5月 17

横浜赤肉ローハイド(1)

2021年5月15日の橫浜メモランダム
1869年(明治2年)近江国から東海道を使って生きた牛を横浜まで運んだ人物がいた。目的地は開港場となった外国人居留地だった。
当時は鉄道もなく、明治維新の動乱期ではあったが、陸路を牛たちと共に移動したのだからまるで60年代に日本でヒットしたアメリカの人気ドラマ「ローハイド」※のようだ と想像すると面白い。
(※古すぎて年寄りしかわからないが)
ローハイド主題歌
資料によると牛を連れての旅は15日から16日を要したそうだ。
牛との道中記、街道筋の人々は驚いたに違いないが、江戸日本橋から京都まで通常二週間程度だったそうだ。
この日数には若干疑問が残る。ちょっと早い。牛歩戦術は結構早足だったようだ。
フェイバーさんこと日本版カウボーイ、彼の名は「西居正蔵(にしいしょうぞう)」近江国蒲生郡の豪農の家に生まれで、生来の努力家だったそうで、新しい時代に対応し近江牛を売るために奔走した伝説の人である。
開港と明治維新、近江にも近代と外国文化という新しい時代が音を立てるように訪れた。当時外国人が最も集まっていた横浜では食肉を求めていることを知り、昔から牛を食肉用にしていた近江牛こそ最適と考えたのだろう。
西居は東海道を使い自らの手で生牛を運んだのである。すごいエネルギーだ。 明治以降、日本の近代化はめざましく、いち早く関西と関東が汽船で結ばれるようになると、彼は船で牛を運ぶことを目論んだ。
1870年(明治3年)九十九商会として大坂に開設され、
1875年(明治8年)には郵便汽船三菱会社となった船会社(後の日本郵船会社)に牛の搬送を依頼する。何度も断られたそうだ、交渉を重ね、最終的には自らリスクを背負い、デッキ積みを実現させ横浜港に牛を送り込む事に成功する。
当時、積出港が「神戸」だったために、皮肉にも”神戸牛”という副産物が付いてしまったらしいが、その名は1890年(明治23年)に東海道本線が全通することで払拭された。
国鉄「近江八幡駅」から直接出荷できるようになり「近江牛」の名が関東に定着したそうだ。
その後 鉄道輸送で出荷量が飛躍的に伸び、東京・横浜市場に強い影響を与え「近江牛ブランド」が浸透したとのことだが、
同時期、
同じように松阪(但馬)牛を関東市場に持ち込んだ人物がいた。山路徳三郎という人で、松坂から三週間かかっているとあるので、松阪牛の方が牛歩戦術が得意のようだ。
このように、横浜市場は全国に注目されていた。別の資料では、これも関西から牛を運んだ親子の物語である。
今から15年位まで(記憶が曖昧)馬車道バス停前に牛鍋レストランを開業していた「竹内」という店があった。残念ながら閉店してしまったが、この「竹内」の親戚が横浜に牛肉を運んで成功したというのだ。
これも明治初期、竹内金三郎とその息子慶太郎の竹内親子が牛を関西(神戸港)から船で搬送し横浜で有名になり、二人は真砂町に牛肉問屋を構え、横浜食肉業界で広く活躍したそうだ。
息子の慶太郎は「横浜屠場株式会社」を設立し食肉の近代化に勤めた人物としても有名である。 このように忽然と居留地が登場した横浜では、移ってきた多くの外国人から食肉ニーズが高まることで、牛を長距離運んでもビジネスが成り立ったのだろう。
開港後外国人からは様々な要求があったがその中に”牧場”の要求があった。幕府時代から明治初期まで本牧を手始めに横浜近郊で幾つかの牧場が運営され食肉生産が行われていた記録が残っている。
歴史では江戸期、一般庶民には牛や豚を食べることを禁止した。仏教では殺生を嫌ったといわれているが、実はそうでもなかかった。江戸期の食肉の歴史を近江牛から探ってみた。 彦根の名産の一つに「牛肉の味噌漬け」がある。これは江戸時代から作られていた名産で元禄年間に「反本丸」(へんぽんがん)という名で流通していた。私は「千成亭」の味噌漬け牛肉を時々頼む。
https://www.sennaritei.co.jp/c/home-use/misodukezitaku
井伊家彦根藩は18世紀後半に全国の諸侯にこの「反本丸」が振る舞われ、時の将軍徳川家斉にも献上されたという記録が残っている。また、彦根藩では牛肉の乾燥肉を開発し日持ちすることで重宝がられた。たぶんビーフジャーキーのようなものだと思うが、この乾燥肉は寛政年間に将軍家へ献上された、とある。
幕末の1853年(嘉永6年)には江戸市中で彦根牛の看板を掲げて肉屋を開業していたというから、時の為政者は勝手なものだ。幕末には江戸でも肉食が普通にあったことの証かもしれない。
さらにはこんなエピソードも伝わっている。
有力諸侯に毎年送っていた味噌漬け牛肉「反本丸」を、藩主で大老だった井伊直弼は取りやめてしまった。この反本丸が大好きだった水戸藩主で烈公と呼ばれた徳川斉昭(とくがわなりあき)は何度か催促したが直弼は断ったという。これにがっかりしそのことを遺恨に思って、水戸藩の浪士たちが井伊暗殺を企てていたことを黙殺したというエピソードが伝わっている。
嘘か本当かわからないが、食べ物の恨みは根深いことは確かだ!
なぜ、彦根藩は食肉の習慣があり、それが時のご禁制に特例として認められたのだろうか?  
彦根藩は戦国時代から藩をあげて武具作りが盛んで多くの職人が育っていた。江戸徳川幕府となって、浜松から東海道の要<彦根藩主>となった井伊家は代々、徳川家に信頼されていた。
井伊家による彦根の武具や儀礼に必要な「太鼓の皮」も大変珍重され幕府に納められていた。太鼓の皮や甲冑(鎧兜)に用いる牛革を取るために彦根藩は唯一幕府から牛の屠殺を許されていた。
このときに残った牛肉を彦根藩では大切に食用として活用するために開発されたのが「味噌漬け」だった。それが滋養強壮の薬「反本丸」としてお殿様に珍重されたのである。
※彦根市の特産に仏具、仏壇がある。これは彦根藩の武具職人達が明治以降失職しないように技術を活かし業態変換したからだと彦根で聞いた。 仏壇の飾りは甲冑から来ていると知って、改めて実家(越前)の仏壇を見直したことがある。 末吉町にある老舗の「太田縄暖簾」は、現役最古の牛鍋店として有名だ。1868年(明治元年)に創業とのことだが、創業者は石川県能登出身の高橋音吉が幕末慶応初年に横浜道に面した吉田町堤に牛肉の串焼き屋を開業したことに始まった。その後まもなく現在の末吉町に移転し現在に続く「牛鍋」を始めたそうだ。
ここで出されている元祖牛鍋は
(1) 肉が角切りであること、
(2)味付けに割り下やザラメ醤油などではなく、味噌 ダレを用いていること、
(3)具材が牛肉と長葱のみとシンプルであること
  を「牛鍋」の条件としているが、
これは、彦根の赤肉の味噌漬けに少しは関係していないだろうか?
ここから先は、私の全くの想像である仮説を展開してみたい。
横浜牛鍋店の多くが”牛に味噌を使ったのは<肉の臭み>を消すため”としている。
彦根「反本丸」のヒント、影響があったのでは無いか?
横浜が舞台なら断然あった!
というのが私の見立てだ。
 次回は 彦根と横浜の浅からぬ<縁>ついて紹介したい。(つづく)
4月 20

【一枚の絵葉書から】野毛山の桜

昔の絵葉書に写し出されている風景から時々意外なことがわかることがあります。
ここに紹介する絵葉書は大正初期に写されたものだろうなと推理していますが、
そのほかのことは、桜が咲いているので春四月ごろかな? 程度で
手彩色の<桜>色にそのままスルーしてしまいました。
もう少し詳細に見てみることにします。
左下に映る天秤棒を担ぐ男性の荷物はなんだろう?と拡大してみると、
向かって左側の籠には<筍>が積まれ、
右側には青物野菜と芋のような塊の山を確認することができました。
桜と筍といえば
「桜前線」を追うこと約1週間から10日後に、南鹿児島あたりから始まり、九州・四国・近畿・関東、そして例年は四月末には北限の東北南部へと北上。
孟宗のたけのこの採り頃というか食べ頃まさに「旬」が北上します。「たけのこ前線」というらしいですが、竹篇に旬が<たけのこ>だから、昔も花より食い気の方が優先したのかなと余分なことも考えてしまいます。
野毛山あたりは 豪商の別邸が立ち並んでいましたので、天秤棒の彼はこの長い坂を登ってでも売れたのでしょう。
次に、
彼の後ろには、子守をする<少女>の姿が数人見えます。
児童労働としての子守が日常的に存在しました。戦前のそれも大正以前の風景には、この<子守するこども>が良く写っています。
子守が労働であった時代です。
現代の<ベビーシッター>とは異なる、10歳前後の幼い少女が労働として<子供を子守すること>が江戸時代から普通に行われてきた習慣が明治・大正期まで盛んだったようです。
さて 天秤棒の右側には何が積まれていたのでしょうか?知りたいところです。 「子守という仕事」
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9207
12月 19

【大岡川運河物語】水運の町、石川町

大岡川運河群は1970年代まで日常の風景だったが、多くが消えた。

大岡川運河群図昭和3年

だが、いわゆる吉田新田域が運河の街だった記憶はまだ残されている。
その記憶・残照をたどりながら運河にまつわる物語を書き残しておく。

■中村川運河
JR根岸線「石川町駅」が開通したのは1964年(昭和39年)5月19日のことだった。この年は東京オリンピックが日本で初めて開催された年だった。戦後日本が特に首都圏が工事の粉塵に紛れ、工事車が土砂を跳ね上げていた時代である。
桜木町は旧橫濱駅時代に開業した歴史ある駅にも関わらず、東海道筋から離れていたためおざなりにされていた。地元は路線の延伸を戦前から願っていたが中々実現しなかった。
60年代に入り延伸工事が始まった。派大岡川の上に橋脚が建ち、関内駅を川の上に開設。そのまま直進し山手丘陵の土手っ腹にトンネルを開け「石川町駅」が開設した。
駅名の石川町は石川村に由来し古くからあるが「石川」の名はしばらく消えていた。石川村は海岸に面した漁業、農業、林業を営む小村だったが古くからその名を見ることができる。

IR石川町駅

<石川>
石川の名で有名なのは「石川県」。加賀の国にある手取川の古名である「石川」に由来するが、この「石川町」は武蔵国久良岐郡石川村に因んでいる。何故「石川」となったのか?詳細を追いかけていないが、湧き水が多く岩(石)の間から出たからではと想像している。
漁村として栄えるためには、真水が必須だ。海水では人は暮らしていけない。
石川町近辺を調べてみると、湧水地が数多く見つかる。開港以降は横浜港への船舶給水地として事業も起こっている。
このように古くからあった岩の間の湧水地が<水の豊富な村>として石川の名となったのではないだろうか。 <吉田新田>
石川村は江戸中期に大きく変わる。江戸の材木商だった吉田勘兵衛が幕府の新田奨励施策により、大岡川河口の深い入海の干拓事業に着手。1667年(寛文7年)に11年かけた吉田新田が完成。吉田新田の完成で、石川村は本牧や横浜村とかつて対岸だった<戸部村、野毛村>と密接になった。
石川村は漁村ではなくなる。その後、石川村の経営がどのように行われたのか不勉強だが、新田の幹線道となった「八丁畷」現在の長者町通りの完成によって、交通往来が大きく変わったことは確かだ。
現在は、車橋を渡ると打越の切通しを抜け山元町、根岸へとつながるが、近世、近代は車橋を渡ると石川中村になり一旦下流に向かい地蔵坂が「本牧」と「横浜村」に出る分岐路だった。

干拓前深い入海

<地蔵坂>
地形図で石川村付近を俯瞰すると、地蔵坂が本牧へと続く要路であることが分かる。近世に交通量が増え、道を拡張する工事の際に土の中から地蔵が掘り出され坂の名が地蔵坂となったと伝わっている。現在は関東大震災でこの地蔵尊も崩れてしまったが、戦後地元の有志によって亀の橋袂に新たに地蔵尊を建立された。この地蔵尊は入海に身投げした女人伝説による<濡れ地蔵>の異名もあるが、伝説となるこの地の役割を示した結果だろう。

地蔵坂地形図

<水運の町>
石川町がかつて水運の要の地であったと聞くと驚く人が大半かもしれない。
石川町に関する歴史資料を調べ始めると、この街の川岸がかつて水運の要であった片鱗を感じとることができる。
ここに示す西ノ橋から中村川上流方向の風景、一見亀ノ橋と判断しがちだが西ノ橋左岸際から亀ノ橋を見ることはできない。ではこの橋は?ということになる。実はこの橋の存在から様々な謎解きが生まれ出た。
「謎の橋」戦後の資料では「赤橋」と呼ばれていたことが判る。

明治から昭和にかけ、この位置に架けられては消えた「橋」の存在を確認することができる。中村川対岸吉浜町には幕末から明治期には「横濱製鉄所」があり、大正期からは戦後まで掖済会病院が開業していた(現在は山田町)。
この謎の橋は派大岡川のある運河時代だからこそ利用度が高かった。
絵葉書を拡大するとここに、川岸の荷捌き場が写っている。

中区史に
「中村川の川沿い石川町から中村町方面にかけては、港や埋地方面に働く人々が多く居住地とした、石川町一帯は人口が増え町が大きくなり、そこには規模は小さいが、多種類の日常生活を売る商売が発生していった。このことは外国人を相手として商売する元町とは対照的であった。すでに石川は明治六年には街並みがととのった所として、石川町と命名されていたが、こうして町が充実していった」
「中村川や堀川などの川は、港から直接内陸に物資を運ぶことができ、埋地の問屋筋へ、さらには八幡橋方面へと」 石川町と千葉県富津市の港と定期航路があった昭和まで記録も残っている。

<亀の橋 下流に船着き場を確認できる>
かつてこの船に乗って多くの女性行商が行李を担ぎ石川町に降り立った。中にはこの地に生活拠点を求めた方もいる。石川町と房総千葉とのつながりも深いものがある。
このように、石川町は運河を巡り関内外から房総千葉まで水運というキーワードのエピソードが誕生した町だ。
近い将来、この石川町に動力船が使える桟橋ができると聞く。
江戸期から続いた水運の町の復活となるのか?変わりゆく石川町に注目したい。

6月 4

横浜市庁舎の歴史(資料編)

表組み練習を兼ねてブログ書き出した頃に作ったページです。昭和30年代まで
1911年
明治44年
7月1日
新市庁舎開庁
1923年
大正12年
9月2日
桜木町の中央職業紹介所を仮市庁舎に
1923年
大正12年
9月11日
市会、仮市庁舎屋上で、震災復旧善後策に関する緊急市会開催
1923年
大正12年
9月日
市庁舎類焼により、桜木町の中央職業紹介所を仮庁舎とする(A)
1940年
昭和15年
7月17日
紀元2600年記念事業案(市庁舎新築、動物園開設、文化会館建設)
1944年
昭和19年
8月28日
市会で市庁舎の老松国民学校移転を可決
1944年
昭和19年
10月1日
市庁舎、野毛山老松国民学校等へ移転(市会議場は横浜市図書館内設置)
1944年
昭和19年
10月1日
市庁舎が木造建物で危険、臨時に老松国民学校に移転
1945年
昭和20年
 
市会は図書館へ、市庁舎は老松国民学校などの鉄筋コンクリート校舎に移転する。
1949年
昭和24年
7月28日
市会、全員協議会市庁舎移転の件(日貿博建物への移転を市長が提案)
1949年
昭和24年
10月21日
市庁舎移転問題でGHQに陳情(議員六名老松小学校からの移転の猶予を求める)
1949年
昭和24年
10月27日
市会、市庁舎対策特別委員会の設置(市庁舎の移転問題)
1949年
昭和24年
12月17日
市会、市庁舎対策特別委員長が報告(日本貿易博跡移転で意見一致と報告)
1949年
昭和24年
 
市会、市庁舎の貿易博覧会反町会場跡地への移転を正式決定(A)
1950年
昭和25年
11月日
市庁舎、反町の貿易博跡に移転(A)
1953年
昭和28年
6月29日
市庁舎建設候補地、反町、港町、横浜駅前等
1953年
昭和28年
6月29日
市庁舎建設特別委員会各候補地の実情調査結果の説明
1953年
昭和28年
10月5日
市庁舎建設特別委員会(各会派内の協議結果を発表)
1956年
昭和31年
11月2日
市庁舎基本設計案について市長が採用決定
1956年
昭和31年
12月20
市、新市庁舎起工式
1956年
昭和31年
1月日
市、市庁筆数地問題につき港町の旧市庁舎跡を候補地に決定(A)
1957年
昭和32年
4月12日
市庁舎建設事務所の設置
1958年
昭和33年
4月5日
市庁舎新築工事、特別基礎工事完了(6・23躯体工事に着手)
1958年
昭和33年
6月日
市庁舎立柱式、工事現場で挙行(A)
1959年
昭和34年
2月26日
市庁舎市会棟完成、市会事務局移転
1959年
昭和34年
9月12日
市庁舎落成式
1959年
昭和34年
9月12日
市庁舎落成式(中区港町)
1959年
昭和34年
 
現在の市庁舎が落成する。
1960年
昭和35年
9月日
市庁舎、港町に完成、落成式(A)
1962年
昭和37年
3月1日
反町市庁舎跡地開発計画決定(公園・子供遊園地等)
4月 13

【吉田町物語】吉田町清水組

現在、吉田町に拠点を構える最も古い企業は、都橋のたもとに事業所を持つ清水建設横浜支店です。
左側 都橋袂、清水建設横浜支店
現在スーパーゼネコン※と呼ばれている5社の中で、特に「清水建設」と「鹿島建設」は開港場を舞台に横浜普請で飛躍した会社です。
※清水建設、鹿島建設、大成建設、大林組、竹中工務店
清水組は安政の大獄の始まった1858年(安政5年)
時の大老、井伊直弼から「外国奉行所」など幕府施設建設を請け負うことで横浜開港場との関わりが始まります。
1859年(安政6年)
清水組を興した初代喜助が死去し養子の清七が2代清水喜助となった年、
「横浜坂下町」に店宅を新築し、横浜へ進出します。(清水建設社史)
この開港場の拠点「坂下町」、磯子ではありません。現在の「日本大通」と「横浜公園」が接するあたりと推定できます。
清水組は「神奈川戸部村外国奉行所、石崎関門ならびに番所および野毛坂陣屋前役宅を施工」する事業に関わります。神奈川戸部村外国奉行所はおそらく現在の紅葉ヶ丘神奈川奉行所、石崎関門・番所はわかりません。
野毛坂陣屋前役宅も現在の宮崎町近辺でしょうか?調査中です。
清水組は神奈川役所定式普請兼入札引受人となるなど、事業は順調に拡大していきます。
ところが、
1866年11月26日(慶応2年10月20日)午前9時頃に港崎遊郭の西方向、現在の尾上町一丁目付近から出火し開港場の大半が消失した<慶応の大火>で「横浜坂下町店宅」も類焼し、失ってしまいます。
(写真資料)
清水喜助は吉田町に家屋を新築し移転します。この場所で釘や鉄物商のほか材木商も兼業し事業を拡大していきます。
当時、木造家屋の密集する日本の都市は、火災に弱く何度かの大火災に悩まされます。
移転した吉田町店も火災にあいまたまた類焼のため宮川町へ移ることになります。
その間、時代は明治となり、開港場は居留地と商人の大都市に変貌し始めます。
喜助は吉田町に戻ることを決意し、
1874年(明治7年)吉田町に洋風3階建の店宅を新築し、宮川町から復帰します。
大岡川下流から都橋を望む。
大岡川、都橋下流側 右岸に清水組
1881年(明治14年)に横浜店は清水満之助が経営
 神田新石町店は清水武治が経営する東京・横浜分業体制を採ります。
1883年(明治16年)には横浜吉田町宅を本店とし、日本橋本石町居宅が支店となりますが、
1887年(明治20年)満之助が35の若さで死去、残された8歳の長男が四代満之助襲名しますが、三代目満之助の遺言により経営の神様と呼ばれた”渋沢栄一”を相談役(〜1916年)に迎え経営危機を乗り越えます。
1892年(明治25年)9月に日本橋本石町店を本店、横浜店を支店に改め、拠点を東京に移します。
1895年(明治28年)東京・横浜両店を合併し、清水組が一本化。
清水組を創業した清水嘉助は、越中小羽(現・富山県富山市小羽)出身で、故郷富山で大工の修行をして、日光東照宮の修理に関わったことをキッカケに江戸に出て神田の地で創業します。江戸城西の丸修復で建設業の基盤を築きます。
富山(越中)人脈は、
1838年(天保9年)11月25日 安田善次郎 富山市で出生(安田財閥の祖)
1848年(嘉永元年)4月13日 浅野総一郎 氷見市で出生(浅野財閥の祖)
1881年(明治14年)大谷米太郎が小矢部市で出生(大谷重工業、ホテルニューオータニ創業者)
1885年(明治18年)正力松太郎 正力松太郎が射水市(大門町)で生れる(読売新聞中興の祖)
安田、浅野も横浜・川崎を舞台に一代を築いた越中人です。
どこかで、つながりがあったと思います。機会があれば、横浜の越中人脈も探ってみたいと思います。
成人した四代目清水満之助は
1915年(大正4年)8月10日竣工、二代目横浜駅建設を手掛けます。煉瓦造2階、平面形状は不等辺三角形。階上に待合室、改札口がある荘厳な駅舎となります。
<横浜の清水>作品を抜粋します。
◯谷戸橋(堀川)1880年(明治13年)
◯横浜税関(関内)1885年(明治18年)12月
◯横浜水道開設事業 三井用水取水所の内 用水取入口、貯水池、濾水池1887(明治20)年9月
◯第一銀行1911年(明治44年)6月
★二代目横浜停車場1915年(大正4年)6月
★横浜市開港記念会館(旧開港記念横浜会館)1918年(大正7年)
 平成の修復も清水建設。
◯ホテル、ニューグランド1927年(昭和2年)新築 設計渡邊仁
1933年、1958年、1964年 増築
2016年 耐震改修
◯味の素横浜工場サイロ竣工(昭和30年)9月
◯横浜マリンタワー1961年(昭和36年)1月
◯石川島播磨重工業横浜第2工場建造ドック及び修理ドック
 1965年(昭和40年)3月<建造ドック>
 1966年(昭和41年)8月<修理ドック>
◯横浜スタジアム1978年(昭和53年)3月
◯県立神奈川近代文学館1984年(昭和59年)3月
◯横浜地下鉄1号線 吉田町工区1986年(昭和61年)3月
◯関内ホール(横浜市市民文化会館)1986年(昭和61年)
◯新横浜プリンスホテル1992年(平成4年)2月
◯横浜・八景島シーパラダイス デザインシステム(清家清)
 <建築部分>1993年(平成5年)5月
 <土木部分>1994年(平成6年)3月
◯横浜ランドマークタワー1993年(平成5年)6月
◯横浜銀行本店1993年(平成5年)7月
◯飯田家長屋門 保全1996年(平成8年)3月
◯日石横浜ビル1997年(平成9年)6月
◯Foresight21(関東学院大学1号)2001年(平成13年)3月
◯慶應義塾大学日吉新研究室棟(来往舎)2002年(平成14年)1月
◯横浜港大さん橋国際客船ターミナル(第一工区)2002年(平成14年)11月
◯今井川地下調節池2004年(平成16年)3月
◯横浜市立みなと赤十字病院2003年(平成15年)12月
◯日産自動車グローバル本社2009年(平成21年)4月
◯富士ゼロックスR&Dスクエア2010年(平成22年)3月
◯アニヴェルセルみなとみらい横浜2013年(平成25年)11月
◯横浜グランゲート2020年(令和2年)
7月 3

第994話【一枚の絵葉書】橋に書かれたアルファベット

#前田橋 #堀川 #絵葉書
近年、絵葉書が風景史料として注目されています。そこに写された風景が、発行者の意図を越えて、新しい発見があるからです。 ここに描かれている風景は 堀川に架かる三代目「前田橋」の関内側から撮影されたものです。
投函されたのは1905年(明治38年)日露戦争末期、東京の軍兵舎から日頃世話になっている郷里の友人及び家族に送られたものと推察しました。
日露戦争は奇跡的に勝利したものの戦費枯渇の中、両国は収束点を求めつつ、水面下で外交交渉が進められているころです。
時代背景はさて置き、この絵葉書を拡大してみると、橋のたもとのところに<英字>で何か書かれていることに気が付きました。上流側には前田橋の銘板のヨコに「C HAL…」と書かれています。
一方下流側には 人物がかぶって一部しか見えませんが、メッセージが書かれています。この時期はまだ手彩色の時代ですので、色彩が正しく当時の色合いを表現しているかどうか不確かですが、文字に関しては地となるモノクロ写真に写り込んでいたものでしょう。
欧文表記ですので、外国人向けのメッセージと思われます。もしこれが広告としたら驚きです。橋を使った広告が明治期普通に展開していたということです。
前田橋は、居留地を出島化するために堀川が開削され1860年(万延元年)に架橋されました。明治維新後の1871年(明治4年)、居留地からの要求に応じて拡幅工事を行うことに伴い、新しく架橋(二代目)されました。さらに1890年(明治23年)に鉄の橋(三代目)に架け替えられます。
この絵葉書に映っている前田橋はこの三代目鉄の橋です。
その後関東大震災で消失し、震災復興橋(四代目)として新しく架けられ、1983年(昭和58年)に五代目が架けられました。
前田橋の歴史 とりまとめ
<初代>
1860年(万延元年) 堀川開削と同時に谷戸橋、西之橋併せて三つの橋を架橋。
<2代目>
1871年(明治4年)
明治14年迅速図
※1889年(明治22年)に電話の一般供用開始
 上掲風景は元町にまだ電柱が無かった時代のものです。
 2代目前田橋の欄干は写真の通りだったと推測できます。
<3代目>
1890年(明治23年)
前田橋の上にケーブルが架かっています。元町の電信ニーズが高まった証ではないでしょうか。 ***関東大震災で崩落***
<4代目>
1927年(昭和2年)8月5日震災復興橋として竣工
幅 6.00m
長さ34.2m
※肘木式鋼板桁橋
4代目の写真を探しているところです。
<5代目>
1983年(昭和58年)架替
幅 13.8m
長さ30.9m
上記写真にある橋の両岸には手のこんだレリーフがはめ込まれています。絵柄は謎の<珍獣>です。さてそれは何か?実際に行かれてはどうでしょう。 (結論)タイトルに掲げた「前田橋」のアルファベットは何も謎解きできていません。今後の謎解きテーマに加えることにします。しばしご容赦ください。
3月 18

第993話【一枚の絵葉書】根岸療養院

根岸療養院
前回は中村石川にあった「横浜市中央教材園」の絵葉書から導き出された風景を紹介しました。今回も前回と同様の「一枚の絵葉書」から横浜史の一風景を読み解いていきたいと思います。
この【一枚の絵葉書】シリーズは、手元の絵葉書から、そこに写し出されている風景を読み解きながら関連情報を探っていきます。
基本読み物としては鬱陶しくなってしまいますが、ご辛抱ください。
1000話までこんな感じです。
前回は 第992話 リケ児育成のために(修正追記)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=12622
今回の一枚は「根岸療養院(山海館)」
第一印象はタイトル通り根岸の病院か結核療養施設の風景のようです。
Google検索でいくつか関連データが見つかりました。
「中区史」の地域編のなかで明治期の根岸開発の模様を伝えた記事がヒットしました。
中区史根岸療養院記述
「さらに四十五年七月には五坪(一六、五平方メートル)の家屋を改造した病室を持った根岸療養院が二、一四九番地に建てられたことである。」とあり<所在地>と<設立年>が判明しました。 1912年(明治45年)開設
場所は根岸村2,149番地
これをヒントに開設場所を地図で探ってみました。
手元にある地図では明治45年(大正元年)近くのものが無く、少し時間の経った大正12年、震災前発行の地図から「根岸療養院」の場所を探してみました。
大正12年4月根岸
遡って明治14年の迅速図、昭和に入った根岸周辺地図でもあたってみました。
明治14年根岸
昭和4年根岸
本牧・根岸は戦後海岸線が埋め立てによって大きく変貌しましたが、当時の「根岸療養院」からは眼下に海が広がっていた事でしょう。 ではこの療養院はいつまで存続したのか?Google検索から
大正12年の関東大震災における「横浜・神奈川での救援・救済対応」という震災資料がヒット。
「神奈川県庁は、9月2日、桜木町の海外渡航検査所に救護(治療)本部を置き、傷病者の治療を開始した。3日、同所に県庁仮事務所を置き、高島町の社会館内に傷病者の収容所を設けた。社会館は県庁が震災の2年前に開設した労働者のための宿泊施設である。既に述べたように、同日、衛生課長の下に救護(救療)、衛生材料調達、死体処理などの係を設けて衛生課職員を配置した。医師、看護婦は、横浜市の十全病院、根岸療養院より借り入れ、また、臨時の募集を行って不足を補い、救護本部や社会館内の収容所に配置した。」(中略)「根岸療養院は個人の経営する結核患者の療養所だったが、震災以後、結核患者を郷里に戻し、9月8日から30日までの間、一般傷病者の収容を行った。受診患者数(延べ)は入院1,803人、外来4,299人であった(『神奈川県震災衛生誌』)。10月以後、日本赤十字社に療養院の建物と器具、職員が無料で提供されて、同神奈川県支部の臨時根岸病院となった。
と記載されていました。日本赤十字社と関係があったことが伺えます。
日赤の資料も探ってみると
1924年(大正13年)結核専門の療養施設である根岸療院を開設。とありました。これだけでは根岸療院=「根岸療養院」なのかまだ確定しませんが、この「日赤根岸療院」が源流となったのが昭和21年に改称された「横浜赤十字病院」です。
そして現在の「横浜市立みなと赤十字病院」につながります。
横浜市立図書館のオープンデータに
1917年(大正6年)発行の横浜社会辞彙という当時の紳士録に近い資料がありその中に「根岸療養院」について記載された概要を下記にまとめました。横浜社会辞彙「根岸療養院」項目に院長の名がありませんでしたが、個人名から創設者が<大村民蔵>ということがわかりました。 院長 大村民蔵
根岸2194番地
電話2411番
敷地 2500坪 全9棟 延べ床 525坪
 個人病室 30室
 共同使用病室 8室
全体で凡そ100名の患者を収容。
1912年(明治45年)7月18日 根岸に開設
1913年(大正2年)7月春心館を建築
1915年(大正4年)7月山海館(2階建て)
8月 静温館
10月 浴室等完成
日運館・赤心館
(庭園)松林・梅林・菊園・ダリア
この時点で、図書館DBで他の資料が無いか確認した所
創設者である大村民蔵氏の資料(自伝)がありましたので 創設者大村氏を追いかけてみました。
膨大な自叙伝ですのでプロフィールの一部分だけ紹介します。 大村民蔵
山口県防府市 出身
1869年(明治2年)11月22日
大村茂兵衛の四男として生まれ
17歳のときに故郷から横須賀に移り、役場に勤めた後、鉄道局駅吏として横浜駅(現桜木町駅)に勤務しますが、初心を貫き東京に出て「済生学舎」に学び医師資格を目指します。
1897年(明治30年)12月医術開業試験に合格し医師の道を歩み東京荏原(品川)の病院に勤務します。
※「済生学舎」1876年(明治9年)長谷川泰により設立された医師を目指すための医師免許専門の学校でした。
 野口英世・吉岡弥生・荻野吟子らがここで学び、医師の道をめざしました。
1898年(明治31年)に佐野常民より「日本赤十字社社員」の辞令を受け、これが現在に続く横浜との因縁の一つとなります。
横浜との関係は、東京時代に警視庁警察医務の嘱託となったことで
1900年(明治33年)に神奈川県監獄医務所長の辞令を受け根岸にある監獄署官舎に引っ越したことに始まります。
翌年34年には現職のまま研鑽のため北里柴三郎に就き伝染病学を学ぶことになり、これがキッカケで北里人脈が広がります。
1902年(明治35年)に根岸町871番に診療所を開き亡くなるまで横浜市内で医師として活躍することに。
1924年(大正13年)3月31日
「根岸療養院を、日本赤十字社神奈川支部に結核予防と治療を継続する条件にて譲渡し、根岸療院と改名す。
→ここで前述の 根岸療院=「根岸療養院」 が確定しました。
大村民蔵氏はその後も日赤と深く関わることになり、戦後は地域の医者として94歳まで診療に携わり
1969年(昭和44年)12月101歳で亡くなります。 根岸療養院を支えた多くの医師の中でも初期の二人。
医学博士 守屋 伍造
医学博士 古賀玄三郎

 ともに伝染病研究所で所長だった北里柴三郎の門下生でここ「根岸療養院」との関わりだけでもさらに深い物語が登場します。
志賀潔、浅川範彦、そして守屋 伍造の三名が部長として片腕となり、ここに助手として入所したのが野口英世でした。
■古賀玄三郎は
1879年(明治12年)10月20日生まれ〜1920年(大正9年)
佐賀県三養基郡里村(現:鳥栖市)出身。
1899年(明治32年)長崎第五高等学校医学部卒
上京し、東京市築地林病院(築地五丁目)医員となる
1901年(明治34年)岩手県盛岡市立盛岡病院外科部長。
1910年(明治43年)京都帝国大学医学部に入学、特発脱疽の研究(「チアノクプロール」(シアン化銅剤)の開発)、治療法で博士号。
→当時古賀玄三郎博士によって開発された注射液「チアノクプロール」を1915年(大正4年)7月15日に初めて試みたのが有島安子で作家有島武郎の妻だという記載資料がありました。ここでも横浜と繋がります。
1920年(大正9年)
10月17日大連市(中国東北部)で開催された満州結核予防会 発足にあたり記念講演後、
10月18日大連駅で倒れ、21日に亡くなります(41歳)。
大村民蔵氏は師の北里柴三郎はもとより、福沢諭吉とも関係があったようです。
中でも北里柴三郎は1927年(昭和2年)横浜の絹織物商・椎野正兵衛商店の長女・婦美子と再婚しています。
成功名鑑飯島栄太郎
追いかければキリがないくらい様々なつながりが出てきますが
ここでは最後に 横浜の財界人であった飯島栄太郎氏を紹介しておきます。
「横濱成功名誉鑑」にも登場する飯島栄太郎は境町(現日本大通り)「近栄洋物店」のオーナーとして、創業者であった飯島栄助を継ぎ家業の外国人向けの雑貨店を発展させます。創業者の栄助は近江彦根の出身、幕末期京阪、江戸(東京)を放浪の末、明治3年に元町で業を起こし成功します。明治9年に境町2丁目に移転、西洋雑貨取引で財を成し、
明治31年 息子飯島栄太郎に譲り、栄助は予てより取得していた根岸の別荘に<隠居>
明治38年12月に亡くなります。
飯島栄太郎は、家業の雑貨商だけではな無く、アメリカに留学または滞在し、日本に帰国したのち政界・経済界で活躍した人々が集まり、交友を深め便益をはかることを目的に、明治31(1898)年に設立された米友協会の会員として活躍します。
微妙な日米関係となった白船来航時には、国を挙げて米国艦隊を迎える中、大谷嘉兵衛、野村洋三、浅野総一郎や左右田金作とともに歓迎の晩餐会を開催、日米関係の融和に努めました。
【横浜絵葉書】弁天橋の日米国旗
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7201
彼の表した『米国渡航案内』は明治期の渡米ガイドとして大ベストセラーとなります。
 さらには飯島栄太郎の妻・飯島かね子もまた津田梅子に学び「帝國婦人技藝協會」を創立した傑女でした。 またまた遠回りになりましたが、
飯島栄太郎の父、「近栄洋物店」の創設者 栄助が隠居した根岸の別荘が栄助死後、空き家になっていた関係から
友人だった 大村民蔵のサナトリウム計画に協力し、別荘と敷地を譲渡することになりました。 ネット検索の過程で
「根岸小学校は全国でも最も早い時期に学校医の制度を導入したことで知られる。校医は日赤の実質的創設者でこの地で長年結核の治療にあたった大村民蔵氏」とあり、検証してみました。
学校医は明治期から法律的に導入されている制度で
「1894(明治27)年5月に東京市麹町区,同年7月に神戸市内の小学校に学校医が置かれたのが日本における学校医の始まり」であり、大村民蔵氏が根岸小学校の校医を拝命したのが1903年(明治36年)のことでした。また日赤の実質的創設者というのもおそらく間違いです。
「根岸療養院」は神奈川県内の日赤病院草分け的存在といえるでしょう。
という感じですか。
後から発見した別の全景がわかる根岸療養院はがき。
一枚の絵葉書の風景から様々な関係が見えてきました。
大村民蔵は近くにあった「根岸競馬場」とも関係があり、競馬に関するエピソードも満載です。
まだまだ人・場所・出来事との興味ある繋がりがありますが、
今回はここまでにしておきます。
2月 25

第992話 リケ児育成のために(修正追記)

<絵葉書の風景>
一枚の絵葉書風景を読み解きます。
タイトルは「横浜市中央教材園」です。
高台にあるこの施設はタイトルが示すとおり「中央教材園」の温室と関連施設と思われます。
設置されている場所は現在の「石川小学校」の隣接地で、敷地内の北側に位置した場所に「温室」と「植物栽培用の耕地」がありその一部です。
写真の右端に見える大きな建物は、天正5年(1577)に創建した「玉泉寺」と思われます。
当初明治五年に開山した浄光寺と判断しましたが、ご指摘を受け当時の地図と角度を合わせ、異なることを確認しました。
石川小の前を通る坂は坂は「遊行寺坂」と呼ばれこの近くに生まれた作家の吉川英治も歩いた坂です。
遠景は中村町一・二丁目が眼下に見え、遠くには関外(吉田新田)エリアが広がっているのがわかります。隣接する浄光寺は時宗総本山「遊行寺」 藤沢清浄光寺と同じ<時宗>のお寺です。

玉泉寺と中村川
※大慈山瑠璃院玉泉寺
天正5年(1577)に創建
高野山真言宗
横浜市南区中村町1-6-1
関東大震災で全て消失。
昭和6年202坪の本堂が竣工。 写真に写っている本堂は昭和6年に竣工したものと思われます。
撮影時期が少し絞り込まれました。
[教育施設の基本]
絵葉書の「横浜市中央教材園」とは何なのか、少し資料を追いかけてみました。
一昔前まで、進学時には<理系><文系>という分岐点がありました。未だ色濃く文系・理系の区別がされていますが最近では統合型の教育もかなり導入されるようになってきました。
そもそも文理の分離!?
は高校あたりの<数学>との付き合い方で変わってきます。
数学に通じたリケ女がクローズアップされてこうネーミングされると理系が少し”近くなる”と感じるのは文系おじさん現象でしょうか。 冗談はともかく、教育、特に自然科学系には教室と教師だけではなく実験室や教材の準備他 様々な設備を必要とします。
戦前の初等教育でも自然科学系教育の設備投資は厳しかったのかもしれません。いつの時代も必要性を説いた先人が新しいジャンルを切り開いてきました。
下記の文面は大正15年に発表された「中央教材園の必要」と題されたものです。
ここでは
理系児童の育成プログラムとして教育用の植物教材を提供するための「植物園」開設が説かれています。 「市民をして特に自然科学の一般に習熟せしめようとするいわゆる自然研究の第一歩は小学校における博物教育の実績いかんにかかる。それにはまず生徒をして十分博物(ここでは特に植物に関する方法を指す)の知識を授ける手段として実物に日夕親しませる必要がある。このためには本来ならば各学校に植物園、植物見本園、栽培園のごときものを併置するのが最も有数であるが しかしこれはいうべくして行われる程度でない。殊に狭い都市の中には小学校の校庭を占めるさえかろうじてできるくらいなのにどうしてそれ以上贅沢な圃場までとることができよう。」ということで、各小学校に<教材>をおくるための施設「教材園」が必要だ!と説いています。
「この種の計画には相当広い面積を必要」
「相当経験のある技術者」を揃えれば各学校に必要な植物教材(苗木・種子・切り花)を配布できる。ということで、この資料には 小学校教材になりうる植物の一覧が紹介されています。一部を紹介しましょう。 リストでは「栽培容易」「栽培困難」に分類されていて、
パインアップル、マニラ麻、コーヒー、オリーブ、マングローブ、ユーカリ、やし 等
熱帯地域の植物もリスト化されていました。
そこで「温室」が必要となったのでしょう。
現在ではごく普通の「温室」(ビニルハウス)風景ですが、温室装置設置は戦前、丈夫なビニールなど無く板ガラス、強度を保つ枠など当時の最先端技術を必要としました。
横浜市は全国に先駆けて自然科学教育教材用の植物を育成する温室をここ「石川小学校」に隣接した高台の一角に「横浜市中央教材園」を昭和4年に開設します。
昭和7年ごろの石川小学校付近。教材園は南東に隣接したところに開園。
徹底調査していませんが、絵葉書に写された「横浜市中央教材園」は別の資料にも日本で唯一という表記があり、当時はかなり珍しかった施設と思われます。
この「横浜市中央教材園」
横浜市南区中村町1丁目66番地
に設置されていました。
中央教材園に関して簡潔にまとまった沿革が「横浜市学校沿革誌」にありましたので紹介します。
「石川小学校わきの山谷埋立地を昭和2年7月より整地開墾し、昭和4年4月27日、石川小学校の校舎落成式と同時に開園式を行い、1,250坪の教材園を開園した。
当時は植物教材の配布、温室による観察等に機能を発揮していたが、昭和19年8月以降は戦争が激しくなったので、農業指導所(経済局所管)になり、温室も取り払われて食料増産園となった。
昭和26年6月に至り再開されることになり、運営委員会も組織され温室も再建され、花壇、薬草園、蜜蜂園等も年を追って充実を重ねて観察用、研究用、又は教材の配布に活動している。
また、中央教材園の活動を地域的にたすけるため、大鳥小、鶴ヶ峰小、本郷小、金沢中、杉田小、潮田中、六角橋中、富士見台小、市立商業高、谷本中、谷本小に分園が置かれている。
連合協力園として間門小、根岸中、浜小、杉田小、文庫小、市沢小、新治小がある。
昭和50年2月、南区六ツ川所在の都市公園に設置を進めている「こども植物園(仮称)」内に移転した。(横浜市学校沿革誌)」
まとめると
 昭和2年に準備が始まり
 昭和3年に完成、翌年昭和4年新学期に隣接している石川小学校校舎新築と一緒に開園式を行い
 昭和19年に閉鎖
 戦後昭和26年に再開され昭和50年に南区六ツ川「こども植物園」内に移転
戦後の復活した後の施設レイアウトです。地図にあわせて北を上に向け画像を回転させました。
昭和27年ごろ、教材園の表記は無く更地のようにも見えます。
[設置目的]
 当時の教育課長であった中川直亮の話によると
 「理科教育の基本である観察・実験・実習・直感の育成過程において、
 教材はできるだけ実物を見せなければならない。」

 ※特に都市部の教育には本物が求められる。
 「直接実物に接しさせることによって、自然の理をわきまえ、自然の美を感得することになる。」
  と語っています。
[運 営]
 そこで、この「横浜市中央教材園」が 市内初等教育における
理科学習教材供給センターとしての役割を担いました。
当時の記録では、季節季節の植物教材がまとめて栽培され、市内各校の自転車・リヤカー等を使って配布し、配布した植物の栽培育成方法を技術指導に赴いていたそうです。
開園から2年たった昭和6年にはさらに規模を拡大し、六角橋に分園(専用農園)を開き、養蚕実験も開始します。養蚕に必要な桑葉は小机から運んだそうです。
見学に来た子どもたちの人気は養蚕風景・バナナ・パイナップルなどの熱帯植物だったそうです。
養蚕風景。本文とは直接関係がありません。
戦後、教材園を見学する子どもたち。
「横浜市中央教材園」
基本的に北斜面という恵まれない条件でした。植物育成には南斜面が必要ですがなぜここに「教材園」設置が決まったのか、これに関する資料には出会っていません。
理由を考えた時、この中央教材園が設置された石川小学校の歴史が古く、学校経営とも深く関係があったと想像しています。
<石川小学校>
1872年(明治5年)「養賢学舎」として「玉泉寺」境内に設立した古い歴史を持っています。明治33年には児童数約1,300人を抱え、学区は石川町、石川仲町、中村町でした。
植物園は独立組織でしたが温室管理には学校の協力が欠かせません。当時の校長であった荒波階三以下教師陣による積極的姿勢が関係していたかもしれません。校長を勤めた荒波階三は平沼小学校の訓導(教諭)から大正13年11月に就任、新校舎造営に関わり昭和3年10月の新校舎落成後、平沼小学校長に転任しています。その後「青木国民学校長」を戦後まで勤め昭和21年の三ツ沢小学校への統合を終え退職しています。
もう一つ、ここに温室のある植物園が設置された理由と思われる要素がありました。
この石川小学校近くには明治期から国際的な植物ビジネスを手がけてきた「横浜植木」があります。
横浜植木
https://www.yokohamaueki.co.jp
明治期に創業、いち早く世界の植物サンプルを集め、米国にも支店を出すなど、当時の日本園芸、植木業界のリーディングカンパニーとしての業績を今に残しています。間接的かもしれませんが、横浜植木の技術的支援を受けた可能性は高いと思います。 [その後]
横浜市こども植物園
■沿革
・横浜市こども植物園の前身は昭和30年に世界的な植物遺伝学者、木原均博士が財団法人木原生物学研究所を、京都市郊外の物集女(もずめ)から移転してきたところから始まる。
横浜市はその一部を昭和45年3月、公園用地として買収し、当初は横浜市教育委員会が、児童、生徒の理科学習や教職員の野外研修所「子供自然教育園」として使用し、その後、教育委員会の中央教材園分園として活用していた。昭和49年に教育委員会から緑政局へ管理移転されて、公園整備工事に着工し、昭和51年度都市緑化植物園として都市計画決定を得て整備を続けた。
昭和54年6月23日国際児童年を記念し、世界で唯一、「こども」と名のつく植物園として開園した。
目的
 ①横浜市こども植物園は、一般の都市公園とは異なり、植物を題材とした自然史博物館的施設として、多くの種類の植物を収集・保存、育成・展示し、利用者に観賞してもらうことを目的としている。
 ②植物をとおして、自然に親しむことにより、子供が植物に関する知識を深め、緑を守り・育てる心を育むことを目的としている。
 ③機能的には植物研究型やレクレーション型の植物園ではなく、主に子供を対象に普及啓発的活動をとおして教育する指導型の植物園である。
[概要]
果物園(木原博士のコレクションが元になっている200年以上存続した品種の保全接ぎ木等)
花木園(教材園の頃からあった樹木を中心に、生活や文化との関わりの深い代表的な種で、話題性のあるものを選んで植栽している)
薬草(身近な薬草をはじめ、染料、香料、工芸、油料植物等、生活に利用する植物や、役立つ植物を植栽展示)
生垣園(生垣として用いられる代表的樹種28種をあつめ、植栽展示)
シダ園(日陰地を利用し、約50種を植栽展示)
タケ園(生活に深い関わりのあるタケの仲間をタケ、ササ、バンブー類に大きく3つに分類し、30種を植栽展示)
その他:市内に自生する野草約150種を使って、ロックガーデン風展示。市内の海岸から平地・山地まで自生する野草という観点で植栽している。
温室群・管理圃場・実習圃場・池(水生植物見本園)
現時点ではここまで、
なにか新資料に出会ったら、さらに追いかけてみたいと思います。 石川小学校
http://www.edu.city.yokohama.jp/sch/es/ishikawa/ No.225 8月12日 (日)太夫 打越に死す
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=382
2月 14

第991話 【横浜の階段】百段坂

<階段>の視点で横浜を紹介します。
横浜の階段、第一弾は元町百段坂です。
ここは下記のブログで紹介しました。
【横浜の風景】元町百段坂を数えてみた!
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9211
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9901
今回は視点を変えて 私の手元にある資料から年代順に並べてみよう!
という単純テーマです。(少々手抜きですが)
元町百段は
明治初期の百段坂。電柱がありません。
上の写真を拡大
初代木製の前田橋、人家の壁の<シミ>が良くわかります。
「厳島神社の末社で、かつては旧横浜村の海辺にあった浅間神社は、1859年の横浜港開港後の開港場整備に伴い住民が元町に移った1860年(万延元年)に、山手の丘の上に移された。その際に、運上所御用船の船頭である勘次郎が、元町の前田橋の先から浅間神社にまっすぐ登る石段を寄進した。石段は101段あったことから、「百段坂」や「元町百段」と呼ばれ親しまれた。丘の上には浅間神社の祠のほか、港を一望できる見晴台や茶屋が設けられ、多くの日本人や居留外国人が訪れた。
1923年9月1日に発生した関東大震災で石段は崩落し、丘の下の数十軒の家屋を押しつぶし多くの犠牲者を出した。その後石段が再建されることはなかった。元町百段を偲ぶものとして、1987年に浅間神社跡に元町百段公園が開園。1991年に元町商店街に完成した商業ビルは「百段館」と名付けられた。」
「この地は、横浜の開港時から大正期にかけて、浅間山の見晴台と呼ばれ、たいへん眺望のよいところでした。右の写真は、当時前田橋から「元町の百段」を撮影した貴重なものです。元町二丁目から急な石段が百一段あったのですが、市民は「百段」と呼んで親しんだものです。この場所には、元町の鎮守厳島神社の末社の「浅間神社」が祭られ、小さな茶屋があり、外人の観光客もよくここを訪れています。浅間神社は、もと横浜村にありましたが、万延元年(一八六〇年)に横浜の村人が元町へ立ち退いたとき、いっしょに移されました。昔は、ここから港の出船入船や関内地区が手に取るように見え、遠く神奈川宿の旅篭や茶屋までが見渡せました。この公園は、関東大震災で崩れて、今はない「百段」の歴史をここにとどめるように造られたものです。」

百段坂 碑文
碑文に使われている横浜絵葉書
百段坂から開港場を眺めた風景
「浅間坂の所謂百一段は、坂上の雨森家と共に有名なものであったが、地所約三十坪諸共顚落して、その眞下の二丁目百九十七番地より三丁目百三十二番地までの数十軒の家屋が埋没され、全滅に近き程度の死者を出した」

(横浜震災誌)
百段坂下に電力用の柱が建てられた頃。
上より少し後の百段坂。電力利用加入者が増えています。
電信用の柱が建ち、碍子数が30数えることができます。
文面に明治38年7月21日とあります。服装から季節感もほぼ一致しているようです。
電信用架線が橋を越え、中華街側に伸びています。大正初期と推定できます。
電信柱から伸びる専用架線
ではコレクションの範囲内ですが、年代順に並べてみました。年代推定の根拠は<電柱>です。
ミニネタ番外編】横浜電信柱探索(加筆)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5311 現在、元町百段の面影を探すことはできません。この場所を写した風景写真(絵葉書等)はかなりの数ありますので、当時の観光名所としても人気のある場所であったことは間違いないようです。
2月 12

【閑話休題】

第990話 近代・ミシン・横浜
を三回に分けて書きましたが、結果消化不良になってしまいました。
この事件は、偶然書店で購入した「ミシンと日本の近代」の中で横浜中央店を舞台にした労働争議の模様が実に詳しく書かれていたので、簡単に紹介してみようと思い立ちました。
「シンガーミシン争議」は横浜市史に書かれていたので概要は知っていましたが、
歴史や市場背景に関しては追いかけていませんでした。
なぜ”ミシン”で乱闘事件が起こったのか?
詳しくは「ミシンと日本の近代」を!
「ミシンと日本の近代」
ミシンは日本の近代化を考える上でとても興味深い道具です。欧米より日本の近代化におけるミシンの存在は大きいでしょう。<和服>から<洋服>へ そして近代軍隊への転換にミシンは重要な役割を担ってきました。
確かに軍服という近代の象徴はうなづけます。ここに日清・日露戦争による未亡人・女性の自立があったり、女性の総合教育の機能を担ってきた背景があります。
一方で企業のグローバリズム化による初期資本主義の弊害をここにみることができます。 横浜を素材に日本の近代化(異文化の受容)を考えてみたい。
これが現在の私のテーマです。
異なったこと、違うモノを受け入れる際の「受容と拒否」が近代化の日常でした。異なったことを<新しいこと>に置き換え、新しいことは<良いこと>という物語を維持しながら、日本は比較的スムースに近代化の道筋を歩んできたように思います。
開港開国以降、明治維新を経て、日本の近代化はある意味”節操の無い”程の積極的受容を試みます。歴史家の中では「不平等条約」を撤廃するための受容だった、と分析している方もおります。
異文化導入をテコに、武士政権から天皇を軸にした立憲君主的な政治構造への変革を遂げるには近代化の需要は必須だったのかもしれません。
日本人はアジアの中で早く近代化の道を歩み始めます。時期的にも 受容の速度としても早かったことは事実です。 横浜の明治から大正期の人通りから 横浜でも圧倒的に女性は和服だということが分かります。
当時の服装を絵葉書から眺めてみます。
伊勢佐木、花見煎餅、玩具の満利屋、ガス灯が見える。人々はほぼ和装。自転車も普及。
伊勢佐木町界隈の風景。ハットをかぶる男性、傘をさす和装女性、和装の従業員、自転車に乗る白服男子
野毛の風景。車夫以外は和装。右側は最近閉店した醍醐三河屋茶店
大正末期の風景、母親は和装、子供は洋服(制服か)
明治期の子供たち。
大正初期の風俗絵。尻にひかれている子供を背負う洋服の夫と和装の女性。