12月 31

No.366 12月31日(月)パトリとネイション

なんとか最終章に入ります。
366話目の「2012年暦で綴る今日の横浜」です。
長い間おつきあいありがとうございました。
今日は特にある年の12月31日の話しでは無く、明治以来横浜港を始め、神戸や長崎の港から旅だった「日系移民」の話を紹介しておきます。

(洋上のハッピーニューイヤー)
年表を眺めていたら、明治以来昭和までの長い期間に
横浜からカナダ、アメリカ、ブラジルなどに向け多くの移民船が出港しています。
中でも12月29日頃から31日までの年末に
多くの移民船が横浜を出港した記述がある事が気になっていました。

異国で生きる事を決意した日本人は、どんな思いで洋上の新年を迎えたのでしょうか?
思いを馳せるとそこには悲しくも逞しい日系移民の姿が重なってきます。

(移民の歴史を知ること)
日本から100万人を越える移民が海を渡りました。
移民に関する資料を「海外移住資料館」で観ることが出来ます。
横浜の新港埠頭に「海外移住資料館」があることをご存知ですか?

まだの方は一度ゆっくり見学される事をおすすめします。
http://www.jomm.jp
「日本人の海外移住は、1866年に海外渡航禁止令が解かれてから、すでに100年以上の歴史があります。ハワイ王国における砂糖きびプランテーションへの就労に始まって、アメリカ、カナダといった北米への移住、そしてその後1899年にはペルー、1908年にはブラジルへと日本人が渡ります。そして、1924年にアメリカで日本人の入国が禁止されると、大きな流れが北米から南米へと移っていきます。その結果、第二次世界大戦前には約77万人、大戦後には約26万人が移住しています。
その一方で、ここ十数年、かつて日本人が移住した国々から、とくに南米から、日系人とその家族をあわせて約30万人の人たちが就労や勉学の目的で来日しています。こうした経緯から、日本人の海外移住の歴史、そして移住者とその子孫である日系人について、広く一般の方々(とくに若い人たち)に理解を深めてもらうことを目的として、海外移住資料館が開設されることになりました。」

(日本の移民は横浜に始まります)
移民全般については、かなりのボリュームになるので、ここでは日本の移民元年、まさに明治元年にハワイに横浜港から船出した「元年者」と呼ばれた最初のハワイ移民を簡単に紹介しておきます。

日系移民マップ

幕末、ペリーの開港要求が日本開国政策への転換点となります。
1866年(慶應2年)に海外渡航禁止令が解かれます。
諸外国とは、外交上の開国を安政五カ国条約によって約束しますが日本人が外国へ行く事はこの海外渡航禁止令が活きていました。
このときに、日本人の労働力に着眼したオランダ系アメリカ人がいました。ユージン・ヴァン・リード(Eugene Miller Van Reed, 1835年5月17日〜1873年2月2日)です。ハワイにいたリードは、ホノルルで開国した日本に通訳官として向かう浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)に出会います。ここで、ハワイ王国(当時ハワイは事実上米国の支配下にありましたが、一応独立国)外相ワイリーから、リードの日本情報に対し、日本人のハワイ向け労働者を集める事は可能かどうか打診されます。
リードは早速 ジョセフ・ヒコに随行し、1859年(安政6年)7月に神奈川に設立された米国総領事館の書記生として入国します。
日本の開国情報をリサーチしたあと、一旦ハワイに戻り外相ワイリーから外交官の資格を得て再来日します。
1865年4月に横浜(神奈川)にあった米国領事館の一角をハワイ王国領事館として、リードは総領事となりハワイ王国との国交締結交渉を行いますが失敗します。国交が成立しなければ領事の意味は無くなりますので、彼はそのまま横浜に滞在し貿易商を開業、東北地方諸藩との取引を行います。その間も、幕府と外交交渉を継続し、1868年(慶應4年)日本人のハワイ移住に関する許可を獲得します。
1868年といえば明治維新、徳川幕府が崩壊した年です。幕府も瓦解寸前の無責任な認可?になるかもしれません。リードは、政権交代後の明治政府横浜裁判所に4月19日、募集した移民に対する旅券下付を総領事の資格で申請を行います。
これに対して神奈川裁判所は日本とハワイに国交がないことを理由に彼の総領事としての資格を否認します。(これは正しい処置)
更に王政復古後の江戸幕府の許可であることを理由に許可自体も無効とします。
これに対して彼は無効処分の取り消しか賠償金4,000ドルを要求し、時間稼ぎをします。リードはすでに日本での移民リクルーティングを済ませていて、6日後に英国船に141名の日本人を乗せて移民を強行します。
この日本最初の移民、後に国の政権交代の隙間で翻弄された彼らを「元年者」と呼びますが、
横浜を舞台に これを契機(既成事実)に日系アメリカ移民が始まります。
1871年8月19日(明治4年7月4日)に日本とハワイ王国の国交が正式に結ばれますが、どさくさに紛れてハワイに日本人を送ったリードの外交資格が問題点としてとり挙げられ外交資格を剥奪されます。
その後、アメリカ公使チャールズ・デロングの仲介により、日本政府はリードのハワイ領事視覚を承認した経緯があります。
リードに関しては、高橋是清の米国留学を斡旋した際に学費を着服してしまうとか、岸田吟香の新聞『もしほ草』創刊を支援したりとか面白い人物である事は間違いありません。

No.64 3月4日 日本初の外国元首横浜に

No.24 1月24日 西へ新たなフロンティアへ

最後に、何故ハワイ王国は日本人労働者を必要としたのでしょうか?
最大の理由は、
30万人いたハワイ人口が、カリフォルニアに起ったゴールドラッシュで流出しハワイの砂糖産業が危機的労働力不足に陥っていたからです。
※アメリカ本国では、黒人奴隷に代る労働力を中国に求めました。(苦力の歴史)

ハワイの元年者達の行く末は?
元年者達は、夢多きホノルルまでの航海は順調でした。
しかし、農場に入植後、東北出身が多かった移民たちは不慣れな気候の下での過酷な労働と、当時ハワイに起ったインフレ物価高による生活の困窮に苦しみます。
1868年12月に移民団の元締であった牧野富三郎らが日本政府に救出を求める嘆願書を寄せる事態に至ります。
明治政府は民部省監督正薩摩出身の“上野景範”を使節としてハワイに派遣します。上野景範は、幕末薩摩藩で奄美大島の製糖工場建設に携わったアイルランド人建築技術者・トーマス・ウォートルスの通訳を務めた経験もあり製糖工場には詳しかったようです。
特命全権公使としてハワイに赴いた上野景範ら一行は、サンフランシスコ経由で1869年12月27日(明治2年11月25日)ハワイに到着し、ハワイ外相ハリスと交渉を行います。
1870年1月11日(明治2年12月10日)帰国希望者40人の帰国、残留者も契約期間が経過したときにはハワイ政府の費用で日本に送り届けることなどを合意し、募集を行ったハワイ国駐日総領事・ヴァン・リードの罷免を確約させます。
1870年3月7日移民40人とハワイで生まれた子ども1人計41人が横浜に到着し、遅れて3月26日上野景範自身も別便で横浜に帰着します。

このような事態は その後も多くの日系移民に起ります。
日系人排斥、日本語教育禁止等の悲しい迫害を受けながらも
日系移民は時代を生き抜きます。
決してバラ色ではない移民という選択。
それでも多くの日本人が この『国』を離れようとしたのは何故でしょうか?
そして、敗戦後、そして311では
いち早く支援に立ち上がった日系人が多くいたことも 私たちに パトリとネイションの在り方を考えさせられる歴史の事実です。

12月 31

【2013】横浜わが街シリーズ開始宣言

今日まで一年、わが街を「この日」で紹介してきました。
今日という日にちで探していきますから、好き嫌い可能なテーマは年間のごく数日で、あとは決めて調べるという作業に徹しました。
「2012年暦で綴る今日の横浜」を始めて感じた事は、物書き素人のテーマは自由より決まっていた方が楽だということです。
“何を書くか”ほど難しい作業はありません。これを書くために調べる事の方が二工程カットされるので、精神的にも作業的にも気楽なんです。
此の事を悟るのに3ヶ月かかりました。
この一年約400のテーマ(番外編含む)探しから、資料も在る程度揃いました。図書館・ネットのライブラリー、アーカイブ、専門的な情報を提供してくれているサイトなど基礎資料の“ありか”も概ね判ってきました。
これも「2012年暦で綴る今日の横浜」の成果です。
ここでちょっとわが家の本棚を紹介します。
現在基礎資料となるだろう横浜文献をリストアップしてみたところ
約1,200ほどありました。
マップ類、チラシ、コレクション類を入れると3,000位にはなるかもしれません。自分でも良く集めたなと思います。

馬車道くれーぷ屋のマッチ なんて私だけじゃないでしょうか?

明日からは、一年を通してわが街をもう少しフリーハンドで紹介していくことにします。
題して「横浜わが街」シリーズです。
(昔エドマクベインシリーズを「わが街」シリーズでドラマ化していました。渡辺謙が好きでした)
2012年は、日めくりカレンダー(死語ですかね)のように横浜を今日の日付で切り口を揃えて紹介してきました。2013年は、少ししばりを緩やかにして
「横浜わが街 この駅」
「横浜わが街 この風景」
「横浜わが街 この人」
「横浜わが街 この逸品」
といったテーマで「わが街」を一日一話形式で紹介していきます。
2012年の今日の横浜シリーズも活用しながら、わが街に光をあてて行きます。どうぞたまにはアクセスいただき、横浜の側面をお愉しみ下さい。

12月 30

No.365 12月30日(日)横浜初の発電所

酔った勢いで始めた苦行、
「一日一話の2012年度ブログ」も
ついにラス前!となりました。
1903年(明治36年)12月30日
横浜共同電灯会社「高島町に発電所竣工」と「横浜近代史年表」に記載がありました。
原則、裏取りをしましたが社史には記載が無かったので確認できていません。
でも高島町の発電所に関しては関心があったので少し追っかけてみました。

桜木町発電所

電気の普及には発電所が必要です。
横浜で最初の発電所は関内の常盤町にできました。

常盤町本社

田沼太右衛門ら横浜財界人が発起人となり、
1889年(明治22年)7月に横浜共同電灯会社が設立され、初代社長には高島嘉右衛門が就任します。
最初の発電所はエジソン直流三線式発電方式を採用した火力発電所です。

日本の発電所は「直流」「交流」を併用します。因みに電灯は元々直流で開発されましたが、交流でも動作しますが、電動機は「直流」「交流」の併用ができません。この「電流戦争」にも面白いエピソードがありますが、別の機会に譲りましょう。
電力会社は思ったほど伸びませんでした。
「関内及び外国人居留地」を営業区域として許可を得たのですが、英国人商会の競合があり居留地の売電が進まず、関外の営業権を持つ会社も吸収合併しますが、かなり苦戦が続きます。
1896年(明治29年)に居留地内の英国人経営の電灯会社経営権を買収し競合を解消し収益性が確保できるようになります。
※このとき、英国人商社の電灯線は地中埋設線による電力提供を行っていたそうです。この方式が継続されたら 日本の風景は変わっていたでしょう。

大きな転機は、1901年(明治34年)に訪れます。
市域の拡大です。


No.311 11月6日(火)18区誕生

■久良岐郡
戸太村、中村、本牧村、根岸村
■橘樹郡
神奈川町、保土ケ谷町大字岡野新田、大字岩間字久保山・大谷・林越・大丸、子安村大字子安を編入します。
この市域拡大により営業エリアも拡大することで、経営が一気に好転します。
1897年(明治30年)そこで、新たな発電所が必要となり新しい発電所が高島町二丁目に完成します。
ここでは、交流発電機が導入されます。電気事業に適した交流が基本となります。
「横濱電気株式会社沿革史」にある高島発電所地図を観て驚きました。
隣にある会社が「横浜電線製造株式会社」です。

(場所が違う)
1884年(明治17年)に山田与七が横浜に山田電線製造所を創業。
1896年(明治29年)山田電線製造所が横浜電線製造株式会社に変更。
ここが古河鉱業と合併し、古河電気工業そして横浜ゴムが誕生します。
「横浜電線製造株式会社」を調べた際には、手元の資料が「高島町九丁目」に会社を設立し、後に西横浜へ移りそこが古河の研究所になった経緯を紹介しました。
No.127 5月6日 あるガーナ人を日本に誘った横浜の発明王

No.179 6月27日(水)電気が夢を運んだ時代?

No.213 7月31日 (火) 金日本、銀日本

違う資料がでてきましたので
追いかけて移転したのか、間違いなのか確認してみたいと思います。

(駅舎に埋もれた遺構)
横浜共同電灯会社は後に横浜電気株式会社となり横浜最大の電力会社となりますが、送電技術の向上で次第に発電所はより広い敷地に、そして山間部の水力発電所に移行して行きます。
この高島発電所は廃止され
その上に
1915(大正4年)第二代横浜駅舎が建ちます。

その後、関東大震災で被災し、現在の横浜駅に移されます。
ここに高島発電所があったことは資料上明らかになっていましたが、
遺構が一部残っていることは
2003年5月下旬、東急東横線旧高島町駅の解体工事をするまで判りませんでした。
この時、発電所の冷却水を貯める楕円形の海水引入口が発見されました。
その後
1922年(大正10年)東京電灯株式会社に吸収されます。東京電灯株式会社は現在の東京電力です。

(余談)
No.180 6月28日 横浜能楽堂、その点と線

●咲壽栄一(さくじゅえいいち)
1884年(明治18年)横浜電気株式会社の常務取締役上野吉二郎の長男として東京の京橋に生まれました。1893年(明治27年)に横浜市吉田小学校へ転校、神奈川県立第一中学校へ入学します。京都市第三高等学校を経て、東京帝国大学工科大学建築学科に進み山崎清太郎、後藤慶二、大熊喜邦ら上記の仲間達に出会います。卒業後大蔵省臨時建築部に入り、のちに大蔵技師。妻木頼黄とともに設計にあたりますが30歳という若さで逝去します。墓所は横浜市磯子区の根岸西有寺墓地です。
咲壽栄一は惜しくも30歳という若さで亡くなりましたが、その間短い時間ではありましたが大蔵省臨時建築部で多くの税関設計に関わってきました。また俳人としても非凡な才能を表し短い人生に詠んだ句はおよそ3万句もあったそうです。
彼が亡くなった後、山崎静太郎が中心となって咲壽栄一遺稿集「卯木集」を出版します。咲壽は卯花(ウツギの花)を好み、俳号「卯木屋」と読んだそうです。
横浜電気株式会社の常務取締役上野吉二郎の長男ですが、母方の高橋家の祖母の姓を名乗り咲壽栄一(さくじゅえいいち)として活躍しました。
この高橋家が、現在の「株式会社ダニエル」を創業し横浜クラシック家具の伝統を守っています。

No.197 7月15日(日)老舗ホテルを支えた横浜

12月 29

No.364 12月29日(土)小国の独立力

1864年2月6日(文久3年12月29日)旧暦の今日、
日本と永世中立国スイス連邦共和国との修好通商条約が結ばれます。
この日から日本とスイスは細く長く、1世紀半の友好を継続してきました。

Switzerland

幕末に欧州の小国スイスが日本に使節団を送り、通商条約を求めたのは何故でしょうか?
列強に囲まれる中で、スイスは外交力とビジネスでこの国を2世紀にわたり「中立」として独立を維持して来た歴史があります。
※1815年にウィーン会議で、国家としての「永世中立国」が認められ、2002年9月10日 国民投票の結果を受けて190番目の国連加盟国になっています。
スイスは不思議な国です。
母国語が一つではなく、民族・文化も異なりますが国民が「スイス連邦」として国家独立を選択し成り立っています。
http://www.swissinfo.ch/jpn/index.html
http://www.schweiz-japan.ch

開港と同時に、世界各国から通商条約の締結を求めて外国使節団が押し寄せます。
今で言う、FTAかTPP締結で揺れるという感じでしょうか、日本は国内情勢に大きく影響される中、各国と条約を結んでいきます。
まず安政の五カ国条約が結ばれます。米蘭露英仏の順で個々にまた内容も若干異なっていました。
 ●日米修好通商条約 1858年7月29日(安政5年6月19日)
 ●日蘭通商修好条約 1858年8月18日(安政5年7月10日)
 ●日露修好通商条約 1858年8月19日(安政5年7月11日)
 ●日英修好通商条約 1858年8月26日(安政5年7月18日)
 ●日仏修好通商条約 1858年10月9日(安政5年9月3日)

 ●安政五カ国条約

No.158 6月6日(水) 休暇をとって日本支援!

No.49 2月18日 過去に学ばないものは過ちを繰り返す
その後ポルトガル、プロシアの外交使節団が幕府と条約締結に及びます。

 日葡修好通商条約 1860年8月3日(万延元年6月17日)
 日普修好通商条約 1861年1月24日(万延元年12月14日)
当時、スイスにとってプロシア(ドイツ)はライバル国でしたので、日普修好通商条約の調印はいち早く、スイスの極東への関心を高めます。
ここに一人の卓越した国際感覚を持った人物が日本行きを決定します。
元政治家として活躍しスイス時計生産者組合会長を務めていたエメ・アンベール・ドロズです。

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彼はいち早く時計市場の確保の為に通商条約締結を「スイス連邦政府」に提案します。そして自ら使節団長(全権特使)として優秀なメンバーを連れベルンから五ヶ月かけて、スエズ・インド経由で長崎に1863年4月9日に上陸します。
その後直ちに横浜に向かいますが、
日本は生麦事件騒動のまっただ中で、幕府は攘夷に大きく傾き条約交渉に時間がかかります。

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幕末日本図絵に用いた風景絵
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日本の、横浜の様子が精密に描写されています

使節団は約10ヶ月の粘り強い交渉を余儀なくされます。
この滞在期間にアンベール・ドロズは日本という国を社会学的な視点で冷静に分析し、大量の日本文化をコレクションし母国に持ち帰ります。その数3,000点を越える膨大なものでした。このコレクションを元に、帰国したアンベールが編集したのが『幕末日本図絵』で、貴重な日本研究資料となっています。
※下記の挿絵は、アンベールが持ち帰った写真や、絵、資料を元にフランスのスタッフが出版用に書き起した挿絵です。描写力に驚きます。

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橋を架ける様です。技術の巧みさが良く描写されています。
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花見の風景です。文化史資料といても一級です。
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細部まで、道具含めて正確に描かれています
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港崎の「岩亀楼」を描いていますが、静寂を感じます。
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椅子に座る横浜の女性。

1864年2月6日(文久3年12月29日)にようやく日瑞修好通商条約を提携する運びとなります。最終的には同じプロテスタントの国で、日本政府(幕府)に影響力のあったオランダの政治的仲介(圧力)があったからだと考えられています。

(貿易立国スイス)
このアンベール以下外交使節団の中に、ブレンワルドという優秀な外交官でありビジネスマンが同行していました。彼は条約締結後、スイス総領事代理を務め横浜に商館を設立し日本の貿易に大きく貢献する事になります。
一旦母国に戻った後、ファンドを築き多くの出資者を募りロンドンで出会った絹織物業のヘルマン・シーベルと共に日本で貿易業を開始します。これが1866年(慶応2年)に設立された
シーベル&ブレンワルド商会です。
当時三番目に取引量の多かったシーベル・ブレンワルト商会は、時計をはじめお茶、生糸、武器、高島嘉右衛門がドイツと競ったガス灯ビジネスにも加わりガス灯資材をイギリスから横浜に輸入するなど、多方面の貿易に関わります。

(日本を売る)
悪い意味ではありません。
日本製品を欧州市場に売る事で自国の利益に繋げる国が小国の生き方の一つです。
この商社は組織変更はあるものの現在まで日本支社が継続しビジネス展開しています。
DKSHジャパン株式会社
http://www.dksh.jp

No.204 7月22日 (日)一生を世界一周に賭けた男

No.169 6月17日(日)私は武器を売らない

No.185 7月3日(火) 実録「居留地警察」

No.27 1月27日 ニッポン、国際コンペに勝つ

12月 28

No.363 12月28日(金)市立図書館 新システムへ

カウントダウン今年もあと四日です。
2012年(平成24年)12月28日(金)午後6時から
来年2013年(平成25年)1月11日(金)午前8時40分まで
横浜市立図書館の情報システムが停止し、新システムに移行しました。
(過去ネタです)
利用しやすくなる事を期待します。

図書館を利用されていますか?
私にとって図書館は欠かせません。
今日は、横浜市立図書館の情報システムが大きく変わるということなので、図書館について簡単に紹介しましょう。

http://www.city.yokohama.lg.jp/kyoiku/library/

まず、図書館休館について
今回年末年始を使ってシステムを入れ替えるため、2012年(平成24年)12月29日(土)から2013年(平成25年)1月10日(木)まで市立図書館は全館休館となりました。
正月空けに使いたい!という方ご注意下さい。
同様に、今回はネットでの利用も冒頭の案内通り、
2012年(平成24年)12月28日(金)午後6時から来年2013年(平成25年)1月11日(金)午前8時40分まで(予定)
使用できなくなります。
この「システム変更」は1995年に18区全区図書館が開館し、ネット検索が開始されてい以来の“大きな改善”?となるのでしょうか。

■セキュリティキーの設定
→これは時代の必要なので 当然の対応といえるでしょう。
○予約カゴ
(従来)ネットで借りたい閲覧したいドキュメントを予約できましたが、
 「次に予約したい本」を、カートに入れることで「仮置き」することができる『予約カゴ』の機能を追加ができるとのこと。最大100 冊の仮置が可能になるので実際利用していないので“予想”ですが
 多方面の資料調査をしていく際に大変便利になるのではないかと期待しています。現在、私の場合はネット検索し在庫情報をプリントアウトしてファイルし、都度図書館に出向くようにしています。
 予備のマイライブラリーとなる感じでしょうか。
○順番指定
複数の本を借りたい時に借りる優先順位をつけることができる機能が追加されました。上下巻やシリーズものを読み始めるには便利な機能です。
○仮登録機能
タイトルがいけませんね!
図書館カード発行がネット登録で簡単に(早く)なりました。ということだと思います。利用促進には、手軽で安心できるカード発行が原則ですから、迅速化で利用者が増える事を期待します。
これを機会に、図書館カード 作りませんか?
※利用したい!がまず先ですが。

ネットで該当資料の貸出し状態を確認し出向きます

(2013年12月)
現在も横浜市立図書館を利用している一人です。
使い勝手をテーマに 来年別途紹介します。


デジタル環境の進展で、身近な端末でデータを利用できるようになりましたが、図書館はデジタル環境においても利用ニーズのある公共施設といえるでしょう。
今回のシステム改善で期待しているのが
●ポータルサイトの充実
「横浜市立図書館の蔵書検索だけではなく、電子図書館(デジタルアーカイブ)「都市横浜の記憶」やレファレンスデータベース、また横浜市歴史博物館などの横浜市にある施設の所蔵情報が、横断的に検索できます。横浜について調べるときなどに便利です。」

横浜市内に一般市民が利用できる図書館はどの程度あるのか知っていますか?公共図書館、教育機関(主に大学)、企業図書館等々ありますがデータベースとしての連携が進んでいます。

民間でも 面白いサイトが立ち上がっています。
日本最大の図書館蔵書検索サイト「カーリル 」
http://calil.jp

特に、「電子図書館」のポータルマネジメントをどこが主導するか?課題はあるようですが、利用者に判りやすい使いやすいインタフェースにして欲しいと思います。

(県立図書館はどこへ?)
詳細な情報が入っていませんが
県立図書館の運営が大きく変わるという情報だけが伝わっています。
「神奈川県緊急財政対策として、県立図書館の機能集約・廃止が検討されている。もし、廃止されても蔵書などは県内の他の図書館などで閲覧できる。」とのこと。
http://hamarepo.com/story.php?story_id=1549
実際に足を運んで閲覧したい派としては県立図書館・県立川崎図書館の利用制限には反対したい立場です。運営にはかなり改善余地がありますが。
http://www.klnet.pref.kanagawa.jp
横浜市立図書館と、新刊競争?では負けるかもしれませんが、県立の持つ資料性とリアルタイムのレファレンス能力は“人材”です。
これこそ市立図書館にも通じますが
積極的に図書館の市民によるサポートシステム(敢えてボランティアとは表現しません)を導入していく段階にきているのではないでしょうか。

(各区の図書館)
横浜市内には18の区に対し、一つ市立図書館があります。
 区によって特色もあり、努力もされています。まずは利用者が図書館を上手に使いこなす、(言葉悪いですが)使い倒す!ことが図書館の充実に繋がります。

パンフレットも大切に収蔵されています。

併せて「地区センター」にも図書室があります。
さらには下記のような図書館も市民利用できます。
(施設によっては制限がありますが)

横浜美術館 美術情報センター
福祉保健研修交流センター ウィリング横浜 情報資料室
横浜ユーラシア文化館
子どもの虹情報研修センター
水産総合研究センター中央水産研究所
水産総合研究センター開発調査センター
神奈川県立地球市民かながわプラザ映像ライブラリー
水産総合研究センター
東洋英和女学院大学図書館
横浜商科大学図書館
慶應義塾大学日吉メディアセンター
慶應義塾大学理工学メディアセンター
慶應義塾大学白楽サテライトライブラリー
神奈川大学横浜図書館
東京都市大学横浜キャンパス図書館
横浜国立大学附属図書館
東京工業大学附属図書館すずかけ台分館
関東学院大学図書館本館
フェリス女学院大学附属図書館緑園本館
フェリス女学院大学附属図書館山手分室
國學院大學たまプラーザキャンパス図書館
神奈川県立保健福祉大学実践教育センター図書室
横浜美術大学図書館
鶴見大学図書館
横浜市立大学学術情報センター
横浜市立大学医学情報センター
横浜市立大学鶴見図書室
横浜薬科大学図書館
横浜市立大学木原生物学研究所
明治学院大学横浜図書館
横浜女子短期大学図書館
桐蔭横浜大学大学情報センター
横浜国立大学経済学部附属貿易文献資料センター
日本体育大学・日本体育大学女子短期大学部健志台キャンパス図書館
横浜創英大学・横浜創英短期大学図書館
(※あえてリンク先は外してありますのであしからず)

12月 27

No.362 12月27日(木)彼も我も公園に集う

年も押し迫って参りました。
2012年も残すところ5日となりました。2013年は異なる切り口でいくと宣言しておきながら、なんとかなるだろうと準備していません。
2013年はかなりドキドキハラハラの毎日でした。
2014年は少しじっくり系でいきたいところです。

さて、1909年(明治42年)12月27日の今日は横浜市(彼我)公園のクリケットグランドの撤去が決定し全管理権が横浜市に移管した日です。
名称も正式に現在まで使用されている「横浜公園」と改称されました。
※市民解放は翌日の12月28日に行われました。

読みにくいのですが、この日の事を記した碑です

現在横浜には、市の管理する公園が2,600ありますが、その殆どが昭和後期に整備されたものです。戦前、横浜市の公園は19しかありませんでした。
明治期には二つ。
1876年(明治9年)開園した「彼我公園(横浜公園)」と、1900年(明治33年)に公開された「山手公園」です。山手公園は1870年(明治3年)6月4日に居留民によって作られましたが、当初は外国人専用でした。「彼我公園(横浜公園)」は日本最初の近代公園と言われています。(日比谷公園と争っていますが)

No.120 4月29日 庭球が似合う街

大正期にも公園は二つしか整備されませんでした。

井伊家によって寄付された「掃部山公園(かもんやまこうえん)」と震災復興で整備された「野毛山公園」です。

掃部山

日本の明治以降の近代公園の多くが「城趾」「武家屋敷の跡地」「寺の敷地」等を利用して整備されましたが、横浜にはまとまった土地が少なかったこともあり公園整備が遅れます。

ある外国人と横浜市の幹部の会話(ジョーク)に

「横浜には市が整備している公園が足りないのでは?」
「いえ、横浜には三渓園という民間の公園が整備されていますから」
と言われるくらい公園が少ない街でした。

(横浜に始まる近代公園)

開港時に欧米人が驚いた日本の技術力が幾つかありますが、中でも「造園」技術は世界的レベルと評価されました。この技術を遺憾なく発揮したのが「彼我公園」(横浜公園)です。

日本には江戸時代から町民文化として安定した園芸趣味があり、武士は勿論町民レベルまで秀逸な庭園が整備され産業が根付いていたからです。

欧米との決定的な違いは、パブリック(パーク)ではなくプライベート(ガーデン)として「造園技術」が成熟して来たという点です。
といっても、欧米でも公園は19世紀に始まった文化ですから日本とさほど差があったわけではありません。

昭和初期の横浜公園

 彼我公園=横浜公園の整備は、日本造園界にとって記念すべき腕の見せ所だったと言えるでしょう。
1864年12月19日(元治元年11月21日)に取り交わされた「横浜居留地覚書」を元に、豚屋火事→「慶応の大火」(1866年11月26日)で焼失した港崎遊郭を整備し公園にしろというものでした。
「外国並みに日本彼我にて用ふべき公けの遊園」(レクリエーション施設)の要求が彼我公園誕生の起源となります。

この彼我公園は居留地外国人のリクエストで造ることになった訳ですが、国によってリクエストの内容にカルチャーギャップが出てきました。

日本政府(神奈川県)は
「元来外国人遊覧之為取設候事故此方於而者造営模様不案内」
として設計は外国人にまかせることにします。
そこで設計は横浜のインフラ計画を担った英国人技術者のブラントンが行い、日本が作ることになります。

設計案
設計案

先に完成した「山手公園」は、居留民の資金と奉仕団で整備されていますから、日本の職人技術がこの「彼我公園」で初めて発揮されることになります。
案の定、彼我の(彼ら)の意見はまとまりません。特に英米が対立します。イギリスはクリケット場を導入しようとしますが、アメリカはクリケットは彼らの都合だといって(政治的に)反対します。
結局、条件付きでクリケット場は造られることになりますが当初の設計図から大きく変わったようです。
直線的デザインから日本庭園を活かした庭園デザインが随所に取り入れられます。(予算の関係だった?)しっかり運動場(クリケットのできるグラウンド)も組み込まれます。
1868年から現在まで続く名門スポーツクラブ(YCC→YC&AC)はこの横浜公園クリケット場がホームグラウンドでした。

YC&ACロゴ

http://www.ycac.or.jp

日本側は、予算をできるだけ減らしたいので作りやすい構造を依頼します。当時の図面のやり取りから、造成当事者の神奈川県と予算管理の大蔵省、設計者ブラントンの苦労が透けて見えます。

明治25年ごろ

今も昔も変わりませんね。

(関連ブログ)
No.78 3月18日 横浜公園に野球場完成

No.286 10月12日(金)初の空中PR横浜で


No.95 4月4日 横浜DeNAベイスターズの本拠地「ハマスタ」開幕


No.332 11月27日(火)おやかた、濱で一振り。


(余談)

横浜球場の横にある「噴水」ですが、高さ2.8m
現在三代目で昭和初期に完成、80年の歴史があります。
因みに二代目は1909年(明治42年)横浜市に管理権が移った最初の整備で造られました。


(余談2)

街歩きに公園探索は欠かせません。
公園には街の表情があり、歴史があります。
元々どのような場所だったのか?
造られる経緯、レイアウトにまで思いを馳せるのも楽しいものです。

現在「歴史公園」という分類があり、全国に250あります。定義が今ひとつ判りませんが街歩きの参考になります。

横浜市には5カ所歴史公園が選定されています。
1横浜公園
2山手一帯(元町公園、港の見える丘公園、山手イタリア山庭園、山手公園)
3根岸森林公園
4山下公園
5大塚歳勝土公園
http://ja.wikipedia.org/wiki/歴史公園

(余談3)

横浜市内で広い公園ランキングは?
第一位
 金沢自然公園
 577,593平米(昭和57年3月17日開園)
第二位
 横浜動物の森公園(ズーラシア)
 541,132平米(平成14年7月25日開園)
第三位
 新横浜公園(日産スタジアム一帯)
 501,667平米(平成10年3月1日開園)
第四位
 海の公園
 470,155平米(昭和63年7月2日開園)
第五位
 こども自然公園
 464,118平米(昭和47年6月5日開園)

■因みに一番小さな公園は?

鶴ケ峰まちかど広場
鶴ケ峰二丁目21−12
65平米(平成7年3月24日開園)

12月 26

【番外編】新資料追加情報

巌谷親子の横浜物語
No.229 8月16日 (木)一六 小波 新杵
ここに情報を追加しました。モースコレクションを見ていたら横浜「新杵」の金平糖ボトルを発見しましたのでラベル部分を載せました。


甘味調進所 横浜「新杵」のラベルに「内国勧業博覧会」褒状拝賜とありますが、第何回か?見えないのが残念です。

※ラベルの字、独学読みなので間違っているかも知れません。
「内国勧業博覧会」は、下記を参照してください。

No.259 9月15日(土)全国お茶の品評会開催

※製茶の話

No.213 7月31日(火)金日本、銀日本

※横浜の自転車を出品

No.179 6月27日(水)電気が夢を運んだ時代?
※古河電工の祖、山田与七の発明物語

【番外編】
手回し式の小型オルガン、西川ピアノの話しです。

甘味調進所は「製菓注文所」とでもいいましょうか、明治頃に流行したようです。現在この調進所(ちょうしんじょ)の名をブランド名に使い始めているところもあるようです。

12月 26

No.361 12月26日(水)横浜に戻って快進撃!

1933年(昭和8年)12月26日の今日、
日本初の自動車量産メーカー自動車製造㈱が
横浜市神奈川区守屋町(現宝町)に誕生しました。
この自動車製造㈱は翌年の6月に日産自動車となり、
2013年に創立80周年を迎えました。

日産自動車本社が銀座から故郷横浜に75年ぶりに戻って来たのが2009年8月です。
日本ビッグスリー(トヨタ・日産・本田)の大手自動車メーカーの一つで、
現在はフランスの自動車製造大手ルノーとアライアンスを結び同社の傘下に入る国際企業となっています。
簡単な歴史は下記を参照してください。
(戦前の貴重な動画もリンクされています)
http://www.nissan-global.com/GCC/Japan/History/history/main.html

(簡略史)
日産が主力自動車とした「ダットサン」は
『快進社自働車工場』にルーツがあります。
注目「自働車」ですからね!!

1911年(明治44年)橋本増治郎が東京府渋谷村麻布広尾88番地に『快進社自働車工場』設立します。このときの資金協力者三名、田健治郎・青山禄郎・竹内明太郎のイニシャルを並べDATとし、脱兎(DAT)のごとく“快進社”と命名します。
1914年(大正3年)上野で開催された東京大正博覧会にV2気筒10馬力エンジンの「脱兎号(DAT CAR)」を出品し、銅牌を受賞します。
純国産自動車の1号車といわれています。
一方で、大阪に久保田権四郎という起業家がいました。
1921年(大正10年)に
ゴルハム式三輪車をベースに、日本人技師後藤敬義とゴルハムとの共同設計で、四輪自動車のリラー号」を完成させます。
この二社が関東大震災を乗り越えるために手を結び、
「ダット自動車製造株式会社」が誕生します。
DATが製造したのが「DATSON」(ダットソン)でしたが
SONは「損」に繋がるということで「SUN」に換え「DATSUN」(ダットサン)が誕生することになった訳です。

その後
石川島自動車製作所(石川島造船資本)に吸収され、日産の前身「戸畑鋳物株式会社」傘下に入り「戸畑鋳物・自動車部」となります。
1933年(昭和8年)12月26日戸畑鋳物・自動車部からダットサン製造に関する一切を引き継いで、『自動車製造株式会社』を創設し今日の日産になっていきます。

日産50年史より

1935年(昭和10年)4月には日本で最初の量産工場と言われた横浜工場から小型自動車『ダットサン』を製造、日産ダットサンブランドが誕生します。

(戦前の自動車製造)
ここで少し戦前の日本における自動車製造の状況について紹介しておきます。
日本のモータリゼーション、自動車の普及は大正に入り活発になります。
当時日本には国産能力が殆ど無く、輸入に頼っていました。
昭和に入りアメリカからフォード(関東)とGM(大阪)が工場進出し、量産体制に入ります。
部品の殆どがノックダウン方式でしたから国内産業も育たない状況にあり、日本メーカーの自立が国策としても望まれていました。昭和7年ごろ国内市場16,000台の内、国産が880台(6%弱)しかありませんでした。
日本の自動車メーカーは
トヨタも日産も最初は「トラック市場」参入から出発しています。

(余談)
「ダット自動車製造株式会社」を吸収した石川島造船といえば、
「横浜製鉄所」繋がりです。
横浜で初めて設立された近代的企業「横浜製鉄所」は慶応元年9月下旬竣工、開業しました。その後、1879年(明治12年)平野富二(後の石川島造船所)の経営に移ります。
No.236 8月23日(木)帰浜した鉄工所

No.108 4月17日 活きる鉄の永い物語

他に横浜関連大企業といえば、
古河電工と横浜ゴムも横浜創業の企業ですね。

(余談2)
日産の前身「戸畑鋳物株式会社」は、創業者鮎川義介が北九州戸畑で起こした企業です。鮎川義介は是非下記リンクをお読み下さい。
戦前経済史には欠かせない人物です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/鮎川義介

さらに横道
東京と大阪の企業が創り上げた「ダット自動車製造株式会社」が石川島造船と合併し「自動車工業株式会社」を作ります。
ちょっと間違いやすいのですが、その後鮎川義介に吸収されできた会社が『自動車製造株式会社』です。
このとき、一部の技術者達が「自動車工業株式会社」に残り、後のいすゞ自動車になっていきます。
このいすゞ自動車のデザイン部門の風雲児だった中村史郎※を引き抜き
現在の日産自動車常務執行役員、チーフクリエイティブオフィサー(CCO)に就任しています。
※「インパルス」「ピアッツァ(二代目)」「ビークロス」を設計

12月 25

No.360 12月25日(火)Merry Christmas!

今日は、クリスマスです。
1879年(明治12年)12月25日(木)日本人の手によつて初めてのクリスマスが海岸教会で行われ、1949年(昭和24年)12月24日(土)戦後初のクリスマス礼拝が尾上町「指路教会」で行われました。
今日は小さなクリスマススナップ特集です。

「指路教会」クリスマス。
http://www.yokohamashiloh.or.jp/christmas2011.html

12月 24

【番外編】検索された方ごめんなさい

2012年1月1日から初めてきましたこのブログ
日めくりブログとでもいえるでしょう。
2012年も残り少ないので
年間アクセスランキングを紹介します。
11月に一度調べた結果をアップしていますが、この二ヶ月でも大きく変わっているので驚きました。
検索された方、たぶん 本意の情報では無いので
ごめんなさい。

(不動の年間第一位は)
No.195 7月13日(金)BRAVE HEARTS

(二位に急上昇)
No.87 3月27日 横浜駅のヘソが変わる

(二位から三位に)
No.90 3月30日 環状鉄道の夢

(四位に登場)
No.284 10月10日(水)Happy Birthday HAMARIN RIN

(五位に新登場)
No.161 6月9日(土)  日本、ロシアに勝利!

(六位に新登場)
No.159 6月7日(木) 強い日土友好の原点

(四位から七位に)
No.155 6月3日(日) パリ万博と神奈川沖

(二位から八位に)
No.286 10月12日(金)初の空中PR横浜で

(九位に新登場)
No.254 9月10日(月)わが国初のファミレス誕生

(十位に新登場)
No.339 12月4日 (火)「横浜から神奈川」へ

(11月に調べたアクセスランキング)
■ダントツ一位
No.195 7月13日(金)BRAVE HEARTS
■第二位
No.90 3月30日 環状鉄道の夢
■第二位
No.286 10月12日(金)初の空中PR横浜で
■第四位
No.155 6月3日(日) パリ万博と神奈川沖
■第五位
No.184 7月2日(月)  ハマに浜ができた日
■第六位
No.91 3月31日 自治体国取り合戦勃発
■第七位
No.283 10月9日 (火)三角菱のちから
■第八位
No.285 10月11日(木)武装セル芸術
■第九位
No.301 10月27日(土)三つの日清
■第十位
No.137 5月16日全店サマークリアランスセール開催中

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