11月 20

第930話石油を巡る点と線

1,000話までカウントダウン70の節目なのでちょっと頑張ってみました。
帷子川河口域を調べている過程で、明治38年発行の地図を改めて見直していたらそれまで全く意識していなかった情報が目に飛び込んできました。
万里橋近くから「石油タンク鉄管」が海にまっすぐ伸びています。
明治38年の時点で、破線なので予定線かもしれませんが、横浜港内に石油パイプラインがあった?ことを再確認した次第です。
このパイプの使用者は?周辺を確認してみると高島嘉右衛門が造成した鉄道道にあたる「高島町四丁目」に「横浜瓦斯製造所」がありその奥には現在の平沼一丁目に「浅野石油槽場」が記載されています。
この場所は、戦前いち早くメジャー二社の石油会社が進出しましたが、浅野グループがいち早くこのあたりに石油関連施設を設置していたようです。資料を探してみたところ、
1892年(明治25年)
11月浅野総一郎、浅野石油部を設置、ロシア石油販売を開始
帷子川河口域の歴史を石油。製造業関係を中心に調べてみました。
1893年(明治26年)
5月ニューヨーク・スタンダード石油、横浜に日本支店を開設
 10月浅野総一郎、横浜に油槽所完成

【関連年表】を作りました。
1884年(明治17年)
山田与七、高島町に山田電線製造所を創業
→「山田電線製造所」が後の古河電工、横浜ゴムとなっていきます。
1888年(明治21年)
 6月19日 横浜のジャーデン・マセソン商会、ロシア灯油を初輸入
山田又七、山本油坑舎を設立、新潟県東山油田浦瀬で試掘
高島町遊郭が真金町、永楽町へ。
→「山田電線製造所」の山田与七と日本の石油パイオニアである山田又七は名前が似ていますが、接点は見当たりません。
1889年(明治22年)
4月16日東京ー浜松間開通
6月16日横須賀線開業
7月1日東京ー神戸全通。
小倉常吉は後に小倉石油となる小倉油店を開業。
1891年(明治24年)
横浜船渠工場操業開始。
浅野総一郎、サミュエル商会とロシア灯油の販売契約締結
1892年(明治25年)
6月山田又七ら、石油会社を設立(宝田石油の前身、新潟県古志郡比礼で試掘)
11月浅野総一郎、浅野石油部を設置、ロシア石油販売を開始
1893年(明治26年)
山田又七、「宝田石油株式会社」設立(新潟県長岡:東山油田)。翌年から米国製掘削機を用いて機械掘り採油を開始.。後に他社を次々と買収して日本石油会社と並ぶ本邦二大石油会社のひとつとなる。
 5月ニューヨーク・スタンダード石油、横浜に日本支店を開設
 10月浅野総一郎、横浜に油槽所完成
1894年(明治27年)
 3月21日ニューヨーク・スタンダード(ソコニー)、横浜に支店を開設。
8月日清戦争勃発(〜28年)
12月東海道、軍用線3.5km(神奈川〜保土ケ谷)ショートカット線開通。
1895年(明治28年)
内海(通称・平沼)の埋立開始。
1896年(明治29年)
山田電線製造所、横浜電線株式会社とし平沼に工場を建てる。
No.127 5月6日 あるガーナ人を日本に誘った横浜の発明王
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=488
帷子川、大岡川流域に染物工場、ハンカチのふちどり工場発展、製糸工場群生。
6月29日西平沼町に横浜電線製造KK設立。
1897年(明治30年)
サミュエルは横濱元町に「シェル運輸交易会社」を設立。
 湘南海岸で自ら「貝(シェル)」を拾った日々の原点に戻って、「シェル」と称したという。
1898年(明治31年)
浅野石油部、日本初の鉄製タンク車で石油輸送
1899年(明治32年)
平沼短縮線を一般客線とする。
1900年(明治33年)
4月11日日本のサミュエル商会は、石油部門を分離独立することとし、
 横浜に「ライジングサン石油株式会社」を設立(資本金25万円 本店・横浜市山下町)。
1901年(明治34年)
平沼駅開業。
2月ロシアに宣戦布告(日露戦争勃発)
1905年(明治38年)
7月19日平沼亮三の母千代子、出征兵士の歓送でホームと列車の間に落ち死亡。
9月大倉喜八郎・浅野総一郎ら、南北石油を設立。
12月京浜電気鉄道 川ー神奈川開通。
1907年(明治40年)
4月国産ガソリン自動車第1号製作(タクリー号)
第923話【横浜絵葉書】鉄桟橋の群衆2
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=10924
 9月南北石油、保土ヶ谷製油所完成
 スタンダード石油が神奈川油糟所を開設。
スタンダード石油と三明商店の間に初めて代理店契約が結ばれた。(小嶌 正稔)
その後、全国の商店と代理店契約を結んでいく。東京神田美土代町大家商店。神戸松村石油。
 南北石油(株)保土ヶ谷製油所(神奈川県・保土ヶ谷、原油処理能力3,000バレル/日)がカリフォルニア原油を初輸入。
麒麟麦酒創業。
1908年(明治41年)
平沼の漁民、原油もれに抗議。
1914年(大正3年)
埋立完成、南幸町・北幸町と命名される。
1917年(大正6年)
日本は世界第8位の石油産出国という統計が発表される
1922年(大正11年)
小倉、横浜に原油貯油所完成。

震災前の平沼周辺

1923年(大正12年)
関東大震災によりスタンダード石油油槽所が倒壊。大火災により、周辺住民により再建反対運動が起きる。
1924年(大正13年)
日本石油、鶴見製油所(神奈川県橘樹郡安善町)を建設。
1925年(大正14年)
 2月資本金400万円で「日本フォード社」が横浜市緑町4番地に設立
 3月3日アジア初の「日本フォード」製造工場が横浜市神奈川区子安に開設。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6947
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7846
1927年(昭和2年)
日本ゼネラルモータース設立
以上大正時代までの関連年表を整理しただけで、
横浜と石油の関係が浮かび上がってきました。

7月 31

第904話 横浜ダブルリバー概論(2)

大正から昭和へ
1900年代初頭、近代化のうねりの中で横浜は開港場を軸に、変化の真っ只中でした。
ここで第二次市域拡張を終えたダブルリバーの20世紀初頭を追ってみます。

1901年(明治34年)から20世紀となります。
横浜市は初めて市域の拡張を行いました。
「久良岐郡戸太村、中村、本牧村、根岸村、および橘樹郡神奈川町、保土ケ谷町大字岡野新田、大字岩間字久保山・大谷・林越・大丸(現在の西区元久保町・東久保町・久保町)、子安村大字子安を編入。」

大正12年4月発行の帷子下流域

・大岡川下流域
「横浜港」を中心に貿易関連企業群と行政機関が集中する商業都市として膨張を続けます。
一方
・帷子川下流域は、大正期に入り埋地が工業地帯として発展していきます。
明治期に高島嘉右衛門が埋め立てた鉄道路線沿いの<高島><裏高島>エリアには、様々な製造業が進出します。また鉄道線に沿った埋地の内側(現在の横浜駅西口側)には外国系石油会社が二社進出します。
一つがユダヤ資本系のライジングサン石油株式會社(後のシェル石油)で平沼・高島に油槽所を設置。
また、米国ロックフェラー系のスタンダード石油も現在の横浜駅付近に貯油所を開設、日本市場進出の拠点となります。現在も日本ガソリンスタンド発祥の地(真偽不明)の記念碑が建っています。
また、平沼・岡野の帷子川下流域新田も工業用地へと変貌し、市瓦斯(現在東京ガス)平沼、横浜電気、横浜電線製造、横浜魚油などが操業し大正期大ブームとなった麻真田を織る工場が多く開業し第二次世界大戦前まで横浜の重要産業に躍り出ます。
(20世紀初期)
1889年(明治22年)に市制が施行され、
1901年(明治34年)から20世紀となります。
横浜市は初めて市域の拡張を行いました。
「久良岐郡戸太村、中村、本牧村、根岸村、および橘樹郡神奈川町、保土ケ谷町大字岡野新田、大字岩間字久保山・大谷・林越・大丸(現在の西区元久保町・東久保町・久保町)、子安村大字子安を編入。」
1911年(明治44年)に第二次市域拡張。
「久良岐郡屏風浦村より大字磯子、滝頭、岡(旧禅馬村の地域)を、大岡川村より大字堀之内、井土ヶ谷、蒔田、下大岡、弘明寺を、橘樹郡保土ケ谷町より大字岩間字池上・東台・外荒具・道上・塩田・反町・宮下・殿田・関面・久保山下(現在の西区東久保町・久保町・元久保町、保土ケ谷区西久保町)を編入。」
この後、しばらく横浜市はこの市域を維持していきます。
このブログでも何度か指摘していますが、横浜市は6回の市域拡大を行います。
1927年(昭和2年)の市域拡大で大幅に市域面積を広げますが現在の半分以下でした。
(関東大震災)
大正期から昭和初期の間における横浜の急激な変化は「関東大震災」に尽きます。
当時の横浜市は人口約42万人で東京市の約220万人に比べ1/5の規模の都市でしたが横浜市の住家全潰(全壊)棟数は約1万6千棟、
東京市の1万2千棟をはるかにしのぐものでした。
特に大岡川と中村川・堀川に挟まれた関内外エリアでは、全潰率が80%以上に達しました。このエリアでの火災の発生場所約290ヶ所に及ぶなど横浜中心部は住宅の全潰率や出火点密度が非常に高かった点が特徴です。
また関内外は運河や橋が多かったため、橋の崩落、木造橋梁の焼失により逃げ道を失ったことが被害を大きくしました。
1923年から帷子川・大岡川下流域は、ひたすら復興のためにエネルギーを使っていきます。
横浜電気鉄道が市電となった直後、
二代目横浜駅が完成してまもなく
第一次世界大戦後の不況から立ち直ろうとしていた矢先
の震災でした。
震災後、横濱も帝都東京と併せて復興計画が立案されていきますが、予算を含め様々なハードルが待ち受けます。
第902話 南・中・西 分離始末 
で少し紹介しました牧彦七による震災復興プランにはダブルリバーを意識していたように思えますので改めて彼のプランを再考してみたいと考えているところです。

牧彦七(マキ ヒコシチ)
内務省の勅任技師時代、道路の改良について研究を進めその傍らで外国語学校に学び、土地計画の国フランス語を修めました。明治神宮造営局や鉄道院の各技師を経て1923年(大正12年)東京帝大講師に就任。同年9月に関東大震災が起こると、いち早く横浜の復興計画に携わることになりますが、任半ばで<帝都復興優先>とされ東京市土木局長となります。帝都の復興に尽力し、東京の都市計画の基盤を作ったテクノクラートで横浜市に関わった場合、どう変わったのか?大変興味深いところです。
13年内務省土木試験場長、次いで東京市道路局長などを歴任。また、大分県出身者として在京大分県人会を組織し、その会長も務めました。
少し長くなりますが
 20世紀初頭をザクッと年表にしました。
 1900年(明治33年)4月11日
 サミュエル商會の日本法人として石油部門を独立させ後にライジングサン石油株式會社(後のシェル石油)となります。照明用の灯油・蝋燭製造でシェアを伸ばします。
 平沼に油槽所を開設。
 1902年(明治35年)
 横浜電気鉄道株式会社設立(資本金100万円)
 1903年(明治36年)
 鶴屋呉服店、明治屋設立
 1904年(明治37年)
 日露戦争(〜05年9月5日)
 横浜電気鉄道開通(神奈川-大江橋間)。
 1906年(明治39年)
 三渓園 開園
 1910年(明治43年)
 東京横浜電鉄(株)創立。
 1911年(明治44年)
 第二次市域拡張。オデオン座開業
 1913年(大正2年)
 浅野総一郎ら 鶴見埋立組合による埋立始まる。
 横浜の逓信省経理局倉庫と海上の天洋丸の間で無線電話連絡に成功。
 1914年(大正3年)
 第一次世界大戦(〜18年11月11日)
 東京駅開業
 糸価大暴落、横浜生糸後場休会。
 1915年(大正4年)
 二代目横浜駅開業
 御大礼特別観艦式(行幸)
 1916年(大正5年)
 横浜入港の布哇丸乗客にコレラ発生。以後全国的に拡大。この年、死者7,482人。
 恒例観艦式(横浜沖)
 1917年(大正6年)
 横浜港第二期築港工事竣工
 開港記念横濱会館竣工
 東海道本線貨物支線鶴見ー高島間、東神奈川ー高島間開業。横浜臨港貨物線のはじめ。
 1918年(大正7年)
 横浜生糸相場暴落。
 米騒動
 1919年(大正8年)
 久保田周政(きよちか)市長は市区改正局と慈救課を設置し、都市計画と社会福祉を設置
 横浜市千歳町に大火。焼失3,084戸。(埋地火事)
 1920年(大正9年)
 市区改正局→都市計画局 慈救課→社会課
 戦後恐慌始まる。茂木合名会社破綻(5月)
 横浜電線製造株式会社が古河工業株式会社より日光電気製銅所などの現物出資をうけ設立。
 電車を市営とすることに決定
 横浜興信銀行設立認可。25日 開業。七十四・横浜貯蓄両銀行破綻のため市内有力者が相寄り新銀行を設立。
 1921年(大正10年)
 横浜取引所の定期生糸立会が復活。
 野沢屋呉服店新館開店
 1923年(大正12年)
 関東大震災。横浜市内全域被災。

◎特別都市計画法公布。東京・横浜の都市計画を規定。
 1924年(大正13年)
 神戸市、市立神戸生糸検査所を開設(横浜港の生糸輸出独占破れる)。
 市内各地で皇太子ご成婚の奉祝行事開催
 横浜高等商業学校(官立)設立、入学式。
 神奈川県庁舎 岡野町に建設。
 1925年(大正14年)
 日本フォード自動車(株)設立。本社横浜。
 東京・横浜間で電話自動交換方式を採用。
 湘南電気鉄道設置
 1926年(大正15年)
 生糸検査所竣工
 1927年(昭和2年)
 京浜地方の諸銀行休業
 第三次市域拡張
 ホテルニューグランド開業
 1928年(昭和3年)
 三代目横浜駅開業
 1929年(昭和4年)
 復興祝賀式
 世界恐慌始まる
 1930年(昭和5年)
 横濱市会議員、初の普通選挙
 山下公園開園
 1931年(昭和6年)
 満州事変
 1932年(昭和7年)
 東横線全通
 1933年(昭和8年)
 横浜の山下町消防署に救急車を初めて配置。東京では12月に日赤に配置。
 自動車製造(株)設立(社長 鮎川義介)。資本金1,000万円。日本産業(株)と戸畑鋳物(株)の共同出資。本社は横浜。1934.6.1 日産自動車(株)と改称。
 1935年(昭和10年)
 復興記念横浜大博覧会(〜5月)
 1936年(昭和11年)
 第4次市域拡張
 1937年(昭和12年)
 第5次市域拡張
 横浜市営埋立地完成
 1939年(昭和14年)
 第6次市域拡張
 ※これでもかなりの量になってしまいました。
7月 28

第903話 下末吉台地

現在、ダブルリバー(帷子川・大岡川)の関係性と果たしてきた役割を考えています。
資料にあたりながら、実際歩きながら地理を体感しています。
この作業の中で 地域一帯の名を使いながら理解し、ブログ等にも分かったことなどまとめていますが、地域を説明する上でエリア名に<腑に落ちない>ことが時折あります。
1.関内外というまとまり
大岡川下流域のいわゆる吉田新田エリアから下流を関所のあった開港場とその外という意味で関内・関外としています。関外とはどのエリアまで入るのか?
「横浜の地域名。吉田橋から内陸側を指す。かつて、現在の伊勢佐木町と馬車道を結ぶ吉田橋には、関所があり、そこから海側(馬車道側)を関内、内陸側(伊勢佐木町側)を関外と呼んだ。
関内は駅名にもなり、現在でも生きているが、関外のほうは、あまり現在では使われていない地域名となっている。現在は、この関外を含めて「関内」とされることも多い。」といった説明もありますが地元感覚では??
「関内(かんない)は、神奈川県横浜市中区において、中心部となる官庁街および商業地域の一帯を、広く指す地域名称で、「関内地区」と「関外地区」の区別がある。このうち、横浜港に近い海側の地域を「関内」といい、横浜市役所(横浜市庁舎)や、横浜市中区の区役所、野球の横浜スタジアムなどが位置する地域として知られる。また、馬車道商店街(馬車道を参照)や、神奈川県庁舎近くの日本大通などが該当する。一方で、旧・横浜松坂屋(横浜市認定歴史的建造物であったが2010年に取り壊され現存しない)があった伊勢佐木町側の地域を「関外」という。なお、大通り公園は関外地区にあり、日本大通は関内地区にあるので、それぞれ場所が異なる。(wikipedia)」
なんとも煮え切らない説明。
吉田新田域とすれば野毛村も石川村(元町)も入らないが 関内(出島域)に対してその外、城郭都市のような分け方がこのエリアにふさわしいのか?
かといって、この名称に代わるネーミングが見つかりません。

2.大通り公園という分断
関内外が開港時の歴史的文脈上
昔の居留地管理の関所のなごりから関内という地域名(町名には無い)を残してるのなら、元々<中川>であり運河として整備され<吉田川>となった現在の大通り公園はやはり「吉田川公園通り」とするのが関内からの歴史的軸線はつながるのではないか?
※これは具体的な運動にしていきます。!!!

3.ダブルリバーを囲む山
大岡川を包む両岸の丘陵、帷子川を包む両岸の丘陵、三連の山の間に二本の川が流れ込んでいます。この丘陵地帯をどう表記するのか?
中村川右岸に迫る丘陵は山手・中村・平楽
大岡川左岸に迫る丘陵は野毛山
帷子川(石崎川)右岸に迫る丘陵は久保山
帷子川(新田間川)左岸に迫る浅間・高島山
ここは地名にこだわらず、地学・地質学の視点ではどうしているのか?
どうやら2つの川の河口域を囲んでいるのは<丘陵>でも<山>でも無く台地ということらしい。
本牧台地、久保山台地、三ツ沢台地
これは分かりやすい。ということで 細かい部分は落ち着かない部分もありますが、
これからはこの<台地>でダブルリバーを説明していくことにしました。
本牧台地と久保山台地の間に大岡川が流れ
久保山台地と三沢台地の間に帷子川が流れる。
堀割川は本牧台地に一部を開削した。

■下末吉台地(しもすえよしだいち)
さらに視点を広く俯瞰すると、起伏の多いこのエリア一帯は
下末吉台地と呼ばれています。
「地質学者大塚弥之助(やのすけ)によって、横浜市鶴見区下末吉の宝泉寺裏の露頭を模式地として1930年(昭和5)に命名された新生代後期更新世の地層。」
横浜に由来する台地、下末吉台地は
「神奈川県北東部の川崎市高津区、横浜市都筑区・鶴見区・港北区・神奈川区・西区・保土ケ谷区・中区などに広がる海抜40-60メートルほどの台地で(wikipedia)」
鶴見川、帷子川、大岡川などによってさらに細かく多数の台地が生まれ、
下末吉台地の西は多摩丘陵となり相模国と武蔵野国を分けている国境となっています。

7月 26

第902話 南・中・西 分離始末

ダブルリバーに関わる3つの区を地図上で眺め、歴史を探ると
分区の不思議が見えてきます。 横浜市南区は1943年(昭和18年)12月1日中区から分離しました。
その理由は
「戦時配給制度の手続の軽減を図るため、寿・大岡両警察署管内の各町を中区から分離して南区が誕生。(wikipedia)」と簡単に説明されています。
区名の由来は中区の南に位置するからだそうです。
同様に中区に対して西に位置するという理由から西区が1944年(昭和19年)4月1日分区しています。全体から見るとかなり東にあたり、中区の西というのは無理がありますがすでに分区していた<南>との対比だったのかもしれません。個人的には南区が西区で西区は東区でも良かったかなと思います。
肥大化していく中区
中区は港都の中心市街地として膨張していきました。
南区も西区も膨張する中区からなかば”はじき出される”かたちで誕生したのでしょうか?
手元の資料を読む限りでは
両区とも戦時中の分区で、警察管区の変更をベースに区域が生まれています。
警察管区単位で<配給体制>が運営されていたため
戦時管理体制の強化が背景にあったともいわれています。

南区も西区も分区の時期はずれていますが、
同時期に分区計画が遡上にあがります。
西区史では
「西区の新設は、昭和十八年(一九四三)十二月一日、南区が中区の一部から分離、独立したときから日程にのぼっていた。これより前、港西区又は戸部区として新行政区を新設するよう運動もおこっていた。」
もう少し説明を加えると、キッカケは横浜市が第3次市域拡張によって急膨張し新しい区制度により新区が誕生した昭和二年に遡ります。
【番外編】市域拡大は元気なうちに!?

横浜市で区制が始まった時は、五区でした。
鶴見区・神奈川区・中区・保土ケ谷区・磯子区 以上。
現在のように18区となったのが1994年(平成6年)ですから、約70年で市域も増えましたが、分区を繰り返してきました。単純に分かれていくだけではないので、複雑に見えてしまいます。
区制当初からほとんど<区域>が変わらないのが「鶴見区」です。
唯一行政域不変の区です。
この中で、区と区の境界ゾーンに一つの新しい区が”独立”したのが西区です。
1994年(平成6年)16区が18区になるときに、緑区と港北区で新しく線引を行い青葉区・都筑区が誕生しますが西区の誕生はまさに「神奈川区」「中区」の境に誕生します。
生活圏の変化
横浜市は昭和初期に第3次市域拡張を行い一気に大横濱となります。1936年(昭和11年)に久良岐郡、1939年(昭和14年)には相模国鎌倉郡戸塚村を市域に加えほぼ現在の市域に近くなります。
この拡張期間に様々なインフラ整備と新産業が起こり生活圏の変化が起こってきます。
西区・南区に戻ります。
西区エリアは昭和に入り「中区と神奈川区」の谷間で俄然存在感を示してきます。最大の理由は三代目横浜駅の開業です。
山に囲まれた帷子川河口域一体が西区となります。当初神奈川区と中区の境界は帷子川河口域、石崎川あたりですが、関東大震災後、戸部エリアを軸に新しい都市計画が構想され(牧 彦七案)その後「戸部村」が独立を望む際に、同じ生活圏である帷子川河口域(岡野新田・平沼新田 他)を含めた区域を求めたのも自然でしょう。南区の誕生
一方、”肥大化した”中区の南西部が分離した「南区」の独立理由に目を向けてみます。冒頭に紹介したように「戦時配給制度の手続の軽減を図るため、寿・大岡両警察署管内の各町を中区から分離して南区が誕生。(wikipedia)」
警察の管轄権で南区としたとあります。逆に、寿・大岡両警察署の管内が決まった理由を考えることで、中区・南区の境界線が見えてくるのではないか?と警察史を追いかけてみると
南区の管轄警察となった寿警察のルーツは久良岐郡警察署(久良岐橋近く中村町4丁目)にあります。その後石川町警察署(石川町4丁目)となり1921年(大正10年)吉野町に寿警察が誕生します。それぞれの警察署がどのような管轄域の変遷を辿ったのか「神奈川県警史」では判りませんでしたが、中村川エリアと大岡村エリアである大岡川河口域の歴史から少し読み解くことができそうです。
運河で分けた区界
古い大岡川下流域の地図をみると、まさに現在の中区・南区境界の酷似しています。
1970年代まであった大岡川運河群の新富士見川・日ノ出川・吉田川に沿って区界があり、警察の視点では分けやすかったといえるでしょう。
南区史には当時の職員の話として
「とにかく急なことだった。南区が開かれることにきまり、辞令が出たのは一八年の七月だったが、実際に辞令をもらったのが10月1日だった。(中略)とりあえず隣保館を改造して役所とすることにした。」とあるように戦時下でとにかく準備不足の中での分区だったようです。
南区を運命づけた変化は市電弘明寺線と湘南電気鉄道=京浜急行電鉄の開通による急激な宅地化です。
ダブルリバー
帷子川河口域の発展から西区が誕生し
大岡川中・下流域の発展から南区が誕生しました。
この2区に共通するのが”不便な区役所”というのは冗談ですが、
時の流れによって、町の軸が変化してきた町といえるでしょう。
第901話 横浜ダブルリバー概論(1)

4月 28

【横浜の視点】ダブルリバー

横浜の街は、大岡川河口域に誕生し、帷子川河口域とのコラボで港都を形成した。全国の大都市でこれほど明確にダブルリバーが街を包み込むように発展した例を見ない。
江戸時代から風光明媚な洲干弁天に詣でたこの街は富士山の噴火により降灰したダブルリバーが次第に浅くなり、大岡川河口域では吉田勘兵衛が新田開発のために干拓を行うことで基盤が出来上がる。
横浜は集落の数こそ少なかったが<寒村>では無かった。静かな村で弁天と姥ヶ岩と言った景勝地だった。昭和の市域拡大まで<横浜>はこの二つの川と河口域を中心に発展したのだ。現在の市域となったのが1936年(昭和十六年)、今年でちょうど80年を迎えた。
横浜ダブルリバーについて考えてみたい。
(大災害)
前々から感じていたが、この街がダブルリバーの都市であることを再認識した。ダブルリバー帷子川下流域は支流の今井川が合流後すぐに分岐する。
元々はこのあたりが河口域だった。
大岡川下流域は蒔田公園あたりで中村川と本流に分岐する。
元々はこのあたりが河口域だった。
1707年(宝永四年)今から約三百年前、富士山が噴火する。宝永火口から噴出した火山礫や火山灰などの噴出物は、偏西風にのって静岡県北東部から神奈川県北西部、東京都、さらに100km以上離れた房総半島にまで降り注いだ。
この大噴火で、神奈川・東京の河川にも降灰が流れ込むことでその後も引き続き様々な影響が出た。河川流域で盛んに行われるようになった稲作は直接・間接的に影響を受けた。
江戸中期、治水技術の向上と普及が日本の<財源>である稲作を変え、棚田から平田へと水田が飛躍的に広がり始めた頃の大災害だった。当時、江戸近郊は川や近海の船による物流も盛んになり豊かな江戸幕府の基礎経済を支えていた。
そんな中での富士山噴火は
田畑への直接的な被害はもちろん、川へ流れ込んだ火山灰が氾濫や河口域の急激な吃水変化をもたらす。
結果、河口域の急激な変化が起き、大岡川の吉田新田、帷子川の宝暦・安永・弘化新田等の新田開発が相次いで始まる。
(河口域の変化)
横浜誕生の背景には、噴火による河口域の急変があった。そして
大岡川河口域の絶妙な<横浜岬>と吉田新田。1911年市域拡大水系帷子川河口域の絶妙な<浅瀬>と横浜道が可能だったからこそ港都横浜であり続けた。
港都横浜はダブルリバーによって形成されたと言っても過言ではない。
都市計画として“ダブルリバーシティ”を構想した人物がいる。
震災後、横浜の復興計画を立案した牧彦七だ。
彼はこのダブルリバーの真ん中に横浜市の中心を置くことを考えた。
「牧案」の特徴は、横浜港を内包する関内と鉄道・国道の要となる現在の<横浜駅>エリアの中間に当たる丘の上に中央公園を造り、囲むように官公庁と会社銀行が並ぶ<新都心>を創り、そこから各地区を幅員50~60mの「逍遙道路」で結ぶというものだった。まさに横浜の都市構造を的確に判断したからではないだろうか。残念ながら彼の夢は実現しなかった。牧案もし実現していたら、横浜はダブルリバーに運河が張り巡らされた世界一の運河都市となってかもしれない。
牧彦七に関しては下記ブログに少し触れている。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=58

4月 25

【横浜の橋】№11宮崎の橋(帷子川)

宮崎橋空撮 橋には色々種類がある。
一般的なイメージは河川に架かる道路の橋、 人専用なら人道橋、 鉄道橋梁、 そして鉄道を跨ぐ跨線橋、や道路を跨ぐ跨道橋(陸橋)などがある。 このような色々な道路がほぼ一箇所に集中している場所がある。<だからなに?>
スクリーンショット 2016-04-25 21.59.17
なんだが、高速道路などが絡む場所では珍しいことではない。
ただ小さな川の小さな橋のあるところで<橋Gallery化>しているのは結構珍しい。
「宮崎橋」「宮崎橋人道橋」「宮崎跨線橋」「第三帷子川橋梁」(+地下道)が本日の紹介する橋だ。場所は横浜市保土ケ谷区仏向町、相鉄線和田町と上星川駅の中間にあたる。
位置を帷子川を中心にして説明する。
帷子川左岸に国道16号線が平行して走り、すぐに丘陵が迫っている。一方右岸は旧道とわずかだが平地が続き、このあたりは野毛山から続く水道道の役割も果たしている明治からの道だ。 国道16号には「宮崎橋入口」という交差点名が掲示されている。lightP4220178保土ヶ谷中学前すぐ横にあるバス停名は「保土ケ谷中学校前」そこにはサブタイトルとして「仏向杉山社入口」とある。 歴史に準ずると、鎌倉街道から川を渡る神社への橋があり、相鉄線の橋が架かり、橋の架け替えに伴い人道橋ができ、その後しばらくしてから大規模な跨線橋と歩行者用の相鉄線を潜る地下道が完成し念願の渋滞解消が実現した。

この宮崎橋近辺は帷子川と相鉄線の和田町一号踏切があり昔から大渋滞の場所だった。昭和38年上星川 私は地元民ではなく車での通過客だったので地元にとっては迷惑千万の一台だったかもしれないが、とにかくこの辺りは渋滞が激しくイライラした記憶がある。
国道1号線から16号に合流する車両と、帷子川左岸から右岸エリアに向かう車がぶつかり合うポイントで、相鉄線の開かずの踏切が加わり身動きできないほどの渋滞地となっていた。 ここに帷子川と相鉄線と小さな道路をまとめて越える<跨線橋>を作る計画が持ち上がったが、予定地には仏向杉山社があり大変だったようだ。
冒頭にも<橋Gallery化>と表現したように、この辺りはとにかく構造が複雑になっている。
苦肉の策で現状となった?のかどうかは判らないが、かなりの強引な跨線橋作りであったことは現地を見れば明らかなので橋梁や道路設計に関心のある人は見学の価値あり??かも。
(歴史資産だらけ)
□和田村道橋改修碑lightP4220165 国道16号線は近世の重要な海道<八王子街道>をほぼトレースしている。古道時代は曲がりくねっていた箇所を地元の村民達が改修し、街道が次第に整備されていく。その改修碑が16号に沿ってひっそり建っている。
『村地先の難路を、江戸の住人桜井茂左衛門が資金を提供し、村民および隣村川島村民の協力を得て改修し、あわせて道筋に橋を架けて往来の難儀を救いました。本碑は、この工事の由来を記したものです。碑高は103cm、碑幅34.5cm、碑厚21cm。建立は元文2年(1737)11月。道筋改修の経緯を知る上で貴重な碑です。』
□仏向町の石塔(仏向杉山社跡)
ちょうど宮崎跨線橋が帷子川右岸側に降りるあたりにはかつて丑寅の方位に向かう「仏向町杉山社」があったがこの跨線橋工事のために遷座することになった。lightP4220075元杉山社跡 平成5年8月のことだ。 その神社跡地の角が交差点となり敷地の一部が仏向町町内会の「ふれあい広場」となっている。
この角に三つの「石塔」が設置されている。 三つの石塔は神社跡地に残った(残した?)もので
(1)「観音庚申塔」
寛保2年(1742)11月造立。庚申信仰の石仏で舟形をしているのが特徴。
(2)「斎上地神塔」
文化9年(1812)8月造立。角塔浮彫形
(3)「出羽三山供養塔」
安政2年(1855)8月造立。

□正福院
かつての「宮崎橋」を渡り、まず杉山社が右手にあり、少し軸がずれ寺への参道が続く。
参道を進み、山門をくぐると 正面に樹齢300年と言われている二本の大銀杏の木が高々とそびえている。曹洞宗仏向山「正福院」だ。lightP4220054正福院正門 lightP4220058正福院の大銀杏 『新編武蔵風土記稿』によると、
「出家の身は他に志願なし、唯、常に仏に向かうこそ桑門の本意とするところなれば、寺の山号およびその村里にも『仏向』の二字をもって名付け賜るべしとの願いにより、かく名付けられしとぞ」スクリーンショット 2016-04-25 21.55.17 と仏向の名について記されている。
□「宮崎跨線橋」
1993年(平成5年)に杉山社が遷座されてから6年、 1999年(平成11年)3月にようやく立体交差化「宮崎跨線橋」が完成する。 その後、どの程度混雑が緩和されたかは定かではないが、2016年に現地に立った時にはあまり渋滞は感じなかった。 この事業には踏切解消の目的もあり、歩行者用の「地下道」も新設、跨線橋の周囲が親水ゾーンとして整備されたが現在はシャッタアウトされた状態になっている。 実に勿体無い。lightP4220134跨線橋下 lightP4220141跨線橋下

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1月 23

【横浜の橋】№4 帷子川河口に架かる橋

目下、横浜の橋の原点ともなる「吉田橋」に関して資料発掘中。
面白い素材を発見したが<謎>が究明できないので別な話題として帷子川河口の簡単な取りまとめをしてみたい。
橋の多くは<川>に架かる。現代は陸橋も多いが、基本 橋といえば川になる。
横浜には大きく四大水系がある。
鶴見川(一級水系)
帷子川(二級水系)
大岡川(二級水系)
境 川(二級水系)
その他に入江川・侍従川といった小さな単独河川がある。
横浜は開港時、大岡川河口域に誕生した。埋立て前イメージ<帷子川・大岡川埋立前イメージ>

light2016-01-22 12.28.20釣鐘状の<吉田新田>の河口域に出っ張った<横浜村>の半島(砂州?)を埋め立てながら街を作り上げてきた。
開港場となる時、横浜は東海道からも一定の距離があり帷子川の河口がじゃまをして開港場にアクセスするには遠回りしなければならない。
そこで「横浜道」というショートカット道を突貫工事でなんとか完成させる。この時にこの「横浜道」のベースとなったのが、江戸時代に埋め立ての始まった新田の<エッジ>だった。
light横浜道図2 ここを仮に<帷子川第一堤防>と呼んでおこう。ここには「新田間川」「平沼橋」「石崎橋」の三つの橋が架かり出口となった。

その後、明治に入りさらに河口域に<帷子川第二堤防>が作られる。
日本最初の鉄道路線の用地として明治の政商「高島嘉右衛門」によって埋め立てられた<鉄道道>だ。「高島嘉右衛門」の事業だったので<帷子川第二堤防>は「高島」の地名が現在も多く残っている。lightM8石崎川 堤防といっても川を堰き止めることはできないので、ここにも幾つか<橋>を設けて川筋を作ることになった。
<帷子川第二堤防(鉄道道)>には「月見橋」「万里橋」「富士見橋」この三つの橋が架かり川の出口となる。明治5年のことだ。

開港から明治初期にかけて、
横浜港は貧弱な「象の鼻」しか無かった。必要に迫られた政府はしっかりとした港湾施設「大桟橋」の設計を英国人技術者パーマーに依頼する。
彼は横浜港北側に防波と帷子川導水(土砂の流れ込むを防ぐ)を兼ねて<帷子川第二堤防(鉄道道)>の真ん中にあたる「万里橋」の出口から湾内に「導水堤」を設置する設計を行う。
light横浜道導水堤lightimg071 1894年(明治27年)に横浜鉄桟橋(現在の大さん橋)が完成し、
1905年(明治38年)には新港埠頭第1期工事が完成、徐々に港のスタイルが固まってくる。一方で、<帷子川第二堤防(鉄道道)>を軸に埋立が進み、内側の<内海>そして外側も埋立が行われ 第二の橋が架かるようになる。
light帷子川埋め立て図 月見橋の先に「金港橋」
万里橋の先に「築地橋」
富士見橋は鉄道用地として埋め立てられ川筋が築地橋に集約され帷子川は二つの橋が出口となった。

大岡川がなで肩の釣鐘状の川筋であるのに対し
帷子川は肩ひじ張った矢羽のような川筋になっている。
この帷子川と大岡川の二つの川があったからこそ 現在の横浜が形成された。
マザーダブルリバーである。
横浜駅周辺、陸の賑わいに消えかかっている<帷子川>だが、
その歴史は橋とともに味わいがある。

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6月 5

【横浜の河川】帷子川物語(3)河口めぐり

(帷子川)

帷子川河口付近は都市に埋もれた街です。

lig_P3150013

lig_東口河口付近2014-04-13 19.29.40

横浜駅東西のビル群に囲まれ、かつて袖ヶ浦と呼ばれた入江が小舟で賑わった面影など微塵もありません。しかも幾度となく繰り返された埋立てで、入江は分断されどこが河口か判らない程、人口の水路に成り果ててしまいました。

それでも、分水路の石崎川や新田間川あたりでは川岸の風情を少し残しています。
この帷子川(かたびらかわ)、
江戸時代は河口や河岸端を利用した舟運の拠点が多くあり、上流からの物流の中継地として栄えました。東海道が入江に沿って通り、神奈川湊 鶴見川河口と並んで重要な交易口でした。

lig_埋立て前イメージ

(帷子川VS大岡川)
横浜には大きく四つの水系があります。一級河川の鶴見川水系。
帷子川水系・大岡川水系・境川水系の三つが二級河川です。この二級河川の中で境川水系は河口が藤沢市、上流が町田市ですが、純横浜産の川?となれば「帷子川」「大岡川」、水源地も河口も市内の二級河川です。
川のスケールを測る基準として「延長距離」と「流域面積」がありますが、この尺度に従うと帷子川・大岡川を比較した場合、帷子川の方が大きい。
「延長距離」と「流域面積」共に帷子川に軍配が上がります。その割に地味な帷子川、桜木町駅脇を流れる大岡川河口の風情と、横浜駅脇を流れる帷子川風情を比べると大岡川の方が“川らしい”と感じてしまうところに「帷子川」の寂しさがあります。
大岡川は開港と共に歩んできたましが、帷子川が注目されるようになったのは昭和に入ってからです。
明治時代に入り、横浜港を強化する“築港計画”が考えられたとき、開港場開発は大岡川と中村川・堀川を挟む関外と関内が中心地になりました。
当時の築港計画を考えたパーマーは、ここに帷子川の整備計画も視野に入れていました。横浜港を良港として維持していくには、帷子川から流れ込む土砂の処理が重要な課題と考えていたからです。

lig_明治と新田埋立てを重ねる lig_帷子川河口防水堤
(導水堤)
パーマーは、帷子川の流れを迂回させるために導水堤を作り、横浜港を囲むように防波堤を置くことで、吃水の変化をできるだけ減らそうと考えました。
この時の導水堤が現在も帷子川河口付近で確認するすることができます。

  • ※導水堤とは、河川からの土砂の堆積を防ぎ流路及び流速を一定に保つため、川の合流点や河口付近に築かれた堤防のことである。

築港時に導水堤を作ることは決して珍しいことではありませんが、この横浜港導水堤作りでは、石やじゃりに代えて麻袋詰めにしたコンクリートブロックの「袋詰コンクリート」が使われました。「袋詰コンクリート」による導水堤作りは日本初でかなり珍しい事例だったそうです。
この横浜港導水堤は現在「高島水際線公園」となって整備されています。殆ど訪れる人も無く、静かな場所になっていますが明治期の横浜築港史を物語る重要な土木遺産です。

lig_P6040134といっても地味すぎる!

現在の「みなとみらい」エッジに位置する場所にいち早く「導水堤」を造営したことにエールを贈ります。
※現在さらに奥の河口付近を整備するために工事も始まっています。
※JR貨物の隠れトンネルの出入り口です。

【帷子川河口の物語】

これまで 帷子川 河口付近は幾つか紹介してきましたので
ここでまとめてリンク先を紹介します。
●天王町界隈
以前山田太一さんの作品の冒頭に天王町付近が使われたブログを書きました。
ふぞろいの隣人たち
この天王町付近は、江戸時代から名所?で、版画にも紹介されています。
→今後のテーマ「江戸時代の天王町界隈」
●Y市の橋
松本竣介の代表作の一つ「Y市の橋」は、横浜駅東口が舞台になっています。
1月13日(日)y市の橋/

□横浜駅東西の物語
No.328 11月23日(金)横浜駅東西戦争史

□そごう出店と出遅れた三越

No.274 9月30日 (日)巨大資本の東西戦争

No.269 9月25日(火)河口に架かる橋

No.87 3月27日 横浜駅のヘソが変わる

No.265 9月21日(金)ぺんぺん草の後に

No.207 7月25日 (水)五島慶太の「空」(くう)

3月 30

No.434 【横浜の河川】帷子川物語(2)

No.433に引き続き帷子川を紹介します。
別な機会に紹介する予定でしたが、過去にも紹介すると予告して忘れてしまった例もあり、連続で忘れないうちに紹介しておきます。

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帷子川(かたびらがわ)
現在 横浜市旭区から保土ケ谷区、西区(一部神奈川区)を流れています。
前回紹介した通り、横浜市内のほぼ中央部を西から東に流れています。
江戸時代は 産業の物流動線として活躍しました。

No.433 帷子川物語(1)

明治以降は 帷子川に沿って工業が集中し
物流動線として相鉄線が開業します。
川と鉄道の街として発展してきました。

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相鉄線と帷子川と鴎

相鉄本線の横浜市域エリアは帷子線と表現しても過言ではないでしょう。

■沿線工業史
(駅名は現在のものです)
 判る範囲内で現状も記載しました。
星川駅近辺には
 古河電池横浜工場→住宅地
 日本製糖→住宅地

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天王町駅近辺には
 富士(瓦斯)紡績
  1903年(明治36年)操業、1920年(大正19年頃)に最盛期を迎えます。
  従業員6,000名を超える世界最大級の生産量だったそうです。
  1945年の空襲で操業停止し戦後、米軍に接収されます。

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  (→戦後一時 北辰化学工業となりますが、その後大型ショッピングセンターになります)
 大日本ビール→ヨコハマビジネスパーク

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 宝田石油製油所→?正確な場所を特定していません
 東京電気横浜工場→公団住宅(西久保町公園ハイツ)

bbP1120316

 日本金属横浜工場→テニス倶楽部→マンション
 保土ケ谷化学工業→集合住宅
 日本ガラス(大日本ビールから独立)→住宅?
 保土ヶ谷曹達会社→住宅?

西横浜・平沼駅近辺には
 古河電気工業横浜電線→(一部)TVKハウジング
 →(一部)横浜イングリッシュガーデン
    http://www.y-eg.jp
 東京瓦斯横浜支社(瓦斯工場)

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二俣川駅近辺には
 高梨乳業本社工場
  バラ園で有名です。

No.278 10月4日(木)牛乳は本牧に限る! 

■中流域から上流域の紹介は4月に現地踏破してから紹介します。

(余談)
帷子川は暴れ川でした。
天王町付近は帷子川が蛇行していたんですね!

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上下の地図で比較してください!
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現在「天王町駅」前に昔の橋をモニュメント化しています。