地域のアイデンティティが戦後半世紀を過ぎるあたりから強く意識されはじめました。横浜の地域コミュニティ単位を歴史的に眺めてみると、
独立性の高い“地域愛”のあるゾーンが多いことに気がつきます。
まあ、横浜が“寄り合い所帯”的な市域拡大を遂げてきた自治単位なので、多彩多様性があるといえばありますが、開港場周辺と周辺隣接地域とは色合いの違いもあるようです。
(金沢区独立)
ちょっと刺激的な言葉ですが、歴史を知り地域を歩いてみると
あながち空想領域では無いなと感じる昨日今日です。
まずは妄想から。ある日、ニュースで
「横浜市南部に位置する「かなざわ区」が本日、市として独立する申立書を総務省に提出しました。「金沢(かなざわ)市」はすでに石川県に存在するので、古来「かねさわ」と呼ばれていた経緯もあり、市の名称は「神奈川県かねさわ市」と決定しました。当初、鎌倉市との合併も議論に上り、鎌倉の市民団体と「かねさわ市実現協議会」との話し合いももたれましたが、最終的に「かねさわ市」として独立することで住民の意思が一致しました。」「かねさわ市実現協議会」会長のKさんは横浜市金沢区は、1936年(昭和11年)横浜市に編入され、磯子区の一部となりましたが、中世以来武蔵国と相模国の国境で明治以降は神奈川県・六浦県・韮山県など県が入り乱れ地元のコミュニティに関係なく線が引かれていた経緯があります。(中略)六浦の皆さんには「かねさわ村」となった明治以来、「むつうら」は六浦としてしっかり残すべきだという思いもあり、今回の「かねさわ市」命名についても「金沢六浦市」「六浦市」といった意見も多く出ていました。富岡も古くから金沢文化圏でもあり議論も出ましたが「金沢区」がなんとか「かねさわ」にまとまってほっとしているところです。」
(断裂の思い)
金沢区エリアは、
中世には鎌倉幕府経済圏の中心地(湊)として栄え、
江戸時代は江戸湾の要衝地浦賀と東海道を結ぶ
「浦賀道」が通る静かな農・魚村でした。
幕末以降このエリアは(横須賀製鉄所の発展の影響など)
地形・帰属を含め烈しい変化が起こります。
まず明治初期の地形図をご覧ください。
明治の頃の地形図から現在の金沢エリアを想像することはかなり困難な作業になります。単に埋め立てされてきた地形ではないことが判ります。
その昔、野島は陸続きだったのです。
廃藩置県
韮山県を知っていますか?
駿河国、相模国、武蔵国、甲斐国内の幕府領・旗本領および伊豆国一円(伊豆諸島も含む)を管轄する広大な県でした。
金沢区地域は短い期間でしたが「韮山県」時代がありました。泥亀・町屋・洲崎・野島・芝の村域は幕末に江川太郎左衛門(韮山)の支配下となり明治初年そのまま「韮山県」となります。
一方、宿村・寺前・寺分・平分 他は六浦藩からそのまま六浦県となり、その後神奈川県に編入されます。
六浦プライドは江戸から現在まで静かに地域に根ざしています。
幕末から1878年(明治11年)久良岐郡にまとまりかけますが
磯子区に編入される1936年(昭和11年)まで
(明治22年)「六浦荘村」と「金沢村」の二つの地域は分かれることになります。
旧浦賀道を歩いていると、町の“頑固さ”に出会います。
この地域の歴史をひも解いてみると
鎌倉時代以来形成されてきた生活文化圏が
幕末から シャッフル状態になり 明治・大正・昭和を通して
開港場に翻弄され
地域開発に断裂してきた姿をかいま見ることができます。
ここにきて
「金沢八景 再開発」も始まりました。
六浦の丘の上からの金沢風景もすてきです。
平潟湾を囲み、海と丘の町 かなざわは
景観を維持しつつ住まいやすさの追求が
どう地域の“プライド”につながるのか?
見守っていきたいエリアの一つです。