第912話 【市境を歩く】長尾台町あたり

横浜側:長尾台、田谷
鎌倉側:玉縄、岡本
今年の春、市境踏破を目指しました。ほぼ全市境あたりを歩きましたので、第二ステップでは、市境をもう少し探ってみることにしました。
(長尾台)
大船駅西口から柏尾川に沿って上流に向かうと程なく「長尾台」のバス停があります。このあたりで川を背にすると目の前に切り立った高台とその周辺が長尾台です。
中世戦国時代に後北条氏伊勢盛時、後の北条早雲となったに武将によって築かれた玉縄城(たまなわじょう)の出城があった場所とされています。
この長尾台は東と南の方角を見据える良い立地で古くから小城(館)があったことが発掘調査で判っています。平安時代の武将、源義家に従って活躍した長尾次郎の名がこの地名の由来とされています。中世に北条氏の三浦攻めの拠点となった鎌倉玉縄城は、永正9年(1512年)に後北条氏伊勢盛時のちの北条早雲によって築かれます。長尾台は玉縄城の重要な出城で近くを流れる境川支流柏尾川が堀の役割をする絶好の要害の地でした。
現在も長尾台の丘陵部は人里離れた別天地の様相で、横浜に居ることを忘れてしまいそうです。
この長尾台と隣接する田谷の境界にはケモノミチがあり、この道を抜けると玉縄五丁目に出ることができます。
(夢を運ぶ)
この市境にはかつて、モノレールが走っていました。
この話にピンとくるかどうかで一つの世代を測ることができます。夢のように現れ、夢のように消えた「横浜ドリームランド」の消滅要因がこの横浜ドリームランドと大船駅を結ぶ”モノレールドリームランド線”のトラブルでした。モノレールが開通した翌年、1967年(昭和42年)に構造上の欠陥が見つかり早くも運行が休止され、送客できないことでドリームランド閉鎖の致命的要因となります。モノレールを担当した東芝は、責任を認めず、長い裁判となります。
※このドリームランドモノレール事件の裁判過程は実に興味深いのでじっくり読み解いてみたいテーマです。 池井戸潤の「下町ロケット」にも通じる、大手企業の<影>が見えてきます。
掲載の地図に引かれている路線図はかなり乱暴ですが、実際は長尾台・田谷付近の市境に沿って路線が引かれていました。すでに市街化していたこの地域に交通機関を設置する唯一残された空間だったのかもしれません。
(市境)
JR大船駅ホームの下を柏尾川の小派川「砂押川」が流れています。横浜市と鎌倉市の境、市境の決まり方としては一般的な「境の川」です。
「砂押川」が柏尾川に合流し市境も柏尾川に沿って400mほど北(上流)に伸び、柏尾川右岸側、西方向に入り込み長尾台西南の尾根筋が市境となっています。
現在の長尾台は古来「相模国鎌倉郡」で、1889年(明治22年)明治期最大の市町村再編成が行われます。この市町村合併は近世江戸の集落関係に関係なく様々な軋轢を残したまま実行されます。
柏尾川右岸の金井村・田谷村・長尾台村と小雀村が合併し現在の鎌倉市境、横浜市西部のかなりまとまったエリアが長尾村となります。
ところが、1915年(大正4年)に再編が起こます。
“広い長尾村”周辺が解体され、国道(東海道)沿いの小雀村・富士見村・俣野村・長尾村(一部)が大正村に
田谷村・金井村・長尾(台)が明治22年に柏尾川左岸でまとまった豊田村と大正4年に合併し大きな「豊田村」となります。
単純化すれば、川をベースにした農業エリア柏尾川両岸でまとまり、東海道筋経済圏で戸塚宿以南でまとまった新しい自治体を作り直したという構図です。
ただ、長尾(台)村は大船駅に近かったため、早くから大船村への合併を希望していましたが叶いませんでした。
(鉄道の時代)
明治に入り、街道の時代に加え鉄道の時代が始まります。
東海道線 大船駅は
1888年(明治21年)11月1日に開業。当時、駅の正面は西口の観音側でしたので、長尾台村にとっても重要な最寄り駅となっていました。
さらに翌年の1889年(明治22年)6月16日には横須賀線が大船駅〜横須賀駅間で開通し、鎌倉駅・逗子駅・横須賀駅も合わせて開業します。
戸塚町は明治中期以降、工業都市として急速に発展していきます。横浜市が昭和に入り「大横浜」を指向する中、柏尾川沿いの町は大横浜に入るのか、これまでのコミュニティを維持するのか、大きな選択を経て現在の横浜市域が誕生していきます。
改めて境界を歩くと長尾台から玉縄の台地を鎌倉時代、相模のもののふ達が去来した思いを馳せることができるでしょう。

1件のコメント

  1. はじめまして、当方関西にある大学四回生のものです。
    お尋ねしたいことがあり、失礼ながらもこちらにてコメントいたしました。
    【謎解き横浜】弁慶の釣り鐘は何処に? を拝見しました。現在、卒業論文にて「釣鐘弁慶」をテーマに取り上げているのですが、「弁慶の絵柄の鐘楼が写った絵葉書」の画像はどちらにて入手しましたでしょうか。横浜 絵葉書などのデータベース等は探して調べたのですが見つからなかったため失礼ながらこちらにでコメントいたしました。
    もしこちらをご覧になられて、かつお答えいただけるようでしたら返信していただけると幸いです。
    長文失礼いたしました。

宮崎紗帆 へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください