3月 26

番外編【絵葉書の風景】ハルピンの沖禎介

戦前期、年間数億枚も発行された「絵葉書」は当時の重要なメディアでした。
この絵葉書は
「明治37年4月20日付け
大日本帝国沖縄県那覇
沖庄蔵 殿
在 ハルピン 沖 禎介」
発行は大正期と思われます。
沖 禎介(おき ていすけ)という人物は
大陸浪人、諜報活動家、日本軍特殊任務従事者といった肩書で紹介されています。簡単にいえば明治期のスパイ。
1874年(明治7年)6月
高名な沖縄地方裁判所判事 沖荘蔵の長男として長崎県平戸に生まれました。子供の頃から型破りたっだようで長崎尋常中学在学中に出奔して熊本済々黌(熊本県立済々黌高等学校)に入学します。ここにも落ち着かず、第五高等学校に入学しながらも中退、上京して新しき学びを求め東京専門学校(現 早稲田大学)で学びますが中退し横浜で貿易業に従事しアジアの視野が広がります。
日清戦争後、中国に空前の日本語学習ブームが起こり
1901年(明治34年)清に渡り北京の日本語学校「東文学社」の教師兼社長代理となり、活動の場を<中国大陸>に移します。沖<27歳>の時でした。
1903年(明治36年)に独立して「文明学校」を創設、清国人教育に取り組みます。
1904年(明治37年)2月8日に露戦争が勃発すると、沖は志願して特別任務班に入り「横川省三」らと共にロシア軍兵砧の大動脈である「東清鉄道」のチチハル雅児河鉄橋(鉄道橋梁)の爆破をくわだてるが、ツルチハ駅(隣駅)付近で捕獲され失敗。
ロシア軍に捕らえられ、ハルビン郊外で横川とともに1904年(明治37年)4月21日銃殺刑に処せられた。
というもの。

(絵葉書の風景)
画像に移された書面は
処刑前日に「沖 禎介」が両親に向けしたためた手紙で、
国に殉じた英雄として この資料が有名になり<絵葉書>になったものと思われます。
■沖禎介が両親に贈った最後の書翰書き下してみます。(誤読もあるかもしれませんが大筋読めました)
沖禎介が両親に贈った最後の書翰には

「児禎介謹而(ンデ)父母親大人二告別ス。児不孝。平常膝下二侍シテ孝道ヲ尽ス事能ワズ。嘗テ遺憾ト為シ処二御座候。然ルニ,此度本国政府ノ命令ヲ奉ジ決死数名ト共二蒙古旅行ノ途二上リ候処,運命ナル哉,某地二於テ露兵ノ為ニ捕獲セラレ,遂二軍事裁判ヲ以テ死刑ヲ宣告セラレ,本日銃殺致サレ候。是亦国家ノ為,何卒不孝ノ罪御宥免下サレ度ク,先ハ御暇ヲ乞ウ此ノ如シ。携クル所ノ銀五百両御落掌下サレ度ク願イ奉リ候。以上。於ハルビン 明治三七年四月廿日
児 禎介
父母親大人膝下 後事ハ
右金受取方ハ 川島浪速(北京警務学堂監督)氏二御相談願奉り候。
銀五百両一件ハニ人(捕獲セラレシモノ二人 一人ハ横川省三ト云イ,司令官ナリ。
不肖児ハ第二級高等官)相談ノ上露国赤十字社二寄贈二子シ申候。何レ不肖等ノ後事ハ日本政府其事二任ズベシト存候。以上。」
とあります。

冒頭に沖を「大陸浪人」と紹介しました。
「大陸浪人(たいりくろうにん)とは、明治初期から第二次世界大戦終結までの時期に中国大陸・ユーラシア大陸・シベリア・東南アジアを中心とした地域に居住・放浪して各種の政治活動を行っていた日本人の一群を指す。(wikipedia)」
岸田吟香
宮崎滔天
二葉亭四迷
甘粕正彦
小日向白朗
児玉誉士夫
他 多くの人物が
戦前の満州を舞台に 日本の大アジア主義を形成していきました。
横浜時代の沖はどのような仕事に就き、何を見たのか?
手元の資料だけでは不明ですが 気になります。
銃殺となった大陸浪人 沖 禎介の父 沖荘蔵は
その後、団長として
1925年(大正14年)に横浜から高麗号でソ連領土「北樺太」を北原白秋らと観光に出かけています。(北原白秋「フレップ・トリップ」)

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10月 22

第862話 【絵葉書の風景】番外編<子守という仕事>

【傘を差す子守女】
この風景を紹介するにあたり、かなりの時間を要しました。14463223_1300541403323294_2839478932620437198_n少女が二人、和傘を差しながら歩く姿として紹介すればそれだけのことなんですが、この風景を絵葉書にした<意図>は何だったのか?
写真家は外国人なのか?日本人なのか?
絵葉書には画像しか無く、何時の時代の何処の風景か推測するには情報が少なすぎます。傍証から撮影時期は大正初期と推察できましたが確証はありません。
少なくとも この風景から想像できるのは
この二人の少女は<子守>を仕事として働いているだろうということです。
服装から、季節は寒い時期で秋から初冬と思われます。
手前の少女は「叶田」と書かれた傘を差していますが、屋号でしょうか。
◆児童労働としての子守
子守が労働であった時代があります。現代の<ベビーシッター>ではなく、10歳前後の少女が労働として子供を子守することが江戸時代から普通に行われてきました。
子守の労働歌としては「竹田の子守唄」が有名です。
 守りもいやがる 盆から先にゃ
 雪もちらつくし 子も泣くし
 盆がきたとて なにうれしかろ
 帷子(かたびら)はなし 帯はなし
 この子よう泣く 守りをばいじる
 守りも一日 やせるやら
 はよもいきたや この在所(ざいしょ)越えて
 むこうに見えるは 親のうち
統計的に見ると
大正9年の国勢調査によればたとえば12歳から14歳までの年齢層で男女の有業率(職についている率)はそれぞれ30.6% 28.8%に達していました。
昭和13年神奈川県中郡成瀬村における農家児童の労働時間分析では
女子の子守は
尋常5年 36.25(時間.分) 総労働時間78.23(時間.分)
尋常6年 7.24(時間.分) 総労働時間72.43(時間.分)
高小1年 8.10(時間.分) 総労働時間96.17(時間.分)
高小2年 0.56(時間.分) 総労働時間114.50(時間.分)
といった数字が出ています。
◆では「児童労働」は問題だったのか?
子守奉公という児童労働が一般化したのが江戸時代後期で、明治以降も前述の数字も出ているように、子守労働が女子児童の大きな役目でした。
では、この幼児労働が過酷な労働であったかのかどうか?
これに関しては資料を読み漁った結果、子守が<女工哀史>的なステレオタイプな労働像として良いのかも検討が必要だということに帰結しました。
事実、竹田の子守唄の背景にあるような被差別部落における<子守労働>もあります。現在の<子供の権利>という視点でも問題点を多く含んでいますが、地域の役割分担と通過儀礼的な役割も担っていた側面もありました。確かに就学年齢の女子がこの時期に<子守労働>を強いられることで義務教育が維持できない現実が起こってきます。地域によっては女子就学率が極端に下がっています。
ここには「子守学校」という女子の就学奨励も過渡的なものながら女子就学向上に大きな役割を果たした試みもありました。
※一部では男子も子守労働に多くの時間を割いている地域もあります。
◆ジェンダー・バイアス
現代の視点で、この時代の子守労働を論じるのは無理があるように思えます。
女子が子守・家事、男子が農作業等を担う近代までの農村部においては、地域の役割分担として、子どもたちが年齢に応じて様々な労働に就いていたからです。
戦前絵葉書には子守をしている子供が登場するものも多くあります。日常の風景だったようです。
一枚の絵葉書から少し大風呂敷を拡げてしまいました。

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5月 21

【芋づる横浜】輿地誌略から続く物語(1)

今回は特に横浜に関係がない前回から芋づる式に繋がってしまったテーマです。
【芋づる横浜】輿地誌略(前編)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=8567
【芋づる横浜】輿地誌略(後編)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=8575
このブログで明治初期の大ベストセラー「輿地誌略」を紹介しました。
著者は「内田恒次郎」明治以降は「内田正雄」と改名します。内田恒次郎
幕末に徳川政権のもと、軍用艦を発注しその受取というミッションでオランダに滞在(留学)し、「開陽丸」という艦船を日本に運んできた時のリーダーです。
彼がオランダに滞在していた1863年(文久3年)4月から1866年(慶応2年)10月までの二年半を追っていくと「横浜鎖港談判使節団」の一行の中から<私にとっては>意外な人物との接点があり驚きました。
今日はこの<出会い>を紹介しましょう。
1859年(安政六年)に開港した日本ですが、その後の国内事情はモメにモメます。
最大の事件が「桜田門外の変」です。
時の大老が<浪人>に暗殺されるという事態が起こります。その後、日本全国で「尊王攘夷」の嵐がふきあれます。この流れに沿ったのかどうかは判りませんが時の孝明天皇が1863年(文久三年)に攘夷の命を下します。これが勅命に基づく外国人排除の政治運動「奉勅攘夷」です。5月には下関海峡で長州藩がフライングして外国船を砲撃し、7月には薩英戦争が勃発します。ところがこの<攘夷闘争>も圧倒的な欧州英仏軍の前に惨敗します。外交上は国交を開いているにも関わらず戦争を仕掛けた訳ですから、欧米列強はこれを手がかりに圧力をかけてきます。
特に長州が仕掛けた<下関事件>のツケは結局幕府が負うことになりました。
これが明治になって米国から賠償金が返還され<横浜築港予算>となったのは有名ですね。
外交的にも経済的にも苦境に追いこまれれていた幕府は「奉勅攘夷」の下、
交渉によって<開港場だった横浜を再度閉鎖する交渉>を行うために、外国奉行池田筑後守長発を正使とする使節団を組みます。
1864年2月6日(文久三年十二月二十九日)
池田使節団はフランス軍艦ル・モンジュ号に乗船しフランスに向かいます。
結果は大失敗、糸口すらつかめず帰国し、幕府から処罰されてしまいます。
この一行の中に
蕃書取調出役教授手伝として同乗していた原田吾一(原田 一道)という人物がいました。原田
wikipediaから
「原田 一道(はらだ いちどう / かづみち)
文政13年8月21日(1830年10月7日)〜明治43年(1910年)12月8日)は、江戸幕府旗本、幕末・明治期の兵学者、日本陸軍軍人。陸軍少将正二位勲一等男爵。」
(中略)「文久3年(1863年)12月、横浜鎖港談判使節外国奉行・池田長発らの遣仏使節団一行に随いて渡欧。兵書の購入に努めるなど、使節団帰朝後も欧州に滞留してオランダ陸軍士官学校に学ぶ。慶応3年(1867年)に帰朝。」とあります。
これには2点誤記があります。
使節団帰朝後も欧州に滞留して」ではなく
正しくは使節団が帰朝する際の5月にパリで使節団と別れ、彼はオランダのハーグに内田恒次郎を訪ねオランダの陸軍士官学校に留学し兵学を学びます。<池田家文書>
もう一点、原田 一道が帰国したのは慶応二年一月十三日(1866年2月27日)でした。<原田先生記念帖>
明治維新後は兵学のキャリアを活かして陸軍教官となります。
外国留学と語学を買われて岩倉遣欧使節団の幹部「陸軍少将・山田顕義理事官」の随行員として渡欧します。岩倉使節団横浜出発
帰国後は、
陸軍省砲兵局長、東京砲兵工廠長、砲兵工廠提理、砲兵会議議長等を歴任し貴族院議員となり1910年(明治43年)12月に81歳で亡くなります。
この「原田 一道」には二人の息子がいました。

長男 原田豊吉は地質学者となります。
そして次男 直次郎は 「日本近代洋画の礎を築いた男」と呼ばれた洋画家となります。

原田直次郎人物写真
原田直次郎

彼と生涯の親友となった人物がいます。
その名は森鴎外(林太郎)。

原田直次郎は
日本国内で高橋由一の下で絵を学びますが留学していた兄の影響もあり留学を決意します。
兄豊吉は地質学を学ぶためにドイツに留学しオーストリアの地質研究所に所属した後に聞き国し弟の留学先を探します。豊吉が留学の際に友人となった歴史画の巨匠ガブリエル・フォン・マックスを紹介し直次郎はドイツ留学を決めます。
1884年(明治十七年)2月に横浜港からメンザーレ号に乗船し出国します。
直次郎21歳でした。
同じ船には欧州兵制視察団として大山巌、川上操六、桂太郎らが乗船していました。恐らく、当時陸軍少将だった父 原田 一道の<はからい>もあったのではないでしょうか。
この年の8月24日に同じくメンザーレ号に乗船し横浜港を旅立った若き陸軍軍人が森林太郎、当時22歳でした。
二人は二年後の
1886年(明治十九年)3月ドイツで出会います。
これが二人にとって運命の出会いとなります。鴎外の「独逸日記」には
「二十五日。畫工原田直次郎を其藝術學校街Akademimiestrasseの居に訪ふ。直次郎は原田少将の子なり。油畫を善くす。」
出会いは さらっとした感じだったと想像できます。
「日本近代洋画の礎を築いた男」原田直次郎は
1863年10月12日(文久三年八月三十日)〜1899年(明治三十二年)12月26日
36歳の若さで亡くなります。
森林太郎、文豪森鴎外の作品「うたかたの記」のモデルとなったのが原田直次郎です。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/694_23250.html
奇しくも鴎外の下宿の隣人がガブリエル・フォン・マックスでした。(つづく)

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2月 13

【番外編】川崎駅前は狩猟場だった?

ジャパンパンチ川崎駅この画像は《ジャパン・パンチ》1875年(明治7年)10月号に掲載されていたものだ。[川崎駅]がバックに描かれている。
《ジャパン・パンチ》は
1862年(文久2年)特派員画家だったチャールズ・ワーグマンが横浜で創刊し1887年(明治9年)まで刊行した日本初の風刺雑誌といわれている。ジャパンパンチ表紙1875cotこの記事の舞台は絵の通り川崎駅近辺であることがわかる。風刺画誌なので実際の事件記事なのか、何かの風刺の題材として<川崎駅>が使われたのか資料を類っていないので分からない。
制服警官(仏軍人?)を<狩猟>しているようにも見える。<制服組>への批判・皮肉とも見える。スクリーンショット 2016-02-13 11.01.19キャプション
スクリーンショット 2016-02-13 11.26.32Shooting in Japan
Wonderful sagacity of the dog.
defeat of the Tulrie !
と読めるが
筆記体なので正確にはよく解らない。
「日本での狩猟は 優秀な(猟)犬が素晴らしい。<トーリー>の負け!」かな
???
とりあえず判る範囲で絵柄を眺めてみよう。
川崎駅あたりが狩猟場のような場所であったのか?
好奇心に惹かれ調べてみることにした。
(国鉄川崎駅)
川崎駅は神奈川駅と共に日本で3番目の鉄道駅として1872年7月10日(明治5年6月5日)に開業。
開業した場所は当時の東海道筋<川崎宿>の西はずれだった。川崎市史によると、宿場近くに駅ができたため、宿場は大きなダメージを受けたらしい。川崎駅M14年さらに歴史を遡ると、江戸時代も品川宿と神奈川宿に挟まれた「川崎宿」の経営も大変だったらしい。
現在の川崎駅東口界隈に広がる繁華街は東海道線と街道<砂子(いさご)一帯>を繋ぐような形で発展してきた。川崎駅前明治40年代<明治40年頃の川崎>
一方、駅の反対側(西口)は戦前から大手企業の事業所で埋め尽くされていた。この絵に描かれた<狩猟場>は川崎駅西口だと言えそうだ。横浜行きの汽車の姿も描かれている。
現在のラゾーナのある一帯はかつて狩猟場だったと推察できる。light_8193851ここが本当に狩猟場として使われていたとしたら、流れ弾の危険など<下世話>な心配をしてしまう。

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7月 3

【ハガキの風景】人の居る風景2

前回、水辺に人の居る風景が描かれた“絵葉書”を紹介しました。

lig_絵葉書水辺の人々035

大分県別府市の鉄輪温泉(かんなわおんせん)は別府八湯の一つです。この写真は、鉄輪温泉の中でも老舗の旅館である「旅館富士屋」の観光絵葉書です。旅館富士屋は明治31年に新築され当時も温泉で世界から注目されていた大分県内旅館でも人気ナンバーワンとなったそうです。

大分別府温泉郷は、北九州の炭坑産業を背景に温泉リゾート地として湯治客が絶えませんでした。(温泉そのものは江戸時代以前からですが)
この一枚の絵葉書がとても気になったのは、登場人物が子供達だということです。
ここに写ってる子供達は誰だろう?
湯治客だろうか?(湯治客の家族)
それとも 地元の子供達、従業員の子供達かもしれません。
写真中央の子供達が写っている光景で、左手に比較的年齢が上の女性(娘)が三名写っていますが、彼女達は恐らく下働きの従業員のようにも見えます。
昔は子供の頃から家の仕事は手伝ったものですから ここでも従業員として“絵葉書”に登場したのでしょう。
鉄輪温泉旅館富士屋は廃業しましたが、現在国の登録有形文化財だそうです。

lig_絵葉書水辺の人々045

 

もう一枚、子供のいる風景です。場所は周防岩国の紅葉谷公園とキャプションにあります。三人の子供達は何をしているのでしょうか。ここが場所の名前通りに紅葉の名所なら、子供達は“紅葉”を拾っているのかもしねません。奥の東屋に大人の姿を見ることができますので、もしかしたら保護者かもしれません。前の三人の誰かの親御さんでしょうか。

lig_絵葉書水辺の人々041

こちらは、この町の一番眺めの良い場所に“集合した”悪ガキ連中でしょうか。キャプションには「城趾より那珂川を望む」とあります。子供の風景になったのは、常連の子供達をそのまま写真に収めたものなのかわかりませんが、被写体としてはかなりリラックスしていているようです。
那珂川城趾は水戸城のことでしょうか。水戸駅からほど近い小高い丘に現在は学校が建っています。昔、勿来(福島県)から東京まで約一週間かけて歩いたときに昼食をとった場所に似ていますが、正確なことは覚えていません。
lig_絵葉書水辺の人々043

 

子供がセミ取りでしょうか、棒をもって年下(弟・妹?)の子と一緒に遊んでいます。キャプションには「仙台名所 向山」とあります。現在のどのあたりでしょうか?お寺の境内のようです。麦わら帽子をお揃いで被った後ろ姿は微笑ましい光景です。

このごろ、子供は麦わら帽子を被りませんね。逆に若い人達が帽子を被るようになってきました。戦前の風景には“帽子”を被った人物が多くいました。戦後しばらく帽子文化がありましたが、高度成長後半位からでしょうか帽子姿が減りました。サラリーマンが被らなくなったからかもしれません。
この帽子文化は女性も明治以降 様々なスタイルの歴史を辿ります。帽子となると少し横浜の香りがしてきます。この帽子と横浜の話は次回に。

5月 29

『姿三四郎』を読む

□ブログ再開しました。(今日は文体を変えました)

富田常雄の長編小説『姿三四郎』を読んだ。
正確には、一部を読んだ。
おそらくキッカケが無かったら読む事が無かった一冊だろう。
小説『姿三四郎』は文庫本で全三部作(上中下)だが、あいにく古書店で上中しか入手できなかったことと、ストーリーの概略を斜め読みした限り関心は中巻にあると判断し、邪道の“中抜き”読みとなった。(一応上巻も読みましたが)
タイトルは「『姿三四郎』上中巻を読む」が正しい。

文庫姿三四郎AZ101497

キッカケは、大衆文化評論家 指田文夫さんの「黒澤明の十字架」を読み、さらに指田さんとじっくりお話しする機会を得たからだ。
野毛で黒澤論をうかがった時に
「君 姿三四郎読んだことある?」
「ありません」がキッカケとなった。

(横浜の姿三四郎)
古本屋に行き、たまたま『姿三四郎』(上中)があったので則購入した。上中巻をまず斜め読みしたが、上巻には殆ど三四郎は登場しない。上巻の後半「巻雲の章」から主人公が現れるのだが、ここに登場する人物像がこれまた面白い。舞台は明治中頃の東京とその周辺で、当然“横浜”も舞台として登場するので則読む気になった。
その前に、

(かなり長くなりそうだが)小説『姿三四郎』の背景を説明しておこう。

『姿三四郎』の作者、富田常雄は1904(明治37)年1月1日に生まれ戦後の1967(昭和42)年10月16日に63歳で亡くなった。
プロフィールは
「講道館四天王のひとり富田常次郎の子。昭和3年河原崎長十郎らの劇団心座文芸部にはいる。17年『姿三四郎』で流行作家となる。24年「刺青」「面」で直木賞。「弁慶」「熊谷次郎」などの時代物から「浮雲日記」などの現代物まで手がけた。」とある。戦後初の直木賞受賞作家だ。昭和30年代はかなりの売れっ子作家だったらしい。
富田の父富田常次郎は元柔道家で、明治から大正にかけて活躍したが事業に失敗した人物である。詳しくは後段で紹介する。

(小説『姿三四郎』)
かなり興味深く読んだ。戦中に小説家デビューという背景が十分に練り込まれている。発表された1942(昭和17)年はすでに連合国とは戦争状態であった。東南アジアに戦域を拡大し、この戦争の大転換となったミッドウェー海戦があった年でもある。
国内では、戦意高揚、日活・新興キネマ・大都映画が合併し大日本映画(後の大映)が設立された年でもある。
1943(昭和18)年小説『姿三四郎』が発表された翌年黒澤明のデビュー作『姿三四郎』が「東宝」で制作、封切りと共に大ヒットする。
小説家 富田常雄にとっても 映画監督 黒澤明にとってもデビュー作となった作品がこの『姿三四郎』である。

(ネタの上手さ)
現在読むことのできる富田常雄の小説『姿三四郎』は、四部作がまとまったものである。統合版の中盤部である三四郎が登場し一人前に育っていく部分が1942(昭和17)年に『姿三四郎』としてまず刊行された。
大好評を受けて1944(昭和19)年に『続・姿三四郎』が発刊。さらに『柔(やわら)』と冒頭部が1944(昭和19)年に新聞でそれぞれ連載され、最後に一冊本にまとまった。
この小説の主人公姿三四郎には実在のモデルがいたとされている。
NHK大河ドラマとなった「八重の桜」で西田敏行演ずる会津藩家老・西郷頼母(さいごう たのも)の養子となった西郷 四郎(さいとうしろう)1866(慶応2)年~1922(大正11)年で、作者富田常雄も実際に出会っている可能性が高いので興味深い。

この小説に登場する場面、人物、事件にはかなり史実が織り交ぜられているのでリアリティがある点も特徴だ。とにかく富田常雄は実在と仮想を上手く料理している。
矢田挿雲のヒット連載「江戸から東京へ」も失われた時代への懐古だった。昭和初期、明治以降の急ぎ足の欧化政策への疲れと、国際社会での孤立化を背景に、人々の心をつかんだのかもしれない。当時、明治時代は読者にとっても“一昔前”に近いリアリティがあったのだろう。主人公の『姿三四郎』の名は「西郷四郎」からとっているとされているが、他にも主人公が柔道と出会った「紘道館柔道」は実在した「講道館」であり、師匠の「矢野正五郎」は講道館の創設者である「嘉納治五郎」であることは一読すれば簡単にわかる。登場する政治家も学ぶ学習院、三四郎の師匠が通った帝大も実に現実味を帯びた描写となっている。

(登場人物の点と線)
『姿三四郎』を作品化した作家富田と映画監督黒澤は実に見事な関係図を示す。
登場人物も作品の中に戦前の歴史断片がたくさん練り込まれているから面白い。

簡単に説明しておこう。
明治維新以降時代遅れとなっていた江戸時代から繋がる「柔術」を学んだ嘉納治五郎が、新しい“体育”として理論化した柔道は1882(明治15)年5月に創設した「講道館」に始まる。この講道館を支えたのが弟子の講道館四天王達だ。師範代として活躍した4人の柔道家で、三四郎のモデルとなった西郷四郎、映画『姿三四郎』の他「柔道一代」のモデルともなった。他に横山作次郎、山下義韶そして富田常次郎がいた。この富田の息子が小説『姿三四郎』の作家である富田常雄である。小説の中で富田は「戸田雄次郎」として登場する。

富田常次郎は嘉納治五郎が講道館を創設する前から友人で、父 加納治朗作に可愛がられた人物である。講道館設立に尽力しその後富田常次郎は渡米し柔道普及活動(K1グランプリのような他流試合)に努め帰国後、赤坂溜池に「東京体育倶楽部」を創設する。

一方、映画『姿三四郎』を監督した“世界の黒澤”は、元軍人で体育教師をしていた「黒澤勇」の末っ子として東京府荏原郡大井町の日本体育会内にあった父の家で生まれた。この日本体育会は、現在の日体大の前身である。
日本体育会とは、1891(明治24)年、日高藤吉郎が興した国民体育の振興を図る“体育学校”である。この日本体育会のナンバー2で日高藤吉郎氏の直属の部下だった黒澤勇は、1917(大正6)年に突然日本体育会を辞任する。
「黒澤明の十字架」の著者 指田文夫氏は 大正3年に開催された「東京大正博覧会」に出展した際に起こった不祥事の責任をとって辞任したと推論している。
黒澤と富田が<体育>当時の基本科目であった両親の柔道つながりで意気投合したとしても不思議ではない。黒澤は『姿三四郎』を新聞広告で発見し映画化を決心したというが、それ以前に交遊があったのではないか?
この先の謎解きは別の場にしよう。

(横浜と姿三四郎)
ようやく
このYOKOHAMAブログのテーマに入る。
長編小説『姿三四郎』では、横浜が舞台となるところが何カ所かある。
というところで 長くなったので次回へ。

9月 19

【番外編】9月17日のある事件

●1946年(昭和21年)9月17日
横浜市戸塚区東俣野町である事件が起りました。
これは「別掲テーマ」で詳細をドラマ仕立てにしてみます!!!
と暦で語る今日の横浜【9月17日】で予告しましたので

ここにまとめてみました。出来は??

(以下若干想像が一部含まれています)
事件は、ある少女が藤沢市鵠沼海岸にある乃木高等女学校から校名を変更したばかりの湘南白百合高等女学校から帰宅途中に起ります。
住友財閥16代当主、住友吉左衛門(住友 友成)家の長女で、
白百合高女6年のK子さん(当時12歳)が、何者かに誘拐されます。

当時、住友家は1939年(昭和14年)横浜市戸塚区東俣野町に建てた「東京別邸」に暮らしていました。
※湘南白百合学園
http://www.shonan-shirayuri.ac.jp/about/

残念なことに、「旧住友家俣野別邸」は国の重要文化財に指定されていましたが、横浜市が整備中の2009年(平成21年)3月15日未明、不審火による火災で全焼し、「重要文化財」の指定を返上し、別の計画で再建が進められています。
再整備が完了し、現在は一般開放しています。
俣野別邸庭園

石積みにも迫力があります

ここからの富士山の眺めが絶景で、眼下に境川と田園風景が広がり晴れた日には丹沢山系、箱根、そして富士山が一望できる場所です。
現在でこそ、藤沢バイパスが走り便利になりましたが、当時は周囲にほとんど住宅も無く、山岳リゾートの感すら漂う林間地でした。

東俣野陸橋の奥が別邸正門

■旧住友家俣野別邸(きゅうすみともけまたのべってい)

1939年に住友財閥の創業者一族である住友家が建築させた和洋折衷の住宅である。現存しない。旧住友家俣野別邸は、1939年(昭和14年)に当時の住友家当主であった16代住友吉左衞門が発注した住宅で、住友家の東京本宅の別邸として現在の神奈川県横浜市戸塚区東俣野町の丘陵地に建築された。設計者は佐藤秀三であった。

基本的には当時の大財閥一家が生活するために、使用人の居住区も備えた大規模な西洋風建築であるが、設計に際し北欧の伝統的な建築様式である柱や梁を露出させる様式を基本としながらも、屋根に日本瓦をのせるなどの伝統的な和風様式も取り入れている。建物はY字形で、昭和時代初期に流行したモダニズムの影響を受けており、和洋と現代建築が融合し折衷した建築物であった。1998年ごろまでは住友家に縁の者が生活していたが、2000年に相続税として国に物納され、政府に所有権が移った。※現在無償で貸し付けを受けて横浜市が管理2004年7月に国の重要文化財に指定され、保存と一般公開に向けて2008年(平成20年)1月から修復工事が進められていたが、2009年(平成21年)3月15日に焼失した。

(事件)
1946年(昭和21年)9月17日午後、
「警察の者ですが、お父さんのことで重大事件がおきたので、あなたにお尋ねしたいことがあります」
と一人の男に声をかけられます。声をかけたのは東京生まれの鉄道機関助手だった樋口芳男でした。
樋口には誘拐の前歴があります。
戦中の1944年(昭和19年)にも女子学習院付属初等科5年生だった松平子爵令嬢(当時12歳)に「お父さんに渡す大切なお金を渡すから一緒に来てください」と声をかけ誘拐し都内を連れ回しますが、数日後に逮捕されます。
彼は戦時強制猥褻罪で刑務所に拘置、「3日間連れて歩いただけ」と主張しますが取り調べで厳しい拷問を受けるなど、警察に反感を持つようになります。
※誘拐犯罪そのものは許されない犯罪ですが、犯人樋口芳男に関してはネット上で誘拐暴行の常習犯としてデータがコピペされ流布されていますが、真偽が不明です。要人誘拐ありながら軽い罪状からも安直に信じることはできません。

樋口は半年間に及び取り調べを受け、懲役3年の実刑判決を受けます。
八王子の少年刑務所に収監されますが「過酷な刑を受ける言われはない」と終戦目前の7月30日に看守の目を盗んで脱走します。終戦の混乱期だったため、各地を転々とすることが出来、終戦と共に偽名を使い自由な生活を送ります。
樋口芳男にとって少女誘拐は“営利”としてではなく、小さい頃からの女性へのコンプレックスの顕われとして常習化します。
戦争の終わった1946年(昭和21年)3月、日本女子大の付属に通う日本帝国工業専務の長女Kさんを誘拐し、連れ歩きます。兄妹と名乗って安宿を転々としますが、
被害者の少女も決して恐怖や不快な感情は持つことはありませんでした。彼女自身から進んで食料を調達したり、逃亡生活を続けますが定職に就ける訳も無く資金が枯渇します。そこで少女Kさんは意外な行動に出ます。
母親のもとに、Kさんからお金を無心する手紙を書きます。娘の消息を知った家族は驚き、警察は“受取り指定”の築地本願寺周辺に張り込みをします。
約束の時間に金を受け取りに現れたのは、なんと被害者であるはずのKさんだったのです。母親の合図で、刑事が走り寄って犯人に手錠をかける手筈となっていましたが、母親は合図も忘れ犯人を逃してしまいます。

それから半年後の9月17日に樋口芳男は、あらたに少女誘拐を企て今回の事件が起ります。
この誘拐事件ははじめ脅迫状や身代金の要求がなく犯人の目的がわからなかったため戦後初の公開捜査となります。
逃亡の足跡を追います。
9月17日
学校の近くの江ノ島から横須賀へ行き、千葉県津田沼に泊ります。

 翌日18日には千葉県の稲毛に宿泊します。
19日に上野発直江津行きの夜行列車に乗り車中で泊ります。
20日には篠ノ井経由で松本に到着しますが公開捜査のため山奥に逃走しようと考えます。
21日中央線で名古屋へ向かいます。
22日名古屋に着き中津川へ向かいますが、
公開捜査で木曽の山奥に逃げこもうとしますが途中で列車に乗りこんできた老婆に通報され
23日朝、岐阜県恵那郡付知町の宿泊先で逮捕され、事件は収束します。
この時も、被害者であった少女住友K子さんは、樋口にほとんど警戒心を持たず、新聞記者の取材に

『あの人(犯人の事)と、千葉で映画をみた。とても楽しかったわ。映画を見たのは、生まれて初めてで・・・ あの人が、「あなたは、命を狙われている。わたしが守ります。」と 言われ、その言葉を信じていたわ。 それに、あの人が わたしの兄で・・名前は本多良男。 わたしは、あの人の妹で・・一緒にいて 本当のお兄さんの様に 思えてきの。千葉では、お化粧品 一式を買ってくれた。 名古屋ではスカート。わたしが退屈すると お人形さんを 作ってくれたり、とても優しくしてくれて 淋しいなんて 思わなかったわ。あの人が そんな悪い人とは思えない。』

と答えますが、
記事の内容は「ただもう怖くて、一刻も早くお家に帰りたくて・・・」
と変更されました。

事件後、住友家には5通の脅迫状が届きました。
全て公開捜査情報を悪用した別人によるいたずらでした。

事件解決の翌日の9月24日、GHQは財閥解体の具体方針を発表し三大財閥(三井、三菱、住友)の所有する証券類を持株会社整理委員会へ移管するよう命じます。

しかし、当時の住友吉左衛門(住友 友成)は住友財閥における住友家、特に15代目吉左衛門友純以降の「君臨すれども統治せず」の立場をとっていたため、終戦直後すでに関係会社の役職を辞任し一切の役職に就くことはありませんでした。
住友 友成は歌人としても秀作を多く作り
「泉幸吉」としても有名です。歌集に『樅木立』(私家版、1973)があります。
「泉幸吉」の名は、住友家の屋号「泉屋」に由来するそうです。

この東俣野別邸公園近くには運動施設の充実した「東俣野中央公園」があり、ここからの富士山、丹沢山系、境川流域風景は絶景です。

公園から旧横浜ドリームランドが見えます。(望遠)
テニスコート、運動場、野球場

※交通手段
 「別邸」は戸塚駅前(バスセンター)から藤沢行き「鉄砲宿」下車5分
 「中央公園」は同じく「諏訪神社前」下車5分

9月 8

【番外編】横浜の大学

横浜の大学所在地と簡単な概要を紹介します。
市内東西南北周辺部に点在しています。
意外と中心部に少ないのは、地価のせいでしょうか?
学園祭やオープンキャンパスがありますので、横浜の学園気分を散歩がてら満喫してはいかがでしょう。

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◆鶴見大学
http://www.tsurumi-u.ac.jp
鶴見二丁目1-3(歯学部・文学部/歯学研究科・文学研究科)
1953年(昭和28年)創立
学校法人総持学園
1954年から「図書館学講座(司書・司書補講習)」を設け全国でも稀な「図書館学課程」を一般に開講しています。開かれた図書館教育の草分けです。

(関連ブログ)No17 1月17日(火) 本日芥川賞発表

◆横浜商科大学
http://www.shodai.ac.jp
東寺尾四丁目11-1(商学部)
緑区西八朔町761(みどりキャンパス)
1941年(昭和16年)横浜第一商業学校 創立
学校法人横浜商科大学
日本の大学史上初となったiPhoneを1,700台導入しクラウド型の次世代ラーニングシステムA’OMAI(アオマイ)による教育で話題となりました。
立教大学に次いで「観光学科」を早期に設置した草分け的存在です。

◆神奈川大学
http://www.kanagawa-u.ac.jp
六角橋三丁目27-1(工学部・第二工学部・経済学部・第二経済学部・法学部・第二法学部・外国語学部・人間科学部/工学研究科・経済学研究科・法学研究科・法務研究科・外国語学研究科・歴史民族資料学研究科・人間科学研究科)
1928年(昭和3年)創立
※米田吉盛が横浜市中区桜木町に横浜学院を開設
学校法人神奈川大学
地方入学試験および給費生制度を戦前から導入し
また、勤労青年の為の夜間部を設けた横浜初の高等教育機関として評価されている。
日本で唯一の歴史民俗資料学研究科が大学院に設置

(関連ブログ)
No.165 6月13日(水) 修文練武

◆横浜国立大学
http://www.ynu.ac.jp
常盤台79-1(工学部・教育人間科学部・経済学部・経営学部/工学研究院・工学府・環境情報研究院・環境情報学府・教育学研究科・国際社会科学研究科)
1876年(明治9年)創立
※横浜師範学校(後の神奈川師範学校)設置
国立大学法人横浜国立大学
日本の国立大学の中で、唯一大学名に「国立」の文字が入る大学です。
横浜経済専門学校・横浜工業専門学校・神奈川師範学校・神奈川青年師範学校の4つの旧制官立教育機関を母体とし、新制国立大学として1949年に発足しました。

◆横浜市立大学
http://www.yokohama-cu.ac.jp
瀬戸22-2(国際総合科学部/都市社会文化研究科・国際マネジメント研究科)
福浦3-9(医学部/医学研究科)
1882年(明治15年)創立
※横浜商法学校(後の横浜商業学校)設立。
公立大学法人横浜市立大学
横浜市立横浜商業専門学校(Y専)、私塾鎌倉アカデミア、横浜医科大学を母体として、1949年の学制改革に伴い私塾を含む新制大学として誕生しました。

(関連ブログ)
No.428 Y校創設地はどこだ?

No.429 Y校創設地はどこだ?2

No.267 9月23日(日)Yの真価

◆関東学院大学

http://univ.kanto-gakuin.ac.jp
(金沢八景キャンパス・金沢文庫キャンパス)
六浦東1-50-1
(工学部・人間環境学部・経済学部/工学研究科・経済学研究科・法科大学院)
釜利谷南3-22-1(文学部/文学研究科)
1884年(明治17年)創立(横浜バプテスト神学校→後の東京学院神学部)
※アルバート・アーノルド・ベネットにより、横浜山手に設立されました。
学校法人関東学院
関東学院大学の校訓は「Be a man and serve the world(人になれ 奉仕せよ)」
英国との繋がりが深く、オックスフォード大学の構内にオックスフォード研究センターを開設し日英学術交流を推進しています。10大会連続で決勝戦に進出、うち優勝6回の実績を持つラグビーもオックスフォードとの交流があります。

(関連ブログ)
No.71 3月11日 内村鑑三と関東学院

No.1 1月1日(日) 奇跡の1998年(前編)

No.350 12月15日(土)横須賀上陸、横浜で開化。

◆慶應義塾大学
http://www.keio.ac.jp
(日吉キャンパス・矢上キャンパス)
日吉4-1-1(医学部・理工学部・文学部・経済学部・法学部・商学部・薬学部/経営管理研究科/システムデザイン・マネジメント研究科/メディアデザイン研究科)
日吉3-14-1(理工学部/理工学研究科)
1858年(安政5年)開校
1868年(慶應4年/明治元年)
 年号をとって「慶應義塾」と塾名を定めました。
※創設者は福沢諭吉
学校法人慶應義塾
1934年(昭和9年)日吉地区(現在の日吉キャンパス)を設置、予科を移転しました。

(関連ブログ)
No.28 1月28日 高島嘉右衛門と福沢諭吉(加筆)

No.91 3月31日 自治体国取り合戦勃発

◆東京工業大学
http://www.titech.ac.jp
(すずかけ台キャンパス)
長津田町4259(生命理工学部/生命理工学研究科・総合理工学研究科)
1881年(明治14年)東京職工学校創立
→東京工業学校→東京高等工業学校→東京工業大学(旧制)
国立大学法人東京工業大学
※明治初期日本初の工業教育専門機関として設立。
1975年(昭和50年)9月
 長津田キャンパス(現在のすずかけ台キャンパス)開設
通称、チーズケーキと呼ばれている附属図書館は図書館建築の枠組みを越えた作品として話題になりました。
設計は安田幸一 東京工業大学教授で代表作は新江ノ島水族館、ポーラ美術館、桜田門交番 他

◆昭和大学
http://www.showa-u.ac.jp
(横浜キャンパス)
十日市場町1865(保健医療学部)
1928年(昭和3年)昭和医学専門学校創立
学校法人昭和大学
1997年(平成9年) 昭和大学医療短期大学設置(横浜市緑区十日市場町
2001年(平成13年) 昭和大学横浜市北部病院開院
2002年(平成14年) 昭和大学医療短期大学を改組し、保健医療学部開設

◆東洋英和女学院大学
http://www.toyoeiwa.ac.jp/daigaku/
三保町32(人間科学部・国際社会学部)
1884年(明治17年)「東洋英和女学校」として設立。
学校法人東洋英和女学院
1989年(平成元年) 横浜校地に東洋英和女学院大学開設

◆桐蔭横浜大学
http://toin.ac.jp/univ/
鉄町1614(工学部・法学部・医用工学部・スポーツ健康政策学部/工学研究科・法学研究科・法科大学院)
1988年(昭和63年)創立
学校法人桐蔭学園
1965年(昭和40年)4月桐蔭学園工業高等専門学校開設
1997年(昭和9年)桐蔭横浜大学に改称
桐蔭学園高校は設立当初から能力(学力)別クラス編成により、能力別の授業を行うことで有名になりました。学園創立者・初代理事長は柴田周吉。

◆國學院大学
http://www.kokugakuin.ac.jp
(横浜たまプラーザキャンパス)
新石川三丁目22-1(文学部・法学部・経済学部・神道文化学部・人間開発学部)
1882年(明治15年)皇典講究所が創設。初代総長は有栖川宮幟仁親王。
学校法人國學院大學
神社本庁の神職の資格が取れる神職課程があります。
大学でこの資格を取得できるのは國學院大學と皇學館大学のみです。
2009年(平成21年)4月 横浜たまプラーザキャンパスに人間開発学部(初等教育学科・健康体育学科)を開設。

◆日本体育大学
http://www.nittai.ac.jp
(横浜・健志台キャンパス)
鴨志田町1221-1(体育学部)
1893年(明治26年)日本體育専門學校
※創設者日高藤吉郎
前身は成城學校(現・成城中学高等学校)内に設立された「體(体)育會」→日本體育會體操練習所→日本體育會體操學校→日本體育専門學校→日本体育大学
1968年(昭和43年)横浜市緑区鴨志田に用地を取得し、新キャンパス建設に着手します。
1971年(昭和46年)横浜・健志台キャンパスオープン。
約166,000m?の敷地に野球場・陸上競技場・米本記念体育館(他2つの体育館を有する)・体操競技館・サッカー場(全面人工芝・観覧席有り)・ラグビー場(観覧席有り)・アーチェリー場・プール・弓道場・テニスコート(6面)・ゴルフ練習場(グリーン有り)

◆東京都市大学
http://www.tcu.ac.jp
(横浜キャンパス環境情報学部)
牛久保西3-3-1(環境情報学部/環境情報学研究科)
1929年(昭和4年)武蔵高等工科学校創立
学校法人五島育英会
武蔵高等工科学校→武蔵工業大学
1955年(昭和30年)東京急行電鉄創業者五島慶太の興した学校法人五島育英会に引き継がれる。
2009年(平成21年)東横学園女子短期大学を統合し東京都市大学に改変。

◆明治学院大学
http://www.meijigakuin.ac.jp
(横浜キャンパス)
上倉田町1518
(文学部・経済学部・社会学部・法学部・国際学部/国際学研究科)
1863年(文久3年)ヘボン夫妻が横浜に英学塾を開設。
※女子部はフェリス女学院となる
学校法人明治学院
1985年(昭和60年)4月 横浜校舎開校。

(関連ブログ)
No.146 5月25日 学園祭に行こう!(修正)

No.149 5月28日  「鈍翁」の偉業を偲ぶ

◆横浜薬科大学
http://www.hamayaku.jp
俣野町601(薬学部)
2006年(平成18年)創立
学校法人都築第一学園
2006年(平成18年)4月に横浜市戸塚区の横浜ドリームランド跡地に開校。

◆フェリス女学院大学
http://www.ferris.ac.jp
緑園4-5-3(文学部・国際交流学部・音楽学部/人文科学研究科・国際交流研究科・音楽研究科)
中区山手町37((音楽学部3・4年次))
1863年(文久3年)ヘボン夫妻が横浜に英学塾を開設。
1870年(明治3年)アメリカ改革派教会の宣教師メアリー・E・キダーが、ヘボン施療所で、女子を対象に英語の授業を開始したのが始まり。
※男子部は明治学院となる。
日本での女子校として最も古い歴史を持つ学校。
1988年(昭和63年) 緑園キャンパス開設(山手・緑園の2キャンパス体制に)

(関連ブログ)No.48 2月17日 さよならYDL

●●無くなった大学
◆神奈川県立栄養短期大学
横浜市保土ヶ谷区桜ヶ丘2-43-1
1945年(昭和20年)創立
神奈川県立栄養士養成所として横浜市南区中村町に開設し
その年保土ヶ谷区桜ヶ丘に移転します。
1948年(昭和23年)12月神奈川県立栄養専門学院に改称
その後
1961年(昭和36年)2月神奈川県立栄養短期大学に改称
2003年(平成15年)4月県立福祉大学が横須賀に開学するに伴い合併し、閉校します。

◆神奈川県立外語短期大学
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f619/
横浜市磯子区岡村4-15-1
1968年(昭和43年)創立
43年間で約3,700名の卒業生を送り出し、その役目を終え、平成23(2011)年6月に閉学しました。
後継学校は
国際言語文化アカデミア
神奈川県横浜市栄区小菅ケ谷1-2-1

※その他 閉校した大学キャンパスがまだ幾つかあったと記憶していますが

 詳細は追跡しておりません。

No.329 11月24日(土)学校名は語る

7月 16

【横浜マークハンティング】地べたを拾う (追加版)

現代は地下社会である!?

地下無くして都市は成り立たない。
地べたと地下をつなぐマンホール(英: manhole)
地下の下水道・暗渠・埋設された電気・通信ケーブルなどの管理をするために作業員が地上から出入りできるように地面にあけられた穴のことである。
ここでは 都市のマンホールには触れない。
地べたと地下をつなぐ横浜の「ふた」「蓋」のデザインを探してみました。
「ハンドホール」と呼ぶそうです。

(NTTの蓋デザイン)
この電話100年をデザインした「蓋」は横浜市内数カ所にしか残っておりません。(私の確認では二カ所)

No.26 1月26日 横浜東京間電信通信ビジネス開始

1890年(明治23年)12月16日
横浜と東京間にわが国で初めて電話交換業務が開始されました。


スタンダードな
マンホールの蓋はマンホールの蓋は

あえて目立つ「消火栓」導管の太さで区別?
追加しました!
「ふしこし」管用のマンホールです。意味は調べてください!?
洗浄栓
浚渫口です。
いろいろあります。
むかしながらの?市道用マンホール

全国都道府県市町で異なるので 当然マニアがいるんですが…
http://ja.wikipedia.org/wiki/マンホールの蓋
http://www.hotetu.net/manhole/manhole.html
上記のマニアックな集大成で
ほぼ横浜のマンホールもカバーされていると思っていたら??
そこは地元。横浜らしい 地べたの「蓋」を発見したのです。

(デザイン系追加)

オリジナルの素材を活かしたマンホールもあります。
上の煉瓦模様はかつて歩道の素材に合わせていたのが
マンホールだけ残ったものです。
極めつけ!!!

ロコサトシさんデザイン

(これは実のところマンホールではない????)

ここまで、一時間でコレクションしたもの。
今後じっくり探すと
出てきそうなので 追っかけテーマとしたい!!

こんな施工は止めてくださいね。剥がしてはまた戻すんですかね

 

6月 26

【番外編】京都の戦乱!

第二次世界大戦で空襲を受けることが無かった「京都」
平安の時代から 大災害を受けること無く現在にその佇まいを残している!?
と思ったら 大間違いでした。

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都市にとって火災は致命傷です。
幕末明治、横浜でも何回か大火事で街の機能が麻痺します。
一番大規模の火災は「横浜大空襲」ですが、関東大震災の出火類焼も大きな被害をもたらしました。歴史的には横浜が開港によって大都市への急発展を遂げる中、居留地の近くで起りました。
No.294 10月20日(土)防災道路を造れ!

No.219 8月6日 (月) チェックメイトキング

役所も焼失!

No3 1月3日(火) 大火事

同様に京都も例外無く平安から江戸末期まで大火の歴史がありました。
今日は 京都の大火事を調べてみました。
平安時代以降の大火事と言えば 
1177年(安元3年)「太郎焼亡」「次郎焼亡」と連続して起ります。
鴨長明の『方丈記』によると
火事は「樋口富小路辺り」(現在の京都市下京区万寿寺町富小路辺り)の小屋から出火し、当時の市街地約三分の一が炎上しました。
この様子は、九条兼実の『玉葉(ぎょくよう)』、藤原定家の『明月記』など他にも多数の古記録や文学作品に書かれました。
1467年(応仁元年)応仁の乱による戦乱火災
1788年3月7日天明8年1月30日)天明の大火
 団栗焼け(どんぐりやけ)、都焼け(みやこやけ)
または干支から申年の大火(さるどしの たいか)と呼ばれました。
当時の京都市街の8割以上が灰燼に帰します。
1864年(元治元年)には
 京都史上最大級の戦乱大火災がありました。
 禁門の変(蛤御門の変)による大火事です。

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いわゆる「どんどん焼け」(鉄砲焼け)と呼ばれました。
戦闘の場になった御所と長州藩邸辺りから出た火が京都一円を焼き尽くしました。
この様子を表すものとして「洛中大火夢物語」、「秋の日照」、「甲子兵燹(かっしへいせん)図」があります。
手元に「甲子兵燹図(かっしへいせんず)」がありますので

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じっくり見てみるとその描写には興味深いものがあります。
甲子兵燹図(かっしへいせんず)は
1893年(明治26年)に発行されました。

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復旧の図

この絵の舞台、蛤御門の変の現場となった御所と長州藩邸辺りから出火します。
7月19日朝7時頃に河原町二条の長州藩邸から
※落ち延びる長州勢が長州藩屋敷に火を放ち逃走。
10時頃には堺町御門に隣接した鷹司邸の2ヵ所から出火します。
※敗残兵が逃げ込んだ鷹司邸や民家に会津藩・薩摩藩兵・新選組が砲撃し出火
このことが会津以下幕府側の評判を落としたとも言われています。
21日朝まで燃え続けました。
焼失した町数は811町、被災世帯2万7513戸、公家屋敷18、武家屋敷51、社寺253に及んだといわれています。負傷者744名、死者340名が出ました。

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赤色が類焼地域、被害が全域に及んでいることがわかります

当時の市街地の3分の2に当たる地域が焼失し、東本願寺など大きな寺社にも被害が及びました。
京都御苑(京都御所)自体は焼失を免れますが
この「禁門の変」の大火で京都は機能を失い、天皇の東京行幸のきっかけにもなります。
この大火災が発生する戦乱が起る直前の
1864年(元治元年)7月11日午後5時ごろ
横浜開港に深く関わった変わり者 信濃国松代藩士 佐久間象山が三条木屋町で暗殺されます。

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紅葉の野毛山
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佐久間象山の碑

佐久間象山、優秀な半面傲慢でもあり 敵も多かったようです。彼の弟子“勝海舟”もあまり象山のことを(回顧談で)良く評価していませんが、海舟もかなりの変人ですので どっちもどっちといったところでしょうか。
佐久間象山の碑が 野毛山公園に建っています。