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第969話 【市電ニュースの風景】1931年 №39・40

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№39 1931年(昭和6年)9月26日(土)から9月27日(日)
№40 1931年(昭和6年)10月3日(土)から8日(木)

1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を
何回かに分けて読み解いている。
※「市電ニュース」は、車内吊り広報紙で、市内で開催される講演会、音楽会、展覧会、祭り、野球などの情報や、市政情報を乗客に伝えるメディアサービスとして掲載した。
№39は
 1931年(昭和6年)9月26日(土)から9月27日(日)まで
№40は
 1931年(昭和6年)10月3日(土)から8日(木)まで

【市電ニュースキーワード】
№39
■磯子 市電埋立地(磯子 濱)

磯子区役所は戦前、禅馬川河口近くにあり磯子の中心地で、<浜>周辺が繁華街でした。新しい埋立地には海水浴場もでき、行楽地としても多くの人が訪れました。

■暹羅國皇帝陛下・皇后陛下
汽船「ヱム・カナダ」号にて来日
この国名、わかりますか?現在のタイ国です。タイ国が暹羅國と表記された所以は略します。ここでは 疑問点を一つ提示しておきます。
 通過予定 生糸検車所前午前十時二分・阪東橋前午前十時七分
※分単位でかなり細かく設定しています。
 生糸検査所(馬車道交差点)から阪東橋まで五分とはかなりの移動速度です。
単純に距離計算しても、約2km。時速24km.当然ノンストップです。走り抜けるという感じですね。
どこを目指したのでしょうか?

■私立(旧制)本牧中学校
 本牧町に私立の中学校があった?
 確かに戦前の地図上では「本牧中学校」があった。
 資料でも発見。


1923年(大正12年)4月に天徳寺で開校し
戦時中の空襲で消失、一時期北方国民学校を借りていましたが
1947年(昭和22年)6月
 本牧中学校廃校により全校生徒479名は
 現在金沢区にある横浜高等学校・中学校に転入学が許可されました。
 この時代の記憶としては
 野球殿堂入りしたハワイ移民の家庭でハワイ生まれの若林 忠志が一時期籍を置き、その後大学プロ野球で活躍した選手です。
苅田久徳(元読売ジャイアンツ)劉瀬章(元南海)も本牧中学校出身らしい?(正確な資料不足)追って調べます。
 このように「本牧中学校」は戦前、野球の名選手を輩出していた運動の盛んな学校でしたが、文系でも活動が盛んで、「神中」を競うほどの「文芸活動」が行われていました。

■元町弓道場
1931年(昭和6年)に五人立ちの道場として建てられ、当時としてはかなり立派な道場だったそうです。増改築され現在も現役で使われています。

(懸賞標語)
吊革を目標に腰を順にかけ(矢部政一君)

№40
■満蒙問題講演会
 和田亀治 元第1師団帳陸軍中将
 (わだ かめじ)大分県出身、陸軍士官学校(6期)陸軍大学校(15期)
 日露戦争に第1師団参謀として出征。
 1928年(昭和3年)8月29日、予備役へ。帝国在郷軍人会副会長。
市電ニュース№36では
磯子・立野・豊岡を巡回講演会
№40では
平沼・戸部・程ヶ谷・子安・本牧・三吉の各小学校で実施。
1931年(昭和6年)の満州事変状況は

市電ニュース№36では
9月9日に
磯子・立野・豊岡を巡回し講演会が実施されています。
9月18日に
満州事変が起こった。
№40では一気に講演会場が拡大され
10月4日から10日までの一週間、
平沼・戸部・程ヶ谷・子安・本牧・三吉の各小学校で実施され時代の急変を感じることができます。

■桜木町横浜興産館

下記ブログで詳しく紹介しています。
第694話【一枚の横浜絵葉書】「桜木町横浜市授産所ノ偉観」
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6063

■横浜専門学校
現在の神奈川大学です。
詳細は別途 資料整理中です。
創設は
1928年(昭和3年)
 米田吉盛、桜木町に「横浜学院」創設。
1929年(昭和4年)
 専門学校令により「横浜専門学校」設立が認可。
1949年(昭和24年)
 学制改革により「神奈川大学」設置

■桟橋 B発
横浜港大桟橋B埠頭のことです。

■航空ページェント
磯子線「濱」バス停磯子区役所前
女流飛行士 木部しげの(シゲノ)・宮森美代子 出場
このイベントは<すごい!>でもこの予告が実施されたのか?
中止になった可能性が高いようです。確認中。

木部しげの(シゲノ)は
NHKの連続テレビ小説『雲のじゅうたん』のモデルのひとりで「男装の令嬢」と呼ばれ大人気となった女性パイロットの草分け。
彼女は横浜と縁がある。パイロットの訓練は橘樹郡潮田町(現・横浜市鶴見区)にあった第一航空学校に入学し
1924年(大正13年)第一航空学校を卒業
1925年(大正14年)三等飛行機操縦士免状を取得
 その後 各地で飛行演技や講演会を行う。

宮森美代子は
会津出身の女性で、日本初の女性パラシューター
1931年(昭和6年)3月7日
津田沼海岸の伊藤飛行場で、女性として日本初の落下傘降下をした。
当時19歳。靴メーカーのイラストポスターにもなり、写真も中々の美しい方。
http://www.webmodelers.com/201706katoucolumn.html

<欄外>
神中鉄道会社沿線の
・芋掘会(大和駅付近)
・栗拾・茸狩(鶴ヶ峰駅付近)
市電「水道道」にて乗換
No.233 8月20日 (月)相鉄線ミニ物語
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=374
神中鉄道は目下資料整理中です。
改めて紹介します。

1931年(昭和6年)10月25日
西横浜駅・平沼橋間開通。

(懸賞標語)
お客は好意 車掌は誠意(磯見利子君)

No.698 【横浜 橋物語】幻の橋?、吉田橋。

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「橋」の定義はなんだろう?
「人や物が、谷、川、海、窪地や道路、線路などの交通路上の交差物を乗り越えるための構造物である」
「河川・渓谷・運河などの上に架け渡し、道路・鉄道などを通す構築物。橋。」
「土木工学ハンドブック」では
「橋梁とは、道路、鉄道、水路等の輸送路において、輸送の障害となる河川、渓谷、湖沼、海峡あるいは他の道路、鉄道、水路等の上方にこれらを横断するために建設される構造物の総称である。」「市街地において効率的な土地利用の観点から、道路上あるいは河川上の空間に連続して建設される高架橋も橋梁の一形態である。」

今日は<橋>の話です。江戸から明治に<近世>から<近代>になった大きな変化の一つに橋梁の歴史があります。江戸幕府は橋梁設置に消極的でした。一方で近代に入り、橋梁は政府の重要政策となります。ちなみに大阪も東京も<橋都(きょうと)>です。城下町には橋がシンボルですね。
前置きが長くなりましたが、横浜も新田の町、運河の町として発達してきました。特に開港時からは<橋>が重要になってきます。
横浜開港場の<橋>といえば、
『吉田橋』です。ここは関門橋ですから、まさに横浜開港場の<関内><関外>を繋ぐ橋でした。このあたりに関しては、多くの歴史情報、観光情報がありますので<吉田>の名を含めて調べる楽しみがあると思います。実際に『吉田橋』脇に解説看板も記念碑もありますので参考にしてください。
light_2014-12-05 15.34.28

今日は 吉田橋の歴史的解説をするためにブログを書き始めた訳ではありません。
もう少しひねくれた 素朴な疑問です。
冒頭に橋ってなんだろう?と疑問を提示しました。
(川は濁って橋は濁らない?)思いっきり寄り道します。
ちなみに、行政的に<橋>は<はし>で<ばし>とは表記されていません。
light_みやこはしlight_2014-12-05 15.34.07川の表記は<おおおかがわ><つるみがわ><かたびらがわ> 何故なんでしょうね?
本論に行く前に横路にそれていますが どんどん行きます。
当たり前ですが橋には一つ一つ名前があります。それぞれ橋を渡る時 橋の名を確認することができます。(面倒でなければ)
橋=橋梁には 両脇に欄干=高欄(こうらん、hand rail)があります。この高欄の端々(四隅)に親柱というものを立てたり、プレートを設置したりします。
この高欄の四隅に着いている橋に関する<プレート>河川橋の場合、全て異なっています。
1橋梁名称の正式名称(漢字かな表記)
2橋梁名称のふりかな(ひらがな表記)
3設置河川名称
4設置年月
では?陸橋や架線橋の場合は?
→謎解きは ご自分の目で!確認してみましょう。(別の機会にじっくり紹介します)
はなしが捩れてきましたので元に戻します。
横浜が開港した際、治外法権の居留地(関内)と市街地(関外)を結ぶ橋が「吉田橋」です。
<派大岡川>の上に架けられ、その後ここを首都高速が通ることになりましたので、河川橋から架道橋に変身します。
【架道橋】道路や鉄道を立体交差で越えるために架けられた橋。跨道(こどう)橋・跨線橋など。
吉田橋、(首都高道)路の上を渡る<橋>であるはずなんですが、
「吉田橋」は橋じゃない?かもしれないという 疑問が湧いてきたのです。
いやー どうみても 橋でしょ!
でも、横浜市の橋梁リストに「吉田橋」がありません!!!!

スクリーンショット 2014-12-05 20.46.37

「吉田橋」を横から見たことありますか?

吉田橋下 改装前

light_2014-12-05 15.38.25       <改装後の 吉田橋 マリナード入口あたり>
構造は、マリナード地下街の入口通路の上に<屋根>のように吉田橋、通路の下に首都高速が通っています。地下街の下を通過する道路にイチイチ橋梁名は付いていないですし、ここは<暗渠>なの?
light_2014-12-05 15.29.44 light_2014-12-05 15.29.18この天井が吉田橋ですね。
リストには無いし、橋の下は広場?だし…
なぞは深まるばかり。
期待させといて つづく!

<吉田橋関連ブログ>(他にもいろいろありますが)
【絵葉書が語る横浜】 吉田橋脇

【絵葉書が語る横浜】吉田橋脇2

【しりとり横浜巡り】6月10日(火)吉田橋

ただいま 微調整中。

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約600の過去ブログをここに移行中なんですが、リンク等 微修正中でGWあけまでには新ブログを開始します。ネタはどんどんたまっていっているので、後は料理だけ。

先日、久しぶりに街歩きを楽しみました。
約3時間、心うきうき 何でかな?と思ったら スマホを自宅に置いてきたので 外部情報を遮断できたことかもしれません。

大江橋

大江橋

お詫び

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一昨日、カレンダーでは6月16日に
購入した 500G のハードディスクで
一杯になりつつある 前のHDD を抜本的に整理し
一部 ポータブルで持ち歩こうと画策したのですが、
ファイルを 移行して(ここでBKしておくべきだった)
最後に きれいになった 1Tの HDDにコピーしようと思っていたら
新品のHDDが 認識しなくなった!
どうやら 物理的故障ではなく 論理的故障というものらしい?
ここには このブログネタに関する ほとんどのデータが集約されている
というのに。
悔しいです。なんなんだこのポータブル HDDは。
修復に出すことにしました。
ということで 
「横浜のかわとみちの物語」はちょっと順延します。
代りに 違うネタを 昨日今日で仕入れましたので
明日から 始めます。
バックアップは 必須です。油断大敵です。

No.420 3月10日(日)横浜三塔に思う

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今日は、横浜三塔の日です。
ベイエリアでは様々なイベントが繰り広げられます。
2007年から、
毎年3月10日を三塔との語呂合わせで「横浜三塔の日」としました。

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2002年頃の三塔

(三塔は)
■横浜市開港記念会館「ジャックの塔」
竣 工 1917年(大正 6年)
塔の高さ – 36m

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■神奈川県庁本庁舎「キングの塔」
竣 工 1928年(昭和3年)
塔の高さ – 49m

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■横浜税関「クイーンの塔」
竣 工 1934年(昭和9年)
塔の高さ – 51m

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昭和初期横浜港から見える三つの塔は「キング」「クイーン」「ジャック」と呼ぶようになりました。入港の際、外国船船員は、この塔を見て航海の安全を感謝し
出港の時は、これからの航海の安全を願ったといいます。
その後、時間が現代になるまで、三塔は戦災を生き残り静かにそれぞれの役割を担ってきました。
一部の人が
「三塔が一望できる場所があるの知っている?」
と囁くようになり、三塔を一望できるスポットが注目を浴びました。
さらにこのスポットをすべてまわると願いがかなうということでイベントが始まります。
No.70 3月10日 310
2012年には

http://www.osanbashi.com/santou/index.html
2013年には
http://cgi.city.yokohama.lg.jp/common/event2/event_detail.html?id=38559
〜三塔を知ろう・語ろう・楽しもう!〜

(提案です)
以前、東京に四代暮らす友人から指摘を受けました。
「3月10日を江戸っ子は喜べない。」
この日は「東京大空襲の日」だからです。
5月29日には横浜も空襲が行われ、
「横浜大空襲」で横浜は焦土化します。
そしてさらに311は震災の日となりました。
これらの記憶に少し寄り添っていく310にシフトしてはどうでしょうか。

だから 三塔の日を無くすというのではなく
三塔が
「震災復興を見続けてきた歴史的建造物」と呼ばれているように
また今回も横浜市中区が掲げているように
絆を基本に
「三塔絆の日」
良いネーミングは思い当たりませんが、今後
新しい意味合いを抱合しながら今日のこの日を
楽しんでいくのはいかがでしょうか?

(国際都市 横浜の要)
この三塔にはそれぞれ歴史的役割を担ってきました。
■横浜税関「クイーンの塔」
三塔の中で最も海(港)に近く、日本の国際化の道先案内人として重要な役割を担ってきました。
■神奈川県庁本庁舎「キングの塔」
開港場「横浜」の行政を司り、居留地を舞台に国際都市の要となってきました。
■横浜市開港記念会館「ジャックの塔」
現存する塔の中では最も歴史があるものです。
関東大震災も経て現在に至ります。
この「横浜市開港記念会館」は、まさに横浜を舞台とした市民の言論の発信基地でした。
三塔は「国際都市 横浜の要」の役割を担ってきました。
しかも、焦土化した横浜大空襲にも生き残り、戦後横浜復興のシンボルともなったランドマークでした。
例えば
■横浜税関「クイーンの塔」には安寧を
■神奈川県庁本庁舎「キングの塔」には再生を
■横浜市開港記念会館「ジャックの塔」には希望
といった意味合いを重ね合わせていくことができると思います。

ここに横浜マリンタワー、横浜ランドマークタワーを加え
5塔物語へと拡大していくことも可能なのではないでしょうか?
横浜は復興 再生の街です。

(余談)
今年は 崎陽軒の「三塔弁当」がありません。残念です。

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方針変更のお知らせ。

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2013横浜わが街シリーズ 方針変更のお知らせ。
今年に入ってからは2月までフリーテーマできましたが
Facebookで紹介がてら昨年の内容を再度確認していると
さらに修正・加筆の必要性があるものも多いので
2012年版をベースにしてさらに充実させていくことにしました。

スタイルは3月中に模索して4月には安定させたいと思います。
例えば今日3月5日
No.65 3月5日 サルビアホール一周年(修正版)

鶴見区民の花サルビア(平成3年11月15日制定)から付けられた区民文化センター「サルビアホール」が2011年の今日、オープンしました。
と紹介しています。

改めて市内文化施設というものを調べてみましたが
一時期、箱もの箱もの!と批判された割に増えていますね。
採算がとれているのか?調べていませんが
区民文化センター以外にも 横浜市内は
劇場・ホール・スタジオ系で言えば
ボス格の
■横浜みなとみらいホール
■横浜アリーナ
KAAT 神奈川芸術劇場

吉野町市民プラザ
岩間市民プラザ
関内ホール
横浜にぎわい座(地下ののげシャーレは多目的ホール)
横浜市教育会館
横浜市社会福祉センターホール
横浜市青少年育成センター
横浜人形の家
横浜市大倉山記念館
大さん橋ホール
新都市ホール
横浜情報文化センター
かながわアートホール
かながわ県民センターホール
かながわ労働プラザ
地球市民かながわプラザ(あーすぷらざ)
神奈川県民ホール
神奈川県立音楽堂
神奈川県立青少年センター
はまぎんホール ヴィアマーレ
(いちいちリンクは付けませんでした)
規模、特性も異なるので一概にいえませんが、
ありますね。

他に3月5日は
1854年(安政元)
吉田松陰、海外渡航を狙って保土ケ谷宿にくる
※新暦か旧暦か未確認ですが面白いネタ!ですね。

1937年(昭和12年)
商工奨励館増築工事竣工披露式を挙行する。


1950年(昭和25年)
フライヤージムで日米初の女子バスケットボール大会開催。
1972年(昭和47年)
旧米軍フライヤージム取り壊し


No.190 7月8日(月)パブリック・ディプロマシー

【謹告】

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諸事情によりこのブログ
2013年3月1日から14日にかけて
コマ切れでのアップとなります。
時折、【番外編】らしきものは
時間がゆるせば アップします。
3月14日からは
通常に戻します。
その間、じっくりテーマを練りますので
乞うご期待!!
私の好きな野毛から都橋近辺の
資料を 掲載しておきます。

2月15日(金)【臨時休止】プラス充電中

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2012年から一日1テーマ形式で横浜のこと書いています。
書きたいテーマへの掘り下げ不足に対する自分自身の
不満もあり またさらに新たなテーマがどんどん出てきて
現在のデータの再編成が必要になりました。
また

ハードディスクの増設に伴い 蓄積データの
若干ですが メンテをすることとします。

これまでの資料の整理し
2月18日(月)再開をお約束して三日間休止します。

※予備原稿を用意できなかった マネジメントミスでもあります。
昨日の「No.407 YOKOHAMA電話番号の話」も現在新版に更新中ですので併せて少々おまち下さい。
今夕
図書館と古書店にちょっと立ち寄って
がさっと ネタ資料集めてきました。あとは料理法が問題だけど。
17日は弘明寺を散策します。

nn-E3-82-B9-E3-82-AF-E3-83-AA-E3-83-BC-E3-83-B3-E3-82-B7-E3-83-A7-E3-83-83-E3-83-88-2013-02-14-18.52.34

No.407 YOKOHAMA電話番号の話

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(今日は暫定でごめんなさい)
1枚の地図をごらんくだざい。

昔は、電話番号で 凡その地域がわかった時代があります。
東京ではNo.「3』がある業界ではひっぱりだこになったりしました。
上記の地図の時代は昭和38年当時の(計画図)です。
横浜もこの頃、人口増にともない電話局が整備されることで
おおむね1区に1基地局を目標に整備計画が組まれました。
ちょっと詳細が判読しにくいので一部アップします。

電話にまつわる話しは 後で アップしますのでご容赦下さい。