堀割川に架かる天神橋は現在架け替え工事が行われている。
震災で倒壊した天神橋は大正15年の6月に工事が始まり昭和2年4月22日に竣工と震災復興記録には記されている。工事前は市内でも最古参に入る<古株>の橋だった。
撮影した橋の画像が見つからないので画像はパス!見つかり次第掲載予定。
堀割川は1874年(明治7年)に完成した大岡川の小派川で、中村川から分かれ根岸湾に注いでいる。
明治に入って着工された「堀割川」分水路作りにはいくつかの目的があった。
一つは、江戸中期に新田開発された<吉田新田>では開墾しきれなかった海の部分を埋め立てるために<土>が必要だったこと、もう一つは根岸湾(磯子・金沢)開発のために横浜開港場を繋ぐ目的があった。完成には吉田家涙の物語があるがここでは省略する。
堀割川には現在六つの橋と一つの人道橋が架かっている。
①中村橋
②天神橋
③根岸橋
④坂下橋
⑤磯子橋
磯子橋人道橋
⑥八幡橋
今日は「弁天橋」の風景を紹介する。
構造は<I型鋼桁(ガーター)橋>架替後も変らない。
橋の銘板には「大正15年3月」とあるが 復興資料では大正15年着工の「昭和2年4月22日」完成とある。
(天神橋の由来)
天神橋の名は天満宮に繋がる<橋>の意として全国で多く命名されている。
ここに架かる「天神橋」は岡村天満宮に繋がるのだが、社殿まではかなり遠い。資料によると、堀割川が完成すると、<船>で天神橋近辺にあった<船着場>を経由して参拝にでかけたことから命名されたようだ。
明治45年に電気鉄道が開通し、船便は廃れてしまうが橋の名は残った。岡村天満宮には横浜電気鉄道(後の市電)滝頭で降り、途中の一の鳥居をくぐり天神道を歩き向かった。
震災で堀割川護岸はかなり崩れ、参道の道筋も新しく作られることになった。例祭の時にはちょうど天神橋と下流の根岸橋の中間に「天神前仮停留所」が開設され、臨時停車し参拝客は皆ここで降りた。(堀割川左岸)
岡村天満宮は堀割川の右岸側にあり、電気鉄道も右岸に沿って八幡橋まで走っていた。江戸時代は根岸台の崖下から岡村一帯は丘の多いこの地域の重要な<平地>だったが、堀割川によって分断されてしまった。
「左岸」は背後に根岸の崖が迫り 分断された土地となっている。そのためかどうか分からないが 左岸には工場が多い事と関係があるかもしれない。
戦前の「天神橋」が写っている絵葉書がある。といってもかなり遠景なので、橋そのものはその存在が確認できる程度だ。(日本ビチュマルス株式会社)
ビチュマルスとはあまり聞き慣れない言葉だ。
道路舗装の欠かせないアスファルトの乳剤のことをビチュマルスという。日本での事業展開の歴史は古いが飛躍のきっかけとなったのが<関東大震災>による復興需要だった。道路舗装の先進国であったアメリカの持つ技術を導入し、日本では幾つかビチュマルス製造会社が誕生した。
その一つが日本ビチュマルス株式会社で、
1930年(昭和5年)に設立された。現在は東亜道路工業株式会社と改名(1951年)し日本有数の道路舗装企業である。
この他にも幾つか大手道路舗装企業があるが、独立系である日本ビチュマルス株式会社に対し、ゼネコン系の関連企業が殆どである。
大林組の関連会社「大林道路」はかつて「日本ビチュマルス株式会社」から分かれた道路舗装企業である。
絵葉書の発行は昭和9年夏である。ちょうどこの頃の地図があったので地図と比較しながら、ここに映る風景を少し読み解いてみたい。
工場脇を堀割川が流れている。川にそって道が整備され、そこを市電が走っている。左側が下流で根岸湾方向を指す。下流に「天神橋」が写っている。
工場内には<ドラム缶>が多く並んでいるのが判る。
地図から「日本ビチュマルス株式会社」の周囲には「大和染色工場」「四菱食品会社」「落合ガラス工場」「石川工場」など製造会社が立ち並んでいる。
対岸(右岸)には広い空き地が目立っている。
半分削られた小山の手前が現在 「横浜商業高等学校 別科」がある辺りと思われる。
小山の奥には「脳血管医療センター(かつて万治病院)」があったが周囲は殆ど空き地のように見える。昭和初期はまだまだ農地中心で住宅は限られていたようだ。
この風景はどこから撮影されたものか?
地図から根岸の丘の上、現在米軍住宅のはずれ標高56.7mポストあたりから見下すように撮影されたと思われる。工場の屋根にビチュマルスと大きく書くということは、航空機を意識したのだろうか?それとも根岸の丘からの眺めを考えてのことだったのだろうか?
最後に花見の時期も迫ってるので
かつての堀割川の桜風景を紹介する。