【ミニミニよこはま】No.1 入海から新田へ

そもそもこのブログスタートのキッカケは
断片的にしか知らない横浜をもう少し知ってみたい、という自分自身の動機から始まりました。
現在600話を超えたこともあり再度原点に戻って
簡単な横浜を知る【いろはのい】を折々に紹介していきます。

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(関内の誕生)
関内とは“関所の内側”という意味です。
「かんない」という地名、住居表示はありません。
※市県庁のあるエリアとしては珍しい?
開港によって、外国人居留地が作られそこに関所が設けられました。
現在のイセザキショッピングモールの入口あたりです。
急激に変化する「関内」ですが、
関内も、その外側に拡がる関外(大岡川と中村川に囲まれたエリア)も開港以前には沼地から新田干拓で作られたものです。
→関内=居留地の誕生は次回に

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(開港前)
開港場ができ上がる前のこのエリアについて簡単に紹介しましょう。
開港前の横浜中心部は幾つかの集落と、田畑、神社のある深い入江に囲まれた村でした。
深い入江(入海)では、小舟による漁が行われ、
入江に突き出ている象の鼻ような(後の関内エリア)に小さな集落が点在し、
外海では帆の付いた比較的大きな舟が航行していました。

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この横浜村は
江戸時代の主要街道であった“東海道”とは少し離れていましたが、「洲乾の湊」という小さな港からこの地域の中心となった湊「神奈川」や、対岸と小舟を使った交流・交易が行われていました。
陸路は主に「保土ケ谷宿」と繋がりがありました。
下記の図は、江戸後期の横浜村、神奈川宿周辺を描いたものです。

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「吉田新田」がすでに完成しています。
神奈川湊の前に拡がる入江が大きく描かれています。

(吉田新田)
この深い「入海」を干拓しようとチャレンジした人物がいます。
江戸の材木商、吉田勘兵衛(吉田勘兵衛良信)です。
彼が、周辺の村民の賛同を得て1656年に幕府から許可を受け始めます。
埋立工事は、失敗を繰返しますが、十年後の1667年に完成させます。

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吉田勘兵衛がこの「入海」を干拓する決意をした理由は
この<入海>が浅瀬だったことです。
漁場の役割が終わり、新田開発の方が地域にとってメリットが出てきたからでしょう。
「吉田新田」が登場することで、このエリア一帯が一気に活性化します。

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ペリーが訪れる頃、干拓された吉田新田は集落や田畑ができるようになり、横浜村、野毛村、大田村と共に生活圏が形成され始めていました。
※ここまでの中で、
 現在の関内エリアと大きく地形が異なっているところがあることにお気づきですか?
次回は、このあたりから紹介していきます。

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