帷子川水系」カテゴリーアーカイブ

第987話【運河物語】桜川

Published / by tadkawakita / Leave a Comment
横浜の運河を追いかけています。
【真景絵図】シリーズの合間に運河を入れます。

今回は桜川運河です。
桜川は現在の横浜中心市街地を支えた運河群の一つで大岡川と帷子川を繋ぐ約2kmの運河でした。
1870年(明治3年)に誕生し翌1871年(明治4年)には「桜木川」と呼ばれましたがその後「桜川」となりました。この「桜川」、
河川史関係の資料では1954年(昭和29年)に消滅したことになっています。
開港資料館の<消滅した8つの運河>では桜川も消えた運河の一つとして紹介されています。
ただ”正確”には現在もしっかりと”桜川”は存在しています。(後述)
桜木川から桜川に名称変更された年代が特定できなかったのでここではすべて「桜川」と表現しておきます。
消えた部分の桜川は現在「新横浜通り」になり、地下には市営地下鉄が走っています。海側にはかつて造船所だった場所が「みなとみらいエリア」に変貌し、ここが運河であったことを全く感じることはありません。バス停や信号機、路地に一部名残を残すのみです。
旧桜川、紅葉橋付近
明治3年ごろ内田清七埋め立て用地
[桜川誕生]
桜川は、鉄道を敷設するために埋立工事を行った土地の”用水路”として誕生しました。
明治維新早々、横浜と新橋(汐留)の間に鉄道計画が持ち上がります。
品川から神奈川まではなんとか敷設できそうでしたが、問題は海や沼に敷設するという課題でした。
明治21年頃、鉄道用地
品川・新橋間には沼地が広がり
神奈川から開港場までは「帷子川」河口の入海・「野毛浦」の山が障害でした。
鉄道黎明期の歴史書では最大の難関だった帷子川河口域を埋め立てた高島嘉右衛門の功績が必ず採り上げられています。もう一人、現在の桜木町駅周辺の敷地を造成したのは内田清七という人物です。その名に因んで鉄道敷地の大半が「内田町」となっていました。しかし、彼の名は時間が流れるに従い消えつつあります。
残念なことです。
内田清七は、切り立った野毛浦沖を埋立てて広い鉄道用地を完成させます。この埋め立てた敷地と野毛の山からの排水路として運河を整備したのが「桜川」です。
横浜沿革誌明治3年5月

※『横濱沿革誌』
「明治三年(庚午)五月。吉田橋脇ヨリ入船町野毛浦迄埋立竣功、之ヲ新街道ト云。受負人真砂町(京屋)内田清七、入船町ヨリ野毛浦埋立地地固メノ為メ、葭簀張納涼茶屋、其他軽業・辻講釈、昔噺等ノ興行ヲ神奈川県裁判所二出願、許可ヲ得テ興行ス、而シテ其土地ノ潤沢景況ヲ輝サンガ為、烟火百数本、仕掛数個ヲ打揚ゲヲ出願シ、野毛浦海岸ニ於テ施行ヲ許サル、故二六月二十一日の夜、船数隻ヲ浮べ、鍵屋製ノ煙火百数本、仕掛数個ヲ打上ゲ、横浜川開キの創始ヲ催しシタリ、爾来、納涼遊歩者日々群ヲ成シ、麦湯店ノ流行殆ンド埋立地ノ過半ヲ占ムルニ至レリ」
この時に、”大江橋の橋台・柱石建設工事開始(内田清七請負)”も行い、大江橋竣工(明治5年)にも深く関わっています。
「京屋内田清七が請け負って埋め立てた所で、明治5年に内田町字1丁目から12丁目までを新設した。明治20年に内田町字3丁目から5丁目までの片側を長住町とし、内田町は字1丁目から8丁目までとなる。町名は埋立者の姓「内田」を採った。町は飛地状となっている。(中区)」
<余談>
この横浜沿革誌に書かれている内容は当時の土木事業を知る重要な鍵が隠されています。
“地固メノ為メ”にイベント(興行)を行い”土地ノ潤沢景況ヲ輝サンガ為”人よって土地を踏み固めるという手法を用いています。
地固メ手法は江戸期からさかんに行われ、戦前横浜川崎の海岸線埋立事業でも人を集めて踏み固めた記録が多く残っています。 [双十字路]
桜川には大きな特徴があります。
大岡川と帷子川を結ぶ運河で接続部が当初両方共”運河十字路”でした!
・大岡川十字水路
桜川・大岡川十字路
現在は桜川と派大岡川が埋め立てられています。 ・石崎川十字水路
石崎川・桜川十字水路
現在は桜川と石崎川下流が埋め立てられ、変則的に曲がり帷子川に繋がっています。
石崎川は大岡川支流の中村川のように、河口の無い川です。
(消えた石崎川河口)
冒頭に桜川は消滅していない!と紹介しました通り、桜川は現在も残されています。
平成8年桜川・石崎川
[因縁 横浜駅]
桜川大岡川口には初代横浜駅(現桜木町駅)があり、
初代横浜駅
桜川石崎川口には二代目横浜駅(現在遺構のみ)があります。
二代目横浜駅
[桜川の橋]
大岡川から桜川に架かっていた橋は
錦橋
緑橋
瓦斯橋
紅葉橋
雪見橋
花咲橋
このあたりから時代を経て変化します。
明治10年代は「大平橋」が架かっていて、石崎川に合流します。
その後、平沼新田造成が進み、
横浜駅が高島町に移設されることで石崎川の架橋状況が変わりました。
また地図で推理する限り、桜川が「二代目横浜駅」を避けるために流れを変え、より石崎川上流側に合流地点が移ります。
大平橋→戸部橋・櫻橋→石崎川に合流
石崎川に架かる橋
西平沼橋
梅香崎橋
石崎橋
<桜川合流>
高島橋
(富士見橋)埋立廃止
→<石崎川十字水路>が無くなります。
桜川の下流部が石崎川下流域になり
材木橋
(不明)浅山橋か?
<帷子川合流>
万里橋
築地橋
大正2年桜川
新横浜通り(桜川)
まだまだ桜川近辺の歴史も含めると色々な歴史ドラマが隠されています。
今回はこのくらいにしておきましょう。
桜川関連マイブログ
第873話 【絵葉書の風景】駅前劇場
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9465
※ちょっとお宝話 第977話【横浜の道】国道16号線
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=12004
新横浜通り
第960話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第五話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11695
桜川B橋
第891話【横浜の橋】A B 橋
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9936

第982話+【帷子川の橋】その2

Published / by tadkawakita / Leave a Comment

更新準備中です。現在下書き段階ですが、とりあえずアップです。

<中流から下流域 橋梁名のみで失礼>
※源流から河口域まで踏破しました。写真は略します。
鶴ケ峰駅周辺は目下激変エリアです。相鉄線がなんと!
 東急に繋がります。
 戦争直後、横浜駅で東急とつながっていたら、相鉄も大きく変わっていたでしょうね。
 いち早く東急桜木町駅は撤廃して、県央に東急連結とは なりませんでしたが
今回、相鉄がJRの貨物線ルートの一部を使って東急線に入ります。
綱島でも大規模な再開発工事が始まっています。

昭和初期の鶴ケ峰、中央にポツンと鶴ケ峰駅が、東西には水道道。


鶴ケ峰は帷子川大改修が行われました。大きく曲がっていた川の流れをトンネルでショートカット。横浜市内では最も<大胆な>河川工事が行われました。
[本流]鶴峰橋~水道橋~(鶴ヶ峰橋)~鶴舞橋~白根橋~中根橋~用賀下橋~嶋越橋~<中堀川合流>〜愛宕橋~ふれあい橋~下中田橋~中田橋~上逆田橋~逆田橋~
<くぬぎ台川合流>〜耕地橋~学校橋
※帷子川には「学校橋」が2つあります。おなじ川に同名の橋が架かっているのは珍しい。
<菅田川合流>〜鷲山橋~新橋~かるがも橋(相鉄線下)(東海道新幹線下)~(川島高架橋)~
<新井川合流>〜川島橋~稲荷橋~両郡人道橋〜両郡橋~光栄橋~宮崎人道橋〜宮崎橋~(宮崎跨線橋)和田跨線人道橋~和田橋(環状2号)(橋銘板ナシ)~平和橋~星和橋~川田橋~(すみれウォーク)〜宮川橋~宮川人道橋〜星川橋~星川橋人道橋〜星川下橋~柳橋人道橋(上下)〜柳橋~常盤橋(横浜新道下)(水道道)~愛染橋~古町橋~帷子橋~天王橋~
<今井川合流>
上流は省略します。
かつてはここから下流は深い入海で海岸線でした。
[本流]水道橋~尾張屋橋~<石崎川分流>
[新田間川分流]烏帽子田橋~藤江橋〜藤江人道橋〜霜下橋〜霜下人道橋〜浅岡橋〜岡野橋〜新田間橋〜一之橋人道橋〜一之橋〜<幸川>内海橋〜内海人道橋〜幸川橋〜南幸橋〜幸橋〜<本流へ>
沼野橋(環状1号)(八王子街道)(新田間川上)~平岡橋~(平沼一之橋)~元平沼橋~平沼橋~<幸川合流>〜万里橋~築地橋~はまみらいウォーク~みなとみらい大橋
[新田間川分流]<帷子川分水路合流>〜二ノ橋〜北幸橋〜西鶴屋橋〜鶴屋橋〜(JR・京急)〜月見橋〜金港橋〜人道橋〜<本流へ>

第982話【帷子川の橋】

Published / by tadkawakita / Leave a Comment

前回に続き帷子川について紹介します。

帷子川源流から鶴ケ峰まで

帷子川橋梁を源流域から一覧化してみました。
これ結構大変でした。地図ではつかめない情報もあり現地調査は欠かせませんでした。
帷子川は長さ17kmの短い二級河川です。横浜市域では大岡川と同様に源流を横浜市内に持っています。
[源流]帷子川の源流は何処か?
そもそも<源流>とは?
本流の最上流の部分を<headwaters>源流としますが、都市化された近郊河川では定義が難しいようです。
河川には多くの支流があり、小さな支流が集まって本流へと合流を繰り返しながら、河口へと向かっていきます。本流は河川の長さや流量が大のほうを指すそうですが、源流域の造成等によって本流の判断がしにくいからです。
帷子川の場合、
「横浜市内西部旭区上川井地先、若葉台あたりの丘陵地に水源を発している」となっていました。

源流から上川井橋まで
帷子川源流
源流らしきもの

源流〜(上川井親水遊歩道)〜<暗渠化>〜①会館橋〜②大貫橋〜<堀谷戸川と合流>
帷子川は<源流>に近い場所に「源流」ゾーンを人工的に作っています。周囲にはより高い丘陵地がありもっと奥に源流があると思われますが、<見切って>源流としたのでしょう。
源流から親水公園が作られ、川の流れを確認できますが、途中から暗渠化します。
川は小河川が合流し水量を増していきます。帷子川上流域で源流に近い(河川名のある)最初に小河川が「堀谷戸川」です。堀谷戸川は現在の程ヶ谷カントリー周辺に源流がありますが、ここでは省略しました。
[堀谷戸川]源流〜(程ヶ谷カントリー)〜中井橋〜<合流>

源流近くには「若葉台」の住宅街が立ち並んでいます

堀谷戸川と本流が合流するあたりは独特の地勢です。
[本流]<堀谷戸川合流>~③日向根橋~④学校橋(改修中)~<小河川合流>〜⑤上川井橋(国道16号)

途中から暗渠化
①会館橋(上川井町内会館)
②大貫橋
水位を判断するスケール

~⑥徒橋(野境道路)〜⑦明神橋(人道橋)~⑧五反田橋(人道橋)~⑨国道五反田橋a)〜⑩大栗橋~⑪(国道)川井橋~⑫三家橋~
⑬吹上橋(新設※)~国道下川井橋a)~⑭下川井橋(新設※)~(私設橋)〜⑮御殿橋(中原街道)~
a)国道と市道は同橋名が架かっています
※河川改修後新設

⑯都岡橋〜<合流>〜
[矢指川]清池橋〜旭高橋〜下矢橋〜桜橋〜(矢指橋)<合流>〜b宮下橋〜c新開橋〜d耕地橋〜
[本流]⑰今宿南橋~<合流>〜⑱日影橋~⑲団地橋~⑳用地橋~㉑今宿新橋~㉒清来寺橋~㉓(高山人道橋)〜㉔高山橋~㉕今宿東橋〜㉖越巻橋~㉗公園橋~㉘今川人道橋~㉙今川親水橋~㉚今川橋~(二俣川合流)(鶴ケ峰)

元帷子川整備中
これが昔の曲がりくねった帷子川
新しく直線化した帷子川に新しく架橋した⑬吹上橋を望む
明神橋付近




第981話 【帷子川】River GeoPark

Published / by tadkawakita / Leave a Comment

今、
帷子川(かたびらがわ)上流域が面白いので紹介します。(2018年暮時点)
市内のRiver GeoParkとして<地球のことを楽しむ>ことができる場所になっています。
ジオパークとは、「地球・大地(ジオ:Geo)」と「公園(パーク:Park)」とを組み合わせた言葉で、「大地の公園」を意味します。
なぜ帷子川なのか?
市内4大水系の中で、帷子川は近年大改修が行われています。
特に上流域は、平成まで多くが未改修(半改修)状態で暴れ川の様子をうかがうことができる場所がたくさんあり“蛇行の歴史”を現在も確認できるからです。改修中を含め今が良いチャンスです。

横浜の水系と明治期村落図
まさに蛇行の教科書になる蛇行図(昭和初期)
鶴ヶ峰付近の蛇行で、鶴ヶ峰地区開発で一部面影を残しています。(昭和初期)

(洪水の歴史)
近代以降<洪水>は災害そのものですが、かつて私たちは<洪水>と共に生きてきました。川は洪水によって変化し周辺に様々な影響を与えてきました。
川の果たしてきた役割を簡単に紹介しましょう。
川は近代まで栄養と物を運ぶ役割を担ってきましたが近代以降、物流中心になり現代は雨水の排出口になってしまいました。これはやや極端な表現ですが、上流から運ばれた土砂が河口に平野を作り、栄養源を海に送り出す役割も担っています。
日本の河川は水源から河口までの高低差が大きく、落差による洪水発生率が高いのが特徴です。
山林、丘陵林から集まった雨水、湧き水が集まり瀬と淵で変化を繰り返しながら<蛇行>を育てながら河口に向かいます。
(蛇行は川の履歴書)
新旧の地図を比べると楽しみ方が色々あります。
鉄道のことが気になる、
道路の変化、
市街地、海岸線の変化も比較し始めると無限のイメージが広がっていきます。川筋の変化は近代以降、護岸工事・治水技術の発展で激減しますが、<災害>によって川の存在が突然クローズアップされることがあります。
帷子川は、蛇行の<名残>が満載。近年ようやく改修工事が始まり
 蛇行の直線化が進んでいますので、
観察するなら今がチャンスです。改修工事はオリンピック開催(2020年)あたりには完成するのではないでしょうか。
※改修が遅くなった理由の一つに「水道道」が関係しているようです。明治以来、横浜水道を支えている重要な水道管が帷子川に沿って通っています。この水道管へのダメージを最小限に抑えるためにも、慎重な工事が求められるのでしょう。

水源をイメージさせていますが、水源ではありません。

帷子川は横浜4大水系の一つで横浜市内西部旭区上川井地先、若葉台あたりの丘陵地に水源を発しています。
途中、中堀川、今井川、二俣川などいくつかの支流を合わせ、鶴ケ峰から相鉄線に沿って流れ横浜駅を挟み河口につながっています。
帷子川の名の由来は、諸説ありますが北側の河口部沿岸がなだらかで、片側が平地だったことから、「片平(かたひら)」の名が起こり、「帷子」の名となった説が有力です。この「片平」にできた小さな平地(ひらち)を帷子川は蛇行しながら現在の流れを生み出してきました。

(二級河川帷子川データ)
■本流 17,340(m)
(支流・分流)
 中堀川(帷子川)850(m)
 今井川(帷子川)5,590(m)
 石崎川(帷子川)1,600(m)
 新田間川(帷子川)2,200(m)
 幸川(帷子川)300(m)
 帷子川分水路(帷子川)6,610(m)
■流域面積 57.9 km²
 市内二番目の長さです。流域面積は三番目。

関連ブログも多いです。
No.433 【横浜の河川】帷子川物語(1)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=138
No.434 【横浜の河川】帷子川物語(2)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=137
【横浜の河川】帷子川物語(3)河口めぐり
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=4850
【横浜の橋】№4 帷子川河口に架かる橋
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=8164

(蛇行直線化の歴史)
帷子川の蛇行を、現在もはっきり確認することができます。

元帷子川整備中
暗渠化された元帷子川
ただいま 旧帷子川整備中
元帷子川
元帷子川(未整備)
河岸段丘も観察できます
ここが川管理の境界
昭和55年ごろの都市計画図による改修計画。近年大きく改修されたエリアです

次に帷子川上流域の様子を橋から紹介します。

第977話【横浜の道】国道16号線

Published / by tadkawakita / Leave a Comment

国道16号は現在、起点:西区桜木町〜終点:西区桜木町という珍しい道路です。
歴史は新しく1963年(昭和38年)4月1日に幾つかの路線が統一されて16号となりました。
横浜界隈的に起点から16号を辿ります。
ルート16は
帷子川支流「石崎川」近く、元「桜川」のあった場所を起点に初めて鉄道が始まった初代横浜駅・新橋間の鉄道路線に沿って大江橋へ続きます。

二代目横浜駅。ちょうど市電のあたりが16号線起点
現在の桜木町付近
16号線起点・終点付近
初代横浜駅、現桜木町駅。興産館(現ぴおシティ)あたりの16号線。

<大江橋> 横浜市内では珍しい人名の橋です。(大江卓)
関内大通と交わる尾上町の交差点を右折、羽衣橋を渡ると旧吉田新田の背骨、中央部を吉野町まで。このルートは関東大震災まで狭い道でしたが、吉田川沿いを通っていた市電のルート変更を行い、広い道路として新規整備されました。
吉野町の交差点を左に。
中村川の「睦橋」を越え、堀割川に沿って磯子方面に。

尾上町交差点付近で16号線は大きく曲がります。

<八幡橋>際を右折し横須賀方面に曲がります。
ここから16号線は旧海岸線でした。
磯子駅を通過し、新杉田駅を過ぎると内陸部に入り込み、富岡からほぼ京浜急行線と並行して金沢文庫まで走ります。泥亀あたりで少し京急と分かれ、また金沢八景で並走します。京急と国道16号線は馬堀海岸までほぼ並走しています。
その後16号線は国道の中でも数少ない海の国道を経て、房総半島に上陸し千葉県を縦断、埼玉県、東京都下八王子からかつて絹の街道として盛んな往来があった八王子街道となった横浜市旭区に入ります。保土ヶ谷バイパスと旧道に分かれ、旧道はほぼ「帷子川」の沿って横浜中心部に入り、終点に向かいます。

(歴史)
横浜に海軍鎮守府(東海鎮守府)が1876年(明治9年)に短期間ですが設置されます。
1884年(明治17年) 12月15日、東海鎮守府は横須賀に移転「横須賀鎮守府」となります。この時から横浜と横須賀との道路整備が行われ、1887年(明治20年)に鎮守府に至る国道として「国道45号線」となりました。

戦後の
1952年(昭和27年)12月4日に施行された新道路法に基づく路線指定でこの区間が「一級国道16号」に指定されます。これが国道16号のはじまりです。
その後、延長を重ね、他の国道を取りまとめ環状線となって現在にいたります。

旭区から終点に至る16号線は、江戸時代から八王子街道として開け、保土ケ谷区と西区の区境(洪福寺松原商店街はずれ)に東海道と八王子街道(旧道)の<追分>があります。この主要街道は神奈川往還とも呼ばれ、保土ケ谷宿への重要街道でした。幕末からは繊維(絹)街道として遠くは山梨商人の道として賑わいました。

第930話石油を巡る点と線

Published / by tadkawakita / Leave a Comment

1,000話までカウントダウン70の節目なのでちょっと頑張ってみました。
帷子川河口域を調べている過程で、明治38年発行の地図を改めて見直していたらそれまで全く意識していなかった情報が目に飛び込んできました。帷子川 石油パイプライン万里橋近くから「石油タンク鉄管」が海にまっすぐ伸びています。
明治38年の時点で、破線なので予定線かもしれませんが、横浜港内に石油パイプラインがあった?ことを再確認した次第です。
このパイプの使用者は?周辺を確認してみると高島嘉右衛門が造成した鉄道道にあたる「高島町四丁目」に「横浜瓦斯製造所」がありその奥には現在の平沼一丁目に「浅野石油槽場」が記載されています。
この場所は、戦前いち早くメジャー二社の石油会社が進出しましたが、浅野グループがいち早くこのあたりに石油関連施設を設置していたようです。資料を探してみたところ、
1892年(明治25年)
11月浅野総一郎、浅野石油部を設置、ロシア石油販売を開始
帷子川河口域の歴史を石油。製造業関係を中心に調べてみました。
1893年(明治26年)
5月ニューヨーク・スタンダード石油、横浜に日本支店を開設
 10月浅野総一郎、横浜に油槽所完成

【関連年表】を作りました。
1884年(明治17年)
山田与七、高島町に山田電線製造所を創業
→「山田電線製造所」が後の古河電工、横浜ゴムとなっていきます。
1888年(明治21年)
 6月19日 横浜のジャーデン・マセソン商会、ロシア灯油を初輸入
山田又七、山本油坑舎を設立、新潟県東山油田浦瀬で試掘
高島町遊郭が真金町、永楽町へ。
→「山田電線製造所」の山田与七と日本の石油パイオニアである山田又七は名前が似ていますが、接点は見当たりません。
1889年(明治22年)
4月16日東京ー浜松間開通
6月16日横須賀線開業
7月1日東京ー神戸全通。
小倉常吉は後に小倉石油となる小倉油店を開業。
1891年(明治24年)
横浜船渠工場操業開始。
浅野総一郎、サミュエル商会とロシア灯油の販売契約締結
1892年(明治25年)
6月山田又七ら、石油会社を設立(宝田石油の前身、新潟県古志郡比礼で試掘)
11月浅野総一郎、浅野石油部を設置、ロシア石油販売を開始
1893年(明治26年)
山田又七、「宝田石油株式会社」設立(新潟県長岡:東山油田)。翌年から米国製掘削機を用いて機械掘り採油を開始.。後に他社を次々と買収して日本石油会社と並ぶ本邦二大石油会社のひとつとなる。
 5月ニューヨーク・スタンダード石油、横浜に日本支店を開設
 10月浅野総一郎、横浜に油槽所完成
1894年(明治27年)
 3月21日ニューヨーク・スタンダード(ソコニー)、横浜に支店を開設。
8月日清戦争勃発(〜28年)
12月東海道、軍用線3.5km(神奈川〜保土ケ谷)ショートカット線開通。
1895年(明治28年)
内海(通称・平沼)の埋立開始。
1896年(明治29年)
山田電線製造所、横浜電線株式会社とし平沼に工場を建てる。
No.127 5月6日 あるガーナ人を日本に誘った横浜の発明王
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=488
帷子川、大岡川流域に染物工場、ハンカチのふちどり工場発展、製糸工場群生。
6月29日西平沼町に横浜電線製造KK設立。
1897年(明治30年)
サミュエルは横濱元町に「シェル運輸交易会社」を設立。
 湘南海岸で自ら「貝(シェル)」を拾った日々の原点に戻って、「シェル」と称したという。
1898年(明治31年)
浅野石油部、日本初の鉄製タンク車で石油輸送
1899年(明治32年)
平沼短縮線を一般客線とする。
1900年(明治33年)
4月11日日本のサミュエル商会は、石油部門を分離独立することとし、
 横浜に「ライジングサン石油株式会社」を設立(資本金25万円 本店・横浜市山下町)。
1901年(明治34年)
平沼駅開業。
2月ロシアに宣戦布告(日露戦争勃発)
1905年(明治38年)
7月19日平沼亮三の母千代子、出征兵士の歓送でホームと列車の間に落ち死亡。
9月大倉喜八郎・浅野総一郎ら、南北石油を設立。
12月京浜電気鉄道 川ー神奈川開通。
1907年(明治40年)
4月国産ガソリン自動車第1号製作(タクリー号)
第923話【横浜絵葉書】鉄桟橋の群衆2
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=10924
 9月南北石油、保土ヶ谷製油所完成
 スタンダード石油が神奈川油糟所を開設。
スタンダード石油と三明商店の間に初めて代理店契約が結ばれた。(小嶌 正稔)
その後、全国の商店と代理店契約を結んでいく。東京神田美土代町大家商店。神戸松村石油。
 南北石油(株)保土ヶ谷製油所(神奈川県・保土ヶ谷、原油処理能力3,000バレル/日)がカリフォルニア原油を初輸入。
麒麟麦酒創業。
1908年(明治41年)
平沼の漁民、原油もれに抗議。
1914年(大正3年)
埋立完成、南幸町・北幸町と命名される。
1917年(大正6年)
日本は世界第8位の石油産出国という統計が発表される
1922年(大正11年)
小倉、横浜に原油貯油所完成。

震災前の平沼周辺

1923年(大正12年)
関東大震災によりスタンダード石油油槽所が倒壊。大火災により、周辺住民により再建反対運動が起きる。
1924年(大正13年)
日本石油、鶴見製油所(神奈川県橘樹郡安善町)を建設。
1925年(大正14年)
 2月資本金400万円で「日本フォード社」が横浜市緑町4番地に設立
 3月3日アジア初の「日本フォード」製造工場が横浜市神奈川区子安に開設。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6947
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7846
1927年(昭和2年)
日本ゼネラルモータース設立
以上大正時代までの関連年表を整理しただけで、
横浜と石油の関係が浮かび上がってきました。

第904話 横浜ダブルリバー概論(2)

Published / by tadkawakita / Leave a Comment

大正から昭和へ
1900年代初頭、近代化のうねりの中で横浜は開港場を軸に、変化の真っ只中でした。
ここで第二次市域拡張を終えたダブルリバーの20世紀初頭を追ってみます。

1901年(明治34年)から20世紀となります。
横浜市は初めて市域の拡張を行いました。
「久良岐郡戸太村、中村、本牧村、根岸村、および橘樹郡神奈川町、保土ケ谷町大字岡野新田、大字岩間字久保山・大谷・林越・大丸(現在の西区元久保町・東久保町・久保町)、子安村大字子安を編入。」

大正12年4月発行の帷子下流域

・大岡川下流域
「横浜港」を中心に貿易関連企業群と行政機関が集中する商業都市として膨張を続けます。
一方
・帷子川下流域は、大正期に入り埋地が工業地帯として発展していきます。
明治期に高島嘉右衛門が埋め立てた鉄道路線沿いの<高島><裏高島>エリアには、様々な製造業が進出します。また鉄道線に沿った埋地の内側(現在の横浜駅西口側)には外国系石油会社が二社進出します。
一つがユダヤ資本系のライジングサン石油株式會社(後のシェル石油)で平沼・高島に油槽所を設置。
また、米国ロックフェラー系のスタンダード石油も現在の横浜駅付近に貯油所を開設、日本市場進出の拠点となります。現在も日本ガソリンスタンド発祥の地(真偽不明)の記念碑が建っています。
また、平沼・岡野の帷子川下流域新田も工業用地へと変貌し、市瓦斯(現在東京ガス)平沼、横浜電気、横浜電線製造、横浜魚油などが操業し大正期大ブームとなった麻真田を織る工場が多く開業し第二次世界大戦前まで横浜の重要産業に躍り出ます。
(20世紀初期)
1889年(明治22年)に市制が施行され、
1901年(明治34年)から20世紀となります。
横浜市は初めて市域の拡張を行いました。
「久良岐郡戸太村、中村、本牧村、根岸村、および橘樹郡神奈川町、保土ケ谷町大字岡野新田、大字岩間字久保山・大谷・林越・大丸(現在の西区元久保町・東久保町・久保町)、子安村大字子安を編入。」
1911年(明治44年)に第二次市域拡張。
「久良岐郡屏風浦村より大字磯子、滝頭、岡(旧禅馬村の地域)を、大岡川村より大字堀之内、井土ヶ谷、蒔田、下大岡、弘明寺を、橘樹郡保土ケ谷町より大字岩間字池上・東台・外荒具・道上・塩田・反町・宮下・殿田・関面・久保山下(現在の西区東久保町・久保町・元久保町、保土ケ谷区西久保町)を編入。」
この後、しばらく横浜市はこの市域を維持していきます。
このブログでも何度か指摘していますが、横浜市は6回の市域拡大を行います。
1927年(昭和2年)の市域拡大で大幅に市域面積を広げますが現在の半分以下でした。
(関東大震災)
大正期から昭和初期の間における横浜の急激な変化は「関東大震災」に尽きます。
当時の横浜市は人口約42万人で東京市の約220万人に比べ1/5の規模の都市でしたが横浜市の住家全潰(全壊)棟数は約1万6千棟、
東京市の1万2千棟をはるかにしのぐものでした。
特に大岡川と中村川・堀川に挟まれた関内外エリアでは、全潰率が80%以上に達しました。このエリアでの火災の発生場所約290ヶ所に及ぶなど横浜中心部は住宅の全潰率や出火点密度が非常に高かった点が特徴です。
また関内外は運河や橋が多かったため、橋の崩落、木造橋梁の焼失により逃げ道を失ったことが被害を大きくしました。
1923年から帷子川・大岡川下流域は、ひたすら復興のためにエネルギーを使っていきます。
横浜電気鉄道が市電となった直後、
二代目横浜駅が完成してまもなく
第一次世界大戦後の不況から立ち直ろうとしていた矢先
の震災でした。
震災後、横濱も帝都東京と併せて復興計画が立案されていきますが、予算を含め様々なハードルが待ち受けます。
第902話 南・中・西 分離始末 
で少し紹介しました牧彦七による震災復興プランにはダブルリバーを意識していたように思えますので改めて彼のプランを再考してみたいと考えているところです。

牧彦七(マキ ヒコシチ)
内務省の勅任技師時代、道路の改良について研究を進めその傍らで外国語学校に学び、土地計画の国フランス語を修めました。明治神宮造営局や鉄道院の各技師を経て1923年(大正12年)東京帝大講師に就任。同年9月に関東大震災が起こると、いち早く横浜の復興計画に携わることになりますが、任半ばで<帝都復興優先>とされ東京市土木局長となります。帝都の復興に尽力し、東京の都市計画の基盤を作ったテクノクラートで横浜市に関わった場合、どう変わったのか?大変興味深いところです。
13年内務省土木試験場長、次いで東京市道路局長などを歴任。また、大分県出身者として在京大分県人会を組織し、その会長も務めました。
少し長くなりますが20世紀初頭をザクッと年表にしました。
1900年(明治33年)4月11日 サミュエル商會の日本法人として石油部門を独立させ後にライジングサン石油株式會社(後のシェル石油)となります。
照明用の灯油・蝋燭製造でシェアを伸ばします。 平沼に油槽所を開設。
1902年(明治35年) 横浜電気鉄道株式会社設立(資本金100万円)
1903年(明治36年) 鶴屋呉服店、明治屋設立
1904年(明治37年) 日露戦争(〜05年9月5日) 横浜電気鉄道開通(神奈川-大江橋間)。
1906年(明治39年) 三渓園 開園 1910年(明治43年) 東京横浜電鉄(株)創立。
1911年(明治44年) 第二次市域拡張。オデオン座開業
1913年(大正2年) 浅野総一郎ら 鶴見埋立組合による埋立始まる。 横浜の逓信省経理局倉庫と海上の天洋丸の間で無線電話連絡に成功。
1914年(大正3年) 第一次世界大戦(〜18年11月11日) 東京駅開業 糸価大暴落、横浜生糸後場休会。
1915年(大正4年) 二代目横浜駅開業 御大礼特別観艦式(行幸)
1916年(大正5年) 横浜入港の布哇丸乗客にコレラ発生。以後全国的に拡大。この年、死者7,482人。
恒例観艦式(横浜沖)
1917年(大正6年) 横浜港第二期築港工事竣工 開港記念横濱会館竣工 東海道本線貨物支線鶴見ー高島間、東神奈川ー高島間開業。横浜臨港貨物線のはじめ。
1918年(大正7年) 横浜生糸相場暴落。 米騒動
1919年(大正8年) 久保田周政(きよちか)市長は市区改正局と慈救課を設置し、都市計画と社会福祉を設置 横浜市千歳町に大火。焼失3,084戸。(埋地火事)
1920年(大正9年) 市区改正局→都市計画局 慈救課→社会課 戦後恐慌始まる。茂木合名会社破綻(5月) 横浜電線製造株式会社が古河工業株式会社より日光電気製銅所などの現物出資をうけ設立。
電車を市営とすることに決定 横浜興信銀行設立認可。
25日 開業。
七十四・横浜貯蓄両銀行破綻のため市内有力者が相寄り新銀行を設立。
1921年(大正10年) 横浜取引所の定期生糸立会が復活。 野沢屋呉服店新館開店
1923年(大正12年) 関東大震災。横浜市内全域被災。 ◎特別都市計画法公布。東京・横浜の都市計画を規定。
1924年(大正13年) 神戸市、市立神戸生糸検査所を開設(横浜港の生糸輸出独占破れる)。 市内各地で皇太子ご成婚の奉祝行事開催 横浜高等商業学校(官立)設立、入学式。 神奈川県庁舎 岡野町に建設。
1925年(大正14年) 日本フォード自動車(株)設立。本社横浜。 東京・横浜間で電話自動交換方式を採用。 湘南電気鉄道設置
1926年(大正15年) 生糸検査所竣工
1927年(昭和2年) 京浜地方の諸銀行休業 第三次市域拡張 ホテルニューグランド開業
1928年(昭和3年) 三代目横浜駅開業
1929年(昭和4年) 復興祝賀式 世界恐慌始まる
1930年(昭和5年) 横濱市会議員、初の普通選挙 山下公園開園
1931年(昭和6年) 満州事変
1932年(昭和7年) 東横線全通
1933年(昭和8年) 横浜の山下町消防署に救急車を初めて配置。
東京では12月に日赤に配置。
自動車製造(株)設立(社長 鮎川義介)。資本金1,000万円。
日本産業(株)と戸畑鋳物(株)の共同出資。本社は横浜。1934.6.1 日産自動車(株)と改称。
1935年(昭和10年) 復興記念横浜大博覧会(〜5月)
1936年(昭和11年) 第4次市域拡張
1937年(昭和12年) 第5次市域拡張 横浜市営埋立地完成 1939年(昭和14年)
第6次市域拡張

 

※これでもかなりの量になってしまいました。

第903話 下末吉台地

Published / by tadkawakita / Leave a Comment

現在、ダブルリバー(帷子川・大岡川)の関係性と果たしてきた役割を考えています。
資料にあたり、実際に歩きながら地理を体感しています。
この作業の中で 地域一帯の名を使いながら理解し、ブログ等にも分かったことなどまとめていますが、地域を説明する上でエリア名に<腑に落ちない>ことが時折あります。
1.関内外というまとまり
大岡川下流域のいわゆる吉田新田エリアから下流を関所のあった開港場とその外という意味で関内・関外としています。関外とはどのエリアまで入るのか?
「横浜の地域名。吉田橋から内陸側を指す。かつて、現在の伊勢佐木町と馬車道を結ぶ吉田橋には、関所があり、そこから海側(馬車道側)を関内、内陸側(伊勢佐木町側)を関外と呼んだ。
関内は駅名にもなり、現在でも生きているが、関外のほうは、あまり現在では使われていない地域名となっている。現在は、この関外を含めて「関内」とされることも多い。」
といった説明もありますが地元感覚では??
「関内(かんない)は、神奈川県横浜市中区において、中心部となる官庁街および商業地域の一帯を、広く指す地域名称で、「関内地区」と「関外地区」の区別がある。このうち、横浜港に近い海側の地域を「関内」といい、横浜市役所(横浜市庁舎)や、横浜市中区の区役所、野球の横浜スタジアムなどが位置する地域として知られる。また、馬車道商店街(馬車道を参照)や、神奈川県庁舎近くの日本大通などが該当する。一方で、旧・横浜松坂屋(横浜市認定歴史的建造物であったが2010年に取り壊され現存しない)があった伊勢佐木町側の地域を「関外」という。なお、大通り公園は関外地区にあり、日本大通は関内地区にあるので、それぞれ場所が異なる。(wikipedia)」
なんとも煮え切らない説明。
吉田新田域とすれば野毛村も石川村(元町)も入らないが
関内(出島域)に対してその外、
城郭都市のような分け方がこのエリアにふさわしいのか?
かといって、この名称に代わるネーミングが見つかりません。
→私は最近、大岡川運河エリアと呼ぶことにしています。

2.大通り公園という分断
関内外が開港時の歴史的文脈上
昔の居留地管理の関所のなごりから関内という地域名(町名には無い)を残してるのなら、元々<中川>であり運河として整備され<吉田川>となった現在の大通り公園はやはり「吉田川公園通り」とするのが関内からの歴史的軸線はつながるのではないか?

吉田新田図

吉田新田図

※これは具体的な運動にしていきたい!!!

帷子川・大岡川

3.ダブルリバーを囲む山
大岡川を包む両岸の丘陵、帷子川を包む両岸の丘陵、三連の山の間に二本の川が流れ込んでいます。この丘陵地帯をどう表記するのか?
中村川右岸に迫る丘陵は山手・中村・平楽
大岡川左岸に迫る丘陵は野毛山
帷子川(石崎川)右岸に迫る丘陵は久保山
帷子川(新田間川)左岸に迫る浅間・高島山
ここは地名にこだわらず、地学・地質学の視点ではどうしているのか?
どうやら2つの川の河口域を囲んでいるのは<丘陵>でも<山>でも無く台地ということらしい。
本牧台地、久保山台地、三ツ沢台地
これは分かりやすい。ということで 細かい部分は落ち着かない部分もありますが、
これからはこの<台地>でダブルリバーを説明していくことにしました。
本牧台地と久保山台地の間に大岡川が流れ
久保山台地と三沢台地の間に帷子川が流れる。
堀割川は本牧台地に一部を開削した。

■下末吉台地(しもすえよしだいち)
さらに視点を広く俯瞰すると、起伏の多いこのエリア一帯は
下末吉台地と呼ばれています。
「地質学者大塚弥之助(やのすけ)によって、横浜市鶴見区下末吉の宝泉寺裏の露頭を模式地として1930年(昭和5)に命名された新生代後期更新世の地層。」
横浜に由来する台地、下末吉台地は
「神奈川県北東部の川崎市高津区、横浜市都筑区・鶴見区・港北区・神奈川区・西区・保土ケ谷区・中区などに広がる海抜40-60メートルほどの台地で(wikipedia)」
鶴見川、帷子川、大岡川などによってさらに細かく多数の台地が生まれ、
下末吉台地の西は多摩丘陵となり相模国と武蔵野国を分けている国境となっています。

第902話 南・中・西 分離始末

Published / by tadkawakita / Leave a Comment

ダブルリバーに関わる3つの区を地図上で眺め、歴史を探ると
分区の不思議が見えてきます。 横浜市南区は1943年(昭和18年)12月1日中区から分離しました。
その理由は
「戦時配給制度の手続の軽減を図るため、寿・大岡両警察署管内の各町を中区から分離して南区が誕生。(wikipedia)」と簡単に説明されています。
区名の由来は中区の南に位置するからだそうです。
同様に中区に対して西に位置するという理由から西区が1944年(昭和19年)4月1日分区しています。全体から見るとかなり東にあたり、中区の西というのは無理がありますがすでに分区していた<南>との対比だったのかもしれません。個人的には南区が西区で西区は東区でも良かったかなと思います。
肥大化していく中区
中区は港都の中心市街地として膨張していきました。
南区も西区も膨張する中区からなかば”はじき出される”かたちで誕生したのでしょうか?
手元の資料を読む限りでは
両区とも戦時中の分区で、警察管区の変更をベースに区域が生まれています。
警察管区単位で<配給体制>が運営されていたため
戦時管理体制の強化が背景にあったともいわれています。

南区も西区も分区の時期はずれていますが、
同時期に分区計画が遡上にあがります。
西区史では
「西区の新設は、昭和十八年(一九四三)十二月一日、南区が中区の一部から分離、独立したときから日程にのぼっていた。これより前、港西区又は戸部区として新行政区を新設するよう運動もおこっていた。」
もう少し説明を加えると、キッカケは横浜市が第3次市域拡張によって急膨張し新しい区制度により新区が誕生した昭和二年に遡ります。
【番外編】市域拡大は元気なうちに!?

横浜市で区制が始まった時は、五区でした。
鶴見区・神奈川区・中区・保土ケ谷区・磯子区 以上。
現在のように18区となったのが1994年(平成6年)ですから、約70年で市域も増えましたが、分区を繰り返してきました。単純に分かれていくだけではないので、複雑に見えてしまいます。
区制当初からほとんど<区域>が変わらないのが「鶴見区」です。
唯一行政域不変の区です。
この中で、区と区の境界ゾーンに一つの新しい区が”独立”したのが西区です。
1994年(平成6年)16区が18区になるときに、緑区と港北区で新しく線引を行い青葉区・都筑区が誕生しますが西区の誕生はまさに「神奈川区」「中区」の境に誕生します。
生活圏の変化
横浜市は昭和初期に第3次市域拡張を行い一気に大横濱となります。1936年(昭和11年)に久良岐郡、1939年(昭和14年)には相模国鎌倉郡戸塚村を市域に加えほぼ現在の市域に近くなります。
この拡張期間に様々なインフラ整備と新産業が起こり生活圏の変化が起こってきます。
西区・南区に戻ります。
西区エリアは昭和に入り「中区と神奈川区」の谷間で俄然存在感を示してきます。最大の理由は三代目横浜駅の開業です。
山に囲まれた帷子川河口域一体が西区となります。当初神奈川区と中区の境界は帷子川河口域、石崎川あたりですが、関東大震災後、戸部エリアを軸に新しい都市計画が構想され(牧 彦七案)その後「戸部村」が独立を望む際に、同じ生活圏である帷子川河口域(岡野新田・平沼新田 他)を含めた区域を求めたのも自然でしょう。南区の誕生
一方、”肥大化した”中区の南西部が分離した「南区」の独立理由に目を向けてみます。冒頭に紹介したように「戦時配給制度の手続の軽減を図るため、寿・大岡両警察署管内の各町を中区から分離して南区が誕生。(wikipedia)」
警察の管轄権で南区としたとあります。逆に、寿・大岡両警察署の管内が決まった理由を考えることで、中区・南区の境界線が見えてくるのではないか?と警察史を追いかけてみると
南区の管轄警察となった寿警察のルーツは久良岐郡警察署(久良岐橋近く中村町4丁目)にあります。その後石川町警察署(石川町4丁目)となり1921年(大正10年)吉野町に寿警察が誕生します。それぞれの警察署がどのような管轄域の変遷を辿ったのか「神奈川県警史」では判りませんでしたが、中村川エリアと大岡村エリアである大岡川河口域の歴史から少し読み解くことができそうです。
運河で分けた区界
古い大岡川下流域の地図をみると、まさに現在の中区・南区境界の酷似しています。
1970年代まであった大岡川運河群の新富士見川・日ノ出川・吉田川に沿って区界があり、警察の視点では分けやすかったといえるでしょう。
南区史には当時の職員の話として
「とにかく急なことだった。南区が開かれることにきまり、辞令が出たのは一八年の七月だったが、実際に辞令をもらったのが10月1日だった。(中略)とりあえず隣保館を改造して役所とすることにした。」とあるように戦時下で急な準備不足の中での分区だったようです。
南区を運命づけた変化は市電弘明寺線と湘南電気鉄道=京浜急行電鉄の開通による急激な宅地化です。
ダブルリバー
帷子川河口域の発展から西区が誕生し
大岡川中・下流域の発展から南区が誕生しました。
この2区に共通するのが”不便な区役所”というのは冗談ですが、
時の流れによって、町の軸が変化してきた町といえるでしょう。
第901話 横浜ダブルリバー概論(1)

【横浜の視点】ダブルリバー

Published / by tadkawakita / Leave a Comment

横浜の街は、大岡川河口域に誕生し、帷子川河口域とのコラボで港都を形成した。全国の大都市でこれほど明確にダブルリバーが街を包み込むように発展した例を見ない。
江戸時代から風光明媚な洲干弁天に詣でたこの街は富士山の噴火により降灰したダブルリバーが次第に浅くなり、大岡川河口域では吉田勘兵衛が新田開発のために干拓を行うことで基盤が出来上がる。
横浜は集落の数こそ少なかったが<寒村>では無かった。静かな村で弁天と姥ヶ岩と言った景勝地だった。昭和の市域拡大まで<横浜>はこの二つの川と河口域を中心に発展したのだ。現在の市域となったのが1936年(昭和十六年)、今年でちょうど80年を迎えた。
横浜ダブルリバーについて考えてみたい。
(大災害)
前々から感じていたが、この街がダブルリバーの都市であることを再認識した。ダブルリバー帷子川下流域は支流の今井川が合流後すぐに分岐する。
元々はこのあたりが河口域だった。
大岡川下流域は蒔田公園あたりで中村川と本流に分岐する。
元々はこのあたりが河口域だった。
1707年(宝永四年)今から約三百年前、富士山が噴火する。宝永火口から噴出した火山礫や火山灰などの噴出物は、偏西風にのって静岡県北東部から神奈川県北西部、東京都、さらに100km以上離れた房総半島にまで降り注いだ。
この大噴火で、神奈川・東京の河川にも降灰が流れ込むことでその後も引き続き様々な影響が出た。河川流域で盛んに行われるようになった稲作は直接・間接的に影響を受けた。
江戸中期、治水技術の向上と普及が日本の<財源>である稲作を変え、棚田から平田へと水田が飛躍的に広がり始めた頃の大災害だった。当時、江戸近郊は川や近海の船による物流も盛んになり豊かな江戸幕府の基礎経済を支えていた。
そんな中での富士山噴火は
田畑への直接的な被害はもちろん、川へ流れ込んだ火山灰が氾濫や河口域の急激な吃水変化をもたらす。
結果、河口域の急激な変化が起き、大岡川の吉田新田、帷子川の宝暦・安永・弘化新田等の新田開発が相次いで始まる。
(河口域の変化)
横浜誕生の背景には、噴火による河口域の急変があった。そして
大岡川河口域の絶妙な<横浜岬>と吉田新田。1911年市域拡大水系帷子川河口域の絶妙な<浅瀬>と横浜道が可能だったからこそ港都横浜であり続けた。
港都横浜はダブルリバーによって形成されたと言っても過言ではない。
都市計画として“ダブルリバーシティ”を構想した人物がいる。
震災後、横浜の復興計画を立案した牧彦七だ。
彼はこのダブルリバーの真ん中に横浜市の中心を置くことを考えた。
「牧案」の特徴は、横浜港を内包する関内と鉄道・国道の要となる現在の<横浜駅>エリアの中間に当たる丘の上に中央公園を造り、囲むように官公庁と会社銀行が並ぶ<新都心>を創り、そこから各地区を幅員50~60mの「逍遙道路」で結ぶというものだった。まさに横浜の都市構造を的確に判断したからではないだろうか。残念ながら彼の夢は実現しなかった。牧案もし実現していたら、横浜はダブルリバーに運河が張り巡らされた世界一の運河都市となってかもしれない。
牧彦七に関しては下記ブログに少し触れている。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=58

第902話 南・中・西 分離始末

第901話 横浜ダブルリバー概論(1)

第904話 横浜ダブルリバー概論(2)