【横浜橋物語】弁天橋(横浜市中区)

投稿者: | 2014/09/22
かながわの橋100選に選ばれている開港時の歴史を刻んできた橋です。

今日は二級河川「大岡川」に架かる「弁天橋」を紹介しましょう。

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現在の橋は1976年(昭和51年)の竣工で、四カ所ある親柱が全て異なった珍しいデザインの橋です。
長さ54.4m 幅27m
48ある中区の橋を代表する橋です。
※中区の橋梁台帳No.1 です。
lig_P2030250lig_P2030212lig_P2030217lig_P2030276 親柱の意匠は一般的に統一されていますが、弁天橋はそれぞれの親柱を微妙に変えてあります。
見る角度によって“姿”が異なることに“気がつく”楽しみがあります。

「弁天橋」の名は、「洲干弁天社」に由来します。
かつて横浜村の鎮守様として「洲干弁天社」がありました。この横浜村一体は決して”寒村”などではなく 江戸時代から多くの観光客・参拝客のある風光明媚な観光スポットでした。
2014020720442534f 1859年6月2日(嘉永6年)に横浜港が開港され、当時武蔵の国久良岐郡横浜村を「横浜町」と改称し開港場を整備します。この時、開港場の半分を日本人居住地とし、海側から「海辺通(現:元濱町)」「北仲通」「本町(大通)」「南仲通」「弁天通」の五筋を整備し町並みを整えます。
この時、弁天通より内陸側は沼地(太田屋新田)でした。
20140207204505cfb 江戸時代にこの地域の景勝スポットだった「洲干弁天社」は、開港場の整備の荒波で遷座を余儀なくされます。
この「洲干弁天社」
創建は治承年間(1177年〜1181年)で、武士の時代が始まった頃です。
源頼朝が伊豆国土肥(現・静岡県伊豆市)から勧進したと伝えられています。 その後、足利氏満(14世紀)が般若心経を奉納したと伝えられ、
江戸築城で有名な太田道灌が社殿を再建します。
江戸に入り徳川家光は朱印地(寺院の領地)を与えています。
1869年(明治2年)に現在地の羽衣町に遷座されます。
弁天通は江戸時代からの参道を街区の通りとして整備したもので、「洲干弁天社」が羽衣町に移ってからもその名を残します。
開港場整備の当初は、現在の桜木町駅側から二〜五丁目の4区域に分割しますが、
1871年(明治4年)4月に丁目の数え方を逆転させます。
現在の県庁側から一丁目とし、さらに六丁目を追加し現在に至ります。
この年明治4年に弁天橋が架けられますが、その大きな理由は「横浜駅」と開港場を結ぶためでした。
1870年(明治3年)イギリスからエドモンド・モレルが建築師長に着任し本格的な鉄道計画を立案し工事が始まり。1872年(明治5年)に横浜〜品川まで開通します。

「弁天橋」は、
近代技術の象徴「鉄道」の表玄関に架かる、横浜の顔となった重要な橋として現在までその存在感を誇っています。

(弁天橋 余談)
少し前まで「弁天橋」は大岡川の最河口(下流)に架かる橋でした。(鉄道の橋を除く)現在は、さらに下流に「北仲橋」ができました。
微妙ですが、新港埠頭に架かる橋もあります。
20140207204508c78 (さらに余談)
「北仲橋」開通前、北仲に小さな弁天様「祠(ほこら)」がありました。記憶のある方いらっしゃいますか?
昔の洲干弁天の位置とは少しずれますが、気になっています。


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