7月 21

第856話 【絵葉書の風景】<ある日の弁天橋>

1000話まで残り144話となりました。ここから少しスピードアップして950話まで飛ばします。ゴール50話はじっくり振り返ってみたいと思っています。
大岡川河口近くに架かる弁天橋はブログでも複数取り上げています。
今日は、横浜絵葉書を含め<弁天橋の風景>を紹介します。
<弁天橋>の名は開港時に横浜村弁天社があったことに由来します。幕末以前開港場洲干弁天入口
かながわの橋100選では
「桜木町の“玄関の橋”として親しまれ、橋の親柱の意匠に人気がある。現在の橋は昭和51年の竣工で、橋長54mの鋼鈑桁橋。床組は鋼床版である。弁天橋が初めて架けられたのは明治4年で、横浜から新橋間に汽車が開通する1年前であった。当時の横浜駅は今の桜木町駅で、当時の弁天橋はまさに横浜の玄関というべき橋であった。」
light2016年07月19日23時36分31秒 light2016年07月19日23時46分20秒 light20150408120248_001 light20150624100851_002 light20150710122409 lightP3229774 lightP6141089 lightP6141103 lightP6141109 lightP6141112 lightP6141119 lightP6141121 lightP6141126 lightP6141160【横浜絵葉書】弁天橋の日米国旗
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7201
【横浜橋物語】弁天橋(横浜市中区)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5832

7月 21

第855話 1983年(昭和58年)7月21日二俣川

相鉄線「二俣川」駅は 運転免許試験場があることから横浜市民に広く知られています。
ここで相鉄線は<いずみの線>に分かれ「湘南台駅」につながっています。lightP7311095 lightP7311117 旭区役所は相鉄線の一つ横浜より「鶴ヶ峰駅」にありますが、乗降客数は圧倒的にここ「二俣川駅」が多く旭区の中心駅となっています。
今日この駅を取り上げたのは
市内二番目のCATV局「横浜ケーブルビジョン株式会社」が
横浜市旭区二俣川2−91に
1983年(昭和58年)7月21日の今日設立されました。
(開局ラッシュ)
1980年から90年代にかけて横浜市内でも
CATV(Common Antenna TeleVision および Community Antenna TeleVision (共同受信)の略)事業が始まり市内15区に渡って7局が開局します。
最初のCATV局は
◆緑区・青葉区。都筑区エリアに
Tokyu Cable TV「株式会社東急ケーブルテレビジョン」1987年10月開局
※現在はイッツコム-テレビ(1983年3月2日設立)
当時:加入31,500円 月額3,150円
◆旭区と泉区の全域・戸塚区の一部エリアに
YCV「横浜ケーブルビジョン株式会社」1988年4月開局

当時:加入21,000円 月額3,150円
◆南区・磯子区・中区の一部エリアに
Bay Wave 「株式会社横浜テレビ局」1992年10月開局
※現在ジェイコムイースト傘下「J:COM横浜」に

当時:加入52,500円 月額3,150円
◆鶴見区・神奈川区・港北区の一部エリアに1993年10月開局
YOUテレビ「YOUテレビ株式会社」

当時:加入26,250円 月額1,260円
◆金沢区全域エリアに1996年4月開局
TOWN TV Kanazawa「株式会社タウンテレビ金沢」

当時:加入52,500円 月額3,650円
◆戸塚区・栄区エリアに1997年7月開局
タウンティ「株式会社タウンテレビ横浜」

当時:加入51,500円 月額3,675円
◆青葉区の一部エリアに1987年12月開局
OCV小田急ケーブルテレビジョン「株式会社小田急情報サービス」

当時:加入52,500円 月額3,150円
★上記料金には有料チャンネルは含まれていません。

局によって視聴できるチャンネル数も微妙に異なっていました。
「横浜ケーブルビジョン株式会社」は
1988年(昭和63年)4月2日
横浜市旭区エリアで営業放送を開始します。
その後戸塚区の一部エリア、保土ケ谷区、西区にエリアを拡大し、現在は横浜市保土ヶ谷区神戸町134 横浜ビジネスパークに本社があります。創業の地旭区にもさちが丘事業所を残し相鉄沿線の拡充拠点となっています。

(二俣川駅)
1926年(大正15年)5月12日開業の二俣川駅
No.695【横浜路線バスの旅】市民に最も利用されている路線は?

現在駅ビルの建て替えが始まっています。
将来 相鉄線の東急東横線との接続が計画され、二俣川が拠点駅となっていきます。
湘南台から日吉・渋谷までの連結で、大きく変わっていく可能性を秘めています。
※慶應義塾の湘南台、日吉、三田を!
文教大学の湘南、旗の台、越谷、石川台を結んでくれ!
って要望が強かったんですかね??

No.203 7月21日 (土)エーゲ海に捧ぐ

最近何かと話題のギリシアですが、
日本とギリシャの間にはいくつかの姉妹都市があります。その中で、姉妹提携のある横浜の街が大倉山商店街です。
1988年(昭和63)7月21日の今日、「エーゲ海フェスティバル」が開催され姉妹提携が行われました。

Category: 横浜の駅, 【資料編】, 横浜の企業群, 相鉄線 | 第855話 1983年(昭和58年)7月21日二俣川 はコメントを受け付けていません
7月 20

第854話 改めて横浜市役所移転史

いよいよ新市庁舎移転工事が始まります。
このブログでも取り上げています。改めて移転の歴史後半4代目以降を整理してみました。

No.256 9月12日(火)どこも本庁舎引越は大問題
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=348
(移転地)
[初代(1889年〜1911年)本町1丁目(横浜電信分局)]→
[2代目(1911年〜1923年)港町(魚市場跡地)]→
[3代目(1923年〜1925年)桜木町一丁目(中央職業紹介所)]→
[4代目(1925年〜1944年)港町]→※1
[5代目(1944年〜1950年)老松町(老松国民学校)]→ ※2
[6代目(1950年〜1959年)反町(日本貿易博覧会神奈川会場)]→ ※3
[7代目(1959年〜現在)港町]→ ※4
[北仲へ]
※1 現在の市庁舎敷地に木造2階建てとして建設。

4代目市庁舎
4代目市庁舎
終戦直後の市電路線図一部
池に建つ市役所?

※2 第二次世界大戦で、空襲を避けるため野毛山の老松国民学校(老松中学校)に疎開する。
鉄筋コンクリート造り3階建て。
スクリーンショット 2016-07-20 11.01.19 ※3 日本貿易博覧会神奈川会場(現在の反町公園一帯)の建物へ移転。
木造2階建て。
light神奈川会場46
※4開港100周年を記念して建設、設計は村野藤吾。
鉄筋コンクリート造り、地上8階・地下1階。light市庁舎映画の市庁舎映画「わが心の旅路」に登場する新しい市庁舎と「港橋」

Category: 【資料編】 | 第854話 改めて横浜市役所移転史 はコメントを受け付けていません
7月 20

第853話 7月20日 京急仲木戸

1941年(昭和16年)7月20日(日)
「海の日」の起源となった「海の記念日」が制定され、横浜でヨット大会が開催されました。
幻の東京オリンピックにも関係したこのレースの話ではありません。
安政6年の話です。まずは京急「仲木戸駅」から始まります。
京急「仲木戸駅」を降り、海に向かって少し歩くと国道15号線に出ます。

lightP8211519 lightP8211520

この道をさらに真っ直ぐ進むと「村雨橋」その先に「瑞穂橋」があります。
この2つの橋は、横浜戦後史にその名を残す「戦車」の橋でした。
今回はこの橋を越えず 手前で右に曲がるとしばらくして運河沿いの景色が見えます。

ゴルフ練習場のフェンスを左手に見ながらさらに進むと“古い石積み”を観察することができます。
奥に高層マンションが見え、手前に倉庫群がありこの建物を大きく周り込むように進むと「神奈川台場」の遺構が一部残された「神奈川台場公園」があります。
(神奈川台場公園)
横浜の歴史好きなら一度は訪れたことのある場所です。昨日の「第852話 7月19日京浜急行線権現山」で少し触れた神奈川台場は幸ヶ谷から土砂を削りだし埋立て、石は真鶴から運んだと言われている江戸末期の遺構です。
ここは
勝海舟が基本設計を行い伊予松山藩が築造した船舶警備用の施設です。
台場といえば品川の「お台場」が有名で、全国にも数多くの幕府と各藩により築かれた「台場」が残り“指定文化財”“国の史跡”等に指定されています。
その点、この神奈川台場は開港場沖を監視するという重要な役割を担いますが、間もなく歴史からその姿を消してしまいます。light神奈川台場 この神奈川台場は他の台場には見られない“船溜まり”を持つ構造を持っていて、「蝙蝠台場(こうもりだいば)」とも呼ばれた歴史的にも貴重な歴史遺構でしたが、近代化のうねりに飲み込まれてしまいました。
ペリーが江戸湾に姿を現したことで、幕府は江戸湾の警備をいくつかの藩に命じます。この「台場」のある神奈川宿一帯は“坂の上の雲”で一躍注目された伊予松山藩が担当することになります。(因みに横浜開港場は越前松平藩が担当)
「万延元年(1860年)に藩財政1年分にあたる7万両と、延べ30万の人員を投入しわずか1年で完成させました。設計は西洋通の勝海舟に一任したと言われています。この台場は軍事施設でありましたが、明治以降は諸外国の外交団が来日した際や、国王・大統領の誕生日などに儀礼として祝砲を発射する施設として利用され、国際都市横浜の発展を支える重要な役割を果たしてきたと言えます。
明治32年(1899年)に台場は廃止され、大正10年(1921年)頃より徐々に埋め立てられ、現在ではJR東高島貨物駅構内にごくわずかに石垣を残すのみとなり、かつての景観はありませんが、現在の横浜市はこの台場が基礎となっており、貴重な史跡となっています。(伊予萬翠荘)」
「隠岐守(伊予藩)は海防の事には頗る熱心であった丈けに、幕府に砲台を築く事を願ひ、最初は神奈川宿の猟師町と並木町との二ケ所に設ける考へであったが、段々調査して見ると相当の砲台を築くならば、近距離に二ヶ所も設くる必要は無いと云ふので猟師町の方だけに築造する事にした。
当時品川砲台は頗る不評判であったので,折角築造するならば効力の充分なものをとの評議であった。(横濱市報1938年)」
と説明されています。
<品川台場>が不評だった!という記述には1938年当時、東京と神奈川で開港紛争が起こっていましたので100%丸呑みにはできませんが、<神奈川台場>のデザイン性からもかなり実効性を求めたことが判ります。
そして台場の設計が勝海舟に依頼され、安政6年5月に実測後の<縄張り・杭打ち>を佐藤政養が担当し

この年の7月20日の今日
工事が始まります。工期は当時としては極めて短期間の約一年で完成、万延元年6月に竣工しました。
横浜開港の幕開けに欠かせない<神奈川台場>近年再調査と保全が進められています。まだ多くの遺構がJR貨物の「高島駅」構内に埋もれています。light神奈川台場合成007
今後、遺構が再出現する可能性もあり楽しみです。
現在は台場に隣接して<コットンハーバー>のマンションが建っていますが、この一帯は浅野造船所でもあったため、造船所も遺構も残されています。light_20150404125158浅野造船所略図
夏は少し汗ばみますが、秋口にでも一度散策されてはいかがでしょう。
※コットンハーバー行きのバスがあります。
京急仲木戸からは徒歩20分くらい

No.202 7月20日 (金) 港をヨットが舞った日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=405
今日は元「海の日」です。

Category: 横浜の橋, 京浜急行, 横浜の道, 【横浜の水辺】 | 第853話 7月20日 京急仲木戸 はコメントを受け付けていません
7月 19

第852話 7月19日京浜急行と権現山の戦い

京浜急行神奈川駅は京急線の中で一番“狭い”ホームのある駅です。(感覚です。実際測っていません)
開業は1905年(明治38年)12月24日、歴史ある駅です。
light20150211神奈川駅 lightP2110494 lightP2110514今日は駅そのもののエピソードは別の機会に譲ります。
神奈川駅のある一帯は明治期に鉄道を敷設する際、丘陵の一角を大きく削りました。
神奈川駅を挟んで両側が繋がっていました。light台場神奈川駅東京に向かって右側(東側)の駅際にある小高い丘が「幸ケ谷公園(権現山)」、反対側の西側が高島台にあたります。
今日は横浜の歴史を一気に戦国時代へと時間を戻しましょう。
時は16世紀初め、永正7年(1510年)7月19日の今日は、9日間も壮絶な権現山(ごんげんやま)の戦いが終わった日です。
「権現山の戦い」とは、上杉連合軍がここ権現山を居城とした上田勢と支援した北条氏を破った戦いです。
江戸時代に本格的に整備された東海道ですが、それ以前から東海道は太田道灌の開いた江戸と西国を結ぶ重要な道でした。東京駅から東海道線に乗ると品川近辺の御殿山を過ぎると、平坦な道が続きます。
神奈川県に入り最初の丘陵がここ<神奈川>です。
中世から、権現山は街道の要衝にあたり、戦略的に重要な場所でした。
当時武蔵の国一帯は上杉一族の勢力下にありました。その南端にあたる城が権現山城で扇谷上杉朝良家臣<上田蔵人政盛>が城主として一帯を治めていました。ここに、波乱が起こります。伊豆にあった北条早雲が、鎌倉まで勢力を伸ばし、さらには武蔵の国へと侵攻します。
この時、早雲は権現山城主であった上田 政盛に、上杉傘下から我が北条の仲間になれというメッセージに呼応し兵を挙げます。
この権現山の戦いに関しては上田 政盛が早雲の策略に乗って主君<上杉>を“裏切る”といった表現が多いようです。
「伊勢宗瑞(北条早雲)の調略に応じて相模国境に近い武蔵国権現山城で挙兵した。」
「まず扇谷上杉朝良の家臣・上田政盛を寝返らせ、修築したばかりの相模国<ママ>権現山城に据えた。」(文中相模国→武蔵国)
「早雲は永正4年(1507)、越後の守護代長尾為景(ながおためかげ、1489〜1543・上杉謙信の父)と守護上杉房能の戦いに乗じて、扇谷上杉氏家臣の権現山城主上田政盛(うえだまさもり、生没不詳)を寝返らせます。」
資料を読むと事態はそれほど単純では無く、関東上杉家の<内紛>が<上杉家>に反旗を翻す要因と考えるのが妥当と思われます。元々、権現山城主 上田政盛は扇谷(おおぎがやつ)上杉家の家臣でした。ところが、同じ上杉家の<山内上杉家>によって領地だった神奈川湊を奪われてしまいます。ここに<山内上杉家>に対する反感(恨み)が生まれ、新たなる勢力となってきた北条早雲に与します。
ただ悲劇なのは、この反旗によって仲違いした扇谷上杉家の上杉朝良と山内上杉家の上杉憲房が連合で上田政盛の挙兵した権現山城を圧倒的陣容で包囲し壮絶な戦いが行われ、早雲の援軍が到着する前に陥落します。
※一説では上田政盛は生き残り、後に扇谷上杉家家臣として復活したという説もあります。

この権現山の戦いをキッカケに関東全域をめぐって伊勢氏(後の北条氏)と上杉氏との同盟関係が完全に破綻、戦国時代の覇権争いが激化していくことになります。

(神奈川台場)
この権現山の戦いの舞台となった場所は現在幸ヶ谷公園となっています。ただ戦いのあった当時よりかなり<低く>なっています。
ペリー来航後、急遽神奈川台場を構築するにあたり、埋立て用の土砂がこの権現山の山頂部分を削って使用されたため低くなり<台形>に変わっています。

※余談
この権現山の戦い、2万の上杉勢に対し2000の将兵で迎え撃った上田政盛陣営は圧倒的大軍の前に惨敗しますが、そこに
「19日上杉勢がなだれのごとく城内に乱入した時、城中より「我こそ神奈河の住人間宮の某」と叫びつつ上杉に突入した勇ましい武士がいた。神奈河(今は神奈川と書く)住民間宮とは信冬もしくは子の彦四郎信盛と伝えられている。」
この間宮は討ち死にせず戦のあと笹下に居を構え、北条政権下磯子一帯の領主となります。この間宮家が杉田家となり産業の少ないこの地で梅林などの殖産に務めました。

No.201 7月19日(木)港を感じる絶景ポイント
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=406
横浜港のある東京湾は、船舶の航行が集中するポイントにあたります。
船舶通航信号所として
1986年(昭和61年)7月19日(金)「横浜港シンボルタワー」が完成しました。

Category: 開港以前, 鉄道一般, 横浜の駅, 京浜急行, 横浜の道 | 第852話 7月19日京浜急行と権現山の戦い はコメントを受け付けていません
7月 19

2015年7月18日快速運転開始

2015年(平成27年)7月18日市営地下鉄ブルーラインの快速運転開始、
併せてダイヤ改正も行われました。
内容は
平 日の10時〜16時
土休日の9時半〜16時
おおよそ一時間に1〜2本の快速車両が追加登場。
これまでの運行本数を減らさず、合間を快速が縫うダイヤグラムとなっています。

☆横浜〜新横浜
11分が8分に短縮
☆戸塚〜関内
22分が17分に短縮

これに合わせて7月18日あざみ野駅構内で
 記念式典がありました。
平成27年7月18日(土)9時15分~9時30分
9時15分から始まり<2番線から9時29分発>を見送る中行われます。

あざみ野駅発 最初の快速が9時29分湘南台行き
一方の湘南台駅発の最初の快速は9時32分あざみ野行き
最初に出発するからなのか?
横浜市内で式典を挙行したかった?からか

(あざみ野駅)
市営地下鉄「あざみ野」駅が開業したのは
1993年(平成5年)3月18日で、90年代田園都市線の乗換に度々利用しました。確か
当時「あざみ野」駅は急行が停車しなかった記憶があります。しかも、当時(今も?)大型SCもあり賑わっているたまプラーザ駅ではなく隣の小さな「あざみ野」が終着駅なんだろうと疑問に思った記憶があります。
この市営地下鉄3号線(ブルーラインの一部)はあざみ野より先(新百合ヶ丘)に延伸する予定の都合で、ここになったという話を聞いたことがあります。鉄道計画というのは様々な思惑も含み中々難しい問題です。
一時期この延伸計画は眠っていましたが現在少し前進しているようです。
昭和38年に専門家委員会で検討されたプランでは横浜から新横浜を経由し荏田(延伸計画中の東急田園都市線)までを結ぶ予定で答申されていました。この答申をベースに飛鳥田市政六大事業における高速鉄道計画が組まれます。
この時のプランでは
1)荏田付近〜綱島付近〜鶴見付近
2)綱島付近〜新横浜駅付近〜横浜駅付近〜桜木町・関内付近〜戸塚付近〜長後付近
という青写真が描かれています。
現在の路線と比較すると終着点が両端とも変わっています。
長後ではなく六会付近へそして最終的に<湘南台>
荏田ではなく、元石川近辺に修正され最終で<あざみ野>
と変化します。
新横浜からあざみ野間の事業免許が認可されたのが
昭和61年2月のことでした。
最初の目論見が昭和30年代後半ですから約25年四半世紀もの時間が費やされました。
気の長い話です。
調べていたら相鉄ネタもでてきました。
特別列車「相鉄JAZZトレイン」が旭区誕生40周年・旭ジャズまつり20周年を記念して、
2009年7月18日に運行なんて記事がヒットです!
https://www.youtube.com/watch?v=TM5WQXdtbrI
相模鉄道・鉄道カンパニーでは、相鉄グループ横浜開港150周年記念事業 「SOTETSU GROUP 横浜開港150 (イチ・ゴー・マル) PROJECT」の一環として車内のジャズコンを挙行!
この企画は いろいろこじつけて 時折実施してほしいな。

(過去の7月18日ネタ)
No.200 7月18日(水)無限の境界
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=407
1997年(平成9年)7月18日(金)
横浜市西区西区みなとみらい2丁目に複合商業施設「クイーンズスクエア横浜」が開業しました。
2012年で創業15周年を迎えました。

Category: 横浜の駅, 【横浜の鉄道】 | 2015年7月18日快速運転開始 はコメントを受け付けていません
7月 19

第851話 2009年(平成21年)7月17日相鉄平沼橋駅爆破予告

今日は少し“キワモノ”でこじつけました。
2009年(平成21年)7月17日に横浜地裁である事件の判決がありました。
事件は鉄道に対する<爆弾予告>で威力業務妨害に問われたもので
(判決)
事件番号:平成21年(わ)第737号等
罪 名:威力業務妨害
判 決:懲役1年6ヶ月・執行猶予4年
担 当:横浜地裁第3民事部 甲良裁判官(単独)
概 要:被告は今年の3月に相鉄平沼橋駅などに爆破を予告する紙を置いた。判決理由の中で甲良裁判官は、「自己中心的・短絡的犯行で酌むべき事情は無い」としながらも、「本件は紙を置いた程度に止まっており、実際の電車運行には支障が無かった」として情状酌量を認めた。

事件そのものの情報は上記だけなのでこれ以上のコメントはできませんが、
爆破予告の対象駅を<相鉄線 平沼橋>とした理由が気になりました。
「平沼橋駅」実に地味な駅です。

lightP3110130平沼橋lightP6040301平沼橋 lightP3110137

ということで、本日のテーマは「相鉄線平沼橋駅」です。無理無理ネタです。

(相鉄線平沼橋駅)
「平沼橋駅」は横浜駅から900mしかない相鉄線で最も駅間距離の短い駅です。しかも、駅前に殆ど店らしい店の無い静かな駅です。駅前に“何もない駅”といえば京浜急行「神奈川駅」かここ「平沼駅」が横浜市内の静かな駅代表格ではないでしょうか。
共にメガステーション「横浜駅」に近いというのも共通点です。

「平沼駅」は1931年(昭和6年)10月25日に開業しました。
相鉄線はとにかく<苦労して>延伸してきた鉄道路線で、開業は1926年(大正元年)に二俣川と厚木間開業からスタートしました。当初は保土ケ谷駅に乗り入れる予定で延伸してきますが、最終的に横浜駅まで延伸し現在に至っています。
横浜駅 1933年(昭和8年)12月27日
平沼駅 1931年(昭和6年)10月25日
西横浜駅 1929年(昭和4年)2月14日
天王町駅 1930年(昭和5年)9月10日
北程ヶ谷駅1927年(昭和2年)5月31日(現:星川駅)
※和田町駅1952年(昭和27年)8月15日
上星川駅 1926年(大正15年)12月1日
西谷駅 1926年(大正15年)12月1日
鶴ヶ峰駅 1930年(昭和5年)10月25日
以上各駅の開業時期を見ても明らかなように、横浜駅から上星川駅までは天王町駅・和田町駅を除き、小刻みに(おおよそ二年毎に)横浜方面に延伸しながら開業しています。
「平沼駅」から900mしかない「横浜駅」への乗り入れにも二年という時がかかりました。
(平沼橋周辺)
前段で紹介したように駅前には殆ど店がありません。
この20年変らない人気のお店といえばお弁当の「寿軒」で値段も安く頑張っています。lightP6290021 lightP6290022 駅近くの名所といえば「横浜 水天宮平沼神社」です。
江戸後期にこのエリアの埋立て事業を始めた(5代目)平沼九兵衛が埋め立てた新田の氏神様として祀ったのが始まりです。碇の<紋>が近代の水天宮らしいちょっとモダンさも感じさせます。

ここの氏子総代は代々平沼家が務めています。スポーツ市長の平沼亮三も務めました。
少し歩きますが、バラを中心に四季の花が美しい「横浜イングリッシュガーデン」に電車で行く方はこの「平沼駅」から徒歩10分です。
http://www.y-eg.jp/index.php

(過去の7月17日ブログ)
No.199 7月17日(火)山手独立。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=408
1899年(明治32年)7月17日(月)の今日。
治外法権が解消された通商航海条約が発効しました。
これによって、(一週間後の24日)より横浜居留地で内地雑居(ないちざっきょ)が始まり「山手町」が誕生します。

Category: 相鉄線, 横浜事件簿 | 第851話 2009年(平成21年)7月17日相鉄平沼橋駅爆破予告 はコメントを受け付けていません
7月 18

第850話 7月16日 能見台からブラ散歩

京浜急行「能見台(のうけんだい)駅」からスタートするぶらり歩き、好きなコースの一つです。
市内の駅としては立ち寄ることの多い駅です。

能見台駅
能見台駅

lightP6292141
過去四・五回のぶらり歩きをまとめてみました。
駅の改札を出て駅前から反対側に回りこむように高架橋を越え、少し混みいった住宅街を抜けると緑の多い別世界に入り込んだような<坂道>にでます。

県立循環器呼吸器病センター入口
lightP6292145
県立循環器呼吸器病センターがあり、この坂道を少し登り切ると大きく視界が開けます。
駅前から坂道を上り視界が開ける場所、他にも多くありますが
この坂を下っていく気分が私は好きです。地図を看ないと判りませんが、越えた丘の下を<横浜横須賀道路支線>が走っていて、並木出口となっています。
坂を下りて行く途中左手に不自然な公園、ゴルフコースと間違えそうな「長浜・花夢スポーツ広場」があり、
この公園が高速道路の保全施設だということに気がつくには少し時間が必要でした。light201502040049 light201502040059
元の道にもどり暫く行くと、右手に今日紹介したい「横浜検疫所」と少し下った先にかつて細菌検査所のあった「長浜ホール」があります。lightP6292167 lightP6292179 「細菌検査所」は、野口英世が一時期勤務した施設で日本の検疫制度を最初に支えた検疫施設です。
1979年(昭和54年)7月16日の今日、
横浜検疫所で「検疫制度100年記念式典」が開催されました。
開港後、海外との交易で<コレラ>も輸入してしまった日本にとって伝染病対策が急務でした。
No.2178月4日(土)わがひのもとの虎列刺との戦い
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=390
No.89 3月29日ペスト第一号もYOKOHAMA
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=528

1879年(明治12年)
虎列刺病伝染予防規則が公布され三浦郡長浦(横須賀市長浦)に「長浦消毒所」が設置されます。
これがわが国最初の<検疫所>です。
その後、日清戦争で横須賀軍港が拡張され
1895年(明治28年)長浜に移転し「長濱検疫所」が設置され現在に至っています。
野口英世がこの「長濱検疫所」に採用され勤務したのが
1899年(明治32年)のことです。
この時「長浜検疫所」の細菌検査室だった施設が現在保全され横浜市の市民施設となり、隣接して「長浜ホール」が誕生しました。
一方、この細菌検査室一帯に近い国の「横浜検疫所」は現在も重要な検疫作業を行っています。

(海岸線観察)
この「長浜ホール」一帯から富岡の先までかつて海岸線であった境目を散策することができます。横浜市内では貴重な地域資産といっても過言ではないと私は感じます。
長浜から富岡にかけてかつての海岸線が昭和40年代まで残されていました。
横浜市内で唯一残されていた海岸線が一気に住宅地となっていきます。開発の際、かつての<海岸線>を意識した開発が行われた?のかどうか判りませんが、
エッジを散策しながら<旧海岸線>を散策することができます。
何度か歩いていますが、古い地図を片手に歩くとワクワクしてきます。

(能見台西側)
1982年(昭和57年)に「能見台駅」は「谷津坂駅」から改称されます。
お年寄りの方には「谷津坂駅」の名を懐かしく感じる方も多いようです。この「能見台駅」の名は、駅西側エリアの大規模な宅地開発に伴い変更されました。
「能見台」の名は、近くにかつて17世紀に「能見堂」という風光明媚な地蔵院があったことに因んでいます。

light201501280105
江戸時代にここから金沢八景巡りがスタートするポイントにあたり、多くの江戸庶民が訪れた場所でした。
海に面した丘陵のエッジに位置する「能見堂」あたりは鎌倉時代から「金沢古道」があり、程ケ谷から金沢に抜ける要所でもありました。light201501280119 鎌倉時代から江戸、そして近代化に伴い、このエリアは人里離れていたこともあり軍事産業の中心地となります。
戦後、多くの工場が撤退又は産業転換し戦後の高度成長を支えます。そして昭和30年台後半から、まとまった住宅地として開発が進み現在に至ります。

鎌倉時代から現在まで、この「能見台」周辺だけでも濃密な歴史が刻まれています。

(米軍「小柴貯油施設」は?)
「長浜ホール」に隣接する広大な緑地があります。米軍が接収し「小柴貯油施設」として利用していた敷地です。ここは返還されたはずですが いまだ原野!?のままになっています。整備するには<不都合>でもあるのではないか?と疑ってしまいますがどうなっているのでしょうかね。light1977-長浜小柴貯油施設lightckt-83-長浜 この「小柴貯油施設」一帯の丘も<水際線>を知る重要なポイントなのでなんとか活かして欲しいですね。

Category: 横浜の道 | 第850話 7月16日 能見台からブラ散歩 はコメントを受け付けていません
7月 17

第849話 横浜・新橋、横浜が先?

日本鉄道事始め、この辺に詳しい方には当たり前のことですが
日本最初の駅「横浜」「新橋」は全く同じファサード(顔)を持っていました。

初代横浜駅
初代横浜駅
初代新橋駅
初代新橋駅

設計は共にアメリカ人建築家リチャード・ブリジェンス、設計者が同じなんだから同じでもおかしく無いけれども、普通<格>をつけてしまうのが近代日本の定番。ところが「横浜」「新橋」は本当にうりふたつ。
横浜駅には<噴水><ガス灯>が写っています。

鉄道の歴史をざくっと
1872年6月12日(明治5年(旧暦)5月7日)
「横浜」「品川」間の鉄道路線が開通し、横浜駅(初代)が開業。
品川駅は「木造平屋2棟、現在の位置よりやや横浜方、海に面したのどかな駅」だったそうです。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/ca/Shinagawa_Station_in_early_Meiji_era.jpg

1872年10月14日(明治5年9月12日)
四ヶ月後に「横浜駅」と「新橋駅」が開業。初日は式典と明治天皇御座乗特別列車の運行のみで営業は翌日からなので営業は1872年10月15日ってことです。
この間を<仮営業>と呼んでいますが、個人的には前述の1872年6月12日からしっかり<営業>しているのでこの日を鉄道の発祥の日にして欲しいところです。
さらに!さらに ここがポイント!
手元の資料だけですが
リチャード・ブリジェンス設計の「横浜駅舎」「新橋駅舎」
1872年6月12日開業が「横浜駅舎」
1872年10月14日開業が「新橋駅舎」
ってことは リチャード・ブリジェンス設計の横浜駅は新橋(汐留)より古い、最初ってことですね。
まあ どうでもいいことですが この辺はっきりしておきたいところです。

旧新橋駅再現
旧新橋駅再現

light2016-04-15-18-28-07light初代横浜駅前

Category: 鉄道一般, 横浜の駅, 横浜の近代建築, 横浜の式典, 横浜絵葉書, 横浜技術史 | 第849話 横浜・新橋、横浜が先? はコメントを受け付けていません
7月 17

第848話 1935年(昭和10年)7月15日瑞穂駅開業

1935年(昭和10年)7月15日
「新外国貿易地帯貨物専門取扱駅(瑞穂駅)が新設開業する。(商工会議所百年)」
横浜港は発展とともに次々と<桟橋・埠頭>が増設されてきました。
初期貿易港横浜は1894年<開港場>の中央に鉄桟橋が整備され最初の国際港となります。
その後 国内外の交易や人の往来が急増する中、
桟橋の拡張に加え新たな<埠頭>が次々と建設されていきます。11751426_1017387401638697_8188418887701345819_n
「大桟橋」1894年
「新港ふ頭」 1917年
「山内ふ頭」 1932年
「高島ふ頭」 1930年1号さん橋完成
「瑞穂ふ頭」 1945年
「山下ふ頭」 1963年
「出田町ふ頭」1963年
 No.447 いずたとばななの物語
「本牧ふ頭」 1970年
「大黒ふ頭」 1990年2期埋立完成
「南本牧ふ頭」1990年着工

これらの<ふ頭>造成には鉄道網が欠かせませんでした。横浜港最初の本格的な桟橋となった税関桟橋とも呼ばれた大桟橋にも当初、直結の線路が設置されました。その後の「新港ふ頭」「山内ふ頭」「高島ふ頭」なども鉄道線の敷設と一緒に開発が進みます。
上記の通り、貨物支線の瑞穂線は貨物線「入江駅」から分岐し瑞穂ふ頭に入る路線です。11707612_1017394471637990_5699360022180991311_n lightimg089この「瑞穂駅」はふ頭が完成する前、工事中の1935年(昭和10年)に開設されます。

(幻のふ頭)
この中で幻(まぼろし)といっては少しオーバーですが、
1925年(大正14年)に着工し、終戦の年の1945年(昭和20年)にようやく完成した「瑞穂ふ頭」は完成したにもかかわらず未だ日本船が着岸することがない幻のふ頭です。

この瑞穂駅のある「瑞穂ふ頭」は、
1945年(昭和20年)9月にいち早く米軍によってが接収され、日本側の利用が一切禁止されます。

1947年(昭和22年)8月15日
瑞穂支線に限り、日本側の使用が許可されますが、実質は米軍用の貨物を国鉄が取り扱うようになっただけでした。
1958年(昭和33年)には瑞穂支線が米軍専用線となり線路は残りましたが駅は廃止されます。

(ノースピア)
この「瑞穂ふ頭」は、米軍が接収して以来 通称「ノース・ピア」と呼ばれてきました。
1980年代まで国内で発行されていた英文マップには大さん橋がSouth Pierと表記されていました。
瑞穂埠頭が 北埠頭(North Pier)
大桟橋が 南埠頭(South Pier)
新港埠頭が 中央埠頭(Center pier)

(返還)
この一帯、返還の動きがありますが、完全には返還されていません。
2000年(平成12年)3月31日に「神奈川ミルクプラント」が返還され、陸側と埠頭を結ぶ瑞穂橋及び埠頭外周の港湾道路は2009年3月31日に返還されました。
ここには横浜港内でも存在感のある風力発電所「ハマウィング」が設置されています。
※2009年3月31日以前は瑞穂橋から写真撮影も禁止でしたが、現在は橋までなら撮影していても中止されません。奥にある米軍施設の入口にカメラを向けると<警備員>にお決まりのように制止されます。

(過去の7月15日ブログ)
No.197 7月15日(日)老舗ホテルを支えた横浜
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=410
1878年(明治11年)7月15日(月)の今日、
箱根宮ノ下に日本初のリゾートホテル「富士屋ホテル」が開業しました。
富士屋ホテルは創業時、深く横浜と関わっていました。
※ここで 箱根富士屋ホテルと横浜の関係を紹介しています。

Category: 横浜の道, 横浜と船 | 第848話 1935年(昭和10年)7月15日瑞穂駅開業 はコメントを受け付けていません