9月 20

No.467 なんでここにこんな?(戸塚編)

東海道(国道一号線)下り路線、戸塚から原宿交差点に向かう途中、
左手のマンションの脇に「記念碑」らしきものがあります。
昔からマイカー、バス(の方が良く見える!)で気になっていました。
先日 気がついてから三十数年目に確認してきました。

ちょうどこの記念碑のあるあたりは 東海道戸塚宿を過ぎた馬の背になっています。

事前に「Google」でこのあたりを確認してみようとしたら
ストリートビューで ちょうど 見えない!なんで追い越し車線から撮影するかなー。

ストリートビュー手前だと見えます。
近づくと車がじゃま!

やっぱり実地検分しか無い!
戸塚駅から藤沢駅行きのバスに乗って、
「西横浜国際総合病院前」で下車します。

戸塚方面バス停

ありました、ありました。
「お軽・勘平の碑」でした。しっかり囲みもあり、丁寧に作られていることがわかります。

「碑石の由緒」には昭和四十六年七月とありました。
文学博士 松本亀松氏による由緒が記されています。
「伝統芸能研究者。1901年10月27日〜1985年4月。東京生まれ。東京高等工業学校中退。日大教授。1960年「狂言六儀の研究」で日大文学博士。72年定年退任。演劇学会理事。」
碑が建立されてから半世紀近くなりますがメンテナンスも行き届いています。
「お軽・勘平」って?
歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」四段目、塩谷(えんや)判官の家臣早野勘平と腰元お軽が、お軽の所への道行の途中で
「鎌倉を出てやうやうと、ここは戸塚の山中、石高(いしだか)道で足は痛みはせぬかや」と勘平が優しくお軽に問うところに因んでいるらしい。
鎌倉から落ち行くお軽・勘平のふたりが桜と菜の花が咲き乱れる戸塚山中で見せる美しく華やかな所作事なんですが、なぜここなのかが明記されていません。
ここは「桜と菜の花が咲き乱れる戸塚山中」なんですかね。
昭和50年代の地図には「日本石油」のガソリンスタンドがありました。
現在はマンション(?→未確認)が建っていますが、ガソリンスタンドがあった頃からこの記念碑はありましたから、スタンド脇に記念碑が設置されたことになります。
さらに疑問なのが「東京急行電鉄」が記念碑の賛助社と記されている点です。

「お軽・勘平」は、創作です。
【仮名手本忠臣蔵】の『道行旅路の花聟』(みちゆき たびじの はなむこ)は本来のストーリーではなく、後から追加されたものです。
幕末以降、二段目や三段目などに挿入されてきましたが、最近では「判官切腹」の場と五段目「山崎街道」の場」の間に挿入されています。

語り出しが「落人と、見るかや野辺に若草の」と始まるので、通称『落人』(おちうど)といわれています。
http://www.youtube.com/watch?v=L2_26wsZ4_A
内容は「おかる」と「勘平」が駆け落ちを決意し、おかるの故郷山城国の山崎へと目指す途中、そのあとを追いかけてきた「鷺坂伴内」が二人にからむ場面です。色彩豊かな所作事で、軽やかな清元を聞きながら華やかな気分が人気定番となりました。
舞台は「一面の菜の花の春景色、遠くに富士が見える」見事なシーンが拡がります。
歌舞伎舞台では、舞台装置は“どうみても”平地ですね。

周辺に観光資源、無いことはないのですが 孤立感ヒシヒシ。何か関連で活かす方法ないでしょうかね。戸塚宿尾根歩きコースですか  ね。

9月 20

暦で語る今日の横浜【9月20日】

横浜の年表から
 今日起った出来事をピックアップしました。

●1877年(明治10年)の今日
「コレラ病が流行したので県庁内へ検疫事務所を設け、また横浜停車場と波止場に官吏医員が出張旅客の検査にあたった。」
開国と明治維新で、外国の文明が流入すると同時に「疫病」も入ってきます。明治時代の検疫体制の確立の中心となったのが開港場であった横浜です。
伝染病は中々市民に理解されにくく、加持祈祷が流行した時代でもあります。

「昨今頻りと激しきは翁町松影町辺にて同所の警察所へ届出る者陸続として絶え間なく、戸部平沼辺の利口連は不動等へ護摩を焚き、赤紙へ牛という字を3つ書いて門口へ張り出すも有れば、八つ手の葉を下るもあり、蕃椒と杉の葉は何の為と尋ぬれば、トオにスギだという謎なりと・・・」(「朝野新聞」)

本文とはことなります

No.217 8月4日 (土)わがひのもとの虎列刺との戦い

●1904年(明治37年)の今日
フォン・シーブルブがドイツ国費で横浜ドイツ学校を創立しました。


東京横浜独逸学園(DSTY)
http://www.dsty.jp/schule/japanisch
現在も、横浜市都筑区に開校しています。都筑区はドイツ関係企業も多く、ドイツと関係の深いエリアでもあります。
Bosch Corporation Yokohama Office→都筑区牛久保
http://www.bosch.co.jp/jp/press/rbjp-1006-02.asp

●1923年(大正12年)の今日
物理学者、随筆家、俳人でもあった寺田寅彦(44歳)川崎、横浜の震災被害の状況を視察します。

「天災は忘れた頃に来る」は彼の有名なメッセージ。
「流言蜚語の伝播の状況には、前記の燃焼の伝播の状況と、形式の上から見て幾分か類似した点がある。
 最初の火花に相当する流言の「源」がなければ、流言蜚語は成立しない事は勿論であるが、もしもそれを次へ次へと受け次ぎ取り次ぐべき媒質が存在しなければ「伝播」は起らない。」寺田寅彦(流言飛語)
「ある機会に、東京市中に、ある流言蜚語の現象が行われたとすれば、その責任の少なくも半分は市民自身が負わなければならない。事によるとその九割以上も負わなければならないかもしれない。」寺田寅彦(流言飛語)

●1950年(昭和25年)の今日
横浜国際港都建設法の賛否に住民投票が行われました。
(投票率39.5%、賛成175,361票、有効票の89.8%)
→詳細未調査、ちょっと気になる「住民投票」です。
 住民投票が行われたこと、国際港都建設で行われたことに関心があります。

●1968年(昭和43年)の今日
「横浜市のオデッサ見本市が開催される(79社が出品)」
 オデッサは横浜市と姉妹都市です。

ウクライナとオデッサ洲 そしてオデッサの位置

 1965年(昭和40年)7月1日に姉妹都市提携
 ソビエト時代から現在は独立してウクライナ共和国のオデッサ州都です。
 http://old.mfa.gov.ua/japan/jpn/
 2011年には東日本大震災に際しオデッサ市民及びオデッサ第60学校から、横浜市を通じて被災地に義援金が寄付されました。→現在のウクライナ情勢が心配です。
※ちなみに チョルノーブィリはウクライナの街です。

No.303 10月29日(月)オカピ外交

●1974年(昭和49年)の今日
当時NHK横浜放送局の小田貞夫さんが「横浜ステンショ かながわの乗物一世紀」(有隣堂)を発刊しました。248回にも及ぶラジオ放送から横浜を中心に本格的な鉄道ことはじめをまとめた秀作です。


●1982年(昭和57年)の今日
東京ガス住宅設備社(東京ガスハウジング→東京ガスリモデリング)の第一号店が中区羽衣町にオープンしました。
 1982年9月17日に設立され9月20日にリヴィングモア横浜がオープン
リヴィングモア横浜
〒231-0012 神奈川県横浜市中区相生町6-104-2 横浜相生町ビル7F
http://www.tgrm.jp/shop/yokohama/index.html

●1989年(平成元年)の今日
横浜市営地下鉄1000形改造車(冷房化)運用開始しました。

地下鉄1000型

1000形は1972年(昭和47年)から2006年(平成18年)まで運行されました。
1号車 (1041) が横浜市金沢区の横浜市資源循環局金沢工場でストックヤードとして再使用されています。
http://www.city.yokohama.lg.jp/shigen/sub-keikaku/keikaku/g30/ivent050528.html