【番外編】富士山の美しさを世界に紹介した英国人

江戸末期、全国の諸大名以下多くの人々が“横濱”の動向に関心を抱いていました。幕府の手によって翻訳新聞・筆写新聞が制作され、また伝聞を記録に残し“国元”に伝えられました。
日本の近代ジャーナリズムの幕開けに大きな影響を及ぼします。
(この辺は 現在「メディア拠点横浜の興亡」としてまとめています)

この横浜発の外国情報は、多くの人々によって写本が作られ
「横濱新聞」「異国関係資料」として全国の要人に伝えられました。
この写しの中に幕末の外国人富士山登山の報告記録がありましたので【番外編】で紹介しましょう。

古文書初心者なので正確な訳はできませんが
英人冨士登山と題し 浅間神社の大宮司冨士亦八郎が
万延元(年)庚申8月2日に寺社奉行の松平伯耆の守に届け出た英国人の富士登山の行程についての書面の写しです。
これは
日本発の富士登山を行ったオールコック一行についての記事です。
No.158 6月6日(水) 休暇をとって日本支援!

簡単に紹介しましょう。
(富士登山) 

船旅で相模湾に入る頃、多くの人が富士山の絶景に遭遇します。さらに東京(江戸)湾に入り、横浜港に向け舵を切ると 天候の良い日には真正面に富士山を眺めることができます。登山が日常のレジャーだった欧米人にとって
「富士山」はぜひ登ってみたい“そこにある山”でした。
ドイツ人旅行家ケンペルも富士山に登りたかったのですが、信仰の場でもある富士山には幕府の許可が下りませんでした。
開国後も幕府は外国人の居住は認めましたが、日本国内旅行の自由に関することに関しては、明治初期まで認めていませんでした。
オールコックは、外交官特権として特別に旅行の自由を持っている存在だとして、幕府に富士登山を認めるよう要求を続けます。
ようやく
オールコックは、富士登山計画に反対していた幕府を説き伏せ、
万延元年7月(1860年9月)富士山へ向けて出発することになります。
旅には、オールコックを初めとする英国公使館職員ら8名のイギリス人に加え、幕府から派遣された“外国奉行役人や荷物を運ぶ人馬”が100名近く随行するというものものしいものでした。
そのため、オールコックが当初希望した静かな旅とは逆に
大行列となってしまいます。
当初オールコックの目的は、富士山に登ってみたいという英国人(エリート)の“登山願望”に加え、日英修好通商条約(1857年締結)にある内地旅行権の確認や江戸を離れた地方を視察するという政治的目的もあったようです。
オールコック一行は東海道を通り、小田原から、箱根の山中を抜け、吉原宿で台風をやり過ごした後、静岡県三島市大宮町を経て村山の興法寺に入ります。
箱根越えの際

「スイスを旅行した者には、オーベルラントのある部分、特にローテルブリュンネンへの下り坂を思い出させる個所が多かった。マツの木がいっぱい生えている高い山やみずみずしい緑色の渓谷とか屈折しながら下の野原に流れてゆく渓流などがよく似ている。だがそれは、主要な特徴の面ではあまり雄大ではない。ここには永久的な氷河や雪のマントをかぶったむき出しの岩や高峰はない。」

 日本に辛口のオールコックにしては少し褒め言葉が見られます。
翌朝、村山を出発し「中宮八幡堂」まで馬を利用しここからは荷物を預け、金剛杖を手に徒歩での登山に切り替えます。
その日は六合目(現在の七合目)まで登り、翌日無事頂上に到達します。山頂では事前に準備していた測量機器で標高・気圧など測量し、英国旗を掲げシャンパンで乾杯し登頂を祝ったそうです。
その後、「一ノ木戸」(標高2,160m付近)まで一気に下山し、
同所に一泊した後に村山を経て大宮町に戻ります。
一行が通過する東海道筋では、オールコックの富士登山が大変注目を集め、見物制止命令が出されるほどでした。

日本で最初に富士山登頂を実現し彼の記録から外国に富士山の存在が多く知られることにまります。
最初の登山者は英国公使オールコックですが、
アメリカ公使ハリスの通訳だったアムステルダム生まれのオランダ人ヒュースケン(1832年〜61年)もいち早く日記の中で富士山の美しさを記録しています。
残念ながらヒュースケンは、攘夷派の浪士に襲撃され命を落としてしまいます。

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