7月 20

第853話 7月20日 京急仲木戸

1941年(昭和16年)7月20日(日)
「海の日」の起源となった「海の記念日」が制定され、横浜でヨット大会が開催されました。
幻の東京オリンピックにも関係したこのレースの話ではありません。
安政6年の話です。まずは京急「仲木戸駅」から始まります。
京急「仲木戸駅」を降り、海に向かって少し歩くと国道15号線に出ます。

lightP8211519 lightP8211520

この道をさらに真っ直ぐ進むと「村雨橋」その先に「瑞穂橋」があります。
この2つの橋は、横浜戦後史にその名を残す「戦車」の橋でした。
今回はこの橋を越えず 手前で右に曲がるとしばらくして運河沿いの景色が見えます。

ゴルフ練習場のフェンスを左手に見ながらさらに進むと“古い石積み”を観察することができます。
奥に高層マンションが見え、手前に倉庫群がありこの建物を大きく周り込むように進むと「神奈川台場」の遺構が一部残された「神奈川台場公園」があります。
(神奈川台場公園)
横浜の歴史好きなら一度は訪れたことのある場所です。昨日の「第852話 7月19日京浜急行線権現山」で少し触れた神奈川台場は幸ヶ谷から土砂を削りだし埋立て、石は真鶴から運んだと言われている江戸末期の遺構です。
ここは
勝海舟が基本設計を行い伊予松山藩が築造した船舶警備用の施設です。
台場といえば品川の「お台場」が有名で、全国にも数多くの幕府と各藩により築かれた「台場」が残り“指定文化財”“国の史跡”等に指定されています。
その点、この神奈川台場は開港場沖を監視するという重要な役割を担いますが、間もなく歴史からその姿を消してしまいます。light神奈川台場 この神奈川台場は他の台場には見られない“船溜まり”を持つ構造を持っていて、「蝙蝠台場(こうもりだいば)」とも呼ばれた歴史的にも貴重な歴史遺構でしたが、近代化のうねりに飲み込まれてしまいました。
ペリーが江戸湾に姿を現したことで、幕府は江戸湾の警備をいくつかの藩に命じます。この「台場」のある神奈川宿一帯は“坂の上の雲”で一躍注目された伊予松山藩が担当することになります。(因みに横浜開港場は越前松平藩が担当)
「万延元年(1860年)に藩財政1年分にあたる7万両と、延べ30万の人員を投入しわずか1年で完成させました。設計は西洋通の勝海舟に一任したと言われています。この台場は軍事施設でありましたが、明治以降は諸外国の外交団が来日した際や、国王・大統領の誕生日などに儀礼として祝砲を発射する施設として利用され、国際都市横浜の発展を支える重要な役割を果たしてきたと言えます。
明治32年(1899年)に台場は廃止され、大正10年(1921年)頃より徐々に埋め立てられ、現在ではJR東高島貨物駅構内にごくわずかに石垣を残すのみとなり、かつての景観はありませんが、現在の横浜市はこの台場が基礎となっており、貴重な史跡となっています。(伊予萬翠荘)」
「隠岐守(伊予藩)は海防の事には頗る熱心であった丈けに、幕府に砲台を築く事を願ひ、最初は神奈川宿の猟師町と並木町との二ケ所に設ける考へであったが、段々調査して見ると相当の砲台を築くならば、近距離に二ヶ所も設くる必要は無いと云ふので猟師町の方だけに築造する事にした。
当時品川砲台は頗る不評判であったので,折角築造するならば効力の充分なものをとの評議であった。(横濱市報1938年)」
と説明されています。
<品川台場>が不評だった!という記述には1938年当時、東京と神奈川で開港紛争が起こっていましたので100%丸呑みにはできませんが、<神奈川台場>のデザイン性からもかなり実効性を求めたことが判ります。
そして台場の設計が勝海舟に依頼され、安政6年5月に実測後の<縄張り・杭打ち>を佐藤政養が担当し

この年の7月20日の今日
工事が始まります。工期は当時としては極めて短期間の約一年で完成、万延元年6月に竣工しました。
横浜開港の幕開けに欠かせない<神奈川台場>近年再調査と保全が進められています。まだ多くの遺構がJR貨物の「高島駅」構内に埋もれています。light神奈川台場合成007
今後、遺構が再出現する可能性もあり楽しみです。
現在は台場に隣接して<コットンハーバー>のマンションが建っていますが、この一帯は浅野造船所でもあったため、造船所も遺構も残されています。light_20150404125158浅野造船所略図
夏は少し汗ばみますが、秋口にでも一度散策されてはいかがでしょう。
※コットンハーバー行きのバスがあります。
京急仲木戸からは徒歩20分くらい

No.202 7月20日 (金) 港をヨットが舞った日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=405
今日は元「海の日」です。

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6月 28

第834話 1966年(昭和41年)6月28日女性職員3人犠牲

1966年(昭和41年)6月28日の今日
「台風4号で第二磯子寮が被災。女性職員3人が犠牲(横浜市営交通八十年史)」
昭和41年の台風第4号は6月28日の今日、房総半島に接近し神奈川県内に大きな被害をもたらしました。
http://agora.ex.nii.ac.jp/digital-typhoon/summary/wnp/s/196604.html.ja
市内の被害は
「死者32人 負傷者14人 倒壊家屋58棟 浸水家屋38,859戸 崖崩れ850箇所損」
過去の記録からもこの4号台風被害が大きかったことがわかります。
昭和から現在までの水害一覧

1938年(昭和13年)6月水害 27,791戸※第二位
1948年(昭和23年)9月アイオン台風 2,282戸
1949年(昭和24年)8,9月キティ台風及び豪雨 5,690戸
1950年(昭和25年)6月豪雨 1,303戸
1952年(昭和27年)6月ダイナ台風 643戸
1953年(昭和28年)9月台風13号 443戸
1956年(昭和31年)10月豪雨 1,952戸
1958年(昭和33年)7月台風11号 1,336戸
1958年(昭和33年)9月台風22号 24,036戸※第三位
1961年(昭和36年)6月集中豪雨 19,956戸※第四位
1961年(昭和36年)10月台風24号 504戸
1965年(昭和40年)8月台風17号 1,972戸
1965年(昭和40年)9月台風24号 764戸
1966年(昭和41年)6月台風4号 45,757戸※※第一位
1966年(昭和41年)9月台風26号 99戸
1970年(昭和45年)7月集中豪雨 3,142戸
1971年(昭和46年)8,9月台風23号 1,512戸
1972年(昭和47年)2月集中豪雨 775戸
1972年(昭和47年)7月集中豪雨 643戸
1972年(昭和47年)9月台風20号 1,574戸
1973年(昭和48年)11月集中豪雨 5,774戸
1974年(昭和49年)6月雷雨 370戸
1974年(昭和49年)7月集中豪雨 6,361戸
1975年(昭和50年)6月雷雨 609戸
1976年(昭和51年)9月台風17号 5,764戸
1977年(昭和52年)9月台風9号 3,101戸
1979年(昭和54年)10月台風20号 1,160戸
1981年(昭和56年)7月集中豪雨 562戸
1981年(昭和56年)10月台風24号 424戸
1982年(昭和57年)9月台風18号 7,763戸
1983年(昭和58年)8月台風6号,5号 50戸
1985年(昭和60年)6,7月台風6号 24戸
1989年(平成1年)8月集中豪雨 1,192戸
1990年(平成2年)8月台風11号 97戸
1990年(平成2年)9月集中豪雨 22戸
1990年(平成2年)9月台風20号 1,335戸
1991年(平成3年)9月台風18号 272戸
1993年(平成5年)11月集中豪雨 608戸
1994年(平成6年)7月大雨 175戸
1994年(平成6年)7月大雨 62戸
1994年(平成6年)8月大雨 439戸
1996年(平成8年)8月大雨 26戸
1998年(平成10年)7月大雨 261戸
2001年(平成13年)7月大雨 251戸
2002年(平成14年)7月台風7号 49戸
2003年(平成15年)3月大雨 210戸
2004年(平成16年)10月台風22号 1007戸→横浜駅前が氾濫しました。
2004年(平成16年)10月台風23号 101戸
2005年(平成17年)9月大雨 78戸
2008年(平成20年)7月大雨 23戸
2009年(平成21年)8月大雨 10戸
2010年(平成22年)12月大雨 22戸
2011年(平成23年)8月大雨 20戸(横浜の災害)より

この「昭和41年台風第4号」による大岡川中・下流域の氾濫がキッカケで行われた河川事業が
「大岡川分水路」計画です。


大岡川分水路竣工記念碑
コンクリート護岸の誤算
戦後の護岸治水は都市河川の<直線化>という課題を産みました。手っ取り早い護岸のコンクリート化が進み、また川に流れ込む降雨時の雨水が道路舗装の普及で土砂とゴミを直接河川に運びこむことになりました。結果、水質悪化が起こり川が本来持っていた浄化機能が無くなるに等しい状態となります。
雨が降れば水位が一気に上がり、河口へ土を吐出、この悪循環を無くすことと、豪雨等の急激な水量をコントロールするために大岡川にも分水路が設けられました。大岡川分水路位置図 2012-07-10 5.29.06light201506250175 light201506250351

■過去ブログから
1996年(平成8年)6月28日の今日
「横浜能楽堂開館」
掃部山公園の一角にあり、1996年(平成8年)3月に竣工し6月28日に開館しました。
「能舞台は、1875年(明治8年)に東京・根岸の前田斉泰邸に建てられ、東京・染井の松平頼寿邸に移築された「旧染井能舞台」で、関東地方では最古の能舞台である。」
No.180 6月28日 横浜能楽堂、その点と線
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=428

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6月 20

第827話 1876年(明治9年)6月21日張り棹禁止

1876年(明治9年)の今日
前に紹介しました神奈川県史料によると
沿海各区と正副区戸長に対し
「第三十
船乗渡世之者張り棹禁止之事」と題した禁止令を出しています。lightスクリーンショット 2016-06-20 07.58.08
船乗を仕事としている者、張り棹を使って石垣の透間へ棹を差し込み
船を繋ぎ碇泊したり
あるいは潮の満ち干を待つなどするものがいるが
これは石垣損傷の原因となるのでこれからは行ってはいけない
指定地域での船待、船宿および船乗乗などに
もれなく伝える!
って感じですかね。
内容は河川の石垣損傷の原因となるので棹をむやみやたらに隙間に挿すな!!という内容です。
昔の船の風景を追いかけてみます。

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小舟による水運が盛んな明治から大正にかけて、堀に係留する際<棹>は重要な役割を果たしました。棹を石垣の隙間に挿すな!と言われた船乗りたちは どうしたのでしょうか?
※ついでに第三十一号禁令では
早染めあるいは染め粉という理由で有毒の薬品を使うのは禁止する!
という行政命令も出ています。
横浜は輸出用の<染物>捺染の工場が集中した地域でもありますから、違法行為も多く出てきたのでしょう。

(過去の6月21日ブログ)
No.173 6月21日(木)横浜の代表的な運動公園
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=435
1964年(昭和39年)6月21日(日)の今日、
横浜市神奈川区にある三ツ沢公園(みつざわこうえん)で、
この年の10月10日開催予定の「第18回夏季東京オリンピック」に向けた横浜フェスティバルが開催され約45,000人が参加しました。

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6月 19

第825話【横浜の橋】No.15 北仲橋(大岡川河口)

横浜市内には本支流合わせて
一級河川が9河川、二級河川が24河川、準用河川が25河川、合計58の河川が存在する。
●一級河川 鶴見川
恩田川、梅田川、鴨居川、大熊川、鳥山川、砂田川、早渕川、矢上川
●二級河川 帷子川
中堀川、今井川、石崎川、新田間川、幸川、帷子川分水路
●二級河川大岡川
日野川、中村川、堀川、堀割川、大岡川分水路
●二級河川 境川
柏尾川、平戸永谷、阿久和川、いたち川、和泉川、宇田川、舞岡川、名瀬川
●二級河川 侍従川
●二級河川 宮川

鶴見川・帷子川・大岡川 等々それぞれに多くの橋が架かり、本流に限らず支流にも<川の名>が付いた橋が多くある。このことは
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=8200
ここで横浜を代表する大岡川に<「大岡橋」「大岡川橋」が見当たらない>と簡単に紹介した。
再掲すると
一級河川鶴見川には 鶴見名が多い。
「鶴見大橋」「鶴見橋(国道)」・「臨港 鶴見川橋」・「鶴見川橋」
準用河川入江川には「入江橋(国道)」
準用河川滝ノ川には「滝の橋(国道)」
二級河川帷子川には「帷子橋」
二級河川境川には藤沢市鵠沼に「境橋」
派境川(柏尾川・和泉川・相沢川・いたち川 他 川の名の橋有り)
二級河川侍従川には「侍従橋」
二級河川宮川には「宮川橋」
あらためて 大岡川には「大岡(川)橋」が見当たらない。
「中村橋」は中村川になく堀割川にがあるのもたまたまだろうが 不思議だ。
結論を先に紹介すると大岡川河口橋梁図
「大岡橋」はかつてあったが、廃止されその残骸!?が汽車道にその一部が「港三号橋梁」として保全を兼ねて架かっている。lightスクリーンショット 2016-06-16 10.26.47

かつて架かっていた「大岡橋梁」は下記に懐かしい画像が残っている。
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f7488/p27870.html
「昭和8年に架けられた鉄道橋で、旧生糸検査所引き込み線敷設の際に大岡川に架けられた。構造は3連のポニーワーレントラスだが、その内の1連は北海道のタ張川橋梁を、残りの2連は江戸川橋梁を補強して移設したものである。このトラス橋の銘板には1907年(明治40年)製作と記されており、英国製トラス橋として貴重である。」

「北仲橋」
北仲エリアの開発に伴い、2002年(平成14年)4月に全面開通した。みなとみらい地区(中央地区)と北仲通地区を結ぶ、上下線二連橋で、山側が1997年(平成9年)6月に、先に開通した。
現在は片道3車線、往復6車線の幹線道路となっている。lightP6141052 lightP6141067 lightP6141073 lightP6141079 lightP6141088 lightスクリーンショット 2016-06-16 10.06.11

6月 15

第819話【横浜の橋】No.14 国際橋(横浜港)

横浜の橋シリーズNo.14
横浜港に架かる橋 国際橋
国際橋は 国際大通りの港湾部に架かる橋。

1980年代みなとみらい計画図(一部)
1980年代みなとみらい計画図(一部)

大岡川の河口域にあるが、河川撟ではない。西区と中区の区界に架かっている。新港埠頭とみなとみらいエリアを結ぶ湾岸の幹線道としてこのエリアの整備が始まった1994年(平成6年)に竣工した。
しばらく、東神奈川方面に続く道が未完成のため、行き止まりの道だった。
上下線分離型の桁橋である。lightP6140983
[橋長]78.833m
[幅員]12.6m
橋下には両岸に遊歩道があり、ジョギングや散歩道として活用されている。ここが完成したことで、帆船日本丸は外港に出ることが不可能になった。
銘板は「こくさいはし」「国際橋」のみで、竣工年等の掲示はなし。lightP6140979lightP6140987

次回から汽車道、そして大岡川に架かる橋を紹介していこう。

lightP6140942

5月 30

【横浜の橋】No.13 村岡川に架かる橋

橋にすべて<名>があるわけではない。無名の橋も多くある。
また、小河川となると<川の名>も無いことが多い。近代化で、ドブ川という汚名を背負った川も多い。
<川の名>や<橋の名>の命名に関して 色々ドラマもあるようだ。

宇田川
宇田川

今回紹介する「村岡川」は一般の地図から消えてしまった川である。
名前が変わってしまった<川>なのだ。
暗渠化して川そのものが姿を隠し、川の名がなくなるケースは多いが、近代になってあるときにそれまで使われていた<川の名>が変わってしまったのは珍しいのではないだろうか。
大きな河川には別名称が使われることもある。
例えば 相模川は<馬入川>とも呼ばれ今でも使われている。

「村岡川」
現在は(とりあえず)「宇田川」と呼ばれている。
境川水系二級河川一次支流として横浜市泉区中田町から境川合流点まで4キロ程度の小河川である。
泉区サイトには
「泉区中田町付近に源を発し、ほぼ南西に流下、戸塚区俣野町で横浜と藤沢の市境となっている境川に合流しています。
かつて、宇田川は村岡川と呼ばれていました。村岡は地域の郷の名で、大正時代に川下に堤を設けた宇田氏の功績を讃えて、宇田川名が生まれました。」

橋の紹介なので<川の名>には特に触れないつもりだったが、
(とりあえず)「宇田川」と表記したのは、
上流域の泉区と下流域の戸塚区では表記の温度差が感じられたからだ。
現在河川管理上の名称は「宇田川」となっているが、<泉区>では「宇田川」ではなく「村岡川」にこだわっているように感じるのだ。
地元のお年寄りに話を聞くことはできなかったが
(村岡川)に架かる橋にその気持ちが感じられるのだ。
河川橋梁の多くは、橋の欄干に表示がある。
「橋の名」「読み方(かな)」「竣工年」そして<川名>が橋の四隅(大きい橋梁の場合親柱)にそれぞれ標記されている。light2016-05-22 15.26.57 light2016-05-22 15.27.18 light2016-05-22 15.27.39 light2016-05-22 15.29.03

泉区内に架かっている下記の□印十二の橋には<川の名>が掲示されていない。
■中田橋(宇田川)
□睦月橋(記載無)
□如月橋(記載無)light2016-05-22 15.17.54 □弥生橋(記載無)
□卯月橋(記載無)
□皐月橋(記載無)
□水無月橋(記載無)
□かばた橋(記載無)
ここに一連の十二の橋に関して説明版があるが文面には<川の名>について触れられていないのも不自然?light2016-05-22 15.02.44 □文月橋(記載無)
□葉月橋(記載無)
□長月橋(記載無)
□神無月橋(記載無)
□霜月橋(記載無)light2016-05-22 14.44.12
さらに上流に架かっている2橋には
■中下橋(宇田川)
■広中橋(宇田川)
ではこの「宇田川」の源流はどこか?小河川が集まっているので、源流を特定するのは難しいが、幾つか川筋がある。
その中で、御霊神社から湧き出る流れが最も象徴的で、ここを源流としている文献もあるのでここを訪ねてみた。light2016-05-22 13.52.25light2016-05-22 13.57.12

確かに御霊神社内には「村田川源流」とされている「弁天池」がある。light2016-05-22 13.53.46

少なくとも御霊神社から「村田川」が始まっていることは間違いないようだ。
(つづく)

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4月 26

【横浜の橋】No.12 万国橋(新港埠頭)

橋のデザインには個性がある。構造上の課題をクリアすれば橋のデザインは多くの場合設計者に委ねられる。
幕末から大正にかけて、横浜にも多くの橋が架けられた。居留地と外を結ぶ「吉田橋」のエピソードは有名。
この時代で<最も>派手な橋はどれか?
文句なく『万国橋』だろう。現在の橋は1940年(昭和15年)11月に完成した二代目の地味なアーチ橋だが、当時は、上物が凄かった。
ちょっと笑ってしまいそうな上物でもある。税関=大蔵省の威光を示す目的もあったのだろう。
まずは百聞は一見なので当時の絵葉書を何点か紹介する。light201502万国橋 light201504281万国橋6

開港50年祭の際に鉄骨アーチを覆うように<城櫓>のハリボテを組み立てたもの

light20150627190252light資料絵葉書015017『万国橋』は1904年(明治37年)に税関埠頭(現在の新港埠頭)と関内を結ぶために架設されたアーチ型鋼橋(トラス橋)だった。大さん橋を含め横浜港築港計画で設計された時には唯一の橋だった。スクリーンショット 2016-04-26 14.22.27 全長は36.6メートルで幅が15.9メートルあり、関東大震災でも耐え震災後もすぐに使用できた優れもの。
完成後、鉄道を埠頭内に引き込むために<汽車道>が作られ、税関本館脇から「新港橋」が架けられ、1994年(平成5年)みなとみらいエリアの開発に伴い「国際橋」ができるまで汽車道を除きこの二つの橋しか無かった。スクリーンショット 2016-04-26 12.32.06

万国橋は関内の中の<関内>、居留地時代の吉田橋みたいな役割を担っていた。移民船も大さん橋だけではなく新港埠頭から多くの人々が旅立ったに違いない。light_新港埠頭上空

スクリーンショット 2016-04-26 14.11.17

lightWV261957 現在は<みなとみらい>エリアを撮影するベストポイントにもなっている。

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4月 25

【横浜の橋】№11宮崎の橋(帷子川)

宮崎橋空撮 橋には色々種類がある。
一般的なイメージは河川に架かる道路の橋、 人専用なら人道橋、 鉄道橋梁、 そして鉄道を跨ぐ跨線橋、や道路を跨ぐ跨道橋(陸橋)などがある。 このような色々な道路がほぼ一箇所に集中している場所がある。<だからなに?>
スクリーンショット 2016-04-25 21.59.17
なんだが、高速道路などが絡む場所では珍しいことではない。
ただ小さな川の小さな橋のあるところで<橋Gallery化>しているのは結構珍しい。
「宮崎橋」「宮崎橋人道橋」「宮崎跨線橋」「第三帷子川橋梁」(+地下道)が本日の紹介する橋だ。場所は横浜市保土ケ谷区仏向町、相鉄線和田町と上星川駅の中間にあたる。
位置を帷子川を中心にして説明する。
帷子川左岸に国道16号線が平行して走り、すぐに丘陵が迫っている。一方右岸は旧道とわずかだが平地が続き、このあたりは野毛山から続く水道道の役割も果たしている明治からの道だ。 国道16号には「宮崎橋入口」という交差点名が掲示されている。lightP4220178保土ヶ谷中学前すぐ横にあるバス停名は「保土ケ谷中学校前」そこにはサブタイトルとして「仏向杉山社入口」とある。 歴史に準ずると、鎌倉街道から川を渡る神社への橋があり、相鉄線の橋が架かり、橋の架け替えに伴い人道橋ができ、その後しばらくしてから大規模な跨線橋と歩行者用の相鉄線を潜る地下道が完成し念願の渋滞解消が実現した。

この宮崎橋近辺は帷子川と相鉄線の和田町一号踏切があり昔から大渋滞の場所だった。昭和38年上星川 私は地元民ではなく車での通過客だったので地元にとっては迷惑千万の一台だったかもしれないが、とにかくこの辺りは渋滞が激しくイライラした記憶がある。
国道1号線から16号に合流する車両と、帷子川左岸から右岸エリアに向かう車がぶつかり合うポイントで、相鉄線の開かずの踏切が加わり身動きできないほどの渋滞地となっていた。 ここに帷子川と相鉄線と小さな道路をまとめて越える<跨線橋>を作る計画が持ち上がったが、予定地には仏向杉山社があり大変だったようだ。
冒頭にも<橋Gallery化>と表現したように、この辺りはとにかく構造が複雑になっている。
苦肉の策で現状となった?のかどうかは判らないが、かなりの強引な跨線橋作りであったことは現地を見れば明らかなので橋梁や道路設計に関心のある人は見学の価値あり??かも。
(歴史資産だらけ)
□和田村道橋改修碑lightP4220165 国道16号線は近世の重要な海道<八王子街道>をほぼトレースしている。古道時代は曲がりくねっていた箇所を地元の村民達が改修し、街道が次第に整備されていく。その改修碑が16号に沿ってひっそり建っている。
『村地先の難路を、江戸の住人桜井茂左衛門が資金を提供し、村民および隣村川島村民の協力を得て改修し、あわせて道筋に橋を架けて往来の難儀を救いました。本碑は、この工事の由来を記したものです。碑高は103cm、碑幅34.5cm、碑厚21cm。建立は元文2年(1737)11月。道筋改修の経緯を知る上で貴重な碑です。』
□仏向町の石塔(仏向杉山社跡)
ちょうど宮崎跨線橋が帷子川右岸側に降りるあたりにはかつて丑寅の方位に向かう「仏向町杉山社」があったがこの跨線橋工事のために遷座することになった。lightP4220075元杉山社跡 平成5年8月のことだ。 その神社跡地の角が交差点となり敷地の一部が仏向町町内会の「ふれあい広場」となっている。
この角に三つの「石塔」が設置されている。 三つの石塔は神社跡地に残った(残した?)もので
(1)「観音庚申塔」
寛保2年(1742)11月造立。庚申信仰の石仏で舟形をしているのが特徴。
(2)「斎上地神塔」
文化9年(1812)8月造立。角塔浮彫形
(3)「出羽三山供養塔」
安政2年(1855)8月造立。

□正福院
かつての「宮崎橋」を渡り、まず杉山社が右手にあり、少し軸がずれ寺への参道が続く。
参道を進み、山門をくぐると 正面に樹齢300年と言われている二本の大銀杏の木が高々とそびえている。曹洞宗仏向山「正福院」だ。lightP4220054正福院正門 lightP4220058正福院の大銀杏 『新編武蔵風土記稿』によると、
「出家の身は他に志願なし、唯、常に仏に向かうこそ桑門の本意とするところなれば、寺の山号およびその村里にも『仏向』の二字をもって名付け賜るべしとの願いにより、かく名付けられしとぞ」スクリーンショット 2016-04-25 21.55.17 と仏向の名について記されている。
□「宮崎跨線橋」
1993年(平成5年)に杉山社が遷座されてから6年、 1999年(平成11年)3月にようやく立体交差化「宮崎跨線橋」が完成する。 その後、どの程度混雑が緩和されたかは定かではないが、2016年に現地に立った時にはあまり渋滞は感じなかった。 この事業には踏切解消の目的もあり、歩行者用の「地下道」も新設、跨線橋の周囲が親水ゾーンとして整備されたが現在はシャッタアウトされた状態になっている。 実に勿体無い。lightP4220134跨線橋下 lightP4220141跨線橋下

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4月 22

【横浜の橋】№10 残った紅葉橋(陸橋)

横浜に初めて鉄道を敷設する際、野毛浦・伊勢山・鉄道山沖の海辺を埋立て鉄道用地を確保する。その際に埋立地と陸部の狭間に排水路(運河)を作った。スクリーンショット 2016-04-21 13.20.00 スクリーンショット 2016-04-21 13.17.52 最初は「桜木川」と呼ばれ、後には「桜川」と呼ばれた。
明治に誕生した「桜川」は次第にその役割を終え、水量の少ないドブ川に変身、昭和20年代には空堀となりそこに戦後の闇市が建ち並び立ち退き訴訟にまでなった。
その後「桜川新道」(新横浜通り)が誕生し橋は無くなることになる。lightP2240166大岡川と石崎川(帷子川)を繋ぐ桜川に架かっていた橋の数は少し変わるが、
「錦橋」「緑橋」「瓦斯橋」「紅葉橋」「雪見橋」「花咲橋」「戸部橋」「桜橋」と八つありその中で市電の停留所だった「雪見橋」「花咲橋」が現在もバス停として残っている。スクリーンショット 2016-04-21 14.51.27そして唯一残った橋が紅葉坂と桜木町・内田町を繋ぐ<紅葉橋>である。まさに過去と(みなと)みらいを繋ぐ橋だ。
「紅葉橋」
この橋は、坂の橋である。橋が急傾斜しているのだ。傾斜角度を測ったことは無いが、自転車での登攀は電動でない限りかなり厳しい。降雪時は徒歩でも危険な傾斜角である。
light_1040816 急な紅葉坂を下った先に「紅葉橋」が架かっているのだが、坂の下が出っ張った崖っぷちになっているために、坂の橋で繋ぐしか無かったのだろう。

もう一つの特徴は上下線が分かれている双橋であることだ。スクリーンショット 2016-04-22 02.43.45lightimg紅葉橋界隈183<赤い線が丘稜線>
実は、この紅葉橋は、乱暴な表現だが「架け足し」た橋である。拡張ではなく、旧橋の横に新橋を加え、上下分離線となっている。
手元の神奈川県資料によると
1982年に旧紅葉坂(幅員9m)が架け替えられ現在に至っていて
2001年に新紅葉坂(幅員6m)が横に架けられている。lightPA135075ただ 見る限り共に2000年の工事で取り替えらたような仕立てなので旧紅葉坂はリフォームされているのだろう。
lightFH000028紅葉橋

上の写真と比べるとJR高架橋下の道路が拡張されていることは判る。

lightFH000029<1990年ごろの紅葉坂・紅葉橋>

このあたりは歴史の<ネタ>が満載。
キーワードだけも紹介しておこう。
近代日本で最初に国賓が泊まった横浜離宮・鉄道山・高島嘉右衛門・井伊直弼・伊勢山皇大神宮・ユースホステル・税関宿舎(大平正芳、福田赳夫)・前川國男・金星・神奈川奉行所・米軍倶楽部
2014年(平成26年)7月1日に北改札が完成したことで大きく人の流れも変わりつつある。light紅葉坂14 まもなく旧東横線高架橋の遊歩道も出来上がるとこの橋を上から眺めることができるだろう。

散策におすすめのエリアだ。
追々これらのテーマも紹介していきたい。

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3月 17

【横浜の橋】№9 天神橋(堀割川)

堀割川に架かる天神橋は現在架け替え工事が行われている。

震災で倒壊した天神橋は大正15年の6月に工事が始まり昭和2年4月22日に竣工と震災復興記録には記されている。工事前は市内でも最古参に入る<古株>の橋だった。
撮影した橋の画像が見つからないので画像はパス!見つかり次第掲載予定。
堀割川は1874年(明治7年)に完成した大岡川の小派川で、中村川から分かれ根岸湾に注いでいる。
明治に入って着工された「堀割川」分水路作りにはいくつかの目的があった。
一つは、江戸中期に新田開発された<吉田新田>では開墾しきれなかった海の部分を埋め立てるために<土>が必要だったこと、もう一つは根岸湾(磯子・金沢)開発のために横浜開港場を繋ぐ目的があった。完成には吉田家涙の物語があるがここでは省略する。
堀割川には現在六つの橋と一つの人道橋が架かっている。
①中村橋
②天神橋
③根岸橋
④坂下橋
⑤磯子橋
磯子橋人道橋
⑥八幡橋
今日は「弁天橋」の風景を紹介する。
構造は<I型鋼桁(ガーター)橋>架替後も変らない。
橋の銘板には「大正15年3月」とあるが 復興資料では大正15年着工の「昭和2年4月22日」完成とある。
(天神橋の由来)
天神橋の名は天満宮に繋がる<橋>の意として全国で多く命名されている。
ここに架かる「天神橋」は岡村天満宮に繋がるのだが、社殿まではかなり遠い。資料によると、堀割川が完成すると、<船>で天神橋近辺にあった<船着場>を経由して参拝にでかけたことから命名されたようだ。
明治45年に電気鉄道が開通し、船便は廃れてしまうが橋の名は残った。岡村天満宮には横浜電気鉄道(後の市電)滝頭で降り、途中の一の鳥居をくぐり天神道を歩き向かった。
震災で堀割川護岸はかなり崩れ、参道の道筋も新しく作られることになった。例祭の時にはちょうど天神橋と下流の根岸橋の中間に「天神前仮停留所」が開設され、臨時停車し参拝客は皆ここで降りた。light岡村天神道(堀割川左岸)
岡村天満宮は堀割川の右岸側にあり、電気鉄道も右岸に沿って八幡橋まで走っていた。江戸時代は根岸台の崖下から岡村一帯は丘の多いこの地域の重要な<平地>だったが、堀割川によって分断されてしまった。
「左岸」は背後に根岸の崖が迫り 分断された土地となっている。そのためかどうか分からないが 左岸には工場が多い事と関係があるかもしれない。

戦前の「天神橋」が写っている絵葉書がある。といってもかなり遠景なので、橋そのものはその存在が確認できる程度だ。light日本ビチュマルス株式会社(日本ビチュマルス株式会社)
ビチュマルスとはあまり聞き慣れない言葉だ。
道路舗装の欠かせないアスファルトの乳剤のことをビチュマルスという。日本での事業展開の歴史は古いが飛躍のきっかけとなったのが<関東大震災>による復興需要だった。道路舗装の先進国であったアメリカの持つ技術を導入し、日本では幾つかビチュマルス製造会社が誕生した。
その一つが日本ビチュマルス株式会社で、
1930年(昭和5年)に設立された。現在は東亜道路工業株式会社と改名(1951年)し日本有数の道路舗装企業である。
この他にも幾つか大手道路舗装企業があるが、独立系である日本ビチュマルス株式会社に対し、ゼネコン系の関連企業が殆どである。
大林組の関連会社「大林道路」はかつて「日本ビチュマルス株式会社」から分かれた道路舗装企業である。

絵葉書の発行は昭和9年夏である。light天神橋近隣S8年ちょうどこの頃の地図があったので地図と比較しながら、ここに映る風景を少し読み解いてみたい。
工場脇を堀割川が流れている。川にそって道が整備され、そこを市電が走っている。左側が下流で根岸湾方向を指す。下流に「天神橋」が写っている。
工場内には<ドラム缶>が多く並んでいるのが判る。
地図から「日本ビチュマルス株式会社」の周囲には「大和染色工場」「四菱食品会社」「落合ガラス工場」「石川工場」など製造会社が立ち並んでいる。
対岸(右岸)には広い空き地が目立っている。
半分削られた小山の手前が現在 「横浜商業高等学校 別科」がある辺りと思われる。
小山の奥には「脳血管医療センター(かつて万治病院)」があったが周囲は殆ど空き地のように見える。昭和初期はまだまだ農地中心で住宅は限られていたようだ。

この風景はどこから撮影されたものか?
地図から根岸の丘の上、現在米軍住宅のはずれ標高56.7mポストあたりから見下すように撮影されたと思われる。工場の屋根にビチュマルスと大きく書くということは、航空機を意識したのだろうか?それとも根岸の丘からの眺めを考えてのことだったのだろうか?
最後に花見の時期も迫ってるので
かつての堀割川の桜風景を紹介する。light絵葉書横浜編001light根岸堀割の桜 light資料絵葉書003

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