2月 6

京浜急行白金町駅

1930年(昭和5年)4月1日に開通した湘南電気鉄道は三浦半島の浦賀駅から桜木町駅を目指すために初期ターミナル駅を所在地の町名を採って「黄金町駅」とした。一時期本社機能が置かれたこともある。
開業の翌年、湘南電気鉄道は日ノ出町まで延伸し当初の計画を変更し、京浜電気鉄道と結合した。そして1941年(昭和16年)に合併し現在の京浜急行が成立した。
戦中の1944年(昭和19年)に駅の所在地は新設された「白金町」となったが、もう少し前倒しで町名変更がされたなら、「白金町駅」に変更されたかもしれない。
横須賀に海軍の施設があったことから、戦時体制となった昭和10年代以降、三浦半島は規制の多いエリアとなったが、終戦とともに新しい局面を迎えた。大東急時代から独立元に持っどった新生「京浜急行電鉄」は都心部から三浦、その先の房総エリアへの送客計画を次々と進めていった。

ハイキング特急
京急は戦後早々に不定期ではあるが房総向けの特急を走らせた。
その名は「ハイキング特急」といって
「1950年4月1日に登場した京急初の特急列車。ハイキング回数乗車券を持つ乗客だけが乗れる定員制列車だった。当初は品川駅 – 浦賀駅間を94分で結び、途中9駅に停車した。この時の表定速度は35.5km/hだった。当初の愛称には「三笠」「剣崎」「房総」「三崎」「灯台」「鷹取」が存在した」(wikipedia)

京急80年史より

このハイキング特急を通過待ちする待避線が「黄金町駅」にあった時期があったらしい※。
若干の不明点が出てきたので簡単だが調べてみた。
京急は路線に待避線をいくつか持っている。市内で代表的な駅は「神奈川新町」「南太田」がある。特急や急行を優先して通過させるため別の線路を設ける(待避線)である。
もう一つ、「渡り線」がある。
上下線や、複数の線路を繋ぐ(渡る)構造のことだ。

資料によると
「かつて、下りハイキング特急の待避が行われていた。これは下りの普通電車が当駅に到着すると、旅客扱いを行った後にスイッチバックして上り線に転線し、ハイキング特急「第二房総号」の通過を待って、再び下り線に転線するというものだった。その後、ハイキング特急が廃止されると、当駅での待避は行われなくなり、その渡り線は撤去された」
とある。
一読して鉄道には全くの素人は私としては 信じられない光景を想像した。
黄金町には「渡り線」が設けられ、本数は少なかったとはいえ、アクロバティックな待避が行われていたことになる。

社史には
1949年(昭和24年)4月24日 休日ハイキング列車運行開始
1950年(昭和25年)4月1日 休日ハイキング特急、平日急行、準急運行開始。
1952年(昭和27年)7月6日 品川・逗子間直通海水浴特急運行開始
1953年(昭和28年)9月13日 ハイキング特急ノンストップ運転開始

「戦後の復興期に再スタートを切った京急は、鉄道とバスの運輸業で通勤輸送と行楽輸送の2本柱をもって立ち向かい、施設の復旧と改良を進め、速達列車が普通列車を追い抜く待避設備を持つ駅を増やし、緩急結合と呼ばれる運行に変貌していた。(なぜ京急は愛されるのか)」
当時の京急は、文字通り走りながら復旧と路線開発を進めていた。
さて黄金町駅構造に話を戻す。
関内外にまだ多くの接収地があった時代の地図を確認してみると
「黄金町」不思議な構造になっていることに気がついた。

昭和23年修正の1万分の1「横浜」では、黄金町駅に待避線が表記されている。
不思議が残った。

2月 28

【横浜ミニ備忘録】「密航0ライン」は大岡川だ

些細なテーマだが スルーしたくない横浜ネタを掘り出す。
昔の横浜を舞台にした映画やテレビドラマを時々見直しているが
時折 <嘘つけ!!>という情報に出会うので
【横浜備忘録】
■映画「密航0ライン」
製作年:1960
公開年月日:1960年(昭和35年)6月25日
監督:鈴木清順
構成:棚田吾郎 伊賀逸兵
脚本「横山保朗
撮影:峰重義
キャスト
 香取耕一=長門裕之
 仁科達男=小高雄二
 香取寿美子=清水まゆみ
 佐伯玲子=中原早苗
 李鮮信=小沢昭一
 島村健介=木浦佑三
 千葉伸次=高品格
  他
https://www.nikkatsu.com/movie/20457.html
非情に生きる社会部記者とその好敵手が、強大な麻薬ルートに特ダネを求めて潜入するスリルとスピードに富んだアクション篇。密航0ラインジャケット ここに示されている日活のオフィシャル情報に一言
 <嘘つけ!!
日活オフィシャルでは
■ロケ地
【東京都】文京区(後楽園)/葛飾区(東京拘置所)/▲(隅田川)/中央区(浜離宮)/千代田区(東京駅八重洲口)
【神奈川県】鎌倉市 
【兵庫県】神戸市(神戸南京町) 
これは無いだろう!
 冒頭を含め、そこに映されているのは明らかに横浜市を流れる「大岡川」だ!
「オフィシャルページ」以外の 映画評論やロケ地情報では<概ね>横浜となっているが
製作者情報に なぜ 横浜を記載していないのか?確かに麻薬の取締現場としてど真ん中の「黄金町」を選んだので遠慮・配慮したのかどうか判らない。
戦後でモノクロ、大岡川筋を走る京急が映るシーンとしては最高のシチュエーション、映像資料としても正確な情報を望む。
202102 時点
12月 13

【駅周辺史】京急弘明寺駅 六ツ川温泉郷

以前別のところにアップしたテーマを加筆修正してここにアップします。
現在の横浜市南区六ツ川界隈にかつて<温泉旅館群>が点在していました。
温泉と言っても冷泉(ラジウム泉)を沸かして提供したと思われます。
六ツ川近辺に関する文献の中に<温泉>が散見されました。良く登場するのが「大東温泉」と「中里温泉」です。
その中から今日のメインテーマとなる「横濱温泉」が登場します。
現時点では資料不足全容不明ですがテーマの投げかけとしてわかった範囲で紹介します。
(六ツ川)
横浜市南区六ツ川は元々「武蔵国久良岐郡引越村」の一部で1927年(昭和2年)の第三次市域拡張のときに村内を流れる川の名をもとに「六ツ川町」と改称されました。
冒頭の横浜温泉に関して調べてみると
「南区の歴史」には、京急弘明寺駅から平戸桜木道路に出た付近に宿があったことが記されています。絵図では「大東温泉」となっています。 このあたりのことが
「はまれぽ」で取り上げられていました。この記事をまとめるとこの「大東温泉」があったのとほぼ同じ場所に「横浜温泉」(廃業)少し離れて「中里温泉」がある(現存)とレポされていました。
「横浜温泉」を引き継いで「大東温泉」となったのか?
「横浜温泉」と「大東温泉」は別のものなのか? 
手元の資料では不明ですが位置的には間違いないでしょう。
別テーマとして昭和二年まであった「引越村」の地名にも注目しています。
これに関しては追い追い。 昭和初期の弘明寺近辺の地図を探ったところ、震災復興が達成された昭和3年頃の六ツ川町周辺の地図に「横浜温泉」が確認できます。
昭和3年弘明寺周辺図
昭和3年ごろの地図です。湘南電気鉄道予定線が引かれています。
キャプションには横浜温泉からの眺めとあります。
温泉近くの小川が確認できます。「六ッ川」と思われます。
11月 14

第977話【横浜の道】国道16号線

国道16号は現在、起点:西区桜木町〜終点:西区桜木町という珍しい道路です。
歴史は新しく1963年(昭和38年)4月1日に幾つかの路線が統一されて16号となりました。
横浜界隈的に起点から16号を辿ります。
ルート16は
帷子川支流「石崎川」近く、元「桜川」のあった場所を起点に初めて鉄道が始まった初代横浜駅・新橋間の鉄道路線に沿って大江橋へ続きます。

二代目横浜駅。ちょうど市電のあたりが16号線起点
現在の桜木町付近
16号線起点・終点付近
初代横浜駅、現桜木町駅。興産館(現ぴおシティ)あたりの16号線。

<大江橋> 横浜市内では珍しい人名の橋です。(大江卓)
関内大通と交わる尾上町の交差点を右折、羽衣橋を渡ると旧吉田新田の背骨、中央部を吉野町まで。このルートは関東大震災まで狭い道でしたが、吉田川沿いを通っていた市電のルート変更を行い、広い道路として新規整備されました。
吉野町の交差点を左に。
中村川の「睦橋」を越え、堀割川に沿って磯子方面に。

尾上町交差点付近で16号線は大きく曲がります。

<八幡橋>際を右折し横須賀方面に曲がります。
ここから16号線は旧海岸線でした。
磯子駅を通過し、新杉田駅を過ぎると内陸部に入り込み、富岡からほぼ京浜急行線と並行して金沢文庫まで走ります。泥亀あたりで少し京急と分かれ、また金沢八景で並走します。京急と国道16号線は馬堀海岸までほぼ並走しています。
その後16号線は国道の中でも数少ない海の国道を経て、房総半島に上陸し千葉県を縦断、埼玉県、東京都下八王子からかつて絹の街道として盛んな往来があった八王子街道となった横浜市旭区に入ります。保土ヶ谷バイパスと旧道に分かれ、旧道はほぼ「帷子川」の沿って横浜中心部に入り、終点に向かいます。

(歴史)
横浜に海軍鎮守府(東海鎮守府)が1876年(明治9年)に短期間ですが設置されます。
1884年(明治17年) 12月15日、東海鎮守府は横須賀に移転「横須賀鎮守府」となります。この時から横浜と横須賀との道路整備が行われ、1887年(明治20年)に鎮守府に至る国道として「国道45号線」となりました。

戦後の
1952年(昭和27年)12月4日に施行された新道路法に基づく路線指定でこの区間が「一級国道16号」に指定されます。これが国道16号のはじまりです。
その後、延長を重ね、他の国道を取りまとめ環状線となって現在にいたります。

旭区から終点に至る16号線は、江戸時代から八王子街道として開け、保土ケ谷区と西区の区境(洪福寺松原商店街はずれ)に東海道と八王子街道(旧道)の<追分>があります。この主要街道は神奈川往還とも呼ばれ、保土ケ谷宿への重要街道でした。幕末からは繊維(絹)街道として遠くは山梨商人の道として賑わいました。

9月 7

第964話 醤油、塩 横浜雑景

今回から少しエッセイ風 書きなぐりを始めてみることにした。

地産地消は物流の発達と反比例する現象である。大都市は商品を飲み込む。
また、大量生産による廉価の席巻とも反比例し、ナショナルブランドが地域生産力を奪っていく。この経済原則は近代の風景ではなく、江戸時代後期には、頻繁に村間の商品売買、都市圏への商品供給が盛んに行われていた実態が明らかになっている。

近世江戸の産業が明治維新以後、変化しながらも存続していく業種もあれば、近代化で消滅していく業種もある。呉服商は百貨店に、両替商は商社・金融会社へと変わっていった。染と版画の技術と織物産業が融合し横浜の捺染、スカーフ産業を育てたように大消費地として近代に登場した「横浜」は業種業態の様々なドラマが起こっている。今も横浜人に人気なのが「もののはじめ」だ。個人的にはそろそろ卒業したほうが良いとは思うが、横浜もののはじめ本は未だ売れるようだ。その中には、他の都市の研究によって「はじめの座」を失ったものもある。富岡八幡近くにある海水浴の碑は、大磯に奪われたようだ。洗濯もどうやら横浜初ではなさそうだ。
ただ、居留地を抱えたことにより横浜から事業化が始まった産業形態は多い。ビール事業、パン製造、アイスクリーム製造、大量の製茶販売、鉄道事業もそうだろう。近代産業は日本各地に興り、次第に寡占化していく過程を踏んでいった。
元町の古老に聞いた。
横浜でも戦後まで小さな製パン店が多かったという。昔は商店街に必ず一二軒はあった和菓子店も自家製が中心だった。これは戦後、東京オリンピックくらいまで続いたという。このあたりからナショナルブランドが台頭し、自家製のパン屋は激変しチェーン化していく。木村屋、山崎製パン、丸十ベーカリー他の看板が急増し、スーパー、コンビニの登場で街のパン屋はその姿を消していった。
横浜のパン製造史を読むと偶然の一致ではあるが、大岡川周辺に老舗パン屋が健在であるように思う。まず堀川近辺ではパン業発祥の元町<パン物語>がある。横浜神戸東京、大正期から昭和初期に一大パン業創業ブームがおとずれるのである。
現在、
弘明寺入り口で開業する「デュークベーカリー」は昭和三年「木村屋」として創業 赤川家が店を守っている。
「盛光堂総本舗」の笹川さん。
横浜橋通商店街にある「丸十早川ベーカリー」は昭和29年「藤田丸十ベーカリー」として丸十系列として創業、初代の早川博さんを早川家が守っている。
野毛の「コテイベーカリー」もそうだ。あんぱんの美味しかった日本堂もつい最近まで頑張っていた。
横浜では、豆腐屋さんも個人製造店舗が最近までかなり頑張っていたが、この二十年軒並み閉店し激減状態にある。横浜の豆腐屋がとても元気な時代があった。
必ずしもその証ではないが、平沼に当時は目を見張った「豆腐会館」が建てられた。九〇年代まであのラッパを吹きながらの引き売りを見ることができた。
新しもの好きな横浜人(ごめんなさいハマっ子という語はあまり好きではない)ではあるが、老舗やご近所を愛するのも忘れないのも横浜の良いところだと思う。
前振りが長くなった。本題に入ろう。
醤油製造は近代まで、街なかに製造工場があり最寄り品だった。醤油は地産地消の代表格だったが、どこでも生産されていた訳では無い。原材料が揃わないと生産地にはならない。醤油の原材料は言うまでもないが大豆・小麦・麹・水・塩である。
現在、地元では神奈川区で「横浜醤油」が生産を続けている。
かつて南太田に「太田醤油醸造所」という中規模の工場があった。ここは横浜太田町に本宅を構えた吉田健三が経営していた醤油工場である。
吉田健三といってもピンと来ないかもしれなが、外相から首相となった吉田茂の父親(養父)だといえば、少し驚くかもしれない。
越前福井藩士の家に生まれ、1864年(文久四年)に脱藩し大坂で医学を学ぼうとするが、英学の必要性を感じ長崎に行き、その後1866年(慶応二年)にイギリス軍艦でイギリスへ密航、2年間滞在して西洋の新知識を習得し明治維新に帰国。その後、ジャーディン・マセソン商会横浜支店(英一番館)の支店長に就任し日本政府を相手に事業で大成功する。その功あってか大金の一万円の慰労金(退職金)を受け取りこれを元手に
「英学塾を皮切りに、翌1872年には東京日日新聞の経営に参画。さらには醤油の醸造業や電灯会社の設立、ビールやトタン、フランネルの輸入など、実業家としての頭角を顕して横浜有数の富豪に成長した。(wikipedia」
明治に入り、新しい時代に様々な政治運動が芽生えた。中でも幕末期倒幕に寄与した一人、板垣退助が全く未明の明治新政府設立時には木戸孝允、西郷隆盛、大隈重信と共に参与に就任する。「明治六年政変」征韓論論争に破れ、下野。自由民権運動を経て自由党を起し、明治期の一大勢力となっていく。
横浜でも、彼の思想に共鳴した者も多く、吉田健三もその一人だった。
大岡川運河整備に寄与した伏島近蔵も自由党支持者であった。
吉田健三は子供がなく、自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心だった友人の竹内綱の五男 茂(吉田茂)を養子に迎え、茂は戸太町立太田学校(後の横浜市立太田小学校)を卒業した。

話が逸れてしまった。
醤油の原材料は大豆・小麦・麹・水・塩である。
醤油といえば千葉県銚子(ヤマサ)・野田(キッコーマン)が有名である。醤油は近世江戸期に工業化されたことにより贅沢品から日常の食生活革命の一端を担うようになる。江戸期当初は、原材料に大豆と大麦が使われていたが小麦を使うことにより濃口醤油の量産が始まる。醤油はもともと良質の大豆・麦・塩を調達できる西国の特産品で、江戸城への高級献上品の代表格でもあった。本場関西からの醤油は「下り醤油」と呼ばれ、関東の醤油は二級品扱いだったが、溜ではない濃口が主生産となり江戸味の醤油文化が確立する。
醤油製造の条件に、原材料は勿論「水運」が必須だったので、利根川流域に醤油産業が育ち行徳の塩、関東平野の大豆と小麦が結果的に銚子・野田に集約し醤油産業が育つ事になったが、この条件が揃えば近世から近代にかけて、地場の醤油産業も成り立った。
横浜市南区太田エリアは大岡川運河が発達し、大豆・小麦・麹・水・塩を揃える条件が揃っていたと推察できる。
(横浜の塩へつづく)

第901話 横浜ダブルリバー概論(1)

8月 5

第905話 【占領下の空】

終戦直後の福富町

この写真は約7割が空となっています。
カメラマンは何故?
敢えてこの広い空を構図の中に取り込もうとしたのでしょうか?
撮影場所は野毛山中腹(現在の西区東ケ丘あたり)かプール(今無い)あたりか?
<風景を読む>
手前に京浜急行が走り、日ノ出町駅舎は隠れて見えません。
高架線の途中にある構造物は京急の変電所でしょう。
その先には大岡川が流れ、アーチ橋長者橋、左側に桁橋宮川橋が見えます。
福富町の殆どが空襲で焼失し、米軍によって整地され、接収の準備が始まっています。
後にこのエリアには第八軍宿舎(カマボコ兵舎)が立ち並びますが
まだ臨時のテント設営段階のようです。
横浜関内外エリアは戦後、ほとんど接収となり戦後復興が滞りました。
このエリアは、開港後の「慶応の大火」以降 「関東大震災」「横浜大空襲」「戦後接収」と地域の機能不全の中から立ち上がってきた経験があります。
遠景のスカイラインに ランドマークとして「神奈川県庁」が確認できます。
<横浜三塔>の一つである「横浜税関」は県庁に重なって確認できないようです。手前に「開港記念会館」がぼんやり見えます。
長者橋近くには、『和菓子屋 しげた』の裏にあった「倉」が写っています。
貴重な風景です。
細かく拡大することで、色々な建物を読み取ることができますが、
今日の本題に戻します。
何故、カメラマンは広い空を選んだのでしょうか?
手前の日ノ出町一帯は幸運にも空襲の被害は少なかったようで、街並みが残りました。
この風景から、焼け残った風景(家並み)は切り取られました。
何も残っていない風景を強調したかったのか?
この写真はアメリカ人から譲り受けたものですが、撮影者が日本人なのか在留アメリカ人なのかは不明です。
撮影時期は昭和20年の秋か21年の初めあたりと推定しました。

復興したエネルギーも大切ですが、
失ったモノを忘れない エネルギーも重要です。

7月 26

第902話 南・中・西 分離始末

ダブルリバーに関わる3つの区を地図上で眺め、歴史を探ると
分区の不思議が見えてきます。 横浜市南区は1943年(昭和18年)12月1日中区から分離しました。
その理由は
「戦時配給制度の手続の軽減を図るため、寿・大岡両警察署管内の各町を中区から分離して南区が誕生。(wikipedia)」と簡単に説明されています。
区名の由来は中区の南に位置するからだそうです。
同様に中区に対して西に位置するという理由から西区が1944年(昭和19年)4月1日分区しています。全体から見るとかなり東にあたり、中区の西というのは無理がありますがすでに分区していた<南>との対比だったのかもしれません。個人的には南区が西区で西区は東区でも良かったかなと思います。
肥大化していく中区
中区は港都の中心市街地として膨張していきました。
南区も西区も膨張する中区からなかば”はじき出される”かたちで誕生したのでしょうか?
手元の資料を読む限りでは
両区とも戦時中の分区で、警察管区の変更をベースに区域が生まれています。
警察管区単位で<配給体制>が運営されていたため
戦時管理体制の強化が背景にあったともいわれています。

南区も西区も分区の時期はずれていますが、
同時期に分区計画が遡上にあがります。
西区史では
「西区の新設は、昭和十八年(一九四三)十二月一日、南区が中区の一部から分離、独立したときから日程にのぼっていた。これより前、港西区又は戸部区として新行政区を新設するよう運動もおこっていた。」
もう少し説明を加えると、キッカケは横浜市が第3次市域拡張によって急膨張し新しい区制度により新区が誕生した昭和二年に遡ります。
【番外編】市域拡大は元気なうちに!?

横浜市で区制が始まった時は、五区でした。
鶴見区・神奈川区・中区・保土ケ谷区・磯子区 以上。
現在のように18区となったのが1994年(平成6年)ですから、約70年で市域も増えましたが、分区を繰り返してきました。単純に分かれていくだけではないので、複雑に見えてしまいます。
区制当初からほとんど<区域>が変わらないのが「鶴見区」です。
唯一行政域不変の区です。
この中で、区と区の境界ゾーンに一つの新しい区が”独立”したのが西区です。
1994年(平成6年)16区が18区になるときに、緑区と港北区で新しく線引を行い青葉区・都筑区が誕生しますが西区の誕生はまさに「神奈川区」「中区」の境に誕生します。
生活圏の変化
横浜市は昭和初期に第3次市域拡張を行い一気に大横濱となります。1936年(昭和11年)に久良岐郡、1939年(昭和14年)には相模国鎌倉郡戸塚村を市域に加えほぼ現在の市域に近くなります。
この拡張期間に様々なインフラ整備と新産業が起こり生活圏の変化が起こってきます。
西区・南区に戻ります。
西区エリアは昭和に入り「中区と神奈川区」の谷間で俄然存在感を示してきます。最大の理由は三代目横浜駅の開業です。
山に囲まれた帷子川河口域一体が西区となります。当初神奈川区と中区の境界は帷子川河口域、石崎川あたりですが、関東大震災後、戸部エリアを軸に新しい都市計画が構想され(牧 彦七案)その後「戸部村」が独立を望む際に、同じ生活圏である帷子川河口域(岡野新田・平沼新田 他)を含めた区域を求めたのも自然でしょう。南区の誕生
一方、”肥大化した”中区の南西部が分離した「南区」の独立理由に目を向けてみます。冒頭に紹介したように「戦時配給制度の手続の軽減を図るため、寿・大岡両警察署管内の各町を中区から分離して南区が誕生。(wikipedia)」
警察の管轄権で南区としたとあります。逆に、寿・大岡両警察署の管内が決まった理由を考えることで、中区・南区の境界線が見えてくるのではないか?と警察史を追いかけてみると
南区の管轄警察となった寿警察のルーツは久良岐郡警察署(久良岐橋近く中村町4丁目)にあります。その後石川町警察署(石川町4丁目)となり1921年(大正10年)吉野町に寿警察が誕生します。それぞれの警察署がどのような管轄域の変遷を辿ったのか「神奈川県警史」では判りませんでしたが、中村川エリアと大岡村エリアである大岡川河口域の歴史から少し読み解くことができそうです。
運河で分けた区界
古い大岡川下流域の地図をみると、まさに現在の中区・南区境界の酷似しています。
1970年代まであった大岡川運河群の新富士見川・日ノ出川・吉田川に沿って区界があり、警察の視点では分けやすかったといえるでしょう。
南区史には当時の職員の話として
「とにかく急なことだった。南区が開かれることにきまり、辞令が出たのは一八年の七月だったが、実際に辞令をもらったのが10月1日だった。(中略)とりあえず隣保館を改造して役所とすることにした。」とあるように戦時下で急な準備不足の中での分区だったようです。
南区を運命づけた変化は市電弘明寺線と湘南電気鉄道=京浜急行電鉄の開通による急激な宅地化です。
ダブルリバー
帷子川河口域の発展から西区が誕生し
大岡川中・下流域の発展から南区が誕生しました。
この2区に共通するのが”不便な区役所”というのは冗談ですが、
時の流れによって、町の軸が変化してきた町といえるでしょう。
第901話 横浜ダブルリバー概論(1)

7月 20

第853話 7月20日 京急仲木戸

1941年(昭和16年)7月20日(日)
「海の日」の起源となった「海の記念日」が制定され、横浜でヨット大会が開催されました。
幻の東京オリンピックにも関係したこのレースの話ではありません。
安政6年の話です。まずは京急「仲木戸駅」から始まります。
京急「仲木戸駅」を降り、海に向かって少し歩くと国道15号線に出ます。

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この道をさらに真っ直ぐ進むと「村雨橋」その先に「瑞穂橋」があります。
この2つの橋は、横浜戦後史にその名を残す「戦車」の橋でした。
今回はこの橋を越えず 手前で右に曲がるとしばらくして運河沿いの景色が見えます。

ゴルフ練習場のフェンスを左手に見ながらさらに進むと“古い石積み”を観察することができます。
奥に高層マンションが見え、手前に倉庫群がありこの建物を大きく周り込むように進むと「神奈川台場」の遺構が一部残された「神奈川台場公園」があります。
(神奈川台場公園)
横浜の歴史好きなら一度は訪れたことのある場所です。昨日の「第852話 7月19日京浜急行線権現山」で少し触れた神奈川台場は幸ヶ谷から土砂を削りだし埋立て、石は真鶴から運んだと言われている江戸末期の遺構です。
ここは
勝海舟が基本設計を行い伊予松山藩が築造した船舶警備用の施設です。
台場といえば品川の「お台場」が有名で、全国にも数多くの幕府と各藩により築かれた「台場」が残り“指定文化財”“国の史跡”等に指定されています。
その点、この神奈川台場は開港場沖を監視するという重要な役割を担いますが、間もなく歴史からその姿を消してしまいます。light神奈川台場 この神奈川台場は他の台場には見られない“船溜まり”を持つ構造を持っていて、「蝙蝠台場(こうもりだいば)」とも呼ばれた歴史的にも貴重な歴史遺構でしたが、近代化のうねりに飲み込まれてしまいました。
ペリーが江戸湾に姿を現したことで、幕府は江戸湾の警備をいくつかの藩に命じます。この「台場」のある神奈川宿一帯は“坂の上の雲”で一躍注目された伊予松山藩が担当することになります。(因みに横浜開港場は越前松平藩が担当)
「万延元年(1860年)に藩財政1年分にあたる7万両と、延べ30万の人員を投入しわずか1年で完成させました。設計は西洋通の勝海舟に一任したと言われています。この台場は軍事施設でありましたが、明治以降は諸外国の外交団が来日した際や、国王・大統領の誕生日などに儀礼として祝砲を発射する施設として利用され、国際都市横浜の発展を支える重要な役割を果たしてきたと言えます。
明治32年(1899年)に台場は廃止され、大正10年(1921年)頃より徐々に埋め立てられ、現在ではJR東高島貨物駅構内にごくわずかに石垣を残すのみとなり、かつての景観はありませんが、現在の横浜市はこの台場が基礎となっており、貴重な史跡となっています。(伊予萬翠荘)」
「隠岐守(伊予藩)は海防の事には頗る熱心であった丈けに、幕府に砲台を築く事を願ひ、最初は神奈川宿の猟師町と並木町との二ケ所に設ける考へであったが、段々調査して見ると相当の砲台を築くならば、近距離に二ヶ所も設くる必要は無いと云ふので猟師町の方だけに築造する事にした。
当時品川砲台は頗る不評判であったので,折角築造するならば効力の充分なものをとの評議であった。(横濱市報1938年)」
と説明されています。
<品川台場>が不評だった!という記述には1938年当時、東京と神奈川で開港紛争が起こっていましたので100%丸呑みにはできませんが、<神奈川台場>のデザイン性からもかなり実効性を求めたことが判ります。
そして台場の設計が勝海舟に依頼され、安政6年5月に実測後の<縄張り・杭打ち>を佐藤政養が担当し

この年の7月20日の今日
工事が始まります。工期は当時としては極めて短期間の約一年で完成、万延元年6月に竣工しました。
横浜開港の幕開けに欠かせない<神奈川台場>近年再調査と保全が進められています。まだ多くの遺構がJR貨物の「高島駅」構内に埋もれています。light神奈川台場合成007
今後、遺構が再出現する可能性もあり楽しみです。
現在は台場に隣接して<コットンハーバー>のマンションが建っていますが、この一帯は浅野造船所でもあったため、造船所も遺構も残されています。light_20150404125158浅野造船所略図
夏は少し汗ばみますが、秋口にでも一度散策されてはいかがでしょう。
※コットンハーバー行きのバスがあります。
京急仲木戸からは徒歩20分くらい

No.202 7月20日 (金) 港をヨットが舞った日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=405
今日は元「海の日」です。

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7月 19

第852話 7月19日京浜急行と権現山の戦い

京浜急行神奈川駅は京急線の中で一番“狭い”ホームのある駅です。(感覚です。実際測っていません)
開業は1905年(明治38年)12月24日、歴史ある駅です。
light20150211神奈川駅 lightP2110494 lightP2110514今日は駅そのもののエピソードは別の機会に譲ります。
神奈川駅のある一帯は明治期に鉄道を敷設する際、丘陵の一角を大きく削りました。
神奈川駅を挟んで両側が繋がっていました。light台場神奈川駅東京に向かって右側(東側)の駅際にある小高い丘が「幸ケ谷公園(権現山)」、反対側の西側が高島台にあたります。
今日は横浜の歴史を一気に戦国時代へと時間を戻しましょう。
時は16世紀初め、永正7年(1510年)7月19日の今日は、9日間も壮絶な権現山(ごんげんやま)の戦いが終わった日です。
「権現山の戦い」とは、上杉連合軍がここ権現山を居城とした上田勢と支援した北条氏を破った戦いです。
江戸時代に本格的に整備された東海道ですが、それ以前から東海道は太田道灌の開いた江戸と西国を結ぶ重要な道でした。東京駅から東海道線に乗ると品川近辺の御殿山を過ぎると、平坦な道が続きます。
神奈川県に入り最初の丘陵がここ<神奈川>です。
中世から、権現山は街道の要衝にあたり、戦略的に重要な場所でした。
当時武蔵の国一帯は上杉一族の勢力下にありました。その南端にあたる城が権現山城で扇谷上杉朝良家臣<上田蔵人政盛>が城主として一帯を治めていました。ここに、波乱が起こります。伊豆にあった北条早雲が、鎌倉まで勢力を伸ばし、さらには武蔵の国へと侵攻します。
この時、早雲は権現山城主であった上田 政盛に、上杉傘下から我が北条の仲間になれというメッセージに呼応し兵を挙げます。
この権現山の戦いに関しては上田 政盛が早雲の策略に乗って主君<上杉>を“裏切る”といった表現が多いようです。
「伊勢宗瑞(北条早雲)の調略に応じて相模国境に近い武蔵国権現山城で挙兵した。」
「まず扇谷上杉朝良の家臣・上田政盛を寝返らせ、修築したばかりの相模国<ママ>権現山城に据えた。」(文中相模国→武蔵国)
「早雲は永正4年(1507)、越後の守護代長尾為景(ながおためかげ、1489〜1543・上杉謙信の父)と守護上杉房能の戦いに乗じて、扇谷上杉氏家臣の権現山城主上田政盛(うえだまさもり、生没不詳)を寝返らせます。」
資料を読むと事態はそれほど単純では無く、関東上杉家の<内紛>が<上杉家>に反旗を翻す要因と考えるのが妥当と思われます。元々、権現山城主 上田政盛は扇谷(おおぎがやつ)上杉家の家臣でした。ところが、同じ上杉家の<山内上杉家>によって領地だった神奈川湊を奪われてしまいます。ここに<山内上杉家>に対する反感(恨み)が生まれ、新たなる勢力となってきた北条早雲に与します。
ただ悲劇なのは、この反旗によって仲違いした扇谷上杉家の上杉朝良と山内上杉家の上杉憲房が連合で上田政盛の挙兵した権現山城を圧倒的陣容で包囲し壮絶な戦いが行われ、早雲の援軍が到着する前に陥落します。
※一説では上田政盛は生き残り、後に扇谷上杉家家臣として復活したという説もあります。

この権現山の戦いをキッカケに関東全域をめぐって伊勢氏(後の北条氏)と上杉氏との同盟関係が完全に破綻、戦国時代の覇権争いが激化していくことになります。

(神奈川台場)
この権現山の戦いの舞台となった場所は現在幸ヶ谷公園となっています。ただ戦いのあった当時よりかなり<低く>なっています。
ペリー来航後、急遽神奈川台場を構築するにあたり、埋立て用の土砂がこの権現山の山頂部分を削って使用されたため低くなり<台形>に変わっています。

※余談
この権現山の戦い、2万の上杉勢に対し2000の将兵で迎え撃った上田政盛陣営は圧倒的大軍の前に惨敗しますが、そこに
「19日上杉勢がなだれのごとく城内に乱入した時、城中より「我こそ神奈河の住人間宮の某」と叫びつつ上杉に突入した勇ましい武士がいた。神奈河(今は神奈川と書く)住民間宮とは信冬もしくは子の彦四郎信盛と伝えられている。」
この間宮は討ち死にせず戦のあと笹下に居を構え、北条政権下磯子一帯の領主となります。この間宮家が杉田家となり産業の少ないこの地で梅林などの殖産に務めました。

No.201 7月19日(木)港を感じる絶景ポイント
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=406
横浜港のある東京湾は、船舶の航行が集中するポイントにあたります。
船舶通航信号所として
1986年(昭和61年)7月19日(金)「横浜港シンボルタワー」が完成しました。

Category: 開港以前, 鉄道一般, 横浜の駅, 京浜急行, 横浜の道 | 第852話 7月19日京浜急行と権現山の戦い はコメントを受け付けていません
7月 12

第846話 1914年(大正3年)7月12日「新避暑地十二勝磯子海岸」

1914年(大正3年)7月12日
横浜貿易新報社選(神奈川県内の)「新避暑地十二勝」が発表されました。
この内容に関しては以前、下記のブログで紹介しました。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7816

今日7月12日、違うテーマを予定していましたが
第12位 末席に選ばれた「磯子海岸」に関しては紹介してなかったので簡単ですが紹介しておきます。

磯子エリア(磯子海岸)は、堀割川が完成するまでは不便な陸路の他は本牧沖経由の海運しかありませんでした。明治期から大正期には、河川水路の他 市電(全身の横浜電気鉄道)が開通することで横浜(開港場)とのつながりが深くなっていきます。
横浜市域の海岸線が工業化に伴い埋立事業が行われる中、磯子海岸(根岸湾)と、隣接する富岡海岸は戦後まで大型埋め立て事業が行われませんでした。6横浜の埋立堀割川河口にパラオ行きの飛行場が開設されたり杉田・富岡エリアに軍関係の工場が進出しましたが、大幅に海岸線が埋立られることはありませんでした。
戦前から風光明媚なこのエリアは、湘南電気鉄道や市電の開通で<海水浴場>」として人気スポットとなっていきます。light_市電案内磯子海水浴

戦後、高度成長に伴い、磯子海岸が工場用地として注目されます。lightスクリーンショット 2016-07-11 11.49.55light磯子5
下記に磯子海岸関係の歴史を簡単に列記してみました。
1928年8月4日(昭和3年)
磯子町・滝頭町地先埋立第一次工事完成
1929年1月17日(昭和4年)
森・磯子町地先埋立完成
1929年7月1日(昭和4年)
市営磯子水泳場(海水浴場)を公開
1930年4月1日(昭和5年)
湘南電気鉄道(現京浜急行電鉄)、黄金町〜浦賀、金沢八景〜逗子間開通、森駅(現屏風浦駅)開業
1930年7月1日(昭和5年)
湘南電鉄杉田駅開業
1931年12月26日(昭和6年)
湘南電鉄と京浜電鉄が日ノ出町駅で結ばれ、横浜〜浦賀間の直通運転を開始
1933年4月1日(昭和8年)
京浜電鉄の軌道拡張により品川〜浦賀間の直通運転を開始
1941年2月1日(昭和16年)
軍が杉田町地先5万坪を埋立。また、中根岸町を埋立、飛行場を開場する
1941年11月22日(昭和16年)
大日本航空会社磯子支社新館が鳳町に落成
1950年12月14日(昭和25年)
重油禍で屏風ケ浦、富岡、金沢の海苔全滅
1955年4月1日(昭和30年)
市電、八幡橋〜間門間開通
1956年8月3日(昭和31年)
杉田貝塚の発掘開始
1956年10月9日(昭和31年)
屏風ヶ浦漁協及び同海岸埋立反対期成同盟、「磯子海岸埋立反対決議」を市に手渡す
1956年10月17日(昭和31年)
国鉄根岸線建設並びに磯子・杉田地先埋立に地元漁協が反対、国鉄に陳情
1956年11月29日(昭和31年)
根岸湾埋立反対漁民総決起大会開催される
1956年12月25日(昭和31年)
市会、根岸湾埋立を決定
1957年4月3日(昭和32年)
国鉄根岸線建設事業を国鉄建設審議会が決定
1958年10月14日(昭和33年)
根岸の米軍飛行場が接収解除
1958年12月11日(昭和33年)
根岸湾埋立補償覚書調印
1959年1月25日(昭和34年)
根岸湾埋立で漁業補償協定に調印し根岸湾埋立問題協議会を解散
1959年2月21日(昭和34年)
根岸中学校で根岸湾埋立事業の起工式を挙行
1959年5月23日(昭和34年)
根岸線建設工事に着工
1960年2月15日(昭和35年)
鳳町の接収解除
1960年6月30日(昭和35年)
中根岸町の接収全面解除
1961年1月28日(昭和36年)
磯子団地(汐見台団地)の起工式を挙行
1962年10月10日(昭和37年)
市会、磯子団地の新町名を「汐見台」と決定
1963年2月1日(昭和38年)
磯子町、森町の地先埋立地に新磯子町、新森町を新設
1963年5月25日(昭和38年)
汐見台団地入居開始
昭和38年6月(昭和38年)
屏風ヶ浦漁協が根岸湾埋立記念碑を白旗に建立
1963年12月24日(昭和38年)
根岸湾第1期埋立事業竣工
1964年3月24日(昭和39年)
杉田町、中原町地先埋立地に新杉田町、新中原町を新設
1964年5月19日(昭和39年)
磯子駅前広場で根岸線第1期工区(桜木町〜磯子間)の開通式を挙行
1964年11月18日(昭和39年)
区住民運動連絡会議が東京電力の火力発電所建設に反対の決議
1964年11月27日(昭和39年)
屏風ヶ浦漁協の解散式挙行
1964年12月15日(昭和39年)
根岸湾第2期埋立事業竣工
昭和40年2月(昭和40年)
根岸湾漁協が根岸湾埋立記念碑を根岸駅前に建立
1966年7月19日(昭和41年)
南部下水処理場が竣工(昭17.4.1から「南部水再生センター」に名称変更)
1966年8月9日(昭和41年)
根岸線第2期工事(磯子〜大船間)の許可
1967年6月23日(昭和42年)
科学技術庁が根岸湾埋立予定地に原子力船母港建設の方針を横浜市に申し入れ
1967年7月31日(昭和42年)
市電、葦名橋〜杉田間廃止
1967年9月5日(昭和42年)
政府は原子力船母港の建設で横浜市を断念し、むつ市に決定
1968年8月31日(昭和43年)
市電、八幡橋〜間門間廃止
1970年3月17日(昭和45年)
根岸線磯子〜洋光台間が営業を開始
1970年8月28日(昭和45年)
大岡川分水路建設工事起工式挙行

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