11月 23

第866話 横浜川崎市境合戦 その1

国盗り合戦といえば それは戦国時代に遡ります。
江戸時代は 国替えもありました。%e5%b9%95%e6%9c%ab%e5%9b%bd%e5%9f%9f 近代に入り、明治初期に都道府県が制定され
その後
1889年(明治22年)4月1日以降、市町村制が始まります。
その後、全国市町村は<合併>の二文字に揺れます。
明治期に71,314の町村があったそうです。
明治22年
「明治の大合併」町村数は15,859と約5分の1に減少。
昭和28年〜昭和36年
「昭和の大合併」市町村数は昭和36年で3,472に減少。
<横浜の市域拡大>
横浜を例に取れば、
現在の市域はかつて国を分けた<相模国>と<武蔵国>をまたいでいます。
近世以前の国区分には川や山が重要な要素でしたが、交通網が発達してくると国境が次第に曖昧になってきます。武蔵国と相模国を分けたものは尾根筋、稜線ですがもう一つの視点では<水系>で現在の18の区を分けることもできます。
<隣接市>
横浜市は東が川崎市 西が藤沢市・大和市
南は鎌倉市・逗子市・横須賀市と隣接しています。
これまで横浜市で目いっぱいでしたが、今回は
少し近隣にも視野を広げてみることにします。
お隣、川崎市との市域の歴史、ほとんど知りませんでした。
プロローグに川崎の市域拡大を紹介しておきます。
■川崎市の変遷
大きく6次に渡って市域が拡大されました。%e5%b7%9d%e5%b4%8e%e5%b8%82%e5%b8%82%e5%9f%9f%e6%8b%a1%e5%a4%a7
1924年(大正13年)7月1日[合体し市制開始]
橘樹郡川崎町、大師町、御幸村が合体し川崎市発足
1927年(昭和2年)4月1日[第1次市域拡張]
橘樹郡田島町 編入
1933年(昭和8年)8月1日[第2次市域拡張]
橘樹郡中原町 編入
1937年(昭和12年)4月1日[第3次市域拡張]
橘樹郡高津町、日吉村(鹿島田・小倉・南加瀬)編入
1937年(昭和12年)6月1日[第4次市域拡張]
橘樹郡橘村 編入
1938年(昭和13年)10月1日[第5次市域拡張]
橘樹郡稲田町、生田村、向丘村、宮前村 編入
1939年(昭和14年)4月1日[第6次市域拡張]
都筑郡柿生村、岡上村 編入
別添の市域拡大図から分かる通り、川崎市は市となった当初実に不安定な市域を擁していました。橘樹郡田島町が川崎市に編入されたのが昭和2年。これが一つのターニングポイントです。

■横浜市の市域拡大
1889年(明治22年)4月1日【市制施行】
1901年(明治34年)【第1次市域拡張】
1911年(明治44年)【第2次市域拡張】
1927年(昭和2年)【第3次市域拡張】
1936年(昭和11年)【第4次市域拡張】
1937年(昭和12年)【第5次市域拡張】
神奈川区に、橘樹郡日吉村から大字駒ケ橋(下田町)、駒林(日吉本町)、箕輪(箕輪町)および矢上、南加瀬の各一部(いずれも日吉町)を編入(日吉村の他地区は、川崎市へ編入。)
1939年(昭和14年)【第6次市域拡張】

【番外編】市域拡大は元気なうちに!?(加筆)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=359

No.91 3月31日 自治体国取り合戦勃発
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=526

<水利が市域の鍵>
市域拡大の背景には<水利権>が欠かせません。
水を巡る横浜・川崎の話を何回かに分けて紹介していきます。

Category: 【資料編】, 【横浜の水辺】 | 第866話 横浜川崎市境合戦 その1 はコメントを受け付けていません
11月 18

第865話 【絵葉書の風景】<開戦前夜の伊勢佐木?>

%e3%82%a4%e3%82%bb%e3%82%b6%e3%82%ad2016%e5%b9%b411%e6%9c%8817%e6%97%a514%e6%99%8212%e5%88%8602%e7%a7%92[横濱名勝]伊勢佐木町通りの夜景
Night view of the Isezaki street,amuzement centre,
..(The famous place of Yokohama)

■撮影場所
横濱最大の繁華街だったイセザキの夜景。
一番手前の伊勢ビルからオデヲンまでがベタに写っている。
カメラの位置は 松屋屋上かと考えたがもう少し手前馬車道入口あたりから
望遠で撮影されたものと思われる。
下の風景、中央奥のビルから撮られたのではないか?

%e3%82%b9%e3%82%af%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%83%b3%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%83%83%e3%83%88-2016-11-18-6-05-38
■撮影時期
昭和8年〜10年頃か
時刻は 不明
横浜市が震災復興事業が正式に完了し、伊勢佐木が戦前最も輝いていた時期。

■絵葉書の風景
遠くにオデヲン。さらに奥にはネオンサインで「レートクレーム」がはっきり見える。
「レートクレーム」は東京に本社を置いた平尾賛平商店の看板商品で1954年(昭和29年)に廃業するまで「レート」ブランドで国内を始め、中国大陸でも事業を拡げた。
mukuretoru1938autumn cqoywwjueaahg8j
ちなみに「レート」ブランドの最大ライバルは「クラブ」ブランド。
「東のレート、西のクラブ」と言われ化粧品メーカーの2大ブランドだった。
オデヲンの屋上にはビクターの看板が見える。
この日本ビクター蓄音機株式会社(現在のJVC)は横浜に縁の深い企業だ。

【横浜市電域考】4市電域の終着駅 生麦

【横浜市電域考】4市電域の終着駅 生麦

<入口左手>
高級果実万太(MANTAFRUITS)
柳屋小間物店 小間物とキリ
玉木屋洋服店
名物●●→博雅亭(名物 シューマイ)ではないか?
有隣堂では「古本市」が開催されている
かすかに天賞堂
(サロン)店名不明

<入口右手>
伊勢ビルには
大きな地球儀を模した球体に<キネマ石鹸><キネマ黒砂糖石鹸>の看板が見える。
その下には「キリンビアホール」の看板が。
●●新聞→読売新聞か?

美容院
パーマネントウェーブ
フィンガーウェーブ
(都屋)の洋傘
写真部

高島屋●● ストア
戦後横浜駅に進出する前、伊勢佐木に店舗を持っていた。
洋食・すしの看板(三好野食堂か?)
野澤屋百貨店
寿百貨店
ジャズ●●
→オデヲンに近いので 喜楽座か?

といった風景の読取りができたが、詳細判読は難しい。

戦災で多くを失い戦後は長い接収を受け、現在の横浜駅西口開発と共に
イセザキはその中心地としての賑わいを失う。
市電を失った後、イセザキの商店主達が再結集しモール化など新しい商店街づくりに奔走。
現在のイセザキがある。

Category: 横浜の商店街, 【記憶に残るスポット】, 横浜絵葉書 | 第865話 【絵葉書の風景】<開戦前夜の伊勢佐木?> はコメントを受け付けていません
11月 10

第864話 野毛界隈入門その1

(プロローグ)
「野毛界隈入門」と題したのは私が<野毛界隈>について入門、体験の記録である。light_p6281170 light_p6281209 この野毛の街を語るにはかなり勇気がいる。
この界隈を愛し、この界隈を語ったら止まらない大先輩から若手論客諸氏が手ぐね引いて構えておられるからだ。
私も野毛の近くに暮らし始めて十五年を越え、ぼちぼちこの街のことを調べてみようと思い立ったが大変な作業であることに気がついた。実に奥が深い。
野毛に関しては数多くの研究資料、エッセイが残されている。これらの諸先輩の資料を読み解く作業も楽しい。野毛といえば夜のイメージが強いが近くに暮らすこともあり昼間の野毛散策も多い。坂が多く年寄りには難儀するが、時折街並みの合間から見える野毛の街並みも面白い。夜の野毛はかつてノンベイだった頃の記憶がたくさん残っている。
呑みに行く<野毛界隈>には漠然と宮川町や日ノ出町も含まれていたので、ここでも野毛界隈として広く日ノ出町、宮川町、花咲町をベースに紅葉ヶ丘、宮崎町、老松町も含まれるていることをご了解いただきたい。
界隈は界隈であって、行政区分ではなく、時に範囲が自在に伸縮するところが<界隈性>なのだと思う。

<野毛連山>
野毛界隈は川と海に面し、背後に野毛連山を配する町である。堅く言えば丘の範疇だが、野毛界隈には地名にも野毛山・掃部山・伊勢山(これは皇大神宮の関係だが)・御所山・久保山といった名が残っている。light_%e9%87%8e%e6%af%9b%e5%b1%b12943
この山々の連なりを<野毛連山>と仮に命名すると
大岡川を挟んで左岸の野毛連山が、右岸には山手連山が迫っている入江に<吉田新田>が生まれ、居留地が誕生した位置関係が見えてくる。
野毛村から野毛連山を越えると、また深い入江があった。帷子川の入江である。
横道にそれるが、帷子川の入江の向こうにも丘が広がり、海に迫る幸ヶ谷公園から高島山・高島台(高島嘉右衛門)から台町・浅間台とこちらも帷子川の入江を囲むように丘が迫っている。
東海道は江戸日本橋を出発して平らな街道の旅をし、最初の山坂が神奈川宿を過ぎたあたりから始まる。保土ケ谷を過ぎると国境に<権太坂>が待ち受けていた。
明治期にはちょいワルおやじたちが7人東京から横浜・金沢まで観梅(杉田)を兼ねて自転車ツーリングに出かけたという記録がある。このルートも保土ケ谷から山を越え(たぶん引いて越えた)井土ヶ谷にでて杉田に向かったのだろう。
No.53 2月22日 アーティストツーリング
俳人正岡子規に至っては
親友の秋山真之と無謀な徒歩旅行に出かける。酔った勢いで着の身着のまま何の準備も無く「鎌倉に行こう」と下駄履きで出発、へばりながらも戸塚手前でギブアップ。東神奈川まで這々の体で戻り電車で東京に帰ることになる。
No.253 9月9日(日)子規、権太坂リターン

<野毛を横浜の中心に>
横浜開港場という立地は、江戸から見てダブルリバー、神奈川宿から3つの山を越えて行くことになる。その中でも一際厳しい<野毛連山>を開港時には突貫工事で真っ直ぐな道を開くことになった。横浜道である。
この野毛連山の頂きに横浜の新しい中心都市を置くことを目論んだ人物がいる。
震災後、横浜の復興計画を立案した牧彦七という人物だ。
牧彦七は「雷親父」「ライオン」とあだ名された土木のスペシャリストで、関東大震災後、上司の後藤新平から誘われ都市計画局長として帝都復興事業に尽力した。
中でもダイナミックな5億円規模の横浜・震災復興都市計画案(通称・牧案)は関係者を驚かせた。
現在のように、東海道本線の「横浜駅」界隈と開港の町JR根岸線「関内駅」界隈(開港場であり関内外エリア)の分断を結ぶ必要性を感じ中間に街を開こう!と考えた。
この計画は見事に地元の反対から夢物語に終わったが、実現していたらこの街はどうなっていったか?創造すると実に面白い。