7月 31

第904話 横浜ダブルリバー概論(2)

大正から昭和へ
1900年代初頭、近代化のうねりの中で横浜は開港場を軸に、変化の真っ只中でした。
ここで第二次市域拡張を終えたダブルリバーの20世紀初頭を追ってみます。

1901年(明治34年)から20世紀となります。
横浜市は初めて市域の拡張を行いました。
「久良岐郡戸太村、中村、本牧村、根岸村、および橘樹郡神奈川町、保土ケ谷町大字岡野新田、大字岩間字久保山・大谷・林越・大丸(現在の西区元久保町・東久保町・久保町)、子安村大字子安を編入。」

大正12年4月発行の帷子下流域

・大岡川下流域
「横浜港」を中心に貿易関連企業群と行政機関が集中する商業都市として膨張を続けます。
一方
・帷子川下流域は、大正期に入り埋地が工業地帯として発展していきます。
明治期に高島嘉右衛門が埋め立てた鉄道路線沿いの<高島><裏高島>エリアには、様々な製造業が進出します。また鉄道線に沿った埋地の内側(現在の横浜駅西口側)には外国系石油会社が二社進出します。
一つがユダヤ資本系のライジングサン石油株式會社(後のシェル石油)で平沼・高島に油槽所を設置。
また、米国ロックフェラー系のスタンダード石油も現在の横浜駅付近に貯油所を開設、日本市場進出の拠点となります。現在も日本ガソリンスタンド発祥の地(真偽不明)の記念碑が建っています。
また、平沼・岡野の帷子川下流域新田も工業用地へと変貌し、市瓦斯(現在東京ガス)平沼、横浜電気、横浜電線製造、横浜魚油などが操業し大正期大ブームとなった麻真田を織る工場が多く開業し第二次世界大戦前まで横浜の重要産業に躍り出ます。
(20世紀初期)
1889年(明治22年)に市制が施行され、
1901年(明治34年)から20世紀となります。
横浜市は初めて市域の拡張を行いました。
「久良岐郡戸太村、中村、本牧村、根岸村、および橘樹郡神奈川町、保土ケ谷町大字岡野新田、大字岩間字久保山・大谷・林越・大丸(現在の西区元久保町・東久保町・久保町)、子安村大字子安を編入。」
1911年(明治44年)に第二次市域拡張。
「久良岐郡屏風浦村より大字磯子、滝頭、岡(旧禅馬村の地域)を、大岡川村より大字堀之内、井土ヶ谷、蒔田、下大岡、弘明寺を、橘樹郡保土ケ谷町より大字岩間字池上・東台・外荒具・道上・塩田・反町・宮下・殿田・関面・久保山下(現在の西区東久保町・久保町・元久保町、保土ケ谷区西久保町)を編入。」
この後、しばらく横浜市はこの市域を維持していきます。
このブログでも何度か指摘していますが、横浜市は6回の市域拡大を行います。
1927年(昭和2年)の市域拡大で大幅に市域面積を広げますが現在の半分以下でした。
(関東大震災)
大正期から昭和初期の間における横浜の急激な変化は「関東大震災」に尽きます。
当時の横浜市は人口約42万人で東京市の約220万人に比べ1/5の規模の都市でしたが横浜市の住家全潰(全壊)棟数は約1万6千棟、
東京市の1万2千棟をはるかにしのぐものでした。
特に大岡川と中村川・堀川に挟まれた関内外エリアでは、全潰率が80%以上に達しました。このエリアでの火災の発生場所約290ヶ所に及ぶなど横浜中心部は住宅の全潰率や出火点密度が非常に高かった点が特徴です。
また関内外は運河や橋が多かったため、橋の崩落、木造橋梁の焼失により逃げ道を失ったことが被害を大きくしました。
1923年から帷子川・大岡川下流域は、ひたすら復興のためにエネルギーを使っていきます。
横浜電気鉄道が市電となった直後、
二代目横浜駅が完成してまもなく
第一次世界大戦後の不況から立ち直ろうとしていた矢先
の震災でした。
震災後、横濱も帝都東京と併せて復興計画が立案されていきますが、予算を含め様々なハードルが待ち受けます。
第902話 南・中・西 分離始末 
で少し紹介しました牧彦七による震災復興プランにはダブルリバーを意識していたように思えますので改めて彼のプランを再考してみたいと考えているところです。

牧彦七(マキ ヒコシチ)
内務省の勅任技師時代、道路の改良について研究を進めその傍らで外国語学校に学び、土地計画の国フランス語を修めました。明治神宮造営局や鉄道院の各技師を経て1923年(大正12年)東京帝大講師に就任。同年9月に関東大震災が起こると、いち早く横浜の復興計画に携わることになりますが、任半ばで<帝都復興優先>とされ東京市土木局長となります。帝都の復興に尽力し、東京の都市計画の基盤を作ったテクノクラートで横浜市に関わった場合、どう変わったのか?大変興味深いところです。
13年内務省土木試験場長、次いで東京市道路局長などを歴任。また、大分県出身者として在京大分県人会を組織し、その会長も務めました。
少し長くなりますが
 20世紀初頭をザクッと年表にしました。
 1900年(明治33年)4月11日
 サミュエル商會の日本法人として石油部門を独立させ後にライジングサン石油株式會社(後のシェル石油)となります。照明用の灯油・蝋燭製造でシェアを伸ばします。
 平沼に油槽所を開設。
 1902年(明治35年)
 横浜電気鉄道株式会社設立(資本金100万円)
 1903年(明治36年)
 鶴屋呉服店、明治屋設立
 1904年(明治37年)
 日露戦争(〜05年9月5日)
 横浜電気鉄道開通(神奈川-大江橋間)。
 1906年(明治39年)
 三渓園 開園
 1910年(明治43年)
 東京横浜電鉄(株)創立。
 1911年(明治44年)
 第二次市域拡張。オデオン座開業
 1913年(大正2年)
 浅野総一郎ら 鶴見埋立組合による埋立始まる。
 横浜の逓信省経理局倉庫と海上の天洋丸の間で無線電話連絡に成功。
 1914年(大正3年)
 第一次世界大戦(〜18年11月11日)
 東京駅開業
 糸価大暴落、横浜生糸後場休会。
 1915年(大正4年)
 二代目横浜駅開業
 御大礼特別観艦式(行幸)
 1916年(大正5年)
 横浜入港の布哇丸乗客にコレラ発生。以後全国的に拡大。この年、死者7,482人。
 恒例観艦式(横浜沖)
 1917年(大正6年)
 横浜港第二期築港工事竣工
 開港記念横濱会館竣工
 東海道本線貨物支線鶴見ー高島間、東神奈川ー高島間開業。横浜臨港貨物線のはじめ。
 1918年(大正7年)
 横浜生糸相場暴落。
 米騒動
 1919年(大正8年)
 久保田周政(きよちか)市長は市区改正局と慈救課を設置し、都市計画と社会福祉を設置
 横浜市千歳町に大火。焼失3,084戸。(埋地火事)
 1920年(大正9年)
 市区改正局→都市計画局 慈救課→社会課
 戦後恐慌始まる。茂木合名会社破綻(5月)
 横浜電線製造株式会社が古河工業株式会社より日光電気製銅所などの現物出資をうけ設立。
 電車を市営とすることに決定
 横浜興信銀行設立認可。25日 開業。七十四・横浜貯蓄両銀行破綻のため市内有力者が相寄り新銀行を設立。
 1921年(大正10年)
 横浜取引所の定期生糸立会が復活。
 野沢屋呉服店新館開店
 1923年(大正12年)
 関東大震災。横浜市内全域被災。

◎特別都市計画法公布。東京・横浜の都市計画を規定。
 1924年(大正13年)
 神戸市、市立神戸生糸検査所を開設(横浜港の生糸輸出独占破れる)。
 市内各地で皇太子ご成婚の奉祝行事開催
 横浜高等商業学校(官立)設立、入学式。
 神奈川県庁舎 岡野町に建設。
 1925年(大正14年)
 日本フォード自動車(株)設立。本社横浜。
 東京・横浜間で電話自動交換方式を採用。
 湘南電気鉄道設置
 1926年(大正15年)
 生糸検査所竣工
 1927年(昭和2年)
 京浜地方の諸銀行休業
 第三次市域拡張
 ホテルニューグランド開業
 1928年(昭和3年)
 三代目横浜駅開業
 1929年(昭和4年)
 復興祝賀式
 世界恐慌始まる
 1930年(昭和5年)
 横濱市会議員、初の普通選挙
 山下公園開園
 1931年(昭和6年)
 満州事変
 1932年(昭和7年)
 東横線全通
 1933年(昭和8年)
 横浜の山下町消防署に救急車を初めて配置。東京では12月に日赤に配置。
 自動車製造(株)設立(社長 鮎川義介)。資本金1,000万円。日本産業(株)と戸畑鋳物(株)の共同出資。本社は横浜。1934.6.1 日産自動車(株)と改称。
 1935年(昭和10年)
 復興記念横浜大博覧会(〜5月)
 1936年(昭和11年)
 第4次市域拡張
 1937年(昭和12年)
 第5次市域拡張
 横浜市営埋立地完成
 1939年(昭和14年)
 第6次市域拡張
 ※これでもかなりの量になってしまいました。
7月 28

第903話 下末吉台地

現在、ダブルリバー(帷子川・大岡川)の関係性と果たしてきた役割を考えています。
資料にあたりながら、実際歩きながら地理を体感しています。
この作業の中で 地域一帯の名を使いながら理解し、ブログ等にも分かったことなどまとめていますが、地域を説明する上でエリア名に<腑に落ちない>ことが時折あります。
1.関内外というまとまり
大岡川下流域のいわゆる吉田新田エリアから下流を関所のあった開港場とその外という意味で関内・関外としています。関外とはどのエリアまで入るのか?
「横浜の地域名。吉田橋から内陸側を指す。かつて、現在の伊勢佐木町と馬車道を結ぶ吉田橋には、関所があり、そこから海側(馬車道側)を関内、内陸側(伊勢佐木町側)を関外と呼んだ。
関内は駅名にもなり、現在でも生きているが、関外のほうは、あまり現在では使われていない地域名となっている。現在は、この関外を含めて「関内」とされることも多い。」といった説明もありますが地元感覚では??
「関内(かんない)は、神奈川県横浜市中区において、中心部となる官庁街および商業地域の一帯を、広く指す地域名称で、「関内地区」と「関外地区」の区別がある。このうち、横浜港に近い海側の地域を「関内」といい、横浜市役所(横浜市庁舎)や、横浜市中区の区役所、野球の横浜スタジアムなどが位置する地域として知られる。また、馬車道商店街(馬車道を参照)や、神奈川県庁舎近くの日本大通などが該当する。一方で、旧・横浜松坂屋(横浜市認定歴史的建造物であったが2010年に取り壊され現存しない)があった伊勢佐木町側の地域を「関外」という。なお、大通り公園は関外地区にあり、日本大通は関内地区にあるので、それぞれ場所が異なる。(wikipedia)」
なんとも煮え切らない説明。
吉田新田域とすれば野毛村も石川村(元町)も入らないが 関内(出島域)に対してその外、城郭都市のような分け方がこのエリアにふさわしいのか?
かといって、この名称に代わるネーミングが見つかりません。

2.大通り公園という分断
関内外が開港時の歴史的文脈上
昔の居留地管理の関所のなごりから関内という地域名(町名には無い)を残してるのなら、元々<中川>であり運河として整備され<吉田川>となった現在の大通り公園はやはり「吉田川公園通り」とするのが関内からの歴史的軸線はつながるのではないか?
※これは具体的な運動にしていきます。!!!

3.ダブルリバーを囲む山
大岡川を包む両岸の丘陵、帷子川を包む両岸の丘陵、三連の山の間に二本の川が流れ込んでいます。この丘陵地帯をどう表記するのか?
中村川右岸に迫る丘陵は山手・中村・平楽
大岡川左岸に迫る丘陵は野毛山
帷子川(石崎川)右岸に迫る丘陵は久保山
帷子川(新田間川)左岸に迫る浅間・高島山
ここは地名にこだわらず、地学・地質学の視点ではどうしているのか?
どうやら2つの川の河口域を囲んでいるのは<丘陵>でも<山>でも無く台地ということらしい。
本牧台地、久保山台地、三ツ沢台地
これは分かりやすい。ということで 細かい部分は落ち着かない部分もありますが、
これからはこの<台地>でダブルリバーを説明していくことにしました。
本牧台地と久保山台地の間に大岡川が流れ
久保山台地と三沢台地の間に帷子川が流れる。
堀割川は本牧台地に一部を開削した。

■下末吉台地(しもすえよしだいち)
さらに視点を広く俯瞰すると、起伏の多いこのエリア一帯は
下末吉台地と呼ばれています。
「地質学者大塚弥之助(やのすけ)によって、横浜市鶴見区下末吉の宝泉寺裏の露頭を模式地として1930年(昭和5)に命名された新生代後期更新世の地層。」
横浜に由来する台地、下末吉台地は
「神奈川県北東部の川崎市高津区、横浜市都筑区・鶴見区・港北区・神奈川区・西区・保土ケ谷区・中区などに広がる海抜40-60メートルほどの台地で(wikipedia)」
鶴見川、帷子川、大岡川などによってさらに細かく多数の台地が生まれ、
下末吉台地の西は多摩丘陵となり相模国と武蔵野国を分けている国境となっています。

7月 26

第902話 南・中・西 分離始末

ダブルリバーに関わる3つの区を地図上で眺め、歴史を探ると
分区の不思議が見えてきます。 横浜市南区は1943年(昭和18年)12月1日中区から分離しました。
その理由は
「戦時配給制度の手続の軽減を図るため、寿・大岡両警察署管内の各町を中区から分離して南区が誕生。(wikipedia)」と簡単に説明されています。
区名の由来は中区の南に位置するからだそうです。
同様に中区に対して西に位置するという理由から西区が1944年(昭和19年)4月1日分区しています。全体から見るとかなり東にあたり、中区の西というのは無理がありますがすでに分区していた<南>との対比だったのかもしれません。個人的には南区が西区で西区は東区でも良かったかなと思います。
肥大化していく中区
中区は港都の中心市街地として膨張していきました。
南区も西区も膨張する中区からなかば”はじき出される”かたちで誕生したのでしょうか?
手元の資料を読む限りでは
両区とも戦時中の分区で、警察管区の変更をベースに区域が生まれています。
警察管区単位で<配給体制>が運営されていたため
戦時管理体制の強化が背景にあったともいわれています。

南区も西区も分区の時期はずれていますが、
同時期に分区計画が遡上にあがります。
西区史では
「西区の新設は、昭和十八年(一九四三)十二月一日、南区が中区の一部から分離、独立したときから日程にのぼっていた。これより前、港西区又は戸部区として新行政区を新設するよう運動もおこっていた。」
もう少し説明を加えると、キッカケは横浜市が第3次市域拡張によって急膨張し新しい区制度により新区が誕生した昭和二年に遡ります。
【番外編】市域拡大は元気なうちに!?

横浜市で区制が始まった時は、五区でした。
鶴見区・神奈川区・中区・保土ケ谷区・磯子区 以上。
現在のように18区となったのが1994年(平成6年)ですから、約70年で市域も増えましたが、分区を繰り返してきました。単純に分かれていくだけではないので、複雑に見えてしまいます。
区制当初からほとんど<区域>が変わらないのが「鶴見区」です。
唯一行政域不変の区です。
この中で、区と区の境界ゾーンに一つの新しい区が”独立”したのが西区です。
1994年(平成6年)16区が18区になるときに、緑区と港北区で新しく線引を行い青葉区・都筑区が誕生しますが西区の誕生はまさに「神奈川区」「中区」の境に誕生します。
生活圏の変化
横浜市は昭和初期に第3次市域拡張を行い一気に大横濱となります。1936年(昭和11年)に久良岐郡、1939年(昭和14年)には相模国鎌倉郡戸塚村を市域に加えほぼ現在の市域に近くなります。
この拡張期間に様々なインフラ整備と新産業が起こり生活圏の変化が起こってきます。
西区・南区に戻ります。
西区エリアは昭和に入り「中区と神奈川区」の谷間で俄然存在感を示してきます。最大の理由は三代目横浜駅の開業です。
山に囲まれた帷子川河口域一体が西区となります。当初神奈川区と中区の境界は帷子川河口域、石崎川あたりですが、関東大震災後、戸部エリアを軸に新しい都市計画が構想され(牧 彦七案)その後「戸部村」が独立を望む際に、同じ生活圏である帷子川河口域(岡野新田・平沼新田 他)を含めた区域を求めたのも自然でしょう。南区の誕生
一方、”肥大化した”中区の南西部が分離した「南区」の独立理由に目を向けてみます。冒頭に紹介したように「戦時配給制度の手続の軽減を図るため、寿・大岡両警察署管内の各町を中区から分離して南区が誕生。(wikipedia)」
警察の管轄権で南区としたとあります。逆に、寿・大岡両警察署の管内が決まった理由を考えることで、中区・南区の境界線が見えてくるのではないか?と警察史を追いかけてみると
南区の管轄警察となった寿警察のルーツは久良岐郡警察署(久良岐橋近く中村町4丁目)にあります。その後石川町警察署(石川町4丁目)となり1921年(大正10年)吉野町に寿警察が誕生します。それぞれの警察署がどのような管轄域の変遷を辿ったのか「神奈川県警史」では判りませんでしたが、中村川エリアと大岡村エリアである大岡川河口域の歴史から少し読み解くことができそうです。
運河で分けた区界
古い大岡川下流域の地図をみると、まさに現在の中区・南区境界の酷似しています。
1970年代まであった大岡川運河群の新富士見川・日ノ出川・吉田川に沿って区界があり、警察の視点では分けやすかったといえるでしょう。
南区史には当時の職員の話として
「とにかく急なことだった。南区が開かれることにきまり、辞令が出たのは一八年の七月だったが、実際に辞令をもらったのが10月1日だった。(中略)とりあえず隣保館を改造して役所とすることにした。」とあるように戦時下でとにかく準備不足の中での分区だったようです。
南区を運命づけた変化は市電弘明寺線と湘南電気鉄道=京浜急行電鉄の開通による急激な宅地化です。
ダブルリバー
帷子川河口域の発展から西区が誕生し
大岡川中・下流域の発展から南区が誕生しました。
この2区に共通するのが”不便な区役所”というのは冗談ですが、
時の流れによって、町の軸が変化してきた町といえるでしょう。
第901話 横浜ダブルリバー概論(1)

4月 28

【横浜の視点】ダブルリバー

横浜の街は、大岡川河口域に誕生し、帷子川河口域とのコラボで港都を形成した。全国の大都市でこれほど明確にダブルリバーが街を包み込むように発展した例を見ない。
江戸時代から風光明媚な洲干弁天に詣でたこの街は富士山の噴火により降灰したダブルリバーが次第に浅くなり、大岡川河口域では吉田勘兵衛が新田開発のために干拓を行うことで基盤が出来上がる。
横浜は集落の数こそ少なかったが<寒村>では無かった。静かな村で弁天と姥ヶ岩と言った景勝地だった。昭和の市域拡大まで<横浜>はこの二つの川と河口域を中心に発展したのだ。現在の市域となったのが1936年(昭和十六年)、今年でちょうど80年を迎えた。
横浜ダブルリバーについて考えてみたい。
(大災害)
前々から感じていたが、この街がダブルリバーの都市であることを再認識した。ダブルリバー帷子川下流域は支流の今井川が合流後すぐに分岐する。
元々はこのあたりが河口域だった。
大岡川下流域は蒔田公園あたりで中村川と本流に分岐する。
元々はこのあたりが河口域だった。
1707年(宝永四年)今から約三百年前、富士山が噴火する。宝永火口から噴出した火山礫や火山灰などの噴出物は、偏西風にのって静岡県北東部から神奈川県北西部、東京都、さらに100km以上離れた房総半島にまで降り注いだ。
この大噴火で、神奈川・東京の河川にも降灰が流れ込むことでその後も引き続き様々な影響が出た。河川流域で盛んに行われるようになった稲作は直接・間接的に影響を受けた。
江戸中期、治水技術の向上と普及が日本の<財源>である稲作を変え、棚田から平田へと水田が飛躍的に広がり始めた頃の大災害だった。当時、江戸近郊は川や近海の船による物流も盛んになり豊かな江戸幕府の基礎経済を支えていた。
そんな中での富士山噴火は
田畑への直接的な被害はもちろん、川へ流れ込んだ火山灰が氾濫や河口域の急激な吃水変化をもたらす。
結果、河口域の急激な変化が起き、大岡川の吉田新田、帷子川の宝暦・安永・弘化新田等の新田開発が相次いで始まる。
(河口域の変化)
横浜誕生の背景には、噴火による河口域の急変があった。そして
大岡川河口域の絶妙な<横浜岬>と吉田新田。1911年市域拡大水系帷子川河口域の絶妙な<浅瀬>と横浜道が可能だったからこそ港都横浜であり続けた。
港都横浜はダブルリバーによって形成されたと言っても過言ではない。
都市計画として“ダブルリバーシティ”を構想した人物がいる。
震災後、横浜の復興計画を立案した牧彦七だ。
彼はこのダブルリバーの真ん中に横浜市の中心を置くことを考えた。
「牧案」の特徴は、横浜港を内包する関内と鉄道・国道の要となる現在の<横浜駅>エリアの中間に当たる丘の上に中央公園を造り、囲むように官公庁と会社銀行が並ぶ<新都心>を創り、そこから各地区を幅員50~60mの「逍遙道路」で結ぶというものだった。まさに横浜の都市構造を的確に判断したからではないだろうか。残念ながら彼の夢は実現しなかった。牧案もし実現していたら、横浜はダブルリバーに運河が張り巡らされた世界一の運河都市となってかもしれない。
牧彦七に関しては下記ブログに少し触れている。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=58