10月 15

第972話 白秋の横浜

前回に引き続き
白秋を追いかけます。
北原白秋の門下生「薮田義雄」がまとめた「評伝 北原白秋」
には何箇所か横浜に関する記述がありました。
薮田義雄
「(やぶた よしお、1902年4月13日‐1984年2月18日)神奈川県小田原市生まれ。小田原中学三年の時、その地に住む北原白秋の門人となる。法政大学に学ぶ(卒業したかは不明)。詩のほか、白秋の初の本格的伝記などを書いた。wikipedia」

ここでは一章を使って「所謂 「桐の花事件」の真相」について書いています。
一般的には、北原白秋が「姦通罪」で訴えられ、約二週間収監されその後放免された事件前後に作った作品集が「桐の花」。
当時、スキャンダルネタとして大きく取り上げられたこともあり、白秋の評判が一気に落ちたという彼の人生最大の逆風期でした。
引越し好きという表現が適切かどうかわかりませんが、白秋はとにかく転居の連続でした。
1912年「桐の花事件」のあった年の数年前に遡ってみます。

1907年(明治40年)5月千駄ヶ谷に転居。年末牛込北に転居。
1908年(明治41年)10月に神楽坂二丁目
1909年(明治42年)10月本郷動坂
1910年(明治43年)2月牛込小川町
 9月青山原宿に転居。
1911年(明治44年)2月木挽町で下宿生活を始める。
  9月<旅館住まい>
  年末京橋新富座裏に転居。
1912年(明治45年)1月浅草聖天横町
 5月越前堀に転居
★7月姦通罪で告訴
★8月10日の公判で免訴放免。
この事件前後の作品をまとめたものが「桐の花」でした。
[刑法旧規定第183条 姦通罪]
① 有夫ノ婦姦通シタルトキハ2年以下ノ懲役ニ処ス 其相姦シタル者、亦同シ
② 前項ノ罪ハ本夫ノ告訴ヲ待テ之ヲ論ス 但、本夫姦通ヲ縦容シタルトキハ告訴ノ効ナシ
※夫ノ告訴ヲ待テ之ヲ論ス
(事件の顛末)
 白秋が1910年(明治43年)牛込から青山原宿に引っ越した隣家に
 国民新聞社写真部に勤める松下長平、その妻 俊子が住んでいました。国民新聞とは、徳富蘇峰が1890年(明治23年)創刊した日刊新聞で、明治後期から大正初期にかけて政府・軍部とのつながりが強くなり政府系新聞の代表的存在となります。
隣家の松下俊子(旧姓福田俊子)と北原白秋の
<禁断の恋>というのが当時の醜聞となり、メディアの格好の材料にされました。
新聞は「詩人 白秋起訴さる 文藝汚辱の一頁」と書き立てます。
真実はわかりませんが、傍系資料などから、当時の理不尽な夫が浮き彫りになってきました。新聞社写真部に勤める松下長平なる人物から妻の俊子は今で言うDV(ドメスティック・バイオレンス)を受けていました。
さらには夫には愛人(妾では無く?)がおり、間には子供がいました。
俊子が妊娠・出産するなか、DVが続いたことと、俊子自身が詩歌に関心があったことなどから、出会った「北原白秋」への思いを膨らませます。
この頃、白秋は極貧生活と体調不良の中、上田敏に作品を絶賛され、一気に詩壇に登場します。旅館住まいから京橋新富座裏に転居、浅草聖天横町、越前堀と短い間に数回転居する中、二人の思いが募ります。
どんなにひどい夫でも<姦通罪>は「夫ノ告訴ヲ待テ之ヲ論ス」しかなく、今から考えればすごい時代でした。
冒頭の参考にした「評伝 北原白秋」では、二人の思い、関係を詳細に資料から分析しています。
二人の<ふしだらではない恋>は姦通罪で罪となり、彼女は離縁、故郷の伊賀に帰り、白秋は死に場所を求めて彷徨し、三浦三崎を訪れたりしていました。
この<三浦三崎訪問>が後に白秋一家がこの地に移るキッカケにもなっています。
私はもう一つ、時代背景も少し加味してみました。
1912年(明治45年)1月浅草聖天横町
 5月越前堀に転居
★7月姦通罪で夫松下長平が告訴。
☆7月30日 明治天皇 崩御。大正時代へ。
★8月10日の公判で免訴放免。
近代日本が初めて天皇の死を迎え、一世一元の大正を迎えた時期にあたります。
坂野潤治の説く明治近代化の軋轢が再編成の欲求として噴火した「大正政変」が起こった1910年代は税制・経済、外交・軍備、護憲・藩閥等の多元化欲求の衝突の時代でした。

一連の<姦通罪>で離れ離れになった二人は、大正2年になり
劇的な再会をします。
伊賀に戻ったはずの福田俊子が横浜南京町(中華街)で暮らしていることを白秋は知ります。
白秋は彼女を迎えに行き、家族の了解を得て正式に結婚し、居を三浦に移します。
ここで生まれた詩が「城ヶ島の雨」でした。
https://www.youtube.com/watch?v=ZI4ebUR2hLU
評伝では
西村陽吉の回想録から
白秋は本牧三渓園の通りに面した桜並木に<隠れ家>があったと書かれていました。
「本牧で電車を降りて海岸の三渓園まで行く道は、両側に桜が植わって、(中略)三渓園の通りには、おでんや団子や目かつら風船玉などを売る露天が並んで、白秋の仮寓は、そのにぎやかな通りの中の、茶店のような家だった。」
この時期が大正2年4月ごろと推理しています。
1906年(明治39年)5月から三渓園外苑が一般公開されるようになり、桜の季節は特に多くの見学者が訪れるようになりました。
1908年(明治41年)には「横笛庵」が完成し、梅林も整備され”梅の三渓園”としても有名に。
1911年(明治44年)12月26日に元町(西ノ橋)から本牧原町(三渓園)まで横浜電気鉄道本牧線が開通し、さらに多くの人が三渓園を訪れ横浜最大の行楽地になっていきます。
この時期に、俊子とその子供が三渓園近くで白秋と共に暮らしていた時期があったことは驚きでした。この暮らしぶりを詠った詩歌を探していますが、まだ未明です。

桜並木で有名な三渓園通り
大正初期の三渓園 園内か?

昭和初期の三渓園付近

その後、妻俊子とは貧困も影響し離婚し、白秋はまた一つの転機を迎えます。
この先の白秋に関しては、触れませんが、作曲家山田耕筰と組んで多くの校歌を手がけています。その中で神奈川県内の学校は三校あります。
■神奈川県立湘南高等学校
http://www.shonan-h.pen-kanagawa.ed.jp/zennichi/gaiyo/kouka.html
■神奈川県三浦市立三崎小学校
http://www.city.miura.kanagawa.jp/kyouiku/misaki/documents/e-misaki-kouka.pdf
※PDFがダウンロードされます。
■川崎市立川崎小学校
http://www.keins.city.kawasaki.jp/2/ke202001/

10月 15

第971話 白秋・白雨・柊二

今回は横浜との細い線を結びながら、一人の詩人を追いかけます。
北原白秋。
戦前の詩歌界を代表する北原白秋は母の実家である熊本県玉名郡に生まれ、江戸時代から続く柳川の商家で育ちました。
彼が作った多くの詩の一編は今でも多くの人の記憶に刻まれています。
神奈川の地にも暮らし、小田原・三崎での創作活動では精力的に作品を残しています。
北原白秋はその57年の人生に幾つかの転機を迎えますが
最初の転機は、青年期の多感な時期に一人の親友を失ったことでした。
白秋。
”白”に込めた仲間の一人に「白雨」と名乗った友人中島鎮夫がいました。19歳の時、中島白雨は自ら命を絶ちます。
以来、北原は”白秋”と亡くなるまでまで名乗り数多くの作品を残しました。
彼の最初の転機とも言える中島白雨の死について
詩集「思ひ出」の一節で鮮烈な詩を詠っています。
20歳前の少年の<激しい悲しみ>が込められた詩です。
長くなりますが、紹介します。
●「たんぽぽ」
「わが友は自刄したり、彼の血に染みたる亡骸はその場所より靜かに釣臺(つりだい)に載せられて、彼の家へかへりぬ。附き添ふもの一兩名、痛ましき夕日のなかにわれらはただたんぽぽの穗の毛を踏みゆきぬ。友、年十九、名は中島鎭夫。」

あかき血しほはたんぽぽの
ゆめの逕(こみち)にしたたるや、
君がかなしき釣臺(つりだい)は
ひとり入日にゆられゆく…………

あかき血しほはたんぽぽの
黄なる蕾(つぼみ)を染めてゆく、
君がかなしき傷口(きずぐち)に
春のにほひも沁み入らむ…………

あかき血しほはたんぽぽの
晝のつかれに觸(ふれ)てゆく、
ふはふはと飛ぶたんぽぽの
圓い穗の毛に、そよかぜに…………

あかき血しほはたんぽぽに、
けふの入日(いりひ)もたんぽぽに、
絶えて聲なき釣臺の
かげも、靈(たましひ)もたんぽぽに。

あかき血しほはたんぽぽの
野邊をこまかに顫(ふる)へゆく。
半ばくづれし、なほ小さき、
おもひおもひのそのゆめに。

あかき血しほはたんぽぽの
かげのしめりにちりてゆく、
君がかなしき傷口に
蟲の鳴く音も消え入らむ…………

あかき血しほはたんぽぽの
けふのなごりにしたたるや、
君がかなしき釣臺は
ひとり入日にゆられゆく…………

親友、中島鎭夫は何故自殺したのか。
秀才中島鎭夫は、早くからロシア文学に関心を抱き、独学でロシア語を学んでいました。この時期、皮肉にも日露戦争勃発と重なり、中島には事実無根の”ロシアスパイ容疑”がかけられます。しかも通報者は学び舎の教師だったそうです。
1904年(明治37年)白秋は故郷を捨て上京します。

北原白秋に関して私は、有名な詩歌をいくつか知る程度でした。横浜との関連も殆ど無いと思っていましたが、彼をさらに知るようになったのは白秋の門下生であり横浜に暮らした歌人、宮柊二(みや しゅうじ)との接点からでした。
No.33 2月2日 歌人が見上げた鶴見の空
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=590

横浜市鶴見区鶴見で暮らした宮柊二は、大正元年、新潟県魚沼の書店主の子として生まれ、白秋のように20歳で家業を捨て東京中野に移り、職を転々とします。
縁あって1935年(昭和10年)に白秋の秘書となります。目を患った晩年の白秋の口述筆記を担当するようになりますが、まもなく白秋の元を去り、川崎の大手鉄鋼会社「富士製鋼所(のちの日本製鉄)」に勤めることになります。
そして結婚を期に、鶴見に居を構え保土ケ谷疎開、召集を含め17年間を横浜で過ごします。出征し、会社員として働きながら歌人としての活動を続け、最終的には歌人として独立し労働者の視点で多くの詩を残しました。

では
北原白秋と横浜の接点といえば?
神奈川県の三崎、小田原での暮らしが彼の歌人生活で良く知られたことですが、横浜との接点はあるのだろうか?
と白秋の生き様を追ってみると、意外な横浜での接点がありました。
前置きが長くなりましたが、
今回は北原白秋と横浜の細くも劇的な接点を紹介、
する前に、白秋の人生はジェットコースターのような激変の連続、極貧と名声の中で数十回にも及ぶ<引っ越し>生活を送りました。
結婚は三度、都度相手の女性も彼にとって大きな転機となっています。
年譜をさらっと眺め、最初に気がついた「横浜」は
大正14年に横浜港から樺太・北海道に視察旅行へでかけたという記述です。
北原白秋のエッセイ「フレップ・トリップ」から
〈フレップ〉はコケモモ、ツルコケモモ、〈トリップ〉はエゾクロウスゴ
『(1925年(大正14年)8月)当の七日の正午には、私は桜木町から税関の岸壁を目ざして駛っている自動車の中に、隣国の王やアルスの弟や友人たちに押っ取り巻かれて嬉々としている私自身を見出した。それから高麗丸の食堂ではそろって麦酒(ビール)の乾杯をした。一同で選挙した団長が日露役の志士沖禎介(おきていすけ)の親父さんで、一等船客の中には京大教授の博士もいれば、木下杢太郎(きのしたもくたろう)の岳父(しゅうと)さんもいる。』
ここに登場する沖禎介は下記の番外編で紹介しています。
番外編【絵葉書の風景】ハルピンの沖禎介
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9546
彼の横浜時代は資料がありませんが、興味がある人物の一人です。

この旅行は、鉄道省が主催したもので、沖禎介の父親「沖荘蔵」氏を観光団長に選び、約二週間の旅でした。
戦前の国際港といえば、東日本は横浜でしたので、多くの渡航者が横浜港を訪れています。ワタシ的には弱い横浜ネタでした。
今回「評伝 北原白秋(薮田義雄)」に目を通す中、
横浜が登場する
「所謂 「桐の花事件」の真相」という謎めいたタイトルの中で触れています。
次回に紹介します。