1月 24

No.25 1月25日 馬車道の華

「横浜の酒場に 戻ったその日からあなたがさがして くれるの待つわ昔の名前で 出ています」 (「昔の名前で出ています」作詞星野哲郎、作曲叶弦大、編曲斉藤恒夫) 小林旭のヒット曲です。
資料を探していると、地名や施設名が時を経て変わることが往々にしてあります。
名称の変化は時代を特定するヒントになりますが、逆に事実が見えにくくなることもあります。 でもこれが歴史を調べる時の愉しみのひとつです。
1970年(昭和45年)のこの日、中区馬車道にある「横浜宝塚劇場」が改装オープンし「市民ホール」となりました。その後
1986年(昭和61年)に老朽化などを理由に新しく建て替えられたのが現在の「関内ホール」です。 「横浜宝塚劇場」から「市民ホール」へ。そして現在「関内ホール」として馬車道の華となっています。

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個人的には常々「馬車道ホール」という名が良いなと思っています。 正式名称は「横浜市市民文化会館」といいます。指定管理者でテレビ神奈川が管理していますから「馬車道TVKホール」ってネーミングライツしたらどうでしょう?(そんな話しは出ていません。)

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馬車道界隈は開港のころ、文字通り「馬車」が走り抜け大きな金融機関、様々な商店が立ち並ぶ最先端のガス灯が明るいモダンな通りでした。
横浜開港場には外国船が停泊するイギリス波止場とは別に、国内をつなぐ船が数多く利用する日本波止場がありました。馬車道はこの日本波止場と居留地を支えた関外エリアをつなぐ吉田橋を一直線に結ぶ開港場のメインストリートでした。
戦後その界隈性を残すため、いち早く通りをモール化した都市デザインの先駆的商店街でもあります。現在も万国橋からイセザキまで、ブラリ歩きには最高の道です。

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昔から 賑わいには劇場がつきものです。
1935年(昭和10年)4月1日、横浜宝塚劇場(通称ヨコホウ)が住吉町4-42に開館しました。1スクリーン、1,305席(別資料では1,440名)を擁する大劇場・映画館でした。
「関内馬車道に出現した待望の東宝直営横浜宝塚劇場はいよ々々明後四月一日咲く桜に魁て華やかに蓋を明ける。昨年十月廿八日着工して以来、完成開場まで僅五ヶ月といふスピード建築の恐らく記録をつくつた清水組設計に成るこの横宝劇場は鉄筋鉄骨コンクリートの三階建で建坪四百十坪、延坪八百三十坪収容人員は千四百四十名このうち階下が九十一名定員となつてゐる(後略)」(『横浜貿易新報』1935年(昭和10年)3月30日付)
劇場前にあったうなぎの老舗「わかな」が人気の店だったとあります。 現在はすこし場所が移動しています。
劇場には食も欠かせませんね。

当時のポスター

戦争を挟んで人気劇場でした横浜宝塚劇場は、
1960年(昭和45年)横浜市に譲渡され改装「市民ホール」としてオープンします。
その後、
1986年(昭和61年)宝塚劇場時代から約50年経たこともあり老朽化などを理由に建て替えが行われます。 これが現在の「関内ホール」です。
関内ホールと言えば、正面玄関と楽屋口の赤いオブジェでしょう。
この赤いオブジェは第13回 高松宮殿下記念世界文化賞を受賞した世界的彫刻家マルタ・パン(Marta Pan)の作品、「平和1」「平和2」です。(時には近づいてみましょう)
座席数は1,102席。主に落語などの寄席、ミュージカル、演劇、講演会等に利用されています。
志の輔の横浜拠点、関内寄席 『立川志の輔 独演会』はもう何回目になるでしょうか。 ホール玄関前広場の「馬車道ショートパフォーマンスライブ」も大きく育って欲しいと思います。ヨコハマ映画祭も1987年以降関内ホールで開催されています。

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(関内ホール、正式名称は横浜市市民文化会館)

■今また、このホールを軸に馬車道の賑わいが欲しいものです。
※番外編
もう一つの馬車道映画館。
戦後横浜で映画と言えば、馬車道の横浜東宝会館でした。東宝会館は1956年(昭和31年)3月27日に開館しイセブラと映画鑑賞が当時の定番デートコースとなりました。残念ながらシネコン時代の到来とともに2001年(平成13年)11月29日に閉館し、現在はビジネスホテル「リッチモンドホテル(オープン当時はロイネットホテル)横浜馬車道」が建っています。

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(ホテル外観)
 
冒頭の歌詞に関して
引用としての利用(著作権法第32条)許諾を得ずに複製、口述などによる引用ができる条件に入っている?引用も文化論として議論すべきテーマかな。
①公正な慣行に合致する引用であること
(自分の著作物と他人の著作物との間に妥当な主従の関係があること)
(引用する部分が明確に区分されること)
②引用の目的上正当な範囲内で行われること(引用の必然性があること)
③公表された著作物の利用であること
許諾を得ずに引用できる場合であっても、原則として出所を明示しなければならない
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No.24 1月24日 西へ新たなフロンティアへ

米国は
南北戦争(The Civil War, 1861年〜1865年)で中断した
50年代の「フロンティアプラン」を再燃させます。
西へ、西海岸の先に広がる太平洋をさらに西へ。
合衆国政府支援を受けた
Pacific Mail SteamShip Co.太平洋郵船(以下PMSと略)船籍のColorado号は、
金門(ゴールデンゲイト)を1867年(慶応2年)1月1日に出発し
進路を西北西にとり
1867年(慶応2年12月19日)のこの日1月24日横浜港に入港しました。
日米間(サンフランシスコー香港間の中継地として)初の定期航路運行が始まります。
この定期航路は単に日米関係だけではなく「まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている」日本の未来を左右する「情報革命」「物流革命」の幕開きでした。

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(PMSのドックで二隻のうちどちらかがコロラド号)

(アジアの拠点戦略)
横浜(日本)は、米国の西方市場(東アジア)への重要中継点でした。
太平洋の定期航路開設は米国の宿願でした。
大西洋航路は英国に奪われ、インドを含めたアジア市場はスエズ運河開通でさらに英国勢力下にありました。二度の独立戦争であまり英米関係もあまり思わしくない状況でした。

しかし、国内のエネルギーは国外へ向きます。
1850年代に狂喜乱舞するゴールドラッシュの時代がこの国を変質させます。
米国が次に拡大する市場を、宿敵英国及び欧州列強が牛耳る「中国大陸」に標準を合わせたことに始まります。スタートはアジア太平洋の“捕鯨”から始まります。
ハワイに拠点を築き、環太平洋へ
この戦略は2013年の現在も続いています。

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(英国に遠く)
米国はゴールドラッシュ以前は全く無関心だった太平洋です。
16世紀から17世紀の太平洋はスペイン商船が闊歩するSpanish Lakeと呼ばれていました。
もともと
サンフランシスコも1776年にスペインが上陸し作った街でした。
※聖フランシスコですから
米国が東部から西部開拓をほぼ終え、その先に広がる太平洋に次ぎなるターゲットを模索したことはごく自然なことでした。
しかも二度の独立戦争を経て、英国との経済的独立を迫られていました。
太平洋郵船PMSは
もともとゴールドラッシュに沸く西海岸と東海岸をパナマ経由で結ぶために1848年に創業された海運会社でした。
といっても、この頃パナマ運河はまだ無く陸路を使って西と東を結ぶルート(パナマ鉄道)でした。PMSはその西側を担います。

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(何故海路?)
アメリカ大陸は1840年頃まで
ミシシッピー川を挟んで東を(東部)と呼び経済の中心部でした。
西部はまさに西部劇で言うテキサス、南西部のことで
西海岸はゴールドラッシュ前は未開拓地でした。
西海岸への道は、ロッキーとシエラネバダが大自然の壁となり、また先住民との領土争いというリスクも持ち合わせていました。
当時、大陸間横断は(武器を片手に)幌馬車隊で数ヶ月かかります。
ジョンウェインの世界、ララミー牧場、ローハイドの舞台です
ところが西海岸からパナマを経由するルートは、
途中陸路はありますが“船を乗り換え”数週間で結ばれていました。
当然海運会社も乱立・競合状態が生まれます。
(鉄道が馬車を駆逐)
1869年5月10日に大陸横断鉄道がオマハからサクラメントまでの 2,826 km(1,756マイル)を一週間で結ぶことで一気に海運会社は淘汰されます。
PMSは、いち早く西海岸の近海航路から“太平洋”という未知の航路開拓というチャレンジに出ます。
合衆国政府による太平洋航路航路運営会社公募に参加したのは唯一Pacific Mail SteamShip Co.(PMS)でした。
この太平洋航路開通に政府援助はありましたが条件も厳しく誰もチャレンジしようとは考えませんでした。
「月一回以上の定期運行と外洋航海に十分絶えられるファーストクラスの蒸気船で3,000tクラスを用意すること」
航路はホノルルと日本を経由し中国まで結ぶことでした。
(物流革命)
太平洋航路が定期化することで欧州からアジア大陸に向かいたい場合、
いくらスエズ運河が便利でもインド経由は時間がかかり過ぎることになります。

最新の大西洋航路の蒸気船に乗りアメリカ東海岸経由、大陸横断鉄道でサンフランシスコまで出るルートが資本の移動に革命をもたらします。
1876年には大陸横断超特急が開通し、ニューヨークを出発してからサンフランシスコに到着するまで83時間39分の記録を作ります。
そして、サンフランシスコから約一ヶ月程度で横浜
そして香港まで到達できるようになったのです。
まさに西ルートのロジスティック・ハイウェイが完成したことになります。
(Spanish LakeからAmerican Lakeに)
サンフランシスコを出発した第一号のColorado号は
最新鋭排水量3,728トンの商船でした。
米国にとって620 tという吹き飛ぶような船で太平洋を横断してきた
咸臨丸ショック”は大きかったのです。

No.262 9月18日 (火)咸臨丸の真実!

No.359 12月24日(月)咸臨丸始末記2
PMS社の西海岸用の蒸気船は通常1,000から2,000t程度だったことも含め比較するとColorado号の大きさがわかるでしょう。

その後米国PMS社
City of Tokyo 号、
City of Beijingを皮切りに4,000t級を続々投入します。
この定期航路を使って多くの「お雇い外国人」が来日します。
また多くの日本人が欧米を目指しました。
もし日本に来る太平洋ルートが確立していなかったら
生命の危険を犯してまで未知の国日本に3,000人近いテクノラートは訪日したでしょうか。

そして 彼ら無くして日本の“欧米化”文明開化、殖産興業は進みません。そして欧米化に必要な外貨を稼いだ“限りある原資”は、
この航路によって大量に買い付けられたシルク、そしてお茶であることは意外と知られていません。
(ある沈黙)
明治期に入り、日本から米国の姿が消えます。影響力はイギリス・ドイツが全面に出てきます。
この時期、米国は静かに国力を計りながら機を熟すのを待つことになります。

黒船以降約55年、
太平洋航路開通後40年の
1908年10月、16隻の軍艦に14,000人の軍隊を乗せたGreat White Fleet(白い艦隊)は横浜に入港します。
日露戦争に勝ったばかりの日本に対し最初の軍事的プレゼンスを行います。
日本は、友好色を前面に打ち出し、米国の狙いを躱したとされていますが?
果たしてそうだったのでしょうか。

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【余談】
この太平洋定期航路にはもう一つのミッションがありました。
中国大陸から大量の労働者をアメリカ大陸に送り込む苦力(クーリー)船の役割も担っていました。
南北戦争後奴隷解放宣言をした米国は黒人に頼っていた低賃金労働力が不足します。
その補充にアヘン戦争と太平天国の乱等で疲弊する中国から
1860年代には64,000人、
70年代には123,000人、
80年代には61,000人が移民(苦力)として移送されています。