No.187 7月5日(木) 目で見る運河

1904年(明治37年)7月5日(火)の今日、
歴史年表を紐解いていると「大岡川」の吉浜橋と花園橋が遊泳禁止で話題となったという記事を発見。
というかこの時代普通に泳いでいましたので<禁止>が話題になったのでしょう。
今ではなかなか想像がつきませんが、理由は追跡しておりません。

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明治14年ごろ吉浜橋はまだできていません。(M14測量図)

(今日は川ネタです)
大岡川の吉浜橋と花園橋あたりを中心に開港場の誕生あたりを軽く探ってみました。
題して「目で見る運河」
上記古地図は1881年(明治14年)頃の測量図です。
現在のマップで探ってみます。

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首都高速の「横浜公園」出口近辺がまさにこのあたりです。

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1893年(明治25年)ごろの吉浜橋近辺です。(「横浜真景一覧図絵」)
このあたりは 既に横浜製鉄所ができていましたから、“泳ぐ”には当時でも無理があったんじゃないかと推察できます。
でも泳ぐ人がいたんですね。
No.108 4月17日 活きる鉄の永い物語

(大岡川のめぐみ)
開港場の“横浜”は、干拓と埋立ての街です。
横浜村は大岡川が流れ込んでできた独特の砂州があり、深い入江となっていました。

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開港前の横浜

大岡川上流から運ばれる土砂は、
横浜村を含めた周辺の村に囲まれた“湿地帯”状態で、
村民は製塩と漁業の場として利用していました。
ここに目をつけたのが江戸の材木商、吉田勘兵衛(吉田勘兵衛良信)で、
1656年(明暦2年)幕府に許可を得て周辺の村民の賛意もあり干拓事業を起こします。
これが現在の横浜の基礎となった吉田新田の誕生です。

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干拓事業は人海戦術ですから大変な労力と危険(犠牲)を要しました。
完成までに約12年もかかります。
財力にも驚きますが、干拓事業に参加した村民の努力にも敬意を表します。
この干拓事業の地(川)鎮と無病息災を願うために
「日枝神社」と
「常清寺」とが創建され
現在もこのエリアの鎮守様となっています。(常清寺は開発のため現在久保山に移転)


この吉田新田の区割りから現在の南区・中区の街並が形成されます。
干拓にあたって、大岡川は現在の南大田近辺で「大岡川本流」と元町方向に流れる「中村川」に分岐させ、
真ん中を運河(堀割)で水を逃がし灌漑水路中川が作られました。

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この中村川、今日のテーマでもある吉浜橋と花園橋あたりですが、
元々ぐっと曲がって大岡川本流に戻る形で蛇行していました。

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「横濱村外六ケ村之図」他を参考に作図

開港場ができあがると、中村川をまっすぐ海まで延ばします。
長崎の出島のように運河で居留地を囲む目的と 中村川の氾濫防止の役割を持っていました。
この中村川新河口の南側(絵図左川)が元町、北側(絵図右側)が中華街として発展します。
※中華街の街路が他のエリアと方角が違いますが
 俗説にある風水による街並ではなく中華街は中村川の沼地<横浜新田>にできました。
 形成時期のズレによるものです。
 (中華街誕生も別の機会に必ず紹介したいテーマです)

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1件のコメント

  1.  古希の会という若老?数人で、散策をしています。当方が次回の幹事で、神奈川宿から横浜方向にあるくことにしようかと思っております。それでいろいろ調べようと思いましたら、このサイトに出会いました。なんとまあ、よく調べておられて、凄く参考になりました。いつも歩いている吉田町が吉田新田を築いた人から名前が来ていると知り、なるほどと合点しました。「横浜道」というのも始めて聞きました。あまりに量が多く咀嚼できないので困りました。ありがたいことです。

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