10月 30

第975話【絵葉書の風景】横浜港魚釣

横浜沖で釣りの風景。
同じ原版で手彩色が施された二枚の絵葉書画像を紹介します。

手彩色絵葉書 横浜港
手彩色絵葉書 横浜港漁釣

絵葉書は明治期、日清・日露戦争で軍事郵便として数億枚が戦地と本国を流通しました。結果、定額で使える絵葉書は日本人の愛用品となり庶民のパーソナルメディアになっていきます。
オフセット印刷の前は、石版や凹版、凸版が主流でした。
当時、絵葉書はモノクロ中心からそこに手彩色が施されるなど、今では考えられない程、手間がかかっていました。最初の彩色見本を基準に一枚一枚、女性の<職工>が安い工賃で作業していたのです。
彩色時期、版元、担当等によって彩色の雰囲気が変わることから、資料性に欠けるとされた時期がありましたが、現在はそれも含めて時代を読む重要な資料となっています。違った絵葉書を集める、コレクターとしても愉しみの一つです。
手彩色絵葉書は明治後期から大正初期までの間に多く発行されました。

絵葉書に使われる<風景>は現代の絵葉書や観光写真のそれとはかなり違っています。

何故この風景・モチーフとなったのか?
切り取られた風景を読み解く過程で、時代を垣間見ることができます。

(風景)この絵葉書の風景を読み解きます。
タイトルがなければ横浜風景とは一瞬わかりません。
横浜港をかなり沖から見た風景です。
撮影は横浜港防波堤あたりでしょうか。

明治中期の横浜港
手彩色絵葉書 横浜港漁釣

メインは沖に係留して「波止釣り」をする小舟です。
遊漁船のようにも見えますが、判りません。
少し奥に帆舟が一艘。
地平線には全面に横浜岸が広がっています。
左端が山手から本牧の外れ、
右寄りに二代目横浜税関が見えます。

山手遠景

もう少し拡大してみると、山手に双塔の建物が見えます。
恐らく山手カソリック教会の聖堂と推測できます。
海岸線には「横浜港」を利用する大型船が多く停泊しています。船の周りには<艀はしけ>曳船(タグボート)と思われる小舟も確認できます。
大型船は「蒸気機帆船」(推進用の動力として蒸気機関を併用した帆船)が殆どです。

(時代類推)
ではこの風景がいいつ頃撮影されたものか?
■山手カトリック教会双塔は、
 1906年(明治39年)から1923年(大正12年)
■二代目横浜税関庁舎
 1885年(明治18年)11月竣工から1923年(大正12年)
ここから、この風景は
 1906年(明治39年)から1923年(大正12年)に絞り込むことができます。

■海岸通りは拡大してもぼやけていて正確な判断ができませんが、
 大桟橋たもとの測候所や、大桟橋、
 殆ど当て推量ですが、報時球らしき影が見るような気がします。
 というか、この時代なら、仏蘭西波止場あたりに
 報時球が無い訳がない!と思うと見えてくる影も感じます。

 <タイムスケール
このエリアに建造物が完成した時期を確認します。
 ※1894年(明治27年)に大桟橋 完成
 ※1890年(明治23年)グランドホテル(サルダ設計)
 ※海岸通りの報時球 1903年(明治36年)3月から1923年(大正12年)?
「時」の話題(更新)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6945
 ※1905年(明治38年)12月28日には新港埠頭の第1期の埋立が完成。
 ※1906年(明治39年)5月22日には「新港町」が新設され、港湾施設建造が進みます。
 ※1911年(明治44年)から1913年(大正2年)にかけて、国営保税倉庫(赤レンガ倉庫)が建てられます。
 赤レンガ倉庫の高さは約18m ですので、二代目横浜税関と並ぶ存在感があるので、着工前かもしれません。

ということから、この時点でのアバウトな撮影時期の推計は
 1906年(明治39年)から1910年(明治43年)くらいかな!
 
■手前の小舟四艇
 そもそも、明治期から大正期の写真撮影の技術的な課題から、
 船上にカメラを置いて撮影したとは考えにくいので、
 カメラは防波堤の上に設置して、堤防に係留した釣り船をメインに撮影。
 方角は南向き、やや西より向きにカメラを設置したと推定できます。
 構図の中心、四艇の小舟をじっくり観察してみました。
 ・最前列の舟
  船上には四名、何もしていないように見えますが、船尾に網を巻き上げる装置のようなものが見えます。
 ・二番目の舟
  船上には二名、ハッピのような服装で作業中。一人は麦わら帽子。
 ・三番目の舟
  三名の人物が見えますが、釣りをしているようには見えません。
  それぞれ、<カンカン帽>を被っています。
  カンカン帽、素材は麦藁を平たくつぶして<真田紐>のように編んだ麦稈真田で、横浜が生産拠点(特産)の一つでした。明治末期から男性の間に流行したものです。この船上のカンカン帽紳士は、かなり<粋>な釣り人?
 ・四番目の舟
  画面左手に係留中の舟には、三名の人物が確認できます。
  中の一人は女性のようにも見えます。

(まとめ)
 撮影時期:1906年(明治39年)から1910年(明治43年)
 撮影位置:横浜港北防波堤(赤灯台側)内側あたり
 撮影時間:不明だが早朝か
 天候季節:やや北風、曇り。真夏ではない。
 小舟は、網漁の舟と思われる。

10月 23

第974話【横浜の橋】村岡川に架かる橋2

横浜市泉区を源流とし戸塚区の境川に流れる<支流>宇田川と橋を紹介します。
今回は「村岡川に架かる橋」の後半です。
前回は水源の一つである御霊神社から泉区内の中田橋あたりまでの宇田川に架かる主な橋梁を紹介しましたが、タイトルを「村岡川に架かる橋」としました。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=8603
パート1でも触れましたが、この宇田川
元々「村岡川」と呼ばれていました。
大正期に河川改良に尽力した宇田さんにちなんで「宇田川」となった、という説明になっています。
ところが泉区エリアでは「宇田川」の表示が極端に減り「村岡川」表示が散見します。

村岡川源流

●なかだ村岡川愛護会掲示板
この川は(水源より下流中田橋まで)なかだ村岡川愛護会が美化活動をしています。 みなさんのご協力をお願いします。 みんなの川だよ きれいにね。
 (なかだ村岡川愛護会、泉土木事務所)
<村岡川愛護会>としている看板が印象的でした。

なかだ村岡川愛護会

宇田川 みんなで育てよう きれいな川
 (中田町々内会、横浜市下水道局)

●「かばた橋」名称の由来
この橋の名称の由来は、4000年〜5000年前の縄文中期に、 この地に住んでいた狩猟民や漁労民の利用したと思われる土器片が多数出土している「かばた遺跡」が 戸塚苑付近にあったとされているところからこの名が名付けられたと言われています。 その後、この橋の上・下流11の橋に暦月の名称がつけられました。 また、平成7〜8年土の高欄の再整備の際に、暦月にちなんだ花を描いたデザイン高欄として整備しました。 これらの橋が皆様にとっても親しまれるものとんるよう望んでいます。
(至汲沢中学校) 睦月橋〜如月橋〜弥生橋〜卯月橋〜皐月橋〜水無月橋〜かばた橋〜文月橋〜葉月橋〜長月橋〜神無月橋〜霜月橋 (至みなみ総合センター)
 (横浜市泉土木事務所)

ここでも「宇田川」の一言も表記されていません。

でも不思議なのが、
大正期に河川改良に尽力した宇田さん
により河川名が変わったと資料には書かれていますが、
明治期の地図でもここ戸塚エリアは「宇田川」と表記されています。
もう少し資料を探る必要があるでしょう。

(泉区内の橋)
水源(御霊神社)<この間暗渠と名のない橋多数>
広中橋、中下橋、霜月橋、神無月橋、長月橋、葉月橋、(中田幼稚園専用橋)、文月橋、かばた橋、水無月橋、皐月橋、卯月橋、弥生橋、如月橋、睦月橋、中田橋

(戸塚区内の橋)
右岸側は横浜市の地図で目を引く区境円形空間があります。
ここは米軍の戸塚無線通信所で、現在は返還されました。元々、日本海軍の通信基地だったものです。

深谷通信基地
深谷通信基地に残る看板

<支流:第一中汲橋>
<支流:汲橋>
<支流:井戸尻橋>
<汲沢中用?>
川向橋
的場橋
殿山橋
<支流:小無行橋>
(河川局)不明橋※まさかりが淵市民の森用?
ここには「鉞まさかりヶ渕」と呼ばれる幅約八メートル、高さ約三.五メートルの滝があります。

■まさかりが淵市民の森
 「きこりの彦六が木を切っている最中に、まさかりを誤って淵に落としてしまった。すると滝の主の美しい女性が現れ、彦六を滝の庭の方に招いた。彦六は数日滝の庭で女性と過ごす。女性と別れるとき絶対にこのことは他言しないと約束する。しかし女性と別れ、家に帰ってみると、家のものは自分の三回忌を行っていた。驚いた皆に、彦六は約束を破り滝の話をしてしまった。すると彦六はその場で死んでしまった。それからこの淵をまさかりが淵と呼ぶようになったと言う。」(まさかりが淵の民話)

村上橋

深谷橋

専念寺橋
宮前橋

宮下橋
前田橋
道下橋
根先橋
新深谷橋

韮橋
芙蓉橋
ふれあい橋(人道橋)
宇田川橋
橋の名前はどうやって決まるのか、時の事情でいろいろありようですが、
川の名を橋の名にする場合、たまたま偶然かもしれませんが、
河口に近い橋が命名されているように感じます。
帷子橋も埋立前の河口付近
鶴見川橋は河口ではありませんがかなり河口近くです。
大岡川橋梁は現在「北仲橋」になっていますが、河口に架かっていました。

(支流:谷戸川)
このあたりから(旧)横浜ドリームランドのホテルエンパイア(現在横浜薬科大)が良く見えます。
No.48 2月17日 さよならYDL
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=573

(境川合流)

(参考資料)
■主な市内の河川リスト
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?page_id=11913

10月 22

第973話 【駅から路上観察】京急神奈川駅から白楽まで。

今回の狙いは、私が世話人をしている「横浜路上観察学会」の例会レポートをアップします。基本参加時のリアリティを大切にしているのであまりレポート系はしないようにしていますが、街を紹介する良い情報源でもありますので
いくつか紹介していくことにしました。
□2018年10月に開催しました京急神奈川駅から白楽ルートから

今回のルート図

谷戸にひだ状に広がる横浜の典型的な稜線越えを楽しみます。横浜の地形は、俯瞰してみると鶴見エリアを除き、多くが襞のような凸凹の連続、小河川が葉脈のようになっているのが判ります。この葉脈の一つの<稜線>を歩きました。

横浜の水系

出発駅は京急「神奈川駅」です。
神奈川駅は、京急全駅中、最も乗降客数の少ない駅で2017年統計では一日あたりの乗降客数が4,637人、お隣「横浜駅」が堂々の第一位で323,668人規模ですので
神奈川駅は70分の一の規模です。距離も近くすぐに<廃止・合理化>対象駅ですが、それでも駅を統廃合しないのは、この駅が京急にとっても、東海道の歴史を語る上でも重要な<鉄道遺産>だからでしょう。

その証として神奈川駅の外観はなかなかの風情です。
早速
神奈川駅前で路上観察的不思議発見???
沿線上 最下位の乗降客数にもかかわらず、しかも時代が電話ボクス廃止傾向の中、駅前には公衆電話ボックスがなんとWで設置。共に現役です。

さあ、ここから丘陵を越えてみましょう。
“小河川”は丘陵地から小さなわき水などが集まり少しずつ水量を増やしながら川に成長していきます。都市化された小河川はかつての<林>を失い、宅地化されることで水量を一気に減らします。横浜のように水源地から河口までが短い河川は、雨が降ると暴れるきまぐれ河川が集中しています。
小暗渠も集中しているので 観察場所としては魅力たっぷりです。
「神奈川駅」から東海道本線を越える「青木橋」を渡ります。
そこには、幕末にアメリカ領事館があった青木山「本覚寺」があります。この青木山一帯は高台を表す”台町”と呼ばれ、かつては神奈川湊を見下ろす景勝地として高島嘉右衛門の邸宅があったことでも有名です。
この丘の下をトンネルで東京急行電鉄「東横線」が走っていましたが、地下化にともない使われなくなった<トンネル>を活かした「フラワー緑道」として遊歩道になっています。
ここでは音の響きが心地よいです。

フラワー緑道

(滝の川)
神奈川区には「滝の川」という準用河川があります。現在は東海道線の橋脚より下流部分しか見えませんが、かつてはこの地域の重要な産業河川でした。河口域は中世から重要港であった「神奈川湊」となり、水運は勿論、大きな漁業拠点でした。江戸時代は「滝の川」河口東海道の「神奈川宿」であり、幕末期には開港を求められた湊です。
地形図を眺めると一目瞭然ですが、
今回のコース
栗田谷・旭ケ丘・二本榎・斎藤分・中丸・六角橋エリアは、大きく二つに別れた「滝の川」の分水嶺であることが判ります。
仮に北滝の川(六角橋方向)と南滝の川(三ツ沢方向)と分けておきます。
この二つの流れは、東神奈川スケートリンクあたりで合流します。ここにはかつて「境橋」が架かっていました。橋の名残が残されています。

二つの滝の川が合流する境橋
境橋から上流が暗渠化。右が六角橋方向、左は三ツ沢方向へ

南滝の川<暗渠>道路です。川の雰囲気が残されています。
ここから丘陵を登っていきます。
横浜市立栗田谷中学校が右手上に見えてきます。
壁際に穴を埋めた痕跡が。レンガや大理石も混じっています。震災時の瓦礫を埋めたのでしょうか?
栗田谷中学校は1949年(昭和24年)にこの場所に移転したようです。

希望橋橋脚

(希望橋 橋脚)
栗田谷中学校は 道路を挟んで校庭があったので生徒たちの安全を考えて谷間部分に橋を架けました。希望橋と呼ばれ、つい最近までありましたが、耐震構造上の理由からか、廃止され、橋脚のみ残っています。
路上考古学的にはとても興味ある残骸です。
(通信用鋼管柱)
電柱と聞くと一般的にコンクリート製のものが思い浮かびますが、地域によっては金属製の電柱もよく見かけるようになりました。道路が狭かったり、傾斜地には最近良く使われるようになっています。電柱を<路上観察>するだけでも色々発見があります。
ほとんど無くなったクラシックタイプの<木製電柱>も探しどころです。

金属製の軽量電柱

(昭和の香り)
路地裏を歩いていると、昭和に出会います。戦後横浜が急膨張した時期に、住宅街や商店街が数多く完成しました。この急膨張時代の名残が、路地裏に残っています。
神奈川区は戦前戦後を通して住宅街として成長してきた街なので、一軒一軒の住宅の佇まいを観察するだけでも、戦後個人住宅史を垣間見ることができます。
(ノラ)
野良猫の生態も地域特性を表しています。賛成反対いろいろあるでしょうが、この地域ではノラがのんびり過ごしていて、ビクついていません。地域に馴染んでいる証拠です。

(善龍寺)
宿遠山善龍寺、この地域に古くからある浄土真宗のお寺。元々は真言宗でしたが、建長5年(1253年)に浄土真宗寺院として中興されました。
新編武蔵風土記稿では
「斉藤分にあり。浄土真宗西本願寺の末寺なり。宿遠山と号す。開山のこと詳ならず。古は真言宗なりと云。本堂七間に六間半、巽向なり、本尊阿弥陀を安ず。木の立像にして長二尺五寸なり。
鐘楼、門を入て右にあり。鐘に正徳年中の銘文あり。」
この浄土真宗寺院として再興した人物が<斎藤兼実>という人物で、この斎藤さんの<知行地>を 斎藤さんの”分”ですという地名が現在でも残っているという説があり、もう一方で斎藤式部入道なる武士がこの地を治めたところから斎藤分となった!

というなかなかの時代(中世)を実感できる場所です。(それぞれ根拠不詳)
この善龍寺には「五代目一龍斎貞丈」の墓碑があります。講談と横浜の関係を知る上でも重要な人物です。
(神奈川大学付近)
少し歩くと、神奈川大学キャンパスが見えてきます。ここは隠れ通学路(東神奈川駅)らしく学生が多く歩いています。
神奈川大学と付近に関しては 色々面白いネタがあり、別テーマで紹介したいところです。
ちょっと飛ばして、
一山越えて、
「北滝の川」に出ます。ここからは細いけれども実に暗渠らしい遊歩道が、六角橋商店街の裏まで続きます。途中、暗渠ならではの階段、マンホール、壁があるので、路上観察的には発見の多い場所です。
さて、終着点六角橋に到着しました。
ここまでの行程で約4キロくらいでした。

六角橋周辺は路上観察の宝庫。路上博物館ともいえる空間です。
変な発見がたくさんあります。
スタート時のツイン公衆電話が なんと!ゴールの六角橋にも。
ここではボックスではなく、据置型でした。まだまだ需要があるんですね。

路上観察を始めると
普段は見逃しているものが<見えてくる>
路上が気になって気になって仕方なくなります。
くれぐれも事故のないように!
今回はこれでおしまい。

10月 15

第972話 白秋の横浜

前回に引き続き
白秋を追いかけます。
北原白秋の門下生「薮田義雄」がまとめた「評伝 北原白秋」
には何箇所か横浜に関する記述がありました。
薮田義雄
「(やぶた よしお、1902年4月13日‐1984年2月18日)神奈川県小田原市生まれ。小田原中学三年の時、その地に住む北原白秋の門人となる。法政大学に学ぶ(卒業したかは不明)。詩のほか、白秋の初の本格的伝記などを書いた。wikipedia」

ここでは一章を使って「所謂 「桐の花事件」の真相」について書いています。
一般的には、北原白秋が「姦通罪」で訴えられ、約二週間収監されその後放免された事件前後に作った作品集が「桐の花」。
当時、スキャンダルネタとして大きく取り上げられたこともあり、白秋の評判が一気に落ちたという彼の人生最大の逆風期でした。
引越し好きという表現が適切かどうかわかりませんが、白秋はとにかく転居の連続でした。
1912年「桐の花事件」のあった年の数年前に遡ってみます。

1907年(明治40年)5月千駄ヶ谷に転居。年末牛込北に転居。
1908年(明治41年)10月に神楽坂二丁目
1909年(明治42年)10月本郷動坂
1910年(明治43年)2月牛込小川町
 9月青山原宿に転居。
1911年(明治44年)2月木挽町で下宿生活を始める。
  9月<旅館住まい>
  年末京橋新富座裏に転居。
1912年(明治45年)1月浅草聖天横町
 5月越前堀に転居
★7月姦通罪で告訴
★8月10日の公判で免訴放免。
この事件前後の作品をまとめたものが「桐の花」でした。
[刑法旧規定第183条 姦通罪]
① 有夫ノ婦姦通シタルトキハ2年以下ノ懲役ニ処ス 其相姦シタル者、亦同シ
② 前項ノ罪ハ本夫ノ告訴ヲ待テ之ヲ論ス 但、本夫姦通ヲ縦容シタルトキハ告訴ノ効ナシ
※夫ノ告訴ヲ待テ之ヲ論ス
(事件の顛末)
 白秋が1910年(明治43年)牛込から青山原宿に引っ越した隣家に
 国民新聞社写真部に勤める松下長平、その妻 俊子が住んでいました。国民新聞とは、徳富蘇峰が1890年(明治23年)創刊した日刊新聞で、明治後期から大正初期にかけて政府・軍部とのつながりが強くなり政府系新聞の代表的存在となります。
隣家の松下俊子(旧姓福田俊子)と北原白秋の
<禁断の恋>というのが当時の醜聞となり、メディアの格好の材料にされました。
新聞は「詩人 白秋起訴さる 文藝汚辱の一頁」と書き立てます。
真実はわかりませんが、傍系資料などから、当時の理不尽な夫が浮き彫りになってきました。新聞社写真部に勤める松下長平なる人物から妻の俊子は今で言うDV(ドメスティック・バイオレンス)を受けていました。
さらには夫には愛人(妾では無く?)がおり、間には子供がいました。
俊子が妊娠・出産するなか、DVが続いたことと、俊子自身が詩歌に関心があったことなどから、出会った「北原白秋」への思いを膨らませます。
この頃、白秋は極貧生活と体調不良の中、上田敏に作品を絶賛され、一気に詩壇に登場します。旅館住まいから京橋新富座裏に転居、浅草聖天横町、越前堀と短い間に数回転居する中、二人の思いが募ります。
どんなにひどい夫でも<姦通罪>は「夫ノ告訴ヲ待テ之ヲ論ス」しかなく、今から考えればすごい時代でした。
冒頭の参考にした「評伝 北原白秋」では、二人の思い、関係を詳細に資料から分析しています。
二人の<ふしだらではない恋>は姦通罪で罪となり、彼女は離縁、故郷の伊賀に帰り、白秋は死に場所を求めて彷徨し、三浦三崎を訪れたりしていました。
この<三浦三崎訪問>が後に白秋一家がこの地に移るキッカケにもなっています。
私はもう一つ、時代背景も少し加味してみました。
1912年(明治45年)1月浅草聖天横町
 5月越前堀に転居
★7月姦通罪で夫松下長平が告訴。
☆7月30日 明治天皇 崩御。大正時代へ。
★8月10日の公判で免訴放免。
近代日本が初めて天皇の死を迎え、一世一元の大正を迎えた時期にあたります。
坂野潤治の説く明治近代化の軋轢が再編成の欲求として噴火した「大正政変」が起こった1910年代は税制・経済、外交・軍備、護憲・藩閥等の多元化欲求の衝突の時代でした。

一連の<姦通罪>で離れ離れになった二人は、大正2年になり
劇的な再会をします。
伊賀に戻ったはずの福田俊子が横浜南京町(中華街)で暮らしていることを白秋は知ります。
白秋は彼女を迎えに行き、家族の了解を得て正式に結婚し、居を三浦に移します。
ここで生まれた詩が「城ヶ島の雨」でした。
https://www.youtube.com/watch?v=ZI4ebUR2hLU
評伝では
西村陽吉の回想録から
白秋は本牧三渓園の通りに面した桜並木に<隠れ家>があったと書かれていました。
「本牧で電車を降りて海岸の三渓園まで行く道は、両側に桜が植わって、(中略)三渓園の通りには、おでんや団子や目かつら風船玉などを売る露天が並んで、白秋の仮寓は、そのにぎやかな通りの中の、茶店のような家だった。」
この時期が大正2年4月ごろと推理しています。
1906年(明治39年)5月から三渓園外苑が一般公開されるようになり、桜の季節は特に多くの見学者が訪れるようになりました。
1908年(明治41年)には「横笛庵」が完成し、梅林も整備され”梅の三渓園”としても有名に。
1911年(明治44年)12月26日に元町(西ノ橋)から本牧原町(三渓園)まで横浜電気鉄道本牧線が開通し、さらに多くの人が三渓園を訪れ横浜最大の行楽地になっていきます。
この時期に、俊子とその子供が三渓園近くで白秋と共に暮らしていた時期があったことは驚きでした。この暮らしぶりを詠った詩歌を探していますが、まだ未明です。

桜並木で有名な三渓園通り
大正初期の三渓園 園内か?

昭和初期の三渓園付近

その後、妻俊子とは貧困も影響し離婚し、白秋はまた一つの転機を迎えます。
この先の白秋に関しては、触れませんが、作曲家山田耕筰と組んで多くの校歌を手がけています。その中で神奈川県内の学校は三校あります。
■神奈川県立湘南高等学校
http://www.shonan-h.pen-kanagawa.ed.jp/zennichi/gaiyo/kouka.html
■神奈川県三浦市立三崎小学校
http://www.city.miura.kanagawa.jp/kyouiku/misaki/documents/e-misaki-kouka.pdf
※PDFがダウンロードされます。
■川崎市立川崎小学校
http://www.keins.city.kawasaki.jp/2/ke202001/

10月 15

第971話 白秋・白雨・柊二

今回は横浜との細い線を結びながら、一人の詩人を追いかけます。
北原白秋。
戦前の詩歌界を代表する北原白秋は母の実家である熊本県玉名郡に生まれ、江戸時代から続く柳川の商家で育ちました。
彼が作った多くの詩の一編は今でも多くの人の記憶に刻まれています。
神奈川の地にも暮らし、小田原・三崎での創作活動では精力的に作品を残しています。
北原白秋はその57年の人生に幾つかの転機を迎えますが
最初の転機は、青年期の多感な時期に一人の親友を失ったことでした。
白秋。
”白”に込めた仲間の一人に「白雨」と名乗った友人中島鎮夫がいました。19歳の時、中島白雨は自ら命を絶ちます。
以来、北原は”白秋”と亡くなるまでまで名乗り数多くの作品を残しました。
彼の最初の転機とも言える中島白雨の死について
詩集「思ひ出」の一節で鮮烈な詩を詠っています。
20歳前の少年の<激しい悲しみ>が込められた詩です。
長くなりますが、紹介します。
●「たんぽぽ」
「わが友は自刄したり、彼の血に染みたる亡骸はその場所より靜かに釣臺(つりだい)に載せられて、彼の家へかへりぬ。附き添ふもの一兩名、痛ましき夕日のなかにわれらはただたんぽぽの穗の毛を踏みゆきぬ。友、年十九、名は中島鎭夫。」

あかき血しほはたんぽぽの
ゆめの逕(こみち)にしたたるや、
君がかなしき釣臺(つりだい)は
ひとり入日にゆられゆく…………

あかき血しほはたんぽぽの
黄なる蕾(つぼみ)を染めてゆく、
君がかなしき傷口(きずぐち)に
春のにほひも沁み入らむ…………

あかき血しほはたんぽぽの
晝のつかれに觸(ふれ)てゆく、
ふはふはと飛ぶたんぽぽの
圓い穗の毛に、そよかぜに…………

あかき血しほはたんぽぽに、
けふの入日(いりひ)もたんぽぽに、
絶えて聲なき釣臺の
かげも、靈(たましひ)もたんぽぽに。

あかき血しほはたんぽぽの
野邊をこまかに顫(ふる)へゆく。
半ばくづれし、なほ小さき、
おもひおもひのそのゆめに。

あかき血しほはたんぽぽの
かげのしめりにちりてゆく、
君がかなしき傷口に
蟲の鳴く音も消え入らむ…………

あかき血しほはたんぽぽの
けふのなごりにしたたるや、
君がかなしき釣臺は
ひとり入日にゆられゆく…………

親友、中島鎭夫は何故自殺したのか。
秀才中島鎭夫は、早くからロシア文学に関心を抱き、独学でロシア語を学んでいました。この時期、皮肉にも日露戦争勃発と重なり、中島には事実無根の”ロシアスパイ容疑”がかけられます。しかも通報者は学び舎の教師だったそうです。
1904年(明治37年)白秋は故郷を捨て上京します。

北原白秋に関して私は、有名な詩歌をいくつか知る程度でした。横浜との関連も殆ど無いと思っていましたが、彼をさらに知るようになったのは白秋の門下生であり横浜に暮らした歌人、宮柊二(みや しゅうじ)との接点からでした。
No.33 2月2日 歌人が見上げた鶴見の空
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=590

横浜市鶴見区鶴見で暮らした宮柊二は、大正元年、新潟県魚沼の書店主の子として生まれ、白秋のように20歳で家業を捨て東京中野に移り、職を転々とします。
縁あって1935年(昭和10年)に白秋の秘書となります。目を患った晩年の白秋の口述筆記を担当するようになりますが、まもなく白秋の元を去り、川崎の大手鉄鋼会社「富士製鋼所(のちの日本製鉄)」に勤めることになります。
そして結婚を期に、鶴見に居を構え保土ケ谷疎開、召集を含め17年間を横浜で過ごします。出征し、会社員として働きながら歌人としての活動を続け、最終的には歌人として独立し労働者の視点で多くの詩を残しました。

では
北原白秋と横浜の接点といえば?
神奈川県の三崎、小田原での暮らしが彼の歌人生活で良く知られたことですが、横浜との接点はあるのだろうか?
と白秋の生き様を追ってみると、意外な横浜での接点がありました。
前置きが長くなりましたが、
今回は北原白秋と横浜の細くも劇的な接点を紹介、
する前に、白秋の人生はジェットコースターのような激変の連続、極貧と名声の中で数十回にも及ぶ<引っ越し>生活を送りました。
結婚は三度、都度相手の女性も彼にとって大きな転機となっています。
年譜をさらっと眺め、最初に気がついた「横浜」は
大正14年に横浜港から樺太・北海道に視察旅行へでかけたという記述です。
北原白秋のエッセイ「フレップ・トリップ」から
〈フレップ〉はコケモモ、ツルコケモモ、〈トリップ〉はエゾクロウスゴ
『(1925年(大正14年)8月)当の七日の正午には、私は桜木町から税関の岸壁を目ざして駛っている自動車の中に、隣国の王やアルスの弟や友人たちに押っ取り巻かれて嬉々としている私自身を見出した。それから高麗丸の食堂ではそろって麦酒(ビール)の乾杯をした。一同で選挙した団長が日露役の志士沖禎介(おきていすけ)の親父さんで、一等船客の中には京大教授の博士もいれば、木下杢太郎(きのしたもくたろう)の岳父(しゅうと)さんもいる。』
ここに登場する沖禎介は下記の番外編で紹介しています。
番外編【絵葉書の風景】ハルピンの沖禎介
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9546
彼の横浜時代は資料がありませんが、興味がある人物の一人です。

この旅行は、鉄道省が主催したもので、沖禎介の父親「沖荘蔵」氏を観光団長に選び、約二週間の旅でした。
戦前の国際港といえば、東日本は横浜でしたので、多くの渡航者が横浜港を訪れています。ワタシ的には弱い横浜ネタでした。
今回「評伝 北原白秋(薮田義雄)」に目を通す中、
横浜が登場する
「所謂 「桐の花事件」の真相」という謎めいたタイトルの中で触れています。
次回に紹介します。