9月 26

(第686話)明治4年、象の鼻 晴天なり。(後編)

(第685話)明治4年、象の鼻 晴天なり。後編です。

(第685話)明治4年、象の鼻 晴天なり。


二本の横浜開港のために幕府は二三ヶ月の突貫工事で開港場を整備します。
二本の小さな突堤を開港場の真ん中に造成し、港の体裁を整えますが、冬の北風が強い日は波が強く小舟も着けることができない状態でした。
そもそも貿易港として開港した横浜港ですが、大型船が着岸できず諸外国からはしっかりとした桟橋の設置(港の整備)を望む声が高まります。
慶應4年の春に、ようやく二本の突堤の一本を波受け用に湾曲させ、その形が象の鼻に似ていることからいつの間にか「象の鼻」と呼ばれるようになりました。

lit_岩倉使節団出発 横浜港に本格的な桟橋が完成したのは1894年(明治27年)ですから開港から35年もの時間がかかります。港の整備が遅れた理由は予算でした。
この国には、国内最大の国際港に桟橋を架ける予算がありませんでした。経済破綻した幕末の借金が新政府にも重くのしかかっていたからです。かろうじて国家財政を支えていた貿易は皮肉にも横浜港から輸出されていた「生糸」と「製茶」でした。
新政府は様々な分野に“近代化”が求められていたのです。

明治4年11月12日(1871年12月23日)
晴れ上がった横浜港に、多くの人々が維新後最大の渡航する「岩倉使節団」を見送りに集まりました。
「岩倉使節団」の公式記録を編纂した一行の一人、久米邦武は「回覧実記」に出航の模様を詳細に描いています。

lit_P9260001『此の頃は続いて天気晴れ、寒気も甚だしからず。殊に此の朝は暁の霜盛んにして扶桑を上る日の光も、いと澄みやかに覚えたり。
朝八時を限り一統県庁に集まり十時に打ち立ちて馬車にて波止場に至りて小蒸気船に上る。この時砲台より十九発の砲を轟かして使節を祝し、尋ねて十五発し、米公使「デロング」氏の帰国を祝す。海上に砲煙の氣弾爆の響、しはし動いて静まらず。使節一行及び此の回の郵便船にて米欧の国々へ赴く書生、華士族五十四名、女学生四名も皆上船し、各其部室を定め荷物を居据えるなど一時混雑大方ならず。十二時に至り、出航の砲を一弾してただちに錨を抜き、汽輪の動をはずしけり。港に繁ける軍艦より、水夫皆橋上に羅列し、帽を脱して礼式をなし港上には見送りのため、船を仕立て数里の外まで恋ひ来りぬ。』

「岩倉使節団」一行は使節46名、随員18名、留学生43名総勢107人が上船します。
横浜港の沖で一行を迎えたのが米国太平洋郵船会社の蒸気船「アメリカ号」で、太平洋上で新年を迎え二十三日間の航海を経て明治5年1月6日「岩倉使節団」はアメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコに到着します。
「明治4年、象の鼻 晴天なり。」前編でも書いたように一行は20代から30代中心の若きメンバー達ばかりでした。
この旅はアメリカに約8ヶ月、その後大西洋を渡りイギリス4ヶ月、フランス2ヶ月、ベルギー、オランダ、ドイツに3週間、ロシアに2週間を費やしました。
出発から1年10か月後の明治6年(1873年)9月13日に横浜港に帰る長旅でした。

lit_Grand_Hotel1897彼らはまずサンフランシスコ最大のグランドホテルに逗留します。
様々な歓迎式典の中で、
当時のサンフランシスコ随一の資産家、ラルストン(William_Chapman_Ralston)氏の歓迎式典で自宅に100人近い一行が招かれたという記述があります。

lit_William_Chapman_Ralston

ラルストンは、1826年オハイオ生まれの実業家で、ゴールドラッシュの恩恵を最大限に利用した銀行家でもありました。
1864年にカリフォルニア銀行を創設し、
1875年にサンフランシスコ湾で溺死しますが事業の失敗による自殺とも言われています。このたった十年の輝かしいひと時に、日本の使節団が彼と出会ったことになります。
このラルストンという人物、間接的ではありますが日本、そして横浜と深い関係になるとはその時 誰もわかりませんでした。さて その人物は?

9月 25

(第685話)明治4年、象の鼻 晴天なり。

江戸時代に生まれ、激動の幕末に頭角を現した総勢107名の日本人が
明治4年11月12日(1871年12月23日)横浜港を出航しました。
彼ら目的は色々ありましたが、多くの同行者は欧米の実情を知ることでした。
「岩倉使節団」のメンバーです。

この国は理想と現実、欲望と信義が落ち着かないまま明治という全く新しい体制に突入します。
革命か政権委譲か?コップの中の嵐を、欧米列強の外交官達は固唾をのんで眺めていました。
明治維新は、
不思議なほどの静かで力強いエネルギーによって始まります。明治新政府は日本の近代化は幕末生まれの若者と、優秀な徳川時代の元官僚が支えられることで大きな混乱なく誕生します。
しかし、大政は奉還されましたが、その先のことは全く白紙状態でした。この国がどうなるのか、どうしていくのか、朝から深夜まで合意と同意の議論が連日続きます。
未熟な維新のリーダー達は皆苛立っていました。派閥抗争も表面化します。

260年続いた徳川政権、武士による連合国家に近い政権がいとも簡単に覆ります。
そして維新後 矢継ぎ早の大変革でこの国の近代化が始まります。
版籍奉還と廃藩置県の実施によって全国の諸藩を一気に解散させ中央集権型に移行させます。
制度の変革には成功しますがここに登場する若き明治のリーダー達は、青臭く原則論者で血気盛んな者達でした。

この若き維新の志士たちに強いショックを与えたのが岩倉具視が率いる「米欧回覧使節団」俗にいう「岩倉使節団」です。

lit_岩倉使節団出発
象の鼻から岩倉使節団出発

1871年(明治4年7月14日)に、制度による大革命「廃藩置県」を行ったその年の暮、
明治4年11月12日(1871年12月23日)「岩倉使節団」は横浜を出発します。

総勢107名
幹部の多くが20代から30代、最長老の岩倉自身も43才という若者集団でした。
同行した者達がその後の各界をリードする人物となっていきます。
この外交団の記録『特命全権大使米欧回覧実記』を著した人物が久米 邦武です。
彼の記述は、日本史上希有の見聞録として、国際社会でも高く評価されています。
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■米欧使節団の主なメンバー
岩倉 具視 1825年10月26日生まれ 43才→正使
由利 公正 1829年12月6日生まれ 39才→随行
大久保 利通 1830年9月26日生まれ 38才→副使
田辺 太一 1831年10月21日生まれ 37才→一等書記官
木戸 孝允 / 桂 小五郎 1833年8月11日生まれ 35才→副使
東久世 通禧 1834年1月1日生まれ 34才→神奈川府知事
三條實美 1837年3月13日生まれ 31才→太政大臣
大隈 重信 1838年3月11日生まれ 30才
山口 尚芳 1839年6月21日生まれ 29才→副使
久米 邦武 1839年8月19日生まれ 29才→公式記録者
名村 泰蔵 1840年11月24日生まれ 28才
何 礼之 1840年8月10日生まれ 28才→一等書記官
伊藤 博文 1841年10月16日生まれ 27才→副使
福地 源一郎 1841年5月13日生まれ 27才→一等書記官
沖 守固 1841年8月13日生まれ 27才→初代神奈川県知事
中山 信彬 1842年11月17日生まれ 26才
長野桂次郎(立石斧次郎) 1843年10月9日  25才
新島 襄 1843年2月12日生まれ 25才→留学生
山田 顕義 1844年11月18日生まれ 24才
川路寛堂 1845年1月28日生まれ 23才→三等書記官
田中 不二麿 1845年7月16日生まれ 23才
安藤 太郎 1846年5月3日生まれ 22才→幕末、横浜で英語を学ぶ
中江 兆民 1847年12月8日生まれ 21才→留学生
小松 済治 1848年生まれ 20才→横浜地方裁判所長
渡辺 洪基 1848年1月28日生まれ 20才→両毛鉄道社長
林 董 1850年4月11日生まれ 18才→二等書記官

 川路 利良※ 1834年6月17日生まれ 34才→司法省の西欧視察団
 鶴田皓※ 1836年2月12日生まれ 32才→司法省の西欧視察団
 井上 毅※ 1844年2月6日生まれ 24才→司法省の西欧視察団
   ※明治5年派遣の司法省西欧視察団メンバー

この岩倉使節団の出発光景を描いたのが「岩倉大使欧米派遣」という作品です。山口蓬春が1934年(昭和9年)に描いたものです。
この一枚の絵画 初期の横浜港を語る上で、興味深い画像ですが意外に知られていないようです。
(つづく)次回は『特命全権大使米欧回覧実記』を元に横浜港の出発風景を探ってみます。
(第686話)明治4年、象の鼻 晴天なり。(後編)

9月 22

【横浜橋物語】弁天橋(横浜市中区)

かながわの橋100選に選ばれている開港時の歴史を刻んできた橋です。

今日は二級河川「大岡川」に架かる「弁天橋」を紹介しましょう。

lig_P2030233lig_P5270407
現在の橋は1976年(昭和51年)の竣工で、四カ所ある親柱が全て異なった珍しいデザインの橋です。
長さ54.4m 幅27m
48ある中区の橋を代表する橋です。
※中区の橋梁台帳No.1 です。
lig_P2030250lig_P2030212lig_P2030217lig_P2030276 親柱の意匠は一般的に統一されていますが、弁天橋はそれぞれの親柱を微妙に変えてあります。
見る角度によって“姿”が異なることに“気がつく”楽しみがあります。

「弁天橋」の名は、「洲干弁天社」に由来します。
かつて横浜村の鎮守様として「洲干弁天社」がありました。この横浜村一体は決して”寒村”などではなく 江戸時代から多くの観光客・参拝客のある風光明媚な観光スポットでした。
2014020720442534f 1859年6月2日(嘉永6年)に横浜港が開港され、当時武蔵の国久良岐郡横浜村を「横浜町」と改称し開港場を整備します。この時、開港場の半分を日本人居住地とし、海側から「海辺通(現:元濱町)」「北仲通」「本町(大通)」「南仲通」「弁天通」の五筋を整備し町並みを整えます。
この時、弁天通より内陸側は沼地(太田屋新田)でした。
20140207204505cfb 江戸時代にこの地域の景勝スポットだった「洲干弁天社」は、開港場の整備の荒波で遷座を余儀なくされます。
この「洲干弁天社」
創建は治承年間(1177年〜1181年)で、武士の時代が始まった頃です。
源頼朝が伊豆国土肥(現・静岡県伊豆市)から勧進したと伝えられています。 その後、足利氏満(14世紀)が般若心経を奉納したと伝えられ、
江戸築城で有名な太田道灌が社殿を再建します。
江戸に入り徳川家光は朱印地(寺院の領地)を与えています。
1869年(明治2年)に現在地の羽衣町に遷座されます。
弁天通は江戸時代からの参道を街区の通りとして整備したもので、「洲干弁天社」が羽衣町に移ってからもその名を残します。
開港場整備の当初は、現在の桜木町駅側から二〜五丁目の4区域に分割しますが、
1871年(明治4年)4月に丁目の数え方を逆転させます。
現在の県庁側から一丁目とし、さらに六丁目を追加し現在に至ります。
この年明治4年に弁天橋が架けられますが、その大きな理由は「横浜駅」と開港場を結ぶためでした。
1870年(明治3年)イギリスからエドモンド・モレルが建築師長に着任し本格的な鉄道計画を立案し工事が始まり。1872年(明治5年)に横浜〜品川まで開通します。

「弁天橋」は、
近代技術の象徴「鉄道」の表玄関に架かる、横浜の顔となった重要な橋として現在までその存在感を誇っています。

(弁天橋 余談)
少し前まで「弁天橋」は大岡川の最河口(下流)に架かる橋でした。(鉄道の橋を除く)現在は、さらに下流に「北仲橋」ができました。
微妙ですが、新港埠頭に架かる橋もあります。
20140207204508c78 (さらに余談)
「北仲橋」開通前、北仲に小さな弁天様「祠(ほこら)」がありました。記憶のある方いらっしゃいますか?
昔の洲干弁天の位置とは少しずれますが、気になっています。


9月 22

【番外編】消された地図

今日は 簡単ですが ある歴史の断片を紹介します。

ここに二枚の地図を提示します。
この二枚の地図の大きな違いと、それぞれの制作年代は何時頃か?
おわかりでしょうか。
lig_S5年新港埠頭 lig_新港埠頭S15年

最初が昭和5年に制作された横浜市街地図の湾岸部を切り抜いたものです。
二枚目が昭和15年に発行された同じ範囲を切り抜いたものです。

明らかに昭和15年に発行された地図(下の方)には不自然な箇所が多数あります。
新港埠頭まで走っている鉄道網が消えています。しかも駅名だけ残っています。
昭和15年、米国との開戦を念頭においた情報統制のために軍事施設等の掲載が禁止されていた時期です。
消された鉄道網と横浜船渠の施設に隣接して「フォード工場」が記載されているのがなんとも不思議な地図になっています。
lig_S15横浜駅東付近
たった数年前まで(恐らく昭和7年から8年)自由に表記できたマップに、インフラまで掲載禁止にすることで、逆にここには「軍事」関係の重要施設があるということを白日に晒しているようなもので、戦争に向かう“余裕の無さ”をヒシヒシと感じてしまいます。

(終戦直後)
同じように、戦後は地図製作の現場がかなり混乱していた様子がうかがえます。
下記の二枚の地図は 昭和21年と昭和28年にそれぞれ印刷されたものですが、昭和7年を元に新しいデータを全く反映していません。
lig_S7baseS21.jpg lig_S7baseS27.jpg

しかも、昭和21年に発行された地図は、(昭和7年)をベースにしているとされていますが、
京浜急行が繋がっていません。
1931年(昭和6年)12月26日湘南電気鉄道と京浜電気鉄道延長線が接続されています。
lig_mapdata2.jpg lig_mapdata1.jpg

日本の主権が回復されたのが1952年(昭和27年)4月28日ですが、
翌年発行された 地図には戦後の姿がまだ反映されていません。
この時期 まだ多くの米軍接収地を抱えていた「横浜」は、事実を反映させる事を避けていたのかもしれません。


9月 22

【芋づる横浜物語】縁は異なもの味なもの3

今日は共進会を紹介した【芋づる横浜物語2】の続きを紹介します。

【芋づる横浜物語1】
【芋づる横浜物語2】
明治初期、文明開化を実感する空間がいろいろ登場します。野外では鉄道、馬車や人力車に洋風の服装の外国人が町を闊歩する姿が登場し、洋館が建ち並びました。

飲食店も江戸時代とは異なる洋風のシツラエが目立ってきます。そしてさらに一般庶民が文明開化を実感したのが「新しいスタイルのお店」の登場です。
その一つに「勧工場」(カンコウバ、カンコバとも)があります。「勧工場」とは大型の共同店舗のことで、1878年(明治11年)1月東京府営として麹町区永楽町辰ノ口に誕生しました。
「勧工場」誕生のイキサツは、東京府が上野で開催した第一回内国勧業博覧会で売れ残った商品をまとめて“在庫一生処分”するために繁華街の一角に“店舗”を開いたものです。
ところが 意外と好調に売り上げを伸ばし、流行の商品が購入できるということで、いわゆる「百貨店」の前身として全国各地に登場します。
1880年(明治13年)には公営から民営となり明治20年代から30年代に最盛期を迎えます。
地域によっては「勧業場」「勧商場」とも呼ばれました。
「勧工場(かんこうば)」の話題性は、
江戸時代のスタンダードモデルだった“座売り”に代っで
商品を並べて販売する“陳列販売”を採用。
同一価格で販売したことが商業革命を起こします。
現在では当たり前の土足で店舗内に自由に出入りすることも「勧工場」が先駆けでした。

(一世を風靡)
勧工場は流行の最先端ショップとして一世を風靡します。
その現れとして、明治・大正期の文学エッセイに勧工場が登場します。
夏目漱石は「門」で
「そう云う時には彼は急に思い出したように町へ出る。その上懐ふところに多少余裕でもあると、これで一つ豪遊でもしてみようかと考える事もある。けれども彼の淋しみは、彼を思い切った極端に駆かり去るほどに、強烈の程度なものでないから、彼がそこまで猛進する前に、それも馬鹿馬鹿しくなってやめてしまう。のみならず、こんな人の常態として、紙入の底が大抵の場合には、軽挙を戒る程度内に膨んでいるので、億劫な工夫を凝よりも、懐手をして、ぶらりと家うちへ帰る方が、つい楽になる。だから宗助の淋さびしみは単なる散歩か勧工場縦覧ぐらいなところで、次の日曜まではどうかこうか慰藉されるのである。」
と豪遊したいが見るだけしかできない“勧工場”を描いています。
この他 「虞美人草」「それから」等でも勧工場が登場します。

また 永井荷風は「あめりか物語」で Department storeを「勧工場」と訳した最初といわれています。
その他 高浜虚子、国木田独歩、尾崎紅葉 らがエッセイや日記に「勧工場」を描くほど当時の日常風景だったといえるでしょう。

勧工場出口になりぬ夏の月  籾山柑子(もみやま かんし)
勧工場目をひく物のかずかずを並べて見する故に喜ぶ 石川啄木(いしかわたくぼく)
新しきにほいなによりいとかなし勧工場のぞく五月のこころ 北原白秋

(横浜の勧工場)
島崎藤村の短編小説に横浜の勧工場が登場します。
「雑貨店」で「横浜 伊勢佐木町の繁華な通りにある高橋雑貨店は、正札付きの日用品を置き並べて、いっさい掛け値なしに売るという便利な店である。この店がかりは高橋となる前の店主の意匠で、以前にもかなり繁盛したものであったが、ふとしたことから貸金の抵当として日本橋富沢町にある木綿問屋の大将の手にはいった。それを高橋のだんなが引き受けて、新たに店開きをしたのである。(中略)この雑貨店は、言わば小さい勧工場のような見世がかりで、是程の人手があってもまだ不足を感じた位である。」と描きました。
作家 島崎藤村は実際に伊勢佐木にあった雑貨店「まからずや」を手伝っていた時期があり、前述の一文はその頃の体験をモチーフにしたものです。
横浜にも勧工場がありました。
『横浜沿革誌』の1882年(明治15年)2月の項で
伊勢佐木町一丁目に「帝国商品館」と向かい合う「横浜館」の二つの勧工場が登場します。また、「横浜繁盛記」(横浜新報社)1903年刊でも
1882年(明治15年)の春に劇場や勧工場、飲食店ができ、賑わい当時四軒の勧工場が伊勢佐木町にあったことを伝えています。
当時横浜最大の繁華街「伊勢佐木」を描いた“絵はがき”にも勧工場が描かれています。
lig_memory8-1.jpg
<横浜市立図書館DBより>
※横浜市立中央図書館が販売している横浜絵葉書の復刻版に収録されています。
lig_絵葉書伊勢佐木M43消印
もう一枚著者所有の伊勢佐木町が描かれている絵葉書もこのブログを書くために資料を探している時に勧工場「帝国商品館」と「横浜館」が描かれていることが解りました。消印から明治43年以前の絵葉書です。
東京ビアホールを頼りに調べてみると
『横浜成功名誉鑑』に
「商品館楼上の東京ビヤホールは創立も古く可成りの繁栄だ」
lig_絵葉書伊勢佐木東京ビアホール
lig_東京ビアホール054
から「東京ビアホール」の看板は「帝国商品館」であることが確認でき、横浜市立図書館「伊勢佐木町」とは反対側からの図であると思われます。
※余談 桜木町駅の「川村屋」の記事も載っています。

実際のイメージは
横浜市都筑区にある「横浜歴史博物館」常設展示場には明治期のコーナーで「横浜館」のファサードを復元しています。

※勧工場の誕生時期に関する諸データは多数ありますが「鈴木秀雄 勧工場と明治文化」が詳しく参考にしました。

(百貨店の原型)
「勧工場」は百貨店の原型となり、商業革命を起こします。
しかし、「勧工場」は消費者のニーズから次第にかけ離れ長く続きません。
1902年(明治35年)東京市の統計では
勧工場 27店
入居店数 2,149店
年間売上高 790,708円
この明治35年を境に年々勧工場は減少していきます。
明治35年 27店
明治36年 26店
明治40年 19店
明治44年 10店
大正3年 5店
(東京市統計)
明治32年に開業した「帝国博品館勧工場」が現在もその名を残しています。
銀座通り新橋寄りにある「銀座博品館」は1930年(昭和5年)に廃業した「帝国博品館勧工場」の名を1978年(昭和53年)に復活させたものです。
lig_帝国博品館
伊勢佐木の「横浜松坂屋 (ノザワ松坂屋)」閉店の後にオープンした「カトレヤプラザ伊勢佐木」はまさに平成の勧工場復活といえるかもしれません。頑張って欲しいものです。
カトレア42
伊勢佐木商店街もいずれ調べてみたい関心領域です。


9月 22

【閑話休題】私のお気に入り風景

横浜は広い!

とかく開港場にこのブログも偏りがちですが、横浜市域は面積437.4 平方キロメートル、18の区があり370万人の人口を有する大都市です。
この世界最大級のCityの魅力はなんでしょうか?
最上段に振りかざし 議論するにはこのスペースでは少なすぎますが、ポイントだけ指摘しておきましょう。
lig_P603昇竜橋0224
良く比較される神戸市と比べるとどちらが広いと思いますか?
神戸市の面積は544.56平方キロメートルです。横浜市より少し広い街です。
横浜同様 市域を拡大させながら大きくなりました。
明治22年4月1日→21.28平方キロメートル
明治29年4月1日→37.02平方キロメートル
大正9年4月1日→63.58平方キロメートル
昭和4年4月1日→83.06平方キロメートル
昭和16年7月1日→115.05平方キロメートル
昭和22年3月1日→390.50平方キロメートル
昭和25年4月1日→404.66平方キロメートル
昭和25年10月10日→420.64平方キロメートル
昭和26年7月1日→479.88平方キロメートル
昭和30年10月15日→492.60平方キロメートル
昭和33年2月1日→529.58平方キロメートル
平成4年1月1日→544.56平方キロメートル
一方、横浜市も
何回かの市域拡大を重ねて現在に至っています。
【番外編】市域拡大は元気なうちに!? 
No.141 5月20日 もしかしたら菊名区?

横浜の魅力は この437.4 平方キロメートルのエリアに都市の要素が多彩に凝縮されている点にあると思います。
軸は開港場にありますが、多彩な都市生活がこの街を重層的に形作っています。
俗な表現をすれば、
歴史も農業も漁業も重工業から最先端技術まで、
そして未来都市まで、
ほどほどの距離感のなかに繋がっている。
悪く言えば「箱庭的」「総花的」な街ともいえるかもしれません。
また、見事なまでの尾根筋が織りなす“谷戸”の街、この起伏が横浜の風景の原点でしょう。丘と坂が連なる分水嶺を歩くと“丘の横浜”が見えます。
この街の普通の風景を今日は幾つか紹介します。
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9月 22

【閑話休題】横浜の風景、ここはどこでしょう?

今日は、場所当てクイズです。
かなり解りにくい風景です。でもヒントはちゃんと隠れていますよ。
lig_ここはどこだ129
写真No.1<ノーヒントです。気がつくとかなり目立ってます>
lig_霧のMM4
写真No.2<ノーヒントです。どこかというより、何か見えないものありませんか?>
lig_ここはどこだ90121
写真No.3<京急のある駅です>
lig_ここはどこだ70077
写真No.4<バードウォッチング用の覗き穴です>
lig_ここはどこだ40099
写真No.5<最近デビューした古民家です>
lig_ここはどこだ20185
写真No.6<鉄系なら おわかりですね>
lig_ここはどこだ10538
写真No.7<ノーヒントです>
lig_ここはどこだ10102
写真No.8<これもノーヒントです。>
lig_ここはどこだ9516
写真No.9<ノーヒントです。>
lig_ここはどこだ4337
写真No.10<一瞬 ルーブル?ってわけないか>
lig_ここはどこだ3992
写真No.11<下流に向かって撮影しています>
lig_ここはどこだ2859
写真No.12<ノーヒントです。>
lig_ここはどこだ1907
写真No.13<ノーヒントです。>
lig_ここはどこだ1723
写真No.14<ちょっと解りにくいかもしれません。遠景に閉鎖されたシアターが見えます>
lig_ここはどこだ0806
写真No.15<右上の建物がヒントです>
lig_ここはどこだ693
写真No.16<画像に施設名が見えます。お気に入りの設計です>
lig_ここはどこだ677
写真No.17<この撮影場所はもう無くなってしまいましたがどの辺か?わかりますか>
lig_ここはどこだ602
写真No.18<花見の名所です>
lig_ここはどこだ0575
写真No.19<ノーヒントですが、かなりの繁華街です。>
lig_ここはどこだ161
写真No.20<ノーヒントです。>
lig_ここはどこだ0004
写真No.21<海岸に近い、元同潤会があったあたりの公園です>
lig_ここはどこだ06
写真No.22<ノーヒントです。>
lig_ここはどこだ0010
写真No.23<江戸時代に橋があった場所ですって>
lig_ここはどこだ30
写真No.24<ノーヒントです。駅まえです。>
(写真差し替え中)
写真No.25<タイルに特徴があります。県庁ではありません。公園です>
lig_ここはどこだ77
写真No.26<橋の無い親柱だけの風景>
lig_ここはどこだ0156
写真No.27<ここがわかったらかなりの橋マニア>
ligここどこ762
写真No.28<プレートがヒントです>
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9月 22

【絵葉書が語る横浜】吉田橋脇2

このブログは、調べながら書き、書きながら調べるという自転車操業が常態化しています。先日【絵葉書が語る横浜】と題して吉田橋際の鶴屋呉服店の風景を探ってみました。

改めて、吉田橋界隈の写真・絵葉書を探していたところ別の「絵葉書」を発見しましたので、簡単ですがパート2として紹介します。
※専門家が探れば簡単な時代考証ですが、ここでは素人の試行錯誤の様子を紹介しています。(毎度の事です)
lig_伊勢佐木イセビル036
<上記写真が以前紹介した吉田橋界隈>
【絵葉書が語る横浜】 吉田橋脇ここでは横浜亀の橋生まれの「鶴屋呉服店」の吉田橋店を推理しました。
亀の橋から亀屋にせず“鶴”としたのは鶴と亀にひっかけたかったのですかね。
そしてさらに東京の“松屋”ですから、縁起が良いといえば中々のものです。
事の真偽は別にして
亀の橋「鶴屋」は 当時の大繁華街「伊勢佐木」入口に店舗を出します。
ここで紹介した「絵葉書」には低層の鶴屋の店舗が写り込んでいることと
1927年(昭和2年)に竣工した「イセビル」が写っていることから昭和初期の風景だという事がわかります。
今回の吉田橋脇の絵葉書をご覧ください。
lig_吉田橋から伊勢佐木046
さらに時間が経ち「鶴屋呉服店」が「松屋」となり五階建ての当時としては近代的なビルとして登場しています。
松屋横浜支店が竣工したのが記録では1930年(昭和5年)です。
振り返って、
【絵葉書が語る横浜】 吉田橋脇
小サイズ
で紹介した風景の年代を確定しないままにしましたが、ここでもう少しはっきりさせておきます。
「イセビル」竣工と「松屋横浜店」竣工の間
1927年(昭和2年)〜1930年(昭和5年)の間の風景です。

さて、
今回の「吉田橋より伊勢佐木町を望む」の風景も、かなり撮影時期を絞り込む事ができました。
まず季節ですが、半袖と日傘の服装から暑い時期、夏頃ではないでしょうか。
lig_半袖姿
年代は
1930年(昭和5年)〜1941年(昭和16年)ごろの10年に絞り込めます。
横道にそれますが「中区わが街 中区地区沿革外史」に戦前戦後の町並みを「記憶絵図」として収録されています。(PDFですが画像は解読に難)
http://www.city.yokohama.lg.jp/naka/archive/reference/wagamachi.html
ここに昭和10年頃の伊勢佐木一丁目マップがあり照らし合わせてみると いろいろ情報が見えてきます。
※薬「わかもと」の広告塔のあるビルは「丸高十銭ストアー」とか。

この風景の時代特定は、意外に簡単でした。
画像に映画の上演案内の看板があり、そこから時期を特定する事ができます。
「2013年12月16日 一枚の絵葉書から」

このブログでも、重要なヒントは「映画」でした。

都市発展記念館のサイトには
http://www.tohatsu.city.yokohama.jp/ppcDB/ppcDB_a12_021_03.htm
『備考:画面左の建物は松屋横浜支店(1930年竣工)。垂れ幕には「祈皇軍武運長久」と書かれている。中央の広告塔の看板は「わかもと」。絵葉書は1933(昭和8)〜45年刊。』
とありますが、もう少し時期をしぼる事ができます。

(開戦前夜の夏)
この「絵葉書」には、読みにくいですが
映画の上演案内が写っています。
lig_映画看板
「小島の春」と「南風交響楽」です。
二本の邦画作品が並んで掲げられています。
「小島の春」1940年(昭和15年)7月31日公開
「南風交響楽」1940年(昭和15年)7月24日公開
特に
「小島の春」はヒットしこの年の暮れに発表されたキネマ旬報年間ランキングで第一位となります。
1940年(昭和15年)この年は皇紀二千六百年でもあります。
この「絵葉書」はこの時期に映された映像をプリントしたことになります。
※「小島の春」は女医小川 正子(おがわ まさこ)が描いたハンセン病在宅患者のノンフィクション小説を映画化した作品で、1937年(昭和12年)に長崎出版より発刊しまたたくまにベストセラーとなります。
この「小島の春」大ヒット、研究者荒井英子は『小島の春』現象と呼び「ハンセン病とキリスト教」(岩波書店)の中で70p以上に渡って分析しています。
ファシズム化の進む中、ハンセン病患者の“囲い込み”政策に上手く利用された疑念は拭えません。
→ここではテーマがずれてしまいますが、
メディアとしての映画が、弱者を切り捨てていく“美談”を謳い、酔いしれる大衆の怖さを学ぶ良いケースです。
lig_小島の春
もう少し時期を絞り込める情報がこの「絵葉書」には写り込んでいます。「松屋横浜店」の壁面に架かっている懸垂幕です。
lig_松屋懸垂幕
7月23日より8月3日まで
「●銀 即金買上げ 取扱い」
→おそらく “満州事変”勃発以降始まった「金銀 (強制)買上」政策の一つを百貨店が代行していたと考えられます。
もう一面の壁には「祈皇軍武運長久」の幕が架けられています。
→同じく戦時下となり国内に緊迫感が次第に高まってきている時期です。
1940年(昭和15年)か
1941年(昭和16年)のつかの間の夏。
lig_吉田橋から伊勢佐木046
あらためて
肩幅の広い「吉田橋」の存在感を感じる一枚です。


9月 22

【絵葉書が語る横浜】 吉田橋脇

あるきっかけで、戦前の絵葉書に関心を持つようになり、

一部手の届く範囲でオリジナル絵葉書も入手するようになりました。

基本は、「絵葉書資料」を書籍やネットで眺めては
その時代の風景や暮らしぶりを推理する楽しみ方です。
ここでは 入手した絵葉書から“ディテール”をクローズアップし
横浜を読み解いてみます。
20140105032819eb0 <大岡川 柳橋の絵葉書>
2014 【ミニネタ番外編】横浜電信柱 探索

ここでも「絵葉書」をヒントに電信柱を読み解いてみました。
また
横濱デパート物語
横濱デパート物語(MATSUYA編)

で「横浜鶴屋呉服店と銀座松屋」を紹介する中で、
松屋の本店絵葉書は紹介しましたが
肝心の「鶴屋」の絵葉書が中々見当たらない。
オークションにも出てこないレア?かと図録類を探してみても「野沢屋」や「越前屋」は良くあるんですが、鶴屋は隅っこ。
20140121092318217 <イセビル付近を少し拡大>
先日 たまたまイセビルが描かれている「絵葉書」が安かったので購入しました。商品画像では一瞬、手書きの複写かな?とも思える程のぼけ具合なので躊躇したのですが、手元に届いてみると 写真に手彩色で吉田橋の“親柱”もしっかり写っていて、このエリアの資料としては良かったな!と感じていました。

当時、吉田橋は現在よりも広かった!
吉田橋はイセビルにかかる感じで架かっていたようです。橋を渡るとすぐ 吉田町(都橋)方面に道が続いていたようですね。
さらに何時も渡っているのに、何も考えませんでした。

改めて昔の地図を眺めてみることにします。
明治時代
20140121092315bb1
<明治20年代>
ここは「派大岡川」でした。橋のたもとには「警察署」がありました。吉田橋関門の流れでしょう。
この警察署の跡地に「鶴屋」が建ち、
その後マップでは昭和初期「松屋」になっています。
201401210924269de
<昭和初期>
戦後になり「三和銀行」がこの場所に建ちます。
20140121092425d9c
<昭和30年代>
横浜市の関内地区大改造の一つ、川の部分が現在首都高速となって地下化します。
ここに“市営地下鉄”が絡んできますから、当事者は大変だったでしょうね。
20140121092319cb2
鶴屋→松屋→三和銀行→現在は、マリナード地下街入口
ざくっとしか眺めていなかったのですが
改めて、マリナード地下街あたりに「デパート」があったんだ!
狭い!
20140121092313756
そうか、高速道路地下化に伴い脇に道路を作ったんですね。(何時も見ていたのに)
川の脇の住宅を取っ払って道路が出来たって訳ですね。
20140121092316f21
確かに
絵葉書の左隅、吉田橋の袂に「鶴マーク」があります。
一枚の風景から いろいろな再発見があるものです。

年代の推定
この絵葉書の年代推定
まず 戦前であることは間違いありません。

ということで 宛名側を見てみると一枚の切符から
もう一つの小さな物語が見えてきました。
20140121093606fc6
アメリカ統治下のフィリピン切手が貼られています。
文面は英国に向けて「HAPPY NEW YEAR」でした。(公開しません。あしからず)

(想像)
ここからは想像です。
差出人は船員で、年末に横浜港に立寄り絵葉書を購入します。
南下し、香港経由でしょう、フィリピンで切手を購入しポストインしたと想像できます。

(アメリカ領フィリピン)
フィリピン共和国は、現在人口960万人で最近台風で国家存亡の危機状態になりました。
フィリピンは長くスペインの植民地時代を経て長い独立運動・戦争の後1899年に独立します。が
事実上アメリカ合衆国に統治権が移ったに過ぎません。
フィリピンが独立(1946年)するまでにその後半世紀50年かかります。
この間に太平洋戦争が起こりフィリピンは熾烈な日米の戦場になります。

実は、フィリピンがスペインからアメリカに統治権が移った時、
「桂・タフト協定」または「桂・タフト覚書」という“密約”が1905年に交わされます。
1924年(大正13年)まで公表されませんでした。
「「桂・タフト覚書」は、当時の首相桂太郎と来日したアメリカの陸軍長官タフトとの間で交わされました。この覚書は、アメリカが日本の韓国における指導的地位を認め、日本がフィリピンに対し野心のないことを表明し、日露戦争後の両国の対アジア政策を調整した重要な覚書ですが、残念ながら日本側原本は消失しています。そのため、外交史料館で編纂している『日本外交文書』第38巻第1冊(明治38年)には、アメリカの外交文書から同覚書を引用しています。」(外務省)

戦前外交の重要な岐路となった事件の一つです。

(切手と政治)
切手には良く独立に関わるその国の偉人がモチーフに使われます。
この絵葉書使われている切手には
Jose rizal(ホセ・リサール)フィリピン独立運動の闘士の顔が描かれています。
ホセ・リサール図案の切手は多く発行されていますが、フィリピンのサイトで1906年発行とわかりました。アメリカ統治下初期のものです。
1927年(昭和2年)に「イセビル」が竣工していますから、
この絵葉書に描かれた吉田橋は
戦前の昭和初期の風景だと推理できます。

(改めて絵葉書を見る)
最初からディテールばかり取り上げていましたので
改めて 絵葉書全体を眺めてみることにします。
20140121092318217 時刻は午後も夕方に近い頃でしょう。夏ではなさそうです。
イセビルの屋上には「キリンビール」の看板があり、伊勢佐木通りの反対側には「ユニオンビール」の看板が見えます。(わかりますか?橋の親柱に一部隠れています)
自転車が多く走っていて、車は見当たりません。通行人の多くが“帽子”をかぶっているのも戦前の特徴かもしれません。横浜市史によると
この昭和初期の伊勢佐木は「ハマのモダニズム」と呼ばれた時代の中心地だったそうです。


9月 22

【絵葉書番外編】逆版の版逆?

禁断の「絵葉書世界」に足を踏み入れてしまい、いまだ半分躊躇しています。
現在価値ある絵葉書はほとんどオークション等でかなり高値で取引されていますのでコレクターの道は“危険”です。
そこで 集められる範囲、閲覧できる範囲で
ハガキを愉しむことを始めた次第です。
絵葉書に関しては特に「横浜」にこだわらず
メディアとしての絵葉書の役割を考えはじめています。
lig_絵葉書各種9
(逆版)
昔、印刷物で“逆版”が登場するケースがときたまありました。フィルムの裏表を間違えて版下を作ってしまう事から生じるイージーミスです。フィルムには表裏を確認することができる文字が入っています。
殆どデジタル画像となった現在では、“意図的に”逆版にしない限り間違う事はありません。フィルム時代が懐かしいですね。
「絵葉書」の世界にも結構“逆版”があるよ!と友人に言われ
絵葉書を見る場合にわかる範囲で“逆版”探しをしていますが、風景の場合元の風景を知っていない限り中々その画像が“逆”と判断できません。
はっきり文字が逆さまになっていればすぐにわかりますが、制作側も当然間違えない訳で、市場に“逆版”として出回っている風景はわかりにくいものが殆どです。(発見)
「絵葉書」を使って時代を読み解く楽しみの一つが
その時代に出会うことができるからです。個人の昔のスナップ写真には意図しない風景が写り込んでいる場合がありますが、「絵葉書」の場合
“商品化”というステップを踏んでいます。
一見、ごく普通の風景にも「絵葉書」化されるには
当時の“事情”“背景”がありました。
その 背景・事情を含め読み解くと 絵葉書から時代を読み解く意味合いと面白さが発見できます。
ということで何気無しに昔の建築物を知るために入手した
「丸ノ内ビルヂング」の一枚がここで登場します。
lig_丸の内ビル絵はがき045
「丸ノ内ビルヂング」→丸ビル
現在の「新丸ビル」情報は
http://www.marunouchi.com/top/marubiru
歴史的な経緯は
http://ja.wikipedia.org/wiki/丸の内ビルディング
Wikiに「旧丸の内ビルディング」の紹介と写真が掲載されていましたので
写真を転載しておきます。
lig_丸ビル1997 <1997年1月22日にPekePONがAPSで撮影>
1926年(昭和2年)大改修の「旧丸の内ビルディング」正面を撮ったものです。右方向が皇居、左方向が有楽町駅方向です。再度、戦前の“おそらく”竣工直後の「旧丸の内ビルディング」と1997年の写真を見比べてみてください。
殆どシンメトリー、左右対称の設計なのでわかりにくいのですが、
私は 一瞬 違和感を感じたのです。数年前なら違和感は起こらなかったかもしれません。
今回はこの風景に不自然さを感じます。
理由は路面電車の領域に関心が出てきたからです。
この画像の「都電(戦前は市電)」の方向に疑問を感じました。
素直に眺めると 市電は東京駅前広場と皇居を結んでいることになります。
まず 丸ビル・東京駅が新しい頃の画像を探しました。
中々確証がつかめませんでしたが、
再度「旧丸の内ビルディング」写真を眺めてみました。

「旧丸の内ビルディング」は左右対称ではない。
ということがわかりました。
敷地の関係で長方形で、幅が異なっていることに気がつきました。
長辺のブロック数と短辺のブロック数が違います。
lig_ブロック数
そこで写真を逆版にしてみて 改修前の「旧丸の内ビルディング」と一致する事がわかりました。
lig_丸の内ビル逆版はがき045
<逆版にした丸ノ内ビルヂング>
良く眺めると、市電の送電線でわかりますね。

(余談)
角地に横浜生まれの「明治屋」が出店しています。
「旧丸の内ビルディング」が大正12年春に大改装した際、明治屋は一等地に進出します。
大改修施行が大林組なのでサイトで確認してみました
http://www.obayashi.co.jp/works/work_H640

明治屋は三菱Gで、日本郵船とともに横浜で大きくなった会社です。
明治屋社史でも丸ノ内支店への出店を大きく取り上げています。
lig_大林明治屋社史 lig_明治屋社史絵はがき048
「磯野計が創業より己の事業の本拠として進出を夢見ていた丸ノ内(東京麹町区永楽一丁目→現在の丸の内一丁目)に大正十二年二月丸ノ内ビルディング(丸ビル)が竣工しその一階一三九号に、当社「丸ノ内支店」が三月出店、小売ストアと喫茶室を併設した。」
「国民的存在としての丸ビル」には商店街出店申し込みが四十倍にも上がり」と記しています。
残念なことに「丸ビル」は大改装後 半年で関東大震災に遭遇します。
丸ノ内エリアが殆ど瓦解・焦土化した中、この丸ビルは残ります。
修復後、明治屋も継続してこの場所に出店し現在まで営業しています。
No.113 4月22日 甘辛両党おまかせ!
最後に少し横濱と繋がりました。
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