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小説「弁天通1898」第一章

(ここに登場する人物・団体・その他の表現で史実と異なる表現が多数出てまいります。あくまでフィクションで、作者自身の創作ですので実際のものとは一切関係がございませんのでご了承ください。)といって始めました。小説にする筆力不足なので小説もどきのストーリープロットって感じです。これまでアップしてきたブログから点と線を結びつつ、一つの推理ドラマをしたててみるつもりです。
初めてのトライなので 小説というよりは推理解説文?!という感じになるとは思いますが、これももう一つの歴史散策の楽しみだと思い書きはじめます。※まずは宣言しないと前に進めない自分への 挑戦文でもあります。

(プロローグ)
50代後半に未知の国、日本に渡った一人のドイツ系アメリカ人と彼と交遊した仲間達の半世紀に及ぶ物語である。そこにはもう一つの日米・日加交流史が生まれた熱いドラマがあった。
今日のアメリカ合衆国が歴史の上で大きく変貌したキッカケが幾つかある。その一つが1848年に起こったゴールドラッシュだった。
東海岸に誕生した新しい国はゴールドラッシュによって西海岸に目覚めた。そしてアメリカは太平洋を目指すことになる。
この影響をいち早く、大きく受けたアジアが<支那>だが、日本では横浜だったといえるだろう。そしてもう一つ、カナダの存在も戦前の太平洋史において重要な役割を果たした。
開港し、いち早く外国人が居留した横浜は、大きな歴史のウネリを感じつつ、そこに暮らした人々の交流の日々でもあった。
舞台は、海岸通りと弁天通。共に当時最もモダンなストリートだった。一人の外国人男性と日本人女性との不思議な出会いと別れを繋ぎ合わせる旅に出た二人の親友の再会から物語は始まる。

第一章 
■再会
1930年(昭和5年)11月上旬の肌寒い夕暮れ、上野 義之にとって久しぶりの横浜だった。友人との8年ぶりの再会の約束は新しくオープンしたホテルニューグランドにした。
そういえば前回訪れた横浜は震災直後だったと上野 義之は全ての風景を失った横浜を思い起こした。仕事先のカナダで震災の知らせを受け、一ヶ月かかってこの街にたどり着いたことが昨日のように思い出された。交通は遮断され、とにかく情報が無かった。自宅のある神戸にまず戻り横浜の情報を収集したが得るべき情報は全くなかった。しばらくして神戸から横浜に船が出るということで会社のツテを頼りに船に乗った。この街には何も残っていなかった。臨時に用意された埠頭から廃墟が果てしなく広がり身体は動かず立ちすくんだまま泣いている自分に気がつくまでしばらく時間が必要だった。
あれから7年、見違えるような回復をした横浜に上野は不思議な違和感を感じた。12歳の時、親の転勤で横浜を去った彼にとって、桟橋を含め居留地と呼ばれていた“異人館”の立ち並ぶ風景が懐かしかった。横浜駅の場所が変わっってしまったことも喪失感の理由の一つかもしれない。
ホテルニューグランド、

light_ニューグランド011 震災後に新しく建ったこのホテルを上野は初めて訪れた。一階のバーに入ると、バーテンダーは、軽く会釈をし「いらっしゃいませ。」と一言だけ伝えると、客の様子を伺った。コートを預け、 帽子をフックに掛けると彼はカウンター席の端から二つ目の席を選んだ。陽はすっかり落ちて街は真っ暗だったが、バータイムには少し早かったのか、店内は誰も居なかった。
「バーというだけあって、この横木の高さは絶妙だね」
「ありがとうございます」
「カナディアンクラブはあるかね」
「ございます。6年・12年・シェリーカスクとか…」
少し間があき
「そうだな、これはゲストにとっておいて しばしさっぱりしたものがいいな。」
「カクテルでおつくりしますか」
「そう」
「かしこまりました」
バーテンダーは、既にレシピがひらめいていたのか、すぐに準備に取りかかった。

上野 義之、先月で55歳になった。明治9年1876年の十月、彼の父が勤めていた税関の戸部官舎で生まれ、転勤で横浜を離れる神戸に暮らすまで12年間この街を堪能していた。以降、時折母方の祖父母と母の妹の叔母を訪ねる程度だったので次第に横浜は遠い田舎となっていた。
今夜ニューグランドを指定してきたのは友人のマッケンジーだった。カナダ人の実業家ウィリアム・マッケンジーは、カナダ商工会議所の代表団の一人として初めて来日し、ホテルニューグランドを拠点にして、各地を訪れていた。
マッケンジーは、シアトルにある革製品の老舗店のオーナーでカナダと合衆国に七つの店舗を持つ実業家であると同時に、シアトルの商工会議所の役員でもあった。

10月27日にカナダ太平洋汽船のエンプレス・オブ・ルシア号に乗り、36名の代表団の一人として横浜を訪れていた。滞在期間は三週間にも及んだが、全国主要都市をめぐる旅でもあった。
エンプレス・オブ・ロシア013

■憲法修正第18条
午後6時を過ぎた頃、192センチの巨漢を少し折り畳みながらウィリアム・マッケンジーが現れた。
上野は立ち上がり、旧友との固い握手をすると二人は席に着いた。
「まずは簡単に乾杯をしよう。再会を祝して」
「マッケンジー、君はCC?」
「ありがとう。でも今日は私もカクテルにしよう。さて、君のは何かい?」
上野の席にはマッケンジーが到着する寸前用意されたカクテルがあった。
「ギブスン」
「じゃあ僕は、訪日に感謝しバンブーにしよう」
バーテンダーは軽く微笑むと上野に向かって
「お客様、ご一緒にお作りしなおしましょうか?」と気を効かせてくれた。
「では ギブスンではなく兄貴分のアドニスを」
飲みかけのグラスは片付けられた。
「君はシアトルでもカクテル派だったね」
「カナディアンクラブは飲まずにね。そういう君もスコッチ派じゃないか。」
「ではなぜCCを薦めたんだい?ウエノ」
「そりゃあ、今やカナディアンウィスキーはご当地に在庫が無いのかと思ってさ」
マッケンジーは、大声を上げて笑った。
上野のきついジョークは健在だった。
「Amendment XVIIIか。カナダ人にはラッキーだがバカバカしい法律だ。」
Amendment XVIIIとはアメリカ合衆国憲法修正第18条のことだ。俗にいう「禁酒法」のことで、飲料用アルコールの製造・販売等を禁止する世界的にも珍しい悪法の代名詞となった。この禁酒法は1917年12月18日に議会を通過し1920年からアメリカ全土で施行されたがザル法の典型で、殆ど効果がなかったといわれている。しかも隣国カナダからの輸送を取り締まらなかったためカナダ国内で合法的に製造・販売された酒類が爆発的に売れる結果となった。
この間、アメリカ国内の酒造メーカーは操業停止し生産能力を失い、再開されてもしばらく禁酒法以前のレベルに追いつくにはかなりの時間を要したのだった。

二杯のカクテルが登場するまでのほんのひととき、マッケンジーは今回の訪日に就いて語りはじめた。
今回の旅はカナダ商業会議所が主催し、日本との貿易促進のために視察と商談をかねて、カナダ国内205の都市商業会議所を代表する総勢36名が訪日した。
カナダにとって、日本は三番目にあたる得意先で、しかも1915年以来輸出は三倍に、輸入は二倍も伸びベストパートナーになりつつあった。
実は、カナダが完全に独立し自治権を確立したのは1926年(昭和元年)のことだった。

Flag_of_Canada.svg 1928年(昭和3年)オタワに「在カナダ日本公使館」が開設され、翌年になってカナダはワシントン、パリに次ぐ3番目の公館を東京に開設したばかりだった。
今回の視察旅行も在日公館開設一周年記念の意味合いも含んでいた。

「当ホテル自慢のバンブーとアドニスでございます」
微妙に色合いの違う2種類のドライ・シェリーベースのカクテルで二人は改めて再会を祝した。
バンブー、そしてアドニスは共に明治6年に海岸通りに開業した「グランドホテル」の名物カクテルだった。アドニスは当時アメリカで流行していたカクテルで、バンブーはそれをアレンジした日本生まれのカクテル。震災で廃業した「グランドホテル」の代わりに日本人の手によって作られたフラッグシップホテルが「ホテルニューグランド」で、カクテルメニューは大切に引き継がれた。

「震災の知らせを現地で受けて、慌てて日本に戻ったので君に別れも言えなかった」
「問題ないさ。詳細は手紙で知らせてくれたじゃないか」
「日本は、この震災で大きく変わった。この国はどこへ行こうとしているのだろうと正直思う時がある。」
上野は思い起こすように、震災前のこの国の記憶を辿り始めた。

■第三話 「チョウカン」のふるさと
上野 義之は、明治9年(1876年)7月20日(木)母の実家である横濱居留地の弁天通りで生まれた。この日は、明治天皇が函館から“明治丸”に乗船し奥羽・北海道巡行から横浜に戻り、港では花ガスや煙火が打ち上げられ、通りはお祝いムードで一杯の一日だった。
この日を記念して1995年(平成7年)「海の日」となった。当初は20日だったが、現在は7月の第3月曜日が祝日となっている。

義之の父は越前藩の武家出身で横浜税関の官吏だったが、スーパー官吏、初代税関長の上野景範(うえの かげのり)と同性であったために、同僚からは「チョウカン」とあだなされていた。
幕末から明治にかけて、一部戊辰戦争という局地戦はあったものの、政治機能が混乱せず新政府に移管された大きな理由は、優秀な旧幕府官僚を多く重用したからだ。彼もその一人で、幕末は由利公正のもとで藩財政立て直しに尽力した。明治に入って神奈川運上所に務め、その後各地を転勤し最後は神戸で亡くなった。
しかし、その後新政府が安定する中であからさまな藩閥政治が始まり、旧幕臣は元より倒幕派であった中からも不協和音が聞こえ始めていた。
明治六年の政変、西南戦争(明治十年)、明治十四年の政変と国内の混乱が続き、外国との軋轢も次第に表面化しつつあった。
新しい日本の旅立ち、決して国内外順調ではなかった。
外交上の最大の難問が、不平等条約の撤廃であった。解決には長い時間を要した。考え方基準の置き方にもよるが
不平等条約の撤廃には1911年(明治44)あるいは1937年(昭和12年)までかかったといわれている。

※上野景範
横浜運上所(横浜税関)初代長官「上野景範」は明治前半期に活躍した外交官・官僚で、横浜とも因縁深い人物であった。
明治4年(1871年)に横浜運上所(横浜税関)初代長官を務め、この時期に民部鉄道掛の井上勝、英国人技師長エドモンド・モレルらと共に鉄道敷設工事を推進し日本初の鉄道「横浜駅〜新橋駅」開通に尽力、ヘンリー・ブラントンともに全国を回り燈台建設に携わる他、外交でもハワイ移民(元年者問題)のトラブル解決や、ネルソン・レー(鉄道契約不正)事件等で才能を発揮。趣味は油絵という英語でディベートのできる多彩な人物だったが45歳の若さで亡くなる。彼がもう少し政府で活躍したならその後の日本はかなり変わっただろうとも言われている。

義之の母は旧姓水谷 貞子、弁天通の外国人向け骨董店「水谷商会」の長女として生まれた。父親の水谷一馬は、佐賀出身で幕末期に江戸で雑貨商を営んでいたが開港後横浜に居を移し外国人相手のお土産を中心に骨董店を開いた。
水谷商会には二人の“看板娘”おり、姉の貞子、妹の華子といった。
父親の一馬が、早くからオランダ語と蘭学を学んでいたこともあり、娘二人も当時としては珍しく蘭学塾に通った。特に妹の華子は語学の才に恵まれ、横浜で生まれ育ったこともあり、英語フランス語を覚えるのにそれほど時間は必要なかった。

この二人の“看板娘”で有名になった骨董店「水谷商会」に二人のフランスの軍人が訪ねたことで、二人の特に妹の華子の人生が大きく変わることになる。(第二章へつづく)

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