No.704 《横浜本》「幕末日本探訪記」

横浜に関係する書籍から外国人が記録した“ある日の横浜を知る一冊”を紹介しましょう。
タイトルは「幕末日本探訪記」
light_201501060026この本は世界的プラントハンター ロバート・フォーチュン(Robert Fortune)の日本探訪記の訳本です。彼は、1812年9月16日(文化9年)スコットランドに生まれ、エディンバラ王立植物園で園芸を修めた後、ロンドン園芸協会で温室を担当していました。比較的貧しい家に育った彼にとって、ロンドン園芸協会の職はかなり恵まれたものでしたが、彼の非凡な才能は30歳を過ぎて大きく開花します。
1840年代、フォーチュンが30代の頃、英国の富裕層は限りなき欲望の果てに新しいお茶の贅
を求めていました。“新種のお茶”であれば貴族たちは目の色を変え欲しがる贅沢品となっていました。当時、英国から独立したばかりの“アメリカ”でもお茶の人気は高まるばかり、このお茶ブームが後に開国する日本(横浜)を左右する貿易品となります。
<新しいお茶がほしい!>
大英帝国の東アジア貿易を担っていた「東インド会社」からフォーチュンは中国の<お茶の木>ハントを依頼されます。輸入しないで自国生産するためでした。
背景にはアヘン戦争(1840年〜1842年)があります。この忌まわしき戦争の要因は、大英帝国による茶、陶磁器、絹等の輸入超過解消でした。欲しいものを入手する代わりに<インド産麻薬>を中国に売ることで帳尻を合わせようとしたのです。→三角貿易
アヘン戦争終結後の<南京条約>によって無理やりこじ開けられた中国は外国人(英国人)の国国内往来が自由になります。これをきっかけに彼は中国に派遣されることになります。お茶を輸入するより自国の植民地で作るためのプラントハントでした。
中国に派遣されたロバート・フォーチュンは<郷に従う>優れた才能がありました。中国語を素早く習得し、中国人の服装で茶の産地をくまなく調査し多くの品種を(プラントハント)採取しインドに移植するというミッションを見事にこなします。
中国からインドに移植された<お茶>で現在も世界のお茶市場で人気ブランドとなっているのがダージリンです。このダージリンの登場で中国茶の人気が急落し、お茶市場は中国からインドに移ります。
<新しい花を求めて>
お茶だけではなく珍しい花、新しい花の品種も欧州市場で人気でした。菊、蘭、ユリなど東洋を代表する観賞植物を英国にもたらしたのもフォーチュンでした。
Fortune’s Double Yellowというバラの品種をご存知ですか?
この品種は彼が発見したものです。
http://www.paulbardenroses.com/teas/fortunes.html
http://www.helpmefind.com/rose/l.php?l=2.2808
またFortunella japonica、和名をキンカン。
Fortunellaはプラントハンター「フォーチュン」がこの品種をヨーロッパに紹介したことで献名されました。
<開国とともに>
前置きが長くなりましたが、
世界的プラントハンター ロバート・フォーチュン(Robert Fortune)は、
1860年10月(万延元年)開国した日本を二度訪れています。このときの記録が「江戸と北京ー幕末日本探訪記」(A Narrative of a Journey to the Capitals of Japan and China)として発刊されます。当時、開港(開国)から明治初期には多くの外国人が訪日し<日本滞在記>を著していますが「江戸と北京ー幕末日本探訪記」は、プラントハンターという職業柄かなり異なった視点で<日本>を見つめている点が興味深いところです。

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(日中比較)
この本はタイトル通り、「江戸と北京ー幕末日本探訪記」(A Narrative of a Journey to the Capitals of Japan and China)日本と中国を訪れた記録の全訳ですが“中国滞在記”の占める割合は少なく主に日本訪問記となっています。
フォーチュンは、日本を訪問する前の1840年代から50年代に中国を長期間中国に滞在していました。ちょうど列強が中国を舞台に植民地化を進めていた時期です。
フォーチュンにとっても外国との交易のなかった未知の国日本には特に別の感情が働いていたのかもしれませんが、この本の中では中国は簡潔に、日本は驚き“発見”のニュアンスが感じられます。

(フォーチュンの横浜)
簡単にフォーチュンの横浜記の一部を紹介しましょう。
フォーチュンは長崎に上陸した後、数日を過ごし「風光明媚の長崎に別れを告げて」「江戸に近い神奈川港に出発」します。
江戸湾を目指した多くの外国人が<富士山>に出会いこの美しさに様々な形容を残していますがフォーチュンは意外とさっぱりした「内陸50〜60マイルの地点にそびえ立つ富士山は、日本人にとって、無二の崇高な山である。山の北面は雲におおわれていたが、南側に鮮やかな緑の線が見えた」とそっけない表現でした。
フォーチュンの視点は、山よりも<森>にあり、森よりも<樹木>に向いていました。

■貿易港としての横浜
彼が横浜沖(神奈川沖)に到着したのは1860年10月30日(万延元年9月17日庚申丁未)です。彼は、日本政府と各国との攻防が修好通商貿易で明記された<神奈川湊>と開港場の<横浜>を往復しながら広く周辺地域にも足を伸ばします。
<横浜開港場>は開港直後に堀川が作られ出島のようになります。この出島を<囚人扱い>とする外国人も多かったようですが、彼は「われわれ外国人を攘夷党の危害から守ってくれる、何物にも勝る適切な計らいだったと言える。」と評価しています。
また神奈川湊ではなく横浜となった開港も
「もし神奈川に決定されたとなると、この海岸は港として不適切なので、天候の状態によって、船はしばしばはるか沖合に停泊しなければならないだろう、というのである。そこで概括すると、横浜は彼らの貿易に適した場所ということができる。言うまでもなく、彼らは日本に商売をするために来たのだから。」と現実的な評価を下しています。
開港後1年余しか時間が経っていない時点で、横浜開港場の位置づけを科学者(植物学者)の視点で冷静に分析しています。実際一時的にせよ“外国人商人”は開港場に居を構え、建前にこだわる“各国政府関係者”は神奈川宿と江戸に拠点を置いて活動していました。

1860年10月30日(万延元年9月17日)フォーチュン日本到着。
1861年7月5日(文久元年5月28日)第一次東禅寺事件<イギリス公使館襲撃>
1862年6月26日(文久2年5月29日)第二次東禅寺事件<イギリス公使館襲撃>
1862年9月14日(文久2年8月21日)生麦事件<イギリス人殺傷>
これら外国人殺傷事件が起こる前、日本滞在中のフォーチュンは「横浜」「神奈川」「江戸」「江戸近郊」「瀬戸内」「長崎」「湘南・鎌倉」と精力的に旅行し、プラントハントをしながらこの国を満喫します。
彼の記述から面白い事実も知ることが出来ました。
「開港場」から「神奈川」に移動する際、船を使っている記述がありました。当時重要な東海道都の連絡路であった<横浜道>を通行するだけではなかったことには少し驚きも感じました。
確かに、外交官たちは神奈川湊の寺に公館を設置していましたから、民間外国人の暮らす開港場と神奈川は移動が自由だったといっても不思議はないでしょう。

幕末明治期の外国人日本論には偏見も多く見られますが、フォーチュンの日本分析には「外国人襲撃事件」の起こる中でも冷静で的確な観察と分析が行われている点で興味ある一冊といえるでしょう。

「江戸と北京ー幕末日本探訪記」三宅馨 訳 講談社学術文庫