にも及びました。
●「梅若実日記」1892年(明治25年)4月10日
今晩一時三十分ニ小川町猿楽町ヨリ出火。追々大火ニ相成神田今川橋通リ迄焼出ル。二十何ケ町焼ル。
本日午後一時三十分二慎火。四千八百戸程ノ類焼怪我人多シ。

1903年(明治36年)
会社法が整備され、中小の企業は「合名会社」組織を作るようになります。
古屋合名会社松屋呉服店に、
古屋合名会社鶴屋呉服店に それぞれ改組します。

1906年(明治39年)
営業雑誌「今様」を創刊。
→後述
初めて女子社員を採用します。

1907年(明治40年)
鶴屋と松屋のマークを合わせた“松鶴マーク”を導入し、
1978年(昭和58年)まで継承します。
20140118055955932 <松鶴マーク>
今川橋松屋呉服店が三階建洋風に増築し、
東京で初の本格的デパートメントストアと言われました。
→後述
「バーゲン・デー」といった「○○デー」の元祖ともいわれています。

1908年(明治41年)
50銭均一販売専門部署を設置し、均一販売手法の草分けとなります。

1910年(明治43年)
横浜の「鶴屋呉服店」3階建洋館が落成します。

1913年(大正2年)
今川橋松屋呉服店に和服裁縫部が創設されます。
この和服裁縫部が
松徳学園東京ファッション専門学校の前身です。
http://tfi.ac.jp

1919年(大正8年)
「株式会社松屋鶴屋呉服店」を設立します。

1923年(大正12年)
(関東大震災により東京・横濱主要店舗焼失)

1924年(大正13年)
横浜伊勢佐木町吉田橋に鶴屋呉服店が開店します。元は警察署でした。
現在はマリナード地下街入口あたりです。
東京の今川橋松屋呉服店が新築開店、「㈱松屋呉服店」に改称します。
20140118055950e321925年(大正14年)5月1日
銀座3丁目に銀座店が開店し、
翌年銀座本店となります。

lig_松屋呉服店T14開店
<震災後再建した銀座本店>

1930年(昭和5年)
吉田橋の鶴屋呉服店を松屋呉服店に改称。
横浜支店が新築開業します。

1934年(昭和9年)
横浜伊勢佐木町に株式会社鶴屋を設立します。
→株式会社壽百貨店

1946年(昭和21年)
GHQによりPXとして全面接収されます。

1948年(昭和23年)
商号を「株式会社松屋」に変更。

1953年(昭和28年)
横浜支店の接収解除。横浜支店が全館開店。

1976年(昭和51年)
横浜支店が閉店。

1978年(昭和53年)
新Clを導入します。
ligMATSUYA(松屋と横浜)
横浜の商業史というか、百貨店の歴史はそのまま横浜の中心核の移動の歴史でもあります。特に鶴屋呉服店と松屋呉服店の緩やかな関係の中に独創性を競うスタンスは松屋を一流に育て上げた「内藤彦一」(支配人)の百貨店戦略からも伺うことができます。
三越に日比 翁助がいたように、松屋呉服店は「内藤 彦一」が軸となって百貨店新時代を築きます。
1907年(明治40年)に鶴屋と松屋のマークを合わせた“松鶴マーク”を導入し横浜資本の東京の百貨店を内藤は、ハードとソフトから消費者を“あっ”と言わせます。
今川橋松屋呉服店は三階建洋風に増築し、東京で初の本格的デパートメントストアと言われました。
デパート宣言は三越ですが、これぞデパートだと言わしめたのは今川橋松屋呉服店新館でした。
さらに内藤彦一は自ら編集長となり
画期的なPRメディア『今様』を発刊します。
デパートの文化戦略の草分けは「三越」です。明治32年に『花ごろも」を発刊し、その後月刊「みつこしタイムス」「三越」に続くPR誌を発行していきます。
20140118055949af2大阪では高島屋が「新衣装」を明治35年に創刊し、東京では白木屋が発刊し新興富裕層の支持を受けます。
そこに登場した『今様』は、当時記事による商品PRだった既存誌に対し
布地の実物見本を貼付けた、まさに「商品見本カタログ」を業界向けではなく一般顧客に配布します。
「此の数も七十三種の多きに上り、高価なるは“藤波お召し”の七円より貼付けてある。聞けば此のために各種の反物を十何反とか棒にふったとのこと。」と当時の驚きを表しています。(円城寺良)
さらに当時の百貨店PR誌が格調高き“文芸誌”の役割を果たしていました。トップランナー『三越』に勝るとも劣らないレベルに『今様』はグレードアップし、東京の三大百貨店といわれるまでになっていきます。

【内藤彦一】(ないとうひこいち)
1865年7月6日山梨県生まれ。
内藤朝政の長男として生まれ米国に留学し商業・経済学を学びます。
ニューヨークマンハッタン6番街14丁目にあった
メーシー百貨店に勤め経験を積みます。
2014011806053559dhttp://www.macysinc.com
帰国後、鶴屋呉服店に就職し、東京に進出計画を推進します。
松屋呉服店〜松屋百貨店まで支配人、専務として活躍します。その間、東京商工会議所理事。一方で銀座菊水煙草店店主も務めます。
彼にはもう一つの歴史があります。
玄洋社に参加し昭和初期の事件に関わります。
1933年(昭和8年)7月10日に起こった「神兵隊事件」です。事件自体は未遂に終わりますが、
1932年(昭和7年)5月15日(515事件)と1936年(昭和11年)2月26日(226事件)の狭間に計画された一種のクーデターです。内藤は事件発覚後、裁判が始まる前、
1933年(昭和8年)11月17日に亡くなります。
この時代(玄洋社の時代)は、継続して調べているところです。

(さらに)
その間、東京商工会議所理事時代
内藤彦一は、藤沢市鵠沼海岸1-9-24に別荘の土地を譲り受け、画期的な住宅をそこに建てます。
この別荘エピソードにも横浜物語がありました。
【芋づる式余談から駒】で次回に続きます。

7月 29

横濱デパート物語

20世紀はデーパートの時代と呼ばれました。

三越が全国主要新聞に1905年(明治38年)全段広告を掲載し
「店販売の商品は今後一層その種類を増加し凡そ衣服装飾に関する品目は一棟の下にて御用弁じ相成候様設備致し,結局米国に行はるるデパートメント・ストーアの一部を実現可致候事〜」と宣言
“百貨店”の存在を明確にしました。
“百貨店”と呼ばれる大型店が日本に登場したのはこの三越がデパート宣言するよりも前のことですが
この三越によるデパート宣言の凄さは、アートから建築、文学その他文化を総動員した販売戦略の元で
元々江戸時代に呉服店の「越後屋」(ゑちごや)として創業し既に正札販売を世界で初めて実現していたスタイルを明確にしたことです。
今回は、横浜を舞台に店舗進出した「百貨店」を紹介しましょう。
日本橋三越8<日本橋 三越>
大手百貨店の創業時期と場所を簡単に紹介します。
●松坂屋→J.フロント リテイリング株式会社
1611年(慶長16年)名古屋に創業した「えびす屋いとう呉服店」に始まります。
※横浜に関連ある場所→伊勢佐木町
松坂屋06●三越→株式会社三越伊勢丹ホールディングス
1673年(延宝元年)
伊勢松坂の商人三井高利が江戸日本橋本町1丁目にオープンした越後屋呉服店が始まりです。
※横浜に関連ある場所→横浜駅西口
三越18mitukosi.jpg●大丸→J.フロントリテイリンググループ
1717年(享保2年)
下村彦右衛門正啓が京都伏見に作った呉服店「大文字屋」が始まりです。
●そごう→セブン&アイ・ホールディングス
1830年(天保元年)十合伊兵衛(そごういへえ)、大阪に古着屋「大和屋」開業します。
※横浜に関連ある場所→横浜駅東口
https://www2.sogo-gogo.com/wsc-customer-app/page/511/dynamic/top/Top
そごう48●高島屋
1831年(天保2年)
飯田新七が京都烏丸で古着木綿商「たかしまや」を開店します。
※横浜に関連ある場所→横浜駅西口
横浜髙島屋の誕生

●野澤屋→松坂屋
1864年(元治元年)
初代茂木惣兵衛(もぎそうべい)が横浜の弁天通2丁目(現在の神奈川県横浜市中区)で野澤屋呉服店を創業したのが始まりです。
lig_iriku.jpg<入九が野澤屋のマークでした。画像は震災後の仮店舗?とみられます>
※横浜に関連ある場所→伊勢佐木町
lig_松屋があった吉田橋2●松屋
1869年(明治2年)
古屋徳兵衛が横浜石川町に「鶴屋呉服店」を創業し1899年に東京神田の松屋呉服店を買収し、東京に進出、松屋に。
※横浜に関連ある場所→伊勢佐木町
lig_鶴屋22●伊勢丹→株式会社三越伊勢丹ホールディングス
1886年(明治19年)
小菅丹治(こすげたんじ)が東京の神田旅籠町に創業した「伊勢屋丹治呉服店」が始まりです。
●岡田屋(現横浜岡田屋)
1910年(明治43年)10月 岡田宗直が「岡田屋呉服店」を設立したのが始まりです。川崎に創業ですが、その後横浜の老舗として現在も頑張っています。
※横浜に関連ある場所→横浜駅西口
http://www.more-s.com●ピアゴイセザキ店
1919年(大正8年)伊勢佐木町が創業地の「松喜屋」呉服店が
1927年(昭和 2年)伊勢佐木町で創業した古川呉服店→「ほていや」が
1969年(昭和44年)「松喜屋」を買収。
1971年(昭和46年)ほていやを含む数社が合併し、ユニー株式会社となります。
松喜屋からほていや時代にかけて、屋上には遊戯施設が設けられていました。
ピアゴ20

ピアゴ1
<解体前に了解を得て撮影した遊園地看板>

※横浜に関連ある場所→伊勢佐木町

●白木屋
1662年(寛文2年)に江戸の日本橋通三丁目(とおりさんちょうめ)に江戸支店として進出し、「白木屋」を創業しました。
lig_sirokiya
<日本橋白木屋本店>
1956年(昭和31年) 東京急行電鉄グループ入り、後に「東急百貨店」へ。
1999年(平成11年)1月31日閉店へ。
※少し 横浜に関係あり。
白木屋乗っ取り騒動は日本の経営史上に残る経営紛争の一つです。
白木屋乗っ取りを画策した横井英樹は、最終的に五島慶太に高く株式を売切ります。この横井英樹が「ノザワ松坂屋」の株式買い占めを行い、乗っ取り騒動がありました。

ここまで一覧化して
以前ブログで紹介した「MATSUYA」を改めて調べ始めたら
【余談から駒!】
新しく紹介したいネタが【芋づる式】に出てきました。
今日はあっさりここまでにして
→次回へと続きます。 

7月 29

横浜・公園物語

今日は横浜の公園について紹介します。

まず メジャーな公園に関しては
「ヨコハマ公園物語」「横浜山手公園物語」というすばらしい本が出ています。
lig_P1150012.jpgこの本に紹介されている横浜市内の代表的な公園をまず画像で紹介しましょう。
「掃部山公園」
lig_P3219622.jpg「山手公園」
lig_P3271120.jpg「横浜公園」
lig_WV260032.jpg「三渓園」
lig_P6040064.jpg「山下公園」
lig_P9031357.jpgその他「港の見える丘公園」「大通公園」「上海横浜友好園」「臨港パーク」
lig_P6180486.jpgここで紹介された横浜の公園はぜひ一度は訪れてみることをお勧めします。
「三渓園」は有料ですが神奈川県内屈指の日本庭園です。

(横浜の公園概要)
横浜市内には市の管理する公園と県が管理する公園合わせて2,625あります。単純に計算しても1区あたり145ある計算です。(平成25年現在)
※こどもの国は含まれていません。
この2,600の公園の中で多数を占めるのが「街区(公園)」で約2,300弱あります。昔「街区公園」は「児童公園」と呼ばれていました。
横浜市内には
街中の小さな公園から
50ヘクタールを超える規模の公園まで整備されています。
(広い公園ベスト10)
第1位「金沢自然公園」横浜市金沢区釜利谷東五丁目15ー1
第2位「横浜動物の森公園」横浜市旭区上白根町1145ー3
第3位「新横浜公園」横浜市港北区小机町3300
第4位「海の公園」横浜市金沢区海の公園10
第5位「こども自然公園」横浜市旭区大池町65
第6位「県立四季の森公園」横浜市緑区寺山町
第7位「県立保土ケ谷公園」横浜市保土ケ谷区花見台
第8位「三ツ沢公園」横浜市神奈川区三ツ沢西町3ー1
第9位「県立三ツ池公園」横浜市鶴見区三ツ池公園
第10位「舞岡公園」横浜市戸塚区舞岡町1703
※横浜市・神奈川県 緑地資料から

これらの公園、広いだけではなくそれぞれに個性のある公園として整備されています。
「金沢自然公園」と「横浜動物の森公園」は共に動物園のある広域公園です。

第1位「金沢自然公園」公園面積577,593平米
http://www2.kanazawa-zoo.org/service/map/

第2位「横浜動物の森公園」公園面積541,132平米
※現在整備中ですので修正しました。
「横浜動物の森公園」一体は現在整備中で全体公園計画の一部が公開されています。整備途中の公園面積をランキング2位としました。
予定では総面積約103.3haになり横浜最大級の公園になります。
予定面積は動物園(ズーラシア)53.3ha 植物園が50.0haの規模です。
現在の整備公開部分のほとんどが「ズーラシア」として開園しています。
http://www2.zoorasia.org

第3位の「新横浜公園」公園面積535,363平米
どこかお分かりですか?
「日産スタジアム」を含む鶴見川岸の広大な運動公園です。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kankyo/park/shinyoko/b000.html
lig_日産スタジアム
第4位の「海の公園」公園面積470,155平米
金沢区にある総合公園で
「市内で唯一海水浴ができ、春先には潮干狩りが楽しめる、美しい人工の砂浜」です。
http://www2.umino-kouen.net
lig_海の公園看板第5位の「こども自然公園」公園面積464,118平米
横浜市旭区大池町にある広域公園で、個人的にはバーベキューできる都市公園のベスト3に入る環境です。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kankyo/park/yokohama/ko-sizen.html

第6位の「県立四季の森公園」公園面積453,000平米
名称の通り神奈川県立公園の一つです。神奈川県は横浜市内に大きい公園を4つ管理しています。その中の3つがベスト10に入っています。ここは広大な傾斜地に横浜の持つ谷戸の原風景を堪能できる風致(里山)公園です。
http://www.kanagawaparks.com/shikinomori/

第7位の「県立保土ケ谷公園」公園面積340,000平米
神奈川県立公園の一つです。音楽ホールや様々なスポーツ施設が整備されています。
http://www.kanagawa-park.or.jp/hodogaya/
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f6599/p19722.html
lig_kanagawaarthall.jpg第8位の「三ツ沢公園」公園面積300,055平米
横浜市神奈川区三ツ沢に広がる運動公園で、東京オリンピックの会場となり現在も多彩な運動環境を持っています。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kankyo/park/yokohama/mitsuzawa.html
lig_P6201036.jpg第9位の「県立三ツ池公園」公園面積297,000平米
1,600を超える桜の木が咲き誇る総合公園です。
http://www.kanagawaparks.com/mitsuike/

第10位の「舞岡公園」公園面積285,000平米
戸塚区にある広域公園ですが、公園を取り巻くエリアも総合的に保全されていて、公園そのものも大きさよりもスケール感があります。
http://maioka-koyato.jp
lig_P5200469.jpgここまで 横浜市内の広い公園を紹介してきましたが、お気づきでしょうか?
「広域公園」「運動公園」「風致公園」「総合」という区分が公園にはあります。
私たちが気軽に利用している「公園」ですが、この区分・分類となるとかなり複雑なしくみになっていることに驚かされます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/公園
このwikiを読んで「公園」を定義できる人は少数派(一部専門家)でしょう。
■公園緑地は大きく三つに分かれます。
(公園)
営造物公園
地域性公園
(緑地)
地域性緑地
上記の区分の中で、都市公園の領域がさらに細かく区分されています。
◇基幹公園
(住区基幹公園)
街区公園
近隣公園
地区公園
(都市基幹公園) 
総合公園
運動公園
◇特殊公園
風致公園
歴史公園
◇広域公園
◇緩衝緑地等
特殊公園
緩衝緑地
都市緑地
緑道
◇広場公園 他
ここの説明は省略します。
長くなりましたので一つだけ
横浜のスポットニュースを!
全国初の「立体都市公園」が横浜にあります。
どこだかご存知ですか?
lig_アメリカ山公園(撮影時期が造営直後、現在はもう少し変わっています)
※山手に新しくできた「アメリカ山公園」です
今年は 公園巡りをしてみようか と思っています。
小さな小さな街区公園から「お宝」を探し出してみようかと。
今回は解説ばかりで面白みに欠けたかもしれませんが、
近所に変わった公園ありませんか?
(こどもの公園関連ブログ)
No.101 4月10日 薄れ行く災害の記憶

No.215 8月2日 (木)継続は力なり

ちょっと面白公園ネタ
No.133 5月12日 餌の勝ち!(加筆修正)

7月 29

横浜消滅(後編)

私が追いかけているテーマの一つが帝都東京と港都横浜の都市間競争です。
前編で港造り(築港)の視点から東京と横浜の築港競争の歴史を追ってみました。

前回をレビューします。
横浜港は開港以来諸事情で30年間手つかずの状態が続きます。
明治時代に入り、横濱築港計画と同時に帝都東京港の開設計画も持ち上がります。
開港時、徳川幕府が江戸解放※を嫌ったために役割が巡ってきた「横浜」開港の意味合いが明治以降無くなってきたからです。
※単に江戸回避政策だけではなく、横浜が港に適していたことも当時ペリーの測量等で認識されていたので、良港という視点で横浜開港の要因の一つとして挙げることができるでしょう。

明治維新早々から帝都開港(築港)論が浮上しますが様々な条件が重なり、横濱築港・大さん橋造営が実現します。

lig_新港埠頭2
(神戸・大阪)
横浜港は神戸港と比較するには最適です。神戸は横浜同様、大阪とのライバル関係にあります。
簡単に神戸港と横浜港を大阪・東京との関係で比較してみましょう。
(距離)
○神戸・大阪間の距離は?
直線で28km離れています。鉄道距離では33.1kmです。
道路アクセスは33kmです。

○横浜・東京間の距離は?
直線で27km、鉄道で28.8km、
神戸・大阪間と殆ど変わりません。
道路アクセスは東京・横浜間36kmです。
では現在のアクセスコストは?単純計算で
東京ー横浜間は25分で、運賃は450円です。
大阪ー神戸間は25分で、運賃は390円です。(官民共同か国営か)
神戸港の桟橋建設計画は民間資本を導入して1882年(明治15年)「神戸桟橋会社」を軸に進められます。
一方で横浜の横浜貿易商達は「横浜桟橋株式会社」の設立を1886年(明治19年)企画し神奈川県知事宛に設立許可を請願します。
神奈川県(沖守固知事)はこの案を【内務省】に上申しますが却下され、
逆に独自の【内務省案】を提示されたために紛糾し棚上げになってしまいます。
そこに、
【外務省】【大蔵省】【内務省】さらには【逓信省】が横浜港築計画に参入し地元ををも巻き込み(5つ巴?)事態が混迷・膠着します。
横浜港の果たす役割が重要であったことが背景にありますが、神戸との大きな違いは横浜港の貿易量の多さと<帝都東京の存在>があったからです。大阪港と神戸港の築港計画は横浜のような大きな軋轢は無く進行しますが横浜以上に築港の苦労がありました。
少し寄り道になりますが明治・大正期の大阪築港史を眺めてみましょう。
明治維新早々に大阪港の改修計画を手がけたのは
東京港の改修を計画したオランダ人技師G.A.エッセルとヨハニス・デ・レーケの二人です。
本来全国の主力港の築港計画主導権は【内務省】にあり、主要な港湾計画は【内務省】によって進められました。
ところが、東京でも横浜でも彼ら(オランダ人技術者)が示した計画は周到でしたが大幅に予算オーバーで頓挫しました。
再度大阪築港計画のキッカケとなったのが
1885年(明治18年)有史以来とも言われる淀川大洪水でした。
被災人口は276,049人、八百八橋といわれた大阪の橋30余橋が次々に落ち、市内の交通は完全にマヒし大阪は機能不全に陥ります。
http://www.yodogawa.kkr.mlit.go.jp/know/old/flood/bs004.html

治水を含め港湾計画の必要性が官民から持ち上がります。
1890年(明治23年)大阪の経済界は独自にデ・レーケらと天保山エリアの民間ベース築港計画を調査・立案します。
1894年(明治27年)大阪市によって築港計画が策定。
1897年(明治30年)大阪市主導の「大阪港第1次修築工事」の起工式。
1902年(明治35年)境川運河完成。
1903年(明治36年)大阪築港大桟橋が完成し、
公営電気鉄道では日本初の「花園橋〜築港」間に大阪市電築港線が開通します。
大阪は、民間と大阪市主導で構築計画が実施されていきました。
※明治期における全国の築港計画に果たしたオランダ人技術者の役割は大きいのですが、
その後の関係からか、英国の技術者が多く名を残しています。(神戸港)
横浜と似た開港事情を持つ神戸港ですが、築港に関しては技術的に条件が揃わず、神戸港整備は困難を極めます。
神戸港は水深が急激に深くなる特徴から「天然の良港」と呼ばれています。反面、明治初期そこに港湾機能を整備する過程で多大な犠牲と努力が必要でした。
lig_神戸築港計画委員会案特に、神戸を母港とした川崎財閥(松方コンツェルン)の築港への情熱が現在の神戸を築いたといっても過言ではないでしょう。
また、樟脳、砂糖貿易で財を成した「鈴木商店」(日商岩井、双日のルーツ)の存在も、神戸経済の牽引力となりました。
前述の通り神戸港の桟橋建設計画は民間資本を導入して「神戸桟橋会社」を軸に進められます。この神戸桟橋会社設立には五代・鴻池・住友・藤田らが中心になって設立します。
http://www.pa.kkr.mlit.go.jp/kobeport/_know/p6/html/p-1-4.html

(産業構造の変化)
横浜港の港湾機能を拡充するために「新港ふ頭」計画が浮上します。
この新しい埠頭計画にも様々なプランが提出されますが、基本【大蔵省】税関のプランを軸に造築されていきます。
「新港ふ頭」は保税倉庫として「万国橋」で関内を結ばれました。因みに「万国橋」は【大蔵省】が作った橋です。
1905年(明治38年)12月28日に第一期の埋立が完成し、
1917年(大正6年)11月に第二期新港埠頭築港工事が完成します。
lig_大さん橋新港埠頭計画<新港埠頭も幾つかのプランがありました。上記図は横浜税関長案だったそうです>
大正時代とはどんな時代だったのでしょうか?
1912年(明治45年/大正元年)7月30日〜1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までが大正時代です。
この15年は国内外波乱含みの時代でした。
憲法制定後四半世紀がたち“大正デモクラシー”の時代、戦前議会制民主主義が最も安定していた時期ともいわれました。
経済的には、第一次世界大戦による好景気、その後到来する過剰投資による経済破綻、関東大震災による京浜工業地帯の壊滅と緊急輸入の後に景気回復の見通しが全く立たないまま昭和を迎えます。
横濱経済は浮き沈みの激しい「生糸輸出」から加工貿易による「工業化」への移行期にあたります。
明治末期に起こった未曾有の生糸不況は帝国蚕糸(株)を設立し、在庫調整機能を持たせることによってかろうじて乗り切りますが、日本の産業構造は原材料の輸出を元に製品を輸入する構造から、原材料を輸入し加工し輸出する加工貿易にシフトし始めていました。

(京浜工業地帯)
横濱と東京の間に広がる工業地帯を「京浜工業地帯」と呼びます。明治後期から大正にかけて、この京浜地帯に製造業が進出しはじめます。
1891年(明治24年)横濱船渠→三菱造船
1896年(明治29年)横濱電線製造→古河電工
1908年(明治41年)東京電気→東芝
1909年(明治42年)日本蓄音機商会→日本コロンビア
1912年(大正元年)日本鋼管→JFEスチール
1914年(大正3年)鈴木商店→味の素
1916年(大正5年)浅野造船所→日本鋼管→JFEスチール)
1916年(大正5年)旭硝子
1922年(大正11年)小倉石油→日石
1923年(大正12年)富士電機
1926年(大正15年)日清製粉
1926年(大正15年)麒麟麦酒→キリンビール
港湾の軸が次第に東京よりにシフトしていきます。
一方で外国の製造メーカーも横浜に進出します。
1925年(大正14年)2月には日本フォードが横浜市緑町に本社を置き、子安(大阪にも)に組み立て工場を開設し年間1万台体制を築きます。GMもこれにつづき日本進出しノックダウン方式で日本進出を図ります。
対する日本も横浜に1933年(昭和8年)自動車製造(株)を作りこの会社を母体として日産自動車が誕生し1938年(昭和13年)にはフォードを追い抜き年間2万台製産ラインにまで成長します

(生糸独占港)
産業の工業化が進む中、浮き沈みはあるものの生糸関係の輸出はほぼ横浜が独占していました。この独占体制が、横浜港の基盤でした。
ここに関東大震災が起こり 横浜と東京が未曾有の被害を受けます。
横濱市および横浜港最大の危機が訪れます。
生糸関係の貿易は神戸に解放され独占状態ではなくなり
復興計画は帝都中心で組まれていきます。
横浜財界、震災後に赴任した市長は横浜復興のために努力し、復興とダメージとなる東京港開港をかろうじて差止めますが、
1941年(昭和16年)に東京港が国際貿易港に格上げされ、戦争へと歴史の針は進みます。
皮肉にも、この年羽田沖に「羽田飛行場」が開場し、戦後の航空時代の先駆けとなります。
港都横浜は 消滅こそしませんでしたが、多くの障害を乗越えて現在があります。
ここでは戦前の横浜港に関して一側面を紹介しました。
(あとがき)
シンプルな表現を目指しましたが、逆に粗雑になってしまいました。特に後半は史実を端折りました。
ざくっと流れをつかんでいただければ幸いです。
帝都東京と港横浜は鉄道史、道路史からも面白いテーマです。
戦後かなり長い間国鉄は「桜木町」以降の延長を行いません。横浜駅西口の開発も戦後かなり時間が経ってからです。
海から横浜港湾岸を眺めると、戦後関内から高島にそして東神奈川へと都市開発が広がってきました。同時に東京もお台場周辺から隅田川河口に沿って新しいまちづくりが始まっています。
この先、少子高齢化社会に適応したスマートな街として生き残っていくのはどのあたりなんでしょうか?
震災後 昭和初期の横浜に関しては 横浜独特の「ハマのモダニズム」時代と言われています。
いずれこの時代の空気、どんな時代だたのか?紹介していきたいと資料を漁っています。
横浜消滅(前編)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5489

7月 29

横浜消滅(前編)

最近関心のあるテーマが
帝都東京と港都横浜の都市間競争です。どでかいテーマなので、最早くじけそうです。

以前「横浜大さん橋」の歩みを通して横浜港の歴史を簡単に紹介しました。
今日は、港造り(築港)の視点から東京と横浜の築港競争の歴史を追ってみます。
概ね1920年頃までの<震災前>をまとめてみました。
歴史にもしかしたらは無いのですが、大都市横浜がもしかしたら無かったかもしれない転機が「横浜築港計画」に隠されています。

※前編は 明治時代の築港計画初期(第一段階)

lig_開港場

(金がない)
日本が欧米列強の開港要求に応じ、1859年(安政6年)に横浜と長崎、函館の三港が開港します。米国を始め開国を求めた諸外国は最も江戸に近かった「横浜(神奈川湊)」に注目します。

一方、長崎は江戸時代からの国際港でしたが京都・江戸にも遠く、函館は露西亜以外は殆ど関心のない場所でした。

当然開港場としての役割が「横浜(神奈川湊)」に集中してきます。
徳川幕府はたった三ヶ月で開港場の整備を成し遂げますが、国家財政は破綻寸前で新政府に交代することになります。明治政府も資金不足で港湾設備どころではない状態がしばらく続きます。

※最終的に5港開港します。1868年1月1日(慶応3年12月7日)に開港した神戸港は横浜と似た経緯で兵庫津ではなく、神戸に開港場を作ります。

新潟港は1869年1月1日(明治元年11月19日)に開港します。(政情不安)
徳川幕府は現代流に表現すれば“小さな政府”“地方分権”でしたが、疲弊していた幕府財政に加え、経済危機は全国の諸藩まで波及していました。

度重なる財政失敗で幕府崩壊は時間の問題でした。
徳川幕府は“やめた!”と大政奉還を行います。
明治になってすぐに”版籍奉還”が行われ全国の諸藩は領地を返上し
たたみかけるように革命的制度変更の廃藩置県が実施されます。

歴史教科書では一行でしかない「廃藩置県」ですが数百年継続した武士の統治システム、そう簡単に解体できる制度改革ではありません。ところがすんなりいってしまいます。
要因は複数ありますが、多くの藩が、幕末からの財政難に喘ぎ苦しんでいた要因が最も大きいといえるでしょう。
明治政府は江戸時代の徳政令のように、財政破綻の責任は問わないとしたことですんなり廃藩置県が行われます。(一部軋轢は起こりますが)
中央集権を目指す明治政府は第一段階をクリアしますが
租税制度も未熟な状態でしかも藩閥の政争、リストラされた武士の不満の鬱積で政情不安が憲法制定あたりまで続きます。

今にして考えればよくぞ政権が崩壊しなかったな!と思う程の政変ラッシュが明治20年代まで起こりました。(放置された港)

1859年に一応開港した横浜港ですが、開港以来初めて横浜港修築工事が始まる1889年(明治22年)まで30年間、殆ど放置されていました。

小さな船着き場程度の桟橋が二本突き出ている程度で、図版にもあるように小舟で沖の大型船に向かう「横浜港」では貿易もままなりません。

lig_hasike.jpg <1871年暮(明治4年11月)に横浜を発つ岩倉使節団>
「横浜港」は単に資金面や政情不安だけで放置されていた訳ではありません。横浜を代表とする五つの港は、不平等条約の下で関税自主権をはじめ多くの治外法権を抱えていたため、本格的なテコ入れができなかったことも背景として理解しておく必要があります。(横浜経済人の悲鳴)

とはいえ、外国との貿易量は日に日に増加します。

1881年(明治14年)3月23日、横浜経済人が一堂に集まる横浜商法会議所の総会で港整備への不満が一気に爆発します。

「横浜波止場建築ノ建議」を全会一致で決議、

とにかく(大型船の)接岸埠頭を早急に作ってほしい!
という要望書を国に提出します。
文面はかなり過激です。

スクリーンショット 2014-01-10 2.00.24

<商法会議所が提出した建議の一部>

この決議のポイントは、官民共同経営で「官」の出費を減らすから動いてほしいという画期的なものでした。横浜経済人達は、貿易港の管理者で最も埠頭整備を実感していた「横浜税関」にも働きかけとにかく急いでほしいと切実な要求をぶつけます。

(二転三転すったもんだ)
明治政府は近代化を図るために、高額で多くの(お雇い外国人)を雇います。様々な領域に欧米人のノウハウを導入しますが、圧倒的に工部省採用の外国人技術者が多く、当時明治政府が富国工業化に心血を注いでいたか解ります。

ところが、現代まで後遺症となってしまう異なる“モジュール”導入が行われ現場がかなり混乱したことも事実です。
法整備、電力の周波数、鉄道のゲージ、電話交換機…他。
築港に関しては
オランダ人技術者とイギリス人技術者が活躍しますが、この二国決して良好な関係ではないことと、日本国内の政治闘争が築港計画に大きく影響していくことになります。
※築港の技術支援になぜオランダが選ばれたかと言えば、1871年(明治4年)に欧米各国を回り精力的に国外分析を行った「岩倉使節団」の大久保利通がオランダで、築港の重要性を実感し、運河都市でもあった東京の水運整備をオランダ人技術者に依頼したからです。
※英国人技術者は、土木系のインフラ整備を中心に後の工部省が積極的導入を図りました。
冒頭の
横浜商法会議所がしびれを切らすには理由がありました。
横浜・品川間の鉄道敷設は1872年(明治5年)に成功し、東京と横浜の時間が短縮されます。人は盛んに東京・横浜を行き来するようになり、
ニーズに応えるために横浜港の築港計画立案の作業が進められます。
時の大蔵卿大隈重信は太政大臣(総理大臣的存在)三条実美に
とにかく横浜港はこのままではだめだ。大型船が停泊できる“埠頭”の新設を訴えますが、金が掛かりすぎる!ということで却下されてしまいます。
1874年(明治7年)
【内務省】はオランダ人ファン・ドールンに計画書の提出を命じます。
1875年(明治8年)
【工部省】はイギリス人ブラントンに築港計画立案を依頼します。
これらの2案は予算の関係もあり大まかな考え方を示す程度のプランに留まります。
新政府になって10年たっても「みなと」は案だけあって手つかずで
1881年(明治14年)怒りの決議後、内務省が動きます。
1886年(明治19年)
【内務省】はオランダ人雇工師デ・リーケ(Johannes de Rijke)にドライドックを含めた場所の本格的な選定依頼を行い
リーケからはドライドック候補地は「神奈川(湊)エリア」としそこを囲むような大きい防波堤を設ける提案が行われます。

一方【神奈川県】は、
1886年(明治19年)の同じ年
築港の調査と計画をイギリス人技師ヘンリー・スペンサー・パーマー(Henry Spencer Palmer)に依頼します。
近代水道の父である彼は、この年水道工事も佳境に入り、現場の信頼も高まっていた時期にあたります。水道工事と平行して調査も行い
パーマーは1887年(明治20年)に「横浜築港計画書」を県に提出します。

(さあどっちだ)
両者から「横浜築港計画報書」が提出され、どちらかを選択することになりますが、政界を巻き込んだ大騒動に進展します。
大久保さんお声掛かりの【内務省】で主流だったオランダ人技術者からはパーマー案への激しい批判が起こります。
【内務省】は改めてデ・リーケに再設計を命じます。内務省はどうしてもデ・リーケ案で行きたかったのでしょう、パーマーの欠点を指摘しその部分を補うプランをデ・リーケに求めたとしか考えられません。

そして、パーマー案と再構築されたデ・リーケ案が吟味・審査されますが、【内務省】の日本人技術者2名とオランダ人技術者ムルドルによる審査は一致してデ・リーケ案を推します。特に日本人技術者陣はパーマー案のメンテナンスの難しさに着目します。もし防波堤が壊れた時にパーマー案は修復が難しいという点の指摘が残されています。この指摘が後に時限爆弾のように爆発し、内閣総辞職にまでなってしまいます。

直ちに【内務省】のトップ内務卿の山県有朋は当時の黒田清隆首相にデ・リーケ案を元に請議を行います。普通なら、ここまでの手順を踏んで【内務省】デ・リーケ案となるはずでした。
パーマー案は「不経済にして実施が甚だ困難」であり
デ・リーケ案は「経済的に理に叶っていて横浜港の地勢にも適切だ!」まで付記されてしまいます。
ここに新しいカードが登場します。
【外務省】のトップ、外務卿の大隈重信が「まった!」をかけます。
デ・リーケ案ではなくパーマー案を採用して欲しい。と首相に談判します。二ヶ月の議論が行われ、黒田首相は「パーマー案採用」に傾き、【内務省】案を引っくり返します。

(外交手腕)
【外務省】のトップ、外務卿の大隈重信が畑違いの築港に口を挟んできた背景には、冒頭紹介した国際港の関税自主権、ひいては不平等条約の撤廃のための外交カードとして「横浜築港」を使いたかったからです。
単に利権争いなんかではなく、横浜開港場で貿易を一切仕切る外国人商社の活動をしっかり捕捉し課税したい。これは大隈重信と犬猿の仲だった当時の大蔵卿松方正義も共通認識でした。さらに黒田内閣の最大ミッションは「不平等条約」の撤廃ということもあり、米国の「下関戦争基金」も視野に入れ、英国との交渉カードにしたと大隈が考えたとしてもおかしくありません。
単なる政敵闘争で決まりかけていた山形有朋のメンツまでつぶして引っくり返しには、相当の理念がないと難しかったのではないでしょうか。
※「不平等条約と港湾行政」法学会雑誌2006年7月号 稲吉 晃

(東京へ)
開港し政権が変わったことで「横浜港」の役割は終わったと考える人たちが出てきます。帝都(首都)である東京に本格的な貿易港を作るべきだ。その方が合理的だと主張するキーマンが続々登場します。
三井の大番頭「益田孝」、明治の都市計画第一人者「直木倫太郎」、澁澤栄一
言論界では自由貿易を主張する田口 卯吉(たぐち うきち)他が帝都開港の論陣をはります。

前段でテーマとなった
築港に関する【内務省】のオランダ人技術者は、
江戸から近代都市への改造をミッションに来日していました。
当然、東京に機能を集中する提案には賛成します。
明治に入って東京府制が布かれ、
東京湾最大の拠点は東京、だったら最大港は
「東京でしょう」という当然の見解を前面に出します。
東京府知事 芳川顕正は
「横濱ハ埋リ強ク良港ニ非ズ。」
三井の益田は
「今日ノ商売上ヨリ論ズレバ、寧ロ東京ヲ選ムニ如カズ。」
と東京開港論を展開します。
lig_東京築港計画図 1875年(明治8年)約1,900万円という超大型予算が東京築港のために認められます。時の内務卿 (後に横濱築港で大隈にメンツをつぶされる)山県有朋はゴーサインを出します。
※明治の1円は現在の2万円に相当するそうです。
ここが、横濱最初で最大のピンチとなります。
ここで東京開港、品川国際港が実現していたら、
今の横濱港の隆盛は存在していません。

ではなぜ、東京築港計画は実現しなかったのでしょうか?
資料を探る限りでは、横濱側は官民あげての激しい反対運動の成果とされていますが、東京側のニュアンスは政治的敗北と認識していたようです。
また、計画はあれども 予算不足だったことも横濱にとっては幸いしています。
当時日本の港湾整備に積極的だった政治家は大久保利通でした。
彼は 最初、東北の築港を手がけます。
「野蒜築港」(のびるちくこう)と呼ばれる港湾建造事業は仙台湾(石巻湾)に面する桃生郡(現・東松島市)を中心に行なわれました。東北の再生こそが維新以降の不平武士の雇用創出であり、東北物流の要と位置づけます。
この東北計画は災害等で未完成のまま頓挫します。
明治三大築港の一つですが、他の三国港(福井)、三角港(熊本)が成功しここ「野蒜」は挫折してしまいます。
この挫折は後の横濱、東京築港計画が慎重になった理由の一つとなります。

1894年(明治27年)大さん橋が完成します。
その後、横に新しい埠頭「新港埠頭」が整備され、横濱は名実共に日本の表玄関となっていきます。

No.250 9月6日(木)やはり官僚には向かなかった? 

(東京開港)
明治時代は横浜港が経済の中心でしたが、
田口卯吉は経済の視点から「東京開港論」を展開します。
当時は横浜経済中心に日本経済が回っていたこともあり、主論になりませんが、彼の主張が次第に時代の変化とともに東京開港へ傾いていきます。
そして「関東大震災」をキッカケに 横浜は復興から取り残され完全に日本の軸が「東京」に移り始めるのです。
東京と横浜の都市間競争、江戸のあだ花として開化した横浜が明治末期あたりから「東京」と競争を始めます。東京・横浜都市間競争、これが私の2014年のテーマです。
No.347 12月12日(水)横浜自立の原点(後編につづく)

横浜消滅(後編)

横浜消滅(後編)

7月 29

横浜市出身山田太郎くん

山田太郎君
といえば、大ヒット漫画「ドカベン」週刊「少年チャンピオン」連載、水島新司作品の代表作の登場人物です。
好きな「野球漫画」は?
50代は巨人の星、
40代はドカベンだそうですが
この「ドカベン」1972年(昭和47年)から1981年(昭和56年)まで連載されました。
ここに登場するドカベンが山田太郎君です。
実は「ドカベン」最初は柔道漫画だったそうです。私は野球時代しか知りません。
ドカベンの通う「神奈川明訓高校」は神奈川県にある私立高校を想定していますが、果たして明訓は横浜の高校か?という疑問が湧きます。おそらく そうでしょう。
少なくとも山田君は“横浜在住の畳屋さん”だったかな。確認してません。
「ドカベン」に登場する
県内のライバル校には
「横浜学院高校」なんとなく横浜高校らしく感じますが
「東海高校」これは東海大相模でしょう!
「白新高校」神奈川最強と呼ばれる投手、不知火守(しらぬい まもる)擁する最大のライバル校です。(神奈川ではなく作新の江川と同世代なのでこのイメージが被ってしまいます)
ドカベンの画像はありません。ごめんなさい。
以前持っていたコミックも2000年に処分してしまいました。
結構しっかり最後までとっておいたんですがね   。ところで、山田太郎といえば
かなり高年齢の方には通じるかな?
「新聞少年」
1965年(昭和40年)に山田太郎さんの
「ぼくの名前を知ってるかい。朝刊太郎と言うんだぜ?♪」の歌声が全国に流れ大ヒットとなって親しまれました。(世代的には私がギリギリ?)
この「新聞少年の像」が日本大通脇に建っています。しかも長ズボンで!

lig_新聞少年
日本大通りの守り神?

No.157 6月5日(火) 半ズボンより長ズボンでしょ!

私のお気に入りブログの一つです。
ぜひ 再読ふくめ よろしく!現地に行って長ズボン確認してみてください。

7月 29

DOYA!ことぶきの町は。

横浜には日本三大「寄せ場」の一つがある、
あったと言った方が正確かもしれない。

話では知っているが『この地』の歴史と現在を知る人はごく少数だ。特にある時代を刷り込まれた世代には近づきがたい“影”があった。
横浜市中区寿町とその周辺は、東京・三谷、大阪・釜ヶ崎(あいりん地区)と並ぶ日本を支えてきた経済の影のエリアとなったのが「寄せ場」である。
「寄せ場」とは日雇労働者の自由労働市場、青空市場(野外での職業あっせんを行う空間)主に港湾・建設業の職業あっせんする場所のことである。※1
「寄せ場」は別名ドヤ街と呼ばれている。
lig_参考図書※1 『横浜・寿町と外国人』山本薫子 福村出版 2008(ドヤ街)
ドヤ街のドヤは“宿(やど)”を逆さにした隠語から始まった簡易宿泊所の集中エリアを指す。宿の街ではあるが、人が住むような場所ではないと自嘲的に呼ばれ、スラム街と同義語となっている。
横浜市中区寿町にある“ドヤ街”の歴史と現状を調べてみた。
現在、寿町一帯の簡易宿泊所集中エリアには約6,500人が暮らしているが住民登録者数は約3,500人に過ぎない。
日本三大「寄せ場」の中で「寿ドヤ」の特徴は、最も狭いドヤ街エリアであること、簡易宿泊所の“門限”が無いことなどが挙げられる。ピーク時には8,000人以上の“自由労働者”がいた。
東京山谷、大阪釜ヶ崎の“寄せ場”形成には戦前からの地勢的文脈があるが、横浜寿エリアは、突然作られた横浜開港場のように 戦後の空白から誕生した。
また、家族を形成する者も多く、子供たちや女性が多かったことも寿ドヤの特徴であったが、現在は大きくしかも急速に「全ての“寄せ場”」の状況が変化している。ここで簡単に寿ドヤの歴史を追ってみたい。
寄せ場と呼ばれる「寿エリア」は1955年(昭和30年)代以降に形成された。
明治初期に吉田新田「一ツ目沼」と呼ばれた遊水池(沼地)が埋め立てられ、市街地を形成し生糸や材木などの市が並び賑わった。
lig_一つ目沼「寿町」「扇町」「翁町」「松影町」「不老町」「蓬莱町」「万代町」等謡曲の曲名が町名となり「埋地7ヶ町」が誕生する。
lig_S3寿野毛
lig_PA180027.jpg

この「埋地7ヶ町」が激変したのは横浜大空襲だった。
この空襲で甚大な被害が生じたこのエリアを終戦後米軍が接収し住民を排除し「グラウンド、石炭貯蔵所、キャステル・コート(士官宿舎)等」が設営された。
lig_占領時マップ1949
接収は1945年(昭和20年)9月29日に始まり1951年(昭和26年)から徐々に返還されて1958年(昭和33年)に完全返還となったが、転居した“元住民”は殆ど戻ることなく解除後の境界や地権等が不明確な場所に無秩序な建築物が建ち始めた。
さらに、野毛の職業安定所の寿町への移転を契機に戦後の混乱時にスラム化していた“桜木町・野毛”のスラムクリアランスのはけ口として「埋地7ヶ町」が「寄せ場」に変身する。
このエリアが戦後高度成長の横浜経済の負の部分を全て背負うことになる。
アルコール依存症、薬物依存症、結核、糖尿病、肝臓機能障害などの生活習慣病を患っている人が増大、スラム化に拍車がかかる。
1970年代に入り、高度成長に陰りが出てくるに伴い、ここに寄り集まった“自由労働者”には一足早く「高齢化・生活弱者化」が訪れる。
1983年(昭和58年)には横浜浮浪者襲撃殺人事件が発生する。
No.43 2月12日 “浮浪者狩り”現在
自立できないまま6,500人前後が独居しその85パーセントが生活保護を受け、半数が60歳以上の高齢者という「労働者の街」から「緊急福祉を必要とする街」に変貌してしまった。この街「横浜ドヤ寿エリア」には日本社会における深刻な「社会課題」が凝縮されている。1970年代から支援活動が継続して行われ現在、寿町内では30以上の地域団体がそれぞれの特色を活かしてホームレス自立支援を行っていることが救いだが、ひとときの猶予も許されない状況であることは間違いない。
ここには弱者としての在日外国人高齢者が多く、地域が乗越えていかなければならない重い課題となっている。NPO法人さなぎ達
http://www.sanagitachi.com
ことぶき共同診療所
http://kyoudouclinic.com
コトラボ
http://koto-lab.com/KOTOLAB_-_projects.html
コトブキ案内所
http://koto-buki.info/about/

7月 29

横浜史最大級のミステリー?

このブログのネタは歴史的転換期となった横濱開港あたりがどうしても多くなってしまいます。今回も幕末ネタでご勘弁ください。

ただ、私の筆力を除けば“横浜最大級”のミステリーであることは間違いありません。
lig_中居屋重兵衛碑横浜市中区の関内にある“桜通”にひっそりとある記念碑が建っています。
「生糸貿易商 中居屋重兵衛店跡」
中居屋重兵衛(なかいやじゅうべえ)
Wikiでは
http://ja.wikipedia.org/wiki/中居屋重兵衛
「中居屋 重兵衛(なかいや じゅうべえ、文政3年3月(1820年)〜文久元年8月2日(1861年9月6日))は、江戸時代の豪商・蘭学者。火薬の研究者としても知られる。中居屋は屋号で、本名は黒岩撰之助(くろいわ せんのすけ)。」
記述内容も少なく、断片的に史実を表記しているだけで、中々彼の人生は見えにくいようです。
1859年(安政6年4月)に文献に登場した中居屋 重兵衛は、他の群馬商人と共に本町通近辺に生糸関係の店を開きますが、lig_役宅39lig_安政六年中居屋店位置2年後の19611861年(文久元年8月)に店で起こった火事以降、突如姿を消します。
失踪の理由には諸説ありますが、
たった2年の間に開港場で三井の商店を遥かに上回る豪勢な銅御殿の店構えとなり、当時の原善三郎もその他の生糸商も少なからず中居屋 重兵衛の供給する上質な生糸・絹の恩恵を被っていたはずです。
ところが、記録から消えてしまいます。同時代の商人たちの記録にもまるで「箝口令」が敷かれたようです。

lig_201312絵はがき017
<文久二年発行「開港見聞誌」玉蘭斎 貞秀>

たった2年の期間に
いくら一攫千金の商いを求めた“山師”的な商人が全国から横浜に押寄せたとしても、成功の絶頂期になんらかの大きな力が働いたとしか考えにくいために
“陰謀”“暗殺”といった話が中居屋 重兵衛の周辺につきまとったまま時間が流れてしまいました。中でも井伊直弼暗殺の陰の立役者という説は荒唐無稽とは言えかなりの説得力があります。小説としてはすばらしいネタです。
とにかく信憑性のある資料が少ない点も彼を謎の人物にしてしまう大きな理由の一つです。
※実際の中居屋商店は、重兵衛失踪後も細々と続き、1870年(明治3年)に店を閉じたという資料が見つかっているそうです。
lig_P1060002.jpg中居屋 重兵衛に関する研究資料を幾つか読むとそこに意外な側面が見えてきます。
まず中居屋 重兵衛は武器商人であったことは間違いないようです。
上野国吾妻郡中居村、現在の群馬県吾妻郡嬬恋村三原から江戸に出るころ中居屋 重兵衛こと本名 黒岩撰之助は郷里群馬か江戸のどちらかで火薬の製造法をマスターします。
中居屋研究の第一人者である萩原進氏は「炎の生糸商 中居屋重兵衛」(有隣新書)で、大胆にも郷里を訪れた佐久間象山に「群馬」で火薬製造法を学んだ説を採っています。藩の命令で中居屋=黒岩家が火薬製造法を学んだと思われる資料もあり、この辺の歴史的判断は難しいところです。

中居屋 重兵衛が最も才能を現したのが「生糸ビジネス」です。
開港場に江戸を中心に商人が集まりますが、ビジネスコミュニケーションが殆どできない状況下、“一体 何が売れるのか?何を仕入れることができるのか?”殆ど手探り状態で開港場の西半分にニワカ仕立ての商店を建て、手持ちの商品を並べ始めた中でいち早く「これは絹・生糸製品だ!」と確信し
生産現場をおさえ、品質管理を行い一気に開港場への物流を確保した(数少ない)一人だったようです。
居留地でのビジネスは、商店を構えて小売りするのではなく、居留地の外国商館のまとめ買いに対応する“仲買”的な役割が莫大な利益を開港場商人にもたらしました。
居留地の日本人商人たちは“走り屋”と呼ばれ、居留地外国商館のニーズとオファーにいち早く応えることが成功への近道でした。
重兵衛にはその才があったということでしょう。そこには幕府の“掟”破りもじさない強引さもあり、また政商として派手に動き回ることで幕府を含め“敵”も多くなることは当然の結果かもしれません。

「中居屋 重兵衛とらい」小林茂信 皓星社(現在絶版)では、
群馬の生家黒岩家では古くから「ハンセン氏病」=「ハンセン病」を治療する家であり、黒岩撰之助=中居屋 重兵衛もまた、ハンセン病治療の「生き神様」と呼ばれた人物としました。ところが、歴史に残っている癩治療史には一切残っていないというミステリーを解き明かそうと試みた資料です。商人としての中居屋 重兵衛に歴史的資料が皆無でしたが、ハンセン病の専門医でもある小林茂信氏の資料には、傍証が数多く挙げられています。
ところが、この小林説の元となった「中山文庫(資料)」に疑問を持ち、<真贋>追求していったプロセスを描いたのが
「真贋ー中居屋重兵衛のまぼろし」(1998年・松本健一著 原本1993年新潮社刊)です。
著者 松本健一は2014年(平成26年11月27日)
に亡くなった日本近代史・精神史を追求した人物で実際に「中山文庫」の出所先を追います。結論は<贋作>の積み重ねから作られたフィクションと結論づけます。
中居屋がこのハンセン病治療の「生き神様」でなくとも分かる範囲だけでこの時代のパイオニアであったことは間違いありません。

多くの群馬商人の中で飛び抜けて行動力と商才に優れた中居屋 重兵衛は、「絹の道」によって群馬と横浜を繋ぎました。高島嘉右衛門同様、政商のイメージで評価が低くなっているかもしれませんが、高嶋・中居屋 この二人抜きに横浜開港場の歴史は語ることができません。
今後の研究に期待したいところです。

No.302 10月28日(日)全ての道は横浜に 

中居屋重兵衛の墓
lig_中居屋重兵衛群馬碑嬬恋村三原
県指定史跡 1956年(昭和31年)6月20日