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第993話【一枚の絵葉書】根岸療養院

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根岸療養院
前回は中村石川にあった「横浜市中央教材園」の絵葉書から導き出された風景を紹介しました。今回も前回と同様の「一枚の絵葉書」から横浜史の一風景を読み解いていきたいと思います。
この【一枚の絵葉書】シリーズは、手元の絵葉書から、そこに写し出されている風景を読み解きながら関連情報を探っていきます。
基本読み物としては鬱陶しくなってしまいますが、ご辛抱ください。
1000話までこんな感じです。
前回は 第992話 リケ児育成のために(修正追記)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=12622
今回の一枚は「根岸療養院(山海館)」
第一印象はタイトル通り根岸の病院か結核療養施設の風景のようです。
Google検索でいくつか関連データが見つかりました。
「中区史」の地域編のなかで明治期の根岸開発の模様を伝えた記事がヒットしました。
中区史根岸療養院記述
「さらに四十五年七月には五坪(一六、五平方メートル)の家屋を改造した病室を持った根岸療養院が二、一四九番地に建てられたことである。」とあり<所在地>と<設立年>が判明しました。 1912年(明治45年)開設
場所は根岸村2,149番地
これをヒントに開設場所を地図で探ってみました。
手元にある地図では明治45年(大正元年)近くのものが無く、少し時間の経った大正12年、震災前発行の地図から「根岸療養院」の場所を探してみました。
大正12年4月根岸
遡って明治14年の迅速図、昭和に入った根岸周辺地図でもあたってみました。
明治14年根岸
昭和4年根岸
本牧・根岸は戦後海岸線が埋め立てによって大きく変貌しましたが、当時の「根岸療養院」からは眼下に海が広がっていた事でしょう。 ではこの療養院はいつまで存続したのか?Google検索から
大正12年の関東大震災における「横浜・神奈川での救援・救済対応」という震災資料がヒット。
「神奈川県庁は、9月2日、桜木町の海外渡航検査所に救護(治療)本部を置き、傷病者の治療を開始した。3日、同所に県庁仮事務所を置き、高島町の社会館内に傷病者の収容所を設けた。社会館は県庁が震災の2年前に開設した労働者のための宿泊施設である。既に述べたように、同日、衛生課長の下に救護(救療)、衛生材料調達、死体処理などの係を設けて衛生課職員を配置した。医師、看護婦は、横浜市の十全病院、根岸療養院より借り入れ、また、臨時の募集を行って不足を補い、救護本部や社会館内の収容所に配置した。」(中略)「根岸療養院は個人の経営する結核患者の療養所だったが、震災以後、結核患者を郷里に戻し、9月8日から30日までの間、一般傷病者の収容を行った。受診患者数(延べ)は入院1,803人、外来4,299人であった(『神奈川県震災衛生誌』)。10月以後、日本赤十字社に療養院の建物と器具、職員が無料で提供されて、同神奈川県支部の臨時根岸病院となった。
と記載されていました。日本赤十字社と関係があったことが伺えます。
日赤の資料も探ってみると
1924年(大正13年)結核専門の療養施設である根岸療院を開設。とありました。これだけでは根岸療院=「根岸療養院」なのかまだ確定しませんが、この「日赤根岸療院」が源流となったのが昭和21年に改称された「横浜赤十字病院」です。
そして現在の「横浜市立みなと赤十字病院」につながります。
横浜市立図書館のオープンデータに
1917年(大正6年)発行の横浜社会辞彙という当時の紳士録に近い資料がありその中に「根岸療養院」について記載された概要を下記にまとめました。横浜社会辞彙「根岸療養院」項目に院長の名がありませんでしたが、個人名から創設者が<大村民蔵>ということがわかりました。 院長 大村民蔵
根岸2194番地
電話2411番
敷地 2500坪 全9棟 延べ床 525坪
 個人病室 30室
 共同使用病室 8室
全体で凡そ100名の患者を収容。
1912年(明治45年)7月18日 根岸に開設
1913年(大正2年)7月春心館を建築
1915年(大正4年)7月山海館(2階建て)
8月 静温館
10月 浴室等完成
日運館・赤心館
(庭園)松林・梅林・菊園・ダリア
この時点で、図書館DBで他の資料が無いか確認した所
創設者である大村民蔵氏の資料(自伝)がありましたので 創設者大村氏を追いかけてみました。
膨大な自叙伝ですのでプロフィールの一部分だけ紹介します。 大村民蔵
山口県防府市 出身
1869年(明治2年)11月22日
大村茂兵衛の四男として生まれ
17歳のときに故郷から横須賀に移り、役場に勤めた後、鉄道局駅吏として横浜駅(現桜木町駅)に勤務しますが、初心を貫き東京に出て「済生学舎」に学び医師資格を目指します。
1897年(明治30年)12月医術開業試験に合格し医師の道を歩み東京荏原(品川)の病院に勤務します。
※「済生学舎」1876年(明治9年)長谷川泰により設立された医師を目指すための医師免許専門の学校でした。
 野口英世・吉岡弥生・荻野吟子らがここで学び、医師の道をめざしました。
1898年(明治31年)に佐野常民より「日本赤十字社社員」の辞令を受け、これが現在に続く横浜との因縁の一つとなります。
横浜との関係は、東京時代に警視庁警察医務の嘱託となったことで
1900年(明治33年)に神奈川県監獄医務所長の辞令を受け根岸にある監獄署官舎に引っ越したことに始まります。
翌年34年には現職のまま研鑽のため北里柴三郎に就き伝染病学を学ぶことになり、これがキッカケで北里人脈が広がります。
1902年(明治35年)に根岸町871番に診療所を開き亡くなるまで横浜市内で医師として活躍することに。
1924年(大正13年)3月31日
「根岸療養院を、日本赤十字社神奈川支部に結核予防と治療を継続する条件にて譲渡し、根岸療院と改名す。
→ここで前述の 根岸療院=「根岸療養院」 が確定しました。
大村民蔵氏はその後も日赤と深く関わることになり、戦後は地域の医者として94歳まで診療に携わり
1969年(昭和44年)12月101歳で亡くなります。 根岸療養院を支えた多くの医師の中でも初期の二人。
医学博士 守屋 伍造
医学博士 古賀玄三郎

 ともに伝染病研究所で所長だった北里柴三郎の門下生でここ「根岸療養院」との関わりだけでもさらに深い物語が登場します。
志賀潔、浅川範彦、そして守屋 伍造の三名が部長として片腕となり、ここに助手として入所したのが野口英世でした。
■古賀玄三郎は
1879年(明治12年)10月20日生まれ〜1920年(大正9年)
佐賀県三養基郡里村(現:鳥栖市)出身。
1899年(明治32年)長崎第五高等学校医学部卒
上京し、東京市築地林病院(築地五丁目)医員となる
1901年(明治34年)岩手県盛岡市立盛岡病院外科部長。
1910年(明治43年)京都帝国大学医学部に入学、特発脱疽の研究(「チアノクプロール」(シアン化銅剤)の開発)、治療法で博士号。
→当時古賀玄三郎博士によって開発された注射液「チアノクプロール」を1915年(大正4年)7月15日に初めて試みたのが有島安子で作家有島武郎の妻だという記載資料がありました。ここでも横浜と繋がります。
1920年(大正9年)
10月17日大連市(中国東北部)で開催された満州結核予防会 発足にあたり記念講演後、
10月18日大連駅で倒れ、21日に亡くなります(41歳)。
大村民蔵氏は師の北里柴三郎はもとより、福沢諭吉とも関係があったようです。
中でも北里柴三郎は1927年(昭和2年)横浜の絹織物商・椎野正兵衛商店の長女・婦美子と再婚しています。
成功名鑑飯島栄太郎
追いかければキリがないくらい様々なつながりが出てきますが
ここでは最後に 横浜の財界人であった飯島栄太郎氏を紹介しておきます。
「横濱成功名誉鑑」にも登場する飯島栄太郎は境町(現日本大通り)「近栄洋物店」のオーナーとして、創業者であった飯島栄助を継ぎ家業の外国人向けの雑貨店を発展させます。創業者の栄助は近江彦根の出身、幕末期京阪、江戸(東京)を放浪の末、明治3年に元町で業を起こし成功します。明治9年に境町2丁目に移転、西洋雑貨取引で財を成し、
明治31年 息子飯島栄太郎に譲り、栄助は予てより取得していた根岸の別荘に<隠居>
明治38年12月に亡くなります。
飯島栄太郎は、家業の雑貨商だけではな無く、アメリカに留学または滞在し、日本に帰国したのち政界・経済界で活躍した人々が集まり、交友を深め便益をはかることを目的に、明治31(1898)年に設立された米友協会の会員として活躍します。
微妙な日米関係となった白船来航時には、国を挙げて米国艦隊を迎える中、大谷嘉兵衛、野村洋三、浅野総一郎や左右田金作とともに歓迎の晩餐会を開催、日米関係の融和に努めました。
【横浜絵葉書】弁天橋の日米国旗
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7201
彼の表した『米国渡航案内』は明治期の渡米ガイドとして大ベストセラーとなります。
 さらには飯島栄太郎の妻・飯島かね子もまた津田梅子に学び「帝國婦人技藝協會」を創立した傑女でした。 またまた遠回りになりましたが、
飯島栄太郎の父、「近栄洋物店」の創設者 栄助が隠居した根岸の別荘が栄助死後、空き家になっていた関係から
友人だった 大村民蔵のサナトリウム計画に協力し、別荘と敷地を譲渡することになりました。 ネット検索の過程で
「根岸小学校は全国でも最も早い時期に学校医の制度を導入したことで知られる。校医は日赤の実質的創設者でこの地で長年結核の治療にあたった大村民蔵氏」とあり、検証してみました。
学校医は明治期から法律的に導入されている制度で
「1894(明治27)年5月に東京市麹町区,同年7月に神戸市内の小学校に学校医が置かれたのが日本における学校医の始まり」であり、大村民蔵氏が根岸小学校の校医を拝命したのが1903年(明治36年)のことでした。また日赤の実質的創設者というのもおそらく間違いです。
「根岸療養院」は神奈川県内の日赤病院草分け的存在といえるでしょう。
という感じですか。
後から発見した別の全景がわかる根岸療養院はがき。
一枚の絵葉書の風景から様々な関係が見えてきました。
大村民蔵は近くにあった「根岸競馬場」とも関係があり、競馬に関するエピソードも満載です。
まだまだ人・場所・出来事との興味ある繋がりがありますが、
今回はここまでにしておきます。

第992話 リケ児育成のために(修正追記)

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<絵葉書の風景>
一枚の絵葉書風景を読み解きます。
タイトルは「横浜市中央教材園」です。
高台にあるこの施設はタイトルが示すとおり「中央教材園」の温室と関連施設と思われます。
設置されている場所は現在の「石川小学校」の隣接地で、敷地内の北側に位置した場所に「温室」と「植物栽培用の耕地」がありその一部です。
写真の右端に見える大きな建物は、天正5年(1577)に創建した「玉泉寺」と思われます。
当初明治五年に開山した浄光寺と判断しましたが、ご指摘を受け当時の地図と角度を合わせ、異なることを確認しました。
石川小の前を通る坂は坂は「遊行寺坂」と呼ばれこの近くに生まれた作家の吉川英治も歩いた坂です。
遠景は中村町一・二丁目が眼下に見え、遠くには関外(吉田新田)エリアが広がっているのがわかります。隣接する浄光寺は時宗総本山「遊行寺」 藤沢清浄光寺と同じ<時宗>のお寺です。

玉泉寺と中村川
※大慈山瑠璃院玉泉寺
天正5年(1577)に創建
高野山真言宗
横浜市南区中村町1-6-1
関東大震災で全て消失。
昭和6年202坪の本堂が竣工。 写真に写っている本堂は昭和6年に竣工したものと思われます。
撮影時期が少し絞り込まれました。
[教育施設の基本]
絵葉書の「横浜市中央教材園」とは何なのか、少し資料を追いかけてみました。
一昔前まで、進学時には<理系><文系>という分岐点がありました。未だ色濃く文系・理系の区別がされていますが最近では統合型の教育もかなり導入されるようになってきました。
そもそも文理の分離!?
は高校あたりの<数学>との付き合い方で変わってきます。
数学に通じたリケ女がクローズアップされてこうネーミングされると理系が少し”近くなる”と感じるのは文系おじさん現象でしょうか。 冗談はともかく、教育、特に自然科学系には教室と教師だけではなく実験室や教材の準備他 様々な設備を必要とします。
戦前の初等教育でも自然科学系教育の設備投資は厳しかったのかもしれません。いつの時代も必要性を説いた先人が新しいジャンルを切り開いてきました。
下記の文面は大正15年に発表された「中央教材園の必要」と題されたものです。
ここでは
理系児童の育成プログラムとして教育用の植物教材を提供するための「植物園」開設が説かれています。 「市民をして特に自然科学の一般に習熟せしめようとするいわゆる自然研究の第一歩は小学校における博物教育の実績いかんにかかる。それにはまず生徒をして十分博物(ここでは特に植物に関する方法を指す)の知識を授ける手段として実物に日夕親しませる必要がある。このためには本来ならば各学校に植物園、植物見本園、栽培園のごときものを併置するのが最も有数であるが しかしこれはいうべくして行われる程度でない。殊に狭い都市の中には小学校の校庭を占めるさえかろうじてできるくらいなのにどうしてそれ以上贅沢な圃場までとることができよう。」ということで、各小学校に<教材>をおくるための施設「教材園」が必要だ!と説いています。
「この種の計画には相当広い面積を必要」
「相当経験のある技術者」を揃えれば各学校に必要な植物教材(苗木・種子・切り花)を配布できる。ということで、この資料には 小学校教材になりうる植物の一覧が紹介されています。一部を紹介しましょう。 リストでは「栽培容易」「栽培困難」に分類されていて、
パインアップル、マニラ麻、コーヒー、オリーブ、マングローブ、ユーカリ、やし 等
熱帯地域の植物もリスト化されていました。
そこで「温室」が必要となったのでしょう。
現在ではごく普通の「温室」(ビニルハウス)風景ですが、温室装置設置は戦前、丈夫なビニールなど無く板ガラス、強度を保つ枠など当時の最先端技術を必要としました。
横浜市は全国に先駆けて自然科学教育教材用の植物を育成する温室をここ「石川小学校」に隣接した高台の一角に「横浜市中央教材園」を昭和4年に開設します。
昭和7年ごろの石川小学校付近。教材園は南東に隣接したところに開園。
徹底調査していませんが、絵葉書に写された「横浜市中央教材園」は別の資料にも日本で唯一という表記があり、当時はかなり珍しかった施設と思われます。
この「横浜市中央教材園」
横浜市南区中村町1丁目66番地
に設置されていました。
中央教材園に関して簡潔にまとまった沿革が「横浜市学校沿革誌」にありましたので紹介します。
「石川小学校わきの山谷埋立地を昭和2年7月より整地開墾し、昭和4年4月27日、石川小学校の校舎落成式と同時に開園式を行い、1,250坪の教材園を開園した。
当時は植物教材の配布、温室による観察等に機能を発揮していたが、昭和19年8月以降は戦争が激しくなったので、農業指導所(経済局所管)になり、温室も取り払われて食料増産園となった。
昭和26年6月に至り再開されることになり、運営委員会も組織され温室も再建され、花壇、薬草園、蜜蜂園等も年を追って充実を重ねて観察用、研究用、又は教材の配布に活動している。
また、中央教材園の活動を地域的にたすけるため、大鳥小、鶴ヶ峰小、本郷小、金沢中、杉田小、潮田中、六角橋中、富士見台小、市立商業高、谷本中、谷本小に分園が置かれている。
連合協力園として間門小、根岸中、浜小、杉田小、文庫小、市沢小、新治小がある。
昭和50年2月、南区六ツ川所在の都市公園に設置を進めている「こども植物園(仮称)」内に移転した。(横浜市学校沿革誌)」
まとめると
 昭和2年に準備が始まり
 昭和3年に完成、翌年昭和4年新学期に隣接している石川小学校校舎新築と一緒に開園式を行い
 昭和19年に閉鎖
 戦後昭和26年に再開され昭和50年に南区六ツ川「こども植物園」内に移転
戦後の復活した後の施設レイアウトです。地図にあわせて北を上に向け画像を回転させました。
昭和27年ごろ、教材園の表記は無く更地のようにも見えます。
[設置目的]
 当時の教育課長であった中川直亮の話によると
 「理科教育の基本である観察・実験・実習・直感の育成過程において、
 教材はできるだけ実物を見せなければならない。」

 ※特に都市部の教育には本物が求められる。
 「直接実物に接しさせることによって、自然の理をわきまえ、自然の美を感得することになる。」
  と語っています。
[運 営]
 そこで、この「横浜市中央教材園」が 市内初等教育における
理科学習教材供給センターとしての役割を担いました。
当時の記録では、季節季節の植物教材がまとめて栽培され、市内各校の自転車・リヤカー等を使って配布し、配布した植物の栽培育成方法を技術指導に赴いていたそうです。
開園から2年たった昭和6年にはさらに規模を拡大し、六角橋に分園(専用農園)を開き、養蚕実験も開始します。養蚕に必要な桑葉は小机から運んだそうです。
見学に来た子どもたちの人気は養蚕風景・バナナ・パイナップルなどの熱帯植物だったそうです。
養蚕風景。本文とは直接関係がありません。
戦後、教材園を見学する子どもたち。
「横浜市中央教材園」
基本的に北斜面という恵まれない条件でした。植物育成には南斜面が必要ですがなぜここに「教材園」設置が決まったのか、これに関する資料には出会っていません。
理由を考えた時、この中央教材園が設置された石川小学校の歴史が古く、学校経営とも深く関係があったと想像しています。
<石川小学校>
1872年(明治5年)「養賢学舎」として「玉泉寺」境内に設立した古い歴史を持っています。明治33年には児童数約1,300人を抱え、学区は石川町、石川仲町、中村町でした。
植物園は独立組織でしたが温室管理には学校の協力が欠かせません。当時の校長であった荒波階三以下教師陣による積極的姿勢が関係していたかもしれません。校長を勤めた荒波階三は平沼小学校の訓導(教諭)から大正13年11月に就任、新校舎造営に関わり昭和3年10月の新校舎落成後、平沼小学校長に転任しています。その後「青木国民学校長」を戦後まで勤め昭和21年の三ツ沢小学校への統合を終え退職しています。
もう一つ、ここに温室のある植物園が設置された理由と思われる要素がありました。
この石川小学校近くには明治期から国際的な植物ビジネスを手がけてきた「横浜植木」があります。
横浜植木
https://www.yokohamaueki.co.jp
明治期に創業、いち早く世界の植物サンプルを集め、米国にも支店を出すなど、当時の日本園芸、植木業界のリーディングカンパニーとしての業績を今に残しています。間接的かもしれませんが、横浜植木の技術的支援を受けた可能性は高いと思います。 [その後]
横浜市こども植物園
■沿革
・横浜市こども植物園の前身は昭和30年に世界的な植物遺伝学者、木原均博士が財団法人木原生物学研究所を、京都市郊外の物集女(もずめ)から移転してきたところから始まる。
横浜市はその一部を昭和45年3月、公園用地として買収し、当初は横浜市教育委員会が、児童、生徒の理科学習や教職員の野外研修所「子供自然教育園」として使用し、その後、教育委員会の中央教材園分園として活用していた。昭和49年に教育委員会から緑政局へ管理移転されて、公園整備工事に着工し、昭和51年度都市緑化植物園として都市計画決定を得て整備を続けた。
昭和54年6月23日国際児童年を記念し、世界で唯一、「こども」と名のつく植物園として開園した。
目的
 ①横浜市こども植物園は、一般の都市公園とは異なり、植物を題材とした自然史博物館的施設として、多くの種類の植物を収集・保存、育成・展示し、利用者に観賞してもらうことを目的としている。
 ②植物をとおして、自然に親しむことにより、子供が植物に関する知識を深め、緑を守り・育てる心を育むことを目的としている。
 ③機能的には植物研究型やレクレーション型の植物園ではなく、主に子供を対象に普及啓発的活動をとおして教育する指導型の植物園である。
[概要]
果物園(木原博士のコレクションが元になっている200年以上存続した品種の保全接ぎ木等)
花木園(教材園の頃からあった樹木を中心に、生活や文化との関わりの深い代表的な種で、話題性のあるものを選んで植栽している)
薬草(身近な薬草をはじめ、染料、香料、工芸、油料植物等、生活に利用する植物や、役立つ植物を植栽展示)
生垣園(生垣として用いられる代表的樹種28種をあつめ、植栽展示)
シダ園(日陰地を利用し、約50種を植栽展示)
タケ園(生活に深い関わりのあるタケの仲間をタケ、ササ、バンブー類に大きく3つに分類し、30種を植栽展示)
その他:市内に自生する野草約150種を使って、ロックガーデン風展示。市内の海岸から平地・山地まで自生する野草という観点で植栽している。
温室群・管理圃場・実習圃場・池(水生植物見本園)
現時点ではここまで、
なにか新資料に出会ったら、さらに追いかけてみたいと思います。 石川小学校
http://www.edu.city.yokohama.jp/sch/es/ishikawa/ No.225 8月12日 (日)太夫 打越に死す
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=382

第871話 【絵葉書の風景】大山公爵夫人

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神奈川高等女学校展覧会 松屋鶴屋の裾模様実演説明
正面 大山公爵夫人
来観者18,000人 昭和四年十一月二・三日
●撮影場所:松屋鶴屋
●撮影時期:1929年(昭和4年)11月2日〜3日
この絵葉書のように描かれた風景が明確に示されていることは珍しい。
絵葉書を<記録メディア>として利用した典型事例の一つといえるでしょう。
ここに登場する「神奈川高等女学校」
現在、沢渡にある神奈川学園高等学校の前身と考えられます。
昭和初期の<神奈川高等女学校>は少々紛らわしいので推定に苦労します。

<神奈川高等女学校>か<神奈川県高等女学校>か?
<神奈川高等女学校>は
1914年(大正3年)に「横浜実科女学校」として創設されます。
創設の地は南吉田にあった<リンネル工場>跡地の仮校舎だったそうです。
1915年(大正4年)に「横浜実科高等女学校」となり
1921年(大正10年)から「神奈川高等女学校」と改名します。
戦後の新学制で「神奈川高等学校」
その後「神奈川学園高等学校」として現在に至ります。
http://www.kanagawa-kgs.ac.jp
http://touyoko-ensen.com/syasen/kanagawa/ht-txt/kanagawa18.html
ここで勘違いし易いのが<神奈川県高等女学校>
1900年(明治33年)10月10日に創立。
翌年に神奈川県立高等女学校となり
1930年(昭和5年)4月1日には
「神奈川県立横浜第一高等女学校」となり「第一高女」と呼ばれました。
絵葉書発行の昭和四年の時点では
「神奈川高等女学校」(沢渡)
「神奈川県立高等女学校」(平沼)
の二校が近くにあり間違いやすかったと思います。
ちなみに平沼の第一高女は
1900年(明治33年)10月10日創立  神奈川県高等女学校
1901年(明治34年)5月7日  神奈川県立高等女学校
1930年(昭和5年)4月1日  神奈川県立横浜第一高等女学校
1948年(昭和23年)4月1日  神奈川県立横浜第一女子高等学校
1950年(昭和25年)4月1日  神奈川県立横浜平沼高等学校
もう一つ
似た女学校がありました。
程谷町立実科高等女学校
1926年(大正15年)11月30日認可
校名 程谷町立実科高等女学校
1927年(昭和2年5月)横浜市立実科高等女学校
1934年(昭和9年4月)横浜市立高等女学校
1945年(昭和20年4月)横浜市立第一高等女学校
1948年(昭和23年4月)横浜市立桜丘高等学校

(会場)松屋鶴屋      <昭和7年>
この神奈川高等女学校展覧会が開催された松屋鶴屋は
昭和4年時点で推測すると
伊勢佐木通り入口の「鶴屋(呉服店)」と思われます。
翌年の昭和五年に「松屋(呉服店)」に名称変更されました。
ここが現在の< MATSUYA GINZA>です。
No.30 1921年1月30日 MATSUYA GINZAのDNA
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=593

横濱デパート物語(MATSUYA編)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5499
この絵葉書の主題にあたる
大山公爵夫人
私にとって 劇的出会いでした。
詳細は資料ツッコミ中につき別で紹介します!

横浜学舎の歴史

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1875年(明治8年)6月29日のこと
「学舎の名を<学校>と改称(横浜歴史年表)」
横浜の小学校は制度として1872年(明治5年)から寺院等を使って始まりました。それ以前に江戸時代からの<寺子屋>として地域の教育機関だったものもあります。新学制が導入され小<学舎>と呼ばれてその後1875年(明治8年)の今日、小学校と呼ばれるようになりました。
上記の(横浜歴史年表)表記によると

壮行学舎→横浜学校<注1>
存心学舎→吉田学校
立志学舎→太田学校
養賢学舎→石川学校
三到学舎→元街学校
就蘭学舎→北方学校
洗心学舎→本牧学校
主敬学舎→根岸学校
(正)※志敬学舎→根岸学校→根岸小学校
真照学舎→磯子学校
弘照学舎→鶴見学校
(正)※弘明塾→鶴見学校→豊岡小学校

と紹介されていますが、調べていくと誤記(文字変換誤作動)等があり整理に手間取りました。一部確認できたものを修正しました。
明治期にかなりの小学校が地域に設立されています。日本の近代化を支えた柱の一つです。
<注1>横浜小学校
https://ja.wikipedia.org/wiki/横浜小学校
(明治前期創設の小学校)
明治前期に<現横浜市域>に設立され現在もある小学校リストを一覧化してみました。(廃校は略しています)

※印は創設時の<学舎>
1872年(明治5年)
山下小学校  北八朔町1865-3※中村学舎
石川小学校  中村町1-66※養賢学舎
豊岡小学校  豊岡町27-1※弘明塾
1873年(明治6年)
子安小学校  新子安一丁目24-1※子安学舎
都岡小学校  都岡町4-8※今宿学舎・川井学舎
北方小学校  諏訪町29※就蘭学舎
鉄小学校  鉄町427※鉄学舎
星川小学校  星川三丁目18-1
元街小学校  山手町36※三到学舎
末吉小学校  上末吉一丁目9-1※末吉学舎
谷本小学校  藤が丘一丁目55-10※谷本学舎
保土ケ谷小学校  神戸町129-4※程谷学舎
磯子小学校  久木町11-1※真照学舎
杉田小学校  杉田一丁目8-1※森田学舎→森中原学校
根岸小学校  西町2-46※志敬学舎
金沢小学校  町屋町26-26※知足学舎・柴村小学舎・野島学校
釜利谷小学校  釜利谷東六丁目37-1※赤井学舎(万蔵院)
六浦小学校  六浦三丁目11-1※三分学舎(光伝寺)
大綱小学校  大倉山4丁目2-1※地域の四学舎(大乗寺・東照寺・本乗寺・観音寺)
日野小学校  日野七丁目11-1※日野学舎
田奈小学校  田奈町51-13※??
富岡小学校  富岡西七丁目13-1※富岡学舎
日吉台小学校  日吉本町一丁目34-21※清林学舎
長津田小学校  長津田町2330※壮行学舎
戸塚小学校  戸塚町132※富塚学舎
市場小学校  元宮一丁目13-1※真明学舎
潮田小学校  向井町三丁目82-1※潮田学舎
山内小学校  新石川一丁目20-1※荏田学舎
青木小学校  桐畑17※青木学舎
市沢小学校  市沢町781※市野澤学舎
二俣川小学校  二俣川1-33※宮沢学舎
石川小学校  中村町1-66※養賢学舎
大岡小学校  大橋町3-49※大岡学舎
太田小学校  三春台42※立志学舎
日下小学校  笹下3丁目9−1※笹下東樹学舎
1874年(明治7年)
高田小学校  高田町1774※高田学舎
中川小学校  牛久保東二丁目21-1※大棚学舎
鴨居小学校  鴨居四丁目7-15※ 鴨居学舎
桜岡小学校  大久保1丁目6−43※最岡学舎
1875年(明治8年)
川島小学校  川島町1162※川島学舎
神奈川小学校  東神奈川二丁目35-1※神奈川学舎
1876年(明治9年)
千秀小学校  田谷町1832
1879年(明治12年)
戸部小学校  伊勢町2-115※戸部学舎
1880年(明治13年)
今井小学校  今井町981-1(3月25日)
白根小学校  中白根一丁目9-1(7月5日)※今宿学舎(本立寺)より分校
1889年(明治22年)
新治小学校  新治町768※久保学舎より分校
1890年(明治23年)
瀬谷小学校  相沢四丁目1-1(11月15日)※ 瀬谷学舎・二つ橋学舎・若宮学舎・新道学舎・阿久和学舎などが統合?
1892年(明治25年)
豊田小学校  長沼町125-4(5月1日)※龍臥学舎(明治5年2月)
中和田小学校  和泉町3721(5月17日)※岡津学舎
中山小学校  中山町925(9月1日)※移転し「森の台小学校」中山第二小学校が「中山小学校」に※中山学舎
川上小学校  秋葉町203-2(10月1日)
本郷小学校  中野町16-1(10月5日)
永野小学校  上永谷二丁目21-10(11月3日)※棲心庵学舎(明治5年)
このように、明治前期に地域の学校が多く設立されます。
学校の敷地は地元の協力で(寺社、私有地等)を寄付し開校された学校が多かったようです。
※各小学校・区役所の資料から表記を整理したものです。表記以外に<学舎>として歴史があるものも散見されます。

【ミニミニ今日の横浜】6月4日

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時折断片的な史実がつながり始めることがあります。
点が線に線がある形になっていく時に背中がゾクゾクッとします。
これまで900話位の史実をさがす横浜ブログを書いていますが、ゾクゾクッとすることは中々ありません。
今日のネタは調べている過程で少しゾクッとしました。
三人の詩人が横浜で出会った様子を<小説>のように書いてみました。
1915年(大正4年)6月4日(金)
当時藤棚の山頂にあった<神奈川一中>に通っていた熊田 精華(17歳)は、学校で知り合いになった一歳年上の北村 初雄(18歳)の自宅を初めて訪ねました。中区住吉町に暮らしていた熊田 精華の自宅から 南太田にあった北村 初雄の家まで約2.3キロ、開通したばかりの路面電車に乗ったかどうかわかりませんが徒歩でも40分位の距離は熊田にとって通学路より平坦で楽だったに違いありません。
※神奈川一中は現在の希望が丘高校light_PC130603 南太田は、古くからの住宅地でしたが1913年(大正2年)10月1日から11月19日まで「神奈川県横浜市勧業共進会」が近くで開催されたことで宅地化が進んでいました。
light_横浜勧業共進会3熊田が訪れた北村 初雄の父 北村七郎は日本大通りに竣工したばかりの三井物産横浜支店長でしたので、丘の上の洋館に暮らしていたかもしれません。
一方の熊田 精華の自宅は海岸にほど近い入船通りで父熊田源太は耳鼻科の開業医でした。light_三井物産ビル099

light_20150501三井倉庫6 light_20150410日本大通りこの二人を結びつけたのが<詩>でした。すでに露風詩会に参加していた 北村 初雄に熊田が強く影響されたのかもしれません。
北村 初雄は中学時代から詩人三木露風に師事し「未来」に属し露風門下生で三木と同じ歳で兄のような存在の<柳沢健>と横浜で出会います。
北村は1917年(大正6年)7月に中学卒業記念詩集として『吾歳と春』を刊行、<推薦文(序文)>を三木露風が贈り<詩人>としてデビューします。彼は“父の意向で”神奈川一中卒業後 東京高商(現在の一橋大)に進み卒業時(大正9年)にも卒業記念詩集「正午の果実」を刊行します。若さを前面に出した詩風は当時の萩原朔太郎と対比され詩壇に登場します。light_スクリーンショット 2015-06-04 6.03.13 light_スクリーンショット 2015-06-04 6.02.57 残念なことに25歳の若さで結核に罹り夭逝します。彼が残した詩集は4冊しかありません。中学卒業記念のデビュー作『吾歳と春』、大学の卒業記念詩集『正午の果実』、死後に発刊された遺稿詩集『樹』
そして1918年(大正7年)11月に柳澤健と 熊田精華と三人で出した共同詩集『海港』の4冊でした。

詩集『海港』に寄せた
北村 初雄21歳の作 「印度洋」から
心地よい朝の日光を浴びて、
Laughter(ラフター)と云う遊戯を行なってゆく、
輪を圍んだ子供達が笑って居る、
空に投げられた手布(はんけち)が地に落ちる迄。

僕は將棋の駒の王様といふ風に、
細長い顔を四角張らせて、身動きもせず、
この庭の薔薇の葉の間から見透かされる、
青い海をば みつめて居る、
其處には確(きっ)と嬉しさうに泳いで居るに違いない、
竹麥魚(はうぼう)や■(かさご)や帯魚(たちのうを)や鯛の群れ。
※■は旧字で表示
栂(とが)の角(かど)ばった葉が日光(ひ)に映えて、
僕を全(すっか)り愉快に.ならせる、彼(あ)の子供達の笑ひ聲。
僕は黙って其れを聞き分けてゆく、
風を孕んだ帆の滑車(せみ)の軋りや櫓の音から。

「初雄さん、遊ばない?」此時、
芝生づたひに走り寄って来る、
真白な真白な可愛い子。
僕はその手を取ながら、静かに尋ねる、
「君のお父様は船乗だってね?」

「ああ僕のお父様は大きな汽船の船長だったの、
だけれどお父様が汽船に乗って、
印度洋を渡って居られるときにね、
お酒を澤山頂いて直ぐにお風呂に入って、
脳充血と云ふ病気に罹って死んで仕舞ったの。」
子供の眼に這入る青筒(ブリュファンネル)の大きな汽船たち、
其は青い空の上に、大きな雲と成って懸って居る。

ああ、巨(おおき)い海洋(うみ)! 巨い海洋!
そうだ、僕が一橋を卒業して、
里昂(リヨン)の会社(みせ)にでも勤務(つとめ)る様に成ったなら、
僕は印度洋を渡って行かう、
そうして、汽船が船長の水葬された所を通過(とほ)るとき、
僕は帽子を脱って挨拶しよう!
「僕は貴君(あなた)の可愛いお子様のお友達で、
姓なら北村、名ならば初雄と申します。」

薔薇の花の揺(ゆす)れが止まった。海は凪いで居る。
子供の眼からは曇りが去った。
僕は自分が話し始めるお伽噺の世界に引込まれて、
青い潮流や人魚のむれや薄紫の貝殻の中で、
印度洋と子供の顔とをじつと見較べる。

●実に素直な 青春詩という感じです。

ここで北村の兄弟子で共同詩集を出した柳澤健について触れておきます。
柳澤健は福島県会津若松市に旧会津藩士の長男として生まれ、一高、東京帝国大学仏法科を経て逓信省の官僚になります。詩人三木露風門下には大学時代に参加し、横浜郵便局長心得在職中に北村と出会うことになります。
1918年(大正7年)11月に
互いに親交を深めた三人 北村 初雄、柳澤 健、そして熊田 精華は最初にして最後の詩集を刊行します。
柳澤健はこの詩集を出した翌年の
1919年(大正8年)4月に逓信省を辞職し大阪朝日新聞社に入社、その後外務省に勤務。フランス、イタリア、メキシコ、ポルトガルなどに駐在し退官後は日本ペンクラブの創設や評論家として活躍すると同時に詩人としても多くの作品を発表しました。
1953年(昭和28年)5月29日没。

エピローグ
熊田 精華は第一中学校を卒業後上智大学哲学科へと進み詩人として活動し、昭和19年には長野県飯山高女で教職につきます。この間、一つ年上の山名 文夫と親交を深め、終生の親友となります。

熊田 精華 <七月>
アンナベルリイの午后(ひる)の寝顔に
風が落す淡紅色(ときいろ)の花・
身軽に逃げる小魚(こうを)の後をおひまわして居る私の手・
可愛い猫・一羽の鸚鵡(あうむ)・
それに沢山の糖菓(キャンディ)と
チョコレェトとをのせて居る、
合歓(ねむ)の葉かげの白いボオト。

緑色の「コロンビア」と
形姿(かたち)のいい「エンプレスオブエイシア」・
桟橋のカッフェの卓子(テイブル)では、
帽子をまげたアメリカ人と陶器(せともの)の様な支那人との
切れめの多いのろい会話・
間のびな音をひびかせるNYKの汽艇(ランチ)の笛。

川口の石崖(いしがけ)・警視所の屋根・
広い芝生をのぞいている、
海軍病院の病室(へや)の窓に一つ置かれたアマリリスの花・
旗竿(ポール)をとりまく木椅子の群・
ユニオンジャックをゆるがす風・
RとFを組みあはせた仏蘭西(フランス)領事館の門の金具が、
まぶしい程にうつる水。

ボオトの中にはいま醒(お)きたアンナベルリイの
可愛い瞳(め)・ふりかかる髪をはらひながら
陽にむけておくる優しい微笑(えみ)・
私の両手に音たてる櫂(かい)・
海鳥(みづどり)たちのゆるいはばたき、
その時に山をこぼれて来るクライストチャーチの鐘の響。

水先案内(パイロット)の船の小さな旗と、
グランドホテルの日徐(ひよけ)の影をよりあはせては
踊らす波・海堡の口にならんで居る赤い燈台と白い燈台・
帆(カンバス)の上にもたれる雲・示午球の柱・
碧い海・鸚鵡(おうむ)の声が長く引く、
GO AHEADにおどろく猫。

(七月が二人の前に笑ひ、喜びあふれた、
おお、その時。
世界を両手にささへながら、
私たちは二人は幸福でした。
私たちは二人は幸福でした。
眼には涙があったけれど。
・・・・・・     )
(詩集『海港』から)
熊田 精華には10歳以上離れた年の弟<五郎>がいてとても可愛がります。
親友の山名 文夫に弟を紹介し、弟<五郎>はデザインの道に入り、後に
世界の熊田千佳慕としてアートの世界に大きな足跡を残します。25E7-2586-258A-25E7-2594-25B0-25E5-258D-2583-25E4-25BD-25B3-25E6-2585-2595-25E5-25B1-2595

No.44 2月13日 熊田と土門

No.44 2月13日 熊田と土門


1981年(昭和56年)のこの日、熊田 千佳慕が70歳でイタリア・ボローニャ国際絵本原画展に出品

(以上、ここには私の想像も含まれています。セミフィクションとしてご理解ください)
(その他の6月4日)
1983年(昭和58年)6月4日の今日
県内で最初の緩衝緑地,金沢緑地がオープン〔1.12〕 横浜の埋立
1983年(昭和58年)6月4日の今日
金沢産業振興センター完成(36) 横浜市会の百年
1983年(昭和58年)6月4日の今日
都市計画道路「新横浜・元石川線」開通(36) 横浜市会の百年

1870年(明治3年)6月4日山手公園が居留地の外国人によって整備されます。
No.120 4月29日 庭球が似合う街
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=496light_P3271119

(過去ブログ)
No.156 6月4日(月) 三ツ池公園「コリア庭園」開園

No.156 6月4日(月) 三ツ池公園「コリア庭園」開園


桜の名所として名高い横浜市鶴見区の三ツ池公園の中に「コリア庭園」があります。
1990年(平成2年)6月4日開園しました。

4月25日のセツッルメント

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今日はどちらかというと苦手なジャンルからの紹介なので手探り文になっています。
1931年(昭和6年)4月25日
「浦島町に関東学院セツッルメントが開館した(横浜歴史年表)」
「関東学院セットルメント献堂式(横浜近代史総合年表)」
セツッルメント、セットルメント?
開館、献堂式とあるので 教会のある形式か?
私の理解しているsettlementなら
「定住」とか「開拓」といった意味合いですが、このsettlement
中々幅広い<言葉>で、
「定住」転じて弱者に対して援助を与え、自力による生活の向上など定住を促進する社会活動を指すそうです。
他の辞書には
1 解決。決着。
2 宗教家や学生が、労働者街やスラムに定住して、住民との人格的接触を図りながら、医療・教育・保育・授産などの活動を行い、地域の福祉をはかる社会事業。また、その施設や団体。隣保事業。セッツルメント。
また、
「セツルメントとは,もともとは知識人がスラムに住み込むsettleという語意であり,日本では隣保事業という場合もある。ソーシャル・セツルメントの考え方を最初に明らかにしたのはE.デニソンといわれている。彼は19世紀後半の慈善・博愛事業が金品を供与して貧民救済をしていることの弊害を批判した。そして貧困を除去するために社会改良が重要であるとし,このために知識人がスラムに住み込んで貧困についての人々の認識を改めさせると同時に,スラムの人々との知的および人格的接触を通して,その自覚を促していく必要を主張している。」

関東学院とセツルメントの関係について 簡単ですが調べてみました。
キリスト教主義の元に設立された関東学院のモットーは校訓に「人になれ 奉仕せよ(Be a Man and Serve the World)」とあります。
冒頭に確認した「settlement」の「宗教家や学生が、労働者街やスラムに定住して、住民との人格的接触を図りながら、医療・教育・保育・授産などの活動を行い、地域の福祉をはかる社会事業。また、その施設や団体。隣保事業。セッツルメント。」の意をもってこの事業をいち早く設置したのが関東学院でした。
残念ながら日本初ではありませんでしたが、私学で初めて開設し全体でも一番最初に設置した東京帝国大学に次いで二番目でした。
1931年(昭和6年)4月25日に鶴見区浦島に「セツルメント」を開設します。
※当初は南太田に開設しその後浦島に移転。
地域の問題に<入る>には<そのコミュニティに定住する>ことが必要であり、全てはそこから始まることが基本条件(理念)でした。
この関東学院セツルメントの創始者の中心となった社会事業部の教授だった渡部一高氏は
1.”Not alms, but friends”(慈善ではなく、友情を)
2.”Not to invite, but to go”(招くのでなく、(我々が)出て行こう)
3.”Every activity educational”(すべての活動は教育的であるべき)
4.“The center not in an office but on the field”(中心となるべきところは事務所でなく、現場である)
5.”Work without enthusiasm and an ideal is vain”(熱心さと理想のない仕事は、意味がない)。
とセツルメントのポイントを5つ述べています。
この五か条は、ボランティア活動のみならず、地域に生きる全てのことに共通する原則だと思います。
鶴見の浦島に設立された関東学院セツルメントは「前進館」と命名され、同時期に全国的に巻き起こった学生キリスト教運動に連動するようになり、昭和初期の政治状況の中で強い弾圧を受け1935年(昭和10年)に解散の経過を辿ります。
ここまで調べている内に<ある関連性>を思い出しました。
資料には 関東学院の最初のセツルメントは南太田で開始されたとあります。
(第一隣保館)
南太田といえば 昭和初期の地図に「第一隣保館」があった事を思い出しました。南太田駅前昭和初期隣保はセツルメントの日本語訳にあたります。この「第一隣保館」が関東学院の最初のセツルメントであったかどうか現在の資料では不明ですが、深く関係があったことは間違いないでしょう。
この「第一隣保館」はその後「市民館」となり
1943年(昭和18年)南区誕生とともに区役所となります。南太田駅前醤油工場11174857_971938726183565_2924761509171288488_nこの南区役所が花之木に移転し、婦人会館(現在のフォーラム南太田)となっています。
南区役所は平成28年1月にまた移転する予定です。
そもそも 関東大震災により生じた社会不安、社会的弱者への社会福祉事業として起こった運動です。当時は組織だって福祉活動を行っていく社会事業への理解が希薄だったのかもしれません。

(過去の4月25日ブログ)
No.116 4月25日 紺地煙突に二引のファンネルマーク

【市電ニュースの風景】1931年 №20

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目下1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を読み解いています。№201931年(昭和6年)5月
十四・五・六日 伊勢山皇大神宮大祭(電車 紅葉坂・野毛坂又は戸部一丁目下車
バス紅葉坂下車)
十五日 『郵船』浅間丸入港(ホノルルより午前中四号岸壁へ)
十五日 弘法大師誕生会ならびに詠歌大会(電車及バス本町一丁目下車)
=午前十一時より本町開港記念会館にてー入場無料=
十五日より十八日まで
第四回掃部山バザー(電車 紅葉坂・野毛坂又は戸部一丁目下車
バス紅葉坂又は雪見橋下車)
=マネキン劇場支那獅子舞其他余興沢山=
十六日 名古屋高商對横濱高商野球戦(午后三時横濱公園球場にて)
十六日 基督教婦人講演会 入場無料(午后二時尾上町指路教会にて)
十六・七日 神奈川金毘羅神社大祭(電車及バス 青木橋下車)
十六・七日 横濱専門学校記念祭(電車 六角橋終点より約四町)
=中等学校陸上競技会、音楽会、野球試合、提灯行列等ー入場無料=
18日シボレー大キャラバン隊(20数台)到着、元横濱駅裏広場で展覧

懸賞標語
「おつと危い左右(当選者 松本藤四郎君)」
※アラビア数字は別の年表から追記したものです。

[キーワード]
■伊勢山皇大神宮
横浜の総鎮守「関東のお伊勢さま」と呼ばれている伊勢山皇大神宮は、開港後現在の場所に遷座されてものです。現在の位置する場所からほど近い戸部村海岸伊勢の森の山上にあった神社を明治初年に国費を以て創建したもので、開港場の総鎮守として明治から今日まで多くの参拝者が訪れます。light_横浜商店街通り077 light_横浜商店街通り071No.691 【横浜神社めぐり1】伊勢山皇大神宮
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5971

No.426 横浜で学ぶ(神社編1)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=146

No.338 12月3日 (月)八の1418(加筆)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=252

■電停 紅葉坂・野毛坂
横浜は坂の多い都市です。light_紅葉坂-1light_伊勢山電停

■『郵船』浅間丸
「太平洋の女王」と呼ばれた浅間丸。主に横浜-ホノルル-サンフランシスコ航路に就航し多くの日本人と訪日外国人を運びました。
ロサンゼルスオリンピックに出場した西竹一男
ハリウッドスターのダグラス・フェアバンクス
ヘレン・ケラー
交換船・海軍徴用船となった後
1944年(昭和19年)2月24日に魚雷を受けて損傷しますが沈没は免れます。修復後マニラから高雄へ向けて航行中魚雷が命中し沈没。

■四号岸壁
新港埠頭で客船用に多く使用された埠頭です。light_20150408165442 light_新港埠頭上空

■掃部山(かもんやま)
別の機会に詳しく紹介します。
■尾上町指路教会
指路教会は最初の横浜居住地39番から、現在地、太田町、住吉町を経て1892年(明治25年)再び現在地に戻り、ヘボンの尽力により赤レンガの教会堂が建てられました。初代指路教会は
設計:サルダ 1892年(明治25年)竣工
関東大震災で倒壊。現在の建物は大正15年竹中工務店の設計により再建されました。横浜市認定歴史的建造物です。

■神奈川金毘羅神社
大綱金刀比羅神社
「横浜の金刀比羅(こんぴら)さん、大神様の尊き御神徳を知る数多くの会社経営者を始め、船舶関係、農業関係、建築関係、医療関係、民衆に至るまで、十六神の大神様の御神徳を頂ける神社であります。」
旧東海道、神奈川宿台の坂に鎮座、街道の安泰と袖が浦神奈川港に出入りする船は海上安全を祈願した神社です。light_神奈川金毘羅

■横濱専門学校
神奈川大学の前身の校名。light__9145936light_P2090159(戦前の歩み)
1928年(昭和3年)
米田吉盛が横浜市中区桜木町に「横浜学院」を開設
現在の西区桜木町6丁目34番地にあった「桜木会館」の1階と2階を借り学校を開校。
同年12月
横浜学院、中区西戸部町富士塚に移転。スクリーンショット 2015-05-18 16.36.43スクリーンショット 2015-05-18 16.36.061929年(昭和4年)
専門学校令により「横濱専門学校」(法学科、商業理財科)を開設
1930年(昭和5年)
六角橋校地(現在の横浜キャンパス(横浜市神奈川区六角橋)へ移転
1939年(昭和14年)
工学系の3学科(機械、電気、工業経営)を新設
1945年(昭和20年)
GHQによって一時的に六角橋校地が接収
大倉山の大倉精神文化研究所と三ツ沢の県立第二横浜中学校(現横浜翠嵐高校)にて授業を再開。

【市電ニュースの風景】1931年 №19

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目下1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を読み解いています。light_19号1931年(昭和6年)5月
九日 横濱高工對日大野球戦(午後二時半横浜公園球場にて)
九日 春季體育大会(電車及バス市役所前下車)
=午后六時半より常磐町YMCA体育場にて 入場歓迎=
9日 日本ロータリー大会、開港記念会館で開催
十日 横濱母校聯盟野球リーグ戦(横浜公園球場にて)
=正午商友ーJ倶楽部、午后三時弘陵ー高商倶楽部=
十日 第三十回Y高のボートレース(電車山下町 バス「ニューグランド」前下車)
=午前八時より山下町公園前海上にてー荒天延期=
十日 市民慰安三曲大演奏會(電車宮元町 バス商業学校前下車)
=正午より南太田町Y校大講堂にてー入場券無料進呈=
十日より 新興美術(洋画)展覧会(桜木町中央授産所にて)
十三日 横濱高工對千葉医大野球戦(午後三時横浜公園球場にて)
十三日 『郵船』日枝丸入港(晩香坡より午前中大桟橋Cへ)

懸賞標語
「飛乗りや飛降り今日からやめませう(当選者 元川新吉君)」
※アラビア数字は同時期の出来事を追記したものです。

[キーワード]
■常磐町YMCA体育場
YMCAは「Young Men’s Christian Association」の略です。日本語では「キリスト教青年会」とも呼ばれています。19世紀半ば、英国だ誕生したMCAは米国経由日本に上陸し明治草創期に活動がはじまりました。
1884年(明治17年)10月18日
横浜海岸教会の青年たちを中心に横浜YMCAが誕生します。
大正時代には室内体育場が竣工し、「常磐町YMCA体育場」はこのことを指します。関東大震災で被害を受けますが、昭和2年に復旧 開館式が行われ、体育競技の中心施設となっていたようです。light_WV300281

■Y高のボートレース
横浜商業高校の端艇は有名です。時折、大岡川河口域で<端艇部>の練習風景にであうことがあります。
「横浜商業高校八十年史」によると開校当時ボートは必須だったそうで、大岡川を舞台に授業があったのかもしれません?大岡川には古い<端艇>を川に出す専用の<堰>があります。この【市電ニュース】19号でも 端艇が描かれているイラストが掲載されていることからも“名物風景”だったのではないでしょうか。light_19号挿絵light_P3160033light_P7102924

■山下町公園前海上
「山下町公園」は「山下公園」のことだろうと思います。現在は「山下町公園」というと中華街の一角、媽祖廟裏の公園を指します。

■慰安三曲
「三曲(さんきょく)」とは箏・尺八・三味線などをまとめて明治期以降に呼称されていた邦楽分野を指します。

■桜木町中央授産所
授産所=授産施設は<生活弱者のための就労支援施設>
1927年(昭和2年)横浜市が復興社会事業費より28万円を捻出して着工します。
1929年(昭和4年)「興産館」桜木町駅前授産所の場所に開館。
1929年(昭和4年)6月11日に「市中央授産所」として桜木町に設置されます。
「桜木町横浜市授産所ノ偉観」light_資料絵葉書009

■『郵船』日枝丸
1930年(昭和5年)9月、シアトル航路の初航海に向かう「日枝丸」には、高さ約4 メートル、重量約8.5トンもある巨大石灯籠(いしどうろう)が積まれていました。これは、関東大震災(1923年)で大きな被害を受けた横浜市が、米国の見舞金をはじめとするたくさんの支援へ感謝の意を込め、日米親善のシンボルとしてシアトルに贈ったもので、シアトル在住日本人会の提案が発端となったといわれています。この石灯籠は大変喜ばれ、日本人会がその数年前に寄贈した桜500本(※1)が植えられたシアトルのスワード公園入り口の最も目立つ所に設置されました。
※時期と数量に関しては諸説あるようですが、日本郵船旅の雑誌『THE TRAVEL BULLETIN』の情報を優先しました。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7276
■晩香坡(バンクーバー)
カナダ有数の大都市でカナダブリティッシュコロンビア州南西部にある都市です。日本郵船が明治期から太平洋航路を開設しました。
■大桟橋C
横浜港の中央部にある「大桟橋(現 大さん橋)」は1894年(明治27年)に完成し「鉄桟橋」とも呼ばれました。その後、すぐ横に数期にわたって造成・整備されたのが「新港埠頭」です。
新港埠頭にはかつて1号〜12号まで岸壁があり、大桟橋の埠頭をABCD岸壁と呼びました。
大桟橋と合わせて計16の岸壁を擁する港でした。light_新港埠頭S5 light_新港埠頭上空

【今日の横浜2015】1月20日県立第三横浜中学校

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1923年(大正12年)の今日
県立第三横浜中学校が中区本牧緑ヶ丘に創立されました。現在の神奈川県立横浜緑ヶ丘高等学校の創設記念日にあたります。
この県立第三横浜中学校の歴史は、横浜が遭遇した悲劇と同じ<三重苦>を乗り越えてきた学校です。
<関東大震災>
1923年(大正12年)開校直後に関東大震災に見舞われます。
<横浜大空襲>
1945年(昭和20年)横浜大空襲で校舎のすべてが焼失します。
<接収>
戦後は、立地が良かったことから駐留軍によって校地が接収されるなど
横浜の三重苦を経験しました。
校名を「県立緑が丘高校」に変更したのは1950年(昭和25年)の学校制度改革ですべての旧制中等学校が廃止となり新制高等学校(男女共学)となります。

創立以来の精神は初代校長が掲げた『三徳一誠』です。
知;正しい判断力を持て
仁;人のために尽くせ
勇;人間らしくあれ

ちなみに市内の旧制中学は
県立第一横浜中学校は神奈川県立横浜一高を経て神奈川県立希望ヶ丘高等学校に
県立第二横浜中学校は神奈川県立横浜二高を経て神奈川県立横浜翠嵐高等学校に
県立鶴見高等学校も旧制中学の系譜です。
一方 高等女学校は
神奈川県立横浜第一女子高が神奈川県立横浜平沼高等学校へ
神奈川県立横浜第二女子高が神奈川県立横浜立野高等学校へとつながります。

横浜市立では
程谷町立実科高女が市立実科高女→市立第一高女を経て市立桜丘高等学校に。
戸塚町立実科高女が市立戸塚実科高女⇒市立戸塚高女⇒市立戸塚高等学校
横浜らしいといえば
横浜商法学校→市立商→市立横浜商業高等学校(Y高)です。

No.20 1月20日 鶴見線「73型電車サヨナラ運転」
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=603

1971年(昭和46年)の今日
『市民生活白書 昭和46年 横浜と私』が発行されました。
No.100 4月9日 市民生活の実像は描ききれたのか
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=517

No.348 12月13日(木)いっさつの本があれば

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1909年(明治42年)12月13日(月)の今日、
開港五十周年に沸く中区伊勢佐木町に第四有隣堂が創業されました。

この第四有隣堂が、現在の株式会社有隣堂となります。
有隣堂の沿革史には
1909年(明治42年)12月13日
「松信大助が個人経営で横浜市伊勢佐木町1丁目7(現在の伊勢佐木町本店所在地の一角)に「第四有隣堂」を創業。間口2間奥行き3間、木造2階建ての店舗で、書籍・雑誌の販売を開始。」とあります。
現在創立百年を超える横浜を代表する企業です。
http://www.yurindo.co.jp/
書籍・文具販売の他、出版部門を持ち音楽関係の事業も行っています。

簡単に有隣堂前史を紹介します。
「有隣堂」の社名は論語の里仁にある「徳孤ならず 必ず隣有り」に由来しています。
創業者「大野貞蔵」は、新潟県柏崎出身の父「大野源蔵」の長男として横浜に生まれます。
1894年(明治27年)頃に「第一有隣堂」を当時のビジネススポット吉田町通りに開業します。
当時横浜の中心部(関内・関外)には東京に移った横浜生まれの「丸善」の他多くの競合店が進出していました。
大野貞蔵の弟、四男とした生まれた松信大助が、暖簾分けで伊勢佐木に「第四有隣堂」を創業し
1920年(大正9年)7月6日に「第一有隣堂」と「合名会社有隣堂」を吸収合併し「株式会社有隣堂」が誕生します。
有隣堂はかつて第九まであり、それぞれ第一有隣堂から暖簾分けしましたが、吸収合併や廃業に伴い現有隣堂のみ残っています。
(※横浜市西区藤棚に第七有隣堂が最近までありましたが廃業すみません、誤報です。

(出版部門)
全国の大手書店の中で、古くから丸善・紀伊国屋と並び出版部門を持つ有隣堂ですが一般分野の出版を手がけて来た他社とは一線を引き、有隣堂は現在も横浜関連の出版を基本にしています。

横浜を知るには「有隣堂」の出版物が不可欠です。中でも有隣新書は、記念すべき第一巻が1976年(昭和51年)発行の名著「港都横浜の誕生」石井孝著です。
現在出版界を牽引する“新書”の歴史は1938年創刊の岩波新書に始まりますが、地域出版としては草分け的存在といえるでしょう。紀伊国屋新書もありましたが、現在は復刻のみです。

また、私が最もお世話になっているのが
「横浜近代史総合年表」松信太助編、石井光太郎+東海林静男監修
です。開国期から昭和まで新聞・雑誌・書籍・チラシ等から丹念に史実を拾い出しコンピュータ普及以前の手作業でまとめあげた業績は大きいものがあります。当初は、故松信太助氏が20年に渡って個人的に整理し社内資料としてまとめていたものでした。ファイルカードの枚数は8万枚にも及んだそうです。
この知的集積を公開していく作業も書籍(現在ではネット)の大切な役割といえるでしょう。

(有隣堂の思い出)
有隣堂本店イセザキ店には、創業当時から“飲食コーナー”が併設されていました。戦前は有隣食堂として人気だったそうです。
戦後はいち早く洋食レストランが地下にオープンし、食事・喫茶を楽しむことができました。
また、一時期馬車道に「ゆーりん ファボリ」という文具のコンセプトショップがあり、そこには「くれーぷ屋」というこれまた当時としてはかなり斬新な喫茶レストランが併設されていました。記憶にある方も多いのではないでしょうか。

閉店寺にいただいた“お宝”です。
見つけました。当時のマッチ!自分でも物持ちの良さに敬服。

文具が規格量産(不況)の時代に入り、閉店してしまいましたが
この「ファボリ」は今こそ“欲しい”文具・アートショップでしたね。
また、地域の子供達を対象にした「親子はかせセミナー」は、35年近く続いている地道な企画です。

(画期的)
有隣堂のPR史には画期的なCMが作られたことがあります。
テレビ神奈川(現 TVK)で流された「一冊の本があれば」です。
完全なイメージ広告で、その完成度がこれまた高いものでした。CMソングに企業名を一切入れない、コンセプトのみ伝えるという手法で歌を制作したそうです。口ずさんでもらえることを狙い、「歌いやすく“つぶやきやすい”ことが大切だ」と考えたと制作責任者だった大貫和夫(元取締役)氏からうかがいました。
歌手名を失念しましたが たぶん「小坂 忠こさかちゅう」です。
砂漠のシーンから始まった記憶があります。

(余談)
有隣堂で続けられていること
私はあまし選択しないのですが(気に入らない訳ではありません)有隣堂で文庫を購入するとブックカバーの色を選ぶことが出来ます。
これって「実用新案特許」も取得しているそうです。
ところが 調べたら 手元には6色ものカバー文庫が書棚に入っていました。さすがに「ピンク」は選べないなと感じていましたが
ありましたね「ピンク」も ブルーが二種類あって一番好きですね。

(余談の余談)
山手学院(横浜市栄区)は、有隣堂の運営する学校法人です。学校創設者は江守節子で、現社長の叔母にあたります。理事長は現在篠崎孝子で、江守節子の妹(元有隣堂社長)です。
http://www.yamate-gakuin.ac.jp/about/index.html