前回 スタートで「大江橋」の名前の由来からややっこしくなったと書いた。
後段はこの謎となった「大江橋」の由来について探ってみたい。
「大江橋」ほぼ100%、各資料には
「県令 大江卓の名に因んで付けられた」とある。
恐らくオーソライズされたデータの出処が一緒なのだろう。
手元の『神奈川県資料』の範囲では
大江卓は 陸奥宗光にヘッドハンティングされ神奈川県のナンバー3として雇われ、最終的にナンバー2(権令=副知事)として活躍したが、県令にはなっていない。
権令も県令も<県政>のトップであったことは間違いない。表現はどちらでも良い、ゴミのような指摘だ。実は
「大江橋」の人名説そのものに異議を唱えた人物がいた。少なくとも二人。
一人が私も時折通っている「亀田病院」の院長だった故亀田威夫先生。彼のコレクションは有名、忠臣蔵・赤穂義士研究の膨大な資料が現在『亀田文庫』として中央図書館に収蔵されている。
亀田先生は「大江橋」の大江は人名では無いと考えていた。
理由は大正15年発行の大江の伝記「大江天也伝」を調べたが橋の話は一切触れられていない、という事実から疑問を持ったらしい。
この「大江天也伝」は総ページ数862ページで彼が頭角を現した横浜時代も克明に書かれているがこの大江橋命名に関しては全く触れられていないということは「大江橋」の名は彼に因んで命名されていないのではないか。これが彼の主張。
横浜市内の重要な橋に時の<県令>の名を命名するにはそれなりの手続きとセレモニーが必要になるだろう。亀田先生は橋の特集をした「市民グラフヨコハマ」編集部に修正を求めるハガキを書いたがそれが出されることは無かった。
たまたまこの亀田先生の指摘を書いた未投函ハガキが亀田先生ご自身所有の「大江天也伝」に挟まれていたのを発見した人物がいた。
土淵正一郎氏だ。ご本人のプロフィールは不明だが歌麿研究の土淵さんではないかと推察している。土淵氏は改めて調べ直した。
土淵氏の再調査の結果はこうだ。
確かに「大江天也伝」には記載がない。
次に『横浜市史稿』の地理編第六章橋梁に行き着く。
『横浜市史稿』は横浜市が自治制施行30周年を記念し1920年(大正9年)に着手した史料で7つのジャンルに分けている。
この中で
「[明治五年五月神奈川県布達]当港町六丁目より鉄道棚矢来之架渡候大江橋、明日より馬車を除く外、通行許し候には、人力車は吉田橋同様之橋税納候様可致事。」
という記事を発見。
「横浜沿革誌」明治三年五月のところには
「同月、大江橋橋台及柱石建設工事に着手す、工事請負人内田清七 明治五年竣工し大江橋の名称を付す」とある。明治五年、1872年は横浜に大事件が起こっていた。
「マリア・ルス事件」だ。この事件真っ最中に活躍した大江卓の名を橋の名にするのは“尚早”ではないか? これが土淵氏の結論となる。
「マリア・ルス事件」
日本がまだ幕末に結ばれた不平等条約の重荷にあえぐ中、横浜港で起こったマリア・ルス事件に対し“日本国の矜持”を示した有名な事件担当が大江卓だった。
少し長くなるが この事件を簡単に整理してみた。
事件勃発直前の出来事
1870年(明治3年5月)
内田清七が大江橋建設に着手(明治5年に竣工)
※明治5年横浜・新橋間 鉄道開通
1871年12月25日(明治4年8月12日)
陸奥宗光 神奈川県知事に就任
同年10月12日(8月28日)
大江卓 民部省で「布告第六十一号」公布に成功
同年12月10日(10月28日)
陸奥宗光、大江卓(民部省地理寮出仕権大佑準席)を神奈川県に引き抜く
同年12月24日(11月13日)
大江卓 神奈川県参事に
※県令・権令不在で事実上の神奈川県トップ
[以下 年号は全て1872年(明治5年)( )は旧暦]
7月9日(6月5日)
中国の澳門からペルーに向かっていたペルー船籍のマリア・ルス号(Maria Luz)が嵐で船体が損傷したため横浜港へ修理の為に入港した。
この船には清国人苦力が231名乗船していた。
7月13日(6月9日)
船内で虐待を受けていた清国人の一人「木慶」が船外に脱出し泳いで港内に停泊中の英国軍艦アイアンデューク号に救いを求めたことから事件が表面化する。
7月14日(8月17日)
大江卓 権令(副知事)に任命
英国在日公使はマリア・ルスを「奴隷運搬船」と認定し領事から神奈川県に通告、清国人救助を要請する。
これを受けた神奈川県は木慶を引き取り、同船長ヘレイラを召還し、木慶を責めないことを条件にその身柄を引き渡したが、船長は約束に反して船内で同人を処罰した。そのため、イギリスはマリア・ルス号を「奴隷運搬船」と判断し、日本政府に対し清国人救助を要請した。
この時の外務卿(外務大臣)が副島種臣
神奈川県令(県知事)が陸奥宗光だったが殆ど県に不在
神奈川県大参事(ナンバー2)の内海忠勝(後の神奈川県知事)は渡航中で不在
神奈川県参事(ナンバー3)に大江卓
事件発生後、神奈川権令(県副知事)に抜擢
(進展)
英国在日公使の要請を受けて外務卿副島種臣は日本に管轄権がある事件だとして、まず外国官御用掛であった花房義質に事実調査をさせた。結果、神奈川県権令大江卓を裁判長として県庁に法廷を開かせると同時に、マリア・ルス号に横浜港からの出航停止を命じ清国人全員を下船させた。
この時、日本とペルーの間で二国間条約が締結されていなかったため日本の法律をペルー船籍に適応するのは外交問題になる危険性を持っていた。
大江卓裁判長の判断は「苦力の虐待は不法行為であるから開放すべき」と判決を下し、一方で船長ヘレイラには情状酌量し無罪とした。
これに対して船長は、移民契約不履行の訴訟を起こしマリア・ルス号事件第二の裁判が行われる。日本政府は領事に臨席を求めることなく裁判を開き8月に契約無効の判決を下し、ヘレイラはマリア・ルス号を放棄して本国に帰還せざるを得なくなった。
※この裁判の中で船長側の英国人弁護人から「日本が奴隷契約が無効であるというなら、日本においてもっとも酷い奴隷契約が有効に認められて、悲惨な生活をなしつつあるではないか。それは遊女の約定である」と主張、日本政府は同年10月に芸娼妓解放令を出すことになった。
結審後
日本政府は日清修好条規第九条に基づき苦力230名を清国側に引き渡し、事件は一応終結した。これには第三ラウンドがあり日本初の第三国ロシア帝国による国際仲裁裁判が開催された。
少々長くなったが外交問題にまで発展したこの事件の真っ最中に果たして<土淵氏説>の通り
表玄関であった横浜駅前の居留地に向かう橋に「大江(卓)橋」と命名するだろうか?
しかも大江は活躍したが建前上は「陸奥宗光」が県令であったのに。
ところがその後(特に大正期)の横浜市が発行する史料は
「大江卓に因んで大江橋と命名」説を採り続けた。現在もこれらを引用している。
参考資料
「マリア・ルス事件」大江卓と奴隷解放 武田八州満 著 有鄰新書昭和56年刊
これにかなり詳しく述べられている。これを読むと
かなりデリケートな事件であったことがわかる。不平等条約撤廃を悲願としていた当時の明治政府は、時に異様とも見える決断を下している。<鹿鳴館>がその象徴的なできごとだ。明治5年頃はまだまだ<未熟な未開国>とされていた日本にとって外交にはことさらナーバス出会ったことは間違いない。
繰り返しになるが 陸奥や大江着任前
鉄道敷設のために明治3年 内田清七が敷地の埋立と同時に橋架設工事も着工していた。果たして<名無し>だったのだろうか?
既に大阪では北区の堂島川(旧淀川)に江戸時代から架かっている現在国の重要文化財となっている「大江橋」がある。市役所・日銀のある中之島を結ぶ橋のことだ。たまたま一般的な大きな入江に近い「大江橋」とするつもりが
明治後半治外法権撤廃後重ねるように当時のナショナリズムとマッチし「大江(卓)」橋と呼ばれたのではないか?
真相は現在も分かっていないようだ。
【横浜の橋】№6 大江卓橋1