8月 21

【番外編】生麦、旧東海道を歩く

■準備編
散策日はできれば平日(月曜水曜を除く)の朝(午前10時くらいまで)出立がベストです。
理由は、散策ルートに「生麦魚河岸通り」「キリンビアビレッジ」があるからです。
「生麦魚河岸通り」は水曜日が定休のお店が多い。


店開きしている通りと閉まっている通りでは 全く別の表情です。
「キリンビアビレッジ」は月曜がお休みです。
http://www.kirin.co.jp/about/brewery/factory/yokohama/
(見学はネットでも予約できます)

■歴史編
生麦(なまむぎ)の地名はどこから?
諸説あります。
生麦の地名のいわれは、確定していません。
一般的に「地名のいわれ」には、その場所の歴史が反映しています。あまり厳密に考えず複数ある場合は、それらを全て楽しむのがベストです。
その地に因んだ呼び名の音(おん)に後で漢字をあてたりすることが良くありますが、ナマムギも貝が採れたことから「なまむき」が生麦にという説があります。
また、殿様が街道を通る際、ぬかるんでいた道に生の麦を敷き詰め一行を通したことからそのまま「生麦」となったという説、
古来砂丘を表す言葉に「ままむぎ」という語がありますがその音がなまって「なまむぎ」になった説の他にも幾つか説がありますが、それぞれにこの「なまむぎ」の地を表す特徴を示していますのでどれも楽しいものです。
(漁場 生麦)
江戸時代になり、街道筋が整備されてくると江戸・東海道筋の需要に応えるために近郊の農業や漁業が盛んになってきます。特に漁業に関しては江戸湾(東京湾)に八カ所の幕府認定の専用漁場がありました。その一つが「生麦」だったそうです。そのなごりというか、歴史を残しているのが「生麦魚河岸通り」です。

■ルート編
生麦散策のスタートは鶴見線「国道駅」から京浜急行「生麦駅」が手軽です。目的によっては逆コースも良いでしょう。


(テーマ1)
「生麦魚河岸通り」と「貝殻浜」を見て鶴見川河畔を歩く
貝殻浜はほんの一部だけ残してるだけ!(昔は迫力ありました)です。


(テーマ2)
「キリンビアビレッジ」見学を中心にする
http://www.kirin.co.jp/about/brewery/factory/yokohama/
最近ビオトープが完成しました。
ここのガス灯は、横浜で明治からガス灯を作っているマスオガス(現在東京ガスエネルギーフロント)さんが設置したものです。


(テーマ3)
杉山神社あたりまで足を延ばす(急階段です)。
 神社仏閣巡りには欠かせないアイテムです。


(食事は?)
お弁当派の場合は、「キリンビアビレッジ」の公園で食事できます。
レストランも完備していますし、勿論ビール試飲もできますよ。
生麦駅近辺にはレトロな食堂が幾つかあります。

(おみやげは?)
子育てまんじゅう
よねまんじゅう  

 


■サブコンテンツ
①「生麦魚河岸通り」朝市


②生麦陸橋(正式には生見尾人道橋)で 電車三昧(鉄道ファン向け)
JRが4路線(プラス1) 京急が1路線走る場所で、上り方向と下り方向の景色がまるで違うのもファンには垂涎ポイント?


③蛇も蚊も祭り
「蛇も蚊も祭り」は、鶴見生麦に伝わるお祭りで、昔は毎年6月6日に原・本宮地区が一緒に行っていましたが、明治の中頃から本宮の道念稲荷社と原の神明社の2ヶ所で別々に(同じ日)行われるようになったそうです。説明文も微妙に異なるところが 地域を二分した“こだわり”を見て取れます。

(道念稲荷社の看板)

 

横浜市指定無形民俗文化財
    蛇も蚊も(じゃもかも)
        平成4年11月1日指定
      行事の日 6月第1日曜日
      保存団体 本宮蛇も蚊も保存会
 蛇も蚊もは、約300年前に悪疫が流行したとき、萱で作った蛇体に悪霊を封じ込めて海に流したことに始まると伝えられています。この行事は、端午の節句の行事とされ、明治の半ば頃から太陽暦の6月6日になり、近年は6月の第1日曜日に行われるようになっています。
 萱で作った長大な蛇体を若者・子供がかついで「蛇も蚊も出たけ、日和(ひより)の雨け、出たけ、出たけ」と大声に唱えながら町内をかついで回ります。もとは、原地区(神明社)が雌蛇、本宮地区(稲荷神社)が雄蛇を作り、境界で絡み合いをさせた後、夕刻には海に流していましたが、現在は、両社別々の行事となっています。
    平成24年2月
            横浜市教育委員会

(神明社の看板)

横浜市指定無形民俗文化財
    蛇も蚊も(じゃもかも)
        平成4年11月1日指定
      行事の日 6月第1日曜日
      保存団体 生麦蛇も蚊も保存会
 蛇も蚊もは、約300年前に悪疫が流行したとき、萱で作った蛇体に悪霊を封じ込めて海に流したことに始まると伝えられています。この行事は、端午の節句の行事とされ、明治の半ば頃から太陽暦の6月6日になり、近年は6月の第1日曜日に行われるようになっています。
 萱で作った長大な蛇体を若者・子供がかついで「蛇も蚊も出たけ、日和(ひより)の雨け、出たけ、出たけ」と大声に唱えながら町内をかついで回ります。もとは、原と本宮で一体づつ作り、原のものが雌蛇、本宮のものが雄蛇だといって、境界で絡み合いをさせた後、夕刻には海に流していましたが、現在は、両社別々の行事となっています。
            平成5年3月
            横浜市教育委員会

8月 21

No.234 8月21日(火)パーセプションギャップの悲劇

日本の歴史の中で幕末ほど複雑な時代は無い!と言われます。
中でも“何でもあり!の文久”の頃は、年表を眺めるだけでも事件だらけ。
その代表格が文久二年八月二十一日(1862年9月14日)の今日起った「生麦事件」です。
詳しくはいろいろネットでも書籍でも判りますので、ここではざくっとまず事件の概要を紹介します。

Place_of_Namamugu_Incident_Display_signboard
現在、生麦に設置されている情報板

事件頻発の文久時代の事件一覧です!
■文久元年(1861年3月28日〜)
・ポサドニック号事件(ロシア、イギリス)
 No.34 ‎2月3日 ポサドニック号事件で咸臨丸発進

・第一次東禅寺事件(イギリス 水戸藩)
■文久2年
・坂下門外の変(尊王攘夷派 水戸浪士)
・寺田屋事件(尊皇派 薩摩藩)
・第二次東禅寺事件(イギリス 松本藩)
・生麦事件(イギリス 薩摩藩)

(生麦事件以後)
・英国公使館焼き討ち(イギリス 長州藩)
■文久3年
・イギリスが幕府に東禅寺事件と生麦事件の賠償金合計11万ポンドを要求。
 戦争になるとの噂が流れ、多くの日本人が横浜を脱出します。

・新撰組の誕生(壬生浪士の誕生)
・長州藩、下関で外国商船を砲撃
・米国、下関に報復攻撃
・フランス、下関に報復攻撃。上陸し一部砲台を破壊。
・薩英戦争
・八月十八日の政変

3年の間に、国内は勿論列強各国と事件が多発します。
幕末で最も外交関係が緊張した時期です。
そのキッカケとなったのはイギリス公使ラザフォード・オールコックらを水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名が襲った「第一次東禅寺事件」です。

そして「生麦事件」の勃発です。
脱藩藩士による「第一次東禅寺事件」と違って、薩摩藩主の一行が東海道を京都に向かっている途中、東海道で乗馬を楽しんでいた英国人4人と遭遇、薩摩藩士が護衛のため斬りつけ死傷者が出るという事件です。
薩摩藩主 島津久光の一行約400名の陣容での上京でした。
開港以後、街道を重要な一行が通る場合、幕府は横浜居留地に事前連絡する手はずでしたが、今回の薩摩藩の行動は通知されていませんでした。

当時、島津久光は江戸で重要な「公武合体運動推進」のための久光提案(三事策)を幕閣に承認させ幕府の政策転換の準備万端!
目標達成の高揚感の中、京都に戻る途中でした。
一方のイギリス人4名の行動ですが、
「アーネスト・サトウの日記」『横浜どんたく」等を読む限り、どうも腑に落ちない点が多いのですが、イギリス人達も、甘く考えていたようです。
薩摩も最初から切り捨てる意思は無く、パーセプションギャップの悲劇といえるでしょう。
得てして 歴史はこのようなキッカケで激変するものです。

この生麦事件で薩摩藩と鹿児島で薩英戦争が起こり、英国は薩摩のある意味実力を知り、外交方針を大きく変更します。
またこの事件以降、薩摩藩も大きく変化し英国と接近していきます。


(生麦事件の企画展)
2012年
横浜市歴史博物館「生麦事件と横浜の村々」(〜9月23日)が開催されました。
http://www.rekihaku.city.yokohama.jp/kikak/detail.php?ak_seq=114

(変貌する生麦)
2012年は生麦事件が起って150年目ということで、
冒頭の案内通り企画展が行われました。
そして、もう一つ生麦は今、横浜環状北線工事で大きく変わろうとしています。
(第三京浜と首都高速横羽線がつながります)
http://www.yokokan-kita.com

キリンビールと崎陽軒の工場が結ばれる?
「きたせん」は、第三京浜道路 港北ICから首都高速神奈川1号横羽線 生麦JCTまでの8.2kmを結ぶ路線で、キリンビール生麦工場の脇から、崎陽軒横浜工場の脇まで地下と鶴見川沿いに建設されます。

2012年の看板です

この「首都高速神奈川1号横羽線 生麦JCT」付近の工事エリアに
「生麦事件の現場」が含まれるために現在「記念碑」は臨時移転しています。
これらを含めて 生麦エリアを散策する良いチャンスかもしれません。

(国道駅から生麦まで)散策レポートは 番外編で紹介します。
【番外編】生麦、旧東海道を歩く

8月 20

No.233 8月20日 (月)相鉄線ミニ物語(加筆版)

駅にも誕生と廃止の歴史があり、それぞれにドラマがあります。
1934年(昭和9年)8月20日の今日開業し、
1957年(昭和32年)1月に廃業した「古河電線駅」から相鉄線の小さなエピソードを紹介します。

相模鉄道(本線)は、横浜駅と小田急線海老名を結ぶ
私鉄大手で最も短い営業距離を首都圏最大級の密度で運行するスーパー路線です。
過去に横浜市域の営業路線で廃止となった相鉄線の駅が四つありました。

開業日見比べると?不思議だと思いませんか?一駅毎に開設日が違います。

※相鉄線横浜駅開業は意外と後になります。このあたりの話しは相鉄創業の話しの時にご紹介します。

その中で、大工場用に通勤駅として開業したのが「古河電線駅」です。
この駅は現在の古河電工の横浜工場用にできました。

正確な場所は特定できませんでしたが、「tvkハウジングプラザ横浜」と「横浜イングリッシュガーデン」の間位でしょうか。
http://www.tvk-plazayokohama.jp/
http://www.y-eg.jp/

この古河電線駅は朝・夕のみ停車したそうです。
地図で確認すると、鶴見線の「海芝浦駅」と同じ性格を持った駅でした。
駅そのものが工場の敷地内にあり改札が“専用”だったようです。
当時の名残は全く見当たりませんが、現在帷子川に「電線橋」という名の橋が架かっています。
(以前写真探しています。再撮かな)
古河電線駅の歴史
1934年(昭和9年)8月20日当時の神中鉄道が平沼橋〜西横浜間に工場通勤用に開業しました。
1943年(昭和18年)4月1日に神中鉄道は合併により相模鉄道の駅になります。
戦時中から営業を休止し、基幹産業のため空襲を受けました。
1957年(昭和32年)1月に廃駅となりました。

No.177 6月25日 出られない出口

(古河電線の話し)
No.1275月6日(日)あるガーナ人を日本に誘った横浜の発明王

No.179 6月27日(水)電気が夢を運んだ時代?

かつてこのエリアにあった古河電工と横浜ゴムの関係について紹介しましたが、現在も「古河電工 横浜研究所」があります。
ここには名門サッカーチームがありました。
戦後からここのサッカー場を練習所として活躍しました。1946年に創設された「古河」で現在の「ジェフユナイテッド」(株式会社 東日本ジェイアール古河サッカークラブ)です。
ジェフユナイテッドは「ジェフユナイテッド市原」または「ジェフ市原」として千葉県市原市をホームグラウンドとして活躍していますが、横浜がルーツなんです。
なんていうと“波乱”が起こりそうですが、横浜に三つのチームができた可能性もあったんですね。
偶然だと思いますが、この「古河電線工場」のある島状の敷地を斜めに、相模鉄道とJR東海道線、JR横須賀線が走っています。元々は石崎川沿いに国鉄路線(第二横浜駅時代)があり現在も少しその雰囲気が残っています。
JRと古河は電線工場時代から関係が深かった?のかもしれませんね。

ここ古河電工サッカーチーム出身で「東洋のコンピューター」と呼ばれたブンデスリーガで活躍した奥寺康彦は、現在の株式会社横浜フリエスポーツクラブ(横浜FC)の会長です。
http://www.yokohamafc.com
彼は、横浜出身で日本サッカー界初のヨーロッパトップリーグで活躍した選手です。

この「裏高島」は運河に囲まれ、かつては電線工場、瓦斯工場、その他の製造工場が建ち並ぶ工場エリアでしたが近年、前述の「tvkハウジングプラザ横浜」と「横浜イングリッシュガーデン」が進出するようになって景色が変わり始めました。
川沿いにマンションも多くなり、工場街から住宅街に変わってきました。
「石崎川プロムナード」が一部に整備されていますが、今後もう少し魅力アップを図ると界隈性のある独特の街に育っていくでしょう。
(ただ、人道橋が欲しい!)どこに架けるかは議論があるとは思いますが…。

【相鉄線ミニ物語】
別立てにしようかなと思いましたがここに
簡単ですが相鉄の面白史を紹介しておきます。

 

相鉄線(神中鉄道)は
神中鉄道(株)は1917年(大正6年)
保土ケ谷区岩間町に創設されました。
一方、
相模鉄道(株)も1917年(大正6年)
茅ヶ崎市に創設されました。
現在の相模線(茅ヶ崎〜橋本)が相模鉄道として開通。
横浜線に接続しました。
1943年(昭和18年)に相模鉄道(株)が神中鉄道(株)を吸収合併します。
ところが 相模鉄道の本線である茅ヶ崎〜橋本他を国に吸収されてしまいます。
1944(昭19)のことです。
茅ヶ崎〜橋本からスタートした相模鉄道(株)が
吸収した神中鉄道(株)の海老名〜横浜の路線経営というのも
不思議な歴史の巡り合わせです。

8月 19

No.232 8月19日 (日)LZ-127号の特命

1929年(昭和4年)8月19日午後5時を少し回った頃、
飛行船ツェッペリン伯爵号(グラーフ・ツェッペリンLZ-127号)が
世界一周の途上、横浜市街を回遊し着陸地の霞ヶ浦に向かいました。
この横浜飛来は、ツェッペリン伯爵号が事前に提出していた帝都訪問飛行計画には含まれていない突然のルート変更でした。
今日はその謎解きを大胆に素人仮説で解いてみたいと思います。
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横浜上空のツェッペリン伯爵号

(LZ-127号)
飛行船『ツェッペリン伯号(はくごう)』はドイツのツェッペリン社によって開発された当時最先端技術を集めた大型旅客硬式飛行船の船名です。
飛行船による大航海の時代は、1900年に始まり
このツェッペリン伯爵号の世界一周でピークに達します。
1937年(昭和12年)のレークハーストで起きた世界最大飛行船ヒンデンブルク号の爆発炎上事故で死者36人を出す事によって終りを告げます。緊迫した大戦前夜の悲劇ともいえる事故でしたが、1920年代から1930年代にかけてアメリカ、イギリス、イタリアおよびソ連でも盛んに製造されました。
一般的に飛行船をツェッペリンと称することが多かったようですが
ツェッペリン社製の飛行船はLZ-126号とLZ-127号、LZ130号に代表される数隻に過ぎません。
あまりにツェッペリンのインパクトが強かったため当時の一般名詞となったそうです。

(飛行船の時代)
日本にツェッペリンが飛来した1929年(昭和4年)8月は米国に始まるウォール街の大暴落直前の好景気に酔っていた時代です。
一次大戦で債務国から債権国となり覇権国家に躍り出たアメリカ。
逆に敗戦国の債務に苦しみファシズムが台頭するドイツ。
未知の共産政権ソビエトの登場。
そして日本は 関東大震災の復興に苦しんでいました。
中でも横浜は東京に集中した首都復興政策に取り残されそうになっていた時でした。

(ツェッペリン伯爵の夢)
飛行船は、フェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵が生涯をかけて開発した硬式飛行船の一種で、世界の飛行船製造のスタンダードモデルとなりました。このツェッペリンモデルを実業化したのが「グラーフ・ツェッペリン」で、建造資金はドイツ国内の義援金やドイツ政府の資金拠出金によって集められました。
そして、LZ-127号を使った世界一周のメインスポンサーがWilliam Randolph Hearst、新聞王となりイエロー・ジャーナリズムで帝国を築いた人物です。
不景気に悩むドイツの技術力をアメリカが買ったのです。
正確には、アメリカのハースト新聞社が必要経費の約半分、残りをドイツ、フランス、日本など世界の新聞社が資金提供したメディア船でした。
定員20名の乗客の中には各国政府代表、富豪、メディア関係者、そして2名の日本人記者と軍人(日本政府代表)の3名が乗り込み、ハースト新聞社からはカメラマンと
紅一点のグレース・ドラモンド・ヘイ女史が乗り込みました。


(飛行ルート)
■出発地はツェッペリン社のある南ドイツのフリードリッヒスハーフェン(Friedrichshafen)から一度ニュージャージー州レイクハーストまで飛行し世界一周の出発地とします。(レイクハーストを発着点にすることが資金提供条件)
http://ja.wikipedia.org/wiki/フリードリヒスハーフェン
ソビエト上空を横断し、シベリアから樺太に入り、日本へ。
霞ヶ浦に着陸(唯一の中継地点)し、アラスカ経由でロサンゼルス、東海岸のハースト湖まで飛行しました。
おおよそのルート
 

※ちなみに茨城県土浦市とフリードリヒスハーフェンは姉妹都市です。

(日本国内ルート)
1929年(昭和4年)8月19日の早朝、
北海道寿都町(すっつちょう)上空から日本列島を南下、着陸地霞ヶ浦を確認し、東京の千住から隅田川、東京港上空を経て品川から山手線に沿って渋谷、新宿、池袋を通って再び千住へと皇居外周部を回り、霞ヶ浦に着陸する予定でした。
ツェッペリン伯爵号の飛行ルートとしては、破格のサービスのようにも思えます。
他の国々はさらーっと通過しているにも関わらず、ツェッペリン伯爵号は、北海道から横浜まで、じっくりその容姿を日本国民に見せつけます。
『君はツェッペリンを見たか』が合い言葉になったそうです。
ツェッペリン伯爵号は乗員65名(乗客20数名を含む)で、全長236.6m、最大直径30mの空に浮かぶ巨体です。
池袋のサンシャイン60の高さが地上239.7mですからその大きさのすごさを簡単に想像できます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/サンシャイン60
着陸地、霞ヶ浦には東京から臨時便の列車も出て当時30万人もの人出でした。

(進路変更)
実際にツェッペリン伯爵号は隅田川上空から急に予定進路を変えます。
清州橋から機首を都心(皇居方向)に向け東京駅、皇居の一部をかすめ(国会でもめますが、関係国との配慮で不問)品川から多摩川河口を越え神奈川県に入ります。
川崎の京浜重工業地帯を通過した後、横浜市内に飛来します。さらにツェッペリン伯爵号は横浜中心部上空で旋回して、往路と同じ都心コースを引き返し、霞ヶ浦に着陸します。

 なぜ?
ツェッペリン伯爵号は都内周遊を変更し横浜に飛来したのでしょうか?
関係者の記録が現在無いため真相は謎です。一部資料には
「研究者の間では、藤吉らの日本人が、発展した日本の首都の中心と横浜の姿を外国人に見せたがったらしい」とありますが、日本縦断だけでも異例のサービスと思える飛行に急遽、変更するとは中々考えづらいものがあります。
事実、
乗船客の一人でソビエト政府代表の地理学者カルクリン氏はソ連上空の飛行ルートリクエストにツェッペリン伯爵号が一切応じなかったため
(たいした要求では無かった)怒って霞ヶ浦で下船するという騒動も起っています。

(仮説)
1929年(昭和4年)当時、横浜市長は有吉忠一でした。
大正14年(1925年)5月7日、震災復興にために市長になったような有吉は、横浜港の拡張、臨海工業地帯の建設、市域拡張の三大方針を打ち出し大胆な復興事業を進めます。
No.128 5月7日 今じゃあり得ぬ組長業!?

しかし、市の財政は逼迫していました。
横浜復興の総費用は約2億円、国が半額強を出しましたがそれでも約8,000万円は横浜市の財政でまかなう必要がありました。
当時の横浜の通常予算は年間約1,000万円でしたし、税収の大幅減少は明らかでした。
この時、国は横浜に“悪魔のささやき”をします。
アメリカからの借金です。米貨公債の発行です。
横浜市は当時4,000万円に当たる約2,000万ドルをアメリカから借金します。
時代は明らかに英国から米国に世界経済の主役が交代した時代です。
世界情勢情報が経済を左右し始めた情報経済の始まりです。
まさに「非対称性情報」下の市場経済が経験的に登場し始めました。

“ハーストミッション”がツェッペリン伯爵号にはあったのではないでしょうか?

 

ハースト自身がこの米貨公債を購入していたかどうか未調査ですが、少なくとも銀行団を含め多くのアメリカ資本が米貨公債の行方を気にしていたことは当然でしょう。
京浜工業地帯から横浜市内の復興状態を確認させ(写真に収め)彼らに提供することを企画したとしても不自然ではなかったでしょう。
ハースト新聞社が多額の資金で運行させた飛行船に
紅一点のGrace Marguerite Hay Drummond-Hay女史と
カメラマンを同乗させた目的・役目は何だったのでしょうか?
http://en.wikipedia.org/wiki/Grace_Marguerite_Hay_Drummond-Hay

イギリス外務省高官の未亡人であったヘイ女史は国際感覚と、動じない強靭な精神力の持ち主だったとも言われています。
何らかのミッションを持っていたKey Women であったことは間違いないでしょう。

この時代、横浜にとって昭和初期は大変重要な
曲がり角の十年といえるでしょう。

No.464 昭和5年頃の横浜

(余談)
霞ヶ浦からロスまでの機内食を用意したのが帝国ホテルだったそうです。
アメリカの名門ホテル、ウォルドルフ=アストリア経営者が帝国ホテルに勤めていた剣持確磨氏に依頼し実現しました。
重量制限の厳しい中、上質のメニューづくり当時のスタッフが苦労されたそうです。
61人6日分、総重量1トンの範囲でしかも保存できるように準備する必要がありました。
「鶏肉のソテー トリュフ風味ソース」
「フォアグラのパテ」
「ジェリー添えの鎌倉ハム」などが提供されたそうです。

機内献立表
 
20120819も横浜上空を飛行船が舞いました。
8月 18

No.231 8月18日 (土)give a twenty‐one gun salute.

汽帆走コルベット艦「エルツヘルツォーク・フリードリヒ(Erzherzog Friedrich)号」は
1875年(明治8年)8月18日の今日、横浜港内で祝砲21発を放ちます。
二日前にオーストリア・ハンガリー領事より神奈川県に「軍艦フリードリヒ号にて祝砲施行」の通知が届いていました。
※礼砲21発は最高儀礼を表す外交プロトコルで、明治初期にもうしっかり使われていました。

オーストリア=ハンガリー二重帝国の国旗

祝砲の理由は、オーストリア=ハンガリー二重帝国、オーストリア=ハンガリー君主国とも呼ばれた19世紀末から第一次世界大戦までの半世紀、最後の国王と呼ばれたフランツ・ヨーゼフ1世の45歳の誕生日に合わせ行ったものです。
 (ここでは以降オーストリア帝国と略します)

フランツ・ヨーゼフ1世


19世紀のヨーロッパはアジア覇権の時代であると同時に、列強各国のつばぜり合いの時代でした。ここで簡単にオーストリア帝国と日本の関係を紹介しておきましょう。

フランツ・ヨーゼフ1世は、没落しつつあるハプスブルグ帝国の末期の国王として最後の光り輝く時代を生き抜きます。(在位は1848年 – 1916年)

1869年(明治2年)日墺修好通商航海条約が締結されます。最後の欧州列強と日本との国交樹立です。この通商条約は英国領事パークスの勧めで締結されましたが、パークスの狡猾な外交戦術でもありました。

欧米列強による日本に対する不平等条約の集大成とも言われています。
この時、オーストリアの使節団と一緒に一人の青年シュティルフリート男爵が来日し横浜でベアトに本格的に写真術を学んだ後シュティルフリート商事(Stillfried & Co.)という写真スタジオを設立し横浜写真史の1ページを築きます。(斎藤多喜夫著「幕末明治横浜写真館物語」吉川弘文館)
ここでは省略します。詳しくは前記書籍か、下記リンク参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ライムント・フォン・シュティルフリート
http://ja.wikipedia.org/wiki/シュティルフリート・アンド・アンデルセン
ベアトに写真を学んだシュティルフリートは日本の写真を
1873年(明治6年)5月1日〜11月1日まで開催されたウィーン万国博覧会に出品し評価を得ます。

18731
10013


この博覧会は、日本政府がはじめて公式に参加、出品した博覧会でした。

1,300坪ほどの敷地に神社と日本庭園を造り、白木の鳥居、奥に神殿、神楽堂や反り橋を配置し、産業館では(有名な)名古屋城の金鯱、様々な工芸品を展示しウィーンのジャポニスムとして1890年代の分離派、クリムトの絵画に大きな影響を与えます。

そして、1874年から76年にかけて、オーストリア帝国戦艦「エルツヘルツォーク・フリードリヒ(Erzherzog Friedrich)」(海軍総司令官ペック)による世界周航の途中、横浜港に立ち寄り国王の誕生日を祝砲で祝います。この航海は、ハプスブルク帝国の軍艦がこれまで成し遂げた世界周航の第3回目にあたります。


1857年4月に建造され、総トン数1,724トンの当時のオーストリア帝国が誇る艦船でした。

This photo was taken in 1873, seven years after the battle.

その後、オーストリアも第一次。第二次世界大戦を経て大きな変化の中、現在に至ります。1955年(昭和30年)に日本国とオーストリア共和国が再び国交を樹立し今日に至っています。

http://wiener.web.fc2.com/jo.html


ここでオーストリアと関係の深い横浜ブランドを紹介しましょう。

■横浜でオーストリアといえば、
31年間、ドイツ料理店として培った礎とオーストリアハンガリー帝国時代のウィーン宮廷料理をコンセプトに、伝統と歴史を加味した新しい料理を提供している日本大通にある「アルテリーベ」でしょう。
http://www.alteliebe.co.jp

■横浜市青葉区荏田にオーストリア国家公認製菓製造マイスターの資格をもつシェフの店「ウィーン菓子 NASCHKATZEーナッシュカッツェー」があります。

http://www.naschkatze.jp

■そして「近沢レース」の”プチポワン刺繍”は250年余りもの昔にオーストリアの女帝マリア・テレジアの君臨するハプスブルグ家で開花した歴史ある優雅な技法です。

http://www.chikazawa-lace.co.jp


(礼砲に関しては)

No.64 3月4日 日本初の外国元首横浜に

1881年(明治14年)3月4日日本国を訪れたハワイ国王が、最高儀礼で迎えられます。
日本初の国家元首訪日でした。
8月 17

No.230 8月17日 (金)孫文上陸(加筆修正)

「中国革命の父」と呼ばれた孫文、
中国が清国から独立した辛亥革命は彼抜きで語れません。
革命直前まで清国に追われ、革命後は袁世凱と敵対しながら何度も亡命を繰り返しては中国本土の革命勢力を取りまとめようしました。
その重要な舞台となったのが日本です。
さらに横浜は孫文にとって忘れ得ぬ地となりました。
1913年(大正2年)8月17日の夜半、革命今だ達成しない傷心の孫文が、富岡の海岸に上陸します。

上陸したのはこの近辺です。

(ちょっと複雑ですが)
孫文は革命を決心してから十数回日本を訪れます。
通算で9年以上滞在しますが、そのうち横浜滞在期間は延べ6年近くに及びます。
孫文が亡命滞在した世界の各都市で、横浜が最も長い滞在地でした。

最初は19世紀末「清国」末期の時代です。
アヘン戦争、太平天国の乱、洋務運動が起こり、日清戦争で大きな賠償を抱える革命前夜の1895年(明治28年)11月です。
ハワイにいた孫文は中国広州で挙兵しますが失敗、同志とともに日本へ亡命し、横浜に革命派の秘密組織「興中会」支部を設立します。
その後、機会を見ては本国で挙兵しますが失敗し日本、欧米に亡命を繰り返します。
革命派「興中会」は1911年まで10回の武装蜂起を決行し全て失敗しますが革命の引き金となっていきます。
※ちょうどこの頃、1906年頃を描いた映画が「孫文の義士団」です。
http://sonbun.gaga.ne.jp

この間 日本亡命中に孫文は、多くの日本人支援者と出会います。
南方熊楠
宮崎滔天
犬養木堂
頭山満や内田良平と玄洋社社中
副島種臣
そして彼に現在なら一兆円近い支援をした
実業家 梅屋庄吉らです。
当時(孫文を確保したい)清国領事館のあった横浜中華街で孫文は、運命の女性との出会います。
この間、加賀町警察の積極的な保護を受け、革命運動の準備を行うことが可能となりましたが、同じくロンドン亡命中は、清国公使館に監禁されてしまいました。

そして、期熟し
1911年(明治44年)10月10日の武昌蜂起をキッカケに辛亥革命が起ります。
この時孫文はアメリカに亡命していましたが各地で蜂起したリーダー達を取りまとめるために、急遽上海に戻り臨時大統領となります。
ところが、
世紀の悪党!
策士「袁世凱」に見事、クーデターを起こされます。
1913年(大正2年)に政権奪還のために蜂起しますが大惨敗します。
孫文は亡命を求め日本(神戸)へ向かいます。
孫文の電報を受け取った日本の支援者は亡命を許可するよう求めますがしばし時間がかかります。
孫文は中国からまず神戸に入り、その後横浜に向い、
8月17日の夜半、神奈川県警水上警察署のランチに乗り移り
 富岡海岸沖合で和船に乗り換えて、日本に上陸します。失意の亡命でした。

上陸の碑「孫文先生上陸之地」が、金沢区富岡東の慶珊寺(けいさんじ)山門脇に建てられています。(位置は冒頭のマップ参照)

孫文は生涯、理想の革命を追いますが実現する事はありませんでした。
「革命尚未成功、同志仍須努力 (革命なお未だ成功せず、同志よって須く努力すべし)」という遺言を残し、1925年(大正14年)3月12日に北京で亡くなります。

孫文は、日本で自らを孫中山と呼ぶようになります。
以後、中山は孫文を表すキーワードとして世界中の中華街には中山路(チュウザンルー)があり、彼の偉業をたたえる中山記念堂が建てられています。

創業当時の外観
魅惑の担々麺、90年代後半まで裏メニューでした。

横浜の中山記念堂は、北京料理の名店で魅惑の担々麺がある「華都飯店」の三階にあります。

8月 16

No.229 8月16日 (木)一六 小波 新杵

1888年(明治21年)8月16日の今日、
後に児童文学者となった巖谷小波が父巌谷一六に連れられて金沢富岡の初代内大臣「三条実美」の別邸”富岡海荘”に行きました。
その時父一六は54歳、小波は18歳でした。

富岡海荘の図 沖から見た富岡

巌谷小波の記録には訪問目的は記されていませんが、
この年、現在の金沢区富岡東2丁目の海岸に三条実美は”富岡海荘”を建てていますから、新築祝いかもしれません。
どちらにしろ、明治天皇の最も信頼の厚かった内大臣「三条実美」の別邸ですから、多くの人々が訪れたことでしょう。
巌谷一六もかなり三条との交流があった関係と推測できます。


巖谷小波(いわやさざなみ)の代表作の一つ
唱歌「富士山」の作詞者です。
https://www.youtube.com/watch?v=aIOsF8fg4Dg
あたまを雲の 上に出し
四方の山を 見おろして
かみなりさまを 下に聞く
富士は日本一の山
青空高く そびえ立ち
からだに雪の 着物着て
霞のすそを 遠く曳く
富士は日本一の山

一方父の巌谷一六(いわやいちろく)は
1834年3月17日(天保5年2月8日)〜1905年(明治38年)7月12日

明治の三筆(四筆)と呼ばれた書家で、本名は修、一六は号。
菱湖流と六朝書法の書風を確立します。

では、
この二人が訪れた「三条実美」の別邸はどこか推理してみます。

幾つか資料で三条の別荘の位置について表記されています。
「1888年(明治21年)に現在の金沢区富岡東2丁目の海岸に別荘を建てた」
(富岡海荘図巻)

左手といってもそそり立つ岸壁の中腹あたり?

「〜富岡の海岸で、富士山の左手に三条の別荘があったと思われる。」
この資料だけで、勝手推測しました。
※海上から富岡海岸を見た海岸風景ですが
富士山の位置(見えたた)が正確かどうかは不明です。
飾りとして<富士山>を添える、デフォルメするケースは
良くありました。
富岡東2丁目は富岡総合公園一帯ですので公園の一角に富岡海荘はあっただろうと断定!?
周辺を探してみました。


深い追求は専門家に任せるとして、まだ京急も国道も整備されていない旧道からもちょっと距離のある場所に別荘を建てるとはすごいなと感心しながら富岡巡りをしました。すぐ近くに、同時期 大蔵大臣だった松方正義の別荘もあったということですから、良いロケーションだったようです。

小高い丘の中腹からは東京湾、千葉県が目の前に広がっています。当時横浜入港の外国船は 金沢沖を通りましたので 異国船のチェックもできたかもしれません。

(一六 新杵)
三条の富岡海荘を訪れた巌谷一六は、
近江の人で代々藩の医者の家だったそうです。
息子には医者になってもらいたかったようですが、小波は文学者の道を選びます。巌谷一六、明治38年に亡くなりますが、多彩な書を残しています。

ネットで調べたら 書がらみで意外な発見。
巌谷一六氏は横浜、関内の南仲通で1884年(明治17年)創業した洋風菓子製造の店看板の揮毫を引き受けています。

店の名は「新杵」で、創業者は 桐沢枡八で、東京には 桐沢清吉が支店を出しています。
「新杵」の文字(ロゴ)が開店に合わせて書かれたのか、判りませんがかなり個性的な文字です。

モースコレクションから発見

昔で言う「暖簾分け」で1910年(明治43年)に創業したお店が、現在清瀬に本拠を移し現在関東一円に多くの支店を出している「元祖 焼大福」の新杵です。

5種類もあってそれぞれ 美味しゅうございました。
8月 15

No.228 8月15日 (水) 夏休みはナイトのげやまへ

1972年(昭和47年)8月15日の今日
「野毛山遊園地」の名称を「野毛山動物園」に変更した日です。
最近「野毛山動物園」行きましたか?

横浜市立「野毛山動物園」は、入場無料の動物園です。

 

しかも、都市部の動物園としては、ライオン、アムールトラ、ジャガー(黒変種)、キリン、チンパンジー、レッサーパンダ、フンボルトペンギンなど100種類以上、1,000点以上の動物を飼育している質の高さを誇っています。

中でも室内温度を一定温に保った爬虫類専用の展示館ではワニ類や陸ガメが飼育されており人気ゾーンとなっています。

http://www2.nogeyama-zoo.org
http://zoofan.jp/nogeyama/

(現在ナイトのげやま実施中)
9月1日までの毎週土日は開園時間を延長!
20:30までオープンしています。(入園は20:00まで)
昼間とはひと味違った夜の動物たちや動物園を楽しみましょう!!

横浜市内には野毛山動物園の他
よこはま動物園ズーラシア(有料)
 http://www2.zoorasia.org
金沢動物園(ナイト金沢ZOO開催中、有料)
 http://www2.kanazawa-zoo.org
万騎が原ちびっこ動物園(無料)
 ※野毛山動物園(横浜市西区)の分園です。
 http://www2.nogeyama-zoo.org/makigahara/
こども植物園(無料)
 http://park.hama-midorinokyokai.or.jp/park/kodomo-park/

(野毛山動物園の歴史)
野毛山は見晴らしが良く、明治時代に横浜の実業家、原善三郎や茂木惣兵衛らの邸宅が立てられました。また山の一角に1887年(明治19年)日本初の近代水道の配水池が設置された場所でもあります。その後、(関東大震災以降)この一帯を災害避難広場として整備し公園となりました。
開園当時は、回遊式日本庭園、西洋庭園、折衷庭園の三つの様式を持っていた瀟洒な公園でした。
1951年(昭和26年)4月1日、回遊式日本庭園部分に動物園が、配水池に連なる洋式庭園部分に児童遊園が造られ、全体を「野毛山遊園地」として開園しましたが、1972年(昭和47年)児童遊園を廃止し、8月15日に動物園のみ「野毛山動物園」として独立します。

 


(野毛山公園)
桜の名所ですが、他のシーズンも散策には最高の広い公園です。展望台からは、横浜の開港時代の全景(関内エリア)を眺めることが出来ます。また、ここには横浜水道の父 パーマーの像があります。

No.121 4月30日  日本にCivil engineeringを伝えた英国人
No.105 4月14日 (土) 白の悲劇

No.101 4月10日 (火) 薄れ行く災害の記憶

8月 14

No.227 8月14日(火)横浜橋通商店街名誉顧問誕生!

街の商店街が衰退しています。元気がありません。
その中でも、紹介したい元気な商店街が幾つかあります。
その一つが横浜市南区に横浜橋通商店街です。
1936年(昭和11年)8月14日(金)に
現在の横浜橋通商店街名誉顧問「椎名 巌」さんが横浜橋通商店街近くの真金町で誕生しました。

まずは、横浜橋通商店街協同組合名誉会長“椎名 巌さんのご挨拶から。

「よこはまばし商店街は八百屋さん、肉屋さん、魚屋さんをはじめとする130数店舗が、より新鮮なものをより安く、又よりよいサービスをと競争し、お客様に大変喜ばれている商店街でございます。

 拙宅も商店街に大変近いところにございますので、ひまを見つけては家内と商店街をぶらついたり買い物をさせていただいております。

 最近ではこのように活気に溢れ、人情味のある商店街は、全国的に見ましても少なくなってしまいました。しかしながらこのよこはまばし商店街は、全商店が一丸となって頑張っております。

 商店街名誉顧問として、どうかこれからも末永く御贔屓くださいますようお願い申し上げます。      名誉顧問 桂 歌丸」


そう、今日は落語芸術協会会長で横浜にぎわい座館長、テレビ番組「笑点」の5代目司会を務めた桂歌丸師匠、本名 椎名 巌さんの誕生です。
亡くなるまで地元に暮らし、時々師匠、弟子の姿を見かけることが出来ました。
歌丸師匠の生まれ育った横浜市南区真金町(当時は中区)は、
明治から昭和まで続いた遊郭でもありました。(横浜遊郭史に関しては別項設けます)

ここには、11月に街が変わる酉の市の大鷲神社があります。

No.313 11月8日(木)遊女の涙

この横浜橋通商店街は酉の市の11月は勿論、
年末の年越しセールは身動きできない混み合いです。
ふだんも賑わう横浜橋通商店街、昭和40年代にアーケード化し開放型の伊勢佐木モールと対照的な商店街として賑わってきました。

http://www.yokohamabashi.com

(多くある良い店!から幾つか紹介しましょう)
■呉服と寝具 あさひや 本店
祭礼用品、オリジナル印半纏、鯉口シャツ、ダボシャツの品揃えに関しては横浜随一でしょう。

■横濱そば處 江戸藤
創業100年以上の歴史を持つおそば屋さん。蕎麦猪口 コレクションも見事です。


■とんかつ 喰道楽 梅月茶屋
大通公園口の角にあります。お弁当もおすすめです。→閉店しました。

■うなぎ店 八舟
今でも時々テイクアウト、小さなカウンターで昼食をいただきます。


■京城物産・木浦家(モッポ・チ)
横浜橋通商店街にはキムチの美味しい店が幾つかありますが、私はここで良く買います。

15年前の商店街マップを見ると確かに お店の入れ替わりはありますが、このご時世 生き残って元気なお店の多い商店街である事は間違いありません。未体験の方は 一度立ち寄ってみてください。

商店街を抜けると昔からの芝居小屋「三吉演芸場」があります。
http://miyoshiengeijo.web.fc2.com


No.104 4月13日 てな訳でお後がよろしいようで。
(余談)

歌丸師匠の誕生日8月14日と同じ日、
1887年(明治20年)8月14日真砂町の隣町 平楽に生まれたのが荒畑 寒村です。
彼は生まれてまもなく、鎌倉郡永野村字上野庭の臼居家に里子に出されます。
日本の社会主義者・労働運動家であり、作家としても活躍、衆議院議員も歴任しました。

8月 13

No.226 8月13日(月)西波止場の2勝1敗

2012年(平成24年)のロンドン五輪で日本の競泳陣、
最初は気をもみましたが10個以上のメダルを獲得し大活躍でした。
1898年(明治31年)8月13日(土)の今日、横浜西波止場の前にあった外国人水泳場で国際競泳大会が開催されました。
この「西波止場」少し混乱があります。ここでいう「西波止場」は下記の地図と 横浜港の中心部にあたる「英吉利波止場」周辺が水泳大会に適していたかどうか?不明なため暫定で仏蘭西波止場を「西波止場」としました。→横浜史では一般的に下記波止場は「東波止場」としています。

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明治中期、<西波止場>付近?

横浜で海水浴の話しといえば金沢八景と本牧近辺が歴史的に有名ですが、
はじめて競争”では「湘南海岸」に譲るとして
日本初の「国際競泳大会開催」はおそらくこの横浜西波止場国際水泳競技が一番最初ではないでしょうか。

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対戦は“水府流太田派”対
横浜外国人クラブ“アマチュア・ローイング・クラブ”とで行われました。

ここで“水府流太田派”と日本泳法について簡単に説明しておきましょう。
現代の競泳スタイルは個人メドレーで定められたバタフライ→背泳ぎ→平泳ぎ→自由形に代表される4種目ですが、日本でも泳法にはいろいろなスタイルがあったようです。
日本古来の泳法を古式泳法(日本泳法)といいます。
水府流太田派は水戸の水府流を母体とし、明治初年太田拾蔵によって創設された泳法の一派で、古式泳法の中で明治時代に一気に広まった泳法です。
日本泳法は、シンクロナイズドスイミングに通じる部分も多く、改めて研究と普及が求められている分野でもあります。

日本泳法いろいろ
面白いです!!ご存じない方は 必見!です。
小堀流、神伝流、能島流、向井流、水府流、水府流太田派
http://www.youtube.com/watch?v=3TEj_OiA-vY

日本泳法いろいろ
神統流、山内流、小池流、向井流、水府流太田派
http://www.youtube.com/watch?v=8Qhs6b-fXEw

水府流太田派
http://www.youtube.com/watch?v=8_Mf4qekkRc

舞台を競泳会場となったYARC(ヨコハマ・アマチュア・ローイング・クラブ)水泳場に戻します。
試合結果は水府流太田派が2勝1敗で、記念すべき初?優勝を遂げます。
その後リベンジ大会も行われたようですが、結果は不明です。
上記のyoutubeで 当時の雰囲気を想像してみてください。
ここにも異文化コミュニケーションがあったんですね。

関係ブログ
No.136 5月15日 フルライン金沢区

No.184 7月2日(月)  ハマに浜ができた日

(予備資料)
ロンドン五輪 競泳メダルを獲ったのは下記の通り。
男子400mメドレーリレー、男子200m背泳ぎ、女子200m平泳ぎ、女子400mメドレーリレー、女子200mバタフライ、男子200m平泳ぎ、男子200mバタフライ、女子100m平泳ぎ、女子100m背泳ぎ、男子100m背泳ぎ、男子400m個人メドレー