1941年(昭和16年)7月20日(日)
「海の日」の起源となった「海の記念日」が制定され、横浜でヨット大会が開催されました。
幻の東京オリンピックにも関係したこのレースの話ではありません。
安政6年の話です。まずは京急「仲木戸駅」から始まります。
京急「仲木戸駅」を降り、海に向かって少し歩くと国道15号線に出ます。
この道をさらに真っ直ぐ進むと「村雨橋」その先に「瑞穂橋」があります。
この2つの橋は、横浜戦後史にその名を残す「戦車」の橋でした。
今回はこの橋を越えず 手前で右に曲がるとしばらくして運河沿いの景色が見えます。
ゴルフ練習場のフェンスを左手に見ながらさらに進むと“古い石積み”を観察することができます。
奥に高層マンションが見え、手前に倉庫群がありこの建物を大きく周り込むように進むと「神奈川台場」の遺構が一部残された「神奈川台場公園」があります。
(神奈川台場公園)
横浜の歴史好きなら一度は訪れたことのある場所です。昨日の「第852話 7月19日京浜急行線権現山」で少し触れた神奈川台場は幸ヶ谷から土砂を削りだし埋立て、石は真鶴から運んだと言われている江戸末期の遺構です。
ここは
勝海舟が基本設計を行い伊予松山藩が築造した船舶警備用の施設です。
台場といえば品川の「お台場」が有名で、全国にも数多くの幕府と各藩により築かれた「台場」が残り“指定文化財”“国の史跡”等に指定されています。
その点、この神奈川台場は開港場沖を監視するという重要な役割を担いますが、間もなく歴史からその姿を消してしまいます。 この神奈川台場は他の台場には見られない“船溜まり”を持つ構造を持っていて、「蝙蝠台場(こうもりだいば)」とも呼ばれた歴史的にも貴重な歴史遺構でしたが、近代化のうねりに飲み込まれてしまいました。
ペリーが江戸湾に姿を現したことで、幕府は江戸湾の警備をいくつかの藩に命じます。この「台場」のある神奈川宿一帯は“坂の上の雲”で一躍注目された伊予松山藩が担当することになります。(因みに横浜開港場は越前松平藩が担当)
「万延元年(1860年)に藩財政1年分にあたる7万両と、延べ30万の人員を投入しわずか1年で完成させました。設計は西洋通の勝海舟に一任したと言われています。この台場は軍事施設でありましたが、明治以降は諸外国の外交団が来日した際や、国王・大統領の誕生日などに儀礼として祝砲を発射する施設として利用され、国際都市横浜の発展を支える重要な役割を果たしてきたと言えます。
明治32年(1899年)に台場は廃止され、大正10年(1921年)頃より徐々に埋め立てられ、現在ではJR東高島貨物駅構内にごくわずかに石垣を残すのみとなり、かつての景観はありませんが、現在の横浜市はこの台場が基礎となっており、貴重な史跡となっています。(伊予萬翠荘)」
「隠岐守(伊予藩)は海防の事には頗る熱心であった丈けに、幕府に砲台を築く事を願ひ、最初は神奈川宿の猟師町と並木町との二ケ所に設ける考へであったが、段々調査して見ると相当の砲台を築くならば、近距離に二ヶ所も設くる必要は無いと云ふので猟師町の方だけに築造する事にした。
当時品川砲台は頗る不評判であったので,折角築造するならば効力の充分なものをとの評議であった。(横濱市報1938年)」
と説明されています。
<品川台場>が不評だった!という記述には1938年当時、東京と神奈川で開港紛争が起こっていましたので100%丸呑みにはできませんが、<神奈川台場>のデザイン性からもかなり実効性を求めたことが判ります。
そして台場の設計が勝海舟に依頼され、安政6年5月に実測後の<縄張り・杭打ち>を佐藤政養が担当し
この年の7月20日の今日
工事が始まります。工期は当時としては極めて短期間の約一年で完成、万延元年6月に竣工しました。
横浜開港の幕開けに欠かせない<神奈川台場>近年再調査と保全が進められています。まだ多くの遺構がJR貨物の「高島駅」構内に埋もれています。
今後、遺構が再出現する可能性もあり楽しみです。
現在は台場に隣接して<コットンハーバー>のマンションが建っていますが、この一帯は浅野造船所でもあったため、造船所も遺構も残されています。
夏は少し汗ばみますが、秋口にでも一度散策されてはいかがでしょう。
※コットンハーバー行きのバスがあります。
京急仲木戸からは徒歩20分くらい
No.202 7月20日 (金) 港をヨットが舞った日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=405
今日は元「海の日」です。