No.408 古代横浜の七年戦争

ブログ再開に際し 時代をさかのぼり
昔々の横浜に起った七年戦争を紹介しましょう。
時は、534年(安閑天皇元年)ごろ
当時横浜一帯は「笠原直 使主(かさはらのあたい おみ)」という豪族が支配していました。もう少し広い範囲で説明しましょう。
武蔵国(むさしのくに)の話ですから、現在の埼玉全域・東京・川崎・横浜という広大な地域を舞台にした物語です。

日本書紀

この笠原家に身内争いが起ります。
親戚(同族)の笠原小杵(おき)(おきね)が国造(くに の みやつこ)という地方を治める官職を巡って内乱を起こします。
戦いは七年経っても決着がつきません。
「小杵」は現在の群馬県地域の豪族だった上毛野君(かみつけののきみ)小熊(おくま)に助力を求め形勢逆転を図ります。あくまで記録上の表現ですが、
「小杵」は“性格が激しく人にさからい、高慢で素直でなかった”そうです。
一方で「笠原直 使主」はこれに気づき、このままでは負けると京都に逃げ出し朝廷に助けを求めます。
朝廷は実情を聞き、「使主」を国造として認定し「小杵」に対する征伐軍を出した結果、大和政権と全面戦争を避けたい小熊が軍を引いたことで「使主」は国造職を維持します。
無事自国の領地を取り戻した
『「使主」はかしこまり喜び黙し得ず、帝のために横渟(よこね)・橘花(たちばな)・多氷(おおひ)・倉樔(くるす)の四ヵ所の屯倉を設け献上した。』
※屯倉(みやけ)とは、大和政権の支配制度の一つ。全国に設置した直轄地を表す語でもあり、のちの地方行政組織の先駆けとも考えられる。
これが534年(安閑天皇元年)ごろだと「日本書紀」に書かれています。
この横渟(よこね)・橘花(たちばな)・多氷(おおひ)・倉樔(くるす)の四ヵ所
横渟(よこね)は現在の
埼玉県比企郡吉見町(和名抄の武蔵国横見郡)あたりと推測されています。
そして、神奈川の
橘花(たちばな)、現在の川崎市から横浜市東北部で、平安時代の百科事典「和名類聚抄」に示す武蔵国橘樹郡あたり。橘花が橘樹に変化したのでしょう。

和名類聚抄

多氷(おおひ)は多末(たま)の間違いで「和名類聚抄」の武蔵国久良(久良岐)郡大井郷か東京都下多摩地域あたり
倉樔(くるす)
横浜市南部で「和名類聚抄」の武蔵国久良(久良岐)郡にあたるだろうと推測されています。
横浜は、武藏の国と相摸の国の境目あたりに位置していたんですね。
それから1世紀、戦国時代に笠原家の名が相模の戦国大名北条家の家臣として登場し活躍します。

駒沢大学ライブラリーより

「笠原信為(かさはら のぶため)」
武蔵国橘樹郡小机城城代で、墓所は雲松院(横浜市港北区小机町)にありますが、
この笠原家が古代の笠原と関係があるかどうかは 判っていません。

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