No.441 横浜・川越・甲州トライアングル

今日は、途中経過の話しで失礼します。
発端は、江戸時代最後の横浜エリアを治めていた大名は誰か?
から始まりました。


江戸幕府は統治システムとして、全国各地に大名や旗本を置き参勤交代や国替(くにがえ)転封(てんぽう)で権力基盤をコントロールしてきました。
地方分権と、中央集権の二重構造を上手に使った“しくみ”でしたが、
天保11年(1840年)の三方領知替えの失敗で一気に幕府衰退のキッカケとなっていきます。
横浜市域に話しを進めます。
横浜市域は武藏の国と相摸の国にまたがって拡がっています。
横浜エリア最後の大名は「六浦藩米倉家」でした。


米倉家は元々甲州武田家の家臣で、武田家が織田信長に破れて以降徳川家の下で側近として信頼を得ます。
キーワード 甲州は江戸の要
徳川幕府は江戸を統治する際、重要な領地を“親戚”と“側近”に統治させました。
例えば 近畿地方の要であった彦根を井伊家に任せ江戸幕府三百年の歴史の上で転封(てんぽう)の無い大名でした。
一方、
甲州街道の要だった甲州エリアは親戚の松平家や柳沢家(柳沢吉保)に任せていきます。
近場では、東海道から鎌倉・浦賀に抜ける重要な「金沢道」を
「米倉藩」に任せることになります。


米倉家は1722年〜1869年まで150年にわたって六浦藩主として長く統治しました。冒頭で転封(てんぽう)の無かった井伊家を紹介しましたが
米倉家も1600年代から徳川家の要職につき金沢と上野に小さな領地を得ます。
1696年(元禄9年)に1万石を与えられ晴れて「大名」となり
その後下野皆川に移封され初代下野皆川藩主と初代武蔵金沢藩主を兼務します。
※領地としては下野皆川藩のほうが豊かだったようですが、金沢藩は浦賀・鎌倉への重要な場所であったため“名誉職”としては格が上だったようです。
米倉家(1722年〜1869年)
譜代 陣屋 1万2千石
初代 忠仰(ただすけ)〔従五位下・主計頭〕1706年3月15日〜1735年5月29日
二代 里矩(さとのり)1733年9月13日〜1749年4月22日
三代 昌晴(まさはる)〔従五位下・丹後守〕1728年5月30日〜1786年1月19日
四代 昌賢(まさかた)〔従五位下・長門守〕1759年7月21日〜1798年8月5日
五代 昌由(まさよし)〔従五位下・丹後守〕1777年12月8日〜1817年2月8日
六代 昌俊(まさのり)〔従五位下・丹後守〕1784年10月15日〜1812年5月28日
七代 昌寿(まさなが)〔従五位下・丹後守〕1793年2月21日〜1863年5月7日
八代 昌言(まさこと)〔従五位下・丹後守〕1837年4月13日〜1909年2月27日

この六浦藩初代藩主「米倉 忠仰」は
嫡子の無かった米倉藩に養子として入り、米倉家を継ぎますが
父親は 柳沢吉保です。
柳沢吉保は ご存知の通り 大老格で最高権力に立ち様々な改革を行った大名です。小説やドラマの影響か“悪役”系ですが、実際は名君、優秀な官僚だったようです。


今話題の東急線と東武鉄道が繋がった「横浜・川越」の
川越藩主として素晴らしい街づくりをした領主でもあります。

(横浜と川越が繋がりました)
今日はこの辺で 次回にこのトライアングルから始まる話しを紹介します。

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