11月 7

【番外編】戦後の横浜を読む(№917)

横浜の戦後も遠くなりつつあります。
占領時代は特に横浜の戦後を語る上で欠かせない時間です。関内外、周辺の工場や軍事施設が空襲を受け、捕虜収容所にも被害がありました。
第847話 1945年(昭和20年)7月13日「海芝浦駅」空爆

No.122 5月1日 ハイデルベルク・ヘンリーと呼ばれた男

ここに戦後横浜の断片を知るノンフィクション・エッセイを何冊か紹介します。
私が手に入れた範囲内のリストアップなのでまだまだ色々ありますが、中々読み応えのある内容です。
下記の書籍、ほとんど絶版のようです。図書館か古書店で探して下さい。

●港の見える丘物語 マダム篠田の家
〜YOKOHAMA1945-50/赤塚 行雄/第三文明社
昭和後期から平成時代の評論家として文芸から漫画、犯罪などの社会風俗まで、多岐にわたり評論活動を行い大学でも教鞭をとった。昭和5年生まれ横浜出身。
GHQ横浜進駐時代の裏話が詳細に語られています。

港の見える丘物語

●馬頚楼雑記
〜グラスごしにみたヨコハマ(1984年)/牧野 イサオ/有隣堂
知る人ぞ知る関内にあったバーであり画廊だったホースネック(馬頚楼)のオーナーが残したスケッチや写真、メモ等をまとめたもの。場所は関内エリアですが、野毛の入口吉田町のことにも触れています。カウンター越しのクールさが当時を知る上で重みがあります。

馬頚楼雑記

●横浜ジャズ物語 「ちぐさ」の50年(1985年)
吉田衛/著 神奈川新聞社
野毛の戦後を知るにはまずこの一冊から。野毛論の基本教科書といっても良い一冊です。新聞社連載がキッカケとなったので、良く編集されています。

横浜ジャズ物語

●はだかのデラシネ
〜横浜・ドヤ街・生きざまの記録 (1983年)/中田 志郎/マルジュ社
私が寿ドヤ街のことを調べる時に最初に手にした一冊。野毛の戦後混乱期を「麻薬相談員」の立場で語った秀作。

はだかのデラシネ

DOYA!ことぶきの町は。
●『聞き書き横濱物語 Yokohama story 1945-1965』松葉好市/
小田豊二/ホーム社
松葉好市さんは最近亡くなられたと聞きます。昭和11年真金町遊郭生まれ、椎名巌さん(桂歌丸)と同級生。10代の多感な時期を猥雑だった繁華街に育ちます。野毛のキャバレー「チャイナタウン」の支配人としてこのエリアの生き証人として語ったことをまとめた力作。野毛形成史の価値ある一級資料。

聞き書き横濱物語

●野毛ストーリー 大谷一郎 著 神奈川サンケイ新聞社 1986年
野毛をネジロに飲みに返ってくる立場からこの街を描いたエッセイ。これも新聞連載から一冊の本になったもの。バブルが始まる直前の野毛が描かれています。巻頭の写真、文中に描かれた<挿絵>が当時の様子を知る良い資料となっています。

野毛ストーリー

●天使はブルースを歌う
〜横浜アウトサイド・ストーリー(1999年9月)/山崎 洋子/毎日新聞社
根岸線山手駅の裏側に広がる「根岸外国人墓地」にまつわる史実を追い求めた力作で、そのストーリー展開はまさにサスペンデッド。改めて戦後の横浜を考え直した一冊です。

天使はブルースを歌う

Google Kindle版があるのでタブレットをお持ちの方は手軽に読めます。

●やけあと闇市野毛の陽だまり
─新米警官がみた横浜野毛の人びと(2015年12月)/伊奈 正司、伊奈 正人/ハーベス社 ※販売中
昭和20年代、野毛の都橋交番に勤務していた著者が描いたスケッチとコメントを再編集したもの。野毛界隈を別の視点で描いているので興味深い。

やけあと闇市野毛の陽だまり

●横浜「チャブ屋」物語
〜日本のムーランルージュ(1995年3月)/重富 昭夫/センチュリー
少々時代は遡りますが、横浜の風俗史を知る貴重な一冊です。チャブ屋という名を酒豪の先輩から聞いたのは私が横浜で暮らし始めた1990年代始めの頃でした。

横浜「チャブ屋」物語

●消えた横浜娼婦たち
港のマリーの時代を巡って(2009年6月) 檀原照和/著 データハウス

消えた横浜娼婦たち

●寿町・風の痕跡 ドキュメント(1987年1月)
川原衛門/著 田畑書店

寿町・風の痕跡

●女赤ひげドヤ街に純情す 横浜・寿町診療所日記から(1991年7月)
佐伯輝子/著  一光社

女赤ひげドヤ街に純情す

●横浜ストリートライフ(1983年)  佐江衆一/著 新潮社
時代は発行年と同時代に起こった、「横浜浮浪者連続殺傷事件」を追いかけたノンフィクション。
No.43 2月12日 “浮浪者狩り”

横浜ストリートライフ

※平岡正明さん系!は別掲としました。

「ヨコハマB級譚『ハマ野毛』アンソロジー」
「ハマ野毛」(1から6)編集参加者多数
「野毛的 横浜文芸復興」
「長谷川伸はこう読め! メリケン波止場の沓掛時次郎」
「美空ひばり 歌は海を越えて」
「ヨコハマ浄夜」
「横浜中華街謎解き」
「横浜的 芸能都市創成論」

8月 24

横浜市町内会連合会

1975年(昭和50年)6月12日の今日
横浜市内の町内会会長で組織していた「横浜市町内会長連絡会」が「横浜市町内会連合会」という名に改称されました。
皆さんは地域の自治会町内会に加盟していますか?
「自治会町内会は、一定の地域において、住民相互の親睦を図り、そこで起こる様々な課題を解決することを目的に自主的に組織された住民団体です。
横浜市内には、平成26年4月現在で2,881団体の自治会町内会が組織され、約123万世帯の市民が加入しています。」
と「横浜市町内会連合会」のサイトに書かれていました。

「自治会町内会は防災や福祉、美化活動など安全安心で住みやすい地域づくりを目指す活動や、お祭りや運動会などのレクリエーション活動を行っています。
普段、あまりお気づきにならないかもしれませんが、自治会町内会の活動は、みなさんのくらしに欠かせない役割を担っています。
地域の絆をはぐくみ、地域で支え合う社会を作っていくためにも自治会町内会への加入をお願いしています。」
http://www.yokohama-shirenkai.org
さらに少し遠慮気味に勧誘もしています。
横浜も加入率の低下に悩んでいるようです。
横浜市内 自治会町内会には
123万世帯が加入(H26年)しているそうです。横浜の総世帯数が約163万(H26年)ですから7割強の加入率という計算になります。
内閣府のH19年「町内会・自治会等の地域のつながりに関する調査」では
「町内会・自治会があると回答した人は、9割を超えている。また、町内
会・自治会の区域としては小学校区より狭いという回答が7割を超え、平 均すると約 600 世帯、9割弱の加入率である。なお、回答者世帯の9割超 が実際に町内会・自治会に加入している。」
都市部の横浜はかなり低い加入率です。
横浜市自治会町内会加入率推移
(自治会・町内会?)
ここまで「自治会町内会」とまとまった<単語>で表記しましたが、地域によって自治会・町内会はそれぞれ別名称で使用されています。
横浜市の公式見解(ちょっと大げさですが)では
「自治会・町内会は、地域に住むみなさんが自らの手で相互に仲良く助け合いながら、自分たちの地域生活をよりよくしていくために、様々な活動を行う任意団体です」
「「自治会」「町内会」の名称については、呼び名は違いますが、団体の活動内容に違いがあるわけではありません。それぞれの自治会・町内会が発足時に、決定しております。」
と名称は違うが内容は同じとしています。
地方自治法でも、「地縁」団体とされていて、町内会=自治会となっています。
徹底して調べていませんが 町会・町内会その下部組織として<隣組>の呼び名が戦前に使われ、戦後自治会が使われ始めたようです。
町単位が町会、集合住宅や新しくまとまって開発された住宅地には「自治会」が多く感じますが、混在していて明確な特性とはなっていません。
→市内自治会町内会の形成 おもしろそうです。
例えば自治会は「西柴団地自治会」「権太坂境木自治会 」「青葉区連合自治会」「緑区中山町自治会」「下田町自治会」「鴨居地区連合自治会」「本郷台自治会」「関ヶ谷自治会」
一方町内会は
「港北区連合町内会」「桜木町町内会」「南吉田町内会」「山元町3・4・5丁目町内会」「青葉区たちばな台町内会」「長沼町内会」「岡野二丁目町内会」

(歴史)
「横浜市町内会連合会」がまとめたものをベースに横浜に特化し町内会の歴史を調べてみました。
町内会の起源
横浜市における町内会の起源は、市制が施行された翌年の明治23 年(1890 年)
に作られた「衛生組合」で
この衛生組合を組織した目的は、
第一に横浜が開港以前は一寒村にすぎず、他の地域にあるような旧来の隣保組織を持っていなかった
第二に横浜が開港地として貿易や居留外国人との関係で、伝染病の危険にさらされる機会が多かったため
と横浜の町内会の起源をまとめています。

横浜の場合、
「横浜が開港以前は一寒村にすぎず」という点が大きいです。この決まり文句の「一寒村」という代名詞には異論がありますがここでは置いておきます。
※寒村ではなく小さい村で暮らしは豊かだった
横浜開港場は江戸時代までの農村や城郭・寺社・宿場などといった<地縁社会>の無い政治特区でしたので「旧来の隣保組織を持っていなかった」ことが特徴といえるでしょう。これも市域拡張で旧来の<地縁社会>が横浜市内にも組み込まれ、新旧の<融合>が横浜の文化的なエッジであるだろうと考えています。
横浜開港場周辺の地域にとって集落の<結束>は上記の第二の理由
<伝染病の危険>が大きかったといえるでしょう。

No.89 3月29日 ペスト第一号もYOKOHAMA
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=528
No.217 8月4日 (土)わがひのもとの虎列刺との戦い
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=390
悪い意味でいち早く伝染病の被害を受けた横浜は1890年(明治23年)に作られた「衛生組合」がいわゆる地域互助組織=隣保組織の代替となったようです。
その後関東大震災を経験しながら、「衛生組合」が「自警団」等を経て「町内会」「青年会」等の地域組織として地縁組織となっていきます。昭和期横浜市には、自治活動を行うための町内会、衛生組合の町内会事務代行、町総代会という3つの組織がありましたが1940年(昭和15年)9月11日付け内務省訓令第十七号「部落会町内会等整備 要綱」により「隣組」「町内会」として明確に一本化されます。
「隣組」は十戸内外で組織されるように指導され、当時大ヒットした<国民歌謡>によりさらに強化されることになります。
https://www.youtube.com/watch?v=rBh4wUrjltM
https://www.youtube.com/watch?v=kQf-aO95ezU
1941年(昭和16年)時点で
横浜市の町内会数は798、隣組は約2万に達し、銃後の守りとなりました。
戦時中の横浜の「隣組」の様子を丹念に調べた本が出ています。
「戦時下の日本人と隣組回報」渡邊洋吉 幻冬舎新書2013年刊

この本は珍しい昭和16年〜17年の横浜市戸塚区矢部町第6隣組で回覧された「隣組回報」を読み解きながら当時の時代背景、状況を克明に記しています。

戦中に隣組、町内会は有効な情報伝達組織、地域管理システムとして機能しましたが、粗末な地域権力構造となり暴力組織にもなり終戦とともに解散・解体されます。
戦後、未組織の中で生活互助的な「防火防犯協会」「赤十字奉仕団」が誕生し「町内会」の役割を担うようになります。
1951年(昭和26年)GHQの自治政策緩和により権限が政府自治体に移管、「町内会」組織の再編が始まります。長い接収時代が徐々に解除となり、横浜市に多くの人口が流入する30年代ごろから積極的に新しい「町内会」組織育成と平行して従来とは違った形の自治会町内会(団地管理組合の性格をもった自治会町内会など)が続々と結成されます。
これらの地域互助組織の発展形が市連合町内会長連絡会となり
1975年(昭和50年)6月12日の今日
横浜市町内会連合会に改称されたという訳です。

(横浜国立大学でも)
町内会への加入について
町内会に入って、地域デビューしよう!ー地域に新たな活力を!ー
学生の皆さんは、国大生になって実家を離れ、国大周辺やヨコハマ地域等に暮らす「地域社会の一員」です。その地域を運営していくには、町内会という組織が必要で、日夜活動しておりますが、その町内会では若い力である国大生の加入を強く求めています。
「遠くの親戚よりも近くの他人」という諺がありますが、どうか地域の方々と顔馴染みになり、何かあったらお互いに助け合っていくような間柄になっていただきたいと思います。
皆さんが地域住民の方々に見守られていれば、ご両親も安心です。

なんて案内もあるのには驚きました。

長くなりましたが、最近人気薄の自治会町内会ですが
違和感があることも事実です。個人単位ではなく<世帯単位>であることや説明(理解)のプログラムなしに半強制的な<雰囲気のある>ところも
地域の老人親睦、広報の配布組織といった批判もあります。
地域社会の「骨粗鬆症」化と表現する専門家もいます。
なんといっても<防災上>
私達を守る私達が守る共助組織です。
さらに高齢化の中での様々な課題を解いていく大事な下支え組織でもあります。
しかし
世代間・ライフスタイル別の運営に対する認識ギャップが多く生じているようです。その他の共助組織との連携やシームレス化も遅れています。
横浜も空き家率、高齢化率が 急上昇しています。
このギャップを乗り越えるには さらなる工夫が必要でしょうね。

No.164 6月12日(火) JR JR
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=446
1872年6月12日(水)(旧暦明治5年5月7日)かねてよりの突貫工事で進めていた品川・横浜間の鉄道が仮開業しました。

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1月 13

No.704 《横浜本》「幕末日本探訪記」

横浜に関係する書籍から外国人が記録した“ある日の横浜を知る一冊”を紹介しましょう。
タイトルは「幕末日本探訪記」
light_201501060026この本は世界的プラントハンター ロバート・フォーチュン(Robert Fortune)の日本探訪記の訳本です。彼は、1812年9月16日(文化9年)スコットランドに生まれ、エディンバラ王立植物園で園芸を修めた後、ロンドン園芸協会で温室を担当していました。比較的貧しい家に育った彼にとって、ロンドン園芸協会の職はかなり恵まれたものでしたが、彼の非凡な才能は30歳を過ぎて大きく開花します。
1840年代、フォーチュンが30代の頃、英国の富裕層は限りなき欲望の果てに新しいお茶の贅
を求めていました。“新種のお茶”であれば貴族たちは目の色を変え欲しがる贅沢品となっていました。当時、英国から独立したばかりの“アメリカ”でもお茶の人気は高まるばかり、このお茶ブームが後に開国する日本(横浜)を左右する貿易品となります。
<新しいお茶がほしい!>
大英帝国の東アジア貿易を担っていた「東インド会社」からフォーチュンは中国の<お茶の木>ハントを依頼されます。輸入しないで自国生産するためでした。
背景にはアヘン戦争(1840年〜1842年)があります。この忌まわしき戦争の要因は、大英帝国による茶、陶磁器、絹等の輸入超過解消でした。欲しいものを入手する代わりに<インド産麻薬>を中国に売ることで帳尻を合わせようとしたのです。→三角貿易
アヘン戦争終結後の<南京条約>によって無理やりこじ開けられた中国は外国人(英国人)の国国内往来が自由になります。これをきっかけに彼は中国に派遣されることになります。お茶を輸入するより自国の植民地で作るためのプラントハントでした。
中国に派遣されたロバート・フォーチュンは<郷に従う>優れた才能がありました。中国語を素早く習得し、中国人の服装で茶の産地をくまなく調査し多くの品種を(プラントハント)採取しインドに移植するというミッションを見事にこなします。
中国からインドに移植された<お茶>で現在も世界のお茶市場で人気ブランドとなっているのがダージリンです。このダージリンの登場で中国茶の人気が急落し、お茶市場は中国からインドに移ります。
<新しい花を求めて>
お茶だけではなく珍しい花、新しい花の品種も欧州市場で人気でした。菊、蘭、ユリなど東洋を代表する観賞植物を英国にもたらしたのもフォーチュンでした。
Fortune’s Double Yellowというバラの品種をご存知ですか?
この品種は彼が発見したものです。
http://www.paulbardenroses.com/teas/fortunes.html
http://www.helpmefind.com/rose/l.php?l=2.2808
またFortunella japonica、和名をキンカン。
Fortunellaはプラントハンター「フォーチュン」がこの品種をヨーロッパに紹介したことで献名されました。
<開国とともに>
前置きが長くなりましたが、
世界的プラントハンター ロバート・フォーチュン(Robert Fortune)は、
1860年10月(万延元年)開国した日本を二度訪れています。このときの記録が「江戸と北京ー幕末日本探訪記」(A Narrative of a Journey to the Capitals of Japan and China)として発刊されます。当時、開港(開国)から明治初期には多くの外国人が訪日し<日本滞在記>を著していますが「江戸と北京ー幕末日本探訪記」は、プラントハンターという職業柄かなり異なった視点で<日本>を見つめている点が興味深いところです。

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No.470 パーセプションギャップを読む

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No.402 JIMAE TABI

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(日中比較)
この本はタイトル通り、「江戸と北京ー幕末日本探訪記」(A Narrative of a Journey to the Capitals of Japan and China)日本と中国を訪れた記録の全訳ですが“中国滞在記”の占める割合は少なく主に日本訪問記となっています。
フォーチュンは、日本を訪問する前の1840年代から50年代に中国を長期間中国に滞在していました。ちょうど列強が中国を舞台に植民地化を進めていた時期です。
フォーチュンにとっても外国との交易のなかった未知の国日本には特に別の感情が働いていたのかもしれませんが、この本の中では中国は簡潔に、日本は驚き“発見”のニュアンスが感じられます。

(フォーチュンの横浜)
簡単にフォーチュンの横浜記の一部を紹介しましょう。
フォーチュンは長崎に上陸した後、数日を過ごし「風光明媚の長崎に別れを告げて」「江戸に近い神奈川港に出発」します。
江戸湾を目指した多くの外国人が<富士山>に出会いこの美しさに様々な形容を残していますがフォーチュンは意外とさっぱりした「内陸50〜60マイルの地点にそびえ立つ富士山は、日本人にとって、無二の崇高な山である。山の北面は雲におおわれていたが、南側に鮮やかな緑の線が見えた」とそっけない表現でした。
フォーチュンの視点は、山よりも<森>にあり、森よりも<樹木>に向いていました。

■貿易港としての横浜
彼が横浜沖(神奈川沖)に到着したのは1860年10月30日(万延元年9月17日庚申丁未)です。彼は、日本政府と各国との攻防が修好通商貿易で明記された<神奈川湊>と開港場の<横浜>を往復しながら広く周辺地域にも足を伸ばします。
<横浜開港場>は開港直後に堀川が作られ出島のようになります。この出島を<囚人扱い>とする外国人も多かったようですが、彼は「われわれ外国人を攘夷党の危害から守ってくれる、何物にも勝る適切な計らいだったと言える。」と評価しています。
また神奈川湊ではなく横浜となった開港も
「もし神奈川に決定されたとなると、この海岸は港として不適切なので、天候の状態によって、船はしばしばはるか沖合に停泊しなければならないだろう、というのである。そこで概括すると、横浜は彼らの貿易に適した場所ということができる。言うまでもなく、彼らは日本に商売をするために来たのだから。」と現実的な評価を下しています。
開港後1年余しか時間が経っていない時点で、横浜開港場の位置づけを科学者(植物学者)の視点で冷静に分析しています。実際一時的にせよ“外国人商人”は開港場に居を構え、建前にこだわる“各国政府関係者”は神奈川宿と江戸に拠点を置いて活動していました。

1860年10月30日(万延元年9月17日)フォーチュン日本到着。
1861年7月5日(文久元年5月28日)第一次東禅寺事件<イギリス公使館襲撃>
1862年6月26日(文久2年5月29日)第二次東禅寺事件<イギリス公使館襲撃>
1862年9月14日(文久2年8月21日)生麦事件<イギリス人殺傷>
これら外国人殺傷事件が起こる前、日本滞在中のフォーチュンは「横浜」「神奈川」「江戸」「江戸近郊」「瀬戸内」「長崎」「湘南・鎌倉」と精力的に旅行し、プラントハントをしながらこの国を満喫します。
彼の記述から面白い事実も知ることが出来ました。
「開港場」から「神奈川」に移動する際、船を使っている記述がありました。当時重要な東海道都の連絡路であった<横浜道>を通行するだけではなかったことには少し驚きも感じました。
確かに、外交官たちは神奈川湊の寺に公館を設置していましたから、民間外国人の暮らす開港場と神奈川は移動が自由だったといっても不思議はないでしょう。

幕末明治期の外国人日本論には偏見も多く見られますが、フォーチュンの日本分析には「外国人襲撃事件」の起こる中でも冷静で的確な観察と分析が行われている点で興味ある一冊といえるでしょう。

「江戸と北京ー幕末日本探訪記」三宅馨 訳 講談社学術文庫

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11月 11

No.470 パーセプションギャップを読む

日本が開国することで多くの国々から外国人が来日します。
目的はビジネス、政治、教育、布教 等々いろいろありました。

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彼らは一応に驚き、それぞれの価値観で未知の国「日本」を理解しようとしました。
未開の“野蛮”な国と感じる人、美しき風景に感動する人、美術・工芸に驚嘆する人、インフラや生活水準を未熟とする人 様々でした。

そして彼らは日記や書籍、新聞等々で“不思議の国”を母国に伝えます。
このブログでも何人かの人物を通して横浜(日本)の姿の伝わり方を紹介しました。

No.402 JIMAE TABI

「幕末から明治中期にかけて日本が外国から技術や語学研修のために多くの
“OYATOI”外国人が来日しました。一方で、在留外交官・宣教師や商館の外国人も“自前”で日本国内を旅記録に残し、一部は母国で出版され日本研究や、日本紹介の役割を果たしました。今日は、外国人の日本紀行の一部を紹介しましょう。」

→ここでは、外国人が日本(横浜)について記述した旅行記系の書籍を紹介しました。
今日は、これら多くの外国人が“幕末から明治”にかけて来日し日本をどう認識したかをテーマ別に“横断”してまとめあげた一冊の著作を紹介します。
「逝きし世の面影」渡辺京二 著
平凡社ライブラリー

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「逝きし世の面影」というタイトルからも読み取れますが、
著者は 開国時に訪れた外国人の日本評から 明治以降急激に失われたであろう“日本”(文化)の姿を浮き彫りにしようと試みています。
開国当時ですから日本といってもその多くが
横浜(神奈川)・江戸(江戸郊外)・日光・長崎・函館 など開港に関連するエリアが多く取り上げられています。
この「逝きし世の面影」から地域を拾いだすことで
外国人の“横浜”(論までいきません)が読み取れます。

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本書で引用された訪日外国人の一部
■外交官
「アンベール」「オイレンブルク」「エルギン」「オールコック」「ゴンチャロフ」「シーボルト」「ハリス」「パークス」「ヒューブナー」他
■女性外国人
「バラ」「バード」「シドモア」他
■研究者・専門家
「ケンペル」「ベルツ」「パーマー」「ヘボン?」「モース」他
その他「グリフィス」「ペリー」「グラント」「ブラック」他

(意外)
多くの外国人が最初に訪れた開港都市「横浜」の記述が意外と少ないことに気がつきます。
著者の引用の傾向もある程度見受けられますが、オリジナルにあたってみても
外国人にとって開港居留地の街「YOKOHAMA横浜」よりも郊外部の残された(当時はありのままの)日本に関心があったことも事実です。

オールコック「破損している小屋や農家」を見受けなかった。と神奈川近郊の田園の豊かさに感動していたようです。
一方で他の外国人の中には「日本の農業はいまなお非常に未開なやりかたで行われている」と認識した人物も引用しています。
(切り口)
この「逝きし世の面影」の章立ては
 ○ある文明の幻影
 ○陽気な人びと
 ○簡素とゆたかさ
 ○親和と礼節
 ○雑多と充溢
 ○労働と身体
 ○自由と身分
 ○裸体と性
 ○女の位相
 ○子どもの楽園
 ○風景とコスモス
 ○生類とコスモス
 ○信仰と祭
 ○心の垣根
14にわたる章立ての中で、思いのほか少なく感じたとはいえ
多くの横浜に関するエピソードが鏤められています。
いささか懐古的過ぎる、外国人によるニッポンよいしょ!集の感も拭えませんが、世界各国から日本(横浜)を訪れた 日本(横浜)の「価値」を再認識し、現在を考える良き資料となることは間違いありません。

(イザベラ・バード)
この「逝きし世の面影」中でも良く取り上げられているイギリスの女性旅行家、紀行作家であるイザベラ・バード。

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明治初期の東北地方や北海道、関西などを精力的に旅行し、旅行記”Unbeaten Tracks in Japan”を著します。

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時期は
1878年(明治11年)6月から9月にかけて、通訳兼従者として雇った「伊藤鶴吉」野他には誰も伴わない“女性 一人旅”の記録です。
世界的にも当時珍しい女性旅行家のニッポン紀行に登場する「日本」は新鮮で、欧米文化と日本文化の間にあるギャップと、理解の手がかりをここに読み取ることができます。一般的な紹介では日光、東北地方や北海道、関西旅行が有名ですが、44章立ての中で冒頭と最後には 横浜の情景が印象深く描かれています。
「上陸して最初に私の受けた印象は、浮浪者が一人もいないことであった。(中略)税関では、西洋式の青い制服をつけ革靴を履いたちっぽけな役人たちが、私たちの応対に出た。たいそう丁寧な人たちで、私たちのトランクを開けて調べてから、紐で再び縛ってくれた。ニューヨークで同じ仕事をする、あの横柄で強引な税関吏と、おもしろい対照であった。(英米間は当時険悪な関係であったことも背景にありますが…)
横浜の英国代理領事との会話では「私の日本奥地旅行の計画を聞いて『それはたいへん大きすぎる望みだが、英国婦人が一人旅をしても絶対に大丈夫だろう』と語った。」
「横浜駅は、りっぱで格好の石造建築である。玄関は広々としており、切符売り場は英国式である。等級別の広い待合室があるが、日本人が下駄をはくことを考慮して、絨毯を敷いていない。そこには日刊新聞を備えてある。」
など 当時の様子が丁寧に描かれています。
イザベラ・バード自身、先入観もありましたが次第にそのパーセプションギャップを融和していく心の変化を読み解いていくのも面白いでしょう。
最終章、最後にイザベラは
「汽船ヴォルガ号にて、一八七八年クリスマス・イブ。—-雪を戴いた円い富士山頂は、朝日に赤く輝いていた。私たちは十九日に横浜港を出て、ミシシッピー湾(根岸湾)の紫色の森林地帯のはるか上方に富士山が聳え立つのを見たのである。三日後に私は日本の最後の姿を見た—-
冬の荒涼とした海が烈しく打ち寄せる起伏の多い海岸であった。」

(印象的な山形路)
http://www.genki-machinet.com/img/20070602-4/20070609-15yamasin.pdf
http://www.genki-machinet.com/img/20071005-08/20071016-23yamasin.pdf

(外国人に関する関連ブログ)
No.413 あるドイツ人の見た横浜

No.163 6月11日(月) 反骨のスコッツ親子

No.290 10月16日(火)文士の大家さんは法律家

No.234 8月21日(火)パーセプションギャップの悲劇

3月 1

【418】の代りに番外編「区史を駆使?」

3月1日になりました。
この二週間、私用で横浜におりません。
環境が集中してPCに向かうことができず
殆どしっかり「ブログ」アップができない状態です。
この1週、
手元のポータブルHDDのストックだけで
ネタを使っているため ちょっと深みに欠けます。
ご容赦ください。
今日は 資料の話しを

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ブログネタの参考図書になる
区史の活用
図書館に行けば済むのですが
総合史の資料として、区史は欠かせない
というのが
コレクターの自己弁護です。

中区史は開港史や横浜史が中区史ですので
現在九区の史料を集めた事になります。
まだ 半分ですが 無理して収集はしないように
ゆっくり 収集することにしました。
安く入手するよう探しています。

どうも一冊入手すると
揃えたくなるのが 困ったところです。

緑区史全三冊4,000円は良い買物でした。
それにしても 横浜市の各区はなにかにつけて
「フォーム」がバラバラですね。判型くらい揃えて欲しいものです。

(フォームと個性)
横浜市に限らず、資料のフォーマットが中々揃いません。
電子化上のフォームの統一もぜひ 検討して欲しいところですが、
紙媒体のフォームは横浜を例にとれば
区の広報紙もバラバラですね。散策情報も個性と言えば個性ですが
基本コンセプトを決めれば 18区全体を簡単に俯瞰できます。
区は“区民”へのサービスばかり考え過ぎで区外の市民への情報サービスの
必要性を重視していないようです。
まあ 東京もバラバラですからね。
でも フォームは揃え、中身で勝負!大切な考えだと
私は 考えますがどうでしょう。

Myコレクションで集めたは良いが
殆ど目を通していないのが
■「関口日記」
幕末期に生麦村の名主を勤めた関口家の歴代当主が、約140年間にわたって書き続けた日記です。生麦事件の部分が良く資料として使われます。
■「安政5カ国条約」写
私の最大級コレクションが 五カ国と結んだ通商条約の幕末写本です。

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このブログでも最大限活用しています。
(番外編)
お宝をちょっと紹介しましょう。
内容は 今熟読中なので 近々!!【市外編】で紹介します。

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横浜ではありませんが、百貨店のパイオニア「三越」の明治から大正時代に発行されたPR誌です。6冊学生時代に入手していたことを忘れていました。

価値ある内容です。横浜にも関係のある記事もありますので

おいおい 関連で紹介していきましょう。

本日は すみません ここにて 失礼。 「光」時代に慣れると遅い回線は

つ・ら・い

2月 9

No.402 JIMAE TABI

幕末から明治中期にかけて
日本が外国から技術や語学研修のために多くの
“OYATOI”外国人が来日しました。
一方で、在留外交官・宣教師や商館の外国人も“自前”で日本国内を旅記録に残し、
一部は母国で出版され日本研究や、
日本紹介の役割を果たしました。
今日は、外国人の日本紀行の一部を紹介しましょう。

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外国人の「日本紀行」は、古くからありました。
ザビエルが始めた『イエズス会士日本通信』
ルイス・フロイスの『日本史』が有名です。
19世紀後半、開国に伴い訪れた外国人が多くの日本紀行を残しています。
手元にある日本紀行関係を一部リストアップしてみました。
(横浜に関係するものには★を付けました。★数はおすすめ度です)

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★★アーネスト・サトウ
 「公使日記」他
No.392 サトウさん入門
★チャールズ・ワーグマン
 「ジャパン・パンチ」
No.7 1月7日(月)THE JAPAN PUNCH

★デイキンズ・F・V
 「パークス伝」(イギリス公使パークス)
★★ジョン・ブラック
 「ヤングジャパン」他
 

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No.163 6月11日(月) 反骨のスコッツ親子
★★フェリーチェ・ベアトの写真集

★★ジョルジュ・ビゴー
 「ビゴーが見た明治ニッポン」(画集解説)講談社 2006 
★★エリザ・R・シドモア
 「シドモア日本紀行ー明治の人力車ツアー」講談社 2002
★エルヴィン・ベルツ
 「ベルツの日記」他岩波書店他
No.162 6月10日(日)日本よさようならである。
★セオダテ・ジョフリー
「横浜ものがたり」雄松堂

★マーガレット・バラ
 「古き日本の瞥見」有隣堂1992
★ギメ・エミール
 「1876ーボンジュールかながわ」有隣堂1977
★★ギュスターヴ グダロー
 「仏蘭西人の駆けある記ー横浜から上信越ヘー」まほろば書房1987
★ヘンリー・スペンサー・パーマー
 「Letters from the land of the rising sun」(復刻原書)
 「黎明期の日本からの手紙」筑摩書房1982
No.105 4月14日 白の悲劇

No.121 4月30日  日本にCivil engineeringを伝えた英国人

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■ミッドフォード・A・B
 「英国外交官の見た幕末維新」
■イザベラ・バード
 「日本奥地紀行」平凡社2000
  女性の単独旅行記として読み応えがあります。
■ウィリアム・エリオット・グリフィス
 「The Mikado’s Empire」(原書)
 『ミカド 日本の内なる力』(日訳)

この中から
1880年(明治19年)にある横浜に暮らすフランス人の上信越の旅を著した一冊の旅行記を紹介しましょう。
ギュスターヴ グダロー(Gustave Goudareau)
は横浜にあったフランス領事館に勤める一事務官でした。グダローが12日間に渡って横浜から上信越方面を周遊して戻ってくる旅行記“Excursions au Japon”が、「仏蘭西人の駆けある記ー横浜から上信越ヘー」というタイトルで日本語訳されまほろば書房から1987年に発刊されています。

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グダローについてはその人物像が謎ですが(不明)、資料の断片から1897年に横浜のフランス領事館事務代理になったこと、来日して15年程度のキャリアーがあることが判っています。グダローが観た日本は明治中期頃と推察できます。

(旅程)
横浜から新潟、直江津、長野を経て再び横浜に戻ります。

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行く先の地域経済の現況も数値的に(正しいかどうかはわかりませんが)捉えていたり、正確な旅程記録からかなり日本語に詳しい“細かい”性格が伝わってきます。
異文化ギャップも所々に散見されますが、現地の人々から多くのことをヒヤリングしているところからも概ね親日家の視点で記録された貴重な日本紀行ではないでしょうか。

nnsc2013019前橋までは鉄道を使い、その先は「人力車」と「川蒸気」を使っています。特に「川蒸気」に関しては
往路、長岡から新潟まで約8時間
復路は新潟から与板まで約7時間の川旅を経験しています。
この時代の貴重な移動の記録として「交通学」としても価値ある内容といえるでしょう。
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 当時、フランスは富岡製糸工場、横浜製鉄所 幕末には横須賀製鉄所に関与していましたから同時代のインフラ整備の基本知識がグダローにはあった様子が至るところに発見できる点からも読み応えがあります。

残念ながら復刊されていませんので、一部図書館で借りることが出来ます。
中央図書館他「神奈川」「中」「保土ケ谷」「金沢」「戸塚」の各図書館にあります。

図書館蔵書検索
https://opac.lib.city.yokohama.lg.jp/opac/

1月 10

No.376 1月10日(木)中島敦のいた街(一部加筆)

隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。(中島敦「山月記」冒頭)

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40年読み続けている文庫本

高校時代、世界史最後の授業で担当の奥津芳郎先生は
授業を早めに終わり、
「今日は一編の小説を君たちに贈り最後の授業としたい」
そう言って朗読された作品がこの「山月記」でした。
※先生は学生時代に先輩の中島敦に会い、交流があったそうです。
作家中島敦の代表作の一つです。一時期(今は確認しておりません)多くの高校現代国語教科書に取り上げられた作品です。
彼が横浜に暮らした作家だったことを知ったのは、それからかなり経ってからの事でした。
彼は、教師として8年間横浜に暮らします。彼の人生の四分の一、社会人の殆どをこの地、横浜で過ごします。

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(中島お気に入りだった喜久屋)

横浜の文学風景に作家「中島敦」は欠かせません。また、中島敦にとっても、横浜は大切な街だったに違いありません。
今日は、横浜文学風景“中島敦のいた街”をすこし紹介することにしましょう。
1909年(明治42年)5月5日中島敦は東京、四谷に生まれます。
この年は日本が開港して50年を迎え横浜では開港祝典が開かれました。 親の関係で、奈良、浜松、京城(朝鮮)で過ごし
1926年(大正15年)3月京城中学校を卒業。上京し、第一高等学校に入学します。
1933年(昭和8年)に東京帝国大学国文科を卒業し
知人の紹介で横浜高等女学校(現在の横浜学園)で国語と英語を教えます。

※横浜高等女学校(現在の横浜学園高校)
1899年(明治32年)実業家・県議だった田沼太右衛門により横浜女学校として創立。現在は横浜市磯子区岡村2-4-1に移転。女優の原節子(中退)や歌手の山崎ハコが学ぶ。
http://www.yokogaku.ed.jp

同時期に、横浜高等女学校で音楽教員として渡辺はま子が教鞭を執っていました。
No.303 10月29日(月)オカピ外交

着任して中島は、中区長者町にあったアパートに住みますが、すぐに山下町168番地の当時最新の山下町同潤会アパートに移り住みます。

山下町同潤会アパート
中島敦の暮らしていた山下町同潤会アパート


1936年(昭和11年)3月には中区本郷町3-247(通称瓦斯山)の一戸建住宅に家族と一緒に暮らします。

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中島は、山手の外国人墓地近辺を散策するのが好きで彼の短歌にも何編か情景が残されています。

この丘に
眠る船乗(マドロス)
夜来れば
海をこほしく
雄叫びせむか

小さい頃から病弱だった彼は、軍靴高まるこの時代に、兵役免除となります。持病の喘息に悩まされ、最後も持病で亡くなります。
1941年(昭和16年)3月
 横浜高等女学校を病気のため休職
6月16日には退職届を出します。大学時代からの友人 釘本 久春の計らいで

同月28日横浜からサイパン丸に乗り、南洋庁の国語教科書編集員としてパラオに赴任します(船で九日間)。
【パラオ】
パラオは第一次世界大戦後、その他の島々とともに日本の統治下に置かれます。
1922年(大正11年)日本はパラオのコロールに「南洋庁」を置き、委任統治領の行政の中心地となります。
戦後はアメリカの信託統治領となり独立運動の結果、
1994年(平成6年)10月1日にパラオの独立を承認し、同年11月2日にパラオと国交を樹立します。
1940年(昭和15年)に「大日本航空株式会社」が横浜根岸に飛行場を開設し、南洋諸島パラオ島への定期航空路を運行していました。横浜を5:30発 ⇒サイパン 15:30着 翌7:00発⇒パラオ14:00といった二日の旅程でした。
暦で語る今日の横浜【9月10日】

中島はさすがに飛行機では行かなかった(行けなかった)ようです。
慣れない南洋の地を楽しもうとしている様子が彼の日記や書簡集から読み取れますが、環境は最悪のようでした。現地でも多くの歌を残しています。
「蟹むるる リーフ干潟の上にして つややけきかもよ蒼穹の青は」
着任してまもなくテング熱の他、病気になったことと戦争が始まったこともあり同僚と早々に帰国することになります。
1942年(昭和17年)12月
喘息発作のため東京世田谷の自宅で32歳の生涯を終えます。
人生の僅かな社会人人生の殆どを横浜で過ごした中島が(教師の側)短くも濃厚な作家生活を送り多くの作品をこの地「横浜」で書き上げます。
彼と横浜の関係を記念して
中島敦の文学碑が元町3丁目の元町幼稚園運動場内にあります。

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1975年(昭和50年)12月4日中島敦の命日に文学碑を建てる会が建てたものです。

中島敦が、横浜高等女学校に教師として勤め始めた同時期、同じ東京出身で大学同期の親友だった釘本 久春が、新子安駅北側にある浅野綜合中学校(現在の浅野中学校・高等学校)の国語教師となります。
教師時代も、職場があった横浜で二人は友情を温めます。
※浅野綜合中学校
1920年(大正9年)1月に実業家 浅野総一郎が創設した總合中學校です。
横浜市神奈川区子安台一丁目3番1号
戦後、釘本 久春は、文部省(現在の文部科学省)の文部省国語課長となり戦後の国語改革、国立国語研究所の創設に参画します。
中島作品は、戦後中村光夫らによって再評価され、親友釘本 久春も中島敦作品を戦後の青年に読んで欲しい一編として「山月記」を推すことで、教科書に採用されることになります。
ここでは、敢えて作品に付いては触れません。
今こそ 
この作品から 臆病な自尊心と、尊大な羞恥心に苦しむ
行き詰まった自己の時代を見つめ直す時ではないでしょうか。
201807加筆

1月 2

No.368 1月2日(水)横浜入門書

今日は、良く聞かれる質問から。
横浜を始めて勉強する参考書はありますか?

私は横浜に住民票を移してちょうど二十五年になります。
最初の五年は、正直ほとんど横浜の事を知りませんでしたし、現在ほど興味もありませんでした。職場が主に東京でしたから、横浜は余暇のひと時を過ごす空間でした。
キッカケは1995年(平成7年)の阪神淡路大震災でした。その詳しい経緯は別にして、18の区がある横浜の多面性に驚いたところから始まりました。
初めて本格的に横浜の事を調べ始めた時に、参考になるものが中々ありませんでした。それこそ、図書館で市史でも読めば詳しくなるのでしょうが、手軽な入門書?は無いのか。それも単に歴史だけじゃない、横浜の様々な『顔』がわかるには?
当時はネットも“パソコン通信”の横浜フォーラムがありましたが、ネットにありがちな「オタク縄張り」みたいな入りにくい世界でした。

本日明らかにする 本邦初公開?というほと大げさではありませんが、
私の最初の横浜虎の巻を紹介します。

「港都横浜そのうつりかわり」川口正英 著 ブックス二宮発行
残念ながら絶版の入手困難本ですが、改訂版を出してもかなり反響があると思います。
川口正英氏は横浜市瀬谷の旧家の出身で、
元横浜市会議長、市会議員を長らく務めた方が横浜の概略をまとめあげた著作です。
※息子さんの正寿さんも現在、瀬谷区から市会議員として活躍されています。

この本を手にした時、まず奥付けの著者経歴をチェックして
議員さんの本は基本的に面白くないし、族議員のPR本の類ではないか?と思いましたが、どっこい ものすごい本です。半端じゃありません。
発行は1983年(昭和58年)ですが、当時横浜検定があったらこの本が教科書になっても不思議ではありません。
また私家版の市政要覧としても読み応えのある一冊です。
歴史から、当時の横浜市の事業、課題が的確にまとめてあります。
(1)開港とそれに関わる種々相
(ここでは開港から昭和までの概略をまとめてあります)
(2)横浜港と貿易編
(3)下水道と河川事業編
(4)横浜水道編
(5)道路編
(6)清掃編
(7)教育編
(8)消防編
(9)公園編
(10)農業編
(11)横浜中央卸売市場編
(12)交通機関編
(13)開発関係編
※どうやら当時の横浜市の組織別にまとめているようです。

今、この本を読めといっても多少無理があります。

実は無料で横浜市の概要をつかむことが出来る冊子があります。
「横浜市暮らしのガイド」
http://www.city.yokohama.lg.jp/shimin/koho/lifeguide/
PDF版もあります。
新たに転入してきた新市民には配布されているようですが、一般市民は自ら配布場所に出向いて入手する必要があります。(またはダウンロード)
冒頭の
■私たちが住む「横浜市」って?
は横浜の基本中の基本がまとめてあります。

横浜初学者には「わたしたちの横浜」を推薦しています。

小学校児童のための社会科副読本の年度版で、市販されています。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kyoiku/koho/
次にもうワンランク上の横浜を学ぶには
「横浜市立中学生用副読本 わかるヨコハマ」がおすすめです。

ここでは、
「横浜市立小学校用副読本 わたしたちの横浜」を紹介しましょう。
2009年に開港150年を記念して編纂された横浜市立小学校の「横浜の時間」に使われる副読本です。

歴史から、横浜の現在まで横浜市全般の基礎知識をコンパクトに判りやすくまとめてあるのが最大の特徴です。
ちょっと自慢ネタもまぶされています。