9月 3

No.248-2 9月3日 坂の上の星条旗 改題

清水港パフォーマンス
「長崎港を出たグラント一行は、7月2日に静岡の清水港で漁師達の投網漁のパフォーマンスを見て短時間ですが上陸します。このサプライズにグラントは感激します。このパフォーマンスを担当したのが山本長五郎、清水の次郎長でした。この“仕立て”には米国に渡った咸臨丸・咸臨丸を攻撃した米国製の蒸気戦艦富士山丸、それを斡旋した米国公使プルインのエピソードがあり、グラントはおそらくパフォーマンスの背景を聞いて大声を挙げて笑ったに違いありません。(別掲予定)」

No.247 9月3日(月)坂の上の星条旗(前)

をもう少し詳しく紹介します。
このエピソードには 二隻の艦船と二人の人物が登場します。
●幕府軍艦 咸臨丸
●蒸気戦艦 富士山丸
●米国駐日公使プルイン
●米国駐日公使ジョン・アーマー・ビンガム(John Armor Bingham)
再度整理します。
日本を訪れたグラント将軍(元大統領)は、
静岡県清水に上陸し漁師達の投網漁のパフォーマンスを楽しみます。
そのパフォーマンスを用意したのが
グラントの盟友、米国駐日公使ジョン・ビンガムです。
母国ではホイッグ党(共和党)議員として 共に南北戦争を戦います。
グラントは将軍として北軍を率い 勝利に導きます。

パフォーマンスを仕切ったのが
清水の次郎長(山本長五郎)です。
明治に入り、かつての任侠は清水の町で英語塾を開くなど
地域の発展に大活躍します。
ここに登場したのが明治新政府と戦った幕府残党の乗る軍艦「咸臨丸」です。
「咸臨丸」が一番知られていますね。
1860年(万延元年)に木村摂津守以下に本チームが太平洋を横断した船です。
1860年(万延元年)はまさに南北戦争前夜で、
咸臨丸・ポーハタン号に乗船した日本人メンバーは、
アメリカ史上最悪の内戦直前のアメリカを視察することになります。

咸臨丸は
幕末期に江戸幕府が保有していた蒸気船で初期の軍艦として20年間幕府艦船として活躍しました。

No.262 9月18日 (火)咸臨丸の真実!

1868年(明治元年)9月咸臨丸は清水港沖で、
 新政府の最新鋭軍艦「富士山丸」に追いつかれ攻撃を受けます。
この「富士山丸」
1862年10月14日(文久2年閏8月21日)幕府が米国に発注し
1866年1月23日(慶応元年12月7日)で横浜に到着した軍艦です。
殆ど戦争には使用されず
1868年(慶応4年)幕府が大政奉還に際し
明治政府へ「朝陽丸」「翔鶴丸」「観光丸」と共に上納されます。
この「富士山丸」実は納品直前に起った「下関事件」で
“差し止め”を受け納品が大幅に遅れます。
当時 初代米国公使タウンゼント・ハリスに代り
1861年、エイブラハム・リンカーン大統領はロバート・ヒューソン・プルインを第2代駐日米国公使に任命します。
1862年10月14日幕府がプルインを通して軍艦を発注します。
「富士山丸」はほぼ完成し、納品寸前の
1863年(文久3年)に長州藩が「下関事件」を起こし英仏米蘭との戦争に発展します。
結果は長州の完全敗北となりますが、この戦争の賠償金は“幕府”が負担することになります。

※背景には攘夷思想以外に国内の物価が高騰や大量の金流出による幕府の経済失政がありました。
No.466 19世紀の「ハゲタカファンド」

→欧米4カ国に莫大な賠償金を支払うことになりますが、米国のみこの賠償金を国庫に入れず「債券」として貯金し、明治に入って“不当に得たもの”ということで日本政府に返還します。
幕末の転換期となった「下関戦争」は、米英の外交官にとっても転換期でした。下関攻撃を主導した英国公使オールコックは、本国の命令前に攻撃命令をだしたため、更迭されます。一方、米国駐日公使プルインは英国とは一線を画し日本情勢を冷静に分析します(〜1865年)。

この下関戦争返還金が横浜港の築港整備費用に充てられ、大さん橋ふ頭等が1894年(明治27年)に完成します。

グラント元大統領の対応に当たった駐日公使
ジョン・アーマー・ビンガムに関しては、近年詳細な記録が発見されました。
「ビンガム・ペーパーズ」と呼ばれ 現在資料分析が進んでいます。

ビンガム公使は
1873 年(明治6年)9月25 日、夫人(アマンダAmanda)及び2人の令嬢(エンマ
Emma及びマリーMarie)と共に着任します。
1885年(明治18 年)7月21 日に離任するまで12年間、歴代駐日外交官としては最も長い任期を務め上げました。
在任中は特に「不平等条約」の改正に尽力し日本政府を強力に『バックアップ』し、当時の英国公使パークスと徹底的に衝突した人物です。明治天皇は離任直前のビンガム公使を午餐に呼ぶなど信頼も厚かったようです。

ちょっと説明が下手で 判りにくかったかもしれません。
機会があれば もう少し判りやすく さらに背景も説明したいと思います。
今回はこれにて 御勘弁下さい。

9月 3

暦で語る今日の横浜【9月3日】

●1879年(明治12年)の今日
「午前八時三十分、グランド氏並夫人・令息の一行、横浜停車場に着、神奈川県庁の馬車に乗車して、元弁天東海鎮守府に暫時休憩、同所海岸より小蒸気船にて米国郵船シテーヲフ東京号へ乗船、同十一時発錨す、此時、神奈川砲台及碇泊の各国軍艦より祝砲を発す、此日其神奈川に至るや、内田町に於て煙火を打揚げ、其通路市街、日米国旗を掲げ祝意を表す、着車の際は内外送迎の官員・紳士・紳商、夥敷縦覧、人は停車場より本町六丁目迄立錐の余地なく群集す、為めに一時往来を止む、又祝砲の響を聞き海岸へ走るあり、或は船を雇ふて海面に浮ぶるあり、恰も海岸に人垣を築きし如く、人々別を惜みて汽船の進航を望見して解散せり」
No.247 9月3日(月)坂の上の星条旗(前)
No.248 9月4日(火)坂の上の星条旗(後)

●1921年(大正10年)の今日
当時皇太子であった裕仁親王(昭和天皇)がヨーロッパ各国を歴訪し、予定通り横浜港に到着した日です。
この皇太子ヨーロッパ訪問は、当時の大問題になります。
日本の皇太子が欧州に訪問することは初めてのことで、賛成・反対で大きな議論となります。この時すでに大正天皇は病中にあり、国政も余談を許さない状況でした。
そこに派閥政争のファクターも加わり混迷の昭和時代に突入する前夜ともいえる状況でした。欧州洋行を推進したのが山県有朋で松方正義や西園寺公望、原敬首相も賛意を示します。
一方宮中内保守派は反山県派と共に“大正天皇の病中に外遊に出ることは不敬である”等の理由から猛烈な反対運動を繰り広げます。
※詳しくは皇太子の洋行問題、是非!調べてみてください。
関係者の同意を取り付け
1921年(大正10年)3月3日から9月3日までの間、皇太子(裕仁親王)はイギリス領の香港に始まり、イギリスとスコットランド。フランス、ベルギー、オランダ、イタリアを訪れます。

9月3日午前9時15分、皇太子(裕仁親王)を乗せた「香取」は航海を終え
横浜港に入港します。
埠頭から淳宮雍仁親王、光宮宣仁親王(高松宮)、閣僚、報道陣が乗る四隻のランチが皇太子を迎えました。
横浜市内も祝賀ムードで「帰朝記念花電車3両も運転」「花火の打上」も実施されました。
出迎えの中に、帝室博物館総長、森林太郎(鴎外)がやや前かがみに歩く姿がありました。
林太郎、晩年の1917年(大正6年)
帝室博物館総長兼図書頭に任命され、在任中は誠実にその職務を務め地味ですが多くの功績を残します。
1921年(大正10年)この日も病気をおして横浜へ向かい皇太子を迎えます。
1909年に横浜市歌を作詞したときの思い出も過ったかもしれません。
そして林太郎は翌年の1922年(大正11年)に亡くなります。60歳でした。
歌人木下利玄(35歳)も「横浜に行き、東宮帰朝の港を見物し、夜の花火を見て帰る。」と日記に残しています。

●1934年(昭和9年)の今日
「株式会社日本飛行機製作所」(横浜市金沢区昭和町3175番地)
 発起人総会が開催され10月11日に設立されます。
http://www.nippi.co.jp

●1945年(昭和20年)の今日
 根岸競馬場・大桟橋・新港両埠頭が米軍の接収を受けます。