12月 18

映画雑談「ブレードランナー」

このブログを始める際、特に横浜とは関係なく、まだ横浜関係に絞り込むことも考えていなかった2011年ごろのもの。
いろいろ書き込んだ中からたまたま現在公開中の映画となったので、気恥ずかしいが公開しておく。

内容的にはサンフランシスコっぽい舞台設定。
ここではファイナル・カット (2007)版と劇場版について雑談。
BLADE RUNNER: THE FINAL CUT
上映時間 117分
製作:アメリカ
ファイナル・カット版はブレードランナー製作25周年となる2007年、これを記念してリドリー・スコット監督が自ら新たに再編集したバージョン。

監督:リドリー・スコット
製作:マイケル・ディーリー、チャールズ・デ・ラウジリカ
製作総指揮:ハンプトン・ファンチャー、ブライアン・ケリー
原作:フィリップ・K・ディック
脚本:ハンプトン・ファンチャー、デヴィッド・ピープルズ
撮影:ジョーダン・クローネンウェス
特撮:ダグラス・トランブル、リチャード・ユリシック、デヴィッド・ドライヤー
音楽:ヴァンゲリス
ハリソン・フォード(リック・デッカード)
ルトガー・ハウアー(ロイ・バティー)
ショーン・ヤング(レーチェル)
エドワード・ジェームズ・オルモス(ガフ)
ダリル・ハンナ(プリス)
ブライオン・ジェームズ(リオン・コワルスキー)
ジョアンナ・キャシディ(ゾーラ)
M・エメット・ウォルシュ(ブライアント)
ウィリアム・サンダーソン(J・F・セバスチャン)
ジョー・ターケル(エルドン・タイレル)
ジェームズ・ホン(ハンニバル・チュウ)(眼球製作者)
モーガン・ポール(ホールデン)

ファイナル・カット版と劇場版は別物と考えた方が良いかもしれない。映像は同じものが多々使われているが 総合イメージは全く異なっている。
この作品は監督リドリー・スコットが何回かリメイクし今日に至っているので、ややっこしいがマニアにはたまらない「隠しネタ」の宝庫だ。
特撮の品質は1982年製作とは思えない秀逸なできばえ。
アバターもインセプションも真っ青。
この特撮を未体験の方は
必見!まず観て 笑って欲しい。その隠し味が たまらない。
主役のハリソンフォードは最初この作品が気に入らなかったらしい。一時期DVD化が無い!という噂が流れビデオ版を探してあわててダビングした記憶がある。
(現在は発売されている というよりいろいろなバージョンが出ている)
4年しか生きることのできない人工人間(レプリカント)は人間と区別できないが限られた生の期限に生きる。そこに感情を持った数人(6人とも5人とも。この人数が作品によって異なる)のレプリカントが反抗を試みる。

この違法?レプリカントを探して処分するのがBLADE RUNNERだ。
設定されている2019年のシュールな下町が数多く描かれながらストーリーは進む。この下町描写を鑑賞するだけでも愉快な旅にでた気分になれる。
大まかなストーリーは ネットに一杯アップされているので参照されたし。

このブレードランナー設定年が2019年のオリンピック直前、
いささか 映画のほうが先にいっているようで2017年10月
「ブレードランナー2049」が公開された。
http://www.bladerunner2049.jp

12月 15

横浜市歌の真実

■横浜市歌に秘められた謎?
横浜で最もポピュラーな歌は「横浜市歌」です。

わが日の本は島国よ (わがひのもとはしまぐによ)
朝日かがよう海に (あさひかがよううみに)
連りそばだつ島々なれば (つらなりそばだつしまじまなれば)
あらゆる国より舟こそ通え (あらゆるくによりふねこそかよえ)
されば港の数多かれど (さればみなとのかずおおかれど)
この横浜にまさるあらめや (このよこはまにまさるあらめや)
むかし思えば とま屋の煙 (むかしおもえばとまやのけむり)
ちらりほらりと立てりしところ (ちらりほらりとたてりしところ)
今はもも舟もも千舟 (いまはももふねももちふね)
泊るところぞ見よや (とまるところぞみよや)
果なく栄えて行くらんみ代を (はてなくさかえてゆくらんみよを)
飾る宝も入りくる港 (かざるたからもいりくるみなと)

http://www.city.yokohama.lg.jp/kyoiku/gakusyu/sika/media/shika1.wax

この横浜市歌の作詞は「森林太郎」文豪森鴎外です。
作曲は南能衞で1909年明治42年)開港五十周年記念式典で披露されました。
この辺りについてはネットでもいろいろ資料がありますので参照して下さい。
ここでは、森林太郎がなぜ作詞を引き受けたのだろうか?という素朴な疑問に迫ってみたます。
森の日記からは「横浜市長三橋信方に頼まれた」とあります。
1909年(明治42年)3月横浜市が市長名で代理が森林太郎に作詞を依頼したことに始まります。
市長名代「三宅成城」氏が開港50周年記念事業の一つとして依頼し、森林太郎が受けるのはごく自然ことですが、何故森鴎外だったのでしょうか?
選定過程の資料は関東大震災で失われてしまい残っていません。
想像が楽しくなります。
(以前から知合い?)
当時の第五代市長「三橋信方」と軍務医「森林太郎」は知り合いだったのか?
旧知の仲まではいかないにせよ何らかの繋がりがあったのでは?
という仮説を立て調べ始めました。
日記、記事等を読む限り、直接的な史実は見当たりませんでした。
傍証はかなり出てきました。
ここで素人探偵飛躍を承知で この二人の関係に迫ってみました。

■キーワードは水
「鴎外」と「三橋」をつなぐキーワードは「水」です。
さらに掘り下げれば「虎列刺(コレラ)」がこの二人を結びつけたことは間違いありません。幕末から明治にかけて、日本にとって国家存亡の危機は「コレラ」でした。
開国によって世界が航海で繋がると同時に
疫病も世界レベルになる「コレラ パンデミック」が世界を襲います。
明治に入り何度もコレラが伝搬し、中でも数回コレラが蔓延し非常事態が宣言されます。「コレラ対策」は国家の最重要課題でした。
当時の「公衆衛生」の最先端医学情報はドイツにありました
そこで森林太郎はドイツで公衆衛生を学ぶために留学します。ドイツではコレラ菌の発見者コッホ博士にも学んでいます。

公衆衛生の要は
「上下水道」の整備に尽きます。つまり「安全な水の確保」がこの伝染病の拡大を防ぐ解決法です。森は日本に戻り、上下水道の普及と『改善』を報告します。
一方、第5代横浜市長「三橋信方」もまた水の専門家でした。
市長になる前、官僚時代には横浜水道経営の立役者となり、パーマーが構築した日本初の水道経営を軌道に乗せる実績を残します。
横浜が良港として、国際都市として発展するには
安心できる大量の水確保が必須でした。
「森林太郎」「三橋信方」は共に都市経営における水道整備を同時代に担ったテクノラートでした。また、三橋信方はベルギー公使を歴任するなど外交官として国際感覚も持ち合わせていました。
そこに両者の親しい関係はなかったかも知れませんがが“信頼感”と“シンパシー”があったことは間違いないでしょう。
市歌を作る話しがあがった時、市長「三橋信方」が最初に浮かんだ人物は文壇においても活躍し始めていた「森林太郎」だったのではないでしょうか。

1909年明治42年)7月1日に横浜市歌は「開港式典」で発表されました。
式典からしばらくして
7月31日に市長三橋信方は鴎外の自宅を訪れます。
形式的には、作詞依頼等の事務は官吏三宅成城氏にまかせましたが、
無事市歌も完成し一段落した頃に訪問した訳は?
そこで話された話題は何だったのでしょうか?
当時世の中を騒がせた森の発禁問題も話しに出たのでしょうか?
それとも「水」談義だったのでしょうか。

■意外な出来事
横浜市歌は、1966年(昭和41年)歌いにくいという理由で 音階の一部を変更しています。変更には異論も多かったようですが当時の関係者の強い意向で
 子供達が歌いやすいようにという理由で変えます。
この事実には 驚きました。つい最近まで楽譜にそのことが記述されていませんでしたが、現在は記載されています。

12月 7

横浜ラプソディ 横浜市歌を巡る 後編

横浜市歌に関する記録はあまりありません。残念ながら、関東大震災で多くの資料が失われてしまいました。横浜市歌ができ上がる記録を森鴎外の日記から辿ることができます。

1909年(開港50周年の年)2月に東京で市歌の打ち合せがあり、3月21日横浜市から森林太郎に市歌制作の依頼があったと書かれています。

この頃から日本全国校歌や社歌、市歌、記念歌がさかんに作られました。1907年小学校が6年間の義務教育施行、教科として「唱歌」が学校の必修になり、新しい音楽が日本中を満たし始めた時代です。校歌や市歌、社歌制作は当時花形の仕事だったといえるでしょう。

特に20世紀に入った1900年代には、こぞって全国の学校が校歌を作成しました。その受け皿が東京音楽学校だったようです。音楽学校出身 校歌作曲御三家は、山田耕筰、信時潔、そして平井康三郎です。(※私個人の調査集計)それぞれに個性が全くことなる三人でした。

東京音楽学校の御三家について簡単に紹介しましょう。山田耕筰(やまだこうさく)は、1908年東京音楽学校声楽科を卒業します。この時首席だったのが本居 長世で、野口雨情作詞『青い眼の人形』を作曲しました。この青い目の人形にまつわる『横浜ラプソディ』にも面白いつながりがありますので別な機会にご紹介します。

山田は、交響曲、オペラ、映画音楽そして詩人北原白秋と組み記憶に残る童謡を量産する天才肌でした。活動は作曲に留まらず積極的に楽団や音楽家の組織運営に乗り出します。戦前は軍歌も精力的に作り自ら軍服を着て指導したため軍部礼賛と非難され戦後戦犯論争が起ります。また、支援者との間で女性問題や運営のスキャンダルも抱え挫折しますが乗り越え、戦後も精力的に活躍します。

昭和初期、茅ヶ崎在住時に『赤とんぼ』(三木露風作詞)を作曲したことが縁で、茅ヶ崎に記念碑があります。校歌、団体歌は100曲を超えます。

信時潔(のぶとききよし)は、山田耕筰の少し後輩で、東京音楽学校予科入学後チェロを専攻しその後作曲部に進みます。

生涯1,000曲近い校歌の作曲記録が残っています。評価の高い代表作は、慶応義塾塾歌です。簡素で重厚な作風が特徴で、おそらく日本で最も多くの校歌を作曲した作曲家ではないでしょうか。山田耕筰とは作風、経歴、戦後の処し方で好対照といわれます。

平井 康三郎(ひらい こうざぶろう)は、ここで登場する作曲家の中では最も若く、戦後主に活躍しました。東京音楽学校ではバイオリン科卒業、山田が声楽、信時がチェロとそれぞれ違う音楽ジャンルというのも興味深いものです。

日本の合唱ジャンルを育てた功績者で、多くの合唱曲も作曲しています。600校近い校歌も日本全国幅広く作曲しています。横浜では滝頭小学校、菊名小学校、本宿中学校、東高等学校他10校近く残しています。中学校で歌った「人恋うは悲しきものと平城山にもとほり来つつたえ難かりき」『平城山』(narayama)の作曲が彼だったと知って驚きました。

市歌制作は、6月6日に完成という記録があります。依頼されたのが3月ですので三ヶ月の日数で作詞作曲したことになります。当時は作曲が先というケースが多く、横浜市歌も曲が先でした。

鴎外の日記には「5月2日南能衛、横浜市歌のことを相談に来る。」とありますので、この時点で譜の配分を伝えたのではと推理します。配分に合わせ、文字数を揃え6日に「南、音楽学校より電話にて予を招く。行きて、横浜市歌の譜を見て、直ちに転記す。」とその場で調整したのではないでしょうか。

歌詞が6月17日付けの「横浜貿易新聞」に発表され、開港記念日の7月1日、記念式典で出席者に披露されました。

この市歌制作に際し支払われた謝礼は、森林太郎に100円、南能衞に50円だったそうです。この金額は当時の相場でどのくらいだったのでしょうか。

森鴎外と並ぶ文豪夏目漱石が、明治26年東京高等師範学校の嘱託教師のときの年俸450円でした。明治36年(1904年)ごろの帝国大学講師の年俸は800円だったということですから、若き南能衞の謝礼は若いなりに良い方だったのではないかと想像できます。

一方作家でもあり、軍医でもあった森林太郎は明治40年45歳の時、軍医総監(少将相当官)の地位にあり月給300円プラス原稿料があり、かなりリッチだったことは間違いないでしょう。

貧乏有名人の明治代表、石川啄木は「悲しき玩具」の中で「月に三十円もあれば、田舎にては楽に暮らせると---ひよつと思へる。」と作品に残している時代です。

■最終章

南能衞は、なぜ前途有望な東京音楽学校助教授の地位を捨てたのか?確かな資料は見つかりませんでしたが、どうやら後輩の山田耕筰とは合わなかったようです。1912年山田が留学先ドイツから帰国し三菱財閥の支援も受けて東京音楽学校に戻ってくると聞いて、許せなかったのかもしれません。辞表を提出し、兵庫県の龍野市にある東洋楽器製造という会社に勤めますが教師の道が忘れられず今度は台湾で音楽指導に努めます。

彼は生涯指導者だったようです。専門はオルガンですが、楽理、和声論、音楽教授法、音楽通論等の指導に当たりました。彼の作曲は数曲しかありませんが、年配の人ならほとんど口ずさむことができる童謡を作曲しています。

村の鎮守の神様の

今日はめでたい御祭日

ドンドンヒャララ ドンヒャララ

ドンドンヒャララ ドンヒャララ

朝から聞こえる笛太鼓

作詞者は不詳ですが、どことなく横浜市歌に似ていませんか?題名は「村祭り」、文部省唱歌となり明治45年掲載されましたが、政府の決りで作詞作曲者名は無記名でしたので彼の名前は広く伝わることはありませんでした。

南が学校を辞めて移った兵庫県龍野は、南が去った後、山田耕筰のベストパートナーの一人で「赤とんぼ」を残した作詞家三木露風が育った街でもあります。歴史の皮肉かもしれません。

12月 5

横浜ラプソディ 横浜市歌を巡る前編


「わが日の本は島國よ 朝日輝ふ海に 連り峙つ島々なれば あらゆる國より舟こそ通へ」と続く歌詞は、文豪森林太郎(鴎外)作詞による横浜市歌です。街のどこかでこの歌が流れると、思わず口ずさむ市民に出会うことができます。そう、平成になって音頭やブルースにもなったこの歌は日本一歌唱人口の多い市の歌といえるのではないでしょうか。
横浜市歌は小雨降る新港埠頭で行われた「開港50周年記念大祝賀会式典」で市民に披露されました。1909年(明治42年)7月1日のことです。
市民に愛されているこの市歌、作詞者鴎外は有名ですが、作曲者についてはほとんど知られていません。作曲は当時東京音楽大学助教授であった南能衞(みなみよしえ)です。何故、この二人が横浜市歌を作ることになったのか詳細は不明ですが、二人とも「反骨の精神」を持つ気概ある芸術家であったことは間違いありません。

南能衞は明治14年徳島に生まれ、この横浜市歌を作曲した時は28歳でした。作詞者の鴎外が47歳でしたから親子に近い年の差がありました。小さい頃から数学が得意で、徳島師範学校を卒業し尋常小学校教員資格を得ました。すでに徳島市富田尋常小学校訓導に任命されていましたが、休職し好きな音楽教育の道に進むことを選び東京音楽学校甲種師範科に入学します。卒業後、教員となり郷里徳島中学から和歌山師範に移り師範では初の男女混声合唱を指導します。この成果が評価され1908年、母校東京音楽学校に戻り助教授に就任します。順風満帆でしたが、数年後人事で辞表を叩き付けます。
一方、作詞の森林太郎(鴎外)は、明治大正の文豪として多くの作品を残していますが、大秀才で、二歳年齢を多く申告し帝国大学医学部に入ります。語学に堪能で、19歳で本科を卒業後陸軍軍医となりドイツに留学します。この時の異国の恋を描いたのが代表作「舞姫」ですが、軍医との二足のわらじで書いたものでした。1909年『スバル』創刊後に「ヰタ・セクスアリス」「雁」などを発表。乃木希典の殉死に影響されて「興津弥五右衛門の遺書」を発表後、「阿部一族」「高瀬舟」など歴史小説や史伝「澁江抽斎」等も執筆した夏目漱石と並ぶ文豪となります。
横浜市歌制作時、南能衞は東京音楽学校助教授になり、森林太郎(鴎外)は文学へと傾倒し始めた頃です。鴎外は、軍医の職を持ちながらも、フェノロサのもとに開設された東京美術学校(現東京藝術大学)に1889年(明治22年)美術解剖学講師となり、1892年(明治25年)9月には慶應義塾大学の審美学(美学の旧称)講師を委嘱され日本の美学の基礎を切り開きます。鴎外の偉大な遺産は、文学であり美学ですが、発禁処分、左遷、戒飭(かいちょく)後彼も人事問題で辞表を叩き付けます。
共に正義感が強く、反骨精神の塊だったようです。(後編へ)