9月 8

甲乙2種の記念絵葉書(アーカイブ再掲)

1909年(明治42年)6月28日(月)
「横浜開港50年史」上下2巻ならびに甲乙2種の記念絵葉書を発行する。(横浜商工会議所百年史)」

「横浜商業会議所発行」

※上記絵葉書は記念絵葉書の一部です。

この他
★「開港五十年記念博覧会の開会式が挙行された(横浜歴史年表)」
★「開港記念史料展覧会が万国橋内でひらかれた(横浜歴史年表)」
★「開港記念史料展覧会税関新埋立地で開催(〜7月5日)(総合年表)」
★「五十年祭に参列の英艦マンモウス号入港(総合年表)」
と開港記念日前にプレイベント的に様々な催しが行われます。
メインイベントは
1909年(明治42年)7月1日(木)に式典が行われました。

No.183 7月1日(日) 7月のハマ?

No.183 7月1日(日) 7月のハマ?


有名な話ですが、昭和3年まで開港記念日は7月1日に行われ、

その後

6月2日に変更され現在に至っています。
No.83 3月23日 雨が降りやすいので記念日変更

No.83 3月23日 雨が降りやすいので記念日変更


この日に合わせて「井伊直弼像」の開幕式を元彦根藩のメンバー他、薩長土肥の藩閥政治に不満をもつ人達の手で挙行する計画でしたが<時の政府>には中止命令を受けます。

横浜の商業会議所(後の商工会議所)発行の絵葉書にはしっかり井伊直弼像がペリーと一緒に描かれていますから、横浜は薩長土肥出身者とは一線を画していたのかもしれません。
※「横浜開港50年史」上下2巻は
近代デジタルライブラリーでダウンロードできます。
http://kindai.ndl.go.jp
(風景を読みとく)
明治から大正にかけて 世界は絵葉書の時代でした。日本も年に<億>単位の絵葉書が国内外に流通し市民メディアとして多くの状況を伝えました。
ある時代の重要な映像資料となりますが、<複製>も多く、正確な年代推定が難しい資料であることもありつい最近まで<歴史資料>としては中々認知されませんでした。
その浜で、「横濱絵葉書」は火災・震災・戦争・接収等を経て街の風景がめまぐるしく変化していることもあり、<時代資料>としての絵葉書研究が早くから行われてきました。
この商業会議所発行の「開港五十年記念絵葉書」、
写された<税関桟橋>の時代推定に重要な判定基準となってきます。
絵葉書に見る<税関桟橋>の変遷は別立てで 紹介します。

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9月 3

横浜製自動車 雑話(改訂)

1925年(大正14年)3月3日
アジア初の「日本フォード」製造工場が横浜市神奈川区子安に開設されました。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6947
このフォードの進出は、日本自動車産業界に大きなインパクトを与えました。light_20150523132628

日本の自動車生産革命が国内メーカー、アメリカメーカーの下で<横浜>から始まりました。

1925年(大正14年)2月に資本金400万円で「日本フォード社」が横浜市緑町4番地に設立されます。
そして3月3日、新子安に「日本フォード」の製造工場が生産を開始します。
当初は本国モデルの左ハンドルT型フォードをノックダウン生産しますがここでは右ハンドルモデルAの生産をおこないました。
遅れること二年、ゼネラル・モーターズが大阪に拠点を置き生産を初め米国二大自動車メーカーによる東西競争が始まります。light_20150508141642
1936年(昭和11年)に、日本政府は自国の自動車産業の保護育成を目的とする「自動車製造事業法」を制定。この法律により、国内資本が50%以上の企業のみ自動車製造が制限されたことで、
1939年(昭和14年)12月にはトヨタ・日産・フォード間の合弁企業設立交渉が行われたこともありましたが、軍部からの強い横槍があり夢の合弁はたち消えとなってしまいます。
日本フォード社は1940年(昭和15年)に操業停止を余儀なくされます。
1941年(昭和16年)12月から1945年(昭和20年)8月終戦までの期間は日本政府に接収され、陸軍収容財産となり全ての生産設備は解体され、倉庫だけが残ったそうです。
戦後の連合国軍接収を経てフォードに返還され、東洋工業の所有となり現在はマツダのR&D(研究開発)センターとなっています。
一方、自動車製造(株)が1933年(昭和8年)に資本金1000万円で横浜に設立されます。(社長 鮎川義介)
翌年の1934年(昭和9年)6月に日産自動車(株)と社名を変更。翌年から生産に入ります。
1937年(昭和12年)2月には販売体制を確立するために「日産自動車販売」を設立します。
現在の日産自動車横浜本社

 

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9月 3

井伊掃部頭の銅像除幕式

1909年(明治42年)6月11日
「井伊掃部頭の銅像除幕式行われる。(横浜商工会議所百年史)」
以前「神奈川県庁設計問題」でも少し触れましたが、横浜を舞台にした開港騒動は明治に入ってからも長く続くことに。
まず「1909年(明治42年)6月11日井伊掃部頭の銅像除幕式行われる。(横浜商工会議所百年史)」
これは誤記と思われます。
正しくは1909年7月11日ではないでしょうか。

尊皇攘夷の空気が強まる中、時の大老「井伊掃部頭直弼(いいかもんのかみなおすけ)」がペリーと日米修好通商条約を調印します。
その前にペリーが来航した時は老中“阿部 正弘”が日米和親条約で開国の実質的調印をし、後任の井伊直弼が例の<安政の大獄>で徹底した弾圧をしたために後世恨みを買う事になるわけです。
まあ 幕末史で彼ほど極端に評価の別れる人はいないでしょう。
井伊直弼が弾圧なら 吉田松陰はテロ首謀者ってことにもなりますから歴史の議論はこれからでしょう。
とにもかくにも歴史は大事件後少なくとも二世紀位は敗者に不利です。
弾圧された側が<政治権力>を握る。当然粛清が行われます。
薩長土肥を中心に尊王・勤王・攘夷・開港・佐幕・倒幕といった考えの交雑のなか明治維新となっていきますからまあややっこしいことこの上なし。
このあたりをテーマにするとこれまたこじれそうなので シンプルに
「井伊掃部頭の銅像除幕式」騒動を紹介しておきます。

横浜市西区掃部山公園図

この「井伊掃部頭の銅像除幕式」は横浜で行われました。その場所が現在の「掃部山公園」です。

この文面だけだとなるほど、幕末の大老が開港の舞台となった「横浜」に大きく関係があったから銅像が建った、と普通は思います。
当時の薩長藩閥組が強かった明治政府の下で、弾圧された張本人の顕彰碑を建てるなんて“もってのほか”と考えるのが<官軍>側で、
一悶着あったのがこの銅像事件です。
井伊直弼は彦根藩藩主で、現在も滋賀県彦根市では尊敬されていますから、彦根市の記述には
「開港50周年を迎えようとしていた横浜では、開港の生みの親でもある直弼を顕彰しようとする動きが盛り上がました。直弼の宮位にちなんで、掃部(かもん)山と名づけた地に直弼像が建立され、明治42年(1909)開港 50周年記念式典で像の除幕式が挙行されました。翌43年(1910)、直弼没後50年に、彦根でも護国神社近くにあった尾末公園に直弼像が建立されました。(彦根市)」と書かれています。
これ<正確>ではありません。井伊直弼像、開港 50周年記念式典での除幕を計画していましたが神奈川県知事から中止勧告があり1日から11日に延期して<強行>した経緯があります。これを開港 50周年記念式典の中に入れるかどうか?
まあ常識的に考えて 入らない。でもこの除幕式の意味するところは大きいのでしっかり研究して欲しいと望みます。
簡単に井伊直弼像建立顛末を年譜で追います。
1860年(安政7年3月3日)3月24日
三月三日桜田門外の変で脱藩した水戸藩士他18名が井伊直弼を殺害。
世田谷豪徳寺に葬られた井伊直弼の墓には毎年関係者が墓参に。
1881年(明治14年)11月
井伊直弼死後20年を経てそろそろ23回忌のこともあり
井伊直弼像、在東京建碑委員が選定されます。当初は銅像ではなく<建碑>案だったようです。建碑場所として横浜戸部不動山を候補に挙げられますが東京案の方が多数を占めます。
1882年(明治15年)10月
上野東照宮境内案を申請。11月に内務省内で議論されますが否決され不許可を通知。
1883年(明治16年)11月
横浜戸部不動山鉄道局所有地(現在の掃部山公園)の払下げを願い出、許可されます。
1884年(明治17年)1月
横浜戸部不動山の地所開墾に着手します。
1884年(明治17年)3月22日
「東京・横浜の紳商60人、佐野茂で会合、野毛山に井伊直弼 記念碑建設を決定」
1886年(明治19年)3月27日
豪徳寺で二十七回忌が行われます(26日〜28日)
1888年(明治21年)3月20日
神奈川一区選出の暴れん坊議員となった島田三郎(『東京横浜毎日新聞』社長)が
『開国始末』を発刊。(付録 井伊掃部頭直弼伝)ここで井伊直弼を擁護する。
1891年(明治24年)
「大老銅像建碑委員会」が発足。
1892年(明治25年)3月27日
井伊直弼の三十三年祭を世田ヶ谷豪徳寺で開催。
1893年(明治26年)
旧臣が集まり「旧談会」を発足。
1893年(明治26年)8月
佐賀藩出身の中野 健明神奈川県知事は 遺勲碑建設に関し内務省に問合せた結果、長州藩出身の井上馨大臣は拒否。(当たり前といえば当たり前)
1899年(明治32年)5月19日
「日比谷公園内に直弼顕彰碑計画を立てる」案が内務省却下。
この時の内務大臣は第2次山県内閣の西郷従道。
1907年(明治40年)2月
遺勲碑から銅像に変更し戸部山に建設を決定し設計に着手します。
土台の設計者は妻木頼黄。→彼が神奈川県庁設計から突然のスキャンダルで外されます。
1909年(明治42年)6月26日
銅像が竣工。
1909年(明治42年)7月1日
開港五十年式典が開催されます。横浜市章・市歌発表。
これに合わせて挙行予定だった銅像除幕式を神奈川県知事(周布公平)、横浜市に中止を申し入れ、中止延期となる。
1909年(明治42年)7月11日
除幕式を強行します。式典にはいったん政界を引退した元総理の大隈重信、英国総領事ら出席者は600人にも及びました。
1910年(明治43年)
彦根に井伊直弼像を建立
1914年(大正3年)11月7日
野毛山の土地・銅像は一旦井伊家に寄贈され、整備後横浜市に寄付(8月)、掃部山として開園します。
1923年(大正12年)9月1日
関東大震災で銅像上部が回転、転倒せず。公園は被災者の避難所に。
1935年(昭和10年)3月2日
「天照義団掃部頭銅像の首を狙う」事件発覚
1940年(昭和15年)4月10日
「井伊直弼朝臣顕彰会」横浜で開催。
1943年(昭和18年)6月16日
銅鉄押収「応召」となる。
1954年(昭和29年)5月20日
二代目井伊直弼像 完成。
1954年(昭和29年)6月2日
開港百年祭に際し二代目井伊直弼像 除幕式。
1958年(昭和33年)5月10日
開港百年祭実行員会、開港功労者31人を顕彰。井伊直弼も
1968年(昭和43年)9月29日
「開港の恩人井伊大老を偲ぶ110年祭」掃部山公園で開催
1989年(平成元年)
YES89掃部山公園再整備
2012年(平成24年)3月28
横浜市認定歴史的建造物に認定
2014年(平成26年)
区制70周年と掃部山公園開園100周年、掃部山公園再整備
※この年表は 各種資料から集めたもので ここの真偽は確認しておりません。
若干時系列で 矛盾しているかのように見える点がありますがそのまま掲載しました。

※何故誤って6月11日となったか推論
わからないでもありません。このブログでも何回も触れていますが、開港祭は昭和に入るまで7月1日に行われていました。そのため前述の延期騒動をそのまま現在の6月開港祭の前提で6月11日としたのではないでしょうか。

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