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『姿三四郎』を読む

□ブログ再開しました。(今日は文体を変えました)

富田常雄の長編小説『姿三四郎』を読んだ。
正確には、一部を読んだ。
おそらくキッカケが無かったら読む事が無かった一冊だろう。
小説『姿三四郎』は文庫本で全三部作(上中下)だが、あいにく古書店で上中しか入手できなかったことと、ストーリーの概略を斜め読みした限り関心は中巻にあると判断し、邪道の“中抜き”読みとなった。(一応上巻も読みましたが)
タイトルは「『姿三四郎』上中巻を読む」が正しい。

文庫姿三四郎AZ101497

キッカケは、大衆文化評論家 指田文夫さんの「黒澤明の十字架」を読み、さらに指田さんとじっくりお話しする機会を得たからだ。
野毛で黒澤論をうかがった時に
「君 姿三四郎読んだことある?」
「ありません」がキッカケとなった。

(横浜の姿三四郎)
古本屋に行き、たまたま『姿三四郎』(上中)があったので則購入した。上中巻をまず斜め読みしたが、上巻には殆ど三四郎は登場しない。上巻の後半「巻雲の章」から主人公が現れるのだが、ここに登場する人物像がこれまた面白い。舞台は明治中頃の東京とその周辺で、当然“横浜”も舞台として登場するので則読む気になった。
その前に、

(かなり長くなりそうだが)小説『姿三四郎』の背景を説明しておこう。

『姿三四郎』の作者、富田常雄は1904(明治37)年1月1日に生まれ戦後の1967(昭和42)年10月16日に63歳で亡くなった。
プロフィールは
「講道館四天王のひとり富田常次郎の子。昭和3年河原崎長十郎らの劇団心座文芸部にはいる。17年『姿三四郎』で流行作家となる。24年「刺青」「面」で直木賞。「弁慶」「熊谷次郎」などの時代物から「浮雲日記」などの現代物まで手がけた。」とある。戦後初の直木賞受賞作家だ。昭和30年代はかなりの売れっ子作家だったらしい。
富田の父富田常次郎は元柔道家で、明治から大正にかけて活躍したが事業に失敗した人物である。詳しくは後段で紹介する。

(小説『姿三四郎』)
かなり興味深く読んだ。戦中に小説家デビューという背景が十分に練り込まれている。発表された1942(昭和17)年はすでに連合国とは戦争状態であった。東南アジアに戦域を拡大し、この戦争の大転換となったミッドウェー海戦があった年でもある。
国内では、戦意高揚、日活・新興キネマ・大都映画が合併し大日本映画(後の大映)が設立された年でもある。
1943(昭和18)年小説『姿三四郎』が発表された翌年黒澤明のデビュー作『姿三四郎』が「東宝」で制作、封切りと共に大ヒットする。
小説家 富田常雄にとっても 映画監督 黒澤明にとってもデビュー作となった作品がこの『姿三四郎』である。

(ネタの上手さ)
現在読むことのできる富田常雄の小説『姿三四郎』は、四部作がまとまったものである。統合版の中盤部である三四郎が登場し一人前に育っていく部分が1942(昭和17)年に『姿三四郎』としてまず刊行された。
大好評を受けて1944(昭和19)年に『続・姿三四郎』が発刊。さらに『柔(やわら)』と冒頭部が1944(昭和19)年に新聞でそれぞれ連載され、最後に一冊本にまとまった。
この小説の主人公姿三四郎には実在のモデルがいたとされている。
NHK大河ドラマとなった「八重の桜」で西田敏行演ずる会津藩家老・西郷頼母(さいごう たのも)の養子となった西郷 四郎(さいとうしろう)1866(慶応2)年~1922(大正11)年で、作者富田常雄も実際に出会っている可能性が高いので興味深い。

この小説に登場する場面、人物、事件にはかなり史実が織り交ぜられているのでリアリティがある点も特徴だ。とにかく富田常雄は実在と仮想を上手く料理している。
矢田挿雲のヒット連載「江戸から東京へ」も失われた時代への懐古だった。昭和初期、明治以降の急ぎ足の欧化政策への疲れと、国際社会での孤立化を背景に、人々の心をつかんだのかもしれない。当時、明治時代は読者にとっても“一昔前”に近いリアリティがあったのだろう。主人公の『姿三四郎』の名は「西郷四郎」からとっているとされているが、他にも主人公が柔道と出会った「紘道館柔道」は実在した「講道館」であり、師匠の「矢野正五郎」は講道館の創設者である「嘉納治五郎」であることは一読すれば簡単にわかる。登場する政治家も学ぶ学習院、三四郎の師匠が通った帝大も実に現実味を帯びた描写となっている。

(登場人物の点と線)
『姿三四郎』を作品化した作家富田と映画監督黒澤は実に見事な関係図を示す。
登場人物も作品の中に戦前の歴史断片がたくさん練り込まれているから面白い。

簡単に説明しておこう。
明治維新以降時代遅れとなっていた江戸時代から繋がる「柔術」を学んだ嘉納治五郎が、新しい“体育”として理論化した柔道は1882(明治15)年5月に創設した「講道館」に始まる。この講道館を支えたのが弟子の講道館四天王達だ。師範代として活躍した4人の柔道家で、三四郎のモデルとなった西郷四郎、映画『姿三四郎』の他「柔道一代」のモデルともなった。他に横山作次郎、山下義韶そして富田常次郎がいた。この富田の息子が小説『姿三四郎』の作家である富田常雄である。小説の中で富田は「戸田雄次郎」として登場する。

富田常次郎は嘉納治五郎が講道館を創設する前から友人で、父 加納治朗作に可愛がられた人物である。講道館設立に尽力しその後富田常次郎は渡米し柔道普及活動(K1グランプリのような他流試合)に努め帰国後、赤坂溜池に「東京体育倶楽部」を創設する。

一方、映画『姿三四郎』を監督した“世界の黒澤”は、元軍人で体育教師をしていた「黒澤勇」の末っ子として東京府荏原郡大井町の日本体育会内にあった父の家で生まれた。この日本体育会は、現在の日体大の前身である。
日本体育会とは、1891(明治24)年、日高藤吉郎が興した国民体育の振興を図る“体育学校”である。この日本体育会のナンバー2で日高藤吉郎氏の直属の部下だった黒澤勇は、1917(大正6)年に突然日本体育会を辞任する。
「黒澤明の十字架」の著者 指田文夫氏は 大正3年に開催された「東京大正博覧会」に出展した際に起こった不祥事の責任をとって辞任したと推論している。
黒澤と富田が<体育>当時の基本科目であった両親の柔道つながりで意気投合したとしても不思議ではない。黒澤は『姿三四郎』を新聞広告で発見し映画化を決心したというが、それ以前に交遊があったのではないか?
この先の謎解きは別の場にしよう。

(横浜と姿三四郎)
ようやく
このYOKOHAMAブログのテーマに入る。
長編小説『姿三四郎』では、横浜が舞台となるところが何カ所かある。
というところで 長くなったので次回へ。

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