横浜に関係のある一人の人物を紹介します。
1918年(大正7年)の今日、実業家の朝吹英二が71歳の生涯を終えました。
「朝吹 英二(あさぶき えいじ、嘉永2年2月18日(1849年3月12日)〜大正7年(1918年)1月31日)は、日本の実業家。幼名は萬吉、鐵之助。」(wikipedia)
このwikipediaでは彼の紹介に「横浜」の項目はありません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/朝吹英二
彼は幕末に生まれ、明治・大正期に実業家として活躍します。
若い頃のエピソードとしては、尊皇攘夷思想だった朝吹は同郷の開明派「福沢諭吉」を暗殺しようと企てますが失敗しこれをキッカケに慶應義塾に学び、福沢の元で働くようになったそうです。実業家として頭角を現し三菱商会から三井に転じ、「三井の四天王」の一人と呼ばれるほど<三井>の重鎮として活躍します。
1880年(明治13年)7月20日から業務を開始した「貿易商会」横浜支店の責任者として朝吹英二は横浜を舞台に活動します。
この「貿易商会」は、社長が丸善の創業者である早矢仕有的で朝吹は役員として横浜支店を任されます。「貿易商会」は本店を東京に置き、横浜の本町四丁目に支店を開設します。取り扱った業務内容は生糸の輸出・茶・煙草・雑貨・米などの輸出と鉱物・皮革類・魚類等の輸入等でした。
「貿易商会」にとって「横浜支店」は特別な存在でした。
資本金二十万円の内、十五万円が「横浜支店」の事業資金として振り分けられ、主に<生糸の輸出>を専門とし支配人として朝吹英二が着任しました。
いわば特別プロジェクトの性格を帯びた「横浜支店」でした。
この「横浜支店」設立の背景は、単にビジネスチャンスというだけではなく、当時の横浜を舞台に行われていた貿易の<問題>がありました。
日本は開港後欧米列強と結んだ不平等交易条約(修好通商条約)の影響で、貿易を管理・統制することがほとんど不可能な状態にありました。
明治初期の貿易は殆ど外国(欧米)の商社が独占していました。
1867年(明治10年)の輸出額の94%、輸入額の95%を外国商社が独占。
しかも、居留地の外国商館は<悪辣な手段>を使い、差別的で一方的な交易で暴利を上げていました。特に横浜を舞台にした生糸交易は取扱額も大きく日本経済の要でもあったため<フェアトレード>は日本経済界・政府の重要な課題でした。
「貿易商会」横浜支店設立には、貿易のバランスを回復する(自主貿易の確立する)ことも大きな目的でした。「貿易商会」の設立趣意書の一部を商会します。
「我国人ハ在港ノ外人二依頼シテ貿易ノ事ヲ行ヒ既二幾分ノ国損ヲ致シ、又其物品ノ代価ヲ受授スルニ当テ為替ノ事ヲモ彼ノ「パンク」二任スルガ故二、輸出入ノ景況二従テ為替ノ相庭(相場)ヲ昂低スルモ、全ク彼レノ意中二存シテ、内国ノ商人ハ恰モ其制御ヲ仰キ、昂低共二常二彼レニ便利ニシテ、我二不便利ナラザルハナシ、金権ノ主客、処ヲ異二スルモノト云う可シ」
結果は残念ながら 1876年(明治19年)倒産、失敗に終わります。
朝吹英二は生糸直輸出事業の大損失を一身に背負って日本一の借金王と呼ばれたりしました。「貿易商会」に限らず、多くの日本企業が不平等交易に立ち向かい、粘りつよく条約改正に至るまで要求と実践を繰り返していきます。
明治以降、日本の急速な経済発展と表現されますが外国商社との条件闘争と試行錯誤を繰り返していきます。
横浜で大失敗した朝吹英二は、その責任をとって放浪生活に入ります。
そんな朝吹英二がある時、かつての知り合いだった第3代日本銀行総裁 川田小一郎を訪ねます。川田は朝吹に自分の給料袋をそのまま渡し、再起を支援。
これがキッカケとなって朝吹は経済界に復帰、当時危機に瀕していた鐘淵紡績の立て直しに貢献します。
その後、三井財閥の基盤確立に尽力するとともに日本経済界の重鎮として多くの足跡を残します。
「生涯
豊前国(現在の大分県)中津藩宮園村(現在の大分県中津市耶馬溪町大字宮園)の大庄屋の跡取として生まれた。
日田の咸宜園や中津の渡邊塾・白石塾に学ぶ。尊皇攘夷思想に染まり、維新後の明治3年(1870年)、開明派の福澤諭吉暗殺を企てるが、転向し福澤とその甥 中上川彦次郎の庇護を受け、彦次郎の妹と結婚する。慶應義塾に学び、明治11年(1878年)、三菱商会に入社。明治13年(1880年)、貿易商会に入って取締役となる。
また、大隈重信に近い政商となり、三井財閥に転じて、明治25年(1892年)に鐘ヶ淵紡績専務、明治27年(1894年)に三井工業部専務理事に就任。明治34年(1901年)、中上川が死去すると、益田孝により中上川の工業化路線は一旦は止まったが、それでも明治35年(1902年)に三井管理部専務理事に就任し、王子製紙会社では役員を務めて会長となり、また、芝浦製作所、堺セルロイドなど王子と共に業績不振とされたこれら企業の建て直しを担当することとなった。このように三井系諸会社の重職を歴任し、「三井の四天王」の一人と言われた。
中上川の後任の最有力候補であり、かつ慶應閥の筆頭とも目されていた朝吹だったが、上述のように、後見の中上川の死去にともない、益田が三井財閥の実権の座を握ることとなり、明治40年(1907年)には、益田が引退に際して團琢磨を推挙したため、退任を余儀なくされることとなった。
江戸時代において悪人とされていた石田三成の顕彰事業にも熱心で、歴史学者渡辺世祐に委嘱して『稿本石田三成』を書かせ、その墳墓発掘にも力を尽くした。」
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No.31 1月31日 さよなら路線廃止に沢山のファン