私は横浜の路上を意識的に観察し始めて10年、
一昨年からは仲間を集めて横浜路上観察学会なるものも始めました。
このブログでは殆ど紹介していなかったので、これも横浜の一風景ということでこのブログに紹介することにしました。
路上には<意図しない>歴史の痕跡があり、
<意識しない>街の記号が存在します。
<意図しない><意識しない>風景に意識を向けると、新しい街の姿が見えてきます。
私達の視覚は不思議なことに、不用な<記号=風景>は視野から消えます。
視線は向いていても見ない風景があるのです。だから日常生活があるのですが、逆に意識するとこれまで見えてこなかった視野に新しい風景や記号が見えてきます。
簡単な例が<マンホール>です。多数の人が往来する足元に存在する<マンホール>を意識して歩いている方はほんの一握りの方です。大多数の方にとって、<マンホール>は道路の一部であり一々区別し認識する必要がありません。
ところが、一度気になり始めると、この世界に引きずり込まれます。
私は横浜市内だけに留めていますが、300種類を越える異なった路上の蓋が公道には設置されているのです。丸型、角型の二種類が基本です。マンホールはその名の通り丸の形で<人孔>と訳されています。人が点検や修理のために地下施設に入ることを想定した路上の蓋のことです。一方「ハンドホール」という路上の蓋もあります。「内部寸法の大小に関係なく、工事完了後の保守作業に際して作業員がその中に入ることを想定しない。(そのため手穴「ハンドホール」と呼ばれるらしい)」
また、単純に雨水などを下水溝に流し込む「雨枡」の蓋もあります。
路上の蓋、デザインで区別すると
横浜市オリジナルの「ハママーク」のついたものと全国規模のインフラ用の共通デザインのものまで多様にあります。
区や、通り、商店街用オリジナルもあれば 今年優勝した「ベイスターズ」バージョンもあります。
デザインで追いかけると
同じ機能のものでも表記文字(字体)が異なったり、大きさや文様が異なっているものも多くあります。
■追いかけない(ハンティングしない)
路上観察の基本として、私は<マンホーラー=マンホールハンター>ではないので、自らマンホールを求めて探し歩くことをしません。もっと欲張りで、路上の他の<痕跡><記号>を歩きながら観察し発見したいからです。
私の場合、まず場所(スタート)を決め、ある一定時間ぶらぶら歩きながら路上を観察していきます。するとどの街でも、沢山の発見があり一定時間を歩くと<痕跡>と<記号>が山のように出てきます。
これが正しい方法ではありません。それぞれ個人流があって当然です。
しっかり目的を持ってハンティングすることも路上観察の楽しみ方の重要な方法です。
関心の無い方や地元の方からの<奇異の目>に晒されることは覚悟しておく必要がありますが。
でも、それを越える<楽しみ>が路上観察にはあるので辞められません。
■風景を見るのではなく見えてくる風景に反応する
禅問答のようですが、あるがままに風景を見るとあるがままに風景は見えてきます。図と地が逆転したり、意識していなかった痕跡が突如登場してくるのです。
路上観察は私に向いている<趣味>だと実感しています。
私はどこでも観察場所を選びません。どこの道でも歩くのが好きです。街なら所を選びません。「ダーツの旅」みたいに何処に行っても、その地域で少なくとも数日はじっくり歩き回ることを愉しむことができます。
先日も、多くの方々と山梨にぶどう狩りに行きました。その時も、時間の合間をヌッて、ぶどう畑の狭間に寂れた神社があることを発見ししばし観察してきました。
特に日本国内の路上観察は
地域性の差異が均質性の延長線上にあるため、私には面白いのかもしれません。
■電柱とバス停
古い地名、地図にない地名を「電柱」と「バス停」によって発見することが多くあります。路上と云いながら、見上げることも多々あります。
電柱には昔二種類あって、電力を伝える「電力柱(でんりょくちゅう)」、そして電話回線をつなぐ「電信柱(でんしんばしら)」です。
かつて、といっても戦前明治・大正期ですが この二種類は管理省庁が異なったこともあり道路の左右をあえて別れて配線されていました。電力と電信が道路左右に別れていた訳です。それが現在では共用していますが、
<柱>によって電力会社管理とNTT管理と異なってるのもわからない風景の一つです。
※見分ける方法もあるのですが ここでは内緒。
電柱には<座標プレート>が付いていて名前と番号で管理されています。この管理名が電力会社(関東では東電)と電信会社(NTT)ではほぼ異なっています。このプレートを読んでいくのも路上観察のスパイス的楽しみです。
バス停ですが、停留所名は意外に昔の名前を保持しているケースが多く、かつて川だったところに橋名が残っていたり、無くなった施設名も残っていたりもします。
(つづく)